December 31, 2010

*ごあいさつ

パネル2(画像)

2009.3.08 更新 

このたび、平成19年度関西大学博物館展示会「千里山大正ロマン」の記念ページを設けました。
今からおよそ80年前、大阪府吹田市の「千里山」は桃林や梅林が広がるのどかな丘陵地帯でした。大正10年(1921)4月1日、この地・千里山を貫く北大阪電鉄が十三〜豊津間に開通します。それが現在の阪急千里線です。鉄道の開通に伴い、「千里山住宅地」「千里山花壇(遊園)」そして「関西大学」といった施設が建設されていき、居住施設・娯楽施設・文教施設 ― 「理想的田園都市」と謳われるにふさわしい街に育っていったのです。

私たちは、この時期を「千里山文化」の誕生と考えます。

展示では、「北大阪電鉄」「千里山住宅地」「千里山花壇(遊園)」「関西大学」の資料を中心に、千里山に花開いた文化の様子を再現し、自由でのびやかな大正ロマンの雰囲気を伝えるべく
頑張りましたが、このブログでは、webならではの見せ方を新たに考えていきたいです。

千里山の町には、今なお当時の面影を残す場所があります。みなさんが実際に街を歩いてみる際に、新たな発見をしていただく助けになれば幸いです。


             ぶらりぶらりとハイカラ散歩に出かけませんか。



  *目 次*

・すべての展示画像は、クリックすると拡大画面で見ていただけます。

  *「北大阪鉄道」
 
  *「千里山住宅地」

  *「千里山花壇(遊園)」

  *「関西大学」

  *「パネル」  

  *「パンフレット」

  *「参考文献」
 



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August 30, 2008

平成20年8月30日(土)朝日新聞夕刊

記事
このブログが「ぷらっと沿線紀行」というコーナーで
取り上げられました!!

ちなみに、このブログの立ち上げに際して
大学側は一切関与しておりませんのであしからず。
あくまで個人的活動の一貫だと思っていただければと思います。

taishou_roman at 19:18コメント(0)トラックバック(0)*メディア 

April 24, 2008

*関西大学〜千里山で学ぶ

帽子
◎関西大学〜千里山で学ぶ

明治19年11月4日(1886)、大阪西区京町堀にあった願宗寺に、関西法律学校が開校されました。この法律学校こそ、関西大学の前身です。創立者は、有田徳一、井上操、小倉久といった大阪在勤の裁判官、控訴院長児島惟謙、自由民権運動の活動家であった吉田一士など12人でした。入学希望者は日に日にその数を増し、淡路町の元中船場小学校へと校舎を移転します。翌年には、北区河内町にあった興正寺へと校舎を移しました。

明治36年(1903)には、江戸堀校舎が完成。翌37年(1904)には、専門学校令によって専門学校として認可されました。その後、大学制度への組織変更を目指し、明治38年(1905)には、私立関西大学と改組・改称しました。この頃から、学生は角帽をかぶるようになります。角帽は、最高学府に通う者のシンボルでした。同じ頃、大阪市電建設のため、江戸堀校舎は立ち退きを余儀なくされてしまいます。そのため、明治39(1906)年、北区上福島へと学舎が移転しました。

紆余曲折を経て、いよいよ千里山の地に関西大学がやってきます。当初は、豊津村大字垂水の土地を新校地として選定していましたが、大正9年(1920)に北大阪電気鉄道の希望により、三島郡千里村の土地と交換が行われました。大正11年(1922)千里山学舎が竣工し大学部、大学予科が移転しました。

当時の大学の機関紙には、「千里山付近を中心として存在する本学、北大阪電気鉄道及び大阪住宅経営の三者は、互いに兄弟的関係にあって、地理上、経営上その他各種の事情により、一体として緊密に結びつけられていると言っても差し支えない」と評されています。大正10年代には、北大阪電気鉄道の十三―千里山間の開通、千里山住宅地の開発、千里山花壇の開園が相次ぎました。関西大学はこれらの施設と密接にかかわりながら、発展を遂げていきます。緑豊かな千里山の地で、学生たちはのびのびと学生生活を謳歌しました。


