地震が起きたとき、松本城のあたりでは日本共産党の人たちがデモをやっていました。「消費税を上げるなぁ〜」。揺れで声はしばらく止まり、「地震だ」という声が聞こえてきました。東北で大きな地震が起きたとわかり、私は「もう消費税を上げるのは無理だな」と思いました。そして「震災手形」という言葉を検索した。関東大震災のとき、日本銀行は市中に出回る手形を割り引いて潤沢に資金を供給し、復興を金融面から支えようとしました。いまは、再び日銀の行動が問われている場面です。

道路の寸断や建物の崩壊は広い範囲に及んでいますから、もう政府の公共事業に反対する人はいないでしょう。問題は、そのための資金をどこから出すのか?自民党の谷垣総裁は臨時の増税を主張しているようですが、カン違いも甚だしい。ここは与野党が協力して国債を発行し、その国債を日銀が引き受けることで難局を乗り切るしかありません。

もしも日銀が欧米のように国債を買えば市場は円安で応えるでしょう。リーマン・ショックから円は2割も高くなりました。この円高のメリットを使うことが、東北地方のみならず日本の全体にとってプラスになる。日本の農産物も工業製品も、円安で競争力を強めることができます。観光客も日本を訪れやすくなる。原材料の高値は輸入業者にとってはプレッシャーではありますが、それでも日本は途上国のように食品価格が経済の全体に与える影響が大きいわけではありません。コーヒーという輸入品を扱う業界に円高を歓迎するような声はないし、また円高が、よく言われるように石油製品の業界に恩恵をもたらすならば、これほどガソリン・スタンドの数も減らないでしょう。

J.K.ガルブレイスは『マネー・その歴史と展開』という本の中で、ケインズ革命について次のように言っています。

過剰な貯蓄に対する適切な対策は借金にたよる公共支出であるとの主張は、依然として激しい反論を招きはしたが、このとき以降は時宜に適した討議の対象とみなされるようになった。今や公共的行動への道は開かれたのである。(第16章 J.M.ケインズの登場)

いまこそ日本は、公共的な行動に踏み切る決断を迫られている。たしかに日本の財政は厳しいですが、破壊された港湾、道路、学校などのインフラをボランティアや募金だけで賄うことは到底できません。ケインズは"How to Pay for the War(戦争をいかに賄うか)"と題する小論を書きましたが、いまは「いかに復興を賄うか?」が日本の国家的な課題になっています。もしも日銀券が増発されれば、現金の値打ちは下がるでしょう。しかし既に日本は2年で2割もの通貨高を手にしている。仮に日銀券の値打ちが2割下がったとしても、それはリーマンショック以前の水準でしかありません。人々の生活と日銀券(現金)と、どちらがより大切か?と考えれば、答えは明らかです。

私は最近、徹底した予算の削減を求めて非妥協的になっているアメリカのティー・パーティと、財政の改善を求める日本の人々が似ていると感じるようになりました。ともに悪意ではなく善意から強い主張をしている。現金というものに対して真面目であり、帳尻を合わせることが大事だという常識的な主張をしています。ただ、家計と国家の財政を同じように考えられるか?といえば、それは難しい。

家計と国家との対比は、よく考えてみると、そう簡単には諒解できない。アメリカ政府(あるいはどの国の政府でもよいが)のような大がかりな、多様な、複雑な、計り知れない何ものかが、賃金所得者の家計と同じルールと束縛を受けるなどというのは、少なくとも証明を要する問題である。しばしば言われているように、そうあるべきであるというのは、なんら証明にはならない。

加えて、一国の富と支払能力は、その国の経済が生産するものに依存しているのだということを忘れてはならない。ケインズ派の考えが言うように、もしも借金と支出が生産を高めるのであれば、そのような借金と支出は支払い能力の増加となる。家計にとって借金と支出が富を増加させることはほとんどない。(同 332ページ)

週末の為替市場は、円高に振れました。CNBCも日本の津波を中心に報道。国務省が市民に日本への渡航を避けるよう呼びかけていることが報じられていました。松本に住むフィリピン人も中国人も、みな外国の家族や友人たちから電話やメールが来たと言っていますから、きっと多くの国々で日本の惨状がニュースになったのでしょう。

私は、強い円と地震のニュースに埋まる報道を見比べて、つくづく通貨高と社会の安定とが無関係であることを痛感しました。いくらお金の力が強くても、多くの人々の暮らしが真っ暗では何の意味もありません。日本はお金の力を弱めることで、暮らしの確かさを守らなくてはならないと感じます。通貨は、しょせんは社会の道具なのですから。