2018年05月03日

ほんとうのこと

東京からすっかり人のいなくなったGWのある日のこと。


  

広尾と白金高輪のちょうど間に本社がある取引先との打ち合わせを終えた僕は、タクシーを拾うために明治通りに向かって歩いていた。


少し早目に時刻を設定している腕時計の針は18時10分を指している。


 
 
この日は18時半から千駄ヶ谷のレストランを予約しているから、急がなければ間に合わない。


大学時代の友人である大志と玲花が4月に入籍をしたので、3人でお祝いをするためだ。

僕ら3人は慶應で心理学を専攻していて、同じゼミに所属していた。
担当の望月教授は秋元康にそっくりで、僕らにとても熱心に指導してくれたことを本当に感謝している。




いつもなら3ヶ月前には予約するようなレストランだが、4月10日にだめもとで電話したら、普段は予約の電話など取らないのにオーナーの北嶋さんがたまたま出てくれて、「何とか席を用意するよ。」と言ってくれた。


僕は、「ありがとうございます!親友の結婚祝いなのでよろしくお願いします。食事はいつものおまかせのコースで。」と言って電話を切った。




 
思えば、北嶋さんとは10年以上の付き合いになる。

北嶋さんは当時、富ヶ谷の一軒家イタリアンでオーナーシェフをしていた。



僕は起業したばかりで、北嶋さんもホテルのレストランから独立したばかりで、10歳も僕が年下なのにとても気が合った。



お金がなく空腹だった僕に、いつも食べきれないくらいの料理を用意してくれた。

なかでも、北嶋さんの作るペペロンチーノが大好きだった。



料理が趣味の僕は、ペペロンチーノがどれほど難しい料理かを知っている。
チャーハン、ペペロンチーノ、だし巻き玉子など、シンプルな料理ほどごまかしがきかない。


にんにくと唐辛子だけでこんなに美味しいパスタを作れる北嶋さんは天才だと思ったし、絶対にレストランは大成功するだろうと思った。




北嶋さんはいつも帰り際に「お金は出世払いでいいよ。」と優しく笑ってくれた。


僕は、その優しさに甘えてばかりではいけないと思った。
早く会社を軌道に乗せて、「正規の料金で北嶋さんの料理を食べたい。」と心に誓った。



実際そうするまでに2年もかかった。

その時も取引先の担当者の結婚祝いか何かだった。




予約の電話を入れた僕は、「おまかせコースふたりで予約お願いします。これからは正規の料金で食事させて頂きます!」と言った。


「それは嬉しいけど、うちの店はドリンク別で1人20,000円だけど、いいの?」と北嶋さんは少し驚いたような声で言った。


僕は、「大丈夫です!」と心から言った。
少しだけ誇らしい気分になった。


2009年が終わろうとしていた。





2014年、北嶋さんのレストランはミシュランの星を獲得した。

いまや、富ヶ谷・千駄ヶ谷・代々木上原・外苑前に4店舗を展開するまでになった。




あらから僕は北嶋さんに負けないぐらいの努力をしてきただろうか。

自信を持てない自分がいた。




北嶋さんとの思い出を振り返っていると、タクシーはあっという間に千駄ヶ谷に着いた。
18時半を少し過ぎていたので急いで扉を開けると、奥の席で友人夫婦が楽しそうに笑っている。



窓際の一番いい席を用意してくれていた。
心の中で「北嶋さん、ありがとうございます。」と呟いた。




「ごめんごめん、打ち合わせが伸びちゃって。」と少し言い訳をして席に着いた。

急いで来たために、喉が乾いて仕方がない。




ソムリエの小酒井さんがオススメしてくれた赤のボトルと、僕用にイタリアのクラフトビールをオーダーした。



ドリンクが運ばれてきたので、「結婚おめでとう!!お幸せに!!乾杯!!」と言った瞬間に僕のビールはほとんど空っぽになっていた。


次にワインを口に含んだ僕は、「それにしても大志と玲花が結婚するなんて驚いたなー!学生時代だったら絶対付き合ってないでしょ?」と二人をからかった。



確かに大志と玲花は学生時代から仲が良く、二人で大学の図書館や学食にいる姿を僕も何度も目撃していたのだけれど、お互いに異性として見ている雰囲気はまったくなかった。

実際、交際が始まったのはつい半年前で、半年で入籍まで進んだスピード婚なのだ。



「まぁでも学生時代からの仲だから、お互いのことよく知ってるし、そんなスピード婚でもないか。」僕は適当なことを言ってみた。




酒の弱い大志はすでに顔が赤い。
それに対して酒の強い玲花は、そんな大志を微笑ましく眺めている。



二人が夫婦か。

僕はいまだにそのことが信じられないでいる。




「それでさー、オマエは一体いつ結婚するんだよ?てか、独り暮らし寂しくないの??」




赤ら顔の大志の眼は、こちらを真っ直ぐに見つめていた。

 

そういう類の質問には、「そのうちね。」とか「いい人がいたらね。」とか言って流してきたのだけれど、なぜか今日だけはその質問に真剣に答えようと思った。




窓からは代々木のドコモタワーがキラキラといつも以上に光って見えた。



2018年5月。

もうすぐ僕は36歳になろうとしていた。



〜続く〜


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2018年02月08日

第3章:濁った月の下で

第1章は、コチラから
第2章は、コチラから


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あれから4ヶ月して、マナミから披露宴の招待状が届いた。




会場は、やっぱりあのホテルだった。


その24階のバーで僕らがいつもじゃれあったホテル。





招待状には、彼女特有の縦長の字で「ごめんね。」とだけ書かれていた。

慶事には似つかわしくないその言葉が、僕をより一層困惑させた。




僕は行く気もないのに、「出席」に丸をつけた。



結婚おめでとう。当日楽しみにしています。


思ってもいないのに 、使い慣れたウォーターマンの萬年筆で力強くそう書いた。





僕は当然のように披露宴に行かなかった。



それが僕なりの小さな反抗だった。

それが僕なりの微細な意思表示だった。





マナミの披露宴当日、僕は椿山荘で行われた従業員の倉田君の披露宴に参加していた。



倉田君は明治大学3年生だった2010年12月にバイトでうちの会社に来て、そのまま社員になってくれた「新卒第一号」だ。




僕は乾杯の挨拶をさせて頂いた後、当時のことを思い出してひとり咽び泣いていたので、うちの社員が面白がって、その情けない姿を写真に納めた。




ひとりの学生が就職して、家庭を持つところまで見届けることができた。


我が社員ながら倉田君は大きく立派に成長した。




僕は倉田君と同じように成長しただろうか。


起業して11年目になっていた。



何を得て何を失っただろうか。

そもそも得たものなんてあっただろうか。

失ったものしかないような気さえした。





倉田君の披露宴が終わって会場を出る途中、心の奥でとひとり呟いた。




マナミ、結婚おめでとう。
出席しなくてごめん。







それからも相変わらず、日々の予定は仕事で塗り潰されていた。

新規事業の企画、既存事業の改善、採用面接、クライアントとの会食。





同年代の友人が結婚をし子育てをしている中で、僕はいつも仕事に没頭し、どこかの山奥に弾き出されたように感じることがあった。

それとは引き換えに、仕事は順調で大きな案件が次から次へと舞い込んだ。






気がつけばマナミと会わなくなって6年が経って、僕は35歳になっていた。




その間、僕から連絡することも、彼女から連絡してくることもなかった。

だからといって、彼女のことを全く思い出さなかったわけではない。



誕生日、クリスマス、お正月。

事あるごとに思い出した。





彼女には彼女の生活があり、僕には僕の生活がある。



この6年間それぞれの人生が交わることがなかった。

ただそれだけのこと。





時の経過は、環境を変え、状況を変え、遂には人間それ自体を変えてしまうことがある。

僕はそのことに鬼胎を抱き続けた。






先日、東京に大雪が降った次の日のこと。




買い替えたばかりのスマホのショートメールに1通のメッセージが届いていた。

普段ショートメールなど全く利用しないので、日付を確認すると4日も前に届いたものだった。




「愛美です、岸田愛美。
1月23日、天現寺交差点近くのあのカフェにいます。
20時半に待っています。」




そのメッセージを見たのは、まさに当日の15時過ぎだった。



その日は、目黒の広島焼き屋でインターンの学生の誕生日会をやる予定だったのだが、主役の学生がインフルエンザのために急遽キャンセルになり、僕は久しぶりに早目に帰宅するつもりだった。



僕の予定も一切聞かず、自分の用件も書かずに、「天現寺」という恵比寿からも白金からも広尾からも遠いその場所を指定するのは世界中に彼女しかいない。


僕は失笑するしかなかった。




天現寺。



そこはこじんまりしたきれいなレストランが多く、どの駅からも遠いため団体客なども皆無で、ゆっくりと食事するには最適な場所だ。


僕がまだ恵比寿に住んでいた頃、マナミを連れ出して散歩がてらよく歩いたのだ。





ふたりで行った天現寺のカフェと言えば、あの店しかない。

僕はひとつのイタリアンカフェを思い浮かべた。





19時には粗方仕事は終わっていたのだが、天現寺に行くにはまだ早いので、書類を整理したり、デスクの引き出しを片付けたりしてふわふわと時間を過ごした。



時間の余裕もあったので、歩いて行くことにした。

恵比寿のオフィスから早足で歩けば、20分ぐらいだろう。



20時すこし前に帰る準備をした。





普段なら18時半には全員帰宅しているのに、広報の田中さんだけが残業していた。
プレスリリースの準備が残っているらしい。



僕は田中さんに「お疲れさま。そろそろ帰りなよ。」と言ってオフィスを出た。





1Fのエントランスを出ると、寒風が鼻孔を通り抜け、ツーンとする。

と同時に背筋が伸びる。



僕は真冬の夜の張りつめたこの空気が大好きだ。

汚いものがこの空気で全て吹き飛ばされるような感覚になるからだ。





歩き始めたものの、ところどころ前日の雪が残っていて歩きにくい。





JR恵比寿駅の西口改札を横切り、東に進み、渋谷川を渡って、明治通りをまた東に進む。

何度も通い慣れたその道は、グーグルマップが導き出す最短経路よりさらに早い道だ。




思いの外寒いので、自然といつもより早足になって、20時20分にはカフェに着いた。


外から見る限り、店内には誰もいないように見えたが、体を温めたくて、急いで扉を開けた。





入って左奥のいつもの席に目をやると、縋るような目をした彼女がいた。

あの日の銀座のできごと以来、6年ぶりに見る彼女は少し痩せたように感じた。




僕は、ここのバリスタ兼オーナーの阿部さんにマキアートを注文して、席に着いた。





彼女の黒曜石のようになめらかな黒目を見て、どうした急に?と言った。



東京に戻ってきたの、今月から。



彼女はヒロアキと結婚したタイミングで、お互いの地元の大阪に戻って生活していたはずだった。





結婚式来てくれたなったよね?

