2009年07月07日
師匠に直接教わりませんか?大歓迎します!!
こんにちは、管理人のオールドパインです。
耳よりなお知らせです
天野先生のブログがはじまりました!
ぜひお気に入りに登録してください、
練習(稽古)の参考にしたり、気分転換になさってください。
さりげなく、重要なこともお話しされています!
⇒ http://yumenomani.cocolog-nifty.com/blog/
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「合宿、ぜひいらしてください!歓迎いたします」
さて、
初心者の方歓迎の合宿、まだ枠がございますので
できれば、ご参加なさってください、大歓迎します!
天野先生がやさしくわかりやすく指導してくださいます。
素敵な仲間もできることと思います。
ぜひ、下記にメールなさってください。
合宿期日:7月31日(金)13時〜17時
8月1日(土)10時〜17時
8月2日(日)9時〜12時
以上のうち各日二時間、また独習者向け以外の稽古時間にも任意参加できます。
場 所:静岡県熱海市内
費 用:合宿参加費(講習費)三日間2万円
他に宿泊費(実費)六千円程度 到着日夕食〜出発日朝食まで五食込み
申し込み:7月1日から10日迄
但し人数に限りがありますのでお早目にお申し込みください。
(人数の都合で場合によってはお断りする場合もあります)
連絡先 :oldpine宛 oldpine356@tcat.ne.jp
合宿参加の詳しい打ち合わせは、10日以後に太気会事務局より直接メールいたします。
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8月1日(土)10時〜17時
8月2日(日)9時〜12時
以上のうち各日二時間、また独習者向け以外の稽古時間にも任意参加できます。
場 所:静岡県熱海市内
費 用:合宿参加費(講習費)三日間2万円
他に宿泊費(実費)六千円程度 到着日夕食〜出発日朝食まで五食込み
申し込み:7月1日から10日迄
但し人数に限りがありますのでお早目にお申し込みください。
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2009年05月08日
Re:組み手デビューの日
ラルゴ君へ・・・師匠
初めての組み手、ご苦労様。
結構思ったよりよくできたと思います。
と言っても勿論課題は山盛り。
と言うか、課題が具体的になったって事かな。
僕が、と言うのではなくラルゴ君自身が課題を見つけていく第一歩って事です。
此処まで、対人練習と言えば推手だけ。
これが組み手に結びつくのか、とか色々考えたと思うけど、
よく此処までがんばってきたね。
強い気持ちが持てるようになったね。
そうか、もう三年になるか・・・。
腰がまだ軽いし、背は強張ってるし、手もまだまだ利かない。
駄目なところは山ほどある。
でも、それでも三年の稽古は無駄になってなかった。
なんていうことなく見えるけど、
もう普通の人相手にはそうそう不覚はとらないと思う。
まあ、とりあえずはオヤジ狩りにも対抗できそう。
勿論そんな時は逃げるが勝だけどね。
終わってからラルゴ君が「これって最高の護身術ですね」って言ったのはラルゴ君ならではの感想。
護身術って発想はこっちには無かったからね。
まあ、そういえばそうかもしれないね。
今までの稽古で、技とか技術なんて一度も教えた事無いけど、そんなことと関係なく身体が動くんだ、と言う事がそれなりに判ったと思う。
誰だって相手が打ったり蹴ったりしてくれば避けるもんだよ。
どういう風に避けるかなんて言うのは時と場合によって千差万別。
手と身体がバランスよく動けばそれでいい。
百通りの場合を想定して稽古したって、百一番目の現実には対応できないんだから。
だって現実は想定外のことしか起きない。
これは当たり前のこと。
何故って、想定するって言うのは頭の中、つまり脳みその中にしかない。
でも、現実って言うのは脳みその中には無いから「現実」。
それはラルゴ君が今までの人生を振り返ればよくわかると思うよ。
こうなればいい、と思ってこうならないことがほとんど。
それにもし希望通りになったとしても、その「希望通りになった現実」って言うのが実は思ったほどでもないっていうこと無いかい。
え、こんな事だったのって言う事無かったかい。
勿論思った以上にって言う事も、たまにはあるけどね。
だから面白いんじゃないか、人生も武術も。
つまり、「想定した現実」とか「希望した現実」って言うのが実は幻じゃないかって言う事。
瓢箪からこまが出ることもあれば、何にも出ないこともある。
それを考えてみれば、人生も武術も同じ。
型にはまったテクニックじゃ人生も武術も乗りこえられっこないじゃないか。
いやそんなことないって言うなら、それも良い。
でも、それはそれだけの人生や武術だって言うだけの事さ。
眼の前に相手の顔が見えた瞬間には、手が出るもんだよ。
どういう風に打つかなんていうのも時と場合によって千差万別。
手と身体がひとつになればそれでいい。
打つも避けるも、気持ちの動くように身体が動けばいいだけのこと。
それを型にはめて稽古したって始まらない。
こう来たらこうしてやろう、なんて考えてもこう来なかったら却って自分を縛る事になる。
と言う事は、組み手のときは頭を自由にしておくこと。
自由に気持ちが動くようにして、その上で身体が自由に動けばそれでいい。
今までの三年間はそういうことをやってたって言う事さ。
やらなくちゃいけない最低限の事を身体に染みこませておくこと。
これが日々の稽古。
後は自分の発想に任せる。
だって、自分を動かすのは自分の気持ち以外には無いんだからね。
人には良くっても自分にはよくないって言う事もある。
勿論その逆もある。
自分を信じる、自分の手を信じる。
強い気持ち、勇気を持って自分を信じる。
自分ができることしか自分はできない。
だから自分のできる事を相手と向かい合ってやり切るしかない。
そこには人まねなんて入り込む隙間なんてあるはずは無いじゃないか。
借り物の技術なんて何の用も無い。
組み手は、直感。
そしてそれを信じる気持ちの瞬発力。
これに尽きるんだ。
ところで、前回僕が稽古の時に言ったことを書いてくれた。
樹が不自由だって事ね。
動かない樹は不自由だって書いてくれた。
それはそうなんだけど、本当は僕の言いたい事はちょっと違ったんだ。
樹が動けないから不自由で、ヒトは動けるから自由か、って言うとそうではないって言いたかったんだ。
確かにヒトは移動する事ができる。
これは動物の特権だ。
でも、全然自由じゃない。
なぜかって言うと、いくら動く事ができたって、この僕って言う身体や心から離れる事は一瞬たりともできない。
生まれた時から付き合ってるこの身体。
