高瀬大介の思い出のプラグインは刹那い記憶

〜高瀬企画発気まぐれ遺言状〜

上原ひろみザ・トリオ プロジェクトfeat アドリアン・フェロー&サイモン・フィリップス 広島国際会議場フェニックスホール2016年11月23日

最高のライブだった。
壮絶なライブだった。
圧巻のライブだった。


最上のジャズであり、ロックであり、ジャズロックであり、プログレであり、アバンギャルドミュージックであり、ミニマルテクノであり、クラシックであり、そのどれでもない別物のなにかであり…じゃないな、それら全てがクッキリと姿を表しながら溶解せずにどんどん配列されていって、みるみるうちに巨大な音の塊、音の壁になっていくような、そんなライブ、そんな上原ひろみトリオだった。


ホールの後ろの方だったんで若干音量や音圧は足りなかったけど、まあそれはライブハウスでライブを体感するのに馴染み過ぎてるからしょうがない。
もしこんなライブをジャズクラブで最前列で浴びたなら、座りしょんべんしてバカになっちゃうだろう。我を忘れて叫びまくって野人になってしまうだろう。


でもアンプリファイにそれほど頼らないサウンド、その肉体性のみでこのトリオはとてつもない迫力を産み出していた。


サイモン・フィリップスのドラマなんて生音まんまじゃないか?と思えるくらいドラムの素性そのものが鳴っている感じだった。無茶苦茶な迫力だった。
本当に手足が伸びきりまくっているような全能感丸出しのプレイの連発で何度叫び声を上げそうになったか。あれだけ余裕なバカテクのベテランがああまで猛烈なプレイをするってのは、よほどこのトリオでの演奏に充足感を感じてるんだろうなぁと、あらためて上原ひろみの吸引力を感じさせられた。
本編最後の曲に及んで圧巻の長尺ドラムソロをぶちかましていたりと、もうほんま凄かったです。


アドリアン・フェローというベーシストはしらなかったんだけれど、まあとにかくバカテクであり、物凄くイマジネイティヴなサウンドとフレージングを出しまくりながらも、基本はとっても控え目な佇まいで、しかもなおかつステージの立ち位置同様にバンドのグルーヴの中央に鎮座ましているという奇跡のようなベーシストで、アンソニー・ジャクソンの不在を十二分に埋めてあまりあるプレイをしていた。世界レベルのプレイヤーってやっぱ凄い。


上原ひろみさんを聴いていると、観ていると、改めて鍵盤楽器ってのは打楽器でもあるなあと思う。上原ひろみさんの物凄いところって色々あるけど、個人的に一番グッとくるのは鍵盤を非常にマッシヴなリズム楽器として十全に生かしきっているところだ。人間、気持ちが高ぶったら何かでその高揚感を発露したいよねってなったときの原初的な反応のような凶暴なプレイ。ジェリー・リー・ルイスの初期の頃のような抑制が利いてないような発情感を思わせながら、そこで鳴っているフレーズは正確無比なメロディ。
また、スティーブ・ライヒかテリー・ライリーか、はたまたロバート・フリップかというようなシーケンシャルで変拍子なミニマル・フレーズを延々と正確に機械的に、かつめっちゃ攻撃的に弾き続けるとこなんざ、最強に理知的な原始人のようだ。


で、その真逆の、繊細の極致のようなプレイ、楽曲もなんの違和感もなく同居しているんだからもう唸るしかない。まああそこまでハードエッジなプレイが出来るなら北野武の振り子の原理を持ち出すまでもなく、真逆の繊細なプレイも極まるのは当然の事。その極致のようなプレイが聞けたのがちょっと長めのお喋りのあとに演奏された曲だ。



 私は楽しい、という言葉が、楽、と書かれるのが小さい頃から納得いかないんです。本当に楽しいことは決して楽ではないよ、結構大変な事なんだよって思います。
 私は6才の頃からピアノを弾いていて、いつかピアノを弾いて世界中を回れたらいいなあって思ってて、その頃はドラえもんのどこでもドアみたいに世界をひょいひょいと行き来してるイメージだったんですけど、実際に世界中を回るっていう夢が叶ってみると、まあかなり体力的にも大変なわけで…(笑)
 次の曲は私一人のピアノソロで「ウェイクアップ・アンド・ドリーム」という曲なんですけど、直訳するなら起きてなお夢見る、っていうことで、こうやって私が実際に夢を実現出来ているのもこうやって集まってくれる皆さんのおかげなんです。ありがとうございます。聴いてください。


と言って演奏された「ウェイクアップ・アンド・ドリーム」の美しいこと美しいこと。涙がこぼれてきた。本当にひろみさんな気持ちがまんまメロディに、ピアノタッチに表れていて、緊張感と集中力の使いすぎでいささかぐったりきていた体と心に染みまくった。


あと。


 今日は祝日で皆さんそれぞれ過ごし方があったでしょうけど、私たちのためにわざわざ時間と労力をさいてくださった皆さんのために、私も全力でピアノに向きあって、皆さんにお返しをしたいと思います。



て言っていて、文字だけ読めば綺麗事に思えるしミュージシャンなら誰もがステージで言いそうなことなんだけど、この人の場合は本当に、その言葉以上に体現しているので、その言葉に微塵のウソくささや気恥ずかしさが感じられなかった。
本当に命を削ってエネルギーを与えてくれたんだ。あんな小さなからだであんなとてつもない迫力の音楽を現出させるんだから。


だからこちらも全力でエネルギーを返さなければいけない、そんな気持ちに掻き立てられて全力で拍手をし、歓声を上げた。独りで(笑)。いや、会場全体で。お約束ではなく本当に心からのスタンディング・オベーションが何度も出ていた。

手がちょっと腫れて痛い。でもいい。素晴らしいものにはちゃんと意思表示をし、貰ったエネルギーは出来る限り返さないと。


朝から色々あってぐったり疲れきっていたけど、今めっちゃ元気だ。文字通りエネルギーを貰った。こんな文章なんか書いてないでギターを弾きまくりたい。

ビートルズ「エイト・デイズ・ア・ウィーク」を観て

やっと観てきた‼

見慣れた映像でもレストアされたりカラーリングされてたりして新鮮に感じたし、バスドラとベースの音圧が効いたライヴ感のある音も素晴らしかった。

ハリウッドボウルのライヴ盤の感想とも被るんだけど、やっぱりファンの女の子達の絶叫、阿鼻叫喚な様を観てると感動で涙が出てくる。
それってどういう心理なんだろうな?
十代の抑圧された精神を、ビートルズを媒介として暴力的に開放して、し過ぎて我を忘れている様(笑)に同調して、こっちも感極まってしまうんだろうか?