まあ、もうどっちでもいいけど。




私、ヒロアキと離婚したから。

それで戻ってきたの、東京に。





彼女は僕の反応を試すようにこちらを見続ける。




そして、僕が何かを示そうとするよりも早く、彼女は話し続けた。

まるでふたりの間に6年の空白などなかったように。






私、ヒロアキの子供をほしいとは思わなかったの


彼は最初から最後まで優しかった。

料理も作ってくれるし、他の家事も分担してくれた。

何も不満はなかった。



ただね。


ヒロアキの子供をほしいとは思わなかったの。
ヒロアキの子供を産んだり育てたりする自分が想像つかなかった。



最初はそれとなく子供を作るのを拒んでた。

それもだんだん申し訳なく感じるようになって、途中から隠れてピルを飲み出したわ。



ヒドイよね私って。




でも、私達もうすぐ36歳じゃない?

子供は絶対に欲しいから、ラストチャンスだと思って、離婚を切り出したの。






ぼくは、それが彼女だと思った




いつも僕の前にするりと現れては、その度に僕の心を引っ掻き回していく。

35年間ずっとそうなのだ。





たけちゃんは元気だった?


それにしても、エリナと結納までしておいて結婚しないなんて、私と同じぐらいヒドイことするよね。




あのとき本当に落ち込んでいたよ。

心配だったから、大阪から出てきてエリナの家に何回も行ったよ。



お母さんも結構ね。。。


お母さんいつも明るいのに、元気なくて心配した。

お父さんもすごい怒ってたよ。





エリナというのは、マナミの短大時代の親友で、僕の元婚約者であった女性だ。

マナミの紹介で大学生の頃に知り合った。



僕らはいつしかふたりだけで会うようになり、いつしか一緒に住むようになった。

そんな2人が結婚するのは自然のなりゆきだった。

しかし僕は、結納をして入籍する10日前に突然に別れを告げたのだ。




エリナには申し訳ないことをしたと思ってるよ。

彼女に問題があったわけでも、嫌いになったわけでもない。


ただ、どうしても結婚というものに希望を、未来を描けなかったんだ。




そっかー。
でも今じゃエリナも双子のママだし幸せそうにやってるよ。




それにね、まぁ今だから言えるけど、たけちゃんと結婚するってエリナから聞いた時、すごく驚いた。


もちろん自分の親友と幼馴染みが結婚することは、すごく嬉しかった。

けど、なんか違和感があったの。


2人が夫婦になるってことに。




うーん、言葉ではうまく言い表せないかなぁ。

あのまま結婚していても、離婚してたかもしれないんじゃない?


私のちょっとした勘だけど。






ヒロアキの子供をほしいとは思えなくて離婚したマナミ。

結婚に希望を持てずに直前で撤回した僕。




未来を信じることができなかったというただ1点において2人は同罪であり、その罪で等しく裁かれるべきだ。


その罪がふたりだけの秘め事のように妙な連帯感を産むだろうとも思った。






店内の木製時計は22時を過ぎていた。


本来の閉店時間を過ぎているのに僕らをソッとしておいてくれた阿部さんに「ありがとうございました。」と言って店を出た。





僕らは外苑西通りと渋谷川が交差するあたりでタクシーを拾って、ふたり乗り込んだ。


鈍色の空には濁った月が不気味に浮かんでいた。

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2018年02月03日

日常のいろどり

一冊の小説

一杯のエスプレッソ

一人の笑顔

一通の手紙

一輪の花

一匹の犬

 
 
 

僕の人生を豊かにしてくれるものは、そんなごくありふれたもの。

特別なものは何もいらない。


 

日常の大切さに気づいたのは、30歳を前にしたぐらいから。
 


両肺が破裂して手術後にICUに入れられて、3,11があって、父が認知症になって、色んなことが同じような時期に重なって、少しずつ僕は価値観を変えていった。

 
自然に変わったのではなく、僕自身が望んで変えた。





20代のころ野心家だった僕は、いつしか高望みをしないようになった。



夢や希望を失ったわけでは決してない。

漠然とした未来をぼんやり見るのではなく、ここにある今日一日を確実に見て生きるように変わっただけだ。





明日は明日の風が吹くという。


ならば、明日のことは明日起きてから考えればいい。


雨が降ったら少し大きめの傘を持って、寒くなったらお気に入りのコートを着ればいい。



 
生きるとは日常を楽しむこと。

人生はその積み重ね。




たくさんの日常に、たくさんの彩りを見出せるように。



僕はそれだけを願っている。








take19821 at 19:59|PermalinkComments(0) つれづれ 

2017年07月20日

起業10周年を迎えるにあたって

ちょうど10年前の2007年7月20日。


新卒で入社した会社を1年3ヶ月で退職した日です。



 
次の日から渋谷のオフィスで事業を開始しました。

道玄坂の猥雑なエリアにある、家賃たった10万円のドブネズミの巣窟みたいなオフィスでした。

 

 
必死で未来を掴もうとしたあの頃。 

あの頃にはもう二度と戻れないし、戻りたくもありません。
 
 
 
あの日から3,652日が過ぎました。
 
この間に、多くの友は結婚し、子供を育て、仕事とは別の価値観に幸せを見つけたようにも思います。

 
僕はといえば、あの日から今までずっと仕事に固執し、しがみつき、もがき、葛藤し、今日の日を迎えました。
 


ちょうど10年を迎えて改めて去来するのは、「うまく事業をやってこれた10年だった。」という満足する思いと、「もっとうまくやれたんじゃないか?」という背反するふたつの思いです。
  
   
 

今僕のいる場所が10年前に自分が望んだものであったか?と問われれば、イエスとは言い切れない部分もあります。

 

けれども、この10年で得た人脈と経験と資金で、これからどんなことにだってチャレンジできる。
 
 
それが今の僕の自信であり、誇りでもあります。

多くのもの(者)を犠牲にもしたけれど、最もほしかった自由を手にしたからです。

 

  
明日から11年目が始まります。

これからも、奢ることなく、楽観も悲観もせずに、1日1日を、1秒1秒を大切に生きていきます。
20年、30年と続くようにと、願いを込めて。





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2017年06月12日

別れの日

雨上がりの日曜日。
 



 
いや、正確には霧雨のような細かい雨が降っているように見える。

だが、さっきまでの土砂降りの雨は、嘘のようおさまっている


 
この程度の雨なら歩いて行けるか。

マンションのバルコニーから、東の空を見てそう思う。


 
 
そろそろ出かける支度をしないと間に合わない。


 

午前11時20分。

待ち合わせの時間まで、あと40分しかない。


 
家から約束のカフェまで歩いて25分はかかる。

 
急いで準備をする。



 

淡いピンクのシャツ、黒のパンツに着替えて、左腕にお気に入りの時計をつける。

この時計をつけないと、なんだか落ち着かない。
僕にとって、腕時計はお守りのようなものだ。


 
ミステリーランチのリュックにあれを詰め込み、僕は慌てて家を出る。

 
 


11時38分。
 


早足で行けば、なんとか12時には間に合うだろう。
 


 
霧雨に目を顰めながら、富ヶ谷のカフェを目指す。

 
 
別れ話をするために。

渡したマンションの合鍵を返してもらうために。
僕の家に残された荷物を返すために。

 

 

いずれにしたって今日は楽しい話をするわけじゃないのだ。

だから、僕の足取りは重く、気もまたそれ以上に重い。

 


けれど、モヤモヤしたままでは次に進めない。

その思いだけが、僕の足を前に進ませる。



 
 
5分も歩くと、霧雨がやみ、雲の切れ間から少しだけ青い空が見える。
 

  
95%の雲と、5%の青い空。

その割合は、まるで僕の心を表しているようで、ひとりで苦笑してしまう。
 
 


 
今日はどんな話になるのだろう。

何を言われるのだろう。

僕はそれに対して何を思うのだろう。

何を言うのだろう。
 


 
いやいや、まず第一声、何から切り出せば良いのだろう。

  


「久しぶり!」か?
「元気にしてた?」か?



  
どちらも間抜けな気がする。
 
  
 
ひとつひとつのことが頭をぐるぐると駆け巡り、考えるのが面倒になる。

 
赤信号の横断歩道を渡りそうになり、黒のプリウスにクラクションを鳴らされる。

 
 
 
カフェに着いたのが11時58分。


 
代々木公園駅のほど近く。

古民家を改装したそのカフェは、地元の人でなければ絶対に入ることのない私道の奥深くに悠然と建っている。

 
 
30席ほどある店内は、ペットを連れたカップル、子供連れの家族で満席に近い。

みんなご近所さん達だろう。

 

 

富ヶ谷、代々木公園、代々木上原。


このあたりは僕のいつもの散歩コースで、オシャレな雑貨屋・有名なケーキ屋・オープンテラスのカフェが至る所にあり、歩くだけでも楽しいエリアだ。


 
あぁ、でも今日は楽しい話をしに来たわけじゃない。
 
 



「お客様は何名様でしょうか?」


福原愛ちゃんに似た店員が僕に言う。
 

 
 
「あとでもうひとり来るので2名です。」

僕は何食わぬ顔でそう答える。

 

 
奥のテーブル席に案内される。
 
  


隣のテーブルではOLらしき人たちが女子会をしている。
誰かの誕生日らしく、ケーキの上にローソクが立っている。

 
楽しそうな日曜日。

誰にでもある、どこにでもある幸せな風景。
 
 

 
こっちは、今から楽しくない話が始まるんだから。

心の中でそうつぶやく。
 
 


 
彼女が来るまで、村上龍の小説の続きでも読もう。

ハードカバーを開けた瞬間に、僕の前を人影が通る。

 



ハードカバーを閉じる。
リュックに入れる。
鼓動が早くなる。
唇が急に乾く。

 



僕が言った第一声は、「久しぶり!」でも「元気にしてた?」でもなく、「お店の場所分かった?」だった。


彼女は「全然分からなくて迷ったよ!」と言った。


 
無理もない。
このカフェに迷わず来れる人なんて皆無だろう。
 

僕は、こんな日に敢えてこの店を選んだのだ。

 
 
それからのことはここでは書かないことにしよう。

 
 
食事と別れ話を終え、店を出たのが15時半。

 

  
カフェの前の交差点で、マンションの鍵を返してもらった。
僕は彼女が残した荷物を返した。

 
これで全てが終わった。

  
 


切なさも悲しさも寂しさもあるけれど、彼女のことでもう頭を悩ませる必要がないのだと思ったら、ホッとした。
 
 

これから渋谷に行くという彼女は、井の頭通りを渋谷方面に歩いて行った。

 
僕はその背中を見送った。
 
 
 


いつもなら、振り向いて手を振ってくれるのに、今日は振り返らない。

それが彼女なりのやさしさだと、僕はそう受け取った。
 
 


    
今日のことも、いつかきっと良い思い出になるだろう。

今日のことも、いつかきっと笑って話せるだろう。
 


 
その日までさようなら。


元気でね。






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2017年04月28日

踏切近くのカフェで。

 
 
「あー、今日はホント疲れたー。忙しくて休憩もとれなかったね。」

「オレも。昼から何にも食べてねーよ。」

「お腹すいたから、何か食べて帰ろうか?」

「そうだな。」




2001年の蒸し暑い7月の夜のこと。

自由が丘の駅前でそんな会話がたしかにあった。



当時大学1年生だった僕は、入学早々に大学に嫌気が差し、バイト中心の生活を送っていた。


バイト先は、自由が丘にあるカフェでのオープニングスタッフだ。

そこは、オーガニック野菜を中心とした料理が自慢で、オープン当初こそ客足は伸びなかったが、オシャレタウン自由が丘にあったせいですぐに人気になり、連日たくさんのお客さんで賑わっていた。


