つれづれ

2018年02月03日

日常のいろどり

一冊の小説

一杯のエスプレッソ

一人の笑顔

一通の手紙

一輪の花

一匹の犬

 
 
 

僕の人生を豊かにしてくれるものは、そんなごくありふれたもの。

特別なものは何もいらない。


 

日常の大切さに気づいたのは、30歳を前にしたぐらいから。
 


両肺が破裂して手術後にICUに入れられて、3,11があって、父が認知症になって、色んなことが同じような時期に重なって、少しずつ僕は価値観を変えていった。

 
自然に変わったのではなく、僕自身が望んで変えた。





20代のころ野心家だった僕は、いつしか高望みをしないようになった。



夢や希望を失ったわけでは決してない。

漠然とした未来をぼんやり見るのではなく、ここにある今日一日を確実に見て生きるように変わっただけだ。





明日は明日の風が吹くという。


ならば、明日のことは明日起きてから考えればいい。


雨が降ったら少し大きめの傘を持って、寒くなったらお気に入りのコートを着ればいい。



 
生きるとは日常を楽しむこと。

人生はその積み重ね。




たくさんの日常に、たくさんの彩りを見出せるように。



僕はそれだけを願っている。








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2011年09月07日

「考える」をまた考える

いつかの昼下がり。


たまたま入ったカフェで、
柄にもなく、ボケーーーっとしてたら、
僕より少し年上に見えた友人なのか同僚なのか分からないけど、
そんな二人が、人生相談みたいな話をしていた。


先輩風の男性が、後輩風の男性に言った言葉が
なぜか、と言うか、やっぱり、
僕には違和感でジンマシンが出てもおかしくないぐらいだった。



「オマエさぁぁ、今考えなくても、
そんなのは、その時になったら考えればいいじゃん。
今が楽しければ、それでいいじゃん。」って。



ふーん。


「その時」っていつだろう?


明日?

来週?

来年?



「その時」って、一体いつ?



「その時」は「今」の延長線上にあるわけだから、
今、何も考えてない人間は、
その時になっても、多分何も考えられないだろう。


今、何も考えてない人間が、
その時になって、素晴らしい結論を導き出せる
なんて、そんなおかしなことがあるはずがない。



だって。

「その時どう考えるか(どう考えられるか)」は、
「それまでにどれだけ考えたか」や、
「今、何を考えるか」によって大きく左右される。



「今考え」なくて、一体いつ考えるんだろう?


今考えられない人間が、
その時に考えられることなど、本当にあるだろうか?




「その時になったら考えればいいじゃん」



でも、それは、「考えること」を、ただ先延ばしにしてるだけ。

そうやって、「時間」という二度と取り戻せないほど大切なものを、
あてもなく浪費しているだけ。

考えることから逃げているだけ。


そうやって、一度しかない人生を、
なんとなく過ごしてくのか。



「考えること」は、簡単じゃないし、時間がかかる。

本当に気の遠くなるような作業だ。

それに、考えても分からないこと、
考えても見つからないことが、世の中にはたくさんある。

だから、「考える」ことを、
できれば避けて生きていきたいのかもしれない。



でも。


正面からひとつひとつ「考える」から、その次に進める。

ひとつひとつ考えて、納得して進んでいるから、
今までのことを受け入れて、前だけを見ていれる。


考えて、考え尽くして、考え抜いて決めた事だから、
その決断に自信が持てる。

その決断に責任が持てる。



「考える」ことで産まれる価値ってそういうもんじゃないだろうか?

もっと言うと、「生きる」って、
そういうことじゃないだろうか?



「あの時、よく考えておけばよかった」というのは、
人生には、大いにあり得るだろうが、
「あの時、考えなきゃ良かった」というのは、絶対にあり得ない。


だから、「考える」ことが必要だと思う。

だから、自分に問い続けることが必要だと思う。



確かに、人は、
「幸せになるため」や「楽しくいるため」に、
生きているわけだから、楽しければいい。


それはみんなそうだし、
僕だってそうだ。

間違いない。


しかし、「楽しければいい」っていうのは、
「あーーー、もう死ぬほど考えたよ。
それでも、まだ答えは見つからないけど、
自分の気持ちを大切にして、自分がこれからも楽しくいられる決断を下そう」って、
本人がたくさん考え尽くして、自分が導き出すものであって、
誰かに言うものではない。



「楽しく」いるためには、どうしたらいい?