身長も容貌も、それに運動能力といった素材とも言うべきものとは一生離れることはできない。
どんなにヒトをうらやんでも、百メートルを僕は10秒台で走る事ができない。
中学の時に練習したバクテンも鉄棒の大車輪もできないまま。
できないまま58年生きてきて、いくら誰かのようになりたくても僕は僕でいるしかないって言う事に嫌でも納得させられる。
いくら筋肉を鍛えても、できるのはせいぜいそれくらい。
結局若い時にあこがれた、運動神経抜群って言う同級生のようにもなれなかったし、成績もそう。
だから、なんだって言うと、それでも太気拳のお蔭で少しは強くなれて世界にも眼が開くようになった。
だから思うんだよ、ラルゴ君。
強くなるって言う事は、僕が僕らしく、ラルゴ君がラルゴ君らしくなるって言う事だってね。
みんな誰かの何かのまねをしようとしてる、そんな風に見える。
何故かって、みんな自分を見てないからだと思う。
じっくりと自分を見てれば、自分が何をすればいいのか見えてくると思うんだよね。
太気拳て言うのは不思議なもんだと思うんだよ。
太気拳ていうのは流派じゃないよな、って思う。
だって、みんながそれぞれになる、つまりそれぞれの太気拳を見つけようって言うんだから、変な話ひとつにならない。
別々になる、個性が際立つ、統一されない。
独歩、独行、わが道を見つける為の稽古が太気拳。
一人で行くのは大変かもしれないけど、だからこそ納得できるものが育つ。
ラルゴ君、中年の運動不足でスタートした君は自分の属性に色々なものがあるのをまだ知らない。
運動が苦手だった君は、それでも組み手で先輩を殴るようにすらなった。
ラルゴ君にとっての太気拳を、ラルゴ君のやり方で、ラルゴ君しかできないような組み手を研究していこう。
楽しみにしてるよ。 師匠
初めての組み手、ご苦労様。
結構思ったよりよくできたと思います。
と言っても勿論課題は山盛り。
と言うか、課題が具体的になったって事かな。
僕が、と言うのではなくラルゴ君自身が課題を見つけていく第一歩って事です。
此処まで、対人練習と言えば推手だけ。
これが組み手に結びつくのか、とか色々考えたと思うけど、
よく此処までがんばってきたね。
強い気持ちが持てるようになったね。
そうか、もう三年になるか・・・。
腰がまだ軽いし、背は強張ってるし、手もまだまだ利かない。
駄目なところは山ほどある。
でも、それでも三年の稽古は無駄になってなかった。
なんていうことなく見えるけど、
もう普通の人相手にはそうそう不覚はとらないと思う。
まあ、とりあえずはオヤジ狩りにも対抗できそう。
勿論そんな時は逃げるが勝だけどね。
終わってからラルゴ君が「これって最高の護身術ですね」って言ったのはラルゴ君ならではの感想。
護身術って発想はこっちには無かったからね。
まあ、そういえばそうかもしれないね。
今までの稽古で、技とか技術なんて一度も教えた事無いけど、そんなことと関係なく身体が動くんだ、と言う事がそれなりに判ったと思う。
誰だって相手が打ったり蹴ったりしてくれば避けるもんだよ。
どういう風に避けるかなんて言うのは時と場合によって千差万別。
手と身体がバランスよく動けばそれでいい。
百通りの場合を想定して稽古したって、百一番目の現実には対応できないんだから。
だって現実は想定外のことしか起きない。
これは当たり前のこと。
何故って、想定するって言うのは頭の中、つまり脳みその中にしかない。
でも、現実って言うのは脳みその中には無いから「現実」。
それはラルゴ君が今までの人生を振り返ればよくわかると思うよ。
こうなればいい、と思ってこうならないことがほとんど。
それにもし希望通りになったとしても、その「希望通りになった現実」って言うのが実は思ったほどでもないっていうこと無いかい。
え、こんな事だったのって言う事無かったかい。
勿論思った以上にって言う事も、たまにはあるけどね。
だから面白いんじゃないか、人生も武術も。
つまり、「想定した現実」とか「希望した現実」って言うのが実は幻じゃないかって言う事。
瓢箪からこまが出ることもあれば、何にも出ないこともある。
それを考えてみれば、人生も武術も同じ。
型にはまったテクニックじゃ人生も武術も乗りこえられっこないじゃないか。
いやそんなことないって言うなら、それも良い。
でも、それはそれだけの人生や武術だって言うだけの事さ。
眼の前に相手の顔が見えた瞬間には、手が出るもんだよ。
どういう風に打つかなんていうのも時と場合によって千差万別。
手と身体がひとつになればそれでいい。
打つも避けるも、気持ちの動くように身体が動けばいいだけのこと。
それを型にはめて稽古したって始まらない。
こう来たらこうしてやろう、なんて考えてもこう来なかったら却って自分を縛る事になる。
と言う事は、組み手のときは頭を自由にしておくこと。
自由に気持ちが動くようにして、その上で身体が自由に動けばそれでいい。
今までの三年間はそういうことをやってたって言う事さ。
やらなくちゃいけない最低限の事を身体に染みこませておくこと。
これが日々の稽古。
後は自分の発想に任せる。
だって、自分を動かすのは自分の気持ち以外には無いんだからね。
人には良くっても自分にはよくないって言う事もある。
勿論その逆もある。
自分を信じる、自分の手を信じる。
強い気持ち、勇気を持って自分を信じる。
自分ができることしか自分はできない。
だから自分のできる事を相手と向かい合ってやり切るしかない。
そこには人まねなんて入り込む隙間なんてあるはずは無いじゃないか。
借り物の技術なんて何の用も無い。
組み手は、直感。
そしてそれを信じる気持ちの瞬発力。
これに尽きるんだ。
ところで、前回僕が稽古の時に言ったことを書いてくれた。
樹が不自由だって事ね。
動かない樹は不自由だって書いてくれた。
それはそうなんだけど、本当は僕の言いたい事はちょっと違ったんだ。
樹が動けないから不自由で、ヒトは動けるから自由か、って言うとそうではないって言いたかったんだ。
確かにヒトは移動する事ができる。
これは動物の特権だ。
でも、全然自由じゃない。
なぜかって言うと、いくら動く事ができたって、この僕って言う身体や心から離れる事は一瞬たりともできない。
生まれた時から付き合ってるこの身体。
身長も容貌も、それに運動能力といった素材とも言うべきものとは一生離れることはできない。
どんなにヒトをうらやんでも、百メートルを僕は10秒台で走る事ができない。
中学の時に練習したバクテンも鉄棒の大車輪もできないまま。
できないまま58年生きてきて、いくら誰かのようになりたくても僕は僕でいるしかないって言う事に嫌でも納得させられる。
いくら筋肉を鍛えても、できるのはせいぜいそれくらい。
結局若い時にあこがれた、運動神経抜群って言う同級生のようにもなれなかったし、成績もそう。