とにかく女の子達が泣き叫び、全力で自分のビートルズに対する愛を彼らに投げ返しているその無邪気さに感動する。
リンゴは鼻がセクシーよ!ジョージは睫毛がセクシーよ!とかカメラの前で泣き叫んでる女の子達の健気さ。

シガニー・ウィーバーがインタビューで「ビートルズのライヴを観に行く前の晩から自分のクセっ毛を直すために必死だった。だってジョンが見るから!3万人のファンのうちの一人だったとしてもジョンが見たときのことを気にしてたのよ」と語ってた。

ウーピー・ゴールドバーグ「ビートルズは白人じゃない。ビートルズはビートルズ。初めてコンサートに行ったときも思った。皆ビートルズを愛してたし、私が周りの子達とは肌の色が違ってても関係無かった」

ビートルズはまだまだ人種差別が色濃く残る地域の人種隔離政策にも抗った。
「黒人と白人を隔離するような会場じゃ俺らは演奏しないよ。そんなのバカげている。イギリスじゃそんなことはしない」と記者会見でハッキリ言い切っている。
事実、ビートルズがそう宣言して以降、ビートルズがライヴする会場では人種隔離が無くなったという。
ビートルズは黒人音楽から多大な影響を受けている。ロックンロールそのものがもともとは黒人音楽、レイス(差別)ミュージックと呼ばれていた。
ビートルズがそんな人種差別に反対するのは当然のことだけど、それをあの時代にちゃんと表明したビートルズに感動した。
映画を観ながら、いまだに残る人種差別と、そこからくる悲しい事件がいまでも頻発しているアメリカの事が頭をよぎったが、いかんいかん、ビートルズの映画だったと我に返る。

それにしても1964年のアメリカでのライヴ、特にワシントンでのお馴染みのライヴにおけるビートルズのテンションたるやとんでもない。
もうね、リンゴのぶちギレ方は半端ではなかった。ロックドラムの基本にして究極のブッ叩きまくりドラム。
この時点ではビートルズも、観客も、時代も、全てがこの初めてのとんでもない情況に興奮していて、ひたすらアッパーなライヴになっていたのが伝わってくる。デビュー前の、パンクみたいな発情したロックンロールをやってたビートルズの匂いを残す最後の時期だったんだろう。

1965年になってくるともうビートルズはビートルズでいることに疲れだしている。観客はまだまだビートルズに興奮しているけど、ビートルズ自身は前の年ほどライヴのテンションは高くないし、グルーヴやBPMも落ち着いている。王者の貫禄とも思えるが、世界を相手する挑戦者のような猛り狂うような勢いはない。
それでも史上初のスタジアムコンサートであるシェイスタジアムの映像は感動的だし、さすがのビートルズも5万6千人の金切り声を上げる大観衆を前にして、その異様な光景には興奮したらしく、テンション高いライヴをしている。

ただこれもずっと続けばウンザリしてくるんだろう。観客はまるで音を聴かずただ騒いでるだけだし、ライヴが終われば身の安全のためとはいえ窓もない囚人護送車に乗せられ会場を後にしたり、あるいはツアー場所各地の記者会見における悪意ある質問や、毎度毎度聞かれる頭の悪い質問に対して、ジョークで返す気力も無くなっていってるのが伝わってくる。

「ヘルプ」がガッツリと流れたんだけど、歌詞を見て改めて思った。
本当にこの時期のジョンの、頼むから誰か助けてほしいっていう気持ちがストレートに表現されていて、おおよそアイドルが歌うような歌詞じゃないのに、映画の主題歌になりシングルカットされて世界中でNo.1になってしまって、ライヴでは絶叫する女の子の前で歌わざるをえない。そのときの無力感たるやとんでもなかったんだろうなと。どんなに自分の気持ちをストレートに言っても、ビートルズという巨大な現象の前にはジョン・レノン個人の思いなんてどうでもいいんだ、という事実をつきつけられた時のジョンの心情を思うと辛くなってくる。
だからジョンがキリスト発言をしたときも、ビートルズというものが自分とは別物の、象徴的ななにかと本気で思っていたんだろう。
釈明会見でも「確かに若者の間ではキリストの影響力は落ちてる、キリストよりもビートルズの方が影響力があるとは言ったけど、別にそれがビートルズでなくても良かった、別にテレビでもなんでもよかったんだ」と言っていた。

ジョンが「ヘルプ」を作った時からビートルズの解散は用意されていたし、ビートル・ジョンではない、ジョン・レノンを確立するための道程が出来てたんじゃなかろうか。

この映画はビートルズがライヴをやる気力を失っていく過程をドキュメントしたものと言ってもいいかもしれない。観ていてだんだん辛くなってしまった。

だからこそツアーをやめてレコーディングに専念した最初のアルバムである「サージェント・ペパーズ」があれだけ画期的でとんでもない作品になったのもよく分かる。抑圧がでかければでかいだけ開放されたときの弾けっぷりは凄いことになるんだな。ビートルマニアの女の子じゃないけど。

最後に、この映画で好きなシーン。
シェイスタジアムん時の「ア・ハード・デイズ・ナイト」ん時のジョン。
ポールのパートになるときにジョンが「さあポールが歌います」みたいな感じで手をポールの方へ向けながらヒョコンと跳び跳ねるるとこ。で、そのポールのパートでポールがちょっとタメ気味に歌いすぎてジョンのパートにもつれこみそうになってジョンが「おいおい」みたいな表情になってるとこ。今まで気付かなかった〜。

あと、インタビューされてるとき後列上段のジョージが、前列下段のジョンの頭に灰皿のようにタバコの灰を落としてるとこ。しかも2回も!でもジョンは笑いながら慌てて頭を振って灰を落としてた。
この二人、三歳年の差があって兄貴と弟って関係みたいだったけど、弟の結構キツいイタズラにジョンは怒らないもんな。いかに仲良かったか。このシーンは初めて見たけど笑ったな。

久しぶりです

久しぶりにもほどがあるほど久しぶりの更新です。

興味を持ってここを訪れてくれる人がどれ程いるかは分からないけど、今回はどうしても来てほしいイベントがあるので書きます。



今月25日は地元神辺のハイダウェイで高瀬企画というか、俺と俺がリスペクトするシンガーソングライター、山崎怠雅さんとガジュマルさんを東京から招いてスリーマン・ライヴをやります。


山崎怠雅(やまざきたいが)君は、繊細で詩情豊かなシンガーソングライターとしての側面と、狂気のノイズブルースハードロックギタリストとしての側面が、全く違和感無く同居した、まさに奇才と言うべきアーティストで、その超然とした佇まいも含めて滅多にお目にかかれるもんではない才人だと思う。


出会いは10年くらい前だろうか、彼が捻転時計というバンドをやっており、俺がワイセッツというバンドをやっていた頃、たまたま渋谷のエッグマンで対バンしたのがきっかけだった。
最初はリハーサルの時、彼が弾くブルースフィール溢れるフレーズがあまりにもサマになっていて、一聴して「お仲間だ」と思った。本当にペンタトニックとブルーノートで「ちゃんと歌ってるフレーズ」が弾ける人は東京においてもレアだったんですよ、ライヴハウス界隈にいるようなミュージシャンだと。だからすぐに声をかけたように記憶している。人見知りなくせにレアで素晴らしい才能に対しては図々しくいくんだよ、俺。