そもそも、「楽しい」って何?


考えたことある?


「楽しければいい」なんて、
すぐに言ってしまうような人は、そこまで考えてないだろう。



何も考えていない大人にはなりたくない。

何も考えられない大人にはなりたくない。

僕は。



「難しく考えなくても、楽しければいいじゃん」とは、人に言いたくない。

そうやって、考えることを先延ばしにしても、何も産まれない。


むしろ、言うとしたら、
「もっとよく考えたほうがいいよ」って言いたい。

そんで、「苦しいかもしれないけど、考え抜いて下した結論にこそ、価値があるんだよ」って言いたい。



「生きる」って、考え続けて、自分に問い続けて、
それでも答えは見つからないかもしれないけれど、
考えて初めて見えてくる「答えらしきもの」の方向に、
足を少しずつ前に進めていくことじゃないだろうか?



少なくとも、僕はそう思います。



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2011年09月06日

「コアコンピタンス」って何だろう?

「んで、御社は同業他社さんと、何が違うの?」



サービスの詳細とか、料金プランとか、
細かい所まで色々説明するんだけれど、
結局、僕が最後に言うことはいつも同じ。



「正直、同業他社さんとほとんど同じサービスです。」って。

「うちでしか、実現できないことなんて、何一つありません。」って。



それで、付け加える。


「でも、他の会社には、僕はいませんよ。」って。

「どこにでもあるサービスを、どこにもないぐらいの熱意でやりますから。」って。



そこまで言って契約取れなかったら、
初めからご縁がなかったんでしょう。





「コアコンピタンス」って何だろう?



お客さんは、僕に何を求めている?

今までのお客さんは、なぜ契約してくれた?

で、そのお客さんは、なぜ次も僕に仕事を依頼してくれた?




なぜなぜなぜなぜ?



金額?

企画力?

ただ単にタイミングがよかっただけ?


なんで?



どれも違う気がする。




「この人だったら、一生懸命やってくれそう」って思ってくれて、
そこに期待してくれたんじゃない?


「なぜ仕事を依頼してくれたんですか?」って
お客さんに聞いたことないけど、多分そうだ。(と思う。)




今でこそ、起業して5年目だから、知識も少しはあるけれど、
最初は、ビジネスのことは何も知らない25歳のガキだよ。


経験もノウハウも何もないよ。




そんなガキに、なぜ仕事を発注してくれた?

そんなガキに、なぜ大切なお金を払おうと思ってくれた?



なぜなぜなぜなぜ?


やっぱり、熱意とか期待とか、がむしゃらさとか、
そういうのじゃないの?





やっぱり、「人」が全てだと思う。

たとえ、世界一素晴らしいサービスでも、
世界一熱意のない人間が提供したら、
何の魅力もないでしょ。


逆に、世界一ありふれたサービスでも、
世界一熱意のある人間が提供したら、
そこには夢があるし、期待ができるんじゃない?



少なくとも、僕はそう思って働いてきた。




最後の決め手は、結局、人でしょ。

僕は世界一でもなんでもないんだけど、
「商材(サービス)」か、「人」かって聞かれたら、
圧倒的に「人」でしょって話。



だから、「熱意」持ちましょうってこと。

だから、「知識」つけましょうってこと。

だから、お客さんの立場に立ちましょうってこと。



それが、唯一できうる差別化だと思うんだけど。



iPhoneとかiPadみたいに、
他社が思いもつかないほどの、
ずばぬけて差別化できる商品を作れるんだったら、
「人での差別化」は必要ないけどねー。



ま、僕には無理です。




だから、僕は自分を何とかしてもっと磨くしかない。

極端な話、商材とかサービスとか、どうでもいい。

今やってるインターネットの仕事じゃなくてもいいのかもしれない。



提供するサービスは何であれ、
差別化は僕であり、僕自身である。




「詳細はよく分からないけど、
あなたがススめる商品だったら、間違いないでしょう。
だから、契約します。」


そう言わせたら、最強。

そう言わせたいし、そう言われたい。

それぐらいの圧倒的な人間力をつけたい。


他の何かと比較された時点でもう負けだと思うから、
比較されないぐらいの人間力をね。




まだまだだな。

知識も、経験も、ノウハウも、
人間力も、努力も、行動量も、何もかも足りません。


果てしない道だけど、もっと頑張ります。








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2011年09月05日

夢の種を育てる

「私には、まだ夢がない」と言って
なんか必死こいて探してる人がいるけど、
多分違うと思う。

その人は、そうやって「ない、ない」言って、
一生見つけることができないんだと思う。



夢なんて、探して見つけるものではないよ。


うん。

視点が違うと思うわけ。


「夢」は、どこかにあるはずだと思って探すものじゃなくて、
自分でその種を産み出して、
育てるものではないだろうか?

