2011年01月31日
凛然グッドバイ
センとデモ。二人のニンゲンの物語。
ロクデモナイ「デモ」は、全ての世界からほおりだされて、「セン」のもとで再教育を受けることになる。
ロクデモナイニンゲンに残された道は 再教育を受けて、詩人になること。
世界では、詩人が圧倒的に不足していた。 詩人が不足すると、どこかで戦争が起きる。
・・・というのは都市伝説か?
劇団アグリーダックリングの最終公演は、マクロとミクロの視点から世界を描く二人芝居。
15年間活動を続けてきた劇団アグリーダックリングの最終公演。
演出の違う2バージョンが存在し、春眠バージョンはウルトラマーケットにホームグラウンドを移して以降の、冬眠バージョンはそれ以前の主にHEP HALLで講演していた頃の演出方法が取られています。
端的に言うと前者は無駄なものを極限まで切り落として戯曲の物語や意味を浮き上がらせて観客の感情を動かす点、後者は一見戯曲から乖離した視覚的なイメージを重視しつつ戯曲の呼び覚ます感情の動きを観客に伝える点に其々重点が置かれているのです。
二つを合わせることで正に池田祐佳理が長年培ってきた劇団の演出の集大成的なダブルキャスト公演になるという寸法です。
また樋口ミユの脚本も「何者かになろうとする者」「受け継いでゆく者」「出会いと別れ」など最終公演に相応しい事柄を主軸に描かれており、観客が「これが最終公演である」という情報を共有しているが故に、ともすれば深く掘り下げていくことを重視する余り、題材に興味の無い観客が置いてけぼりを喰らうこともあったやや損な部分が大幅に少なくなっています。
この演出方法、脚本、そしてこの俳優でこの物語が見られるのはきっかり今回が最後であるという「状況」が見事に組み合わさってラストの「舞台で踊り続ける俳優たち」と「それを観ている観客」が非常に感動的な空間を共有することになる訳です。
演劇の「同時間性」「同空間性」をポジティブに活かしつつ、最終公演であるという事実に真正面から向き合った、正に最後にしか出来ない「凜然グッドバイ」の名に相応しい最終公演でした。
…見事!
ロクデモナイ「デモ」は、全ての世界からほおりだされて、「セン」のもとで再教育を受けることになる。
ロクデモナイニンゲンに残された道は 再教育を受けて、詩人になること。
世界では、詩人が圧倒的に不足していた。 詩人が不足すると、どこかで戦争が起きる。
・・・というのは都市伝説か?
劇団アグリーダックリングの最終公演は、マクロとミクロの視点から世界を描く二人芝居。
15年間活動を続けてきた劇団アグリーダックリングの最終公演。
演出の違う2バージョンが存在し、春眠バージョンはウルトラマーケットにホームグラウンドを移して以降の、冬眠バージョンはそれ以前の主にHEP HALLで講演していた頃の演出方法が取られています。
端的に言うと前者は無駄なものを極限まで切り落として戯曲の物語や意味を浮き上がらせて観客の感情を動かす点、後者は一見戯曲から乖離した視覚的なイメージを重視しつつ戯曲の呼び覚ます感情の動きを観客に伝える点に其々重点が置かれているのです。
二つを合わせることで正に池田祐佳理が長年培ってきた劇団の演出の集大成的なダブルキャスト公演になるという寸法です。
また樋口ミユの脚本も「何者かになろうとする者」「受け継いでゆく者」「出会いと別れ」など最終公演に相応しい事柄を主軸に描かれており、観客が「これが最終公演である」という情報を共有しているが故に、ともすれば深く掘り下げていくことを重視する余り、題材に興味の無い観客が置いてけぼりを喰らうこともあったやや損な部分が大幅に少なくなっています。
この演出方法、脚本、そしてこの俳優でこの物語が見られるのはきっかり今回が最後であるという「状況」が見事に組み合わさってラストの「舞台で踊り続ける俳優たち」と「それを観ている観客」が非常に感動的な空間を共有することになる訳です。
演劇の「同時間性」「同空間性」をポジティブに活かしつつ、最終公演であるという事実に真正面から向き合った、正に最後にしか出来ない「凜然グッドバイ」の名に相応しい最終公演でした。
…見事!
2011年01月22日
『ミジンコターボショートプレイフェスティバル2011』
いつでも全力疾走のミジンコターボが初めてお送りするショートプレイの詰め合わせ!!私たちの作品がこんな風にして生まれている、オモテもウラも全部見せちゃうお正月!!
キャッチコピーは!! 個性があればあるで 押さえつけるくせに!!
ここのところ評判作が続いているミジンコターボショートショートの最新作にしてミジンコターボ初のファン感謝イベント。
基本的にはメンバー其々の特技を生かした10分程度の演目がメイン。
SUN!!と弘中恵莉菜は勿論ダンス、片岡百万両は変な動き、竜崎だいちは高山みなみのモノマネ、山口いづみは落語、川端優希はおバカ(失礼w)など盛り沢山。
関西小劇場のいわゆるエンタメ系は意外と作家や演出家が牽引しているところが多い印象なのですが、ミジンコターボはその中にあって俳優のキャラクター・特技により比重をおいたパフォーマー集団という特徴が強いように見受けられます。
こういう気軽なイベントだとその魅力が最大限に発揮されて、非常にパワフルで楽しい催しになっていました。
全体を通してひとつの作品として観た場合、特筆すべきは「イベントの企画をしているミジンコメンバーの企画会議」から始まり、やがて「リハーサル」という設定に移行し、「イベントの真っ最中」から「イベントの終了」という、妙にメタな時間が流れるアバンギャルドな場面設定。
「楽しけりゃいいじゃん!」的な全体のハッピーな雰囲気を演出するのに一役買っていた気がします。
こういう設定であるがゆえに「新人オーディション」という名の新人・江本祥のお披露目の質問コーナー(何故かMASTER:Dの入谷啓介も参加w)が無理なく、かつ印象的な形で演目として成立ていました。
今回、劇団員の中で一番得な役だったのはもしかして彼かもねw
キャッチコピーは!! 個性があればあるで 押さえつけるくせに!!