だから、なんだって言うと、それでも太気拳のお蔭で少しは強くなれて世界にも眼が開くようになった。
だから思うんだよ、ラルゴ君。
強くなるって言う事は、僕が僕らしく、ラルゴ君がラルゴ君らしくなるって言う事だってね。
みんな誰かの何かのまねをしようとしてる、そんな風に見える。
何故かって、みんな自分を見てないからだと思う。
じっくりと自分を見てれば、自分が何をすればいいのか見えてくると思うんだよね。
太気拳て言うのは不思議なもんだと思うんだよ。
太気拳ていうのは流派じゃないよな、って思う。
だって、みんながそれぞれになる、つまりそれぞれの太気拳を見つけようって言うんだから、変な話ひとつにならない。
別々になる、個性が際立つ、統一されない。
独歩、独行、わが道を見つける為の稽古が太気拳。
一人で行くのは大変かもしれないけど、だからこそ納得できるものが育つ。
ラルゴ君、中年の運動不足でスタートした君は自分の属性に色々なものがあるのをまだ知らない。
運動が苦手だった君は、それでも組み手で先輩を殴るようにすらなった。
ラルゴ君にとっての太気拳を、ラルゴ君のやり方で、ラルゴ君しかできないような組み手を研究していこう。
楽しみにしてるよ。 師匠
2009年04月29日
組み手デビューの日
ラルゴです。
立禅をはじめてから、3年以上たちましたが
昨日の稽古で
ようやく組み手をやらせていただくことができました。
いままでも
早くやりたかったのですが、
内心弱気の自分もいて(どうせ体力のない、ボクなんて、、、)
組み手で大怪我したらどうしよう・・・という不安と葛藤しながら
「じゃあいつまでも、組み手をしないつもりなのか?」と自問自答していました。
師匠も「さあラルゴもそろそろ組み手だな」とはいつまでも言ってくれそうもないし。(・・・甘え中年のうらめしいキモチ(・◇・)ゞ)
そんなことで、
やはり自分の意思でやるしかない。そう考え、インターネット通販でヘッドギア(中国製の激安品・赤)を注文し。グローブの変わりに軍手を用意しました。
そして
稽古当日、始まる前に。
「先生、これ持ってきました。」とヘッドギアをカバンからとり出すと、師匠は笑顔で「お、そうか」と言っていつものように稽古がはじまりました。
長い(稽古の時間の大半を占める)個人稽古、そして推手のあと、
「それじゃあ、組み手やろうか!」と師匠の声。
兄弟子(歳はずっとラルゴより下)に相手をしてもらい組み手スタート。
このとき、ラルゴの中で
衝撃的な体験がおこりました。
まったくスポーツの経験もなく、運動不足の中年のラルゴでしたが、
初めての組み手で、両手を構えてちょっとすると
自分の中にふか〜く埋まっていた感覚が浮上してきました。
「!!」
立禅稽古は決して時間の無駄ではなかったことが
今日この瞬間に一瞬で悟りました。
体が自然に動くんです。
それに、
そんなに力も入れずに、そして恐怖感というよりも、
心地よい緊張感、集中状態というか、
「ああこれが大気拳なんだ」という気持ちになりました。
今までやってきた
あまりかっこよいとは思えない(失礼)
構えや、動き(這い、練り)の意味が
「ああ、そうだったのか、そういうことだったのか!!」
と思えたのでした。
兄弟子が手加減してくれたことも大いにあったとは思いますが、
それに対して遠慮ないラルゴの攻撃は
それなりに動けたような気がします。
「とにかく楽しい」
いままで、争いごとはよくないとか
むやみなケンカはいけないとか
ばくぜんとキレイゴトを思っていたラルゴでしたが
実際に組み手をやってみると
「おもしろい!」と思いました。
やっぱり、知識だけで、頭でっかちになるよりも、
身体を使ってみないといけないなと思いました。
「やめ!やめ〜っ!」と師匠の声。
気が付くと、自分にもできたんだという、うれしさと感動と充実感で
感無量でした。
師匠からも「まあ、初めてにしては、よかったでしょう」とのお言葉。
立禅の深さがまた一歩理解できたように思います。
師匠ありがとうございます。
やってて良かった。 ラルゴ
立禅をはじめてから、3年以上たちましたが
昨日の稽古で
ようやく組み手をやらせていただくことができました。
いままでも
早くやりたかったのですが、
内心弱気の自分もいて(どうせ体力のない、ボクなんて、、、)
組み手で大怪我したらどうしよう・・・という不安と葛藤しながら
「じゃあいつまでも、組み手をしないつもりなのか?」と自問自答していました。
師匠も「さあラルゴもそろそろ組み手だな」とはいつまでも言ってくれそうもないし。(・・・甘え中年のうらめしいキモチ(・◇・)ゞ)
そんなことで、
やはり自分の意思でやるしかない。そう考え、インターネット通販でヘッドギア(中国製の激安品・赤)を注文し。グローブの変わりに軍手を用意しました。
そして
稽古当日、始まる前に。
「先生、これ持ってきました。」とヘッドギアをカバンからとり出すと、師匠は笑顔で「お、そうか」と言っていつものように稽古がはじまりました。
長い(稽古の時間の大半を占める)個人稽古、そして推手のあと、
「それじゃあ、組み手やろうか!」と師匠の声。
兄弟子(歳はずっとラルゴより下)に相手をしてもらい組み手スタート。
このとき、ラルゴの中で
衝撃的な体験がおこりました。
まったくスポーツの経験もなく、運動不足の中年のラルゴでしたが、
初めての組み手で、両手を構えてちょっとすると
自分の中にふか〜く埋まっていた感覚が浮上してきました。
「!!」
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今日この瞬間に一瞬で悟りました。
体が自然に動くんです。
それに、
そんなに力も入れずに、そして恐怖感というよりも、
心地よい緊張感、集中状態というか、
「ああこれが大気拳なんだ」という気持ちになりました。
今までやってきた
あまりかっこよいとは思えない(失礼)
構えや、動き(這い、練り)の意味が
「ああ、そうだったのか、そういうことだったのか!!」
と思えたのでした。
兄弟子が手加減してくれたことも大いにあったとは思いますが、
それに対して遠慮ないラルゴの攻撃は
それなりに動けたような気がします。
「とにかく楽しい」
いままで、争いごとはよくないとか
むやみなケンカはいけないとか
ばくぜんとキレイゴトを思っていたラルゴでしたが
実際に組み手をやってみると
「おもしろい!」と思いました。
やっぱり、知識だけで、頭でっかちになるよりも、
身体を使ってみないといけないなと思いました。
「やめ!やめ〜っ!」と師匠の声。
気が付くと、自分にもできたんだという、うれしさと感動と充実感で
感無量でした。
師匠からも「まあ、初めてにしては、よかったでしょう」とのお言葉。
立禅の深さがまた一歩理解できたように思います。
師匠ありがとうございます。
やってて良かった。 ラルゴ
2009年03月26日
あれ、自由ってなんだっけ?