というか、確実にそうだ。



じゃあ、その種はどこに存在し得るかと言ったら、
それは絶対に、自分の心の中にしかない。

人が与えてくれるわけではないし、
どこかに転がっているものでもない。

たまたま、道端に「夢」が落ちていて、それを拾って、
「やっと見つかりました。今日から私の夢は◯◯です。」とは言えないの。



結局のところ。
夢を作り出せるのは、自分しかいない。


ま、よく考えれば当たり前の話ではあるけれど、
「夢はどこかにあって、私はまだそれに出会っていないだけだ。」
という幻想を抱いている人は、実は結構多い。


たとえて言うなら、
「白馬の王子様がどこかに存在していて、いつか出会える」
って信じていて、ずーーーーっと出会えてない人みたいな感じ。

「いい加減に気づけよ」みたいなアレね。



それに。

「夢」というのは、
初めから、「夢」として存在するわけじゃないと思うわけ。

きっと、別の形で存在している。

多分、「願い」とか、「想い」とか、
「こうなったらいいなー」ぐらいの小さなもの。

それが「夢の種」

「夢の種」は、誰にでもある。
「夢の種」は、誰にでも産み出せる。


その夢の種を、自分で産み出して、
自分で大切に育てていく。

そうやって、少しずつ「夢」にしていく。


いずれにしろ、
本当の意味で、「夢」にする作業を通過しなければ、
「夢」には成り得ない。



別にそれは何だっていいし、
他人と比較しなくてもいい。


「自分の子どもの笑顔をたくさん作る」でも、
「ずっと家族仲良くに暮らす」でもいい。

「プロ野球選手になります」とか、
「会社を上場させます」とか、
そういう夢も、それはそれで立派だけれど、
別に、大それたことだけが夢じゃないでしょとも思うわけ。

やっぱり。



他人から見ればちっぽけかもしれないけど、
その夢が、何であるかより、
その夢を、自分がどれだけ深く信じられるか、
その夢を、これからどれだけ大きく育てられるか、
その方が、ずっとずっと大事だと思うわけ。



あ、芸人の土田晃之さんが、
「愛する妻と、これからもずっと一緒にいることが、夢です」って言ってた。

とびきりの笑顔と自信で。

なんか、カッコ良かった。


つまりはそういうこと。

自信持って、人に話せればそれでいい。



僕には僕の「夢の種」がある。

僕は、その種を育てて、大きくしていく。

んで、ここからまた這い上がる。



それで、あなたの夢は何ですか?

自信を持って、その夢を人に語れますか?






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2011年09月04日

わけもなく好き

あなたの「好き」はなんですか?



結婚や交際している人は、
パートナーのことを思い浮かべてみてください。


優しいから好き。
楽しいから好き。
落ち着くから好き。
癒されるから好き。
etc....



仕事が好きな方は、
自分の仕事のことを考えてみてください。


やりがいがあるから、好き。
同僚や上司はいい人ばかりだから、好き。
成長できるから環境だから、好き。
etc....