ここのところ評判作が続いているミジンコターボショートショートの最新作にしてミジンコターボ初のファン感謝イベント。
基本的にはメンバー其々の特技を生かした10分程度の演目がメイン。
SUN!!と弘中恵莉菜は勿論ダンス、片岡百万両は変な動き、竜崎だいちは高山みなみのモノマネ、山口いづみは落語、川端優希はおバカ(失礼w)など盛り沢山。
関西小劇場のいわゆるエンタメ系は意外と作家や演出家が牽引しているところが多い印象なのですが、ミジンコターボはその中にあって俳優のキャラクター・特技により比重をおいたパフォーマー集団という特徴が強いように見受けられます。
こういう気軽なイベントだとその魅力が最大限に発揮されて、非常にパワフルで楽しい催しになっていました。
全体を通してひとつの作品として観た場合、特筆すべきは「イベントの企画をしているミジンコメンバーの企画会議」から始まり、やがて「リハーサル」という設定に移行し、「イベントの真っ最中」から「イベントの終了」という、妙にメタな時間が流れるアバンギャルドな場面設定。
「楽しけりゃいいじゃん!」的な全体のハッピーな雰囲気を演出するのに一役買っていた気がします。
こういう設定であるがゆえに「新人オーディション」という名の新人・江本祥のお披露目の質問コーナー(何故かMASTER:Dの入谷啓介も参加w)が無理なく、かつ印象的な形で演目として成立ていました。
今回、劇団員の中で一番得な役だったのはもしかして彼かもねw
2010年12月26日
12人間-winter-
第3回ソロ晩シアタースペシャル企画「12人間」。
毎回出演者を公募で募り、オーディション一切なし老若男女・国籍・プロ・アマ不問の人間パフォーマンスを繰り広げる。
今回もメンバーを一新して5分×12人のスペシャルバージョン!
その名の通り12人の人間が様々なパフォーマンスを繰り広げるライブ…というとインディペンデントシアタープロデュースの一人芝居フェスティバルを彷彿とする演劇ファンも覆いと思います…が、実は全くベクトルが違うイベントです。
インディペンデントの方は一枠30分で、出演者も舞台人…作品一つづつをきっちり鑑賞するタイプのイベントですが、こちらは一つづつのパフォーマンスの個別性・作品性は余り重要ではありません。
…あ、個別性が無いわけではないですよ、勿論。
本来なら演目として想定されないような「ヒーリング」とか、「観せる」ことより「一緒に歌う・踊る」ことを重視した演目などが沢山あり、バラエティさは寧ろこちらのほうが高い。
しかしパフォーマンス毎の出来・不出来というか「演目としての完成度」は無茶苦茶にバラツキがある為、一つづつの作品を取り出して批評しよう…とかいう試みは多分成立しませんw
このイベントの素晴らしいところはそういった特定の審美眼・価値観で演目のラインナップを定めていないことであり、鑑賞後に「ああ、世の中にはこんなにいろんな人が居るんだ!」と思えるところなのです。
(この印象は会場が中崎町という「人が集まる街」にある天人という「歴史ある建物」であるということも大きく影響していると思います。)
そういう意味ではイベント自体が強い一つのメッセージを持った「作品」だといえるのかも知れません。
…人に疲れたりして悲観的な気分になってる人は是非観に行けば良いさ!
毎回出演者を公募で募り、オーディション一切なし老若男女・国籍・プロ・アマ不問の人間パフォーマンスを繰り広げる。
今回もメンバーを一新して5分×12人のスペシャルバージョン!
その名の通り12人の人間が様々なパフォーマンスを繰り広げるライブ…というとインディペンデントシアタープロデュースの一人芝居フェスティバルを彷彿とする演劇ファンも覆いと思います…が、実は全くベクトルが違うイベントです。
インディペンデントの方は一枠30分で、出演者も舞台人…作品一つづつをきっちり鑑賞するタイプのイベントですが、こちらは一つづつのパフォーマンスの個別性・作品性は余り重要ではありません。
…あ、個別性が無いわけではないですよ、勿論。
本来なら演目として想定されないような「ヒーリング」とか、「観せる」ことより「一緒に歌う・踊る」ことを重視した演目などが沢山あり、バラエティさは寧ろこちらのほうが高い。
しかしパフォーマンス毎の出来・不出来というか「演目としての完成度」は無茶苦茶にバラツキがある為、一つづつの作品を取り出して批評しよう…とかいう試みは多分成立しませんw
このイベントの素晴らしいところはそういった特定の審美眼・価値観で演目のラインナップを定めていないことであり、鑑賞後に「ああ、世の中にはこんなにいろんな人が居るんだ!」と思えるところなのです。
(この印象は会場が中崎町という「人が集まる街」にある天人という「歴史ある建物」であるということも大きく影響していると思います。)
そういう意味ではイベント自体が強い一つのメッセージを持った「作品」だといえるのかも知れません。
…人に疲れたりして悲観的な気分になってる人は是非観に行けば良いさ!