そこで同じオープニングスタッフとして出会ったのが、宮村奈緒だった。




顔は可愛いのに、何か陰があるヤツだなー。

友達になれなそう。


それが僕の第一印象。



オープン前の研修で僕と奈緒は同じチームになることが多くて、第一印象とは裏腹に、少しづつ仲良くなっていった。
研修が終わり、お店がオープンすると、奈緒は朝の8時〜16時のシフトが中心で、僕は15時〜22時のシフトが中心だったので、あまり一緒に仕事をすることはなかった。


けれど、その日は本来15時からシフトに入るはずのフリーターの倉沢さんが風邪を引いてしまい奈緒と入れ替わったので、二人とも15時〜22時のシフトになった。

そして、帰りがけに一緒にゴハンを食べることになった。




「この辺で、どこかいい店ある?」

「任せてよ、ワタシ自由が丘育ちなんだから。」





僕は当時奥沢6丁目の古アパートに住んでいたのだけれど、奈緒は奥沢3丁目の大豪邸に住んでいた。
父親が不動産会社を経営し、母親が化粧品会社を経営する、正真正銘の金持ちだった。


そんなお嬢様が、なぜ時給1,000円のカフェでバイトなんかしているのか。

そんなことを思ったけれど、本人に聞いたことはなかった。




奈緒が案内するとおり僕は後ろを付いていき、マリクレール通りの裏にある小綺麗な焼き鳥屋に入った。

カウンター席に座った僕らは、串を何本かと、若者らしくカシスソーダを2つ注文した。



「おつかれー!」



グラスを重ねて、そのカシスソーダを一気に飲み干した。
疲れた体に炭酸が一気に染み渡って、宙に浮いているような気分になった。


「ぷはー、お酒おいしい!」


それから串を食べ、どうでもいいくだらない話をたくさんした。



「奈緒は明日朝からシフトだろ?そろそろ帰るか。」

僕がそう言った瞬間、彼女はその細い腕にはめた時計を見ようと、シャツの袖を少し上げた。



「あっ」


僕はなんて言ったか覚えていないけれど、何かしらの声を出してしまったから、赤ら顔の奈緒と目が合った。



「あ、これ?やっぱり気になるよね?ワタシ、リストカットする癖があるの。でも何か悩んでるわけじゃないから、気にしないで。」



「そっか」

僕はそんな気のない答えしかできなかった。



店を出て、東横線の踏切の近くで、僕らは「おやすみ」と言って別れた。

家に着いても、彼女の腕の傷が頭から離れなかった。




それからもバイト中心の日々は続いた。
奈緒とも一緒のシフトに入ることもあったりしたけれど、あれ以来バイト先以外で会うことはなかった。




2001年も終わろうとしていた12月下旬の冷え込んだ日。
その日は給料日だったので、気分良くバイト先に向かった。


階段を登ってスタッフルームに入ろうとした時、オーナーの加藤社長に呼び止められた。



加藤社長は、30代中盤の女性経営者でありながら、都内で多数の飲食店を経営しており、たびたびメディアにも取り上げられていた人物だった。

気性が激しく、女性従業員には極めて厳しく、男性従業員には優しいという極端な性格で、奈緒はいつも加藤社長の悪口を言っていたが、僕自身は悪い印象を持ったことはなかった。




「社長お久しぶりです!」

呼び止められた僕は何の気なしにそんなことを言った。



「話があるので、着替えが終わったら、私の所にちょっと来てください。」

「分かりました。」




急いで着替えをして、1階にいた社長のところに戻った。


「宮村さんが昨日亡くなりました。自宅の3階から転落したそうです。事故なのか自殺なのかまだ分かっていません。他の従業員の人には言っていませんが、あなたは宮村さんと親しかったので、伝えておきます。」



そのまま僕は何も言えずに、タイムカードを切って、仕事に入った。

仕事が手につかず、笑顔で接客などできそうになかったので、ずっと掃除や皿洗いをしていた。


帰りたくて仕方がなかった。
喚きたかった、叫びたかった、泣きたかった。



引っかかることがあったからだ。

その1週間前の季節外れの雨の夜。


彼女が泣きながら電話してきたことがあったのだ。


タイミング悪く電車に乗っていた僕は、ゆっくりと話を聞いてやることができなかった。



「あした、奈緒もシフト入ってるよな?その話、あした詳しく聞くわ。バイト終わりで前に行った焼き鳥屋行こうよ!」

「そうだね。」



そう言って電話を切った。
それが最後の会話だった。



次の日。


普段、欠勤などしない彼女がバイト先に現れなかった。
その日は彼女の年内最終出勤日だったはずだ。

年末年始は母方の故郷の金沢でゆっくりすると聞いていた。



あの電話。
そして欠勤。


不可解なことが多くて少し心配ではあったけれど、実家暮らしだから両親がついていると自分を納得させていた。

それが後悔の始まりだとは思わなかった。



あれから16年が経った。




結局、彼女の死は、酒に酔ったことによる不注意での転落死とされた。

でもそれは違うと思う。

彼女がなぜ死んだのか、僕には今も分からない。



リストカットの跡。
涙の電話。


それは彼女なりのSOSだったのかもしれない。



もし、あの雨の日、電話をゆっくりと聞いてあげていれば。
もし、欠勤した日に彼女の家に直接行って、顔を見て話をしていれば。
もし、リストカットの理由を、もっと踏み込んでいれば。

たくさんの「もし」が僕を責め続ける。



もしそうすれば、彼女は死ななかったかもしれないからだ。

そんな思いはいまだに消えない。



彼女が死んだあとも、僕はその店を続けた。
結局、大学を卒業するまでお世話になった。

当初20名いたオープニングスタッフは、最後は僕だけになった。


加藤社長には、「あなた、卒業したらうちの本部で社員にならない?」と誘って頂いたが、僕は営業がしたかったので、就活をして別の企業に就職した。




そのカフェは今も自由が丘にある。

僕が客としてその店に入ることはないだろう。


自由が丘には、たまに行ったりするけど、遠くからそっと覗くぐらいだ。
いつもの場所に、いつもの店がある。


中に入らなくても、僕にはそれで十分だ。


言い切れぬ想いを抱えて僕はその場を静かに離れる。
そして別のカフェに入る。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


人はみな、心のなかにたくさんの傷を抱えて生きている。
言える(癒える)傷もあれば、言えない(癒えない)傷もある。
それは僕自身だってそうだ。

心の傷は決して外からは見えないけれど、その傷を感じ、寄り添える人間でいたい。

そしてそのことで、一人でも誰かの気持ちが楽になればいいと思う。


その時の僕は彼女の傷には寄り添えなかった。

「若かったから」というのは言い訳にしかならないだろう。


あれから16年。

僕は成長しただろうか。


深夜の山手通りをひとり歩きながら、そんなことを考えていた。






take19821 at 12:04|Permalink

2012年10月17日

第2章:思い出

第1章は、コチラから

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翌朝。


昨晩からの頭痛の激しい痛みで、僕は目が覚めた。



「今日の降水確率は30%で、夜は一気に涼しくなります。」

「今日の運勢1位は、ふたご座です。」



つけっぱなしのままのテレビからはいつもと同じアナウンサーが話すいつもと同じ情報が流れていた。



でも、今日の天気も今日の運勢も、その時の僕にはどうでもよかった。


テレビの横にある置き時計で時間を確認すると、まだ7時。




この時計は、学生時代に二人でイタリアに行った時、フィレンツエのサンタ・マリア・デル・フィオーレ近くの古びた雑貨屋で買ったものだ。



当時の僕には、同じ学部で一つ年上の彼女がいて、マナミにも外資系銀行に勤める彼氏がいた。


そんな二人が、なぜ一緒にイタリアまで行ったのか今となってはもう思い出すことができない。



恐らく、その前年に友人とイタリア旅行をした僕が、何の気なくその旅行話をして、マナミが「私も、イタリア行きたい!」なんて言い出したんだろう。



僕は、学園祭で大学の授業がない期間を利用して、イタリアに行った。



ローマの荘厳なコロッセオ
ミラノでのショッピング。
フィレンツェの美しい街並。
ポンペイの遺跡。
ナポリのピザ。
カプリ島の海の青さ
美味しいパスタにティラミスにジェラート。




前年に友人とも行った所がほとんどだったけれど、
マナミと二人で見た景色は、
その時とはまた別の楽しさを、僕に与えてくれて、
6日間がアッという間に過ぎたことを今でもよく覚えている。