こんにちは、ラルゴです。
稽古をしてると、ふっと師匠が近づいてきて話しかけます。
「ほら、樹がそこに生えてるじゃないか。樹って一度根がついたらそこから動けないよな、それって不自由だと思うかい。人間は足があるから色んなところに行ける、それって樹と比べて自由だと思うかい。」
(ううむ、なんと答えてよいやら^^;)
いつもながら答えに詰まる。と思いつつあわてて師匠に了解をとって録音の準備。
「確かに樹は根っこが生えたところから動かない。
根が生えたようにって言うのは、梃子(てこ)でも動かないって言う感じだよな。
頑固で不器用で不自由ってイメージ。でも俺はそう思わないんだ。
確かにいろんなとこには行けないけど、その代わり今時分が居るところに目一杯適応っていうか居つきやすいようにして生きてるって思わないか。
風が強いとこの樹は風下に向って枝を伸ばすし、斜面に生えてる樹は曲がりくねりながらも地球に対して真っ直ぐになってる。
地盤の弱いところの根は周りに大きく根を張る。密生して生える樹は枝が短いし、まばらなとこの樹は枝を広く張る。なんか俺は此処に堂々と生えてるぞって感じだろ。自分の根を張ったとこで十分に生きてる。
時には周りの樹々と一緒にだし、そうじゃない時は俺は一人で此処に居るぞって感じでな。これって実は一番自由って事だと思わないか。何処にでも動けるって言う事が自由って事じゃなくて、何処に居ても俺は十分生きてるぞ、此処に居るぞって心から思えるのが自由って事だと思うんだよね、俺は。
いくら色んなとこに行けても、それがなくちゃ不自由だよな。幸せじゃないよな。
俺はね、時々禅を組んでてそんな樹になったような気がする時があるんだよ。
地球の重力を身体全体でしっかりと受け止めて、
うん、生きてるって感じるんだよな。
太陽の光を浴びたり、冷たい風に吹かれたり、鳥の声を聞いたりしながら、すっくと俺は此処に立ってるぞっ、てな。
強くなるって言うのも良いけど、こんな感じで立てるって言うのは、
結構幸せだぞ。早くそんな感じで立てるようになると良いな。」
なんて独り言みたいに言って、すっと歩いていく。
う〜ん、自由って言うのは、思ったことが何でも出来るっていうことだと思ってたんだけど、どうも師匠のおっしゃる自由っていうのはちょっと違うみたいです・・
今書き起こして思ったんですけど、
自分の居場所がはっきりとあって
それで初めて自由があるって言うことかもしれない。
いや、それとも
「何々からの自由とか、何々への自由」って言うこともあるからそっちの方かな。
あ、まあ、こんな事をのんびり立禅組みながら考えてればいいのかな。
「オレがここにいる」、か。
「う〜、深いな〜」と思いながら今日も立禅です^^;
幸せを感じる今日でした。では失礼します。 ラルゴ
稽古をしてると、ふっと師匠が近づいてきて話しかけます。
「ほら、樹がそこに生えてるじゃないか。樹って一度根がついたらそこから動けないよな、それって不自由だと思うかい。人間は足があるから色んなところに行ける、それって樹と比べて自由だと思うかい。」
(ううむ、なんと答えてよいやら^^;)
いつもながら答えに詰まる。と思いつつあわてて師匠に了解をとって録音の準備。
「確かに樹は根っこが生えたところから動かない。
根が生えたようにって言うのは、梃子(てこ)でも動かないって言う感じだよな。
頑固で不器用で不自由ってイメージ。でも俺はそう思わないんだ。
確かにいろんなとこには行けないけど、その代わり今時分が居るところに目一杯適応っていうか居つきやすいようにして生きてるって思わないか。
風が強いとこの樹は風下に向って枝を伸ばすし、斜面に生えてる樹は曲がりくねりながらも地球に対して真っ直ぐになってる。
地盤の弱いところの根は周りに大きく根を張る。密生して生える樹は枝が短いし、まばらなとこの樹は枝を広く張る。なんか俺は此処に堂々と生えてるぞって感じだろ。自分の根を張ったとこで十分に生きてる。
時には周りの樹々と一緒にだし、そうじゃない時は俺は一人で此処に居るぞって感じでな。これって実は一番自由って事だと思わないか。何処にでも動けるって言う事が自由って事じゃなくて、何処に居ても俺は十分生きてるぞ、此処に居るぞって心から思えるのが自由って事だと思うんだよね、俺は。
いくら色んなとこに行けても、それがなくちゃ不自由だよな。幸せじゃないよな。
俺はね、時々禅を組んでてそんな樹になったような気がする時があるんだよ。
地球の重力を身体全体でしっかりと受け止めて、
うん、生きてるって感じるんだよな。
太陽の光を浴びたり、冷たい風に吹かれたり、鳥の声を聞いたりしながら、すっくと俺は此処に立ってるぞっ、てな。
強くなるって言うのも良いけど、こんな感じで立てるって言うのは、
結構幸せだぞ。早くそんな感じで立てるようになると良いな。」
なんて独り言みたいに言って、すっと歩いていく。
う〜ん、自由って言うのは、思ったことが何でも出来るっていうことだと思ってたんだけど、どうも師匠のおっしゃる自由っていうのはちょっと違うみたいです・・
今書き起こして思ったんですけど、
自分の居場所がはっきりとあって
それで初めて自由があるって言うことかもしれない。
いや、それとも
「何々からの自由とか、何々への自由」って言うこともあるからそっちの方かな。
あ、まあ、こんな事をのんびり立禅組みながら考えてればいいのかな。
「オレがここにいる」、か。
「う〜、深いな〜」と思いながら今日も立禅です^^;
幸せを感じる今日でした。では失礼します。 ラルゴ
2009年03月04日
稽古に疲れた、飽きた・・・・!?
