バンコクで働く医療コーディネーターTAKEのブログ(Livedoor版)

タイ・バンコクのSRS(性転換、性別適合手術、美容整形、植毛)などタイの医療情報を日本語で発信しています。

2011年06月

【 ご質問 】

実はあるサイトで 「次の段階の手術を考えるなら、全腹腔鏡での子宮卵巣摘出手術をしない方がよい。
それをやってしまうと次の段階へ進めない。」と書いてあったのですが、本当でしょうか?

【 回答 】

ヤンヒー病院のスキット医師は全腹腔鏡で子宮卵巣摘出手術した患者の「陰茎形成」を受け付けないとコメントしていることを指していると思われます。

ヤンヒー病院で「陰茎形成」を検討している方は考慮すべきコメントですが、ガモン・ホスピタルではそのような条件は全くありませんので、問題ありません。

条件というものは受け入れ医療機関で異なる場合があるという典型的な例であると思います。
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タイへ第三回目の渡航:40日間
・植毛 – H.H.H.ヘアーセンターにて
・SRS+豊胸+顔の女性化(フェイスリフト) – ガモン・クリニック

12月、いよいよ最後の訪タイです。空港では横須賀さんとエーオさんが出迎えてくれました。初日は横須賀さんの事務所に泊めてもらい、翌日には蝋人形館へ連れて行ってもらいました。タイ王族や高僧の蝋人形を、私は興味深く見学しました。

先ず自植毛を受けました。クリニックはHHHという有名な植毛専門医で、医師の名はウィロートといいました。前回のFFSの傷口を隠す目的と、額の生え際を丸く女性的にするためでした。手術前、医師との面談で額に線を引いて生え際の位置を決めました。その後後頭部の髪をカットされ、そこに麻酔クリームを塗られました。

いよいよ手術が始まりました。後頭部にバイブレーターを押し当てられ、そこに麻酔を打たれました。そして頭皮が切り出されました。痛みはありませんでした。次に生え際にも麻酔を打たれ、ニードルのような機械で次々と穴を開けられていきました。歯医者さんが歯を削るときのような機械音がしました。その作業と並行して、別室では看護婦が切り取った私の頭皮から毛根を株分けしていました。

穴が開け終わると、看護婦が数人で一本一本植毛をしていきました。手術があまり長時間にわたったので、私は途中トイレにたちました。手術中、日本語をほぼ完璧に話す女性が通訳としてずっと付き添ってくれました。

手術が終わると、手術跡は赤くぶつぶつになっていました。医師から「植えつけた髪はかさぶたとともに3ヶ月ですべて抜け落ちる。3~6ヶ月したら新しい髪が生え始め9ヶ月でほぼ生え揃う」などといわれました。クリニックからバンダナをもらい、それをかぶって傷口を隠しながら山元さんにコンドータウンまで送ってもらいました。翌日、目と目の間が少し腫れてふくらみました。

SRSの手術前日、タイ人女性スタッフのプイさんがコンドータウンまで迎えに来てくれました。ガモン医師とのカウンセリングの後、すぐ入院して腸内洗浄に入りました。手術はS字結腸法でした。私の場合5年前の睾丸摘出で陰嚢が萎縮しており、反転法では膣の深さが取れないというのがS字にした理由でした。

午後4時に下剤を飲まされ、6時から腸内洗浄が始まりました。ベッドの上で体を横向けにし、肛門から大量の水を腸内に流し込まれました。最初の数回は真水ではなくコーヒーでした。急激に下腹部が膨張し、まるで下痢便を瀬戸際まで我慢しているような激しい便意に襲われました。口から逆流するような吐き気も生じました。

一時間おきに水を肛門から大量に注がれ、それをトイレで排出するという作業を繰り返しました。回数が増えるごとに慣れるどころか、むしろ苦しさは増していきました。手術までに腸内を空っぽにしなければならないということでした。初日は夜11時まで計6回におよび、最後はへとへとでした。

