April 21, 2012

回る世界と水面の辺り[060]

▼私は適当な理由をでっちあげて一日休暇を取り、一人で月曜日の昼の水族館に行った。衝動。無地のグレーの帽子を被り、ところどころに毛玉の目立つ黒のパーカーを着て、色の抜けたジーンズ、白地に青いラインの入ったランニングシューズ、荷物は今朝郵便受けに届いた新聞だけ、朝髭を剃ることさえ忘れていた。▼水族館に来るのは久しぶりだった。およそ300匹ものマグロが回遊する巨大な水槽の前、階段状に並んだベンチの一番手前の列の端に、私は腰かけた。このぐるぐると回る世界の中で何を見るともなしに眺めていると、やがてマグロは無数の記憶の断片へと変わり、一定のリズムで回るこの記憶の渦の中心に向かって、私は思考の小舟をゆっくりと進めて行くのだった。ひんやりとして、不気味なまでに心地良く静かで、手足の先の方から順に透明な空気の中に溶け込んでいく感覚に襲われていた。▼最初にこの場所に来たのは11年も前のことだ。早大の入試と国立の二次との間のどうしようもなく暇な一日を、私はマグロの水槽の前にこうして腰かけて過ごした。マグロは怨めしそうに横目で私を見ながら、ただ回り続けるしかない運命の中を行く宛てもなく泳ぎ続けていた。それは、まさしく無意味な旅だった。要するに考え方の違いだった。ある人間にとって終わってしまったことが、あるマグロにとっては終わっていない。それだけのことだ。やれやれ。それだけのことが時に分からなくなって、マグロは方角を失い、頭を壁に酷く打ちつけ命を落とすことすらある。▼「君がいま座っているのとちょうど同じだったよ」と先輩のYは言った。「そこに座ったまま、まるまる半日同じ水槽を眺めてたんだ」そして天井近くゆらゆらと揺らめく水面の辺り、踊る光に目を細めて彼は笑った。私は急に喉がからからと痛んだ。彼は数年前に自らの命を絶ってしまったはずだと、次第に思い出されて来たからだった。膝の上にある皺くちゃな新聞の日付を確かめ、それから腕時計の針が動いていることを確認すると、私は僅かな唾を喉の奥に押しやった。そしてもう一度顔を上げた時には、既に彼の姿はどこにもなくなっていた。やれやれ。私はまだ水槽の中のマグロで、泳ぎ続けている。(905)

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January 22, 2012

いで湯と文学の宿[059]

▼塩原福渡というバス停で降りると、正面にその旅館はある。ロビーの脇には3畳ほどのちょっとした空間があって、そこには山積みされた図書が、肩寄せ合って眠りにつく猿の群れのようにじっと息を殺していた。私は缶ビールを片手に、酔いに任せてその猿の群れを片っ端から叩き起し、俄かに騒ぎ立てるその猿の群れを楽しんでいた。▼そのうちに、5m程先のロビーに、主人と思しき初老の男を見つけた。彼はロビーの脇の円柱状のいすに腰掛け、正面の自動扉の向こうを静かに眺めていた。日本の腕はだらりと太股の上にのせられ、白髪の混じった髪がその横顔を隠していた。品の良い灰色のジャケットから黒いハイネックの首が僅かにのぞいていた。私は、缶ビールを一口含み、腕時計を外している間、彼はピクリとも動かなかった。彼の横顔を見ていると、昔の事を思い出した。▼彼も同じ眼をしていた。小学4年生の担任のことだ。「峠」という名を使う文学教師で、胃の摘出手術のせいで酷く痩せていた。峠はよく、放課後の静かな教室で、夕闇に沈む世界の中にいた。ハードカバーの本を開いて、その視線はいつも窓の外の校庭に置かれていた。そのまま夜の闇が教室を支配するのとともにその存在は消えてしまうとも思われた。▼「粉雪、ですね。」静寂の中に微かに揺れた言の葉。記憶の中の彼の呟きか、目の前の白髪の彼のものか。空想と現実の狭間で、私は缶ビールをまた一口含んだ。「雪が強くなる前に、湯に浸かるといいよ。」彼は玄関の先を見つめたまま呟いた。「もう少し後にしてもいいですか?」返事はない。私は返事がないことを確認してから、缶ビールを耳元で揺らして残りが僅かなことを確かめ、グッと指先に力を込めた。手の中グシャと乾いた音を立てて缶が少し潰れた。やれやれ。私は昼寝の猫が目覚めに行う儀式のような、左腕、右腕と順にきちんとした伸びをして立ち上がり、本当は「咢堂 尾崎行雄」の本が読みたかったことに気がついた。私はいつも後になってから色んな事を思い出す。(830)