こんにちは、ラルゴです。
こないだ好評だった、
稽古のときの師匠のお話
何人かの方から感想のメールいただきました。
どうもありがとうございます。嬉しいものです。
そこで、
今回も、別の日の内容を文字におこしました。
単調な稽古に行き詰まったときのヒントになるかもしれません。
では、どうぞ、お楽しみください。
*********************************************************
「稽古をするって言う事は、どういうことか考えた事あるかい?」
師匠が急に稽古の最中に聞いてくる。
「む、今日は何の話しだろう・・・?」とラルゴ。
思いもかけないときに、
思いもかけないことを聞かれることがあるんです。
ううう、稽古するって言う事は稽古することで、
ええっと稽古していろいろ見つけて、強くなって・・・。
と答えにならない答えを探してると、師匠は笑って話される。
「急にこんなこと聞かれたって、答えに窮するよな」と笑う。
「いや、俺が稽古ってなんだって言うのはね」とやさしく話しが始まった・・・
(おっと、録音!^^;)
「稽古って言うのは言ってみれば身体を使った「記憶」だって思わないか。
身体がいい状態になることを見つけて、それを身体に沁みこませる。
つまり沁みこませるって言うのは、記憶させるって言う事。
でもね、身体に記憶させるって言うのは大事だけど、本当はもっと大事な事がある。
記憶するのはいいけど、
それをどうやって引き出すのかって言う方が実はもっと大事なのさ。
つまり、記憶って言うのは、
思い出すつまり記憶の引き出しを開くカギが必要って言う事なんだ。
それ無しにいくら頑張って稽古しても身体は覚えてくれない。
いくら稽古しても稽古の量が質に転化はしないって言う事さ。
いくら稽古したって使えないって言う事さ。
ほら、古今集にこんなのあるの知ってるかい。
『秋きぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ 驚かれぬる』
ふっとした風に忘れていた秋を思い出すって言うやつ。
季節は夏の終わり頃、目の前に広がる景色は夏なんだろうね。
そんな時にふっと吹く風、その風に秋の気配を感じる。
そう、秋の記憶が身体に蘇るって言う感じかな。
武術の稽古もそういうもんだと思うよ。
稽古をして、しながら気分を作っていく。
ただ稽古をするんじゃなくて、そこに自分の感じ・気分を乗せる。
そうしておかないと身につかないものが一杯あるんじゃないかと思うよ。
つまり気分が引き金になって、記憶を引き出してくのさ。
この歌で「風のおと」が引き金になって「秋」が思い起こされるのと同じようなもんさ。
稽古をするって言う事には分析すると二つの側面があるんだよ。
ひとつは、肉体的、身体的な機能を高めると言う事。
これは皆わかると思うけど、本当はもうひとつ大事なものがある。
それは人の行動を支える、精神的、或いは心理的なものがあるって言う事。
だからそういう側面を稽古と連動して作り上げる事。
これは大事だよ、これがないとただ身体を動かしてるだけってことになる。
人は精神的・心理的なことがバックにあって行動してるっていうことだよ。
要するに行動を引き出すイメージっていうこと。
これがあって初めて動きが出てくるのさ。
イメージっていっても、
それはこう来たらこうなんていう対応主義的で貧困なモンじゃないよ、もちろん。
もっと心の奥に根ざしたイメージ。
単純に楽しいとか、嬉しいとかに近いもんだよ。
二つとも別のこととして捉えちゃいけないけど、分けて考えられないことも無い。
な、形意拳って知ってるだろ。
太気拳の源流は中国の意拳、で、その源流に形意拳がある。
形意拳の形は、
形を通して心理的な側面から身体の機能にアプローチしようとしたんだと思うよ。
動物の格好を真似したりするのは、きっと本意ではなくってね。
形を真似をするっていう事は、言ってみればおまけ。
むしろ動物をイメージすることで
心理的に活動の枠組みやたがを壊そうとしたんだと思うね。
虎の真似って言ったら、
100人が100人とも違う動きをイメージして100様の虎の動きが出来る。
全員が違う虎のイメージを持ってるからね。
自分の気持ちに素直になって虎の真似をしたら、独創的な拳法になる。
普通の人の動きと違った動きが出来てくる。
だから太気拳も同じで、稽古で一番大事だと最近思うのは、
稽古をしていて自分の気持ちを感じ取ってそれに動きを乗せていくこと。
俺は虎になろうとは思わないけどね。
まあ、猫で十分かな、ははは。
そうすると、自分の動きになっていく。
なんでもそうだけど、大事なのはオリジナリティー、つまり独創性。
太気拳は気と気分。
気分なんてものは人まねじゃない、人まねじゃない気分が出来て初めて出てくる独創。
強くなれなくても、せめて独創的でありたいと思わないかい。
いや、人は生まれながらに独創的なんだとは思うけど、磨きをかけたいね。」
師匠
**********************************************************
ふうん、なるほど〜 どうもありがとうございました。 ラルゴ
2009年02月25日
夕焼け空の下
こんにちは、ラルゴです。
私たちの楽しみの一つにこんなことがあります。
ぜひ、いっしょに分かち合いましょう。
稽古の後、
師匠はいろんな話をしてくださいます。
その時その時に感じたこと、
考えていることを
実にてらいなく我々に話してくれるのです。
別に教えているとかそういうのではなく、
だから
かえって師匠の人柄だとかが良くわかる気がするんです。
どう思うかはそれぞれだと思いますが、
残しておきたいと思ったので憶えてる範囲で書いておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ある日、稽古が終わってみると眼の前が素晴らしい夕焼け。
オレンジ色の夕陽が沈みかけている。
空は蒼いけど雲が本当に金色に染まっている。
夕陽の下の丘は陰になって真っ黒、禍々しいくらい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい見ろよ、すごい景色だぞ、なんか圧倒されるな。
奇麗と言うか、なんと言うか言葉を失うな。
だけどさ、この風景素晴らしいと思うけど、
ほんとに素晴らしいのかな〜。
どう思う?
素晴らしい景色とか奇麗なものとか、本当にあると思うかい?