しかし本番のライヴを観て度肝を抜かした。
とにかくライヴハウスが完全に音で飽和状態になったように感じたくらいの大爆音のギターが鳴っていて、しかもそれがちっともうるさくない。下手なクセに「ロックンロールは音がでかくなきゃあよぉ」みたいなこと言ってバカでかい音で鳴らしているギターってホント耳障りなんだけど、怠雅君のギターは「本当のノイズというのは美しいんだ」ということをよく理解しているギターだと思った。第一回フジロックで観たボアダムスの超爆音ライヴと同じような感じだった。


そんな第一印象だったけど、彼が優れたソングライターであり、リスナーとしても博覧強記の人だということに気づくのはもう少し親しくなってからのことだった。

捻転時計はヴォーカルは怠雅くんではなかったが、曲は全て怠雅君が作り、歌もそのヴォーカリストよりもよっぽど歌えるという、まさに捻転な山崎怠雅だが、彼がソロでアコースティックギターで弾き語りをしているのを聴いて、捻転時計の爆音ギターに目眩まし、いや耳眩ましさせられていた繊細でリリカルな楽曲の素晴らしさに気付いた。
夜の空気感と情景が皮膚感覚で伝わってくるような、そんな歌とアコースティックギターのプレイだった。
捻転時計ではない自分のバンドではさらに過激な大爆音ギターと絶叫シャウトをぶちかますのに、ソロでは真逆ともいえる内省的で繊細な世界観を見せる。でも矛盾はしていない。北野武の振り子の理論の通り、その二つの極限の世界観は両方が等しく存在してうまくバランスが取れている。

リスナーとしてもとても共有できるところが多く、少なくとも早川義夫さんやはっぴいえんど、レッド・ツェッペリンやクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングやゴールデンカップスについて俺が本気で語り合える人は彼をおいて他には居ない。元々早川義夫さんを呼ぶ捻転時計のイベントに声をかけてもらったのがきっかけで彼と親しくなったんだった。
俺がキチガイになるくらい好きなエリック・クラプトンとキング・クリムゾンを真っ向から否定するのも、ちゃんと聴いて良いところは認めた上での否定だから納得できる。


怠雅くんとはお互いの弾き語りにギターで参加したり、怠雅〜スと称してジュリーやカップスやはっぴいえんどをカバーするユニットをやったり、キョドルト・ヴァレルというハードロック・バンドをやったりと色々絡んできた。ついこないだも久々の俺のライヴに参加してもらったりもした。

それでもまだ理解してないとこもあるし、つかみどころが無いと言えば無いままだ。けれど別にそれはそれで構わない。クソ爺ィになってもたまにライヴ一緒にやって、終わったあと酒呑みながらツェッペリンのあの曲でジミー・ペイジが使ってるエフェクターはああでこうで、とか言えりゃそれでいい。



ガジュマルさんとの本格的な出会いは、ワイセッツが解散した2008年とかだから、かれこれもう8年くらいになるのか❗自分で書いててビックリした。

当事彼女が店長をしていたライヴハウス、代々木ブーガルーにライヴに出ることになったのがきっかけで知り合いになったんじゃなかろか。
話をしているなかで彼女もバンドやソロでやっているシンガーソングライターなのだということを知り、見た目もとても可愛い人だから(笑)ライヴに行ってみた。人が行動を起こす動機なんてそんなもんよ。

彼女がやっているバンド、サルパラダイスのイベントで、ナチュラル・レコード、うつぼ、いろちがい、踊り場ソウルというバンドが出ていた。
当事、自分のバンドが無くなった虚脱感と、自分一人の作品作りやなんやを早くやりたいのに煮詰まっているという状態で、かなりネガティブな気持ちの時に観たそれらのバンドは、とてもとても新鮮に感じられ、その高い音楽性や熱量の高さに興奮した。それと同時に俺はこういったシーンには今まで全くコミット出来ていなかった、あんだけ頑張ってたのにこういうバンドとは巡り会えなかった、自分はまだまだ駄目なんだなぁととても悔しさを感じた。

そしてトリのサルパラダイス。横揺れの物凄く気持ちのいいグルーヴ、ハッピーなバイヴス(笑)、ニュー・ソウルをルーツにもつ緩やかだけど熱いサウンド、そして何よりヴォーカルのガジュマルさんの圧倒的な存在感と声、下ネタも辞さないガハハなキャラクター、全てが当事の俺にとって必要としていた栄養であり契機であった。
自分にはそれらがまるで欠けていたけど、それが悔しさを通り越して発火剤になった。
ライヴイベントが終わったあと、挨拶もせずにすぐにライヴハウスを抜け出して自分の家に戻ってすぐ創作に打ち込んだのを今でも覚えている。


その日がきっかけになって俄然サルパラダイスが好きになり、ガジュマルのソロライヴにも行ってみたいと思うようになった。
で、初めてガジュマルのライヴを観て、さらに驚いた。サルパラダイスとは全然違う、もっともっと個人的な音楽で、独自性、オリジナリティという意味ではサルパラダイス以上のものがあると思った。
寓話をクラシックピアノの伴奏で聴いてるような、物凄く起伏に富んだ物語が一曲のなかで展開されてるような、凄い世界がそこにはあった。
また、曲の中で引用される笠置シヅ子さんの「ジャングル・ブギー」や、笠置シヅ子さんのカバー「買い物ブギー」など、俺が大好きな笠置シヅ子をこんな形でピアノ1つで自分でアレンジして歌ってる女の子が居たんだ‼と訳もわからず興奮した。いつかこの人と高峰秀子さんの「銀座カンカン娘」か越路吹雪の「ろくでなし」をデュエットしたい!と思った。後者は後に実現するのだが。


とにかく一時はとりつかれたようにサルパラダイスのアルバムを聴き、サルパラやガジュマルのライヴに行き、人見知りをアルコールで腹に流し込んでサルパラダイスのリーダーの田中さんやキヨさんとも話せるようになり、いつのまにか彼女らがやっているライヴハウスに出るようになり、そこでの仲間と繋がり、近所付き合いもし、と非常に幸福なコミュニティに属させてもらえるようになった。

何度もヒドイ迷惑をかけて、見棄てられてもしょうがないようなことしたのに、こないだ東京に行った時も昔と変わらずライヴハウスで呑んだくれながら話し倒したり、高円寺駅北口のバスロータリー広場の、ネズミが這ってるような地べたに座り込んで発泡酒呑んだりと、本当に楽しい時間を過ごした。

そのきっかけとなったのがガジュマルさん、サルパラダイスの音楽であり人となりだ。向こうは俺のことなんかもう呆れているかもしれないけど、俺は相変わらず彼女を、サルパラダイスをリスペクトしている。



そんなお二人、山崎怠雅くんとガジュマルさんを招いてのライヴ、是非是非多くの人に来てもらいたいし、その音楽や人に触れてほしい。素晴らしいから。


当日は俺自作の酒のツマミ、たぶんホルモン炒めかなんかを安価で提供して、イベントにニンニクくさい華をそえようとも思ってます。

いや〜来てもらいたいなあ。

〒720-2117
広島県福山市神辺町下御領1383-4
TEL:084-965-0410 
HIDEAWAY

9月25日、夕方19時から。
1500円、ワンドリンク付きです。

閣議決定並みの拙速なリリース、本日!