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January 17, 2010

赤い椿[058]

海、船出。▼大学時代にお世話になった寮長が亡くなったのは一年前。同郷の大先輩にあたり、私が帰省した折に遺族に無理をお願いして、仏壇に手を合わせるために伺ったのだった。遺影と仏壇に帰省の挨拶を済ませ、温かいお茶を一杯だけいただいて帰ろうとする時、奥さんは何やら古いデジカメを持って現れた。デジカメは部屋の整理をしていた時に出て来た物で、既に電池がなく、充電用のケーブルが見つからないので、充電も出来ずにいるという。中に何が写っているのかを知りたいと言うので、私はデジカメからCFカードを抜き出し、持参していた自分のE0S 40Dの中に入れ電源を立ち上げた。画面に写し出されたもの、それは寮長の顔だった。しかも、誰が撮影したのか、それは棺に納まり、安らかな表情を浮かべている亡骸のものだ。「見れましたか?」と直ぐさまカメラをのぞき込もうと身を乗り出す奥さん。「いっいや、ちょっと」と私は咄嗟にダイヤルをぐるぐると回した。5、6枚の棺の写真が瞬時に飛ばされ、間一髪の所で、どこかの旅館の一室で奥さんと仲良く並んだ寮長の写真が表れた。「あら、この時の写真ね」と、奥さんは懐かしそうに小さく頷いた。私はカメラを相手に渡す事なく自分で慎重にダイヤルを回し、さらに10枚程の写真をめくって見せ、それから適当な所で「これだけのようですね」と言って、そのCFカードを元の眠ったままのデジカメの中にそっと戻した。稲妻の後の音のように、心臓の鼓動が少し遅れてドキドキと私の胸を激しく叩き始めた。「楽しい思い出と優しいお父さんはここにずっと眠っているのね」と、奥さんはデジカメを両手で胸にあてがった。胸にしまわれ息を潜めるデジカメの姿が、私の心臓をいっそう強く打たせるのだった。玄関の門をくぐる時、門の脇に咲いていた赤い椿の花がひとつ、ポトリと音を立てて地面に落ちた。見れば、根元に枯れた無数の椿の花が並んで、私の背中をいつまでも見送っているかのようだった。次来る時にはきっと、新しいデジカメをお土産にしようと思う。(833)

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January 16, 2010

悪くない町[057]

海、船出。▼「うん。悪くないね」恵那駅から乗ったタクシーの運転手は、行き先を告げると、そう言って車を走らせた。「兄ちゃん、帰省組かい?」「いや、途中下車です。温泉入りに立ち寄っただけの観光客です。」「途中下車か。悪くないね」バックミラー越しに運転手がチラッとこちらをのぞいた。「丘の上のホテルと風情のある入浴施設とあるけど、どっちにするかい?」「そうだな。今の気分はホテル、かな」「悪くないね」「それは良かった。掛け流しの湯ですか?」「湯の事はどうだか知らないよ。景色が、悪くないね」「景色が、ですか」「ゆっくりするの?」「ええまあ」「どのくらいゆっくりするの?」「一時間ぐらい」「悪くないね」「ええ、悪くないですよ、のんびり浸かっているのは」「一時間なら丁度下りの電車がある、よい頃合いだ。悪くないね。」「下り電車が、ですか」「なら兄ちゃん、帰りの時間にあわせて迎えに来てあげようか?悪くない話だと思うけど」私はなぞるように「ワルクナイね」と答えた。「悪くないね」運転手は小さく頷きながらつぶやくと、それ以上何も言わなくなった。10分程山道を走った後、ほどなくして恵那峡国際ホテルの玄関前に止まった。「兄ちゃん。1500円ぴったりだ。悪くないね」「ええ、意外と近く感じました」「駅で20分待って1500円。悪くないね」「客単価が、ですか」やれやれ。かくして僕は悪くない町の悪くない温泉街に辿り着いた。湯に浸かっている間中、普段意識しないでいる口癖が自分にもあるのではないかと気になって、苦笑いが何度も溢れた。ひとつ救いだったのは、恵那峡を一望するこのホテルの露天風呂の景色は、確かに悪くなかった事だ。(689)

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January 19, 2009

ガリバー[056]