2010年12月16日
INDEPENDENT:10
毎年恒例のインディペンデントシアター劇場プロデュースによる最強の一人芝居フェスティバル。
今年は記念すべき第10回目の開催。
流石に10年続けてきただけあって今年は一週回ってストレートに演劇的な演目が多かった印象。
奇をてらう事無く、かと言って生真面目に構えるでもなく、ごく普通に「一人芝居」というものをしっかり見せてくれるいう印象。
多分この傾向は「一人芝居」というものに対して、やる方だけじゃなくて観客側にも一定の視点が浸透してきた故の安定感・信頼感のなせる技なのではないかと思います。
…来年以降、また別な巡り方をするのか、このまま安定していくのかがちょっと楽しみ♪
[a] 上野真紀夫(CUSTAR:D)×入谷啓介(CUSTAR:D)
「赤裸々なるままにひぐらし」
実は3本立ての変則的な構成だったのですが、基本的に上野真紀夫は全部裸でしたw
構成は変則的だけど、内容は3本とも娯楽に徹した語り口で物語を見せる非常に王道的な作品。
こういうのがサラッと演じれるのはやはりキャスト・スタッフの地力のなせるところ。
[b] 大塚宣幸(大阪バンガー帝国)×早川康介(劇団ガバメンツ)
「101人ねえちゃん」
多分今年の演目の中では一番トリッキーな仕掛けで見せる作品。…なのだが、大塚宣幸のキャラクターの自然っぽさが強烈に全面に押し出されている為、余り特殊さに目を奪われること無く、ひとりの男をちゃんと見続けたような気になるという不思議な作品。脚本はかなりバラエティ的・コント的なんだけどw
[c] 菊田由美(劇団無国籍)×益岡礼智(劇団無国籍)×国久暁(劇団無国籍) [from 仙台]
「ときどき沼」
パッと見、物語的には全く一人芝居にする必要がないんじゃないか?と思わせる物語で、演出もパッと見、無理にそういう道具を使わなくてもいいんじゃないか?と思わせる演出だったりするのだが、勿論、それはパッと見の話で、物語を見せる一人芝居として非常に完成度が高く、こちらの先入観なんかものともせずに、TVのアンソロジーや短編怪奇小説集の一話かのように楽しめる作品。
この作品もキャスト・スタッフの地力の高さがモノを言っているのだろう。
[d] 榮田佳子(劇団千年王國)×イトウワカナ(intro) [from 札幌]
「0141≒3088」
今年の演目では珍しく物語ではなく人物を見せることのみに集中した作品。
恐らく女性がこの主人公を見たら「あ、この女の人可愛い」と思うのではないだろうか?
中年のおっさんが見ると「うわ、深く付き合うの面倒くさそう」とか思ってしまうような気もしますが(w)、それも人物描写が確立されている証拠。
[e] 関敬(隕石少年トースター)×桂正樹子×寺田夢酔(演劇集団よろずや)
「I'm Only Sleeping」
題材は赤穂浪士の有名な「赤垣源蔵徳利の別れ」…なのですが今となっては余り興味の無い人にはメジャーとは言いがたい題材かも。
脚本も元ネタを知らない人に見せることをを前提に書かれていると思うのですが、知っていると決め台詞の「兄上、せめてもう一目お会いしとうございましたなぁ」がいつ来るか、いつ来るかと思いつつ「そうきたか!」となるという桂正樹子が得意な「ミスリード」を上手く絡めた展開を更に楽しめます。
[f] 谷屋俊輔(ステージタイガー)×美浜源八(シアターシンクタンク万化)
「はやぶさ(MUSES-C)〜星に願いを」
これまたストレートに小惑星探査機「はやぶさ」の軌跡を一人芝居にした作品。
関西小劇場のいわゆるエンタメ系のオーソドックスな表現や演出が多用されていて、普段からそういうジャンルの作品に触れている人なら「はやぶさ」のことを知らなくてもすんなりと楽しめるのではないかと思います。
「はやぶさ」に関しては実際の物語が並の創作よりも出来過ぎているので、安心してフィクションなら気恥ずかしいような表現でも舞台上で展開出来ちゃうという利点があり、それが谷屋俊輔のストレートな熱演と融合して「クサイ芝居」(←褒め言葉です。念のためw)を舞台上に現出させていました。
[g] 中原智香(劇団ぎゃ。)×中村雪絵(劇団ぎゃ。) [from 福岡]
「クロッキー・モンスター」
どことなく少女漫画的な雰囲気が漂う作品で、物語的にはややブラックなファンタジー…として展開するのだが、途中から完全に「現実」と「虚構」の比重が逆転して「虚構」の物語がそれなりにハッピーな結末を迎え「現実」は放置されるという一風変わったお話。山岸凉子で始まって川原泉で終わる…とか比喩すれば鑑賞中の感情は伝わったりするでしょうか?
真っ白いビジュアルは黒が多くなりがちな小劇場ではとても印象的。
[h] 野村侑志(オパンポン創造社)×朝田大輝(The Stone Age)
「ストロベリー・フィールド」
何と言っても野村侑志の熱演が光る。
光りすぎてややシニカルな結末を迎えるはずの台本であるにも関わらず、途中途中の印象ではシニカルさが全く無いため、一瞬「え、終わり?」とか思ってしまう人もいるやもw
「戦争」の話だけに綺麗な終わり方はしない方が正しく悲しいと思うので、これは大正解なのだが。
ファンタジックで綺麗な物語も是非観てみたい、と思わせるデュオでした。
[i] 林英世 [from 東京]
「かわうそ(向田邦子・作)」
このフェスティバルには珍しい朗読。しかも朗読風、とかではなく完全に朗読。
表情や身振りも見せるためのものというよりは、演じる過程で出るのかな?といった程度のものがホンの少し挟まれる程度。
…なのですが、作中に書かれた庭の情景や家の様子などが物凄くハッキリとイメージ出来てしまうのは一体何故なのか。
朗読の技術的な事柄に対して知識が全く無いのですが、これが「演者の力」というものなのだろうなぁ、と思うことしきり。
[j] hime(バンタムクラスステージ)×戒田竜治(満月動物園)
