大和路ぶらぶら

ほぼ奈良県内の撮影情報を掲載します。 日々起こる事の正直なコメントを発します。

9月9日の深夜の下市の焼き討ちで奪った物資を
平沼田で前線を張っていた河内隊と共に本陣波宝神社に持ち帰ったが、
本陣には誰もいなかった。
前日(9日)
大日川(おびがわ)に津藩が現れれ、援軍要請があったため、
前線に連絡する間もなく、あわてて全員が動いたとのこと。
ここでも天誅組の不手際が目立つ。
援軍要請を受けた本隊は大日川に到着して津藩との戦いに加わる。
しばらくして下市の焼き討ち勝利の報告を受けると本隊はがぜん勢いづき、
津藩は兵を引き、後退を始めた。
河内隊は丹原まで追跡して留まって、本隊を待った。
本隊には後退した理由が分からなかった。
事実はこうだ。
前夜の下市の焼き討ちで彦根藩が被害をこうむったので、
かねてから予定されていた総攻撃を15日に変更したのだ。
突然,戦闘中断したとは言え、隊員は疲れきっており、
弾薬も底を突き、このまま津藩兵を追って五條を突破するのは無理であるとの判断があり、
本陣を十津川の天ノ川辻に移動させた。
本隊がやってこないことに不審を抱いた河内隊は大日川に戻ってみると、
本隊は移動した後だった。
作戦変更は河内隊には届かなかったのである。
再三の前線置き去りに、河内隊の責任者水郡は天誅組からの離脱を決意した。
9月11日河内隊の大半が戦線を離れた。
戦線を離れた河内隊も無罪放免ではなかった。
天誅組を十津川から追い出すように回状が回り、
和歌山藩へ自首したが、水郡は後日、京都で斬首された。

河内隊の離脱は本隊全員に衝撃をもたらし、
十津川郷士の離脱につながることになる。

つづく

吉村寅太郎の隊が天ノ川辻に戻ると本隊は南の長殿まで移動していた。
本隊の考えはこうだ。
折立あたりで船に乗り、熊野川を新宮まで下って、
海路で四国か九州にでて再起を期すと言うものであった。
それに対して吉村隊は
天ノ川辻を死守すると主張して動かなかった。
典型的な内部分裂である。
本隊は8月29日まで待ったが、30日になって新宮へ移動を開始した。
ところが新宮藩が熊野川の船着き場を押さえたとの情報が入ったので、
どないしたらええのか分からなくなった。

一方追うはずの幕府藩兵は藩ごとに命令を受けるが
行動は非常にゆっくりしたものであった。
それは当たり前で、各藩にとって天誅組は直接の敵ではなく、
幕府の敵であるため、直接藩に影響を及ぼすことではないからです。
幕府藩兵は士気が低くとも、それでも命令から10日もすると1万3000名の包囲軍になった。
実戦経験のない各藩兵がお互いの様子を見ながらの進軍なのでニアミスや勘違いもあったらしい。

そんな中、吉村隊は橋本に布陣していた和歌山藩に奇襲をかけたら、
和歌山藩は逃げ出した。
こんな様子だから五條突破ができるのではないかと、本隊に連絡。
本隊も動くが、吉村隊に合流するまでに一週間も過ぎていた。
幕府軍も黙ってみていたわけでなく、着々と体制を整え、
本隊が来る頃には五條突破は不可能になっていた。
9月7日本隊は五條突破に向けて,天ノ川辻を出発したが、
大日川(おびがわ)で津藩兵と遭遇、戦いは始まった。
津藩兵の大将が負傷したことで、五條まで後退した。
しかし天誅組は追わずに、銀峯山に移動した。
この数日後にもここ(大日川)で戦いがあり、
この二回の大日川の戦いは天誅組唯一の勝利と言われる。

先日、私は大日川と銀峯山に行った。
それは天誅組の遺跡をめぐる日帰りの旅でした。
大日川(おびがわ)は賀名生の南2、3キロにあるところ。
国道沿いに大きなイチョウが目印としてあります。
銀峯山は波宝神社があり、展望が非常にいいところです。
幕府軍を一望できたものと思われる。