▼土曜日の午後に着替えをもって半蔵門へ行き、私は30分ほどかけてゆっくりと皇居一周をランニングした。激しい運動をしたせいで全身を汗が滝のように流れ、気分がいくらかさっぱりした。それから私は銭湯バンドゥーシュに行き、全身に張り付いた疲労感を湯船につかってゆっくりと剥ぎ取り、仕上げに全身を石鹸できちんと洗った。▼「よう兄ちゃん」私の横で体を洗っている恰幅の良い中年の男が、一際だるそうに低い声で言った。「若い者にはルールってものはないのかい?」「はあ、何のことでしょう」と私は言った。「後ろ見りゃ分かるだろう。桶と台がみな出しぱなし。分かる?」「はあ」返事を曖昧なままに据え置き、私は誰もいない浴室を一通り見渡してから、あきらめたように「確かに」と付け加えた。「ルール。若い者にはルールってものはないのかい?」左肩に複雑な蝶の刺青の掘ってあるその坊主頭の男は一度もこちらに顔を向けることなく正面の鏡に向かったまま、いかにも残念そうに小声で言った。「誰一人、見事に片付けていないですね」「誰一人気付こうとしない」確かに、と今度は口に出さずに私は心の中で付け加えた。▼夜遅いせいか、浴室には刺青男と私以外には客はなかった。また静かになるとその広い浴室の中は、誰もいない放課後の教室のように、散らかった桶やら台やらといった無機質な物たちが、奇妙な存在感を主張しはじめる。徐々に居心地の悪さが時間をかけて私の身体にぬっぺりと絡みついてくる。やれやれ面倒な事になったと、私は思った。とりあえず「失礼しました」と言って、ゆっくりと重い腰を上げる事にした。▼小学5年の時の担任は生徒からガリバーと呼ばれていた。190センチ近いその長身の教師は、小学生の集団の中にあって一際目立って高く、スウィフトの「ガリバー旅行記」に出てくるブロブディンナグの巨人を思わせた。ガリバーは無口な教師だった。必要以上生徒とコミュニケーションをとらない故に、生徒から特に好かれるという事がなかったが、取り立てて嫌われるタイプの教師でもなかった。何を考えているのか分からない巨人。それがガリバーだった。▼私はそんなガリバーに叱られた経験が一度だけある。放課後に校庭で数人の仲間とサッカーをして遊んでいると、ふと近くの花壇からガリバーが私を呼んでいるのに気がついた。踏み荒らされた痕跡のある花壇を指さし、お前が直せ、とだけ言った。「自分はけして犯人ではない。そもそも気付いた時にはすでにこの状態だった」と、私はその理不尽さを主張してささやかな抵抗を試みた。するとガリバーは次第に眉間に皺を寄せ、はあ、と演出的に大きな溜息を一つ洩らしてみせた。そしてガリバーはいかにも残念そうに言った。「犯人がお前かなんて聞いてはない。気付いていたなら、お前が率先して直せと言っている。不満か?」よけに納得できないといった表情を浮かべている私を少しの間ガリバーは観察をして、たっぷりと間を空けて付け加えた。「やった、やらないのレベルで叱られるのでは、君にはもう物足りないだろう?他人のせいと分かって、あえて叱られてみる。もう一つ高いレベルで叱られてみたいとは思わないか?」と。自分は責められているのか、認められているか、そもそもいったい何を叱られているのか、私は分からずに呆然としていた。▼独りで浴室すべての桶と台を集めまわっている間、私はそんなガリバーに叱られた時の事を思い返していた。「大人ってつくづく都合がいい」そう理不尽さをいつも嘆いていたあの頃の感覚を少し懐かしく思った。浴室のすべての桶とすべての台を片付け終わると、ふとあるアイデアが頭に浮かんだ。坊主の頭にシャンプー液を丁寧に塗っている刺青男の背中に向かって、「ご指摘ありがとうございました」と不意に大きな声をぶつけて、私は一礼をした。「なんや兄ちゃん。びっくりするじゃねえか」反射的に男は頭に手を乗せたままの状態でこちらを振り向き、珍しい物でも見るように目を細めて私を見上げた。そしてニンマリと口元を緩ませて、不気味な笑い顔を浮かべて笑い始めた。それは彼なりの精一杯の笑顔。でも、私はその不気味な威圧感に押されて、精一杯の苦笑いで応える事しかできなかった。「兄ちゃん、暇ならこれから一緒に飲み行かねえか?」と男は言ったが、いらない、とだけ私は答えた。
(1771)