この素晴らしい景色、考えてみると何の事はない、自然の営み。
太陽が昇って陽が落ちて、風が吹いて雲が出来て、
当たり前のことが当たり前に起こってるだけ。
それを見て、ここに居る僕が「すげ〜!」って言ってる。
僕は思うんだけど、奇麗なものや事があるんじゃなくて、
奇麗だな、と思う自分がここにいるだけ。
奇麗だとか素晴らしいとか、
楽しいとか苦しいとか、悲しいとか嬉しいとか。
外から見れば本当はそういうことはないのかもしれない。
あるのは自分の中にそういう風に感じる心があるって言う事。
モノやコトってのは、何のことはない、自分の中にしかないのかもしれない。
まあ、死んじゃえばみんな終わっちゃう訳だから、当たり前といえば当たり前だけど。
世界はみんな自分の中にあるって言う事かな。
世界と触れ合って、それで何かを感じて何かが生まれる。
何が何処に生まれるかって言うと、それは心かな。
心って何処にある、って言うと心は脳みそにあるって答える。
違うよ、と思うね。
心は身体と脳みそで作るものだと思うね。
世界と触れ合うのは、身体だ、これを忘れちゃいけない。
自分の身体を通じて世界と触れ合う。
脳は身体を通じてしか世界と触れ合えない。
だって脳自体は痛みすら感じることが出来ないそうだからね。
よくSFなんかで水槽に入った脳みそが生きてるってのがあるだろ。
でも、真っ暗な状態で、
何も見えなくて聞こえなくて感じなかったら生きてるんだろうか。
生きてるっていうことを自分で判らないんじゃないかね。
ってコトは生きてない、つまり死んでる。
細胞が活動してたってね。
アレはないよね。
だって、生きてるっていうことは身体で世界と触れ合うっていうこと。
その身体がなかったら生きてるっていうことにならないモンね。
で、世界と触れ合うっていうことは、別の言葉で言えば「経験」て言う事。
つまり生きてるって言う事は、新しいことを経験するって言う事。
経験を積んでいくって言う事が生きるって言う事。
新しいことを経験し続けていくって言う事。
止まっている、新しいことを経験できないって言う事が「死」って言う事。
未来を経験できないって言う事。
だから生きてても死んでる人もいる。
健康で五体満足でも死んでる人もいれば、障害があっても生きてる人もいる。
ね、ここで考えて欲しいのは経験て言うのは身体でするって言う事。
ホントの経験は身体でするもの。
つまり、経験て言うのは情報とは違うよって言う事。
今はネットなんかで情報が簡単に手に入る。
みんな情報を欲しがる。
でも、情報っていうのは死んでるものって言う事にみんな気がつかない。
情報を発信したものにとって、それはもう過去の事。
今ここで話してることだって、すぐに僕にとって過去の事になる。
話したすぐ後に僕はまた新しい経験を積み重ねる。
こうして話してたって、
君が家に帰って考える頃は、僕は別のことを考えてるかもしれない。
経験してどんどん変わっていくのが人さ。
何かをダウンロードして、知った気になる。
なんにも自分が変わらないのにね。
情報は経験できないんだと思うね。
だってそこに身体がないもの。
身体で何かを経験して変わることはあるけど、
情報を知っても人は変わらない。
情報っていうのは、もうその時点で過去のものになってる。
そういう意味で情報は死んだもの。
僕もこうして太気拳を教えてる。
一体何をどうして教えてるんだろうって時々思う。
そういう意味で教えられるのは情報、伝えられるものは情報。
でも、その情報を生きたものとして、
僕に触れて経験すればそれは死んだものじゃなくなる。
立禅にしたって、こういう風に組む、
なんてしか教えられなければそれは死んだ情報。
でも、組んでこうなるって言う事を僕を通じて体験できればそれが生きたものになる。
その為に今ここに僕がいるって思うんだ。
そうした経験・体験が人を変えていくんで、
情報が変えるんじゃないよね。
新しい経験に臆病になる、それはきっと精神が死に掛けてるぞ。
新しい経験を積み重ねるって言う事が生きるって言う事。
変わっていくのが、生きるって言う事。
気をつけろよ。
でも、面白いね、
ヒトは
変わることを、
未知な事を怖がる。
結婚式で『変わらぬ愛を・・・』なんてね。
おいおい、それは硬直した愛・・・じゃないかね。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ではまた! ラルゴ
私たちの楽しみの一つにこんなことがあります。
ぜひ、いっしょに分かち合いましょう。
稽古の後、
師匠はいろんな話をしてくださいます。
その時その時に感じたこと、
考えていることを
実にてらいなく我々に話してくれるのです。
別に教えているとかそういうのではなく、
だから
かえって師匠の人柄だとかが良くわかる気がするんです。
どう思うかはそれぞれだと思いますが、
残しておきたいと思ったので憶えてる範囲で書いておきます。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
ある日、稽古が終わってみると眼の前が素晴らしい夕焼け。
オレンジ色の夕陽が沈みかけている。
空は蒼いけど雲が本当に金色に染まっている。
夕陽の下の丘は陰になって真っ黒、禍々しいくらい。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おい見ろよ、すごい景色だぞ、なんか圧倒されるな。
奇麗と言うか、なんと言うか言葉を失うな。
だけどさ、この風景素晴らしいと思うけど、
ほんとに素晴らしいのかな〜。
どう思う?
素晴らしい景色とか奇麗なものとか、本当にあると思うかい?
この素晴らしい景色、考えてみると何の事はない、自然の営み。
太陽が昇って陽が落ちて、風が吹いて雲が出来て、
当たり前のことが当たり前に起こってるだけ。
それを見て、ここに居る僕が「すげ〜!」って言ってる。
僕は思うんだけど、奇麗なものや事があるんじゃなくて、
奇麗だな、と思う自分がここにいるだけ。
奇麗だとか素晴らしいとか、
楽しいとか苦しいとか、悲しいとか嬉しいとか。
外から見れば本当はそういうことはないのかもしれない。
あるのは自分の中にそういう風に感じる心があるって言う事。
モノやコトってのは、何のことはない、自分の中にしかないのかもしれない。
まあ、死んじゃえばみんな終わっちゃう訳だから、当たり前といえば当たり前だけど。
世界はみんな自分の中にあるって言う事かな。
世界と触れ合って、それで何かを感じて何かが生まれる。
何が何処に生まれるかって言うと、それは心かな。
心って何処にある、って言うと心は脳みそにあるって答える。
違うよ、と思うね。
心は身体と脳みそで作るものだと思うね。
世界と触れ合うのは、身体だ、これを忘れちゃいけない。
自分の身体を通じて世界と触れ合う。
脳は身体を通じてしか世界と触れ合えない。
だって脳自体は痛みすら感じることが出来ないそうだからね。
よくSFなんかで水槽に入った脳みそが生きてるってのがあるだろ。
でも、真っ暗な状態で、
何も見えなくて聞こえなくて感じなかったら生きてるんだろうか。
生きてるっていうことを自分で判らないんじゃないかね。
