東京図書館制覇!Blog版

東京23区の公立図書館を全て訪れたサイト「東京図書館制覇!」の管理人TakeniのBlogです。

カテゴリ: 【映画】

昨日は、映画「FAKE」を観てきました。ゴーストライター問題でマスコミから袋叩きにされた佐村河内守氏を追ったドキュメンタリーで、話題になっていると知りながら、平日昼間の回に行けば大丈夫だろうと思っていた私が甘かった。11:30開演の回に11:19頃着いたら整理券番号115番。座席数145のユーロスペーススクリーン2は、115番目に入ったときには見やすそうな席が埋まっており、前から2列目で観た私は画面酔いしてしまいました。居間で過ごしている佐村河内氏を取るときはカメラが固定されていることが多いものの、移動時など手持ちカメラで画面が大きく揺れる映像も少なくないので、これから見る人にはたとえ遅い整理券番号になってしまった場合でも、前ではなく後ろの方でどうにか空席を探すことをお薦めします。

この映画について、ネタバレさせずに話すのは難しいですが、感じたことを書いてみます。映画が撮られた時期は、ゴーストライター問題がまだ冷めやらぬ頃で、自分のことを取り上げられている番組を佐村河内氏が見るシーン、テレビ局の人間が出演依頼に来るシーン、外国のメディアがゴーストライター問題を取材に来るシーン、新垣氏の最近のタレント化した活動をメディアを通じて見ている佐村河内氏などが次々流されます。ドキュメンタリーなので、日常の生活シーンもあったり。

ちなみに、この映画の監督である森達也氏は、新垣氏をはじめとした佐村河内氏と対立関係にある人たちにも取材を申し込みますが、断られています。新垣氏に至っては、著書のサイン会に来場者として行き、サインに書く名前を森達也と告げたところで、新垣氏があの森達也と気づき、「あらためて取材させてください」「はい、ぜひ」という会話を交わしたものの、その後取材を申し込むと断られる。その意味では、この映画は佐村河内氏を追ったドキュメンタリーであるとともに、佐村河内氏のドキュメンタリーを撮っていると知られた人間がどういう対応をされるかということも映し出しています。

この映画を語る難しさは、「ゴーストライター問題」があまりに多くの要素を含んでおり、その主要人物を追うことでその要素全てに触れることになるからだと思います。私自身、簡便的に「ゴーストライター問題」と書いていますが、この件について佐村河内氏が作ったとされている作品が違う人が書いていたという点は、発端ではあるけれどそれほど大きい要素ではない、この点は佐村河内氏も謝罪会見の際に認めている。それよりも、耳が聞こえない作曲家であることで「現代のベートーベン」と呼ばれていた人が本当は耳が聞こえていたのでは、という障害に関することの方がマスメディアによって焦点をあてられていると言えるでしょう。

今、大きい要素ではないと書いた「作り手は誰か」という点についても、この件の真相は別にして(映画を見ても一方の意見を聞けるだけなので判断はできない)、構想を考える人と具体的なメロディを完成させる人が別だった場合、それは誰の作品になるのかというのは、漫画のアシスタントに著作権はあるのかということにも繋がるような、これだけでも語るべきことがたくさんあるんですよね。

それに加えて、障害のある人・ない人という二項対立して考えてしまう人の浅はかさ、公平に真実を探ろうとするより自分の意見と合うことだけ報道するマスメディアなど、本当にたくさんのことが詰まっています。私の中では、佐村河内氏が聴覚に困難がある同じ立場の人を最も苦しめたという言葉が印象的で、そうした方が口の動きで言葉を読み取ろうとすることは、困難のない人とのコミュニケーションに際して、手話や筆談だけに頼るよりコミュニケーションをよりスムーズにできることなのに、スムーズであることをもって障害を疑うというのは本当に酷いことだと思います。

ここまで書いていて気が付いたけど、私は佐村河内氏が本当に作曲したのか、とか、本当に耳が聞こえるのかとか、この問題について個別の興味はありません。それを判断できるほど、メディアを通じての情報は信頼できるものではないという思いは、この映画を見てやっぱりそうだと確認はしましたが。それに、上にも書いたように、佐村河内氏と対立する人たちの言い分を聞けないこの映画ではそれは判断できないし。だから、その辺の真実を知りたいと思って映画を観に行こうとしている人がいたら、この映画は見ても無駄だと思います。私はむしろ、佐村河内氏の件から見える、普遍的な人間の弱さ・ずるさとか社会問題とかのほうに興味があります。