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July 01, 2008

群青[055]

▼「わわっ!」突然私の目の前に黒いNIKEの帽子が現れて、小さな男の子が体当たりして来た。反射的に身体をのけ反らした拍子に、バサッと大きな音をたて、手元にあった日経新聞が床に落ちた。私は、久しぶりの休日に行く先も決めず列車に乗り、適当な席に腰掛け、ごとごとごとごと、列車が走る規則的なリズムに耳を澄ませている最中だった。「あっ、ごめん。」間髪入れずに少年が明るく元気な声で平謝りしながら、あたふたと頭を下げた。見るとまだ小学校低学年といったところか。「ごめんなさい。」彼はそれだけ繰り返すと、私が口を開くのも待たずに、またふらふらと揺れる車内を歩き出した。私は深呼吸をひとつ置いてから、ふと思い出したように、床に落ちたままの新聞へ手をのばした。が、新聞は少年に踏みつけられていて、老婆の手のように無数の深いしわが刻まれていた。「やれやれ。」私は諦めて、その大きな紙くずを、つまむようにして拾い上げた。▼列車は根府川駅を過ぎ、海岸に沿って走る。ここらは道がつづら折りになり、特に激しく揺れる。車両を渡って行くには、大人でも足を取られてなかなか前に進めないだろう。休日の昼間の乗客は疎らで、空席も十分にある。しかし少年は歩み止めようとしない。「ごめんなさい」の言葉の意味とは裏腹に、一瞬垣間見た少年の表情が、なぜかすがすがしく笑っていたのが印象的で、ある種の違和感によって誇張されたその一瞬が、スローモーションで鮮明に私の脳裏に焼き付いて離れない。▼「ちょっと僕、座ってなきゃ危ないわよ」中年女性の呼びかけにも、「分かってら。だから面白いんだ。」少年は大きく、そして底抜けに明るい返事を返す。間髪入れずに返って来た予想外の少年の反応に、大きく目を見開いた中年女性の、感情のやり場のない複雑な表情を浮かべているのが面白い。その横を相変わらずふらふらと歩いて行く、黒い帽子に小さな赤いリュックサックを背負った背中が見える。まるでトムとジェリーだ。「まあ、何て子だろう。」おばさんは呆れた拍子で言い捨てるのが精一杯だった。なんと見事な‘生意気さ’だろう。私は言い表し様のない嬉しさがこみ上げて、笑わずにはいられなかった。▼列車は走り続ける。ごとごとごと、車輪は規則的な鼓動を刻む。少しずつ、私たちには終着駅が近づいて来る。車内はいつしか静かな午後を取り戻していく。きっとここにいる誰もが、次の駅がやがて来る事を信じている。でも時折人は不安にかられて、車窓に流れる景色をのぞいては、確かに自分が前へ進んでいるのだと確信ようと願う。目を瞑って、私は少し考えてみた。自分の身体は止まったままで前へと進む、この不思議を。そして、その退屈さを。少年は果たして先頭車両までたどり着く事が出来ただろうか。出来る事なら、私もこのちっぽけな恥を捨て、少年の後を追い、危険を承知でこの不安定に揺れ動く道の上を歩いてみたい。そんな事を大人げもなく願ってみた。車窓の向こうには、どこまでも群青色した海が広がるばかりだった。(1244)

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July 02, 2007

徒然[054]