「最初の女」
近頃の戒田竜治の一人芝居作品は俳優の動きという点において軸がハッキリしています。
「走る」「佇む」…など端的に一言で表現できる姿勢をその中心に置いていて、
今回は「座り込む」が主軸。
まるで一枚絵の幻灯のように展開される原理主義的なまでの変化の無さ。
それこそがクライマックスの変化の伏線になっており、クライマックスの急展開は「うお!そう来るのか!」という驚きに俳優・himeの没入度が説得力を与える構造です。
作りが異常にシンプルなので俳優の負担は尋常じゃなかったはず。
充分に面白かったけれど、恐らくこのデュオなら達成できた最高点はもっと上かも…と、個人的には思いました。
[t1] 蔵本真見(突劇金魚)×サリngROCK(突劇金魚)×大沢秋生(ニュートラル)
「やぎ・森・アケミ」
サリngROCKのかなりブラックかつシニカルな台本を大沢秋生がその名のとおり非常にニュートラルに軽く演出しており、軽めのシットコムでも観るかのように世界規模の不条理な物語を観ることが出来る良品。
ブラッドベリーの怪奇小説にF・ブラウンやR・シェクリーのシニカルさやペーソスを加味したような印象で、これ意外とオールドSFファンに評判いいんじゃないだろうかw
[t2] 四方香菜(L3 えるきゅーぶ)
「チェリー」
流石にこれだけの面子に囲まれてしまうと、この作品のテクニカルな完成度…などは及第点といったところ。
…ですが、このフェスティバルに「今まで触れたことのない俳優との出会い」を求める者としては、この作品・俳優が最もワクワクさせられました。
四方香菜の「うわ、何や、こいつ!」という擦れていない好感度が正に旬な作品…多分、変な人だ、この人w
2010年01月12日
レッツゴー!忍法帖(DVD)
戦乱の世の中。堀之内城では、静姫(馬渕英里何)と隣国の黒川城城主・裕展の婚礼を明日に控えて準備が行われていた。
そこへ突如、北浦勢に攻め込まれ、城は堕ち、大混乱となる。
襲ってきた忍者は黒川の手のものだった。なぜ、味方のはずの黒川様が姫を狙う?堀之内家剣術指南役にて静姫のお守役・入谷蔵之進(入江雅人)の疑問が湧く中、謎の忍者3人が助っ人に現れる。
姫を助けるという任務を負ったという3人、猿飛のサダ(阿部サダヲ)・風魔ゴジロー(橋本じゅん)・傀儡八幡(インディ高橋)の力を借りて、姫と蔵之進は黒川城へと逃亡の旅に出る。
えー、本題に入る前にひとつ。
このレビューにおける「舞台映像」は「映画」と同じような完結した映像作品として扱うことになります。だから☆評価も「舞台映像」という「映像作品」の評価になり、「舞台作品」そのもの評価ではありません。念の為。
・・・本番を観てない「舞台作品」の評価できるような神業は持ち合わせておりませんのよ、ワタクシw
というところで本題をば。
物語はひたすら馬鹿馬鹿しいギャグの連発で笑っている内にあっという間にエンディング・・・といったタイプのお芝居。
ブラックなギャグの大好きな僕は主役三人衆の怪しげな掛け合いや、ナウシカの曲に乗ってマングースを惨殺する仲谷さとみなどに大爆笑しましたw
ただ、この作品、「舞台映像」としては余り完成度が高いとは言えません。
勿論、映像自体がボケているとかカメラが不安定とかそういう意味ではなく。
恐らくこの舞台映像のコンセプトは「ライブDVD」で、バンドのライブ映像のように舞台を捉えて、その場のテンションに従ってカットを割ってテンションを再現する・・・という狙いで構成されていて、俳優のUPのカットバックが非常に多用されています。・・・いや、多様というより殆どそれのみで進行するといっても過言ではありません。
音楽のライブのように感情的・主観的な要素が強い事象を映像化する場合にはこの方法は効果的ですが、ストーリーテリングに重点を置く演劇作品というのは「物語を物語る」≒「状況を説明する」という客観的視点がある程度必要です。
物語の進行にしたがって視線が移動していくような編集や、舞台上の俳優の位置取りなどの情報を含んだ構図が必要なのですが、この作品は余りそれを省みていません。
それは物語を物語る映像としては割と重大な欠陥で、早い話が誰がどこで喋ってるのか判らなくなっちゃうんですわな、このプランだとw
本番を観てから、その体験を疑似保存する為のツールとして考えれば、このプランにも意味はあるのですが、本番を体験していない僕としては、もう少し客観的な描写にも画を割いて欲しかった所です。
(まあ、この辺は舞台映像の存在意義をどう考えるか、にも左右されるところではありますが)
具体的には下手でいかにもライブ映像らしくクレーン運動してる引きのカメラをクレーン無しで中央に持ってきて広めのグループショットを押さえるカメラとして配置すれば良かったのではないか・・・と思います。
そこへ突如、北浦勢に攻め込まれ、城は堕ち、大混乱となる。
襲ってきた忍者は黒川の手のものだった。なぜ、味方のはずの黒川様が姫を狙う?堀之内家剣術指南役にて静姫のお守役・入谷蔵之進(入江雅人)の疑問が湧く中、謎の忍者3人が助っ人に現れる。
姫を助けるという任務を負ったという3人、猿飛のサダ(阿部サダヲ)・風魔ゴジロー(橋本じゅん)・傀儡八幡(インディ高橋)の力を借りて、姫と蔵之進は黒川城へと逃亡の旅に出る。
えー、本題に入る前にひとつ。
このレビューにおける「舞台映像」は「映画」と同じような完結した映像作品として扱うことになります。だから☆評価も「舞台映像」という「映像作品」の評価になり、「舞台作品」そのもの評価ではありません。念の為。
・・・本番を観てない「舞台作品」の評価できるような神業は持ち合わせておりませんのよ、ワタクシw
というところで本題をば。
物語はひたすら馬鹿馬鹿しいギャグの連発で笑っている内にあっという間にエンディング・・・といったタイプのお芝居。