でもね。

それは、好きな箇所であって、
本質的に好きな理由ではない。

むしろ、僕は「好き」に理由などあってはいけないと思う。




頭がオカシイやつだと思われそうだから、
例えを出す。


どの親も、自分の子供が大好きだ。


僕の両親も、僕を愛してくれたし(もちろん今も)、
僕にも充分伝わっている。

でも、あれって、すごく無条件だと思うし、
見返りを求めてない。
親が子どもを好きな理由なんて、
何もないはずだ。


とりあえずどの親も、
自分の子どもが大好きなんだ。

すごいよ。
すごい。



おむつを変えて、お風呂に入れて、ゴハンを食べさせて・・・

手はかかるし、子どもは親に対して、
特に何もしてあげられない(あげない)けど、
それでも、どの親も自分の子どもが大好きなんだ。


子どもが反抗期で、親を罵倒しようとも、
成人して、それぞれ離れて暮らしていようとも、
親は、子どもがどういう状況であれ、
自分の子どものことが好きだ。


本当にすごい。

でも、「好き」ってそういうことだと思う。



理由はないけど好き。
なんだかよく分からないけど、好き。
存在自体が好き。
好きだから好き。


多分それが一番強いと思う。
そうじゃなきゃいけないと思う。


「理由はないけど好き」っていうのは、
親の子どもに対する愛情と同じように、
何があっても絶対ゆるがない。

だから、そうありたいと思う。


「◯◯だから、好き」っていうのは、
その◯◯がなくなったら、好きじゃなくなるってことだ。

それはすごく弱いし、不安定だ。

だから、そんなの嫌だ。
僕は。



「好きだから好き」とか、
「理由もなく好き」だと想える人やモノに出会えることは、
人生でも、そうそうないと思う。


だから僕はそれを探したいし、
それを作り(創り)たいし、
それを全力で育てたい。



そういや、学生の頃、当時付き合ってた子に、
「私のこと、なんで好きなの?」って聞かれて、
「理由なんてないよ。好きなものは好きだから。」って言ったら、
すごく怒られて、悲しい顔されたことを思い出した。


「理由がない=好きな所がない」っていう意味に伝わったのかな。



僕は今でも、それが一番の答えだと思っているし、
別の誰かに、また同じ質問をされたら、
きっと同じように答えると思う。

あ、「思う」じゃなくて、絶対そうだし、
絶対また「理由はないけど、好きだ」って言いたい。



あなたの「好き」はなんですか?




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2011年09月03日

「ありのまま」を伝え続けるということ

早いもので、ブログを書き始めてから6年以上も経っています。



その間に、Facebooktwitter といった
ブログを書き始めた2005年には存在しなかったメディアが登場したため、
僕が、日々自分の想いや考えを述べる場も徐々にそちらに移行し、
ブログの更新頻度がずいぶんと落ちてしまいました。



しかし、twitterは140文字、
Facebookは500文字という字数制限があるため、
毎日毎日書いても僕の想いの1%も書くことができず、
消化不良で終わってしまう日々の連続で、
字数制限が存在しないこのブログを、
今日、久しぶりに更新するに至りました。




僕は、日々生きていて、考えが止まりません。

想いが止まりません。



とりあえず、誰よりも考えています。


自慢できることでも何でもないですが、
考えていることの量と深さだけは、誰にも負けません。


人間の心臓が自分の意思とは
まったく無関係に動き続けているのと同じように、
僕にとっては、「考えること」は心臓の鼓動と同じぐらい、
無意識的なものです。


人間が自分の心臓の動きを
自分で止めることができないのと同じように、
僕は、「考えること」を自分で止めることはできません。




「考え過ぎだよ」


今までの人生で、もう何百人に言われたでしょうか?



僕は、まぎれもなく「考え過ぎ」だし、
その言葉を否定したこともありません。


しかし。

僕にとっての「考える」ということは、
生きることそのものなのです。



「考え過ぎ」という言葉が一般的に持つニュアンスは、
どちらかというと、少しネガティブな印象があるかもしれません。


「考え過ぎ」=「落ち込んでいる」という感じでしょうか。



僕に関して言えば、
極端にポジティブな性格ということもあって、
落ち込むということは、全くと言っていいほどありません。




日々よく考えることは、
物事の本質的な意義、人の発言の裏にある真意、人生の真理とか、
まぁ、そういう難しく言えばそんなことなのですが、
もっと簡単に言えば、僕は、「本当のこと」がいつも知りたいだけなんです。


そうやって、
小さい頃からずーーーーっと考えてきて、
一人で考えるのも、それはそれでいいのだけれど、
ブログやFacebookといった便利なツールがあるので、
そういうものを使って考えを書いているわけです。




別に、誰かに何かを言いたいわけでも、
誰かに何かを聞いてほしいわけでもないのだと思います。


物事をずーーーーっと深く考えて、
毎日、もがいて、両手振り回して、地団駄踏んで、
何とか答えを見つけようとして、見つからないけれど、
それでも諦めず、一生懸命生きてる。