あの頃は、二人とも、今と違い日々の仕事に忙殺されることもなく、時間なんて気にしていなかった。


それなのに、なんでこんな何の特徴もない置き時計を買ったんだろう。


そんなことを少し思った。





昨日は、シャワーも浴びずにすぐに寝たから、恐らく23時半頃だった。

7時間半も寝れば十分だったし、普段は二度寝などめったにしないのに、昨晩の出来事を思い出すのが嫌だった僕はずっと眠り続けたいと思った。



次、寝て起きたら、昨日のことなどすっかり忘れてるんじゃないか。


そんな馬鹿なことを期待していた。




ベッドに戻って寝ようとした頃、ケータイのアラームが鳴った。

普段起きている、7時15分を告げるアラームだ。



今日は、土曜日だからこんな時間に起きる必要はない。

そう思いながら、アラームを止めようとした時、「受信メール1件」というのが目に入った。




差出人は、岸田愛美。


僕はそのメールを、読まずに削除した。



今まで、マナミが僕のメールに返信をしないことはあっても、僕が返信をしないことはなかった。



メールを削除する時「あと2、3分で、ロビー行きまーす♪」という、昨日のメールが見えた。



あぁ、会ったのはまだ昨日のことか。

二人で銀座の中華料理店に行ったことがはるか昔のように思われた。



そして、二人で食事をするのが昨日で最後になるなんて、その時はまだ分からなかった。




思えば、僕らのやり取りは、お互いがケータイを持ち始めた中3の頃からずっとメールだった。



あれからもう15年。

毎日1通のメールでも、15年で5,000通ものメールになる




そんなにたくさんのメールを、いったい僕らはどんなやり取りをしたのだろうか。




「ハッピーニューイヤー。今年もよろしく。」

「誕生日おめでとう」

「卒業おめでとう」

「彼氏(彼女)できたよ!」

「今日は、台風がスゴイね。」

「渋谷にもういるんで、着いたら連絡して下さい。」




僕らは、多分そんなありふれたメールを送り合ったのだろう。



僕の誕生日もお正月も毎年12時ピッタリに送ってきたのは、マナミだった。

今まで使ってきたどの携帯電話にも、「岸田愛美」というフォルダがあった。



5,000通。


今までそんなこと考えたこともなかったが、確かに相当な数だと思った。




僕はとりあえずまたベッドに入って目を閉じた。



その時、僕はこんなことを思い出してしまった。



「人は接触する回数が増えれば増えるほど、その人やモノに好意を持ちます。
これを、”単純接触効果”と言います」 



慶應の文学部で、「心理学」を専攻していた僕は、秋元康にそっくりの担当の望月教授が、一番初めの講義でをこんなことを言っていた。



その時は、「ふーん。」としか思っていなかったのに、なんで今頃思い出してしまったんだろうか。


一番思い出したくないタイミングで、一番思い出してはいけないことを思い出した気がした。




30年の付き合い。

5,000通のメール。

東京での毎月の食事。

イタリア旅行。




「・・・・・・・」



僕は、何も考えたくなくて必死でまた眠ろうとした。



第3章へ続く〜





take19821 at 19:56|Permalink

2012年09月20日

第1章:誰にも踏み込めない領域

「来週の火曜から、また東京出張だから(^_^)
 今回は2泊の予定!
 ホテルはいつものとこだから、よろしくねー♪」




僕のケータイには、あの日まで、こんな内容のメールが定期的に送られてきた。


僕はそれに対して、いつも決まったように、「了解!」とだけ返信する。



そんなやり取りを、この1年半、毎月のように続けていた。



そのやり取りの相手は、マナミ。

僕の幼なじみだ。




お互いの母親どうしが親友で、ほとんど同じ時期に、それも同じ病院で生まれた。


家も近所だったし、親どうしが本当に仲が良かったから、小さい頃は何をするにも一緒で、ほぼ毎日会っていた。



親以外の、僕の人間関係で、彼女は間違いなく一番古い付き合いだった。




僕らは、同じ小・中学校で、高校は別々だったけれど、僕は慶應へ、彼女は青山短大に進学するため、一緒に大阪から上京した。


東京では、月に1、2回、渋谷で会って、学校のこと、バイトのこと、将来のこと、恋愛のこと、大学生が当たり前にするような、そんな話をした。




「私、30歳までには絶対結婚したいわ。」

「オマエはモテるから、大丈夫でしょ!」



こんな会話が、毎回のようにあった。






彼女は、短大卒業後、一旦は大手建設会社でOLをしていたのだけれど、短大時代に読者モデルをしていたせいもあって、出版社への憧れが強く、その後東京の出版社に転職した。


1年半前から、地元である大阪の支社に転勤になっていたが、3〜4週間に1度のペースで、東京での取材やら本社での会議があるようで、その度に冒頭のようなメールを僕に送ってきた。




東京出張の際はいつも日比谷にある外資系ホテルに泊まっており、僕らは20時頃にホテルのロビーで待ち合わせて、丸の内や銀座まで歩いて、適当に見つけた店で食事し、ホテルの24階にあるバーで、閉店まで飲む。

彼女は、ホテルの部屋に戻り、僕は恵比寿の自宅に戻る。



そんな決まりきったことを、この1年半何回も繰り返していた。




ただ、僕のことを誰よりも知る彼女との時間は、そんな決まりきったことでも僕にはリラックスできる時間でもあった。


いや、むしろ。

そこに「新しい何か」があるわけではなく、「決まりきったこと」だったから、余計なことを考えずにリラックスできたのかもしれない。



今回もまた、そんな決まりきったことをするつもりで、僕は日比谷に向かっていた。




この日も僕らはお互いの仕事の話なんかをしながら、例によって銀座まで歩き、フカヒレが有名だと「hanako」か何かの雑誌に載っていた入り口のわかりづらい中華料理店に入った。



いつもなら予約をしないと入れない店のようだったが、前に1組キャンセルになったとのことで、僕らを奥の半個室のような席に案内してくれた。


「あなた達、運がいいわね」と、片平なぎさ似の女性に言われた。

「タイミングが良かったです!」と、僕は適当に返事をした。





僕らはたわいのない話をして、注文した料理が来るのを待った。


もう30年近い付き合いになる僕らは、お互いの知らないことは何もなく、たわいのない話ぐらいしか話すことがなかった。



ただ、「お互いの知らないことは何もない」と思っていたのは、僕だけだったとその後すぐに気づかされた。





注文した料理がひと通り揃ってフカヒレのステーキを食べ始めた頃、彼女の表情が引き締まった。


少し眉間にシワを寄せて言い始めた。




「私ね、来月結婚するんだよね。ずっと言わなくてゴメン。でも、隠していたわけではないの。」


「・・・・・・・・・・・・」





僕には、時間が止まったように感じられた。




30歳手前の一人の女性が結婚する。


普通に考えたら、何もおかしいことはない。

本来なら、大いに祝うべきことだ。

しかも、仲の良い幼なじみだ。

「おめでとう!」と言うべきだろう。




そんな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんで、僕は押し黙っていた。




彼女は小さい頃から学校でも評判の美人だった。


読者モデル時代も非常に人気があり、今も容姿端麗で少しサバサバし過ぎている面もあるけれど、性格もいいから昔からたくさんの男が言い寄ってきた。


そんなたくさんの男を、時にはかわしながら、時には手のひらで転がしながら、生きてきた彼女を僕はいつも一番近くで見ていた。



そんな彼女は、新しい彼氏ができるといつも真っ先に僕に連絡をしてきたし、別れた時も真っ先に僕に連絡をしてきた。


だから、僕は歴代の彼氏を全員知っていたし、全員知っているはずだった。




僕の記憶では、半年前に2年ほど交際していたメディアでよく見る社長と別れて、今は彼氏がいないはずだった。


その後も、「誰か良い人いたら、紹介してねー」なんてメールが何回か来ていて、僕は「もう、友達何人も紹介しただろ!」と思いながらも、「了解!」といつものようにそっけない返事をした。



それが、いきなり「結婚」とはどういうことか意味が分からなかった。



僕は、聞いた。



「え、相手は?」

「できちゃったのか?」



「できてなんかいないよ。相手は、ヒロアキ君。知ってるでしょ?」




「ヒロアキ」というのは、僕らと同じ中学の同級生で、確か今は地元の市役所かどこかで働いている真面目な好青年だ。



彼が、彼女を幸せにできないことはあっても彼女を不幸にすることはないだろう。

そんな奴だった。



ただ、マナミとヒロアキが今頃どこに接点があるのかも分からなかったし、テレビ関係、広告代理店、IT経営者とそんな派手な男性とばかり付き合ってきた彼女が、なぜ市役所に勤めている地味な男性といきなり結婚するのかも分からなかった。




いや。

いやいや。



それより何より、なぜ、「結婚」という事実を僕が全く知らされていなかったのかが理解できなかった。



僕らは昔から何でも言い合ってきたし、互いのことを知り過ぎていたはずだった。


それなのに、なぜ。




次第にその思いが苛立ちと怒りに変わっていった。




30年近い付き合いのある彼女にとって、僕はその程度の人物だったのかと思うと哀しみさえ湧いてきた。


なぜ教えてくれなかったのかと問いただす気にもならなかった。




買ったばかりの僕の時計は、ちょうど22時を指していた。






「お食事がラストオーダーですが、ご注文は宜しいでしょうか?

ドリンクは、22時半まで大丈夫です。」




中国人らしき小さく若い女性が、間の悪いタイミングで入ってきた。


白々とした沈黙だけが続いた。




いつもなら歩いて日比谷のホテルまで戻って、バーで飲み直すところだったけれど、「今日は帰る」とだけ僕は言って、プランタン近くの細い道でタクシーを拾った。





僕は不思議な感情に囚われていて、運転手に行き先を言うのを忘れていた。




「恵比寿です。恵比寿。」

僕はかなり強い口調で言ったかもしれない。



ビールを1杯飲んだだけなのに、急に頭が痛くなってきた。




動き始めたタクシーの中で、僕はずっと考えていた。




自分で言うのもおこがましいが、彼女のために僕が今までやってきたことを、色々思い出した。



英語が苦手だった彼女のために、高校生の時に、毎日のように英語を教えに行ったこと。

大学生の時に、いつもレポートを手伝ってあげたこと。

「出版社に転職したい」と言い出し、僕のコネクションで何とか出版社につないでもらったこと。

原因不明の腹痛に見舞われた時、いくつもの病院に連れていったこと。

男性を何人も紹介したこと。



そういえば、「読者モデルでもやれば?」と言ったのも僕だった気がする。




今思うと、自分の恋人でもない人に、そこまでやる必要もなかったかもしれないけれど、僕は彼女のためになればと思ってやってきたし、そこに特に深い意味はなかった。


僕にとっては、何のメリットもなかったけれど、「僕は、彼女に信頼されている」という思い込みが僕には心地よかったし、それで十分だった。


そんなことが、本当に思い込みだなんて今頃になって気付かされるとは、想像もしていなかった。



意識的にせよ無意識的にせよ、僕は彼女のために動いてきたけれど、「マナミは、今まで僕に何かしてくれたんだろうか?」と初めて考えると、首筋に冷たいものが走った。



また。

こんなことも思った。



どんな仲のいい人であっても、自分の思い通りにはならないし、その人にはその人の人生がある。


それに、自分がその人の全てを分かっているつもりでも、その人は必ずしも全てをさらけ出しているわけではなくて、踏み込めない領域、踏み込んでほしくない領域があるのではないか。と。


彼女とっても、それは同じで「結婚」は僕が踏み込めない領域だったのかもしれないな。と。




色々考えると、めんどくさくなってきて、もうどうでもいい気がしてきた。




そうこうしているうちに、恵比寿に着いた。

見慣れた景色が、この日は、少し違って見えた。




「そこの、三井住友銀行の前で止まって下さい。」


そう言って、4,000円を渡し、お釣りを運転手にまた戻した。



近くで見た運転手の顔が、僕の父親と重なった。


「大変だと思いますけど、体調は気をつけてくださいね」

と言って、僕は、タクシーを降りた。





家に着いても、ずっと不思議な感覚が消えなかった。



近くのローソンで買った500ミリのボルヴィックを一気に飲み干し、シャワーも浴びずに、僕はベッドに向かった。


すぐに寝ることで、この日のことを全部記憶から消したかった。




そんなことができるはずもないと気づくのは、もう少し後になってからだった。



第2章へ続く〜

※登場人物名は、全て仮名にしています。







take19821 at 06:25|Permalink

2012年08月27日

「残りの人生をどのようにして生きていきたいのか」ということ。

起業した時、僕はまだ25歳だった。



その時の僕には、守るものも、失うものも何もなかった。

お金もなかったから、生きるために働かなくてはいけなかったし、働くために生きていた。
毎日、寝ても覚めても仕事ばかりだったし、夢の中でも仕事していた。


それでも、仕事そのものが楽しかったし、刺激的だったし、その生活を一番楽しんでいて、一番望んでいたのは、他ならぬ僕だった。



しかし、そんな仕事ばかりしている僕を見て、「人生、仕事だけじゃないからね」と諸先輩方はおっしゃった。



人生、仕事だけじゃない。


当時はその言葉の意味が全く分からなかった。

それで、「仕事さえうまくいけば、僕はそれでいいんです!」と、その度に反抗的な態度で言ってきた。




あれから時は過ぎ、僕はいつの間にか30歳になった。



人生、仕事だけじゃない。

今は、その言葉の意味が、少しだけ、ほんの少しだけ分かるようになった。



この5年間、たくさんの事があった。



結婚した友がいる。

離婚した友もいる。

育児に追われている友もいる。

留学した友もいる。

農家になった友もいる。

仕事をやめた友もいる。

実家に帰った友もいる。




人生には様々な価値観がある中で、各人が悩み、苦しみ、もがき、そして、ひとつの道を選択する姿を、近くで見てきた。



人生、仕事だけじゃない。

そう僕に言った方の、真意は皆それぞれだろう。



「仕事以外にも熱中できるものを見つけなさい」かもしれない。

「もっと自分の時間を持ちなさい」かもしれない。

「もっと人生についてよく考えなさい」かもしれない。



今となっては、確認する術もないけれど、多くの方が「人生、仕事だけじゃない」と確かに僕に言った。



あの時のように、「仕事さえうまくいけば、僕はそれでいいんです!」と、僕が言うことはもうこの先ないだろう。




「自分は、残りの人生をどのようにして生きていきたいのか」ということ。

それを考え続けることこそが、これからの人生の命題だということ。




この5年間、充実していたし、とても充実していた。

それでも、仕事のために、多くのものを犠牲にしてしまった。


失ったものを取り戻そうとはもう思わないし、取り戻せるとも思わない。

「人が何かを得ようとする時には、別の何かが必ず犠牲になる」ということを身を持って知った。



自分は、残りの人生をどのようにして生きていきたいのか。


どんな人も、どんな状況でも、それについて考えなければならないし、これから僕自身も、もっと考えるべきだし、もっと考えたいと思う。

take19821 at 18:14|Permalink

2012年01月05日

夜景とか、タワーマンションとか

あけましておめでとうございます!