ブラックなギャグの大好きな僕は主役三人衆の怪しげな掛け合いや、ナウシカの曲に乗ってマングースを惨殺する仲谷さとみなどに大爆笑しましたw
ただ、この作品、「舞台映像」としては余り完成度が高いとは言えません。
勿論、映像自体がボケているとかカメラが不安定とかそういう意味ではなく。
恐らくこの舞台映像のコンセプトは「ライブDVD」で、バンドのライブ映像のように舞台を捉えて、その場のテンションに従ってカットを割ってテンションを再現する・・・という狙いで構成されていて、俳優のUPのカットバックが非常に多用されています。・・・いや、多様というより殆どそれのみで進行するといっても過言ではありません。
音楽のライブのように感情的・主観的な要素が強い事象を映像化する場合にはこの方法は効果的ですが、ストーリーテリングに重点を置く演劇作品というのは「物語を物語る」≒「状況を説明する」という客観的視点がある程度必要です。
物語の進行にしたがって視線が移動していくような編集や、舞台上の俳優の位置取りなどの情報を含んだ構図が必要なのですが、この作品は余りそれを省みていません。
それは物語を物語る映像としては割と重大な欠陥で、早い話が誰がどこで喋ってるのか判らなくなっちゃうんですわな、このプランだとw
本番を観てから、その体験を疑似保存する為のツールとして考えれば、このプランにも意味はあるのですが、本番を体験していない僕としては、もう少し客観的な描写にも画を割いて欲しかった所です。
(まあ、この辺は舞台映像の存在意義をどう考えるか、にも左右されるところではありますが)
具体的には下手でいかにもライブ映像らしくクレーン運動してる引きのカメラをクレーン無しで中央に持ってきて広めのグループショットを押さえるカメラとして配置すれば良かったのではないか・・・と思います。
2010年01月06日
一心寺シアター倶楽 スタッフ祭 '10
毎年恒例の一心寺シアター倶楽による劇団・スタッフの為の新年会。
例によって完全に身内企画なので、今年は僕も酒を飲んだりクイズに答えたりしながらの参加。
一応、記録撮影のカメラを担当してたのでそれってどうなのよ?・・・という気がしなくもないですが、新年会としては正しいスタイル&楽しみ方だと開き直っておきますw
レビューしてどうのこうのという性質のものではないのですが、楽しかったZE!・・・という訳で☆3つw
例によって完全に身内企画なので、今年は僕も酒を飲んだりクイズに答えたりしながらの参加。
一応、記録撮影のカメラを担当してたのでそれってどうなのよ?・・・という気がしなくもないですが、新年会としては正しいスタイル&楽しみ方だと開き直っておきますw
レビューしてどうのこうのという性質のものではないのですが、楽しかったZE!・・・という訳で☆3つw
2009年12月21日
雨はれて月おぼろ
時は元禄。
安芸広島藩・浅野家に仕えていた影山遠九郎は
母との確執から逃れるため故郷を捨て、江戸にやってくる。
母の言いつけで妻に迎えた桂の顔には醜い傷があり、
その醜さゆえか、なかなか遠九郎との距離が縮まらない桂。
そんな折起こった赤穂藩の殿中刃傷沙汰。
赤穂藩士たちと行動を共にし、彼らの忠心に武士としての生き方を見出す遠九郎。
やがて桂の明るい性格が少しずつ遠九郎の心を解いていく。
いきなりですが僕は物語を楽しむ時の娯楽的要素としてサスペンスとサプライズという二つの対立する要素を重視しています。
「うわあ、この先どうなるんだろう?という「不安」が「サスペンス」、「うわ!吃驚した!」という「驚愕」が「サプライズ」。
本作品に於いて作家の中埜由美が重視したのは恐らく後者であると思われます。
赤穂浪士の物語は余りに有名すぎて「どういう風な結末を迎えるか?」という物語の最大のサスペンスでは最早成立させることが難しい為、この判断は非常に正しく、第一部のラストの予想外の展開は「ああ、この先ああなるんでしょ?」と高を括っていた観客の度肝を抜くこと請け合いw
第二部が始まって以降も、その衝撃の為、「この先この話は一体どう収拾がつくんだ?」という興味が持続し、悲劇的な結末が待っていることが最初から明らかな赤穂浪士たちの物語と、本来その周辺の登場人物に過ぎなかったはずの主人公達の物語が一つになって結びつく勇壮で悲愴なクライマックスまで観客を捉えて離さない事でしょう。
サプライズが引き起こす混乱を上手くサスペンスとして維持させた構成の妙が際立った作品だったと思います。
難を言えば赤穂浪士の物語や、元々はその一挿話である四谷怪談の話を全く知らない観客だと後半の盛り上がりに乗り切れない・・・という可能性があったり、第一部の前半ではサプライズやサスペンスに溢れたシーンが少なくやや生真面目に主人公達の背景が描かれるのでその部分がやや冗長だったりするところでしょうか。
もう少し早目にサプライズを起こしてその後の四谷怪談的展開の中で遠九郎の過去を語る、とかいった流れにしたら今以上にサスペンスフルな作品になったかも。
安芸広島藩・浅野家に仕えていた影山遠九郎は
母との確執から逃れるため故郷を捨て、江戸にやってくる。
母の言いつけで妻に迎えた桂の顔には醜い傷があり、
その醜さゆえか、なかなか遠九郎との距離が縮まらない桂。
そんな折起こった赤穂藩の殿中刃傷沙汰。
赤穂藩士たちと行動を共にし、彼らの忠心に武士としての生き方を見出す遠九郎。
やがて桂の明るい性格が少しずつ遠九郎の心を解いていく。
いきなりですが僕は物語を楽しむ時の娯楽的要素としてサスペンスとサプライズという二つの対立する要素を重視しています。
「うわあ、この先どうなるんだろう?という「不安」が「サスペンス」、「うわ!吃驚した!」という「驚愕」が「サプライズ」。
本作品に於いて作家の中埜由美が重視したのは恐らく後者であると思われます。
