下流社会マーケッティング・アナリストの有能さと限界がよく分かる一冊ですね。『下流社会 新たな階層集団の出現』。著者の三浦展は、雑誌『アクロス』の編集長だった人。90年代に『アクロス』を買っていた私は、とても懐かしい気持ちがしました。データやインタビューを駆使しながら、チェーン店やサブカルまで目を配り、人々の消費行動を分析する手法は変わっていない。この本の長所は消費者の分析が巧いところなんですが、そうであるがゆえに「消費」という側面ばかりを強調する偏りに陥っていると思います。

人は、モノやサービスを買うばかりでありません。農作物を育てたり、モノを作ったりする「生産」に生きがいを感じている人も多い。郊外のニュータウンに暮し、千葉マリーンズや浦和レッズのような地元のスポーツチームに関心を寄せる人も増えています。「どんな時間を、どんな人と、どこで、どうやって過ごすか?」が大切だということに、多くの人が気づき始めているんですね。求められているのは「物語」とかストーリー性みたいなもので、その一端が、たとえば「占い」なんだと思います。こんな時代に、いまだにチェーン店や、時計やクルマのブランド、それに地上波の放送を中心に分析しようとするのは、ちょっと古い感じがする。首都圏の若い世代の生活を論じながら、ケータイやiPodが登場しないところにも違和感があります。それでも、ところどころ新しさを感じる部分はあって・・・

 

山田昌弘東京学芸大学教授の『希望格差社会』に対するアマゾン(amazon.co.jp)における読者レビューに、高度成長期にも「希望格差」はあったはずだという反論が載っていた。しかし、これはとんちんかんな反論だ。

と、108ページでアマゾンの読者レビューに新書の著者が噛み付いているんですが、こういう場面は初めて見ました。また262ページに「街や駅で倒れ込んでいる若者を見ることも少なくない。それも夜じゃない。朝や昼だ。」とありますが、私が都会にいた80年代には、こんなことはなかったですね。

80年代の半ばにも、広がる格差をテーマにして売れた本はありました。のちにホイチョイ・プロダクションと名前を変えるタラコ・プロダクションが渡辺和博と出した『金魂巻』(1984年)。長銀にいた小沢雅子の『新・階層消費の時代―所得格差の拡大とその影響』(1985年)。80年代の後半には、まだフリーターという言葉もなく、私は在籍していた大学に行かなくなり、アルバイトや契約社員という形で働きづめでした。マスコミや銀行に就職を決めた知人からは、バカにされたり見下されたりもしました。

しかし、90年代には、あれほど確かに見えた生保や銀行が次々と崩壊していった。町内会で顔をあわせていた支店のオジサンたちも、次々と姿を消してゆきました。だから私は『下流社会』の結論部分には、どうしても懐疑的になってしまうんですね。著者は「下駄履き入試」「東大学費無料化」「大学授業インターネット化」「地方から東京へ進学した場合の資金援助」と、なぜか大学にこだわってますが、ここには著者の大学への依存心の強さが滲み出ていると思います。

「はじめに」出てる下流度のチェックによると、私はかなり「下流的」。まあ、下流に思われようと、上流だろうと、そんなことはどうでもいい。もちろん経済的な自立は重要なことで、だからこそ私もお金について長々と書いているんですが、人は、生まれも、育ちも、地域も、家族関係も、好みも、それぞれに違うもの。だから「中流か?下流か?」を考えるよりも、自分の得意なことや好きなことを掘り下げて、「自己流」を形にすることを薦めた方が積極的だと思います。制度や仕組みが変わるのを待っている間にも、時間はどんどん流れてゆくのですから。

最近、Flash☆Bomb'05の作品を見たんですが、2ちゃんねる文化の広がりを感じました。projectGAEAのVBや、み〜や氏のNightmareCityは、凄いですね。すなふえ谷氏のこれも面白いです。