そこで、「FAKE」というこの映画の主題を考えると、偽物・見せかけがあるとしたら真実もあるはずですが、でも真実って本当にあるのか、見せかけも本当にあるのか、偽物と真実に境界線は引けるのか、と思うんです。

例えば、佐村河内氏は、中度の感音性難聴で、身体障害者福祉法での聴覚障害には該当しない。これを「全聾」というのは確かに嘘だろうけど、「耳に障害がある」という表現をしたら嘘なのか本当なのかを、単純に手帳交付の有無で判断するのは違うのでは。

もう少し一般化させます。ちょっとお腹が痛い、でも頑張れば仕事できないことはない、でも今日は働きたくない気分、そのとき「病気で休みます」と言ったら、仮病なのか、それとも痛いことは事実なんだから真実なのか。

騙す相手が自分のときもありますよね。本当に辛いことがあったとき、それを自分でも認めたくないことがある。楽になるために、自分にとってそれなりに大事なことを「たいしたことではない」と思い込む。そうやってごまかすことが返って気持ちをこじらせることもあれば、そうやって辛さから乗り越えられることもある。思い込みが成功すれば「真実」で失敗すれば「嘘」ということなのか。

自分でしたいと思って何かをするのと、人にやれと言われて何かをしたのとでは、「何か」の質が変わってしまうのか。前者は真実で、後者は見せかけと言い切れるのか。

森達也氏は、ドキュメンタリーは嘘をつく、カメラを向けた時点で人は演じる、見せられる部分しか見せなくなる、という考えの人ですが、そもそもカメラがなくても、他人と一緒にいるときと自分一人でいるときって違うはず。それは、一人でいるときが本当で、他人といるときが偽物ということなのか。

佐村河内氏を通じて考えさせられる「偽物・見せかけ」「真実」は、かたちや大きさが違うだけで、誰でも関わりがあること。この映画の最後の問いに、何の曇りもなく答えられる人がいたら、私はその言葉こそFAKEだと思います。

スカパーのプレゼント企画に応募したら、映画『LIFE!』の試写会に当選しまして、昨日観てきました。応募していたことも忘れていたくらいで、どんな作品なのか予備知識ゼロで観たのですが、メッセージに共感できるいい作品でした。

主人公は雑誌『LIFE』の写真ネガを管理する仕事についている男。同僚の女性に恋をしているのに、面と向かって誘うことができず、彼女が出会い系SNSに登録したと聞いてネット経由でコンタクトをとろうとするといった調子で、内気といえば聞こえがいいけど、現実逃避している。映画のようなエキサイティングな出来事を空想しながら、実際には何をするわけでもなく毎日を過ごしている。

ある日出社すると、会社が買収されてLIFE誌が廃刊になると告げられる。LIFE誌を代表する写真家から、最終号を飾るのはこれしかないとネガフィルムが送られるが、指定された写真のネガだけが抜けていた。失われたネガを手に入れるために世界中を駆け巡る写真家を追いかける旅に出る男が、珍道の結果得たものは…といったストーリー。

物語としては正直言ってオチが見えてしまうのですが、それもある意味メッセージの一つでしょう。想像上の「予想のつかない展開」なんかより、自分の足で歩き、自分の目で見て感じる現実の方が何倍も楽しい。そして、その気になれば同じことを繰り返すつまらない毎日から今すぐにでも飛び出せる。確かに、今日知り合った人と深く反してみる、今まで降りたことがない駅で降りてみるといったことも、その人にとって新しければエキサイティングな出来事です。

映画では、実際にエキサイティングな経験をしはじめた主人公が意外と冷静なのもいいんですよね。それが客観的に見て注目を浴びることなのかどうかより、体験している目の前のことが自分にとっては大事という感覚に、とても共感しました。

もう一つ、実際の『LIFE』誌に使われた写真を多用しているのも、この映画の楽しさ。オフィスの内装や廃刊による撤退作業シーンのなかで、著名人や歴史的光景の表紙写真がこれでもかと登場します。たぶん、ストーリーを追うことに目が行って気が付かなかった写真もたくさんありそう。これから観る方は、あちこちに登場する写真にも要注目です。

観終わったとき、やってみたいと思っていてまだやっていないことへの一歩を踏み出そうと思わせる映画でした。私は、まずは東京の町村の図書館へ行こう行こうと思っていてまだ行っていないので、今年度中(もう残り35日ですね)に行ってみようっと。