 本日5日、東新宿のライブハウス真昼の月夜の太陽にて、俺とドラムの河野瞬とのユニットでライブをやります。時間は20時50分くらいからっす。



 ひと月ぶりくらいなので新しい曲でも増やそうかと思って作ってたら3曲も出来てしまい、それのアレンジのためにスタジオ入ったら割とすんなり出来たんでだったら録音しようということになり、どうせなら発売出来るようなクオリティにしようということで一発録音ながらカッチリとミックスしたりなんかして(只今進行中)、あれよあれよという間にライブ当日になってしまった。実質作業期間5日というどう考えてもムチャな進行なんだがこれが結構いい調子。俺史上で最もハードでスピード感のある音源に仕上がりつつある。


 例によって発売後も勝手にミックスとかテイクを変えてしまって、知らぬ間にコレクターズアイテムを増やしてしまう俺だけど、なんかそういういい加減さとか、レコーディングからリリースに至るまでのせっかちなスピード感まで、河野瞬とやってるこのユニットはそういうのがしっくりくるんだわ。



 ジョン・レノンの名曲「インスタント・カーマ」にまつわる有名なエピソードに、朝起きたジョンはふとメロディーを思いつきピアノで曲を仕上げ、昼くらいにはミュージシャンを手配しフィル・スペクターも連れてきてレコーディングをその日のうちに完成させ、一週間後にはリリースしたというのがあるが、ジョン曰わく「新聞みたいなペースでレコードがリリース出来たらいいね」という彼らしいコメントを残してる。



 作ったそばからネットを通じて配信できる現在の状況をジョンは狂喜したかもしれないが、今回の俺もそれに近い心境だ。といったらおこがましいとは思うが、まあとにかく粗製濫造とも言えるスピード感の中から名作を生み出していた昭和のクリエイター達(漫画家や映画監督など)を見習って「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」的方式でいけりゃあなあと思う。100曲トライして一曲でも快心の作が出来りゃいいじゃないの。トロイのはイライラすんだよ。




 今回の音源は新曲3曲+河野瞬とのユニットのいつものライブでやってる曲3曲の計6曲をレコーディングし、それにプラスしてスタジオでのリハーサル時に気まぐれにやったジャムやらカバーやらの音源から面白いものを選んでハードコアリマスターして収録、なんだかんだでCD収録時間をフルに使った大盤振る舞いのもんになってます。自分で聞いてても疲れるくらいハードな音源で、それを80分も聞かされる方はたまらんわなぁとは思ったけど、「出るもんは出せ」by横尾忠則、ということで現在の記録としてぶち込みました。ホント、ライブにきてほしいし音源もゲットしてほしいわー。

近況とライブ告知

 最近の事を箇条書きにしてみる。



 ワイセッツの頃からの知り合いで、かつてバンドで一度ライブもやったことがあるドラマーの河野瞬と久々に会って、居酒屋呑みだの路上呑みだのしてるうちに一度ライブでもやってみっかということになり、やってみたらこれが楽しくてしょうがない感じになった。
 俊敏で柔軟性のあるドラマーの河野瞬とやってると、どんなインプロヴィゼーションも、リズムアプローチも、方向転換も、気まぐれも対応してくれるので俺の自由度が半端ない。
 元々そういったフリーミュージックが好きなのにも関わらず、ちゃんとした構成のある歌ものに留まるような音楽を長らく自分に義務付けていたようで、それが自分の資質にブレーキをかけていたということに改めて気付かされた。
 このユニットでのライブ、次は7月5日にある。真昼の月夜の太陽にて。是非是非みにきてほしい。



 その河野瞬と再開したのがヒゲとボインとして出演した下北沢でのライブ。そこで出演していた沖ちづるさんというシンガーソングライターの歌に惹かれ、後日改めて彼女のライブに行き、すっかりハマってしまった。
 趣味的な共通項やなんかもあるが、そんなことよりも彼女の独特のヴォーカルスタイルと、それと不可分なシンプルなメロディーを持った、ほんとうに素晴らしい楽曲にやられてしまった。
 特に彼女が高校時代に録音した4曲入りの音源のあまりの純粋な音に感動してしまって、今やヘヴィーローテーションだ。
 「無垢」というのが褒め言葉なのかどうかは分からないが、そんなものを久々に感じた。これ以上何も足さなくていい、何も引かなくていいという絶妙な温度が心地いい。



 時を同じくして以前フラッとライブを観に行ったお返しに俺のライブに来てくれたシンガーソングライターのmiinaのライブにも改めて行った。
 沖さんに比べれば歌もギターもはるかに巧いんだけど、その巧さによってぼやけない「したたかな純粋さ」があるヴォーカルと楽曲で、これまたやられてしまった。声から出ている心地良い周波数の含有量が半端ではない。



 ちょうどこの時期色々バンドに関して考えることがあり、イライラしたり、悩んで考えが逡巡したりして疲れていたので、この二人の若い女性シンガーソングライターの純粋な美に、あんまりいい表現じゃないかもしれないが「癒された」。



 なんかあんまり余計なことを考えたり、純粋な創作面以外の部分で煩わされるのは、自分の残りの時間がどれだけあるのか知らないが、邪魔くさくなってきた。しょせん自分の脳は、どこに向かってとか、どこに照準を合わせてとか、自分を客観視してとか、そういった事を深く思考するように出来てねぇんだなぁと思った。瞬と一緒になってどこに向かうか分からないインプロヴィゼーションに突入するときに一番スリルを感じるようなヤツで、人様をどうこうしようとか、全体を俯瞰してどうこうとか、向いてねぇわ。そこに対する意識を蔑ろにするつもりは無いが、自分がもっともっと集中して「音楽」となる、という修行をしてからじゃないと偉そうにできない。




 と言いながらここ最近立て続けにラジオの音楽番組の企画と台本作成の仕事をすることがあって、改めて音楽について深く考えを致す時間が増えた。



 A→B→サビという定型に囚われない楽曲構造、組曲形式をロックやポップスに持ち込んだ冒険作「ロックンロール・スィート」特集。


 長らく活動を続けているアーティストなら誰でもやっている「セルフ・カヴァー」の様々な有り様から、それぞれのアーティストの特性や真正を探るという特集。



 芸術を創作する上で外せない「オマージュ」という行為を、模倣やパロディ、本家取りなどなど様々なパターンの楽曲から分析する「オマージュ」特集。



 などなど。こういうのを改めて考えてると、結局自分の創作にいい形でフィードバックしてくる。
 所詮「真のオリジナル」なんてもんは虚構であって、自分がインプットしたものをどうアウトプットするか?ということこそが「創作」という行為であり、「自分」というのはフィルターであり中継地点でしかなく、自分自身になにがしかの独自性や個性が無ければなにをそのフィルターに通したって創造行為にはなりえないんだということを再確認した。怖い怖い。