taishou_roman at 19:11コメント(0)トラックバック(0)*関西大学 

*千里山花壇〜千里山で遊ぶ

飛行塔
◎千里山花壇〜千里山で遊ぶ

北大阪電気鉄道は、垂水の北の桃山に園路をつけ、花壇、展望台、食堂などを設置し、「千里山花壇」と名づけました。こうして、大正10年(1921)千里山花壇が開園します。この遊園地は、14000坪(46200平方メートル)もの広大な敷地を持つものでした。2年後に経営が新京阪電気鉄道に移ってからは、ボート池や飛行塔、動物舎が設けられ、中でも、飛行塔は大阪市内が一望できるもので人気を博したといいます。この飛行塔は「大型遊   
                   戯機の父」と呼ばれる土井万蔵が製造したといわれています。

春になると、園内には桜が咲き誇り、桃と桜の花を楽しむ人々で大いに賑わいました。
また、夏には花火が打ち上げられ、納涼の客も大勢訪れました。秋の菊花壇も見事だったようで、菊の全国品評会で優勝するほどでした。

昭和13年(1938)には「千里山遊園」と改称され、大規模な増設が行われます。
野外音楽堂・人工滝・児童遊園地・子供汽車・子供自動車道などが新しく作られました。
昭和19年(1943)には千里山厚生園とその名を改め、昭和20年(1945)には軍の接収により、大阪陸軍軍需品支廠となります。戦時中はその営業が一時中断されますが、昭和21年(1946)に再開され、「大阪名物年中行事ひらかた菊人形復活・千里山菊人形」が開催されました。

千里山花壇は、入場者の減少による昭和25(1950)年の閉園まで、多くの市民に親しまれました。花壇のあった場所は現在、関西大学幼稚園・第一中学校・第一高校の敷地となっており、野外音楽堂があった場所には、創立百周年記念会館が建っています。この関西大学に、かつて千里山花壇という遊園地が存在していたという事実を知る人は、今ではわずかしかいません。


taishou_roman at 19:10コメント(2)トラックバック(0)*千里山花壇(遊園) 

*千里山住宅地〜千里山に暮らす

第一噴水
◎千里山住宅地 〜 千里山に暮らす

阪急電鉄千里線千里山駅を降りて、ゆるやかな坂を上ると、
噴水のあるロータリーに到着します。ここには「千里山開發
記念碑」が建ち、開発の歴史を静かに物語っています。
大正4年(1915)、千里山土地株式会社は大阪府に対して
「墓地葬儀所新設免許申請書」を提出しました。その計画は、
遊園地、墓地、葬儀場、火葬場を千里山の地で営みたいというもので、これが千里山の開発のはじまりです。この開発に、電鉄の建設が一体化されていたことは言うまでもありません。

結局、この墓地経営案は却下されますが、翌5年(1916)より会社は、土地の買収に着手します。6年(1917)には大阪府へ免許の再申請をおこない、その半年後に墓地経営については北大阪電気鉄道株式会社に肩代わりされます。この時点で、千里山土地という会社は解消してしまったようです。そうした私鉄路線の発達に伴い、電鉄会社によって沿線の住宅地開発が進められていき、その背景には、大阪市内の人口増加などに伴う環境の悪化がありました。
そして千里山においても、北大阪電鉄による住宅地開発が始まります。

大正9年(1920)3月、当時の大阪商工会議所会頭、大阪府知事、大阪市長らの発起によって大阪住宅経営株式会社が設立されました。北大阪電鉄より土地を譲り受け開発された「千里山住宅地」は、中産階級の心をつかんでいったのです。

大正12年(1923)、北大阪電鉄は鉄道事業を新京阪電気鉄道株式会社(現在の京阪電気鉄道)に譲渡します。これに伴い北大阪電鉄は社名を京阪土地株式会社に改称し、同社は土地建物経営に乗り出します。これは、北大阪電鉄が千里山から天六まで路線を延長する計画をもっていましたが、淀川架橋は独力では無理であったためです。

そして、京阪土地は昭和3年(1928)に京阪電気鉄道に買収されました。


taishou_roman at 19:09コメント(0)トラックバック(0)*千里山住宅地 
*profile

アルエンヌ*

『千里山大正ロマン』電脳博物館の(自称)学芸員です。
この博物館の管理・運営を担当しておりますが、
写真資料や文章の提供など、W嬢をはじめとした
様々な方にご協力をいただいております。

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