昨日、小説の『悪人』を読み終わって、ブログには書かなかったけど思ったことがあります。それは祐一を妻夫木聡が演じたということがどうもしっくりこないということ。原作の祐一って、無口で自分の思いをうまく表せない(←ここまでは演技でどうにかできるとして)エッチが上手で身体が大きい肉体労働者なんですよ(←こっちがどう想像しても妻夫木聡にはならない)。でも、見てもいないのに想像で合わないとか言ってはいけないなあと思って、DVDを借りてきました。

妻夫木の祐一を見た結果としては、やっぱり背格好は小説の祐一とは違うけど(そりゃそうだ)、内面は小説の祐一のままに演じていてよかったです。笑うのがもっと下手だと尚よかったけど、表情乏しくて祐一らしかった。うまく表現できずにいるシーンとか、そばにいてあげたくなります、ホント。

筋は微妙に小説とは違うんですね。小説の通りでは2時間ちょっとではおさまらないという都合だけでなく、小説にはなかったシーンも入っていました。小説だと、最初から二人は本気なのですが、映画だと最初の出会いで妻夫木聡が深津絵里にお金を渡してるんですね。小説の祐一はわりと最初から心を開くんですけど、映画の祐一はお金の関係にすることでまずは光代との間に垣根を築く。私は先に読んだせいもあると思いますが、小説の方がしっくりきます。

また、これも小説にはないシーンで、映画では逃亡中に二人が口論して、祐一があんなことをしなければずっと一緒にいられるのにと光代が責める。小説はもっと追手が切迫していて、口論する余裕もなくとにかく二人でいたいという様子なんです。この点では映画の方がリアリティあって(やっぱり口論くらいしますよね 笑)、小説の方が逃避行のファンタジーの世界に二人で浸かってしまっている感じ。これに関しては、どちらもそれぞれいいなあ。

そして結末…ん?妻夫木聡がどうして実のお母さんにお金をせびったのかとか、最後に深津絵里の首を絞めた理由の説明がないまま終わっちゃった。これでは本当に妻夫木聡が悪者で、深津絵里がそれでも好きになっちゃったというだけじゃん!他人に信じてもらえない、理解してもらえないでここまで来たことが祐一(妻夫木聡)を不幸にし、やっと信じてもらえた光代(深津絵里)にも自分から背を向けてしまうというのが、原作の大きな要素なのに、そこが映画にはないんですよね。

いや、私が見た限り、妻夫木くんはその内面を演じているのですが、脚本でのフォローがないので、映画だけを見た人にはそこまでわからないんじゃないかと思う。事実、深津絵里が最優秀女優賞を受賞して、妻夫木くんが何ももらっていないということは、そこのところが伝わっていないんだと思う。映画で光代の内面も祐一の内面も描くには時間が足りないという都合もあるのでしょうが、どちらかといったら祐一の方を描いて欲しかった。

というわけで、映画しか見ていない人にはぜひ小説版『悪人』も読んで欲しいです。そしてまた、私の中では、小説がよかったものは映画化されても見ない方がいいという思いが強くなってしまいました。いっそ、ドラマの方が1話45分×10話でも7.5時間あっていろいろ描けるとも思いますが、ドラマはドラマで1話ごとにある程度の区切りをつけないといけないですしね…。やはり小説の方が自由でいいですね。

▼DVD『悪人』のレビュー
Amazon カスタマーレビュー
楽天 みんなのレビュー

先日読んだ、谷崎潤一郎の『猫と庄造と二人のおんな』、森繁久彌・山田五十鈴・香川京子で映画化されたものを23区立図書館で検索してみたら、港区立図書館でのみ所蔵していたので、予約してみなと図書館で視聴してきました。

みなと図書館の視聴ブースは2台分あるのですが、結構利用されている率が高いようです。私、日曜に一度行ったのですが、開館時間内の利用が既に埋まっていたので断念。金曜の14:30頃行って、15:55からなら空いているということで1時間半待っての視聴でした。

映画『猫と庄造と二人のをんな』については、事前にヘビーユーザーさんやtwitterでお話した方から、香川京子の魅力を聞いていましたが、私もやられました(笑)。それに、香川京子って清楚なイメージがあったので、その勝手なイメージとのギャップに衝撃。遊びまくり不良娘の崩れ具合がちょうどよくて、確かに庄造以外にもらい手がないほど遊びまくっている風だが、遊びでいいならぜひともちょっかいを出したくなるような…。