 そのラジオ番組、自分が喋ってるわけじゃないので、いつか自分が喋ってるバージョンでレコーディングして無料配布用のCDにでもしようかなと、イリーガルな考えを持ってる。




 さて、そんなこんなしてるうちに生誕日を迎えてしまい、ヒゲとボインの結構深刻な会議の途中で、どうリアクションしていいか分からない苦手なサプライズパーティー的なものもしてもらい、別の友人宅に行く用事があったためホロ酔いでチャリンコに乗って急いでたらチェーンが外れて派手にすっ転び、今にも残るパックリ生傷を作る。
 結局その日は友人宅で酔いつぶれてしまい、二日酔いで朝帰りというクソみてえな第一日目を迎えてしまった。



 そんな屑野郎の俺だけど明日と明後日ライブがあります。


 13日金曜日は新宿歌舞伎町にあるソウルキッチンというライブバーにて。時間は20時半くらいから。
 ただ、もう今夜だっつうのに具体的なビジョンがまだ見えてないというカオス状態。
 というのも今日の昼は、真昼の月夜の太陽でPAをやってくれたりヒゲとボインのCDのミックスもやってくれてるエンジニアの篠原くんとスタジオに入るので、流れによっては今夜のライブは一緒にやるかもしれないんだよね。その辺は柔軟に、いい加減に、インプロな感じで。



 で、なんでそんな篠とスタジオに入るかというと、14日土曜日に真昼の月夜の太陽にてデュオ・ライブをやるからなのだ。
 デュオといっても彼は楽器ではなくて、ノイズだったりミキサーだったりエフェクターだったりと、なにがどうなるかまだよくわからない相棒。
 こういう不確定要素だらけの時にこそ本領を発揮出来なけりゃミュージシャンやってる意味がない!といういい頑固なヤツなので、楽しむさ。
 いいライブになるよう祈って、あるいは呪っていてほしい。時間は20時45分くらいから。



 とにかく、きてほしいわ。居てくれたらそれだけで俺らの演奏にフィードバックさせるんでさ。どうせならハッピーな音楽を生み出したいもんね。

ワタシを奮い立たせる言葉たち

 だいぶ以前にも今回のと似たような文章を書いたんだけど、なんか気持ちが高ぶってね。





 好きだしよく聴くんだけど、ボブ・ディランやブルース・スプリングスティーンといったいわゆるストーリーテラー的な方面で天才性を発揮する人の歌詞を熱心に研究したことがない。



 英語を母国語にしてないので歌詞は歌詞カードを読んで理解してきた。だから言葉と音が同時に耳から入って脳ミソにいくってわけじゃなくて、いったん視覚を通らざるをえない。
 


 なのでそういうストーリーを通じてなにかを伝えようとしている楽曲を聴いてても、物語は物語、音楽は音楽で分離してしまいがちだ。
 それらが一体になった時の説得力とか殺傷能力とかはどうしてもバーチャル体験になってしまう。ラップなんていまだに本当の意味での面白さを味わえてないんだろう。
 正直洋楽でちゃんと歌詞を読んで噛みしめて血肉化したと思えてるものはジョン・レノンくらいかもしれない。ジョンの歌詞は割とシンプルだし散文的だったりするから分かりやすい。



 日本人だから当然日本語で歌われたものに関しては、音と言葉が一体となったときの爆発力というのは理解出来る。ものは出来る。



 やっぱりそこでも物語性のある歌詞よりも、散文的な歌詞の方が惹かれるものが多い。



 どうも物語を伝えるために音楽をつけてる、みたいな「言葉に音楽が従属している」ものには惹かれないようだ。



 音楽の素晴らしさを形成するための言葉が歌詞となってる、みたいな在り方というか、その言葉の意味や背景だけでなく、音節やイントネーションなど総てが音楽の爆発のために機能しているっていう、そんな歌詞が好きだ。



 特に決定的なワンフレーズ、一行とか2行の言葉、あるいはサビの歌詞全部とかでもいいんだけど、その言葉を吐き出すために曲が存在してる、っていうくらいの爆発力のある言葉を歌詞に持つ楽曲。そういう曲に力づけられてきた。




 それが言葉として、詩として単独で優れているかどうかはどうでもよく、ロックのビートやヴォーカリストの声と一体となったときに最大の殺傷能力を発揮するような、そんな「ロックな言葉」を持った楽曲、それがなにより重要だ。



 自分もそういうワンフレーズを生み出すためにウンウン頭をひねる。ま、頭をひねってるいうんじゃだめなんだろう。その人の肉体から、生活から、性癖から生まれてくるような、呼吸をするように出てきた言葉じゃなければロックな言葉になりえない。
 とにかくそんな言葉が吐き出されるまで、歩いたり寝転がったり、どこかにでかけたり、部屋にこもったりする。まああんまり思い詰めすぎても、シャブに頼るような精神状態になったら元も子もないので、テキトーさとか成り行きとか諦めも、ある程度のさじ加減で必要になってくるんだが。




 今まで聴いてきたロックの、聴くだけで血湧き肉踊るような言葉をざっと思いつくまま挙げてみた。




 あの娘はズベ公で 僕は身なし子さ
 とっても似合いの二人じゃないか
 汚れた心しかあげられないとあの娘は泣いていた
 きれいじゃないか

       ぼくとあの娘/RCサクセション




 キミかわいいね でもそれだけだね
 キミかわいいね ただそれだけだね

 水のない川 エンジンのないクルマ
 弦の切れたギター ヤニのないタバコ
 

       キミかわいいね/RCサクセション



 もうたくさんだ 俺たち 傷つきあったって
 何も生まれてこないよ 敵はもっと遠くにいるんだから

       敵は遠くに/早川義夫



 しかたないさ 好きだもの 涙がこぼれてゆく
 しかたないさ 好きだもの 僕らは恋人

       パパ/早川義夫


 声を出さなくとも 歌は歌える
 音のないところに 音は降りてくる
 本当に素晴らしいものは解説を拒絶する
 音楽がめざしてるのは音楽ではない

       音楽/早川義夫




 もともと無理な話さ
 勝てるわけがない
 俺達の脳ミソは
 奴らにつくられたんだから

 脳ミソを入れ変えるんだ
 つらい事だけど
 頭にノミをつきたてて
 自分の手で切りきざむんだ

    コペルニクス的回転のすすめ/岡林信康




 今ある不幸せにとどまってはならない
 まだ見ぬ幸せに今跳び立つのだ

       私たちの望むものは/岡林信康




 「頑張れよ」なんて言うんじゃないよ
 俺はいつでも最高なのさ
 俺は不滅の男 俺は不滅の男

       不滅の男/遠藤賢司




 ああ ああ ああ 
 なんて訳の分からない夕暮れなんだ
 ああ ああ ああ
 なんて、なんてみっともない人類の平和なんだ

       なんてひどい唄なんだ/三上寛



 君によせる愛はジェラシー

       ジェラシー/井上陽水



 薬漬けにされて治るあてをなくし
 痩せた体合わせてどんな恋をしているの
 今 あなたにGood-Night
 ただ あなたにGood-Bye

       最後のニュース/井上陽水





 痛みは初めのうちだけ 慣れてしまえば大丈夫
 そんな事言えるアナタは ヒットラーにもなれるだろう
 全てのボクのようなロクデナシのために
 この星はグルグルと回る