翌朝7時より再び腸内洗浄が始まりました。午前中までに、無色透明の水しか便器に出ないようにしなければならないということでした。手術は午後3時でした。なんとか腸内洗浄を終え、病室で手術時間を待っていると、プイさんの携帯に横須賀さんから電話がかかってきました。私に用事ということで電話を代わると、「急で申し訳ないが、手術をガモンクリニックではなくピヤウェート病院でしたいとガモン先生がいっているのですが」ということでした。

理由を聞くと、私がスポーンクリニックでFFSをした際、呼吸が浅くなったり血圧低下を起こしたりしたことで、もしかして麻酔に弱い体質かも知れないと判断し、万一の時に応急処置がすぐ取れるよう、設備が完備された病院でしたいということでした。「執刀医もスタッフも全員移動するので、別な先生が手術をするわけではありません」という言葉で安心し、それに承諾しました。点滴をつけながら車椅子で移動しました。

ピヤウェート病院で入院の手続きを終えると、横須賀さんが駆けつけてくれました。待合室には大きなテレビがあり、オカルト番組が放映されていました。横須賀さんが、「タイ人はお化けが好きで、こんな番組ばっかりですよ」といって緊張をほぐしてくれました。青いガモンクリニックの入院服からピンクのピヤウェート病院の入院服に着替えさせられ、8階の病室に移動しました。

手術の時間が来ました。手術室に向かう私を横須賀さんとプイさんが見送ってくれました。途中若い男性医師に「どういう手術をするのですか」と質問されたので、「SRSです」と私が答えると、横須賀さんが「確認ですから」と大きな声でいってくれました。手術室に入ると、ガモン医師がやってきて笑顔で握手をしてくれました。麻酔を入れる前、若い男性医師が英語でなにやら注意事項を語ってくれました。うなずくと麻酔が体に流され、すぐに意識を失いました。

覚醒するちょっと前、夢を見ました。すぐ忘れましたが、麻酔の最中に夢を見たのは初めてでした。気が付いて先ず、腸が張るような不快感に襲われました。近くに看護婦がいたので「いつ手術が終わったのですか」とたずねると、彼女は「11時」と答えました。ちょうど8時間でした。その後「痛い?」と問い返されたので、私は日本語で「腸が張る」と答えましたが、当然ながらそれは彼女には通じませんでした。その後すぐにまた眠ってしまい、再び目を覚ましたときには腸の不快感は消えていました。しばらくして病室に運ばれました。

ピヤウェート病院のベッドが硬いため、腰が痛くて眠れませんでした。翌朝、山元さんが来て「午後にガモン医師が検診に来ます。その後ガモンクリニックへ移動になります」と教えてくれました。私は動きたくありませんでしたが、ピヤウェート病院にいてはガモン医師の指示が看護婦に上手く伝わらないからということでした。

午後、ガモン医師が来て包帯を解き、手術跡の血を洗い流す作業をしてくれました。洗浄が終わると再び陰部を包帯でくるまれました。山元さんが、「腫れや出血もたいしたことなく綺麗です」といってくれました。私が「いったい患部はどうなっているんですか?」と聞いたら、彼は「後のお楽しみです」と答えました。その後ストレッチャーに乗せられ救急車でガモンクリニックへ搬送されました。まるで瀕死の重症患者の気分でした。

ガモンクリニックでの入院が始まりました。プイさんから「もうすぐ歩く練習をします。そうして腸を動かし、おならを出さなければいけません。おならが出たら水が飲めます」といわれました。初めて歩くときプイさんが支えてくれたのですが、立っただけで冷や汗が出て、二三歩歩いてドーナツクッションに座り込んでしまいました。足が紫色になって、極端な貧血症状でした。

抜糸の後、チーフ看護婦のメームさんが来て「これからダイレーションをします。リラックスしてください」といいました。そして私の膣を洗浄し、ろうそくのようなダイレーターを突っ込もうとしました。しかし思うように入らず、私はあまりの痛さにのけぞってうめき声をあげました。数回試みた末、ようやくダイレーターが膣内に入り、「30分このまま」と彼女にいわれました。私は毎日こんなことをするのかと思うと、生きた心地がしませんでした。

