かつて日本の一般市民が、これ程までに「ギャンブルをすること」の是非に関して論戦を交わしたことが有ろうか。私は今、猛烈に感動しているのですよ。

発端となったのは兵庫県小野市が、生活保護受給者に対する公的監視制度の条例案を上程するというニュース【参照】。小野市によれば、生活保護の不正受給はもとより、それをギャンブルで浪費したりする受給者の情報提供を市民に求める制度を設立するというものであります。この条例には、公的な「密告制度」と表現して差し支えない制度に対する「そもそも論」としての是非論はもとより、一方で生活保護受給者に保障された「健康で文化的な最低限度の生活」の中にギャンブル、もしくはそれに類するもの(遊技)が含まれるかどうかという別方面の論議を含んでおるワケです。

これに対して、ギャンブル業の専門家である私の立場でエントリを書き、皆様の意見を求めたところ、特に私のブログ記事が転載されている(いつも有難う御座います)BLOGOS側のコメント欄、リツイート等で様々な熱い意見が交わされておるところ。私、長い事ギャンブルの研究者をやっておりますが、ギャンブルの是非論に対してこれ程までに多様な立場からの意見が交わされたのを見たのは初めてです。


これに対して、まさに当のBLOGOSを運営するNHN Japanの執行役員たる田端信太郎氏は以下のようにコメントしております。



私は残念ながらサンデル先生のような崇高な政治哲学者ではなく、むしろここで言う「愚行」の究極総合体と言っても良いカジノ産業の研究者であり、残念ながら高尚なことは言えませんし、言うつもりもありません。ただ、「ギャンブルをする権利」を社会として認めるか否かという論争は田端氏のいう「愚行権とパターナリズム」に通ずる政治哲学論争であり、常にこの業界内では論争となるテーマであります。

愚行権とは、たとえ第三者、もしくは社会的に見て「愚かしい」と思われるような行為であっても、それが他者の権利侵害にあたらない限りにおいては、国民の基本的人権の一環として認められるべきであるという論。1800年代にJ.S.ミルの提唱した自由論と、強者が弱者に対する権利介入をしてでも弱者を(強者の考える)「正しき道」に誘導してゆくべきだというパターナリズムとの間の論争が、現代日本の身近な例として再現されたのが、まさにこのテーマと言ってよいでしょう。

特に今回の兵庫県小野市における条例論争に関しては、多くの読者が「税金で生活保護者を喰わせてやっている」という、パターナリズムにおける「強者」の立場にあると考えている部分もあり、一方の「弱者」たる受給者による、彼等が考えるところの「愚行」をどこまで容認すべきかという事で、多くの方々の琴線に触れたのではなかろうかと考えているところです。

私なりに皆様の意見をざっと眺めたところ、「生活保護受給者がギャンブルすることは禁じられても致しかたない」という意見が全体の7割から8割程度を占めているように見受けられます。「自分で稼いだお金を使うならばまだしも、皆が払った税金が生活保護受給者によってギャンブルに使われるのは社会的賛同を得られない」というのが多くの意見であるようですね。この主張は一理ありますし、私自身もどちらかというとそれに近いスタンスであります。

ただ、この理屈を突き詰めて行くと再び難しくなるのが、「では、具体的にどこまでの範囲を『愚行』として制限すべきなのか?」となると、なかなか客観的な価値軸が出てこないのですよ。ギャンブルやそれに類するモノ(遊技)を制限するのはひとまず良しとしたとしても、では同様に社会から「愚かしい」と考えられる可能性がある行為に対して同様の制限をかけるべきか否か。例えば、

タバコ/お酒/ゲームセンター/ソーシャルゲーム/性風俗/キャバクラ・ホストクラブ/ブランド品や宝飾品の購買/高級レストランでの食事/豪華な旅行

などなど、それこそ生活保護受給者が家庭でいつもよりもちょっと豪華な肉でステーキひとつ食べるのでも、人によっては「愚かしい行為」となるでしょう。その範囲をどこまで広げるべきなのかorべきでないのか?という論議は非常に難しいのですよ。そして、これを突き詰めて行くと、現在現実のモノとして政治の世界で検討も行なわれている生活保護費のフードスタンプ制導入への是非論などにも繋がってゆくわけです。

また、一方で「そもそも論」として「賭博自体を無くしてしまえ」という意見も一部の読者からはコメントとして出ておりまして、これはこれで生活保護に関連する事案とは別の「他者の愚行を認めるか否か」、特に「依存症等のリスクを抱える一部の弱者保護のために、その他大勢の市民の『愚行権』すらも制限すべきか」という別の愚行権論争となります。これを突き詰めて行くと、「我が国におけるカジノの合法化の是非」論にも繋がって行くわけで、これはこれで論議をぜひ深めて行きたいなと。。

この種の論争はそれこそ1800年代のJSミルの時代から脈々と続けてこられた政治倫理論争であり、そこに一朝一夕で答えが出るわけではないのですが、兵庫県小野市の条例案論争は皆さんにとって身近、かつ未だホットな話題ですので、引き続き皆様にはご意見を頂くと共に、各種論議にご参加していただければ幸いです。


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