自宅マンションの更新時期が近いこともあり、
引越しをしようと思いました。



仕事のほうもすこぶる順調なため、
今の家賃の2倍の予算を設定し、
夜景のキレイな高層マンションに住もうと決めました。


代官山にある不動産の担当営業マンに希望を伝え、
レインボーブリッジ正面の物件、新宿副都心を一望できる物件、
東京タワーとスカイツリーを同時に望める物件など、たくさんの物件を内覧しました。


いずれの物件もなかなか気に入り、
どの物件に引っ越そうかと考えていた時、
「5年前のあること」が、僕の頭をよぎりました。


5年前、当時の同僚とたった2人で起業した時、
お金のない僕らは、少しでも安いオフィスを探し、
少しでも安いイスや机を探すことに必死だったことです。

オフィスは、渋谷駅から5分ほどの道玄坂に構え、
イスや机は、何件もリサイクルショップを回って格安のを見つけたものの、
そして、送料さえ払うのが惜しかったので、
お店の方に頼み込んで、お店のトラックでオフィスまで運んでもらいました。


そんな中で、ハングリー精神を培ってきた僕が、
5年経って、今や、やれ夜景だの、やれタワーマンションだの言ってるのです。


僕は、今一度、考えました。



僕が、夜景のきれいなタワーマンションに住んだとして、
会社の売上が上がるのか?

僕が、夜景のきれいなタワーマンションに住んだとして、
お客さんが増えたり、お客さんが喜んだりするのか?


答えは、いずれも「NO」でしょう。



僕は、自分のちっぽけな自尊心を満たすために、
引っ越そうとしていたのかもしれません。



更新料さえ払えば、今の家に住み続けることはできるわけで、
夜景のきれいなタワーマンションに引っ越さなくてはいけない理由など、
どこにも見当たりませんでした。


そう考えると、今の恵比寿の自宅マンションさえ、
僕みたいな人間には、少しもったいないぐらいです。



起業した時、
売上の増加につながらないものや、お客さんのためにならないものには、
1円たりとも絶対に支払わないと、決めました。


自分で決めたそのルールを破ろうとしていたのは、他ならぬ僕でした。


これが慢心というもの、しれません。




あのビル・ゲイツでさえ、
「ファーストクラスに乗っても、早く到着するわけではない」と言って、
飛行機の移動ではエコノミークラスに乗るそうです。


あのウォーレン・バフェットでさえ、
1958年に購入したオマハ郊外の小さな家に今でも住んでいます。




世界有数の大富豪でさえそうなのに、
僕みたいな、まだ何も成し遂げていない人間が、
夜景だの、タワーマンションだの言っている場合ではありません。


もう一度初心に帰って、あの頃の、
「もっと良いものをお腹いっぱい食べたい」という気持ち、
「この生活から、何とか抜け出したい」という気持ち、
「今に見とけよ」という気持ち、
そういうハングリーな気持ちを、これからも忘れないでいたいと思います。


そういう思いが、今までやってこれた原動力でもあるからです。


質素倹約の精神を胸に、
全ての経費をもう一度見直すことを、
2012年の最初の仕事としたいと思います。




本年もどうぞよろしくお願いいたします。



take19821 at 03:11|Permalink

2011年12月30日

ひとすじの光

年末の喧騒が嘘のように静かな恵比寿の自宅で、
僕は、このブログを書いています。



深い迷いの中からスタートした2011年でしたが、
この年の瀬をこんなに晴れ晴れとした気持ちで迎えられるとは、
あの頃は想像さえできませんでした。




「今年、何か良いことがあったか?」


そう聞かれれば、「良いことなど何もなかった」と答えるだろう。



震災により、株で大規模な損失を出してしまったこと。
バックアップミスにより、仕事上のデータを大量に消去してしまったこと。
ケータイの故障により、友人やクライアントの連絡先が全て消えたこと。
両肺が破れ、入院・手術を余儀なくされたこと。



本当に、物理的な良いことは、何もありませんでした。



しかし。



「今年は、充実していたか?」


そう聞かれれば、「間違いなく、人生で一番充実していた年だった」と答えるだろう。



それは、僕自身の人生に対する考え方が今年は大きく変わり、
それによって、精神的な余裕ができ、
平穏で冷静に、物事を落ち着いて捉えることができたからに他なりません。



僕の考え方を根本的に変えたのは、「足るを知る」という考え方です。




これは、もともと老子の言葉で、
「己の身の程を知り、現状に感謝し、今あるものに満足することを知るべきである。
必要以上に多くを望んでいては、いつまで経っても幸せを感じることはできない。 」
という意味です。




僕は、25歳で自らビジネスを始めた頃から、
ひたすら上だけを見て、現状に満足することなく、
貪欲に貪欲に、全力で駆け抜けてきました。


その中では、多くのものを我慢し、多くのものを犠牲にしてきたのだけれど、
それでも、「自分が成長している」実感や、「ビジネスがうまく回る」実感が、
そういったネガティブな側面を吹き飛ばしてくれていました。



しかし、いつの頃からか、
そんな生活に違和感を覚えてきたのも事実でした。


仕事がどれだけうまくいっても、
さらに上を目指し、現状に満足できない自分に、
「自分は、一体どこまでやれば満たされるのだろうか?」
という思いが湧いて来ました。


いつしか、大好きだった仕事そのものの意味すら、見失いかけてしまいました。



そんな時に、出会ったのが、「足るを知る」という考え方です。



「今を犠牲にして、明るい未来を創り上げるのだ」と考えていたその時の僕には、
今の自分の周りにあるたくさんの幸せなど、まったく見ようとしていませんでした。



健康な体があること。
おいしくゴハンが食べられること。
仕事が大好きで楽しいこと。
心あるお客さんがいること。
愉快な友達がいること。
あたたかい布団で寝られること。
毎日笑っていられること。




数え上げればキリがないほどの幸せに囲まれていながら、
僕はそれに気づかずに暮らしていたのです。


今考えると、笑ってしまうぐらいですが、
今までの僕は、そういう状況だったわけです。

なんという不幸な人間でしょうか。。。




今は、自分にある多くの幸せを十分に感じることができるので、
本当に毎日充実しています。



「ひたすら上を目指す」ということがなくなったため、
以前に比べると、ビジネスのスピードは落ちましたし、仕事量も減りました。

しかし、精神的な余裕がある分、
ひとつひとつの案件や、一社一社の課題に、
十分な時間をかけて取り組むことができるようにもなりました。

また、それによってパフォーマンスが大きく向上したのが、
何よりの証拠だと思います。



2012年も、こういうスタイルを保ったまま、
仕事に取り組んでいけたらと思っています。




最後に。



今年も、大変多くの方々にお世話になりました。


僕を信頼して仕事の依頼をしてくれるお客様。
無理な要求にも、いつも快く引き受けてくれるパートナー会社。
弊社のサービスを販売していただいている代理店様
元気のない時に励ましの声を掛けてくれる先輩・後輩。
バカな話を一緒になって笑ってくれる友人。
公私ともに刺激をくれる同年代の経営者。
そして、家族。


その中の誰一人として欠けていては、今の僕は存在し得なかったと思います。


普段は、なかなか言葉では言いにくいですが、
本当に感謝の気持ちでいっぱいです。


本来であれば、ひとりひとり顔を見て御礼を申し上げるべきなのでしょうが、
この場を借りて、謝意を述べたいと思います。


本当に本当に、いつもありがとうございます。



たくさんの人に感謝の気持ちを忘れることなく、
2012年も、更なる努力を誓いたいと思います。


未熟な人間であるがために、
ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、
引き続き、暖かいご支援とご指導のほど
よろしくお願い申し上げます。



2011年12月30日

株式会社キャンディロック
代表取締役
辻尾 武伯








take19821 at 16:23|Permalink ビジネス 

2011年10月09日

選択肢を増やすことの重要性

中学の頃の僕は、なんせ勉強ができなかった。


1年生の頃は、わりと上位だった気がするが、
学年を追うごとに学力は落ち、3年生の頃には、
「平均点を取るのがやっと」だった。


ある時、僕は、担任の松川先生に聞いた。

「なんで勉強しなくちゃいけないんですか?」と。



松川先生は、僕に優しく教えてくれた。


「それはね、自分の選択肢を増やすためよ。
あなた達3年生は、もうすぐ高校受験でしょ?
学力さえあれば、あなたが行きたい高校にどこでも行けのよ。
学力が無ければ、行ける高校は限られるわ。
だから、勉強しなきゃダメよ!」



「そうですか。。。」


僕は、分かったような、分からなかったような顔をして、そう答えた。



もう、今から15年ほど前のことだが、
このやり取りだけは今でもハッキリと覚えている。


「自分の選択肢を増やす」というやり取りは。



結局、松川先生の教えも守らずに、
僕は、その後も大した勉強をせずに過ごしていた。



それで、受験高校を決める三者面談になった。



松川先生:で、どこの高校を受験したいの?


僕:どこでもいいです。僕の今の学力で行けるところ、ありますか?


松川先生:そうね、K高校は、どうかしら?