そういう男が、日本の東京の恵比寿に、一人いるよってことです。



それで、僕の考えを読んでくれた人が、
「そんなこと考えているのは、世界で自分一人かと思ったけど、そうじゃない」とか、
「そういう視点もあるよね」って思って、
また次の日から頑張って生きてくれたら、
僕が頭を悩ませたり、もがいて、考えを書いた価値や意味も
少しはあったのかなと思います。


そういう意味では、
何か困った時に、僕を頼って連絡してきてくれる友人や後輩は、
すごく大切にしたいと思いますし、
最近では、見知らぬ人からFacebookなどで、
「人生相談のってください」とか、「勇気づけられました」
みたいなメッセージをもらうこともあり、うれしくも思います。



たとえ見知らぬ誰かだとしても、
「自分と同じことを考えて生きている人がいる」と心強く感じることができたなら、
天涯孤独かと思えたその人の人生にも、
ほんの少しでも光明が射すんじゃないかなと思います。


僕だって、会ったこともない歌手の、
たった一行の歌詞に、心が救われることだってあります。


僕は、「言葉の持つ力」をいつも信じています。



だから僕は、
「僕は、強くこう思っているんだ」ということも、
「僕は、こんなに弱い情けない人間なんだ」ということも
出来るだけありのままに、出来るだけたくさん、
書いていきたいと思います。



死ぬまで書き続ければ、
死ぬまで伝え続ければ、
1ミリでも人の役に立てるかもしれないですし、
僕が人のために何かできるとしたらそれぐらいですし、
「考え過ぎる」ことを運命づけられた
僕の生きる意味があるとしたらそれしかないとさえ思います。



今までも、ダサいことも、恥ずかしいことも書いてきましたし、
これからも書くだろうけれども、
僕は、「人によく思われたい」とか、「自分をよく見せよう」なんて、
これっぽっちも思っていません。




自分の「弱さ」は、僕自身が一番よく分かっています。
今さら表面を取り繕ってみても、何の意味もありません。


塗られたメッキは、いつかは剥がれます。


そうではなくて、
「答えを見つけようとして頑張るけど、それでも見つけられないこと」とか、
「正しさを勝ち取るために、間違ったことを選ばなくてはいけない葛藤」とか、
そんな「ありのままを」書いていきたいのです。


「私は、毎日幸せだ。全てを手に入れた。
頑張れば、何でも手に入る。だから君たちも頑張りなさい」

みたいなメッセージが仮にあったとしても、
おそらく多くの人は、心に響かないないでしょう。



やはり、人が共感したり、心が動く言葉というのは、
弱さや、葛藤や、矛盾や、悩みや、そういう部分だと思います。

であるなら、
そういうものをいつも背負って、
人以上に「考え過ぎてきた」僕は、
自分のそういうところをこれからも伝えていきたいと思います。



たとえ僕の知らない誰かだとしても、
僕の言葉が、きっと届くことを信じています。






take19821 at 15:53|PermalinkComments(0)

2011年03月15日

最大限の最善

今回の大地震に、大変心を痛めています。

津波により多大なる被害が出た沿岸部には、
私も2度ほど訪れたことがありますが、
風光明媚なその街は、
今はもう跡形もなく消え去ってしまいました。



僕らは、一体何を思えばいいのでしょうか。



毎日、非常に多くの報道がなされ、
いやが応でも、このことを考えずにはいられません。



ひとつだけ僕が言いたかったこと。



「最前線で必死で戦っている人の足を引っ張るな。」ということ。



今回の地震についても、
多くの日本人は、礼節を持ち、
節電や募金にも協力的で
その姿勢は、世界でも称賛されるほどです。



しかし。

いや、だからこそ。


僕は、どうしても気になりました。




東京電力の対応を批判するテレビキャスター。

枝野官房長官の会見の揚げ足をとったり、
くだらない質問を浴びせ、
「正義」を勘違いした新聞記者。

「なんで電車が動いていないんだ」と駅員に詰め寄る会社員。




そういう人達が。


もうそういうの、やめにしませんか?




地球の大自然の前では、僕らは本当に無力です。


いくら科学が発達しても、
残念ながら、今のところ、
地震を予知することも、
津波を止めることもできない。


いくら募金しても、
元の状態にすぐに戻るわけではないし、
亡くなった人を蘇らせることもできない。



だとしたら。


だとしたら、
「最前線で必死に戦っている人を、
批判したり、足を引っ張らない」ことも、
ひとつの支援の形ではないでしょうか?