ってコトは生きてない、つまり死んでる。
細胞が活動してたってね。
アレはないよね。
だって、生きてるっていうことは身体で世界と触れ合うっていうこと。
その身体がなかったら生きてるっていうことにならないモンね。
で、世界と触れ合うっていうことは、別の言葉で言えば「経験」て言う事。
つまり生きてるって言う事は、新しいことを経験するって言う事。
経験を積んでいくって言う事が生きるって言う事。
新しいことを経験し続けていくって言う事。
止まっている、新しいことを経験できないって言う事が「死」って言う事。
未来を経験できないって言う事。
だから生きてても死んでる人もいる。
健康で五体満足でも死んでる人もいれば、障害があっても生きてる人もいる。
ね、ここで考えて欲しいのは経験て言うのは身体でするって言う事。
ホントの経験は身体でするもの。
つまり、経験て言うのは情報とは違うよって言う事。
今はネットなんかで情報が簡単に手に入る。
みんな情報を欲しがる。
でも、情報っていうのは死んでるものって言う事にみんな気がつかない。
情報を発信したものにとって、それはもう過去の事。
今ここで話してることだって、すぐに僕にとって過去の事になる。
話したすぐ後に僕はまた新しい経験を積み重ねる。
こうして話してたって、
君が家に帰って考える頃は、僕は別のことを考えてるかもしれない。
経験してどんどん変わっていくのが人さ。
何かをダウンロードして、知った気になる。
なんにも自分が変わらないのにね。
情報は経験できないんだと思うね。
だってそこに身体がないもの。
身体で何かを経験して変わることはあるけど、
情報を知っても人は変わらない。
情報っていうのは、もうその時点で過去のものになってる。
そういう意味で情報は死んだもの。
僕もこうして太気拳を教えてる。
一体何をどうして教えてるんだろうって時々思う。
そういう意味で教えられるのは情報、伝えられるものは情報。
でも、その情報を生きたものとして、
僕に触れて経験すればそれは死んだものじゃなくなる。
立禅にしたって、こういう風に組む、
なんてしか教えられなければそれは死んだ情報。
でも、組んでこうなるって言う事を僕を通じて体験できればそれが生きたものになる。
その為に今ここに僕がいるって思うんだ。
そうした経験・体験が人を変えていくんで、
情報が変えるんじゃないよね。
新しい経験に臆病になる、それはきっと精神が死に掛けてるぞ。
新しい経験を積み重ねるって言う事が生きるって言う事。
変わっていくのが、生きるって言う事。
気をつけろよ。
でも、面白いね、
ヒトは
変わることを、
未知な事を怖がる。
結婚式で『変わらぬ愛を・・・』なんてね。
おいおい、それは硬直した愛・・・じゃないかね。」
――――――――――――――――――――――――――――――――――
ではまた! ラルゴ
2009年01月19日
立禅 (立禅やり方 立禅効果 立禅方法 立禅這い 太気拳立禅 太気拳 站とう功)
立禅について
立禅やり方 立禅効果 立禅方法 立禅這い 太気拳立禅 太気拳 站椿功(たんとうこう)・・・
こんにちはラルゴです。
「立禅。」
さいきん
少しづつこの言葉が注目されてきているようです。
有名な武術家・格闘家の方々 ジャンルや流派を超越して
極真カラテや、正道会館最高師範・角田信朗氏、H.グレイシー 須藤元気氏、グラップラーバキの板垣恵介氏、、、
その他、多くの方が、筋力トレーニングや、蹴りや技を鍛えること以外の禅、立禅、といった「心・精神面」はもとより、
「姿勢や呼吸」について、とても重要視していることが明らかになってきているようです。
「姿勢について」
本物の武術・格闘技を極めていくうえで、基本としての、原点としての「姿勢」というものは
初めであり、終わりのない追求の道なのではないのでしょうか?
そして、それは師匠のおっしゃる「老いということ」と「道を進むということ」にも、
関係しているように思います。
これらの答えが
まず、始めにこちらの内容を実践することで、大きな理解につながると思います。
「中年から始める本物の中国武術 立禅編」
まず、立禅により、姿勢について、呼吸について、いろいろなものを感じていくのも
効果的な方法だと思います。
ラルゴ
立禅 立禅やり方 立禅効果 立禅方法 立禅這い 太気拳立禅 太気拳 站椿功
立禅やり方 立禅効果 立禅方法 立禅這い 太気拳立禅 太気拳 站椿功(たんとうこう)・・・
こんにちはラルゴです。
「立禅。」
さいきん
少しづつこの言葉が注目されてきているようです。
有名な武術家・格闘家の方々 ジャンルや流派を超越して
極真カラテや、正道会館最高師範・角田信朗氏、H.グレイシー 須藤元気氏、グラップラーバキの板垣恵介氏、、、
その他、多くの方が、筋力トレーニングや、蹴りや技を鍛えること以外の禅、立禅、といった「心・精神面」はもとより、
「姿勢や呼吸」について、とても重要視していることが明らかになってきているようです。
「姿勢について」
本物の武術・格闘技を極めていくうえで、基本としての、原点としての「姿勢」というものは
初めであり、終わりのない追求の道なのではないのでしょうか?
そして、それは師匠のおっしゃる「老いということ」と「道を進むということ」にも、
関係しているように思います。
これらの答えが
まず、始めにこちらの内容を実践することで、大きな理解につながると思います。
「中年から始める本物の中国武術 立禅編」
まず、立禅により、姿勢について、呼吸について、いろいろなものを感じていくのも
効果的な方法だと思います。
ラルゴ
立禅 立禅やり方 立禅効果 立禅方法 立禅這い 太気拳立禅 太気拳 站椿功
2008年10月28日
RE:呼吸について
ラルゴ君へ・・・師匠
確かに呼吸についていったことはない。
自然に呼吸をする。
これが一番だからだ。
僕も呼吸については教えてもらってない。
だけど、これはほんとうはとても大事なことだ。
ラルゴ君は簡単に呼吸法と書いてるけど、これはすごい問題を含んでいるんだ。
呼吸法と書くと、呼吸の仕方で腹式だとか胸式だとか言うことになる。
何とか式呼吸法とかいろいろあるけど、それはそれでいいとこもあるだろうしそうでない所もあると思う。
しかし、大事なのは呼吸ということだ。
呼吸法ではない、呼吸ということそのものだ。
呼吸とは息を吐くことと吸うことだ。
空気中の酸素を取り入れて二酸化炭素を吐き出すという、ガス交換のシステムだ。
呼吸しなくては生きていけない。
人が生きていくということの基盤だ。
食べ物がなくても飲み物がなくてもしばらくは生きてられるけど、呼吸はそうは行かない。
三食を抜いたってどおって事ないけど、呼吸は数分抜いたらそれでアウト。
生まれてからこのかた、息を止めてたのはほんのわずかな時間でしかない。
ヒトには二つのリズムがあると僕は思っている。
ひとつは心臓の打つリズム。
もうひとつが呼吸のリズムだ。
心臓の拍動はコントロールできない。
それに反して呼吸は生きていくのに必要なシステムなのに随意筋だ。
つまりコントロールできるし、無意識にしている。
つまり無意識に呼吸のリズムを日常の生活の中に取り入れてるって言うこと。
そう、無意識にね。