僕:エッ、K高校ですか!?ちょっと考えます。。。




本当は、自宅近くの公立S高校に行きたかったのだけれど、
松川先生が言うには、内申点が足らないから、
本番の試験で、いくら高得点をとっても無理だと言われて、
もう、高校などどこでもよかった。


K高校には悪い噂もあったし、
僕は、どうしても行きたくなかったので、
その後、入学することになる私立S高校を受験することとなった。



当然、私立S高校に、僕は何の思い入れもなく、
その校名を知ったのも、受験1ヶ月前ぐらいだった気がする。



僕が、高校を「選んだ」のではなく、
僕が、高校に「選ばれた」のだった。



松川先生が言っていた、
「勉強は、自分の選択肢を増やすためにするのよ」という言葉が、
この時、初めて少し分かった。


とは言え、時すでに遅しで、
僕は私立S高校を、なんとなく受験して、なんとなく合格した。



合格はしたけれど、正直不本意だった。

ただ、悪いのは中学時代に勉強してこなかった自分であり、
誰を責めることもできなかった。



そんな経緯で高校に入学した僕は、
やっぱり、高校に何の思い入れもなく、
入学してしばらく、悶々とした日々が続いていた。


それからも、
「勉強は、自分の選択肢を増やすためにするのよ」
という松川先生の言葉が、幾度となく脳裏に浮かんだ。



僕にとっての高校受験は、
「失敗」以外の何物でもなかったけれど、
「人は、失敗から学ばなければならない」とも、
15歳ながらにその時思った。

それで、僕は、
同じ失敗を繰り返さないように、
自分の選択肢を可能な限り広げられるように、
大学が僕を「選ぶ」のではなく、僕が大学を「選べる」ように、
入学して一ヶ月後の5月中旬から、大学受験の勉強をすることにした。


入学したばかりで、やれ「クラブ活動」やら、
やれ「体育祭」やら、やれ「修学旅行」やらで、
みんな浮かれている中、僕だけが突然に勉強をし始めたから、
周囲の人間は、僕を奇異な目で見ていた。

しかし。

「この積み重ねが、2年半後に花開くのだ」という確信があった。


その時は、具体的な志望大学も決まっていなかったけれど、
「学力さえあれば、志望大学は、後からいくらでも選べる」とも思っていた。



それで、3年生になって、思惑通り、
僕は自分の志望大学に合格したし、
日本の文系大学ならどこでも、
自分が好きなように選べる選択肢が用意されていた。


3年間の時を越えて、松川先生に、やっと報いれたような気がした。

自分に、「選択肢がある」ことの喜びを知った。




僕が30歳近くにもなって、
なぜこんな昔のことを書いているのかというと、
やっぱり、「選択肢がたくさんある」ということは、とんでもなく幸せなことだとし、
それと同時に、「選択肢がない」ということは、
とても不幸だと、あの時からずっと思っているから。


学生時代は、「学力」があれば、選択肢が増えたのだけれど、
大人の我々が人生の選択肢を増やすには、お金が必要だってこと。



車を買うにしても、所持金が200万円なら、
プリウスは買えるけれど、メルセデスは買えない。


アメリカに行くにしても、所持金が30万円なら、
エコノミークラスで行けるけれど、ファーストクラスには乗れない。



僕は、「プリウスよりメルセデスがいい」とか、
「エコノミーよりファーストクラスいい」などと
言っているわけではなくて、メルセデスにはメルセデスの良さがあって、
ファーストクラスにはファーストクラスでしか得られないサービスがあって、
それを経験するには、お金が必要だってこと。

お金さえあれば、性別や人格や職業に関係なく、
そのサービスは誰もが簡単に享受できるということ。


そのどちらも経験した上で、
「ファーストクラスも何度も乗っているけど、僕はエコノミーで十分だ」って言うのなら、
その言葉には真実味があるけれど、
経験したことがない人が、「そんなの、エコノミーで十分じゃん」とか
言ってたとしたら、それは何の説得力もない。




どこかのCMで、
「お金で買えない価値がある priceless」と言ってるけれど、
「お金で買える価値」は、確実に存在していて、
お金で買える価値があると分かっているのなら、
お金でその価値をさっさと手に入れたら、それは満たされるでしょうってこと。



自分自身で言えば、
最初まったくのゼロから会社を始めて、5年目を迎え、
収入が増え、いろんな所にお金を使ってみて、
「想像以上に、お金って大事じゃないかな」って思い始めている。


今のところはね。


それは、「お金そのもの」が大事だという成金趣味ではなくて、
お金によって得られる経験やサービスが人生を豊かにすることは、
大いにあり得るのだという実感だ。
(もちろん、「なんでもお金で買える」なんて、まったく思っていませんよ。)



現状、今の僕は、
ポルシェやフェラーリなら買えるけれど、
プライベートジェットやクルーザーは買えないから、
それが欲しくなっても(多分、欲しくならないけれど)、
すぐ買えるぐらいに稼ぎたい。

ちなみに、車も全然興味ないので、車を買うことも一生ないでしょう。

ただ、「買えるけど、買わない」のと、
「買えないから、買わない」のは、全然違うからね。



そういえば、
歌手のスガシカオさんが、
雑誌の対談で、こんなことを言っていた。



「やりたいことが見つからない時は、とりあえずお金を稼ぐといいと思う。
そしたら、やりたいことが見つかった時に、
『お金がないから、すぐにはできない』という状態を回避できる」


スガシカオさんは、
30歳ぐらいまで会社員をやっていて、
ある日突然、「歌手になろう」と思い、会社を辞め、
ためた貯金で、1年間家に引きこもって曲を作るという生活をしてデビューしたらしい。


スガシカオさんの人生の選択肢を広げたのも、
やっぱりお金だったりする



お金があれば、人生の選択肢は確実に増える。

それは、否定してはいけない。


僕は、人生の選択肢を増やすために、
仕事に打ち込んでいきたいし、
何かやりたいことや、欲しい物があるのに、
「お金が無いから、今はできない」という状況だけはゴメンだ。



だから、僕は今まで頑張ってこられたし、
これからも頑張れる。と思う。


あの時みたいに、「選択肢がない」という経験は、
もう二度としたくないから。



そういうわけで、
松川先生の言葉と、高校受験の苦い記憶は、
今なお僕の心に生きていて、
大いなる示唆をいつも与えてくれる。




それで、僕はとりあえず、もっと努力します。


今の僕は、努力が足りなさ過ぎて、
自分で自分を笑っちゃいそうです。


今はそんな感じです。

では。





take19821 at 16:27|Permalink

2011年09月13日

何も言えない

その人をその人のあるがままに、
受け入れるのはものすごく難しいと思う。

ほとんど無理に近いかもしれない。


だから、人は(僕は)、
ある人を変えようとしたり、
ある人に何かを必死で伝えて、自分の都合のいい方向へ
人を導こうとするのだよね。



それで、僕は自分で自分のそのおこがましさに、
「あー、やれやれ」ってなる。



「オマエは何様だよ?」

「お前が伝えたいコトは、どうしても人に伝えなきゃいけないほど価値があるのか?」

「オマエが導こうとしているその方向は、本当に正しいのか?」


もう一人の自分が、いつも僕にそう言っている。



そんでこうなる。


「単なる自分のエゴじゃないの?」と。


どうこねくり回しても、エゴだと思う。



その人にはその人の人生がある。

その人にはその人の考えがある。

その人にはその人の意見がある。

その人にはその人の主張がある




人に(僕に)変えられたり、何かを暑苦しく伝えてもらったり、
そんなことは別に望んでないだろう。



僕が伝えようとしたり、導こうとした方向が間違っていたとしたら?

責任とれる?



まあ、つまり、
人に何かを伝えたり、行動を促すということは、相当な責任が伴うわけ。


軽はずみな言葉が溢れているけれど、
「言いっぱなし」や「やりっぱなし」は、絶対に許されないということなのよ。



もっと言うと、オマエに「覚悟」はあるのか?ということだ。

その覚悟を持った上での行動なら、
エゴだろうと、自己満足だろうと、何だろうとかまわんわけだ。



んで、僕は色々と考えた結果、
それでも人に何かを言わねばならないこともあるから、
自分にその「覚悟」があるのかを、
僕は、毎日のように自分に問うているのです。


覚悟を決めた言葉だけを言いたいなと思うわけです。



それでは〜。




あ、忙しい中、うちのデザイナーがHPをリニューアルしてくれたみたいです。

http://www.candyrock.co.jp/

お客さんのほうが優先なので、全然充実していません。
もう少し、頑張ります。

んじゃ!


知人が都内で介護タクシーの事業を開始しましたので、
告知させていただきます。

http://www.ansha.jp/

車いすに乗ったまま利用でき、年中無休24時間対応ですので、これから需要有りそうですね。



take19821 at 00:46|Permalink

2011年09月10日

「諦めたらダメだよ」という言葉

何かを諦めかけている人に対して、
「諦めたらダメだよ」とか、「諦めなければうまくいく」ってすぐ言っちゃうけど、
この言葉ほど、軽はずみで意味のない言葉はない。



「諦めたらダメ」なのは、みんな分かってるからだ。

諦めたくないのは、みんな同じ。
諦めたくて諦める人は、誰もいない。


それでも手段がなくて、
どうしたらいいか分からなくて、
途方に暮れて、もう諦める寸前で相談してくるわけ。



「諦めたらダメだよ」って言って、
「あ、そうだよね!やっぱり、諦めたらダメだよね!」
なんて自分で気づける人は、そもそも相談などしてこない。



「諦めたらダメだ」と言うのなら、
「どうしたら、諦めずにいられるのか」
「そもそも、なんで諦めたらダメなのか」
「諦めないことが、ベストの選択か」
「もし諦めたとしたら、他にどういう選択肢があるのか」
それも一緒になって考えて、発言できる人間でいたい。



僕は、人に偉そうに何かを言えるほど
大した人間ではないのだけれど、
それでもやっぱり、自分の周りの人に何かを言う機会があるのなら、
本当にたいせつなことを、魂込めて伝えたいと心から思う。



「諦めたらダメだよ」

そんな表層上滑りの言葉は、僕は使わないようにしたい。



軽はずみな「言葉」は、時として、人を失望させる。

だから、
人に対して何かを言うなら、
それを口にする重みと責任を持たなければならない。

人の発した「言葉」が、
他の誰かの胸に届くことがあるとしたら、
その重みと責任を伴った言葉だけだ、ということは既に確信している。


僕も、そういう言葉を発することができる人間で、いたい。





take19821 at 14:44|PermalinkComments(1)

2011年09月07日

「考える」をまた考える

いつかの昼下がり。


たまたま入ったカフェで、
柄にもなく、ボケーーーっとしてたら、
僕より少し年上に見えた友人なのか同僚なのか分からないけど、
そんな二人が、人生相談みたいな話をしていた。


先輩風の男性が、後輩風の男性に言った言葉が
なぜか、と言うか、やっぱり、
僕には違和感でジンマシンが出てもおかしくないぐらいだった。



「オマエさぁぁ、今考えなくても、
そんなのは、その時になったら考えればいいじゃん。
今が楽しければ、それでいいじゃん。」って。



ふーん。


「その時」っていつだろう?


明日?

来週?

来年?



「その時」って、一体いつ?



「その時」は「今」の延長線上にあるわけだから、
今、何も考えてない人間は、
その時になっても、多分何も考えられないだろう。


今、何も考えてない人間が、
その時になって、素晴らしい結論を導き出せる
なんて、そんなおかしなことがあるはずがない。



だって。

「その時どう考えるか(どう考えられるか)」は、
「それまでにどれだけ考えたか」や、
「今、何を考えるか」によって大きく左右される。



「今考え」なくて、一体いつ考えるんだろう?


今考えられない人間が、
その時に考えられることなど、本当にあるだろうか?




