2015年12月31日

真の情報鮮度の意味

このエントリーをはてなブックマークに追加
follow us in feedly
特に、その辺の業界ではこんな無意味な事に意味もなく重視してる気分になってる人が多いです。
端的に言って、現在では情報の鮮度なんかは全く価値が無くなってると言ってよい。
真の情報鮮度とは、歴史的な意味での情報量であるから
そして、その意味において、情報量がある...鮮度が高い情報など現在ではほとんどない。


誰もがストック情報よりもフロー情報を求めているから
既に使い古された何かを再度改めて見てみて、 新しいと思い込んでいるから
である。


しかしそれは逆でもある。


彼の者が古い何かを見て伝統的で良いと持て囃すなら、
それは古典的で正統だから良い、のではない。
それは古いわけでは全くなく、そして、さらに、彼の者は伝統的、歴史的であるとも全く感じてなどいない
それはとても奇抜で斬新で新しいのである。
だから、良い と思っている。

あなたが何らかの感情想起をしたなら、それは新しいのである。

あなたが見ている情報の真の古さ、新しさなんかは、全く意味が無い
新しさ、は、作れるからである。

この意味において、情報の鮮度なんかは普遍的では全くないと言える。



もちろん、その上で真の価値はストック情報であって、フロー情報の方にはほとんど価値は無い
とは言える



岡本太郎の 「伝統論」 に関する一考察
志賀祐紀 お茶の水女子大学
お茶の水女子大学人文科学研究 (9)2013


当時「日本の伝統」とされていたものについては,次のようなことを述べている。

不幸なことに中世文化の積極性は徳川三百年の閉された封建世界において次第にゆがめられ,抑えつけられてしまつた。
芸術家の強靭な,逆説的な自己主張であつた方法もようやく形式となり,観念化されてくるのです。
そして素町人的,エゴイスティックな,現実逃避の雰囲気にすりかえられて行きます。
すべて人間の表側よりも裏側だけに神経を集中し,強烈な生命力の奔出よりも繊細なひねりを「通」とする。芸術は洒落や味や型の世界に堕落して行きます。
だがこのような消極的な裏側文化の面だけに「日本の伝統」という決定的なレッテルをはつてしまつたのは,明治時代のようです。(中略)

当時「日本の伝統」とされていたものは,江戸時代の「封建世界」に端を発する「消極的な裏側文化」であり,明治時代にそれが「日本の伝統」であると「レッテル」を貼ったものにすぎず,「信じる」必要はないのだという。「裏側文化の面だけ」と記しているが,日本の過去には他の文化も存在すること,そして新たに「日本の伝統」を捉え直す可能性を示しているといえよう。

認識しなければならない当時の「現在」の「現実」とは,日本が「すでに世界の現代史の上」にあるということだという。そして,「現実」を認識することによって,「過去の座標」,つまり何を「伝統」として捉えるのか定まってくると述べている。では,「すでに世界の現代史の上」にあるとはどういうことか。このことについては,1964(昭和39)年,『日本の伝統』が角川文庫から再刊行された際に,新たに加えられた章「伝統論の新しい展開」において,次のように岡本が補足し説明している。


むしろわれわれは,近代文化を生んだ西欧によって育てられている。洋服を着て,電車に乗って暮している事実だってそうだし,ものを喋るにしても,その論理のたて方,もののつかまえ方,すべてがそうです。
子供の時から教育され,身にそなわった西欧近代的なシステムによって,われわれは判断し,生活し,世界観を組み立てているのです。
それは何も日本の過去にあったものだけにはかかわらない,と考えた方が現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の承けつぐべき遺産を限定する必要はありません。

日本が「すでに世界の現代史の上」にあるという「現実」とは,もはや日本だけの「純血な伝統を負っているのではない」ということである。当時の日本は,既に「西欧近代的なシステム」の下に成り立っている。よって,日本だけではなく,「西欧近代的なシステム」を生んだ西洋の伝統も負っていることを,「現実」として「正視」しなければならないというのだ。さらに言うと,そのような「西欧近代的なシステム」の下に生活しながらも,日本の過去のみ,ましてや「封建時代以来の裏側文化」だけを「日本の伝統」として捉えるのは,「現在」の「現実」を「正視」していないということになる。

価値意識としての「国民的アイデンティティ」
植村邦彦 関西大学
価値変容と社会経済システム(関西大学経済・政治研究所研究双書(109) 1999

多くの場合、これらは昔からの「伝統」と見なされるが、それもまた「社会的創造物」にほかならない。「実際、いついかなる時点でも、伝統的とみなされるものの多くは、一般に考えられているよりもずっと歴史の浅いものである。本質的には、社会的地位の低下の脅威に晒された人びとの、自己保存の本能が投影されたにすぎないことも多いのである。

「自分が作ったのでもないし、自分が選んだのでもない、たまたまそこに生まれついただけの歴史的文化が自分の存在にある品格を、質の高さを、血統書付きの犬と同じような品質保証を与えてくれるという錯覚」



トラックバックURL

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
サイト内検索
にほんブログ村 科学ブログへ
にほんブログ村
adsense
Archives
amazon
blogchart
QRコード
QRコード
Recent Comments