朝から晩までオリンピック一色に見えるのは、北京との時差が小さいからでしょうか。活躍する選手を「すごい」と思う一方、「感動」が強調されればされるほど、かつてあった国民的な一体感が薄らいでいるようにも思えます。そして、自分が日本のメディアの中に閉じ込められているような窮屈さも感じる。

エリンスペインの放送局は、キューバがフィデル・カストロの誕生日と野球チームが日本を破った勝利に沸いている様子を報道しています。またメキシコの有名なバンドについても触れている。東アジアにいる私たちは、英語と中国語が広がっている現実に接していますが、世界ではスペイン語もまた着々と存在感を強めています。スペインのメディアは、米国のITやメディアの企業と同じように言語という強みを意識して、より広がりのあるコンテンツを作ろうとしている。最近のCNBCでは、エリン・バーネットが"World"という英語の代りに、"Mundo"というスペイン語を強調して使う場面が出てくるようになりました。

いまから16年も前に出版されたデイビッド・ハルバースタムの『幻想の超大国―アメリカの世紀の終わりに』を読み返してみると、まるで現在の日本のことを指摘されているような気分になります。著者はアメリカが「豊かさの傲慢」に陥ったがゆえに数多くの過ちを犯したと述べ、65ページで次のように書いています。

国際的な競争が激化する時代に、ブルーカラー中心の産業形態を維持しつづけるのは困難である。貧しいが向上意欲に燃えている国々が、低賃金で労働力を確保できることを武器に工業に進出し、基礎的な分野を一手に引き受けることになるからだ。
アメリカは、ここ数十年もの長きにわたって、類を見ないほどの繁栄を享受してきた。そのあいだ、アメリカン・ドリームの中核となってきたのは、子供たちの世代は親の世代よりいい生活ができるという信仰だった。

しかし、アメリカはついに旅路の果てにまで行きついてしまった。いまアメリカでは、その歴史を通じて初めて、子供たちが親と同じような生活水準を維持できる、という確信が失われかけている。アメリカ人の多くは口にこそ出さないものの、次の世代はいまのような生活を維持できないのではないかという深刻な恐れを抱いているのだ。

氷河期世代。フリーター。婚活。格差。使われている表現は様々ですが、つまるところは日本においても「親の世代よりいい生活」という信仰が揺らいでいるのだと思います。そして、その問題は、60代に入ってきた「団塊の世代」と、その子供にあたる30代の「団塊ジュニア」との間で、かなり明確に現れているのではないか。92年の大統領選がそうであったように、いまは日本が現実を直視することを迫られているようにも思えます。

ハルハルバースタムは、アメリカ経済に対する強い危機感を抱くビル・クリントンが大統領になったことを肯定的に描いています。また、同時に、口当たりの良いイメージ戦略とは一線を画し、アメリカの衰退を正面から訴えた保守派のロス・ペローを評価してもいる。

私は、日本の社会が、空想やメルヘンへの傾斜を強めていると考えています。多くの犯罪が欲望の延長線上にではなく、妄想の肥大化ゆえに起きているように見える。もちろん日本ならではの「かわいい」表現やアニメ的な美意識が広く世界の若者を魅了してもいるので、空想やメルヘンへの傾斜が必ずしも悪いとばかりも言い切れません。ただ、このまま景気後退が強まってゆけば、影響はブルーカラーのみならずホワイトカラーにも広がるので、心地よい空間に留まり続けることが難しくなってゆく人は増えるだろうとは思います。そのとき何が起きるのか。私は、口当たりのよい一体感を強調するメディアを見るたびに、90年代のアメリカ政治にみられたような変化が起きる可能性について、ふと考えるようになりました。