2005年03月26日

貧しかった生まれ

10数年続けている駅頭の太鼓



関連HP#1  「国際交流は子どもの時から.アジアの会」



関連HP#2 「国際交流は子どもの時から・アジアの会」



関連HP#3 「交際交流は子どもの時から・アジアの会」



関連HP#4 「スーホの白い馬」



関連HP#5「スーホの白い馬}−その2.貧しいモンゴルの子どもの教育援助です。



関連HP#6 モンゴル関係


2006年夏。小中学生がモンゴル3,000KMを馬で横断計画

関連HP#7 へんなおじさん、ゆめをかたる





今年(2005年)夏の交流大会参加しませんか???





関連HP#8 「アジアの会」の情報何でも



2002年、アメリカを自転車で横断。56日間





(1)生まれた環境(2005.3.26.)
私は、1943年8月7日、高知県中村市生の川(当時の人口約80人)の貧農に生まれた。5人兄弟と5人姉妹の10人。私は5番目だった。瓦製造業だった実家は、私が5歳頃、親戚でもある隣家の子どもの火遊びで全焼した。水を入れていた五右衛門風呂の釜が唯一残った。部落の人が建ててくれた丸太小屋で一家が生活をした。
敷布団無しは中学卒業まで続いた。芋が80%、米が20%の飯は、子どもの学校に作った弁当の残りは、「サツマイモ」だけだった。母親は、その芋だけを食べる毎日だった。冬の夕食準備のかまどの前で、空腹を抱えて足にまといついたノミを追っ払っていた。海軍から生きて帰ってきた父親が、小学校入学前夜に「名前が書けないと困る」と、私の手に父が手を添えて書き方を教えてくれた。今も、その暖かい手が懐かしい。

(続く)

(2)中筋小学校入学(2005.3.28.)
私は昭和25年春に仲間37名と小学校に入学した。木造校舎は明治時代に建てられた崩壊の恐れのあった二階建てだ。二階部分は中学校である。古い建物だったので、大きな丸太数本で校舎を支えていた。終戦直後だったので、仲間は皆貧しかった。私は3年生頃まで前の晩母が作ってくれたわらじをはいて通学した。わらじは雨降りにははけなかった。雨天時は裸足の通学だ。水にぬれた素足は砂利道の小石で足が痛かった。ゴムぞうりをはけるようになってありがたかった。片道3.5KMの徒歩通学は、通りかかった荷馬車に載せてもらったり、時たま走ってきたトラックにぶら下がったものだ。当時は車が少なかったので、通学中には砂利道の国道56号線に、小便で絵を描いたり、文字を書いた。帰宅は田んぼの中でフナやどじょうを捕りながらだ。 早く帰宅すると父母につかまり、家の仕事の手伝いが待っていたのだ。服やズボンは繕いだらけ、服の手首は鼻汁でかちかちだ。父母は冬の炭焼き、姉と兄の土方仕事の現金収入に頼った。私達兄弟姉妹は家が貧しかったが、家族で幸せな環境で育った。



(続く)

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Posted by takatakayt at 23:54Comments(0)TrackBack(0)自叙伝