ストーリーとしては、本の感想にも書いたように、庄造を本気で奪い合っているというよりは、庄造なんてネタにすぎなくて、女性陣は競争に勝つことが目的だといことを強く感じさせるもので、広く解釈すると、競争社会に順応できない人(=庄造)を描いた作品ともとれる。この映画は1956年のもので、ちょうど高度経済成長の初期ですし。

で、順応できない庄造は、本当に自分の気持ちをわかってくれる猫のリリーを溺愛しているのですが、リリーと会話できるわけではないので、実は庄造がそう解釈しているに過ぎないだけなんですよね。実際のリリーは、山田五十鈴演じる前妻の品子に順応しちゃったわけですし。

小説の方は、庄造を材料にバトルしている様を描いているだけなのですが、映画の方は庄造自らのセリフとして“自分はバトルの材料に過ぎず、リリーに救いを求めている”ということを言っているので、余計に虚しさが感じられます。

ただ、映画の方は、庄造を取り巻く女性のバトルを時系列で追っているところが、小説よりも冗長に感じてしまう面もありました。小説は、前妻品子が後妻福子に手紙を送るところ、ある意味女同士のバトルが成熟期に入っているところから始まるのですが、映画は品子が家を出て行くところから始まり、家を出てしばらくしてから、福子が後釜に入ったと聞いて、やっとバトルが始まるんです。原作を読んでいるせいかもしれないけど、最初のほうは「バトルはまだか~」とちょっと退屈になっちゃった(笑)。

この辺は、谷崎潤一郎の小説の構成の上手さに感服します。今、『少将滋幹の母』を読んでいるのですが、この作品も構成がよくて。今日は、『猫と~』のビデオを見た上に、行き帰りの電車内で『少将滋幹の母』を読んでいたので、谷潤三昧の一日でした(笑)。

今日はスカパーの抽選で当選した試写会「ハンコック」へ。一緒に行った友達も私も軽い気持ちで行ったのですが、水道橋に着いたら外に舞台ができていて、その前に人だかりができていて、たぶんウィル・スミス本人が出て何かしてたんだろうけど、皆ワーワー集まっている。それを見て、友達と私は「もしかして、結構いいイベントに当選した?」と言っているくらいで、イマイチわかってなかったですが(笑)。

試写会の席は3階席といえども一番前で、試写会の前には主演のウィル・スミス、シャリーズ・セロンのトークに加えて、スペシャルゲストで朝青龍!この映画、強いけど傍若無人で皆に憎まれているヒーローが、皆に好かれるヒーローに変われるか? といった話なんですよ(本当はもうちょっといろいろあるけど、まだ公開されていないので説明は予告編でもわかるこの辺まで)。誰が考えたのか知らないけど、そんな映画のゲストに朝青龍を呼ぶという発想がいい(笑)。ちゃんと司会のお姉さんも朝青龍に話を振るときに「この映画は憎まれっ子のヒーローと言うことで、、、あ、いえ、朝青龍さんがどうという訳ではなくて、、」とか言ってるし。ちなみに朝青龍は「皆に愛されるように頑張ります」みたいなことを言ってたような気がします。

映画そのものは、思ったより面白かったですね。憎まれっ子のヒーローだった頃、犯罪者を捕まえるために建物をボコボコ壊していく様があまりにも気持ちがいいので、むしろこの辺は更生しないで欲しいと思うくらい。どうしてそうやって人助けする際に破壊活動をしてしまうのか、というところでアメリカがお好きな精神分析をやりだすのかとうんざりしかけたけど、それはそんなに深くはやらずにさらっと。それに主人公にとっては必ずしもハッピーとはいえない終わり方だったのもよかったです。孤独な方がヒーローらしいってことか?

それにしても意外だったのは、ウィル・スミス、ハイヒールを履いたシャリーズ・セロン、朝青龍だと、朝青龍が一番背が低いのです。ハリウッドスターって、背高いのね。

見終わった後は同い年の女友達と御飯を食べながらおしゃべり。この歳になって思う人生観・男性観などなど、同い年の友達との話は、違う歳の友達との話では得られない共感があって、すっきりします。

●今日の図書館
なし

●今日の読書
黄色い吸血鬼 (ふしぎ文学館)
これは戸川昌子の短編集なのですが、この前にも2作長編を読んでいるので、さすがにそろそろ戸川昌子ワールドに対してお腹いっぱいになってきました(笑)。

映画「ホット・ファズ」を観てきました。その期待が違うんじゃないの?と言われればそれまでなのですが、もっとお馬鹿な映画を期待していたので、期待ハズレ。でも、決してメインストリームとなろうとして作られた映画ではないよなあ。