だから息が合うとか、呼吸が合うとか合わないとか言う言葉がある。
社会生活はこういった呼吸の上に成り立っているといっても言いすぎじゃないと思ってる。
他人の呼吸を読む、のは生活では大事なことだし、逆にはずすことが新鮮だったりもする。
阿吽の呼吸は他人同士がうまく機能するときの言葉だし、はずされれば不機嫌になったりもする。
スポーツだって何だって、タイミングって言うのは別の言葉にすれば呼吸さ。
野球にしてもサッカーにしても呼吸の産物。
呼吸を合わせて物事を進めるのがヒトのやってること。
本人は意識してなくても、何事につけ呼吸を合わせる。
他人にあわせるときもあるし、自分の動作のときもある。
だから社会は呼吸のリズムでできてる。
社会だけでなく、各々の日常動作ひとつとっても呼吸と無関係ではありえない。
ひょっとすると呼吸を語るということは人と社会について語ることかもしれない、って言うくらい大事な問題だ。
まあ、こう書いてると話が大きくなりすぎちゃう。
だから話を戻して呼吸法にしよう。
いや、呼吸法じゃないな。
呼法だな、呼、つまり息の吐き方。
大事なのは吐く事であって吸うほうではない。
でも、こういうのを文章ではかけない。
だから例をあげる。
どのように息を吐くか、だ。
簡単に言えば、トランペットを吹くように息を吐く。
管楽器の奏者が、最後の一音を振り絞って吹き切る。
そんな風に息を吐けるようにする。
胸ではない、腹で息を吐き出せるようにする。
そうすれば次の瞬間空気は自然に入ってくる。
つまり吸気は自然ということ。
奏者が振り絞って吹ききる、というのは身体全体を振り絞るって言うこと。
そういう風にできて初めて身体の力を引き出せる。
これを楽器を使わないでやると、声になる。
呼法を形にすると発声になる。
呼吸法というのが実体をもてないのは声を出さないから。
つまり形にしないから。
太気拳の源流になる意拳で、試声という稽古法があるけど、これはそういうことだ。
それを一瞬でやる。
瞬間に身体全体を引き絞れるようになって初めて呼吸が形になって声が出る。
逆に言えば、きちんとした声が出せるようになって初めて呼吸ができているかどうか確認できるって言うことかな。
声を出すと、身体が情けないときは情けない声しか出ない。
できてるかどうかすぐわかるものさ。
きちんと声が出せるようになると、自分の神経をコントロールできるようになる。
神経を亢進させて集中力を引き出す。
これはとても大事だ。
武術では格好や技術よりも、この集中力の方が大事だからね。
2008年10月08日
2008年07月10日
RE:型というもの
ラルゴ君へ・・・師匠
もう、随分昔のこと。
沢井先生について神宮で稽古していた頃の話。
先輩の一人がやはり同じ事を先生に聞いたことがあった。
何でもその先輩の友人が結婚する。
で、その結婚式で型をやろうと思ったようで、先生に型を教えてください、と聞いた。
沢井先生は苦笑いしながら、そんなもんは太気拳にはないよ、とおっしゃったことがあった。
笑い話みたいだけど、ほんとの話。
まあ空手出身ということもあるけど、聞いた先輩も先輩だと思うよ。
太気拳ていうのは型がないなんて、やってる本人が知らないはずないと思ったけどね。
でもだけどたしかにどんな武術にも型はある。
じゃあ、何で型があるのか考えてみよう。
誰かが何かを人に伝える。
それが物の場合は手で渡せばいいけど、武術はモノじゃない。
だからそれを伝えようとすると何らかの形を通じて伝えようとする。
形を伝えるのがの武術目的ならそれだけで十分。
でもそうじゃないとみんな思ってるはず。
ここが大事。
「何らかの形を通じて」「それ」を伝える。
つまり「何らかの形」は目的ではなくて手段。
伝えたいものは「それ」。
さあ、じゃあ武術で伝えたい「それ」って一体なんだろう。
これは大変なことになってきた、つまり「それ」が何かっていうことは武術の根本、本質は何かって言うことだ。
よく型を解釈する人がいる。
型の解釈とは、それぞれの型の意味を語ることだ。
つまり一つ一つの動きの意味を技や技術と言う側面から理解しようとすることだ。
それはそれでいいけど、となると、伝えたいことは技と言うことになる。
こうきたらこう受けるとか、こう蹴るとかこう打つ。
殆どの人はそれが武術の稽古することだと思っている。
つまり、技を稽古すること。
何回もくり返し、反復し、身体にしみこませる。
それが稽古だと信じる。
それはそれで大事なことだと僕も思うけど、それは武術の一部でしかない。
技が武術の本質だって言う人はそれでもいいと思うし、身体が頑丈だって言うことがそうだって言うのならそれはそれで自由だ。
だが技は武術の一部だけど、本質ではない、そう僕は確信している。
おんなじことを繰り返す、幾ら機械的に繰り返しても、そこから即興的なものは出てこない。
ある意味で武術は即興が命。
いや、武術だけでなく生きるって言うことも即興だよね。
おっと、また脱線しそうだから話を戻そう。
太気拳には型がないって言うけど、型はある。
立禅をはじめ各練習は、イメージこそ他の型とは違うけど、やはり型だと思う。
太気拳にもこうきたらこう受けるというものもある。
だけど、決まった形を守って一連の動きをすると言う意味での型はない。
では、太気拳で伝えたい「それ」ってんだろう。
一言では勿論言い切れない。
一言で言い切れないから沢井先生は、それを「気」という言葉で表現されたんだと思う。
でも「それ」は「気」だ、では結局何にも判らない。
分かる人だけわかるもの、と言うのは本当だと思うけどそれではあまりに素っ気無い。
だけど、僕なりに結論を持っている。
それは身体全体を纏め上げることだ。
では、身体全体を纏め上げるっていうっことはどういうことだろう。
身体全体をまとめるって言うことはどういうことか。
その前提は、人の身体は纏まっていない、と言うことだ。
実は皆そのことに気づいていない。
身体が纏まるって言うのは、身近な言葉に言い換えれば、熟練するって言うことだ。
スポーツもそうだし、日常的な労働もそうだ。
庭を掃いたり、モップをかけたりだって熟練すれば身体全体を使っての作業・労働になる。
では、武術的な意味での熟練とはどういうことだろう。
キーワードは、体幹部つまり手や足を取ってしまった身体だ。
もし手足を縛られて床に転がされても動くことはできる。
もがくように動ける、これは結構力強い。
これが体幹部の力だ。
この動きを最大限に引き出し、生かしてその動きに四肢の動きを連動できるようにする。
そしてそれを武術的な、つまり敵にやられないあるいは勝つという目的に合致させる。
そういうことが武術の本来的な目的だと思っている。
そういったことが自然な中に湧き上がってくる状態が「気」という言葉の意味するところだと思うね。
そしてそれは常に即興的に紡ぎだされるものじゃなければ意味がない。
さっきも言ったように、即興性を生み出せるようにするには機械的な反復は無用。
かえってこうしなければいけないとか、こうするべきだっていう思い込みは邪魔になるかもしれない。
なんと言っても武術はそれぞれの個性の中にあるからだ。
だから太気拳の稽古には形のための「型」がないんだと思う。