「その時になったら考えればいいじゃん」



でも、それは、「考えること」を、ただ先延ばしにしてるだけ。

そうやって、「時間」という二度と取り戻せないほど大切なものを、
あてもなく浪費しているだけ。

考えることから逃げているだけ。


そうやって、一度しかない人生を、
なんとなく過ごしてくのか。



「考えること」は、簡単じゃないし、時間がかかる。

本当に気の遠くなるような作業だ。

それに、考えても分からないこと、
考えても見つからないことが、世の中にはたくさんある。

だから、「考える」ことを、
できれば避けて生きていきたいのかもしれない。



でも。


正面からひとつひとつ「考える」から、その次に進める。

ひとつひとつ考えて、納得して進んでいるから、
今までのことを受け入れて、前だけを見ていれる。


考えて、考え尽くして、考え抜いて決めた事だから、
その決断に自信が持てる。

その決断に責任が持てる。



「考える」ことで産まれる価値ってそういうもんじゃないだろうか?

もっと言うと、「生きる」って、
そういうことじゃないだろうか?



「あの時、よく考えておけばよかった」というのは、
人生には、大いにあり得るだろうが、
「あの時、考えなきゃ良かった」というのは、絶対にあり得ない。


だから、「考える」ことが必要だと思う。

だから、自分に問い続けることが必要だと思う。



確かに、人は、
「幸せになるため」や「楽しくいるため」に、
生きているわけだから、楽しければいい。


それはみんなそうだし、
僕だってそうだ。

間違いない。


しかし、「楽しければいい」っていうのは、
「あーーー、もう死ぬほど考えたよ。
それでも、まだ答えは見つからないけど、
自分の気持ちを大切にして、自分がこれからも楽しくいられる決断を下そう」って、
本人がたくさん考え尽くして、自分が導き出すものであって、
誰かに言うものではない。



「楽しく」いるためには、どうしたらいい?

そもそも、「楽しい」って何?


考えたことある?


「楽しければいい」なんて、
すぐに言ってしまうような人は、そこまで考えてないだろう。



何も考えていない大人にはなりたくない。

何も考えられない大人にはなりたくない。

僕は。



「難しく考えなくても、楽しければいいじゃん」とは、人に言いたくない。

そうやって、考えることを先延ばしにしても、何も産まれない。


むしろ、言うとしたら、
「もっとよく考えたほうがいいよ」って言いたい。

そんで、「苦しいかもしれないけど、考え抜いて下した結論にこそ、価値があるんだよ」って言いたい。



「生きる」って、考え続けて、自分に問い続けて、
それでも答えは見つからないかもしれないけれど、
考えて初めて見えてくる「答えらしきもの」の方向に、
足を少しずつ前に進めていくことじゃないだろうか?



少なくとも、僕はそう思います。



images







take19821 at 19:29|PermalinkComments(0) つれづれ 

2011年09月06日

「コアコンピタンス」って何だろう?

「んで、御社は同業他社さんと、何が違うの?」



サービスの詳細とか、料金プランとか、
細かい所まで色々説明するんだけれど、
結局、僕が最後に言うことはいつも同じ。



「正直、同業他社さんとほとんど同じサービスです。」って。

「うちでしか、実現できないことなんて、何一つありません。」って。



それで、付け加える。


「でも、他の会社には、僕はいませんよ。」って。

「どこにでもあるサービスを、どこにもないぐらいの熱意でやりますから。」って。



そこまで言って契約取れなかったら、
初めからご縁がなかったんでしょう。





「コアコンピタンス」って何だろう?



お客さんは、僕に何を求めている?

今までのお客さんは、なぜ契約してくれた?

で、そのお客さんは、なぜ次も僕に仕事を依頼してくれた?




なぜなぜなぜなぜ?



金額?

企画力?

ただ単にタイミングがよかっただけ?


なんで?



どれも違う気がする。




「この人だったら、一生懸命やってくれそう」って思ってくれて、
そこに期待してくれたんじゃない?


「なぜ仕事を依頼してくれたんですか?」って
お客さんに聞いたことないけど、多分そうだ。(と思う。)




今でこそ、起業して5年目だから、知識も少しはあるけれど、
最初は、ビジネスのことは何も知らない25歳のガキだよ。


経験もノウハウも何もないよ。




そんなガキに、なぜ仕事を発注してくれた?

そんなガキに、なぜ大切なお金を払おうと思ってくれた?



なぜなぜなぜなぜ?


やっぱり、熱意とか期待とか、がむしゃらさとか、
そういうのじゃないの?





やっぱり、「人」が全てだと思う。

たとえ、世界一素晴らしいサービスでも、
世界一熱意のない人間が提供したら、
何の魅力もないでしょ。


逆に、世界一ありふれたサービスでも、
世界一熱意のある人間が提供したら、
そこには夢があるし、期待ができるんじゃない?



少なくとも、僕はそう思って働いてきた。




最後の決め手は、結局、人でしょ。

僕は世界一でもなんでもないんだけど、
「商材(サービス)」か、「人」かって聞かれたら、
圧倒的に「人」でしょって話。



だから、「熱意」持ちましょうってこと。

だから、「知識」つけましょうってこと。

だから、お客さんの立場に立ちましょうってこと。



それが、唯一できうる差別化だと思うんだけど。



iPhoneとかiPadみたいに、
他社が思いもつかないほどの、
ずばぬけて差別化できる商品を作れるんだったら、
「人での差別化」は必要ないけどねー。



ま、僕には無理です。




だから、僕は自分を何とかしてもっと磨くしかない。

極端な話、商材とかサービスとか、どうでもいい。

今やってるインターネットの仕事じゃなくてもいいのかもしれない。



提供するサービスは何であれ、
差別化は僕であり、僕自身である。




「詳細はよく分からないけど、
あなたがススめる商品だったら、間違いないでしょう。
だから、契約します。」


そう言わせたら、最強。

そう言わせたいし、そう言われたい。

それぐらいの圧倒的な人間力をつけたい。


他の何かと比較された時点でもう負けだと思うから、
比較されないぐらいの人間力をね。




まだまだだな。

知識も、経験も、ノウハウも、
人間力も、努力も、行動量も、何もかも足りません。


果てしない道だけど、もっと頑張ります。








take19821 at 20:45|PermalinkComments(0) つれづれ | ビジネス

2011年09月05日

夢の種を育てる

「私には、まだ夢がない」と言って
なんか必死こいて探してる人がいるけど、
多分違うと思う。

その人は、そうやって「ない、ない」言って、
一生見つけることができないんだと思う。



夢なんて、探して見つけるものではないよ。


うん。

視点が違うと思うわけ。


「夢」は、どこかにあるはずだと思って探すものじゃなくて、
自分でその種を産み出して、
育てるものではないだろうか?

というか、確実にそうだ。



じゃあ、その種はどこに存在し得るかと言ったら、
それは絶対に、自分の心の中にしかない。

人が与えてくれるわけではないし、
どこかに転がっているものでもない。

たまたま、道端に「夢」が落ちていて、それを拾って、
「やっと見つかりました。今日から私の夢は◯◯です。」とは言えないの。



結局のところ。
夢を作り出せるのは、自分しかいない。


ま、よく考えれば当たり前の話ではあるけれど、
「夢はどこかにあって、私はまだそれに出会っていないだけだ。」
という幻想を抱いている人は、実は結構多い。


たとえて言うなら、
「白馬の王子様がどこかに存在していて、いつか出会える」
って信じていて、ずーーーーっと出会えてない人みたいな感じ。

「いい加減に気づけよ」みたいなアレね。



それに。

「夢」というのは、
初めから、「夢」として存在するわけじゃないと思うわけ。

きっと、別の形で存在している。

多分、「願い」とか、「想い」とか、
「こうなったらいいなー」ぐらいの小さなもの。

それが「夢の種」

「夢の種」は、誰にでもある。
「夢の種」は、誰にでも産み出せる。


その夢の種を、自分で産み出して、
自分で大切に育てていく。

そうやって、少しずつ「夢」にしていく。


いずれにしろ、
本当の意味で、「夢」にする作業を通過しなければ、
「夢」には成り得ない。



別にそれは何だっていいし、
他人と比較しなくてもいい。


「自分の子どもの笑顔をたくさん作る」でも、
「ずっと家族仲良くに暮らす」でもいい。

「プロ野球選手になります」とか、
「会社を上場させます」とか、
そういう夢も、それはそれで立派だけれど、
別に、大それたことだけが夢じゃないでしょとも思うわけ。

やっぱり。



他人から見ればちっぽけかもしれないけど、
その夢が、何であるかより、
その夢を、自分がどれだけ深く信じられるか、
その夢を、これからどれだけ大きく育てられるか、
その方が、ずっとずっと大事だと思うわけ。



あ、芸人の土田晃之さんが、
「愛する妻と、これからもずっと一緒にいることが、夢です」って言ってた。

とびきりの笑顔と自信で。

なんか、カッコ良かった。


つまりはそういうこと。

自信持って、人に話せればそれでいい。



僕には僕の「夢の種」がある。

僕は、その種を育てて、大きくしていく。

んで、ここからまた這い上がる。



それで、あなたの夢は何ですか?

自信を持って、その夢を人に語れますか?






take19821 at 12:00|PermalinkComments(0) つれづれ 

2011年09月04日

わけもなく好き

あなたの「好き」はなんですか?



結婚や交際している人は、
パートナーのことを思い浮かべてみてください。


優しいから好き。
楽しいから好き。
落ち着くから好き。
癒されるから好き。
etc....



仕事が好きな方は、
自分の仕事のことを考えてみてください。


やりがいがあるから、好き。
同僚や上司はいい人ばかりだから、好き。
成長できるから環境だから、好き。
etc....



でもね。

それは、好きな箇所であって、
本質的に好きな理由ではない。

むしろ、僕は「好き」に理由などあってはいけないと思う。




頭がオカシイやつだと思われそうだから、
例えを出す。


どの親も、自分の子供が大好きだ。


僕の両親も、僕を愛してくれたし(もちろん今も)、
僕にも充分伝わっている。

でも、あれって、すごく無条件だと思うし、
見返りを求めてない。
親が子どもを好きな理由なんて、
何もないはずだ。


とりあえずどの親も、
自分の子どもが大好きなんだ。

すごいよ。
すごい。



おむつを変えて、お風呂に入れて、ゴハンを食べさせて・・・

手はかかるし、子どもは親に対して、
特に何もしてあげられない(あげない)けど、
それでも、どの親も自分の子どもが大好きなんだ。


子どもが反抗期で、親を罵倒しようとも、
成人して、それぞれ離れて暮らしていようとも、
親は、子どもがどういう状況であれ、
自分の子どものことが好きだ。


本当にすごい。

でも、「好き」ってそういうことだと思う。



理由はないけど好き。
なんだかよく分からないけど、好き。
存在自体が好き。
好きだから好き。


多分それが一番強いと思う。
そうじゃなきゃいけないと思う。


「理由はないけど好き」っていうのは、
親の子どもに対する愛情と同じように、
何があっても絶対ゆるがない。

だから、そうありたいと思う。


「◯◯だから、好き」っていうのは、
その◯◯がなくなったら、好きじゃなくなるってことだ。

それはすごく弱いし、不安定だ。

だから、そんなの嫌だ。
僕は。



「好きだから好き」とか、
「理由もなく好き」だと想える人やモノに出会えることは、
人生でも、そうそうないと思う。


だから僕はそれを探したいし、
それを作り(創り)たいし、
それを全力で育てたい。



そういや、学生の頃、当時付き合ってた子に、
「私のこと、なんで好きなの?」って聞かれて、
「理由なんてないよ。好きなものは好きだから。」って言ったら、
すごく怒られて、悲しい顔されたことを思い出した。