▼この街で3度目の春が過ぎ、外は鬱々とした6月の雨。くり返し、くり返して、今日(ココ)までたどり着いた。日を追う毎に、不安や焦りは姿を消して、ひとりの夜も、「生まれてずっとひとりだったじゃないか」って、思ったりさえする。それでもときどき、どうしても眠れない夜もあって、目を閉じると、これまでに出会い、別れて行った幾人もの人が、まぶたの向こうに浮かんでは消えて、誰に伝えるでもなく「ごめんね」の言葉が不意にこぼれる。▼そんな夜には赤いテーブルの上にロウソクの火を点して、その前に座椅子を置いて本を読む。本を読むのに疲れると、一度大きく首を回してから、ゼロの頭でただロウソクの火を眺める。火は、どれだけ眺めていても飽きることがない。火の輝きの中で、すべての『時』はその意味を失い、柱時計の針もいつしか息を殺して沈黙する。火はいつも背筋をピンと伸ばして、時折風に吹かれて揺らめいても、必ず立ち直り、固い意志を持った生き物のように凛とした姿を見せてくれる。▼四国に住んでいた今は亡き祖父には、食事の前に仏壇の前で手を合わせ、一通りお経を読み上げるという決まり事があった。子どもの頃に、祖父の真似をして覚えたお経は、大人になった今でも私の記憶の奥底にずっと眠っていて、何かの拍子に蘇ってくる事がある。ロウソクの凛とした姿は、そんなお経を読み上げる祖父の後ろ姿に重なって見えて、すべてが曖昧で、すべてが神秘に満ちていたあの幼い日の感覚が少しずつ戻ってくる。「知我信行」今、僅かなお経の記憶の中から紡ぎ出した一節は、今の私に決定的に欠けているもの、そして欲している答えだ。▼どんなにやりたい事をやっていても、本当にそれがやりたかった事なのか、どこか疑う自分がいて、どんなにいい訳を並べてみても、満たされない何かが、いつまでも消えてはくれなくて、それがトゲのように胸の内側で膿んで、チクチクと疼く。そんな夜には決まって、「生きることに意味はあるの?」と、いぶかしげな顔をした高校生の自分が、校舎の4階の教室の窓からじっとこちらを見下ろしている。そんな夢を見る。「やれやれ」取り留めのない思考を一通り巡らしてから、また諦めたようにロウソクの火を吹き消して、私はベッドの上に横になる。部屋の中が暗い闇に沈んで行くほどに、外の雨音がひそひそと部屋中を包み始める。「きっとこんな気持ちは、君だけじゃない。」微かな声が虚しく宙を彷徨い、消えて行った。(1011)

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June 02, 2007

揺籃[053]

▼襖で隔てられた隣の部屋で寝ている幼稚園年長さんになったばかりの甥っ子が、おねしょをしたらしかった。家の南側にある庭に面した窓の山吹色のカーテンの透き間が、朝の光にぼんやりと明るくなり始めた頃、襖の向こう側がにわかに騒がしくなった。私の姉と母、つまり彼の母親と祖母が何かをしゃべってていて―たぶんおねしょの話だろう―それが上映前のプラネタリウムの中みたいに、こそこそと部屋中に響いていた。私は虚ろな目を二、三回軽くこすってから、もう一度まぶたを閉じ、その響きの海に思考を浮かべながら、次第に眠りの淵へ沈んで行こうとした。▼が、突然、そんな響きを遮るように襖がパタンと乾いた音を立てて開き、目にいっぱいの涙を浮かべた甥っ子がそこに仁王立ちし、私を見つめた。そして薄目を開けた私と目が合うと、彼は何も言わずに私の布団の中に潜り込んできた。「やれやれ」深呼吸を一つしてから、私は彼の背中に右手をまわし、ポン、ポン、ポンと子守歌を刻むつもりでゆっくりと優しくリズムを打った。「大丈夫。すぐに忘れられる」と。布団の中で丸くなってじっと息を殺している甥っ子は、春の足音に耳を澄ませる洞穴の中の小熊を連想させた。ずっと忘れていた何もかもが真新しいと感じるような、僅かに青みを帯びた静かな朝の時間がゆっくりと流れて行った。▼しばらくして布団から顔を出した甥っ子は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたが、私が彼の顔をのぞき込むと、その赤く充血した目を少しだけ動かして私の方を向いた。そして5秒ほどしてからまた空間の一点に視線を戻した。「何を見ているの?」と私が口を開こうとする前に、彼は見つめる先の天井を左手で指差しながら、子供らしい突拍子もない思いつきをつぶやいた。「あんな、あれ、鳥に見えへん?」指差した先には、天井にはりつく様に映し出された何か物の影があった。複雑な形をして、見方によって何物にも見え、それでいて私には何物も連想させない、‘ただの影’だった。▼彼が「鳥だ」と定義した事と、私が「鳥だ」と認識できない事と、その溝を埋める必要など、この際何もない。「へぇ〜本当だ。よく見つけたね!」私はそう言って、何度も何度も彼の頭をなでてやれば十分だった。その内に、「そうやろ!」と満足そうに言いながら、顔に笑みが戻って、彼は両手で目に溜まった涙をグイッとぬぐった。そして泣き顔を恥ずかしがるように、彼は私の胸に顔を押し付けて眠りについたのだった。私の胸は何か幸福な気持ちに満たされていって、いつまでも眠れない朝を過ごしていた。(1050)

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