       ロクデナシ/ブルーハーツ




 キミ ちょっと行ってくれないか
 すてごまになってくれないか
 いざこざに巻き込まれて
 死んでくれないか

       すてごま/ブルーハーツ




 なにもかわらないものはなにもかえられない
 このソウルを激しくキックしたい
 風向きを変えろ

       インディビジュアリスト/佐野元春





 黒いバラとりはらい 白い風流し込む
 悪い奴等けちらし 本当の自由取り戻すのさ
 自信を全て失っても 誰かがお前を待ってる
 お前の力必要さ 俺を俺を力づけろよ

  ファイティングマン/エレファント・カシマシ




 ああ 青バエのごとく 小うるさき人達よ
 豚に真珠だ 
 貴様らに聞かせる歌などなくなった

       男は行く/エレファント・カシマシ




 何度目の太陽だ 何度目の落胆だ
 伊達や酔狂じゃねえ
 パワー・イン・ザ・ワールド
 これは冗談じゃねえ 戦いの歌だ
 枯れ果てた大地の 一輪の花

パワー・イン・ザ・ワールド/エレファント・カシマシ





 あなたをこの手で殺したい
 あなたをこの手で犯したい
 気弱な僕は いつでもそばにいる

       ハネムーン/奥田民生



 カンタンなのさ ひとりきりって
 おきらくなのさ ひとりきりって
 しあわせなのさ ひとりきりって
 愛のうたをうたっても ひとり 

       一人カンタビレのテーマ/奥田民生




 君と寝ました 他人のままで
 惚れていました 嗚呼

       月/桑田佳祐




 身体で身体を強く結びました
 夜の叫び生命のスタッカート
 土の中で待て命の球根よ
 悲しいだけ根を増やせ

       球根/イエローモンキー





 暴かれた世界は オレンジのハートを
 抱きしめながらゆく とぐろをまく闇

   暴かれた世界/ミッシェルガンエレファント




 じりじりと 夜になる
 じりじりと 夜をゆく
 神の手は にじむピンク

   ドロップ/ミッシェル・ガン・エレファント




 よこしまな僕は
 やはり君の涙を美しく思うの
 よこしまな よこしまな僕は
 やはり君の思い出を美しくしてるの

      あなたが人を裏切るなら僕は誰かを殺してしまったさ/サンボマスター




 今あなたに言う 今あなたに言う 今あなたに言う
 全ての言葉は ウソじゃないの 夢じゃないの これが最後

        夜が明けたら/サンボマスター




 悲しみで花が咲くものか


  世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター


 




 言葉だけ抜き出しても真の殺傷能力は伝わらないかもしれないけど、それでも読んでるだけでなんか漲ってくる。ロックな言葉はそれだけで音楽が聞こえる。



 ちなみに、これらと並べるのはおこがましいのかもしれないけど、人のばっか並べてもズルいので。



 今まで自分が書いた歌詞の中で、一番音楽と一体となって爆発した言葉はどの曲だっただろか?と思いだしてみたがやっぱりこの2つだろうか。字面で読む以上の力をバンド全体で言葉から引き出していると思う。




 過去の記憶を切り刻んで
 今の空気を切り裂いて
 未来を切り開くよ

         うしろまえ/ザ・ワイセッツ




 
 君が見せてくれた 夢も現実も
 すべては いつか歌に変わる
 そばにいてくれないか
 人間はとてもはかない

     人間はとてもはかない/ザ・ワイセッツ





 でもこうして並べてみるとまだまだだな。もっともっと感覚をヒリヒリさせて言葉を掘り下げねーと。




 というわけで本日はライブ。東新宿の真昼の月夜の太陽にて、20時くらいから。
 今回もドラムの河野瞬とのデュオ。言葉よりもどちらかというと暴走する演奏の方がメインになっちまうデュオだけど(笑)だからこそ発する言葉一つ一つを音でシバきたい。
 きてほしいです!

ライブ告知がてらにつれずれと思うことを…

 AKB総選挙の季節になるたびに「一人が何百枚もCDを買ってそれでミリオンセラーなんてインチキだ、良心的な創作活動をしているアーティストに失礼だ」とか「あんなのキャバ譲にカネつぎ込んでんのと同じだ。そんなもんが国民的行事だなんて笑止千万」とかいうもっともらしい意見が山ほど出てくる。



 オリコンチャート年間トップ10がアイドル勢で埋め尽くされると「日本の音楽は終わりだ。本物の音楽が支持されないこの世は闇夜だ」とか「あんなアイドル連中のCDなんてノベルティグッズと同じだ。チャートでは本物の音楽とは別にすべきだ」とかいった意見が山ほど出てくる。


 音楽の配信が普及しきてCDが売れなくなってくたら「やっぱりモノとして音楽を所有するという行為が無くなって、データで音楽をやりとりしたり所有したりするのが当たり前になったら、音楽の価値が下がる」とかいった意見が山ほど出てくる。



 初音ミクみたいなものがヒットチャートに入ってくると「しょせんコンピューターの声なんか人間の魂のこもった歌にはかなわない」「こんなのが普及すれば人間の感受性はどんどん狂っていくし、歌や楽器のの訓練を積んでいこうとする人間がいなくなってしまう」みたいな意見が山ほど出てくる。



 韓流が流行ろうが、ヴォーカルがピッチシフトされた歌が流行ろうが、ビジュアル系が流行ろうが、テクノが流行ろうが、ヒップホップが流行ろうが、産業ロックが流行ろうが、ディスコが流行ろうが、ニューミュージックが流行ろうが、フォークが流行ろうがGSが流行ろうが、演歌が流行ろうが、ジャズが流行ろうが、ブギーが流行ろうが、常に「こんなのが流行ったら日本の音楽界に先は無い」といわれ続けてきた。


 つうか俺も同じようなこと思ったこともあるし言ったこともある。



 けど相変わらず音楽界とやらはまだあるし、音楽を聴く人もライブに行く人も演奏する人も歌う人も商売にする人も神格化する人もいる。ただそれぞれの在りようやビジネススタイルが時代に応じて変化しただけだ。




 自分にとって都合のいい、心地いい音楽の存在の仕方、なんてぇのは自分が思春期とかに夢中になった時期以降はどんどん居心地悪くなっていくもんで、そこに付いていけなくなったことを認めたくない人は「こんなもんが流行ればこの先…」云々みたいなことを言って自分の認めるものを正当化する。