退院する前に、自力で排尿できるか確認するとのことでした。先ず膀胱に十分な尿が溜まるか調べるために、カテーテルのチューブを閉められ大量の水を飲まされました。しばらくして尿意をもよおしたので、看護婦を呼んでチューブを開いてもらうと、大量に尿がビニール袋に流れ込みました。それを3回繰り返し、ようやくカテーテルを外す許可が出ました。

初めて自分で排尿を試みました。今までと勝手が違い、なんだか怖いような複雑な気持ちでした。トイレにしゃがんで力むと、性器全体がまだ腫れているせいか、勢いはありませんでしたが、自力排尿することが出来ました。ようやく退院にこぎつけました。

自分の女性器を恐る恐る見てみると、小陰唇が“たらこくちびる”のように腫れて突き出していました。そこに上下斜めに縫った跡があり、ナプキンにいつも血がこびりつきました。術後しばらくは腰当パットにも血がにじみましたが、そちらのほうは治まっていました。しかし尿意の感覚がまだつかめず、排尿はぎこちないものでした。いつも尿が真っ直ぐ出ずに、ちょろちょろ左右に散らばってお尻を汚しました。

毎日ダイレーションが朝夕2回ありました。正直苦痛でした。ダイレーターは0番から6番まで計7種類あって、0番は直系2センチ弱、最大の6番は直径3.5センチくらいでした。当初0番で悲鳴をあげていた私は、将来6番を入れなければならないと聞かされ、「こんなものが入るわけがない」と思いました。数日後、0番から1番へサイズアップされましたが、じっとしていられないほど膣が裂けるような痛みが続きました。

体力も僅かずつ回復してきました。しかし性器の痛みは尋常でありませんでした。ペニスの亀頭部分を万力で絞められているような痛さと、睾丸の袋をカッターナイフで切り刻まれたような痛さが並行しました。無いはずの男性器が痛いといった感じでした。特に立っているとジンジン痛くなるので、ひどいときはベッドで横になっていました。

退院から8日目、最後の手術である豊胸に臨みました。手術前から「豊胸が一番痛いですよ。手術後のマッサージでみんな泣きますよ」と横須賀さんやプイさんからおどされていました。

横須賀さんが「今、下が痛いでしょうから、そこに上まで痛くなったら精神的負担も大きいでしょう。豊胸は遅らせますか?どうせビザがあるんですから、もう少し経ってからでもいいですよ」と気づかってくれました。しかしプイさんが「痛いのはいっぺんで終わらせたほうがいいよ。やっちゃいな」と励ましてくれたので、私は予定通りの日程で手術することにしました。手術は豊胸と、顔、首のリフトアップでした。

手術に先立ち、豊胸バッグのサイズをプイさんに選んでもらいました。プイさんはいくつかのバッグを私の胸に当て、「あなたの体格なら300ccがいいと思うよ。250だと小さいと思う」といわれました。私は彼女を信頼し300を入れることにしました。「300だとCカップになると思う」と彼女は言葉を添えました。

手術の日はクリスマスイヴでした。最後の手術なので、私は無事終わるように死んだ父の名刺をプイさんから足に貼り付けてもらい、お守りにしました。メームさんがその様子を見て笑っていました。私はメームさんに、「今日はイヴなので、ガモンサンタから胸をプレゼントしてもらう。眠りから覚めたら枕元じゃなくて、胸元にバストがプレゼントされている」と冗談をいいました。

手術は無事終わりました。手術前から豊胸はとても痛いと聞いていたので覚悟していたのですが、覚醒してみると痛くありませんでした。手も上がり、腕も思いのほか動かせました。ただバッグを入れた両脇と、リフトアップした両耳の後ろにドレーンが突き刺さっていて鈍痛がありました。山元さんに手を上げる動作を見せると、彼は「それだけ上がれば十分です」と笑顔でいってくれました。彼は私のために、なんども銀行へ両替に行ってくれました。

年末に入り、プイさんが休暇を取って実家へ帰り、山元さんも休暇に入りました。ガモンクリニックでは、医師、看護婦、スタッフ全員が、年末バーベキューパーティーをしていました。私はまだベッドの上で起き上がることが出来ませんでしたので、遠くから笑い声だけを聞いていました。