赤穂浪士の物語は余りに有名すぎて「どういう風な結末を迎えるか?」という物語の最大のサスペンスでは最早成立させることが難しい為、この判断は非常に正しく、第一部のラストの予想外の展開は「ああ、この先ああなるんでしょ?」と高を括っていた観客の度肝を抜くこと請け合いw
第二部が始まって以降も、その衝撃の為、「この先この話は一体どう収拾がつくんだ?」という興味が持続し、悲劇的な結末が待っていることが最初から明らかな赤穂浪士たちの物語と、本来その周辺の登場人物に過ぎなかったはずの主人公達の物語が一つになって結びつく勇壮で悲愴なクライマックスまで観客を捉えて離さない事でしょう。
サプライズが引き起こす混乱を上手くサスペンスとして維持させた構成の妙が際立った作品だったと思います。
難を言えば赤穂浪士の物語や、元々はその一挿話である四谷怪談の話を全く知らない観客だと後半の盛り上がりに乗り切れない・・・という可能性があったり、第一部の前半ではサプライズやサスペンスに溢れたシーンが少なくやや生真面目に主人公達の背景が描かれるのでその部分がやや冗長だったりするところでしょうか。
もう少し早目にサプライズを起こしてその後の四谷怪談的展開の中で遠九郎の過去を語る、とかいった流れにしたら今以上にサスペンスフルな作品になったかも。
2009年12月15日
照準Zero in
劇団Ugly duckling第31回本公演。
特に具体的な特定の事件を取り上げている訳ではないが、非常に社会派な印象が漂う作品。
樋口ミユの脚本には常に何かに対する「不安」が流れているのだけれど、「流れて行く時代」というこの作品の状況設定とそれが組み合わさり、「時代の不安」的な雰囲気がそこに現れた結果なのかも知れません。
そして恐らく樋口ミユは「時代」に対して未だ現在進行形で悩み続けている為、明確な答えといったものを戯曲内で提示しておらず、「不安」「悩み」「希望」「後悔」と言ったものが混然したままの状態で作品内に各個分立させられている・・・
・・・というのは飽くまで僕個人が受けた印象の分析w
恐らく僕自身が「時代の不安」を感じているが故に、この作品に対して強くそれを投影したのでしょう。
アグリーダックリングの作品は「正しい解釈」なんぞを探して袋小路に落ち込むより、素直に自分の視点で楽しんでしまうのが吉なのですが、この作品は「流れて行く時代」や「世界の中で生きている人々」といった非常にシンボリックな背景や登場人物だけで構成されているために、いつものアグリーの作品にも増して、共感する人と置いてけぼりを食らってポカーンとする人の差が激しい作品なのではないかとは思いますw
こういう異世界的な舞台に観客を導く為に準備されるナビゲーター的な登場人物がいないのがその最大の原因で、実際には「息子」が序盤から中盤までその役割を果たしますが、途中で居なくなっちゃって、一見、全く関係の無い男女の物語が急に始まるんですよねw
実はそれが最終的にはこの物語の「押し寄せる時代や変り行く世界」の中で「生き続けてゆく人々」を表す仕掛けとなっていて、作品全体のクールなイメージにも大きな役割を果たしているのですが、とっつきにくさをいつもより増している原因になってもいるような気がします。
この辺はバランスの難しいところですが、最近のアグリーの作品は無駄なものが一切無い研ぎ澄まされ方が最大の魅力なので、このまま悩まずに突っ走って欲しいところです・・・「加害者」みたいにw
特に具体的な特定の事件を取り上げている訳ではないが、非常に社会派な印象が漂う作品。
樋口ミユの脚本には常に何かに対する「不安」が流れているのだけれど、「流れて行く時代」というこの作品の状況設定とそれが組み合わさり、「時代の不安」的な雰囲気がそこに現れた結果なのかも知れません。
そして恐らく樋口ミユは「時代」に対して未だ現在進行形で悩み続けている為、明確な答えといったものを戯曲内で提示しておらず、「不安」「悩み」「希望」「後悔」と言ったものが混然したままの状態で作品内に各個分立させられている・・・
・・・というのは飽くまで僕個人が受けた印象の分析w
恐らく僕自身が「時代の不安」を感じているが故に、この作品に対して強くそれを投影したのでしょう。
アグリーダックリングの作品は「正しい解釈」なんぞを探して袋小路に落ち込むより、素直に自分の視点で楽しんでしまうのが吉なのですが、この作品は「流れて行く時代」や「世界の中で生きている人々」といった非常にシンボリックな背景や登場人物だけで構成されているために、いつものアグリーの作品にも増して、共感する人と置いてけぼりを食らってポカーンとする人の差が激しい作品なのではないかとは思いますw
こういう異世界的な舞台に観客を導く為に準備されるナビゲーター的な登場人物がいないのがその最大の原因で、実際には「息子」が序盤から中盤までその役割を果たしますが、途中で居なくなっちゃって、一見、全く関係の無い男女の物語が急に始まるんですよねw
実はそれが最終的にはこの物語の「押し寄せる時代や変り行く世界」の中で「生き続けてゆく人々」を表す仕掛けとなっていて、作品全体のクールなイメージにも大きな役割を果たしているのですが、とっつきにくさをいつもより増している原因になってもいるような気がします。
この辺はバランスの難しいところですが、最近のアグリーの作品は無駄なものが一切無い研ぎ澄まされ方が最大の魅力なので、このまま悩まずに突っ走って欲しいところです・・・「加害者」みたいにw
2009年12月01日
INDEPENDENT:09
毎年恒例のインディペンデントシアター劇場プロデュースによる最強の一人芝居フェスティバル。
実はこのイベント、恐らく狙っているわけではないと思うのですが、毎年、参加作品に一定の傾向が見られることが多いです。