 有名な話だがエジプトのピラミッド内部に画かれた壁画にも「最近の若者は堕落している」みたいなことが描かれているらしい。



 どんなに今の状況を危惧したところで変化するもんは変化していくし、変わらないものは変わらない。





 こないだ友人と話していて暗澹たる気持ちになった。
 国民がどんなに反対しようと首相は自分のやりたいことを勝手にやっていくし、もっと言うなら首相の考えというよりも経済界とかの見えざる巨大な力が働いて、自分たちの富のためだけに世界を動かそうとする。そのためなら戦争も辞さない。人が死のうが関係ない。



 こないだ原発再稼働を退ける司法判断がなされたが、それを単純に反原発の民意が勝ったと喜べないのは、結局これも「見えざる巨大な力」があらかじめプログラムした一時の判断じゃないかと思ってしまう。



 友人曰わく「20年以内に戦争が起こらなかったら奇跡」というくらい日本の状況に危機感を抱いていた。というか諦観まじりにそう言っていた。
 実は俺もそういう考えはあるが、やっぱり戦後30年たった時代に生まれ、バブル真っ盛りに育ったのでどうしても実際に日本が戦争をするということにリアリティを持てない。ぬるま湯に浸かって生きてきたんだ。中国や韓国北朝鮮の脅威、というのは毎日ニュースで見るし意識としては常にあるのに、皮膚感覚としてはどうしてもリアルに戦争を感じられない。これからどうなっていくんだろう。
 


 まあとにかく「見えざる巨大な力」を持った連中の都合のいいように世の中が動いていってるのに比べれば、音楽の世界なんてなんだかんだいって「民意」が動かしてきた(少なくとも戦争のなかったこの70年は)んだから、AKBがどうなろうがチャートがどうなろうがもうどうでもいいじゃねぇかと思えてしまう。好きか嫌いかで充分だ。



 なんてことを考えてるとせめて音楽くらいは自分が好きなこと、興味をもてること、ワクワク出来ることをやればいいじゃないかとおもう。
 ささいな意見の食い違いや価値観の違いをぶつけ合って、その摩擦が生む熱が音楽のエッジを鋭くして素晴らしいものにする、なんてこと人に強要したところでそれはごり押しでしかない。どーでもいいもんはどーでもいい。



 勿論、価値観のぶつかり合いが音楽のエッジを云々ていうのは自分の中でぶれてないんだけど、目的意識や危機意識を共有する関係性が前提になければすれ違うだけだ。そんな徒労に舌打ちするくらいなら、その時間をもっと充実した創作に費やさないと。いつ戦争が起こって理不尽な暴力に組み伏せられるかわからないんだから。




 そんなことを考えてライブをやってるわけじゃないけど、その切迫感の片鱗でも表れりゃいいな、という気持ちでライブやります。



5月24日(土) 「三日月の夜に」
open17:20 ・ start17:50 ・ ticket¥2500(ドリンク別)
出演:Bobrina(O.A)、Soul Realize、ANNABELL、高瀬大介、leemix




 今回もドラムの河野瞬とふたりでうねるようなグルーヴミュージックを生み出せたらと思ってるよ。



 是非是非きてほしいです。土曜日だから酒飲んで楽しもうじゃないか。


 さあ今からリハだ。

たりないふたり

 昨夜のたりないふたりの漫才は凄かった。なんと客を前にして40分で新作漫才を作る、その過程を全て見せすぐに舞台にかける、という今時あまりないストロングスタイルのお笑いを地上波で目撃できた。
 実際にできあがったものは、漫才としての完成度はともかく、二人のいかようにも漫才を変化させることの出来る柔軟性と技量を見せ付けられた。
 若林の「悪ふざけ」は時として漫才に「破壊」をもたらすけど、山里の軌道修正力とそれが摩擦を起こして、とてもスリリングな漫才が「即興的」に出来上がっていた。ほとんどジャズのインプロだ。


 今度の水曜日14日、真昼の月夜の太陽でライブするんだけど、今回はドラムの河野瞬と俺という「たりないふたり」だけでやるという、個人的には初の試み。


 ホワイトストライプスが好きだったということもあってこういう変則スタイルには抵抗感は無かったのだけど、いざスタジオで合わせてみると想像以上に自分の性分と合ってることに気付いた。


 自分の他に音階楽器がないということはどんなフレーズを弾こうがどんなコードをならそうがどんなノイズを出そうが、制約となる別の音階は無いし、ドラムという「肉体性」の塊が「音」を自動的に「音楽」にしてくれる。


 ベースやキーボードとのコンセンサスが必要ないから様々なリズムアプローチを仕掛けても仕掛けられても、柔軟な反射神経さえあればいかようにでも音楽に変化をもたらすことができる。約束事が少ないからその場の磁場に感応して楽曲そのものをインプロヴァイズ出来る。これはたのしい。単なるソロ合戦みたいなのをダラダラやってると、演る方も聴く方もツラい。インプロで延々と音で遊ぶのは好きなんだが、それよりもちゃんと構成なりコードなりが決まってる楽曲を即興でぶち壊すのは愉悦です。これはベースやキーボードと一緒だとなかなか出来ない。


 まとにかく飽きっぽくてすぐに音楽に変化を求めたがりの俺の性分にこれほど合うもんは無いわ。なんで今までこれやらんかったんだろう。まあリスナーフレンドリーな音楽では無くなってるのかもしれんけど、「聴きやすさ」よりもやってる側の「熱」とか「好奇心」とか「スリル」を重要視したほうが、俺の場合はなにか伝わるじゃねーか。勿論様式美を研磨していって一つの完成型を提示することのもの凄さを否定している訳じゃありません。
 ただ、ロックみたいな「古典的な芸術形式」を否定することを出自としてる音楽には、気分次第でポンポン変化していくくらいの軽佻浮薄さが似合ってんじゃないか思う。


 ドラマーの河野瞬とは長い付き合いで一緒にバンドやったこともある仲だが、一緒に音を出すのはかなりひさしぶりだ。柔軟性と俊敏さの塊みたいなドラマーで、こちらのテンションを上げることに関してはピカイチのプレイヤーだ。
 ちなみに今彼がやってるバンド「ターコイズ」のライブを観ながらこの文章を書いてる。華奢な身体に似合わずかなり肉食っつうか前のめりでパワフルなプレイをしておる。


 とにかく、14日はいいライブになると思う。いや、いいライブする!是非とも目撃しにきてほしい。俺らはトリなので21時くらいからです。


5月14日(水) 「言葉の降る丘」
open18:30 ・ start19:00 ・ ticket¥2000(ドリンク別)
出演:上野優太、泉和香、高瀬大介、


LIVE HOUSE 「真昼の月 夜の太陽」
〒169-0072・
東京都新宿区大久保2-6-16 平安ビル地下1階
TEL&FAX 03-6380-3260
HP http://mahiru-yoru.com/

アクト・オブ・キリングを観て

 前々から気になっていた映画「アクト・オブ・キリング」を観に行ってきた。


 これは1965年から1966年にかけてインドネシアで起こった100万人規模の共産主義者の大量虐殺事件に迫ったドキュメント映画だ。この事件はこれだけの大量虐殺であるにもかかわらずあまり知られていない史実だ。概要に関しては公式ホームページをみてもらいたいが、http://www.aok-movie.com/