「理由がない=好きな所がない」っていう意味に伝わったのかな。



僕は今でも、それが一番の答えだと思っているし、
別の誰かに、また同じ質問をされたら、
きっと同じように答えると思う。

あ、「思う」じゃなくて、絶対そうだし、
絶対また「理由はないけど、好きだ」って言いたい。



あなたの「好き」はなんですか?




take19821 at 11:59|PermalinkComments(2) つれづれ 

2011年09月03日

「ありのまま」を伝え続けるということ

早いもので、ブログを書き始めてから6年以上も経っています。



その間に、Facebooktwitter といった
ブログを書き始めた2005年には存在しなかったメディアが登場したため、
僕が、日々自分の想いや考えを述べる場も徐々にそちらに移行し、
ブログの更新頻度がずいぶんと落ちてしまいました。



しかし、twitterは140文字、
Facebookは500文字という字数制限があるため、
毎日毎日書いても僕の想いの1%も書くことができず、
消化不良で終わってしまう日々の連続で、
字数制限が存在しないこのブログを、
今日、久しぶりに更新するに至りました。




僕は、日々生きていて、考えが止まりません。

想いが止まりません。



とりあえず、誰よりも考えています。


自慢できることでも何でもないですが、
考えていることの量と深さだけは、誰にも負けません。


人間の心臓が自分の意思とは
まったく無関係に動き続けているのと同じように、
僕にとっては、「考えること」は心臓の鼓動と同じぐらい、
無意識的なものです。


人間が自分の心臓の動きを
自分で止めることができないのと同じように、
僕は、「考えること」を自分で止めることはできません。




「考え過ぎだよ」


今までの人生で、もう何百人に言われたでしょうか?



僕は、まぎれもなく「考え過ぎ」だし、
その言葉を否定したこともありません。


しかし。

僕にとっての「考える」ということは、
生きることそのものなのです。



「考え過ぎ」という言葉が一般的に持つニュアンスは、
どちらかというと、少しネガティブな印象があるかもしれません。


「考え過ぎ」=「落ち込んでいる」という感じでしょうか。



僕に関して言えば、
極端にポジティブな性格ということもあって、
落ち込むということは、全くと言っていいほどありません。




日々よく考えることは、
物事の本質的な意義、人の発言の裏にある真意、人生の真理とか、
まぁ、そういう難しく言えばそんなことなのですが、
もっと簡単に言えば、僕は、「本当のこと」がいつも知りたいだけなんです。


そうやって、
小さい頃からずーーーーっと考えてきて、
一人で考えるのも、それはそれでいいのだけれど、
ブログやFacebookといった便利なツールがあるので、
そういうものを使って考えを書いているわけです。




別に、誰かに何かを言いたいわけでも、
誰かに何かを聞いてほしいわけでもないのだと思います。


物事をずーーーーっと深く考えて、
毎日、もがいて、両手振り回して、地団駄踏んで、
何とか答えを見つけようとして、見つからないけれど、
それでも諦めず、一生懸命生きてる。


そういう男が、日本の東京の恵比寿に、一人いるよってことです。



それで、僕の考えを読んでくれた人が、
「そんなこと考えているのは、世界で自分一人かと思ったけど、そうじゃない」とか、
「そういう視点もあるよね」って思って、
また次の日から頑張って生きてくれたら、
僕が頭を悩ませたり、もがいて、考えを書いた価値や意味も
少しはあったのかなと思います。


そういう意味では、
何か困った時に、僕を頼って連絡してきてくれる友人や後輩は、
すごく大切にしたいと思いますし、
最近では、見知らぬ人からFacebookなどで、
「人生相談のってください」とか、「勇気づけられました」
みたいなメッセージをもらうこともあり、うれしくも思います。



たとえ見知らぬ誰かだとしても、
「自分と同じことを考えて生きている人がいる」と心強く感じることができたなら、
天涯孤独かと思えたその人の人生にも、
ほんの少しでも光明が射すんじゃないかなと思います。


僕だって、会ったこともない歌手の、
たった一行の歌詞に、心が救われることだってあります。


僕は、「言葉の持つ力」をいつも信じています。



だから僕は、
「僕は、強くこう思っているんだ」ということも、
「僕は、こんなに弱い情けない人間なんだ」ということも
出来るだけありのままに、出来るだけたくさん、
書いていきたいと思います。



死ぬまで書き続ければ、
死ぬまで伝え続ければ、
1ミリでも人の役に立てるかもしれないですし、
僕が人のために何かできるとしたらそれぐらいですし、
「考え過ぎる」ことを運命づけられた
僕の生きる意味があるとしたらそれしかないとさえ思います。



今までも、ダサいことも、恥ずかしいことも書いてきましたし、
これからも書くだろうけれども、
僕は、「人によく思われたい」とか、「自分をよく見せよう」なんて、
これっぽっちも思っていません。




自分の「弱さ」は、僕自身が一番よく分かっています。
今さら表面を取り繕ってみても、何の意味もありません。


塗られたメッキは、いつかは剥がれます。


そうではなくて、
「答えを見つけようとして頑張るけど、それでも見つけられないこと」とか、
「正しさを勝ち取るために、間違ったことを選ばなくてはいけない葛藤」とか、
そんな「ありのままを」書いていきたいのです。


「私は、毎日幸せだ。全てを手に入れた。
頑張れば、何でも手に入る。だから君たちも頑張りなさい」

みたいなメッセージが仮にあったとしても、
おそらく多くの人は、心に響かないないでしょう。



やはり、人が共感したり、心が動く言葉というのは、
弱さや、葛藤や、矛盾や、悩みや、そういう部分だと思います。

であるなら、
そういうものをいつも背負って、
人以上に「考え過ぎてきた」僕は、
自分のそういうところをこれからも伝えていきたいと思います。



たとえ僕の知らない誰かだとしても、
僕の言葉が、きっと届くことを信じています。






take19821 at 15:53|PermalinkComments(0) つれづれ 

2011年07月14日

信じるということ

早いもので、ブログを書き始めてから6年以上も経っています。


その間に、twitterやFacebook といった
ブログを書き始めた2005年には存在しなかったメディアが登場したため、
僕が、日々自分の想いや考えを述べる場もそちらに移行し、
ずいぶんとブログの更新頻度が落ちてしまいました。



しかし、twitterは140文字、
Facebookは500文字という、字数制限があるため、
毎日毎日書いても僕の想いの1%も書くことができず、
消化不良で終わってしまう日々の連続で、
字数制限が存在しないこのブログを、
今日、久しぶりに更新するに至りました。


なんか堅いですね。


僕は、日々生きていて、考えが止まりません。

想いが止まりません。



人間の心臓が自分の意思とは無関係に動き続けているのと同じように、
僕にとっては、「考えること」は心臓の鼓動と同じぐらい、
無意識で、かつ連続的に行っています。


人間が自分の心臓の動きを自分で止めることができないのと同じように、
僕は、「考えること」を自分で止めることはできません。


「考え過ぎだよ」って、
今までの人生で、もう何百人に言われたでしょうか?

僕は、まぎれもなく「考え過ぎ」だし、
その言葉を否定したこともないんだけれど、
僕にとっての「考える」ということは、
生きることそのものなのです。


「考え過ぎ」という言葉が一般的に持つニュアンスは、
どちらかというと少しネガティブな印象があるかもしれません。

平たくに言うと、
「考え過ぎ」=「落ち込んでいる」という感じでしょうか。

僕に限って言えば、
極端にポジティブな性格ということもあって、
落ち込むということは全くと言っていいほどありません。


日々よく考えることは、
物事の本質的な意義、人の発言の裏にある真意、人生の真理とか、
まぁ、そういう難しく言えばそんなことなのですが、
もっと簡単に言えば、
僕は、「本当のこと」がいつも知りたいだけなんです。


そうやって、
小さい頃からずーーーーっと考えてきて、
一人で考えるのも、それはそれでいいのだけれど、
ブログやFacebookといった便利なツールがあるので、
そういうものを使って考えを書いているわけです。


別に、誰かに何かを言いたいわけでも、
誰かに何かを聞いてほしいわけでもないのだと思います。


物事をずーーーーっと深く考えて、
毎日、もがいて、両手振り回して、地団駄踏んで、
何とか答えを見つけようとして、見つからないけれど、
それでも諦めず、一生懸命生きてる。


そういう男が、日本の東京の恵比寿に、
一人いるよ ってことです。


それで、僕の考えを読んでくれた人が、
「そんなこと考えているのは、世界で自分一人かと思ったけど、そうじゃないんだ」とか、
「そういう視点もあるよね」って思って、
また次の日から頑張って生きてくれたら、
僕が頭を悩ませたり、もがいて、
考えを書いた価値や意味も少しはあったと思えます。



そういう意味では、
何か困った時に、僕を頼って連絡してきてくれる友人や後輩は、
すごく大切にしたいと思いますし、
最近では、見知らぬ人からFacebookなどで、
「人生相談のってください」とか、「勇気づけられました」
みたいなメッセージをもらうこともあり、うれしくも思います。


たとえ見知らぬ誰かだとしても、
「自分と同じことを考えて生きている人がいる」と心強く感じてくれれば、
天涯孤独かと思えたその人の人生にも、
ほんの少しでも光明が射すと思います。


僕らだって、会ったこともない歌手の、
たった一行の歌詞に、心が救われることだってありますから。



だから僕は、
「僕は、強くこう思っているんだ」ということも、
「僕は、こんなに弱い情けない人間なんだ」ということも
出来るだけありのままに、出来るだけたくさん、
書いていきたいと思います。


死ぬまで書き続ければ、
死ぬまで伝え続ければ、
1ミリでも人の役に立てるかもしれないですし、
僕が人のために何かできるとしたらそれぐらいですし、
「考え過ぎる」ということを運命づけられた
僕の生きる意味があるとしたらそれしかないとさえ思います。


今までも、ダサいことも、恥ずかしいことも書いてきましたし、
これからも書くだろうけれども、
僕は、「人によく思われたい」とか、
「自分をよく見せよう」なんて、これっぽっちも思っていません。


自分の「弱さ」は、僕自身が一番よく分かっています。
今さら表面を取り繕ってみても、
何の意味もありません。

塗られたメッキは、いつかは剥がれます。


そうではなくて、
「答えを見つけようとして頑張るけど、それでも見つけられないこと」とか、
「正しさを勝ち取るために、間違ったことを選ばなくてはいけない葛藤」とか、
そんな「ありのままを」書いていきたいのです。


「僕は、毎日幸せだ。全てを手に入れた。
頑張れば、何でも手に入る。だから君たちも頑張りなさい」
みたいなメッセージが仮にあったとしても、
おそらく多くの人は、心に響かないないでしょう。


やはり、人が共感したり、心が動く言葉というのは、
弱さや、葛藤や、矛盾や、悩みや、そういう部分だと思います。

であるなら、
そういうものをいつも背負って、
人以上に「考え過ぎてきた」僕は、
自分のそういうところをこれからも書いていきたいと思います。


たとえ僕の知らない人だとしても、誰かに届くことを信じて・・・




take19821 at 01:56|PermalinkComments(0)