福島原発では、
被ばくの危険にさらされながらも、
約50人の東京電力の社員が、
メルトダウンしないように、
今も必死に闘ってくれています



彼らは、まさに「死」と隣り合わせです。

「命を懸けて仕事をする」というのは、
まさにこういうことではないでしょうか。




各鉄道会社は、限られた電力の中で、
できるだけ多くの電車が運行できるよう
努力してくれました。

また、地震発生当日は、
終電以降の時間も、電車を走らせてくれました。

これで、どれだけ多くの人が、
自宅に帰れたことでしょうか。



枝野官房長官は、
105時間も睡眠をとらずに、頑張っているようです。




もちろん、彼らの対応が完璧だとは思いませんし、
特に、計画停電や原発に関しての東京電力の対応は、
満足なものとは言えないでしょう。



しかし。


今回の地震は、
人類の歴史上、最大級のもので、
まさに未曾有のものでした。


ですから、完璧な対応などできるはずがないのです。



そういった想定外の事象の中で、
停電に関しても、原発に関しても、
電車の運行に関しても、
その道の専門家が最大限に考えて、
最善の策がなされていると僕は信じています。



だから、僕らは、
それに素直に従いましょうと。



東京電力の社員にも、
鉄道会社の駅員にも、枝野官房長官にも
それぞれに家族がいます。

愛する人がいます。

友達がいます。



そういった人を守るために、
また被害を少しでも少なくするために、
最大限の知恵を絞って、
彼らは動いてくれています。




地震は怖いし、電車が使えないのは不便だし、
停電は嫌だし、被ばくも嫌です。



それは、みんな同じ。

だから、みんな頑張ってる。
だから、みんな必死だ。




テレビキャスターに言いたい。


「じゃあ、あなたは原発を守れるのですか?」と。

「空調のきいた、立派な東京のスタジオで、
オマエは、何を偉そうに言ってるんだ?」と。




新聞記者に言いたい。


「じゃあ、あなたはこれほど冷静に国民に説明できるのですか?」と。




会社員に言いたい。


「じゃあ、あなたは電車がいつもどおり運行できるように、
十分な電力を確保できるのですか?」と。




今回の問題点をまとめたり、
改善策を講じたり、批判したり、
そういうのは、もう少し事態が落ち着いてからで
いいではないですか。




僕らにできることは、
決められたことを素直に従い、
節電して、募金して、
あとは毎日一生懸命生きるだけでしょう。




「働きたくても働けない。」

そんな状況の被災された方々のためにも、
僕は自分の職務を全うしたいと思います。



では。




take19821 at 16:11|PermalinkComments(6)

2010年09月25日

本当のこととか、そんなこと。

2007年に起業してから1,162日が経ちました。



僕は、ことあるごとに、
「起業して本当に良かった」と言ってきましたし、
このブログでも何度かそういうことを、
書いてきました。



それは、心の底から100%そう思っているからですし、
もし今、迷っている人がいたとしたら、
少しだけ、ほんの少しだけ、
勇気を振り絞って、行動に移してほしいと
思うわけです。




僕は今、お陰さまで、法人・個人含め、
たくさんのお客様、取引先、代理店の方々に恵まれ、
仕事においては、これと言った心配事もなく、
毎日働くことができています。



この恵まれた状況を、
僕は非常にありがたく思っていますし、
僕の周りにいるたくさんの方に、
感謝しています。


どう考えても、
自分ひとりでは、
絶対にここまで来ることが出来なかったからです。



しかし。


初めからこういう恵まれた状況だったわけではなく、
起業した2007年は、本当に、
いや本当に大変だったわけで、
あまり今まで周囲の人にも言わなかったし、
もちろんブログでも書かなかったような、
起業当初の実情を書きたいのだと思います。





僕は元々、仕事が大好きだし、
「早く帰りたい」とか「休みの日が待ち遠しい」
なんて思ったこともなく、
起業当初から長時間働くことは、
苦痛でもなんでもありませんでした。



では、何が大変だったか。


それはひとえに、
当時は、「お金がなかった」ということに
集約されるのだと思います。



2007年当時の僕個人の財政状況は、
困窮を究めており、借金350万円、
半年間給料ゼロ、年収200万円以下という、
まぁ普通の生活さえも送るのがなかなか難しい状況でした。


