私たちは、いま大きなカーブを曲がろうとしています。そのカーブは余りにも大きく、そして緩やかなので、曲がっていることに気づかない人も多いほどです。きょうは、このカーブについてご説明しましょう。

戦後の日本は、「生産」と「消費」という2つの活動が主流を成してきました。簡単にいえば、会社員になってバリバリ働き(生産)、そこで得たお金を余暇や趣味に費やす(消費)ような男の人生が「普通」とされてきたわけです。この常識に、変化が起きているのです。

「生産」と「消費」とは、隣り合いながらも、お互いが遠い、まるでコインの表裏のような関係にありました。それは、同じ家に住みながら異なる世界観を持つ、父親と息子の関係に重なります。簡単にいえば、父親は朝から晩まで働き、休日はゴルフという生活。息子は、ホテルのように恵まれた個室にいながら、趣味の音楽や自分探しに没頭できる。このギャップが、そのまま「ニート」とか「フリーター」と呼ばれる断層になっているように私には見えます。

『下流社会』という本の中で、著者は言っています。「自分らしさが重要だと言いながら、努力もせずにぶらぶらしている中途半端な人間が、5年後、10年後、30代、40代になったとき、どうなるか、非常に問題視されている」。これは確かに、その通りなんですが、じゃあ大学を出てキチンと就職すれば安心なのか?といえば、それも怪しい。もう、年功序列も、学歴が保証してくれる地位も、年金も、かつてよりも不確かなものになっているのは明らかです。つまり、20世紀の後半に確かなものに見えた「中流」という物語が崩れているのに、それに代わる新たなストーリーが出てこないことが問題なのです。いくらモラルの低下を嘆いて昭和を懐かしみ、愛国心に燃えたところで、日本は過去には戻らないでしょう。では、どんな物語が、浮上するのか?

私は、「生産」と「消費」に加えて「投資」という第3の活動が社会の中心になることが重要だと考えています。マクロで見ても、日本は、生産と消費を広げて貿易で稼ぐ構造から、投資立国へと変化しつつある。少子高齢化は、バリバリ働ける人の数が減り、利回りで生活せざるを得ない人が増えることを意味していますから、もう昭和のような高い成長率は望みようがありません。ミクロで見ても、個人投資家の影響力は大きくなっています。とくに女性の「消費」に「投資」の感覚が入り込んできたような気がする。ファッションやエステ、あるいは語学の習得にお金を使うことを、「自分への投資」と言う人も増えています。

「努力もせずにぶらぶらしている」ように見えるフリーターですが、中には正社員よりも高い意識を持って働いている人も多い。私は多くの労働の現場で、そういう人たちに会ってきました。若い人たちが教えてくれる音楽や映像の世界は、実際に彼らと遊んでいると、新しい日本の可能性を感じるほど魅力があります。ただ、そこに「経済」という裏づけが無いところに問題があるし、文化をファイナンスする仕組みや工夫が乏しすぎるんですね。若い人たちは、消費者という立場に長く慣れすぎたり、文化に詳しい人に限って稼ぐ貪欲さが希薄だったりもする。だから、私は地元のクラブやレイブで知り合った子たちに言います。「俺が株を売ってカネを出したくなるような企画を持ってきて欲しい。女を呼び込むだけじゃなくて、投資を呼び込まないとダメだよ」。

キチンとやってきた中高年だって、これからは利回りで長い老後を生きていかないといけないわけです。日本は、総理大臣がゼロ金利の解除を警戒するようなことを言っている国ですから、かつてのような安全で確実な利息が戻ってくるのには何年もかかりそう。だから、自分で面白いと思える投資対象を探せるような人が必要で、それで村上ファンドのところへ農協のカネが集まったりしてるんですね。お金だけではなく、時間の問題もある。いつまでも昔の職場や地位にこだわっていて、長い時間の過ごし方が分からないような男は、熟年離婚になってしまうリスクを抱えたり、社会の中に自分の居場所を見出すことが難しくなったりするでしょう。

これまでの日本では、「政・官・財」の癒着をいかに断ち切るか?が焦点でした。これからは「消費・生産・投資」のトライアングルを、いかに作り上げるか?がテーマになると思います。この三角形の中で、いかに「ヒト・モノ・カネ」そして情報を回していけるか?ここが重要になる時代に私たちは入りつつある。私たちは、まだ大きなカーブに差し掛かったばかりなのです。