一緒に観た友達と、もっと事件の真相が明らかになる場面を早くして、アクションシーンで遊んだ方がいいとか、警察の面々のキャラクターをもっと濃くした方がいいとか、言いたい放題言っていました(笑)。

スカッと笑える映画を求めていて期待が外れたので、他に何かないか物色中。最近家で「オースティン・パワーズ:デラックス」のサントラ(このシリーズの音楽の趣味は素晴らしい!)をよく聴いていることもあって、オースティン・パワーズを観たくなってます。

そうそう、最近ジンジャーシロップ作り(KDOさん、おいしいでしょ!)をさぼっているので、そろそろ作るとするか。

●今日の図書館
なし。8月は毎日図書館通い、というのを秘かに目指していたのですが、ダメでした。

●今日の読書
大いなる幻影
読了。感想は別記事で。

南千住図書館でヘビーユーザーさんに先んじ借りてきたビデオ「十九歳の地図」ですが、私の家にはビデオデッキがないので、わざわざ実家まで戻って観てきました。

実家に行けば簡単に見られると思いきや、居間には新しい大型テレビとDVDデッキが置かれ、別室に放置されていた中型テレビとビデオデッキを自分で接続して観るはめに(笑)。考えてみりゃこれからビデオデッキを持たない家は徐々に増えていくだろうし、ビデオを所蔵し続ける図書館は館内視聴ができるようにしてもらえるとすごく嬉しいなあ。

「十九歳の地図」は中上健次原作の映画で、新聞配達の少年が配達区域の地図を自作し、日々気に障った人の家に×を書き込んで、×のついた家にイタズラ電話をかけるという、とにかく暗い映画です(笑)。

率直に言いますと、主人公の青年役の本間優二があまり演技がうまくないのですよ。だから、その鬱々としたところに全くこちらの心が動かされないんですよね。

私もこれでも(?)鬱々とした部分も持っている人間なので、それが引き出されると私にとってもすごい映画ってことになると思うんだけど。

私は高村薫が好きで、でもそれをあまり認めたくないみたいな感情があるんですよ。高村薫って、一見社会でそれなりに適応して生活しつつも、心の中で鬱々としたものが溜まっている人間を描くのがすごく上手で、そこにすごく魅かれてしまうものの、読むことで自分の中にある普段は隠れている鬱々とした感情にも気付かざるを得ない。しかも、高村薫の小説は、その鬱々とした感情をついに爆発させてしまう、という話多いので、高村薫の小説がそれなりに売れているというこの社会は大丈夫なのだろうかと思ったりもするのですが(笑)。

まあ、とにかく、私にとっての高村薫まで行かなくても、幾ばくかでも十九歳の青年に共感できればよかったのですが、本間優二にはどうもそれを感じなかったのです。

あと、これ観ていて思ったのですが、私は地図を書いて嫌な人に×つけるとかは絶対しないですね。って、まあ普通はしないですけど(笑)、もしどうかしちゃって私が地図を作るとしても、嫌な人には×をつけるんじゃなくて、消しちゃうんじゃないかと思う、私の場合。

私、嫌いな人に対して、嫌がらせとかしないで、どうでもいい人に格下げしちゃうんですよ。まあ、相手から嫌がらせされれば仕返ししたりもしますけど(笑)、そうじゃなければ、相手が目上の人だろうと『どうでもいい人』扱いを(もちろん相手にわかるように)しますね。だから、あまりこの地図を作る気持ちがわからないってのもあります。

結局、このビデオ「十九歳の地図」ではどうも私の心に訴えてこないので、原作の「十九歳の地図」を読もうと中上の短編集を予約しておきました。少年と同じ部屋に住んでいるダメ人間(蟹江敬三)や彼の恋人のこととかをもっと考えてみたいけど、どうもこのビデオでは頭に入ってこないので、文章で読んでみたいです。

友達に付き合って「トランスフォーマー」を観てきました。

う〜ん、もっと完全な娯楽映画に徹してくれればいいのに、何で取ってつけたように説教臭い人類愛みたいな要素を入れてしまうんだろう。それに、ハリウッドお決まりの恋愛要素も要らないよなぁ。

数あるエンターテイメントの中でも映画って特に、作り手が『これを入れておけば売れる』みたいなお決まりに縛られてつまらなくなっている気がします。もっと単純に「面白さ」を追求している映画を見たいな。