また当時、彼女と1年ほど同棲していたのですが、
起業する直前に彼女が突然家を飛び出し、
それまで、半分ずつだった家賃を、
僕一人で全額払わなければいけなくなったことが、
より一層僕に金銭的なプレッシャーを与えたのでした。




僕の父親が社長だったこともあり、
比較的裕福な家庭で育った僕にとっては、
このような経験は初めてであり、
当時は、恐怖と不安でいっぱいでした。


また、7月に起業してから、
7月、8月、9月、10月と売上がほとんどゼロで、
事態が好転する兆しなど、全く見えず、
毎日悪夢にうなされたのも、
ちょうどこの頃でした。




本当にこの頃は、
知識も経験も人脈もお金も何もなかったのだけれど、
「なんであんなに、毎日頑張れたのだろう」と、
今でもよく思います。


今より遥かに労働時間も長く、
遥かに睡眠時間も短かったのに、
今より体調も良かったのです。



当時の僕は、まだ25歳で、
世間のことも、ビジネスのルールも何も知らなかったけれど、
とにかく希望に満ち溢れていました。


今よりも、全然。


やはり、人は希望さえあれば、
充実した生活を送れるのです。



それに、当時は失うものが何もありませんでした。

というより、
お金とか安定した生活とか彼女とか、
失うべきものは、既に全て失っていました。


また。

そもそも借金をして始めた会社だから、
「もう、それ以下には、なりようがない」と、
半ば開き直っていたのかもしれません。


毎日カップラーメンでも、
その当時は、まったく苦にはなりませんでした。



「若さ」ってすごいなと。

「希望」ってすごいなと。




今は、知識も経験も人脈も
あの頃よりは遥かに増えました。

お金に困ることも、もうありません。



しかし。


「同じことをやれ」と言われても、
今だったら、もう無理です。


ハッキリ言って、
あの頃には絶対に戻りたくないぐらいです。



やっぱり、「若さ」はすごいのです。





起業してからの1,162日の間に、
嬉しいことも、嫌なことも、悲しいことも、
人よりは多く経験したように思います。



たとえ、嫌なことや悲しいことでも、
その一つ一つが僕の財産です。

そういうネガティブなことこそが、
物凄い強烈な推進力になるということを、
学んだからです。



実際、起業当初の「お金がない」という経験は、
僕に強烈なハングリー精神を与えてくれましたし、
それは今でも僕を形成する一つの要素であるのです。



そういうものすべてを力に転換して、
今日までやって来ました。

これからも、そうやって
生きていくのでしょう。



しかし。


僕は、まだ何か、事を為しえた人間ではありません。

努力も知識も、まだまだ足りないでしょう。



ですから、引退予定の35歳までは、
たとえ何かを犠牲にすることがあったとしても、
「仕事第一」で生きていくつもりです。



その時、一体どういう景色が見えるでしょうか。



「もっと仕事を続けたい」と思うかもしれない。

「もうこれ以上働きたくない」と思うかもしれない。

別の何かをしたいと思うかもしれない。



いずれにしても、
自分が到達したいと夢見た地点に、
たどり着いて初めて見える景色、
たどり着いて初めて抱く感情が、
絶対にあるのだと思います。


それが、僕は今からとても楽しみですし、
人生のモチベーションでもあります。



ですから、
僕の周りにいる人にはいつも言っている事ですが、
やりたいことや、夢があるのなら、
「明日から」とか言わずに、
今この時点から始めてみて下さい。


「早く始める」というのは、
それだけで、非常に大きなアドバンテージになると、
僕は自分の経験から、
自信を持って言えます。


「始めるべきは、いつも今」なのです。



僕のこのブログを見て、
一人でも誰かが行動を起こしてくれることを、
心からいつも願っています。


では。





take19821 at 18:53|PermalinkComments(1)