「年末で誰もいないんです」と、横須賀さんが見舞いに来てくれました。私が「胸、ぜんぜん痛くないですよ」というと、彼は「とてもラッキーなケースです」といってくれました。その後、彼はバーベキュー会場からエビを皿に取ってきて、私に箸で食べさせてくれました。今はほとんどスタッフに任せの彼ですが、5年前はすべて一人でお客をアテンドしていました。私はそのときのことを少し思い出し、ほんのり嬉しくなりました。

ダイレーションと並行してバストのマッサージが始まりました。バストはマッサージを怠ると硬縮を起こすとのことでした。毎日2回、両脇から二人の看護婦が体重をかけて圧し掛かり、約30分私のバストをマッサージしました。ダイレーションは痛いわ、マッサージは痛いわで、大変でした。正月開けにプイさんが戻ってきて、「痛くても我慢しないと、バストの形が良くならないよ」と叱咤してくれました。

プイさんは私をなんども買い物に誘ったり、日本料理店に連れて行ってくれました。私がダイレーターの6番を見て「こんなの無理」というと、「大丈夫。それどころかきっと7番が欲しくなるよ。でも7番はないけどね」と彼女は励ましてくれました。それとは逆に横須賀さんは「6番なんて外人とセックスする人が使うんじゃないですか。あんな太い日本人はいませんよ」と、冗談ともつかぬことをいいました。

最後のフォローアップで、私はいくつかの質問をガモン医師にしました。一番気になっていたのは、小陰唇に壊死したような白い部分があったことでした。ガモン医師はそれを「大丈夫。治る」といってくれました。山元さんも当初から、「黒いのはよくないが、白いのは大丈夫」と教えてくれていました。「排尿の際に尿がちらばってお尻を伝うのは治りますか」と聞いたところ、横からプイさんが「女性もそうなるよ」と真面目な顔でいいました。医師は「OK」と私に診断を下してくれました。

帰国が近づくと、私もだいぶ歩けるようになっていました。そのころエーオさんがバンコク観光に誘ってくれました。プラッケーオ、プラッポーを見学し、夜は私のリクエストしたタイ式ボクシングの試合をルンピニースタジアムで見学しました。プラッケーオでは偶然、タイ王室のシリバー・チュダボーン王女を見ました。王女は何人もの護衛に囲まれて、笑顔で手を振り私の目の前を通り過ぎて行きました。とてもラッキーでした。傷口がまだ痛いため、私は先を歩くエーオさんによちよちついていくのがやっとでした。

帰国の日、最後に横須賀さんの事務所で食事をいただきました。「ピシェート、スポーン、ヨーサガン、ウィロート、ガモン、このタイ医療機関のそうそうたるメンバーからすべて執刀を受けるなんて、あなたは記録保持者です」と、横須賀さんが面白いことをいいました。空港へは迎えのときと同じく、横須賀さんとエーオさんが送ってくれました。

横須賀さんたちと空港で別れた後、ハプニングがありました。出国審査でパスポートを見せたら審査官に捕まってしまったのです。そういえばパスポートの写真は、FFSもホルモン治療もしていない6年前のもので、横須賀さんが、「全く分かりません」といったあの写真でした。

怖い形相で「名前をいってみろ」「生年月日をいってみろ」と次々質問され、私は必死にそれに答えました。すると「OK」といってくれたので、やっと許してもらったのかと思いホッとしていると、今度は女性が来て、「あなたは本当に男か?私について来なさい」と別室に連れて行かれ、そこでも質問を受けました。最後はなんとか難を逃れることが出来たのですが、最悪の場合手術証明書を提示しなければならないと覚悟しました。

今までこのパスポートで何もいわれたことがなかったので、私はタイの審査を甘く考えていたのですが、そのときばかりは本当に肝を冷やしました。

日本でもしばらくは体のケアとダイレーションに明け暮れました。6ヶ月以内に6番のダイレーターを入れるよういわれていたのですが、なんと3ヶ月で入りました。ダイレーションを始めた当初、0番で悲鳴をあげたのがなんだったのかと思うくらい、その後のサイズアップは順調でした。その意味で、「大丈夫。7番が欲しくなる」といったプイさんは正しかったです。