いや、より正確に言うと、娯楽映画に人類愛の要素を入れたって、恋愛の要素を入れたっていい映画はいいから、問題は入れ方なんですよね。丁寧に織り込んでくれればいいんだけど、つぎはぎのように入れるんだもん。
それによって、それぞれがよくても全体として白ける映画になってしまうのは、本当にもったいないです。

などど文句を言っているものの、今回は完全に友達の趣味に付き合った形なので、映画代はおごってもらっていたりします。それでいて、文句を言う私もひどいですが、友達もそれを承知で誘っているからいいでしょう(笑)。ちなみに友達はおもちゃマニアなので、トランスフォーマーが映像化されていればそれだけで満足なんだそうです(笑)。

1週間越しの希望が叶って「ゆれる」を観てきました。

観たのがレディース・デーということもあるのでしょうが、11:35開始のチケットを10:20頃買いに行って整理券番号16番。観終わった後にふとチケット売り場を見たら、次の次の回が既に立ち見状態。これから観に行く方はくれぐれもお早めに席を確保してくださいね。

東京に出て写真家として成功した弟と、家業のガソリンスタンドを継いだ兄。
法事で久し振りに帰ってきた弟と兄は智恵子と3人で渓谷に遊びに行く。
兄は智恵子を想っているが、智恵子は弟の元カノ。
渓谷にかかる橋を兄と一緒に歩いていた智恵子は、橋から落ちて死んでしまう。
橋の上で起こっていたことは、、、
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今日は水曜、多くの映画館で1000円で映画が観られる日。
というわけで、「男はソレを我慢できない」を観て来ました。

軽いノリでおふざけ映画として楽しめばいいのでしょうが、私にはどうもやりすぎに思えてひいてしまった。

やりすぎというか強調しすぎか。さらっと見せれば面白いと思える映像を繰り返し流すとかって、主張しすぎでつまんなくなっちゃう。あと、私はテレビでも人の言っていることをテロップ出して強調する手法ってダメなんですよ。いつかどこかで松本人志がバラエティであの手法を使うのは視聴者を馬鹿にしている(甘やかしている、だったかも)と書いていた記憶があるのですが私もそう思う(でもあの手法は、もしかしてもしかしたら聴覚が弱い人対策の面もあるのかもしれないけど)。それを映画で使われるともうげんなりです。

この映画は「ゆれる」の上映館を探しているうちに見つけた映画。というわけで、来週は「ゆれる」を見に行ってこようと思っています。それにしても、映画を見に行ったらそのことを大抵このブログに書いていますが、本当に水曜日にしか観に行ってないな〜、私。

●今日の図書館
映画を見た後、原宿に寄って渋谷区中央図書館を訪問。ここの建物の入り口そばには池があって、同じくそばに池のある豊島区巣鴨図書館訪問時のコメントでヘビーユーザーさんにも触れていただいたのですが、私はそれほどじっくり見ていなかったので今日は池メインで訪問してみようと(笑)。

今日の東京、雨が降ったり止んだりで、私が着いたときには雨が降っていたのですが、池では雨の中亀が石の上でじ〜っと。この渋谷区中央図書館や東郷記念館がある一体は、緑も多くて原宿とは思えないくらいゆっくり時間が流れる空間で、亀もそんな中での〜んびりしています。ただ、今は渋谷区中央図書館のちょうど真ん前で工事をしているので、しばらくの間は亀さんもうるさい思いをしないといけないかな。

で、せっかくですので、今まで足を踏み入れていなかった図書館1階の児童室にも行ってみました。ここは児童室まるごと土足厳禁で、入り口で靴を脱がないといけません。入り口は1階新聞コーナー付近と、外から直接児童室に入れる入り口とがあります。

入ってみると、児童室によくあるぬいぐるみ類はほとんどなく、かわりに壁のあちこちに絵本の表紙をカラーコピーしたものが貼ってあります。装飾兼図書紹介という感じでしょうか。図書館の蔵書を利用しているので、カラーコピー内に管理用バーコードも一緒に写ってしまっています。

そういやここは外国語の絵本は3階の外国語図書コーナーにあるんですよね。今日そちらにも行ったら大人にまじって西洋人の子供が閲覧席にちゃんと座って絵本を読んでいて、渋谷区中央図書館ではお行儀いい子じゃないと外国語絵本は読めないなぁと思いながら見ていました。

それにしても、ここの池はちょっとした憩いの場になっていて、ここを通るとたいてい1人か2人は池を眺めてぼーっとしています。のんきそうにしている亀も、多くの人のつぶやきやぼやきを聞いてきたのかもしれませんね。

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