2010年07月24日

妥協するとか 希望を持つとか

妥協できる性格なら楽だったんだろうと思う。



「妥協」



どこかの時点では、必要なのだろうと思う。


けれど。

妥協ができない、昔から。



仕事でも、それ以外でも。



良く言えば、「完璧主義者」

悪く言えば、「タダのバカ」



だから、自分の求めているものと、
現実とのギャップにいつも苦しめられる。



納得することができても、満足はできない。



それを、日々のモチベーションにさえしているけれど、
自分が追い求めているものには、
これっぽっちも近づけない。

もう28歳だというのに。


なんだこれ。



自分が探し求めているもの、
言わば「理想」みたいなものは、
空の「雲」のようなものかもしれない。

確かに目には見えるけど、
近づいても絶対につかめないもの。


それでいいのだ。



昔の人は、空の雲を
「綿菓子」みたいなものと考えたのかもしれない。

もしくは、雲の上に乗れるんじゃないかとも
夢を抱いたのかもしれない。



しかし。


人類が飛行機を発明し、
実際に空の雲に近づいてみると、
雲なんかつかめもしないし、
ましてや乗ることもできない。


その時に初めて、
「雲に乗れるなんて幻想に過ぎなかった」と
知ったんだろう。




それでいいのだ。


僕の理想は雲かもしれないし、
幻想かもしれない。


僕は、残りの人生をかけて、
自分の目でそれを確かめに行くのだ。


「本当はどうなのか」ということを。



もし実際に「雲」だと知ったら、
その時は絶望するかもしれないし、
途方に暮れるかもしれない。


しかし。


自分が理想と考えたものに近づくその過程、
そこにかけた努力、そこに抱いた希望・想い
それらのひとつひとつに、
僕は大きな意味があるのだと考えています。



だから。



信じなくてはいけません。

希望を持たなくてはいけません。



生きていれば、
裏切られることも、絶望することもあるだろうけど、
だからといって初めから諦めてしまっては、
何も始まらないのです。


それは、例えて言うなら、
「離婚」するのが怖くて「結婚」しないぐらい、
馬鹿げたことなのです。


そりゃ結婚したら離婚する可能性だってあるでしょう。

しかし、初めからそんなことを考えている夫婦はいないでしょう。
(実際は、3組に1組は離婚してしまうのですが・・・)



そういう意味で、
希望を持ちましょうということです。



絶望したら、
途方に暮れてしまったら、
誰かに裏切られたら、
その時は悲しくてやり切れないかもしれないですが、
それらを経験せずに生きていくことなんて絶対にできないでしょう。



その時は、時間が解決してくれるでしょう。

その時は、友人や家族が話を聞いてくれるでしょう。




当たり前に過ごしていては気づかなかったことが、
そういった経験をしたことで、
「大切なものに」気づかされることもあるでしょう。



そして。


そこで得た経験の中には、
その辛さや悲しみが大きければ大きいほど、
自分を成長させてくれる種が詰まっているのです。



ということで。


どんな状況でも、
しっかりと顔をあげて、希望を持ち、
自分自身や自分の未来を信じていきましょうということです。



そう考えている人間にこそ、
いや、そう考えている人間にのみ、
神は「幸運」を与えるのだと僕は考えています。








take19821 at 00:50|PermalinkComments(1)

2010年07月03日

そのどれもがすばらしくて

5月以降、何かが少しずつおかしくなり始めた。




今まで当たり前のように、
うまくいっていたことが、
突然うまくいかなくなる。



「何が?」と言われてもうまく説明できないが、
何かが少しずつおかしい。




「人生いいことばかりではない」というのは、
嫌というほど認識しているので、
こういう時ほど気持ちを強く持ってじっと耐えていれば、
また追い風が吹いてくるのだ。


人生とはそんなもんだ。




人生には、こういう要素が必ず必要だし、
困難、悲劇といった、一見ネガティブな要素の中にこそ、
自分が成長できる種子が詰まっている。



だから、
何もかもがうまくいかないここ2ヶ月のことを、
僕は、非常に肯定的に捉えているし、
感謝さえしているぐらいだ。




そう、すべては自分の捉え方次第。



僕の数年来のバイブル
真理を突いた一節があるので、
最後に紹介しておこう。



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負けると思ったらあなたは負ける。
負けてなるものかと思えば負けない。


勝ちたいと思っても、
勝てないのではないかなと思ってしまったら、
あなたは勝てない。

負けるんじゃないかなと思ったら、
あなたはもう負けている。
というのも、成功は人の考えから始まるからだ。
すべてはあなたの心の状態によって決まるのだ。


自信がなければあなたは負ける。
上に登りつめるには高揚した精神が必要だ。
何かに勝つには自信が必要だ。


人生の戦いに勝つのは、
必ずしも最も強くて、最もすばしっこい人ではない。
最終的に勝利を収めるのは、
「私はできる」と思っている人なのだ。





take19821 at 22:52|PermalinkComments(0)