天誅組本隊は銀峯山の波宝神社に、
樺ノ木峠に河内で合流した隊、
広橋峠に十津川郷士の隊、
銀峯山山麓の平沼田に本隊の大部分の陣容であった。
が、
彦根藩と戦った樺ノ木峠や広橋峠に布陣していた隊は
ほとんど農兵であったため一日も持たなかった。
もちろん兵器の差でもあった。
逃げ帰った十津川郷士の隊は奇策に出る。
彦根藩がいた下市に焼き討ちをするというものでした。
9日の深夜
焼き討ちは成功して彦根藩はかなりの痛手をこうむった。
下市の民家はかなり燃えたと言う。400戸とも500戸とも言われている。
このため9月10日に幕府藩兵が総攻撃をするはずだった計画が15日に延びた。


今日、期日前投票に行ってきた。
たくさんの人が並んでいた。当日より多いくらいだ。
部屋から出ると、出口調査につかまった。正直に答えて用紙を渡す。
出口調査は3回目です。



8月17日に五條代官所を襲った天誅組は
8月18日の政変で、一日の違いで逆賊になってしまった。
まさに青天の霹靂です。
英雄から犯罪集団へ・・・・・。
天誅組はここから苦難が始まる、で前回は終わっています。

京の政変は18日のうちに天誅組に伝わっていたと思われますが、
19日の一日で続戦を決めたようだ。
五條の桜井寺に本陣を設けたが、来たるべく藩兵との戦いに備えて、
20日の朝、本陣を五條から南に移すべく行動を開始した。
本隊は賀名生の堀家に寄って天ノ川辻の鶴屋治兵衛の屋敷を本陣とした。
周辺の人々は18日の政変は知らないし、行幸中止も知らない。
移陣と同時に十津川や高野山への物資の調達や募兵を行った。
高野山は協力の返事はするものの、京に向けて事態の確認をしている。
一方、十津川へは吉村寅太郎があたった。
結果、25日までに十津川郷士約1200名が集まったとされる。
しかし内2名が京に真偽を確認してからでも良いではないかとただしたので、
吉村は他への影響を恐れて二人を斬首した。
1200人の兵力を得た天誅組は本陣死守から高取城奪還へと戦術を変えた。
25日の朝には本体は五條に向けて出発している。
夕方には五條に着いたが郡山藩兵が御所に現れたとの情報が入り、
中川忠光の本隊は高取へ、吉村の支隊は御所に向かった。
本隊は斥候も出さずに、高取城下までの道を漫然と進んだみたいだ。
本隊が鳥ヶ峰にさしかかった時、急襲を受けた。
鳥ヶ峰は今は高取町役場があるところで、隊が進んで行くのがよく分かることから
高取藩は待ち構えていた。
大砲小銃が打ち込まれた隊はビックリして右往左往。
統制が利かず敗走しだした。お城の奪取どころか城下にすらたどりつけなかった。
素人軍隊の悲しいところです。
一方支隊の吉村隊は御所に着くが、藩兵が現れず、朝になって戻ってきた。
敗走を知った吉村は精鋭を集めて城下に夜襲をかける事にした。
本隊は五条に戻る。
吉村隊は城下に火をかけるべく火縄を持って出た。
しかし途中で高取藩士に出くわし、きり合いになった。
十津川郷士が敵を狙って銃を撃つが敵に当たらず、
味方の吉村虎太郎に当たった。その隙に藩士は逃げ帰って藩に急を告げた。
夜襲の失敗です。
負傷した吉村は女医榎本住の応急手当を受け、重阪(へいさか)まで戻った。
(女医榎本住の病院はいまでもある。吉野口戸毛に榎本医院としてある)
初戦の敗退です。
ここまでで分かることは隊を組むも戦うことの体裁が整ってないことだ。
寄せ集めの弱点が初戦で露呈するし、それ以降の戦いも思いやられる。
吉村隊が本隊のいる五條に戻った時にはすでに本隊は天川ノ辻戻ってしまっていた。
翌日、吉村隊も天ノ川辻に戻ったが、本隊はもっと南の長殿まで移動していた。
こうなればもう隊として機能しなくなっている。

つづく







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