痛みは4ヶ月くらいで完全に消え、自転車にも乗れるようになりました。6ヶ月たった今は小陰唇の腫れもすっかり引いて小さくなり、膣口付近の赤みも消えて目立たなくなりました。ダイレーションはまだ少し痛いですが、それでも6番のダイレーターが6インチ(15センチ)はたっぷり入ります。というより、16~17センチは入ります。

体を100%女にしたのですから、以後の生活も100%女として生きなければ意味がないと思い、男性時代の衣類はすべて処分しました。わざとボディーラインが強調できる服を買ってきて胸をそらして歩いています。そうなると現金なもので、もう少し胸は大きくても良かったと思っています。マンションの管理人や近所の人も最初は目を丸くして驚いていましたが、私が普段どおり挨拶していると、相手も普通に付き合って冗談まで返してくれるようになりました。

仕事を辞め、見知らぬ土地で暮らす私にとって、友達作りは必要不可欠でした。コミュニティーに参加するため女性として教会に通い始めました。年配の教会員はおろか、20代、30代の女性教会員でも私を元男と気づきません。まだ一般の意識として、性転換者などは、芸能界か大都市のネオン街にしか日本ではいないと思っているのでしょう。おかげさまでずい分友達も出来ました。しかしおしゃべりしたり食事したりするのは皆女性ばかりで、男友達はまだ出来ていません。今後の課題です。

仕事を探そうと思うと、戸籍変更が不可欠に思えました。女性としてハローワークで登録してもらい、女性名で紹介状を出してもらうのですが、雇用保険等の関係上いざ面接というと必ず現状をカミングアウトしなければなりません。上手く行かないと恥だけかいてきたようで落ち込みます。

私のことを心配して教会員の方が仕事を紹介してくれるような話もありましたが、心ならずも断りました。友人からの紹介で、自分の戸籍が知られるのが怖かったからです。戸籍変更さえしてしまえば堂々と友人に紹介依頼できるし、面接の際も過去のことは一切話す必要がなくなります。しかしようやく3度目の面接で、女性として福祉施設に雇ってもらうことが出来ました。施設からは「利用者が混乱するため、絶対に“元男”とはいわないように」と釘を刺されましたが、それは私にとっても願ったりかなったりです。

私はその不便さに業を煮やし、戸籍の変更をもくろんでジェンダークリニックを訪ねました。私が手術の証明書を見せると、院長は「え、ピヤウェート病院でやったの。僕もピヤウェート病院で手術したことあるんだよ」といわれました。自身でもSRSの手術を手がけるらしく、「特例法の施行前は、いくら書類を書いても裁判所にはねられたけど、施行されてからすべて僕は通しているからね。任せてください」と応じてくれました。ずい分古くから性同一性障害患者を支援してきた人のようです。

いずれにせよ、私がやってきたようなことは、勇気、執念、お金、健康、この四拍子が揃っていないと出来ないことです。しかし私にとって最大の勇気は、この手術のために会社を退職したことでした。築いた立場を投げ捨てるということは、新しい道に踏み出すより勇気のいることでした。よく結婚より離婚が大変といいますが、その意味が分りました。会社を辞めるときに要した勇気に比べれば、手術に望む勇気など取るに足らないものだったからです。

思えば、私の人生は奇妙奇天烈です。この奇天烈人生の片棒を担いだのがジェイ・ウェッブ・クリエーションであり、その社長横須賀さんであったことはいうまでもありません。彼とその家族、スタッフには心から感謝しています。

激烈な日本のサラリーマン社会を男性として先頭を走っていた私が、今や女性として教会の婦人会に参加して穏やかに生活している。なんだか自分でも笑ってしまいます。どこからか、あの、世にも奇妙な物語のサウンドと、タモリのナレーションが聞こえてきそうです。
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タイへ第二回目の渡航:40日間
・FFS - スポーン・クリニックにて
・声の女性化 - ヨーサガン・クリニックにて