とにかくこのドキュメントが画期的なのは被害者側ではなく、加害者側が語った虐殺事件の真相であるということ。
 しかも彼らは「国を滅ぼすコミュニストを排除する」という大義名分の元、正当な行為として大量虐殺を行い、そのおかげで未だに英雄視され、良い暮らしをしている立場の高い人間なので、実に誇らしく自らが行った殺戮の模様を語る。いかに自分達が残虐にコミュニストどもを殺したか、映画スター気取りで実演してみせる。


 そう、当初は監督のジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で被害者側を取材していたのだが、当局から被害者への接触を妨害され続行が不可能になり、だったらということで加害者側の彼等へ

「あなたが行った虐殺を、もう一度演じてみませんか?」


 という風に依頼したことからこのドキュメント映画が「本当の意味」でスタートしたのだ。
 なのでかつての虐殺者は生き生きと、自ら演出を加え、得意気に演技してみせる。
 中でも驚いたのは、かつて虐殺された共産主義者を身内に持った人間が映画のスタッフとして参加しており、その彼が目撃した虐殺の一部始終も「参考事項」として主演の加害者に聞かせ、「エピソードとして入れよう」とまで言われている。


 ここまでくるともういったいなにがどうなってんのかよく分からなくなってくる。
 なにが常識なのか?なにが悪なのか?平和な日本に暮らす我々にはとうてい想像もつかない複雑な政治的状況がインドネシアにはあるのだろうがそれにしても狂っている。



 監督のジョシュア・オッペンハイマーはその異常な情況を、実に冷徹に客観的に記録していく。
 ところどころ「罪悪感はなかったのか?」みたいな「こちら側」的な視点からの質問もするが、基本的には加害者たちが誇らしく、ディテールにこだわりながら、かつての虐殺の様子を演じる様子を淡々と記録していく。



 しかし次第にその「英雄」の一人の様子がおかしくなっていく。
 自らが行った虐殺を演じるうちに、自らの内部に封じ込めていた「罪悪感」が目覚め始める。
 自分が演じた姿をプレイバックで観るうちに、かつて自分が殺した人間がどんな気持ちで死んでいったかに思いを致していき、嗚咽がとまらなくなって苦しむ。カメラはその彼の姿を、近づきもせず、背けることもなく、冷徹に定点で「記録」し続ける。
 


 最後は自分がかつてよく「殺害現場」として利用していた場所で殺害の様子を話しているうち、またもや「吐瀉物の出ない嗚咽」でもがき苦しんだ後、言葉もなくフラフラと歩き出し、その建物から出て行くカットで映画は終わる。
 この間もカメラは彼に寄るわけでも引くわけでもなく、ただひたすら自らに芽生えた罪悪感にのたうちまわりおかしくなってしまった男を冷徹に「視ている」だけだ。
 その彼が出て行ったあとしばらくの間カメラはその出口を奥にした部屋を映したままフィックス。そして画面は暗くなり、音楽も流れず、雑踏のノイズがかすかに聞こえる中エンドロールが流れて終わり。


 この最後の数分間ほどこの映画の特性をあらわしたものはないと思った。
 罪悪感が芽生えたその虐殺者に対し、ああやっぱりこんなやつでも「こちら側」が思うところの常識や道徳観、倫理観があってよかったよかった、人間は捨てたもんじゃない。みたいな単純で図式化された結論を押し付けてくるわけではない。
 チラシに書いてあるような「悪の正体とは、悪とはなんなのか?」を投げかけてるだけとは思えないし「人間の本当の恐ろしさとは?」の問いに対する答えを提示してるとも思えない。


 「その後、彼がどうなったのかは知らない」という事実をポンと置いただけ。としか言いようがないほど、突き放した冷徹な距離感のまま、とりあえずの結末をむかえてしまったという感じだ。


 ハッキリいって見終わった後はちっともスッキリしないし、それどころか凄く気持ちが重くなって、なんか気分が悪くなった。


 しかしあの最後の数分間の描写は本当に、本当に凄い。
 特にエンドロールの部分。あそこには絶対に音楽を付けてはならなかった。あそここではいかなる音楽が付こうとも、監督の思惑以外の「意味」が生まれてしまう。あの単なるそのままの雑踏のノイズではならなかった。その必然性が痛いほど伝わってきた。


 そういえばエンドロールのスタッフ名のところにはAnonymous(匿名)と山ほどクレジットされていたのも驚きだった。もしこの映画に参加したことが特定されたら、おそらく当局からなにがしかの制裁が加えられるのだろう。
 そういえば監督のジョシュア・オッペンハイマーも、この映画を創った以上、長年住んだインドネシアにいたら身の安全は保障されないということで国外に脱出しているという。まさに身体を張った渾身の作品といえる。


 これは是非とも、是非とも観た方がいい映画だと思うのでこのような稚拙なレビューを書いてみた。

近況

 すっかりブログを書くのが億劫になってきているけど、色々とありましてね。



 以前からちょくちょくサポートでギターを弾いていたヒゲとボインに正式参加することになりまして、もういくつかライブをこなしたり、既存の曲だけど音源を作ったりと色々忙しくしておりました。


 近しい人からは「なんでまた人のバンドの、しかもヒゲボの正式メンバーに?」といわれ続けているけど、それなりのやりがいとそれなりの野望を描いてやっておるんで、すぐに成果が出るかどうかはともかく、徐々にヒゲとボインを違うステージにもっていけたらと目論んでいる次第。ヒゲとボイン用に曲も作ってるしね。ただただギターを弾くだけじゃないんですよ。



 とは言え、自分の活動も止めてしまうつもりは毛頭なく、4/15にはいつもの真昼の月 夜の太陽で弾き語りのライブをやることになっております。
 この日は対バンに山崎怠雅クンがいるので久しぶりに彼とのユニット「怠雅ース」をちょこっと復活させようかと考えております。
 あとサルパラダイスの唄ひ手であり友人のガジュマルこと古澤優子さんとコラボしようとも目論んでます。酔いどれシャンソンをタルタルのブルースにしてハモってみようかなと。


 あとこないだ作った新しいアルバムも持って行くんだけれど、抱き合わせっつうかオマケでつける企画盤も製作しようと画策中。なにになるかは言えないけどビートルズにちなんだナニかです。イリーガルくさいものになるので詳細は当日のMCでのみ明かそうかと。まあそんな勿体つけるようなもんでもねぇんだけどよ。

 なんやかんやと欲張りに企画してるんで是非とも4/15はきてほしーです。


 あと4/26はヒゲとボインのライブが真昼の月 夜の太陽であるのと、変わったところでは山崎怠雅バンドというけたたましい轟音を鳴らすハードロックバンドにギターで参加するという耳を塞ぎたくなるようなライブも予定してます。4/24。場所は今失念しているのでまた書きます。


 結構アクチブになってきてるんで興味がある向きはぜひ来てみてちょうだい。
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