今年はどんな傾向かな、と気にしていたりしたのですが、全作品を通してみてみると、作劇的・演出的な部分での一定の傾向というものは今年は殆ど見られませんでした。
強いて言うなら観客にどう見せるか、をひたすら第一義にしたテクニカルな要素を重視した作品が少なく、殆どの作品が作家の内面的な要素・テーマなどを表現することをより重視して作られていた印象。
勿論、これはあくまでバランスの問題で、どの作品も一定の娯楽性は堅持することは忘れてはいないので、全体としては非常に見応えのあるイベントになっていました。
以下、各作品の短評をば。
[a] 「4.5×3.6 ココカラ。」 足立七瀬(BEA Glide)
いわゆるコンテンポラリーダンス・・・なんだと思います。
僕自身にそちら方面の造詣がないもので断言しかねます。すみません。
とはいえ、内容は普通の女の子のとある一日を描いているのだろう・・・ということは理解できたような気がするし、もしかしたらその解釈も間違っているのかも知れないけど、終演時にはその「女の子」がとても可愛らしく見えたのは間違いないところです♪
[b] 「マラソロ」 加藤智之(France_pan)×山崎彬(悪い芝居)×伊藤拓(France_pan)
物凄くストレートにダメ童貞のダメな様を観せる作品。直球ど真ん中の加藤智之の演技、単純明快な山崎彬の脚本、そして何故かヌルッとしたシームレスな伊藤拓の演出が上手い具合に交じり合って、非常に気色の悪い仕上がりを実現w
普通に時間軸をハッキリとさせればもっと明快な馬鹿話にも出来そうなんだけど、それだと気色悪さがオミットされるか・・・w
[c] 「おしり」 木原勝利(コレクトエリット)泉寛介(bagdad cafe)×井上エミ(欠陥ロケット)
今年は珍しい、キャラをコロコロとチェンジして行く様を楽しませるタイプの作品。木原勝利のコミカルな演技を見てクスクス笑って楽しく観終えたのだけれど、物語自体は僕には理解できず。
シンボリックなディテールが散りばめられているので、何らかの筋が通っている雰囲気までは感じれたのですが、隠喩が隠喩のまま展開するので、具体的なことが全く把握できないままに終わってしまいました。
一つか二つくらい判りやすい糸口を作っていてもらえるともっと気楽に楽しめたかも。
[d] 「フォレヴァラブ FOREVERLOVE」 後藤篤哉(camp.06)×松本邦雄
「マラソロ」にも共通する、ストレートにエロに対する衝動を、そしてエロに振り回される男を題材にした作品。
こちらの主人公はエロに屈服せずに愛にまで昇華出来てているようですがw
単純明快、馬鹿な男の一生をかけた馬鹿なノロケ話のカリカチュア。
しかし、まあ、男というものは、結構本当にこの程度のことを考えて生きているものだったりするからあなどれんw
[e] 「スクラップ・ベイベィ!」 Sun!!(ミジンコターボ)×坂本見花(浮遊許可証)
単体の作品としてのバランスの良さ、というか作・演出・演技からそのほかのスタッフワークまで含めた各要素への力の入れ方がヒシヒシと伝わってくる力作。
坂本見花は「誰かのために必死になる人間」を丁寧に描くのが得意だと思うのだけれど、一生懸命に一生懸命な主人公を演じるSun!!の熱演と物語が見事に融合して切ない感情を揺さぶります。
もう、この切なさから解き放たれるには、恐らく泣くしかないのだけれど、中年男に公衆の面前でそれを強いるのは酷です・・・勘弁してくださいw
[f] 「雨上がりの2日後、紙ヒコーキは高く飛ぶ」 ザンヨウコ(危婦人)×鮒田直也(The Stone Age) [from 東京]
「いつでも窓」「何故か中に入れる擬似世界」など、漫画チックなご都合主義的な状況設定が特に説明もなく堂々と存在するユルイ雰囲気のライトコメディ。ただしそのユルさは決して欠点ではなく、「先のことは良く判んないけど、まあ良いじゃん。元気出そうぜ!」という応援歌的な内容を体現する為のディティールとして機能しています。
ガチガチの理詰めで応援されても説教だと受け止めて反駁したくなる僕のようなタイプには、このユルさは心地良さでしたw
おかげでいつまでも心に何かを残す・・・ということはなく、ちょっと心が動いてサラッと忘れてしまうことになるかも知れませんが、こういうライトな作品はそういう存在の仕方をすることこそが美しいのだと思います。
[g] 「Give me money?」 真心(GiantGrammy)×前田タカコ(タカコキカク)
かなりストレートに社会派な時流モノ・・・ではあるが、真心の「イラッと来るけど憎めない」キャラクターが前面に出ていて、どことなくほんわかした空気で観れてしまう。
ほんわかしているのは空気だけで、カンダタがどうなったかを考えると実は結構シニカルなラストなのかも知れませんがw
前田タカコの作品は題材から予想する重さと完成した作品自体の素朴さに一定のギャップがあるような気がするのですが、そのギャップの振り幅を意識的に利用したクレバーな立ち回りを見せて欲しいと夢想中w・・・ひたすら素朴さに突き抜けた爽快な作品や、軽いと思っていたら全く予想しないへビィさを持った作品だった・・・とか楽しそうですw
(とはいえ、彼女の作品を沢山見ているわけではないので、もう実現済みだったら済みません)
[h] 「工場日記」 曽木亜古弥×小原延之
小原延之の脚本が素晴らしい。何だかイタイ演説と一人語りが始まったと思ったら、それは本当にイタイ人の独善的な独白だった・・・という作りで、最初はある程度曽木亜古弥演ずる「女」に感情移入しようとしていた観客でも、徐々にキチガイを見ている不快感に襲われること間違い無し。
連続通り魔殺人犯への同情を「女」が口にするラストに至っては殆どの観客が不快感を通り越して怒りを感じるでしょう。
(勿論、それが正常な人間の反応であり、狂っているのは「女」な訳ですが)