2010年6月、私は再びタイ訪問を決意しました。このとき実施しようと考えた手術は、FFS、豊胸、声の女性化、そしてSRS、すなわち、行き着くところまで行き着いたのです。「やるなら全部やる。逃げ道は残さない」これが私の出した結論でした。

依頼先はもちろん5年前にお世話になったジェイ・ウェッブ・クリエーションで迷いはありませんでした。ネットでジェイ・ウェッブ・クリエーションを検索すると、以前と比べずい分ホームページがにぎやかになっているのに驚きました。飛行機のチケットも自分で手配する必要がないとのことでした。

タイへ降り立ち、指定の場所で待っていると、スタッフの山元さんが来てくれました。彼の車で事務所へ向かうと、そこは以前の高層マンションの一室とは違い、いかにもオフィースらしい明るい雰囲気の事務所でした。横須賀さんとは5年ぶりの再会でした。送迎から病院への見舞いまですべて一人でこなしていた彼も、今やしっかり社長業に専念しているようでした。翌日、GID診断書を取りました。

最初の手術であるFFSを受けるためスポーン・クリニックへ向かいました。麻酔の女医と打ち合わせた後、スポーン医師との面談に入りました。面談中、医師は私の顔を真剣に見つめながら、「眉骨が高くないのでラッキーだ。鼻はいじらなくていい。顎は大きいと思うか」などといって、どこをどうするか分析しているようでした。

最後に、「術後しばらくは顔が腫れる。引き上げた眉が本来あるべきところに落ち着くには6ヶ月かかる。顔の手術は場合によって大きなストレスを生じさせ、『理想と違う』と悲観して自殺する人もいる。だから6ヶ月は鏡を見るな。6ヶ月過ぎた頃からあなたの顔があなたのものになる」などといわれました。手術時間は7時間ということでした。

同伴していた山元さんが、「この部屋の窓が閉めてあるのは、あなたが飛び降り自殺しないようにですよ」と、しゃれにならない冗談をいいました。FFSをスポーン・クリニックでするお客は、ジェイ・ウェッブ・クリエーション開業以来私が初めてとのことでした。正にまな板の鯉でした。

手術室に運ばれ、麻酔の女医から「エキサイティング?」と笑顔で問いかけられました。間もなく、あのスポーン医師が真剣な表情でこちらに歩いてくるのが見えました。と、その後の記憶がありません。一瞬にして意識を失ったようです。

山元さんの「ゆっくり大きく息をしてください」という声でやっと意識が戻りました。どうやら麻酔に酔ってしまったようで、鼻には酸素吸入のためのチューブが差し込まれていました。とにかく体は冷え、呼吸は浅く、酸素濃度を量る器具がやたらとピーピー警告音を鳴らしていました。

医師から鏡を見るなといわれていたのですがどうしても見たくなり、山元さんに頼んで鏡を覗き込みました。するとまるでエジプトのミイラのように包帯にくるまれた自分の顔がありました。目元と鼻だけが見えました。「子供の顔みたいですね」と私がいうと、山元さんは「そうですね。でもあまり見ないほうがいいですよ」と忠告してくれました。

夕方、ジップさんと名のる若い女性が来て、「今晩あなたの見張りをします。何かあったら用事を言いつけてください」といって、壁際の椅子に座り、じっと私を見守っていました。私がエアコンを切って欲しいと依頼していたので、彼女にとって部屋はとても暑かったはずです。しかし彼女は一晩中一睡もせずに私の様子を窺っていました。

後で山元さんに、「なぜ私は一晩中見張られていたのですか」と聞いたら、彼は「全身麻酔をかけた患者は、最初の夜が一番危険なんですよ。そのためです」と答えてくれました。どうやら病院側も私の容態を気にかけていたようです。

エーカション病院の食事が口に合いませんでした。麻酔のダメージもあって食欲も出ませんでした。体力回復には食べることが一番と分かっていたのですが、スープの臭いを嗅いだだけで気持が悪くなりました。5年前の睾丸摘出術のイメージから、手術を軽く考えていた私は、以後の日程に少し自信をなくしました。

