2016年06月09日

映画「FAKE」観てきました

昨日は、映画「FAKE」を観てきました。ゴーストライター問題でマスコミから袋叩きにされた佐村河内守氏を追ったドキュメンタリーで、話題になっていると知りながら、平日昼間の回に行けば大丈夫だろうと思っていた私が甘かった。11:30開演の回に11:19頃着いたら整理券番号115番。座席数145のユーロスペーススクリーン2は、115番目に入ったときには見やすそうな席が埋まっており、前から2列目で観た私は画面酔いしてしまいました。居間で過ごしている佐村河内氏を取るときはカメラが固定されていることが多いものの、移動時など手持ちカメラで画面が大きく揺れる映像も少なくないので、これから見る人にはたとえ遅い整理券番号になってしまった場合でも、前ではなく後ろの方でどうにか空席を探すことをお薦めします。

この映画について、ネタバレさせずに話すのは難しいですが、感じたことを書いてみます。映画が撮られた時期は、ゴーストライター問題がまだ冷めやらぬ頃で、自分のことを取り上げられている番組を佐村河内氏が見るシーン、テレビ局の人間が出演依頼に来るシーン、外国のメディアがゴーストライター問題を取材に来るシーン、新垣氏の最近のタレント化した活動をメディアを通じて見ている佐村河内氏などが次々流されます。ドキュメンタリーなので、日常の生活シーンもあったり。

ちなみに、この映画の監督である森達也氏は、新垣氏をはじめとした佐村河内氏と対立関係にある人たちにも取材を申し込みますが、断られています。新垣氏に至っては、著書のサイン会に来場者として行き、サインに書く名前を森達也と告げたところで、新垣氏があの森達也と気づき、「あらためて取材させてください」「はい、ぜひ」という会話を交わしたものの、その後取材を申し込むと断られる。その意味では、この映画は佐村河内氏を追ったドキュメンタリーであるとともに、佐村河内氏のドキュメンタリーを撮っていると知られた人間がどういう対応をされるかということも映し出しています。

この映画を語る難しさは、「ゴーストライター問題」があまりに多くの要素を含んでおり、その主要人物を追うことでその要素全てに触れることになるからだと思います。私自身、簡便的に「ゴーストライター問題」と書いていますが、この件について佐村河内氏が作ったとされている作品が違う人が書いていたという点は、発端ではあるけれどそれほど大きい要素ではない、この点は佐村河内氏も謝罪会見の際に認めている。それよりも、耳が聞こえない作曲家であることで「現代のベートーベン」と呼ばれていた人が本当は耳が聞こえていたのでは、という障害に関することの方がマスメディアによって焦点をあてられていると言えるでしょう。

今、大きい要素ではないと書いた「作り手は誰か」という点についても、この件の真相は別にして(映画を見ても一方の意見を聞けるだけなので判断はできない)、構想を考える人と具体的なメロディを完成させる人が別だった場合、それは誰の作品になるのかというのは、漫画のアシスタントに著作権はあるのかということにも繋がるような、これだけでも語るべきことがたくさんあるんですよね。

それに加えて、障害のある人・ない人という二項対立して考えてしまう人の浅はかさ、公平に真実を探ろうとするより自分の意見と合うことだけ報道するマスメディアなど、本当にたくさんのことが詰まっています。私の中では、佐村河内氏が聴覚に困難がある同じ立場の人を最も苦しめたという言葉が印象的で、そうした方が口の動きで言葉を読み取ろうとすることは、困難のない人とのコミュニケーションに際して、手話や筆談だけに頼るよりコミュニケーションをよりスムーズにできることなのに、スムーズであることをもって障害を疑うというのは本当に酷いことだと思います。

ここまで書いていて気が付いたけど、私は佐村河内氏が本当に作曲したのか、とか、本当に耳が聞こえるのかとか、この問題について個別の興味はありません。それを判断できるほど、メディアを通じての情報は信頼できるものではないという思いは、この映画を見てやっぱりそうだと確認はしましたが。それに、上にも書いたように、佐村河内氏と対立する人たちの言い分を聞けないこの映画ではそれは判断できないし。だから、その辺の真実を知りたいと思って映画を観に行こうとしている人がいたら、この映画は見ても無駄だと思います。私はむしろ、佐村河内氏の件から見える、普遍的な人間の弱さ・ずるさとか社会問題とかのほうに興味があります。

そこで、「FAKE」というこの映画の主題を考えると、偽物・見せかけがあるとしたら真実もあるはずですが、でも真実って本当にあるのか、見せかけも本当にあるのか、偽物と真実に境界線は引けるのか、と思うんです。

例えば、佐村河内氏は、中度の感音性難聴で、身体障害者福祉法での聴覚障害には該当しない。これを「全聾」というのは確かに嘘だろうけど、「耳に障害がある」という表現をしたら嘘なのか本当なのかを、単純に手帳交付の有無で判断するのは違うのでは。

もう少し一般化させます。ちょっとお腹が痛い、でも頑張れば仕事できないことはない、でも今日は働きたくない気分、そのとき「病気で休みます」と言ったら、仮病なのか、それとも痛いことは事実なんだから真実なのか。

騙す相手が自分のときもありますよね。本当に辛いことがあったとき、それを自分でも認めたくないことがある。楽になるために、自分にとってそれなりに大事なことを「たいしたことではない」と思い込む。そうやってごまかすことが返って気持ちをこじらせることもあれば、そうやって辛さから乗り越えられることもある。思い込みが成功すれば「真実」で失敗すれば「嘘」ということなのか。

自分でしたいと思って何かをするのと、人にやれと言われて何かをしたのとでは、「何か」の質が変わってしまうのか。前者は真実で、後者は見せかけと言い切れるのか。

森達也氏は、ドキュメンタリーは嘘をつく、カメラを向けた時点で人は演じる、見せられる部分しか見せなくなる、という考えの人ですが、そもそもカメラがなくても、他人と一緒にいるときと自分一人でいるときって違うはず。それは、一人でいるときが本当で、他人といるときが偽物ということなのか。

佐村河内氏を通じて考えさせられる「偽物・見せかけ」「真実」は、かたちや大きさが違うだけで、誰でも関わりがあること。この映画の最後の問いに、何の曇りもなく答えられる人がいたら、私はその言葉こそFAKEだと思います。

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