公営賭博界隈からはこういう論が定期的に出てくるワケですが、その度ごとにその論をバッサリ切り捨てています。以下、Sportviaからの転載。


帯広へ向かう車窓から、ばんえい競馬の行く末に思いを馳せる
https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/keiba/keiba/2016/08/09/___split_47/

もともと木材などを「輓く」ための馬だった輓馬。開拓時代、人々が余興でその輓馬同士の「輓く」力を競い合ったのが、ばんえい競馬の始まりだと言われている。そういう意味では、輓馬は北海道の、開拓時代の名残を今に伝える、貴重な文化遺産でもあるわけだ。

しかし一方で、競馬は文化でありながら、経済行為でもあり、とりわけ地域経済の動向とは密接な関わりを持っている。しかも背景には、常に「所詮はギャンブル」といった白い目が光っている。だから、競馬が儲かっているうちは、その存在が問題になることはないが、売り上げが落ちて赤字がかさみ始めると、途端に「所詮はギャンブル」論が台頭。「廃止すべし」という声が大きくなる。

そして、その大きくなった声の前では、「いや、これは貴重な文化ですから」などといった主張は、ほとんど力を持たない。
 

競馬も含めて、各公営競技の文化的側面を否定するつもりはありません。ただ、このエッセイの著者も含めて勘違いをして頂いてはならないのは、賭博が原則的に禁じられている我が国において公営競技が「ただレースを実施する」だけの事業ではなく、そこに「賭け」を行うことが出来る賭博事業として認められている理由はそこから公的な財源が拠出されるという「社会的正当性」があるからに他なりません。


競馬法
(趣旨)
第一条  この法律は、馬の改良増殖その他畜産の振興に寄与するとともに、地方財政の改善を図るために行う競馬に関し規定するものとする。
 

これ即ち、「稼ぐ」ことこそが公営賭博の存立理由であり、逆に稼がない公営競技は「賭博」事業としての存在は許されていないということ。もし、競馬の「文化」側面をアピールしたいのならば、その他の多くのスポーツと同様に「競技を見せる」という純粋な興行として存続できる道を目指して頂くしかない。そのような根源的論議なきままに、競馬の文化側面だけを強調しようとするのは、身内の間では同意を得られようとも、社会一般的な広い支持を得ることは不可能であろうと思われます。