退院後、横須賀さんの事務所にあるビジタールームでお世話になりました。横須賀さんの奥さんエーオさんと義妹ペーオさんが毎日食事の世話をしてくれました。スポーンでの食事に比べ生きた心地がしました。しかし体調はまだ悪く、口、額、目元、眉間と、執刀した箇所から次々と発熱し、体力も落ちて足が折れそうなくらい細くなりました。

体力アップのため事務所の周りを散歩しました。最初は10メートル歩いただけで冷や汗が出てよろめきました。元来丈夫な私にとって、こんな経験は初めてでした。SRSまで1ヶ月を切っていたこともあり、一度帰国して体力回復を待つことを横須賀さんに申し出て許可してもらいました。ただ、せっかくビザを取ってきたので、声の女性化だけはしていくことにしました。

夕食のとき、横須賀さんとよく話をしました。彼は日本での苦労話をときおり聞かせてくれました。顔の腫れも少し落ち着いてきた頃、「ずい分イメージ変わりましたよ。スポーン先生はやることが半端じゃなくて徹底していますから。他の医師ならそんなに変わりませんよ」と横須賀さんからいわれました。山元さんも、「あの先生、自分の好みに合わせて顔を作っているんじゃないですか」と面白いことをいいました。

ところで、横須賀さんが私を覚えていないことに驚きました。彼が「今度のお客さんは睾丸を取ってあるんだ、と思いました」と妙なことをいったので、私が「そのときアテンドしたのはあなたですよね」というと、「え、そうでしたっけ」と慌てて昔の顧客を検索し、私の写真を探し始めたのです。そして「これは分かりませんよ。今とぜんぜん違います。へー、ホルモンで人の顔ってこんなに変わるものなんだ」と妙に感心していると、山元さんもその写真を見て、「確かに。ぜんぜん面影ありません」といいました。その写真は私のパスポートの写真でした。

少しずつ体力も回復し、長距離を歩けるようになりました。SRSも今回はキャンセルしたことで、気も楽になっていました。ときどきエーオさんとペーオさんが買い物に誘ってくれました。ラーマ9世公園へウォーキングにも一緒に行きました。

スポーンクリニックへフォローアップに行くとき、二重まぶたにした糸が目立ち、恥ずかしかくてサングラスをかけて行きました。それを見た横須賀さんが、「タイではそういうのは隠さず見せびらかすのです。『自分は手術できるお金があるぞ』と自慢するためにね」といわれたので、私もなるほどと思いました。

近所にイスラムの寺院があり、興味本位で近づいてみました。すると突然イスラム服を着た男性に、「何をしてる」と声をかけられました。さらに男性は「お前はイスラム教徒か」と聞いてきたので、「私は日本から来て近くに宿を借りているものです。寺院に興味を持ちまして、ただ見ていただけです」と答えると、「よし、中へ入って良い」と入場を許可してくれました。私は生まれて始めてモスクの中へ入ってみました。

声の女性化の手術を著名なヨーサガン医師から受けました。手術に先立ち、先ずエッセーを朗読させられ、その声を録音されました。次に歌を歌えといわれたので、私はドレミの歌を歌いました。それから麻酔を口に含んで喉の奥を麻痺させ、ファイバースコープのようなカメラを飲まされて、そのまま声を出させられました。声帯の振動を確認するということでした。

手術後、心配した麻酔による後遺症はありませんでした。術後2週間は話すことが出来ないということで、スタッフや看護婦とは筆談になりました。話が出来ないということが、これほどもどかしいと私は思いませんでした。声がどうなるか不安はありましたが、ともかく喉仏を取ることでは意味がありました。約40日間のタイ滞在後、私は日本へ一時帰国しました。

帰国後、しばらくして声を出してみましたが、声になりませんでした。というより、喉頭がんを患った人が、喉の奥から絞り出すような太いがらがら声でした。術後2ヶ月くらいは相手から「え、なに」とよく聞き返されましたが、3ヶ月ほどで会話に支障がなくなりました。しかしまだ声は太くかすれ、しかも毎日のように音質が変わりました。低い声といえ、それはもはや手術前のオリジナルの声ではありませんでした。落ち着くのに1年はかかるといわれました。