残念だったのは、こういうなりきり系の作品としては台詞の噛みがやや目立ったところで、噛んでも「女」が噛んだ事にしてシレっと続けても良かったような気がしますw
[i] 「赤猫ロック」 ヤマサキエリカ(月曜劇団)×戒田竜治(満月動物園)
自然な会話らしい台詞が全く存在しない七五調の物語朗読に徹した脚本、主演のヤマサキエリカを30分間、延々とその場で走らせ続け、その呼吸と汗と足音で観客の生理に直接訴えてくる演出、ヤマサキエリカの張り付いたような笑顔で押し通す演技・・・
どこをとっても全く無駄な部分が無く、極限まで研ぎ澄まされた恐ろしい完成度を誇り、その美しさ・破壊力はまるで日本刀を髣髴とさせます。
但し、この完成度で救いの無い話を見せられると見終わった後の凹み具合が半端でないので、好き嫌いだけで判断すると評価の高さとは裏腹に実は相当嫌いな部類ですw
戒田作品はもっと斜に構えているか、切ない優しさを漂わせている時の方が好み。
[j] 「或るめぐらの話」 山田百次(劇団野の上) [from 東京]
宮本常一の民俗学フィールドノートに収録されていても納得してしまいそうな、ある男の身の上話・・・というより、身の上話を語るある男を見事に舞台上に現出させる作品。山田百次の自然な存在感が素晴らしい。原初の演劇はもしかするとこういう「誰かが誰かになりきる」とう要素だけで成立していたものだったのかも知れない。欲を言えば山田百次がもっと年を取った時にもう一度この作品を演じて欲しい。演技の深みが云々という話ではなく(その点は現時点でも既に充分)、ビジュアル的に更なる説得力が「めぐら」に加味されることが間違い無さそうなのでw
[t1] 「ダム部のアイちゃん」 川端優紀(ミジンコターボ)×片岡百萬両(ミジンコターボ)×竜崎だいち(ミジンコターボ)
タイトルから勝手にシチュエーションコメディ的なこじんまりした話を想像していたら、物凄い壮大な物語が始まって唖然としましたw
・・・それ自体が実はこの作品の仕掛けなのですが。
構造的な部分はまるで良く出来た落語のようです。
しかし川端優紀の素朴というか天然っぽいキャラクターのせいで仕掛けが悪目立ちすること無くオチとして奇麗に機能しているのが見事。
[t2] 「脱がない帽子の旅」 草野憲大(売込隊ビーム)横山拓也(売込隊ビーム)
参加作品の中で唯一完全にテクニックしか存在しない作品。
・・・というか、もしかするとテクニックすら存在しないかも知れない作品w
横山拓也版「ねじ式」。
でたらめで適当なんだけど、その適当さが見事に草野憲大のキャラにマッチして観客を笑いへと導く。
今年の参加作品の中では最大の変化球w
・・・多分、チェンジアップw
2009年08月05日
トラワレアソビ
イスカリオテのユダの誣告によって
ナザレのイエス(イエス・キリスト)が捕らわれた晩、
同じ牢に繋がれていたバラバのイエスの物語。
当時、過越しの祭りの晩には
囚人が一人釈放されるという慣わしがあった。
釈放されるのは大盗賊バラバかナザレか。
バラバは捕らわれた牢獄の小さな窓から人々が祭りに集う広場を見下ろす。
そこに、イスカリオテのユダが訪れる。
お前ら、どうせ俺を選ぶんだろう?
同時上演の「ツキカゲノモリ」が満月動物園のストーリーテリングを前面に押し出した作品なら、こちらは満月動物園のシニカルな視点を前面に押し出した作品。
「ツキカゲノモリ」は日本の片田舎を舞台にした普遍的な人間ドラマでしたが、こちらは世界的に有名な出来事を題材にした江戸落語といった風情。
(今までの満月動物園の作品の場合、こういうシニカルさはオブラートで包まれていたので、この作品はある意味素直ですw)
キャスティングも「ツキカゲノモリ」では周囲と語り合う感じで演技していた片岡百萬両がこっちではまるで相手役を無視した自己完結芝居で突っ走り、普段は怪人役ばかり演じている昇竜之介が生真面目に悩める青年を演じ切り、そもそもいつもは風変わりな役でちょっと出てくる殿村ゆたかが出ずっぱりの主人公で・・・と、もう思いつくまま変化球投げ放題。
それでも破綻せずに娯楽作品として一定の水準を保っているところがいかにも「アングラ的な題材を美しく見せきる」戒田竜治作品といった感じですが、本作品に限っては、もっと判りやすくパンクに破綻していた方が通りは良かったかも知れませんw
ナザレのイエス(イエス・キリスト)が捕らわれた晩、
同じ牢に繋がれていたバラバのイエスの物語。
当時、過越しの祭りの晩には
囚人が一人釈放されるという慣わしがあった。
釈放されるのは大盗賊バラバかナザレか。
バラバは捕らわれた牢獄の小さな窓から人々が祭りに集う広場を見下ろす。
そこに、イスカリオテのユダが訪れる。
お前ら、どうせ俺を選ぶんだろう?
同時上演の「ツキカゲノモリ」が満月動物園のストーリーテリングを前面に押し出した作品なら、こちらは満月動物園のシニカルな視点を前面に押し出した作品。
「ツキカゲノモリ」は日本の片田舎を舞台にした普遍的な人間ドラマでしたが、こちらは世界的に有名な出来事を題材にした江戸落語といった風情。
(今までの満月動物園の作品の場合、こういうシニカルさはオブラートで包まれていたので、この作品はある意味素直ですw)
キャスティングも「ツキカゲノモリ」では周囲と語り合う感じで演技していた片岡百萬両がこっちではまるで相手役を無視した自己完結芝居で突っ走り、普段は怪人役ばかり演じている昇竜之介が生真面目に悩める青年を演じ切り、そもそもいつもは風変わりな役でちょっと出てくる殿村ゆたかが出ずっぱりの主人公で・・・と、もう思いつくまま変化球投げ放題。
それでも破綻せずに娯楽作品として一定の水準を保っているところがいかにも「アングラ的な題材を美しく見せきる」戒田竜治作品といった感じですが、本作品に限っては、もっと判りやすくパンクに破綻していた方が通りは良かったかも知れませんw