横須賀さんが面談会を開催するため日本を訪れました。その間エーオさんが私のマンションに遊びに来て5日ほど泊まりました。彼女は私のマンションでも暇さえあれば帳簿付けをしていたので、「仕事?」と聞くと、「私、忙しくしていたほうが好きなの」と答えました。体力も回復してきた私は、彼女を観光案内して差し上げました。
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タイへ第一回目渡航:7日間
・睾丸摘出 - ピチェート整形外科センターにて

私が初めてジェイ・ウェッブ・クリエーションを利用したのは今から6年前の2005年8月、ふとしたきっかけで、「タイで睾丸摘出パック」なるものをネットで見つけ、申し込んだのが最初でした。

なぜそんなものに申し込んだかを説明したら、一冊の本が出来てしまうのでここでは語りません。まあ、簡単に言えば人生に魔が差したということでしょう。そのころ仕事を持っていた私は、夏休みを利用してタイへ行くことにしました。「バカンスに行くので」という理由で旅行会社に依頼し、ANAのチケットを予約したのです。

当時のタイ空港はターミナルが二つに分かれていました。ANAが着くのは第2ターミナルでした。予定時間よりやや遅れてバンコクに着いた私は、迷いながらもターミナルの外へ出ることができました。スーツケースを引きずって歩いて行くと、約束の場所に横須賀さんが待っていました。彼は紳士的な態度で私からスーツケースを受け取ると、駐車場まで案内してくれました。

駐車場には一台の車が待っていて、運転席に若いタイ人女性が座っていました。車内で世間話をしながら宿泊先のレジデンスへ向かう途中、横須賀さんは大きな建物を指差し、「あれが手術をする病院です。手術は全身麻酔で行います」と教えてくれました。部分麻酔だと思っていた私は、全身麻酔と聞いて少し驚きました。

翌日クリニックに連れて行かれました。なにやら雑然とした理髪店のようでした。医師の名はピシェートといって、スポーツマンらしいハンサムな医師でした。元パイロットをしていたということです。

クリニックでは、手術に関する同意書に、手が疲れるほどなんどもサインをさせられました。サインが終わると横須賀さんから、「これから病院へ向かいます。そこで先生から『なぜ睾丸を摘出するのですか』という質問を受けます」といわれました。

私が「どう答えればいいのですか」と問い返すと、彼は、「いろんな理由があるでしょうが、一番良い回答は、『将来性転換をしますので、その前段階として睾丸を取ります』という回答です。以前ご夫婦で来られたお客さんが、『性欲をなくすため』というような回答をされ、手術が出来なかったことがありました」と教えてくれました。さらに、「本当に性転換したかどうかなんて追跡しませんから」と、彼は言葉を添えました。

手術は午後2時半ということでした。病院に移動した私は、医師との面談に呼ばれて個室に入りました。横須賀氏とタイ人女性がそこに同伴しました。タイ人女性は、手にビデオカメラを持って、質問に答える私を録画し始めました。どうやら証拠物件にするようでした。

「なぜ睾丸を摘出するのか」と質問され、私はかねてから打ち合わせ通り「将来の性転換に備えて」と答えました。すると医師は笑顔を作り、「OK」といって握手をしてくれました。私はホッとした反面、嘘でもカメラの前で「性転換をします」といった自分をはずかしく思いました。性転換など全く考えていなかったからです。

手術に入る前、横須賀さんから「背中に麻酔注射を打ちますが決して痛くありません。ただ動くと危険なので動かないようにしてください」と念を押されました。私が不安そうに見えたのか「もう、ここまで来たのですから」と、覚悟を決めろといわんばかりの言葉を、彼はさりげなくかけてくれました。

麻酔の医師が来て、ベッドで横向きになった私の背骨にゆっくりと注射針を差し込みました。私は緊張しないよう深呼吸を繰り返しました。麻酔が無事終わると手術室へ移動させられ、そこで待っていた数人の看護婦に足をつねられて、日本語で「痛い?」と聞かれました。私は答えようとしたのですが、そのとき、す~っと意識を失いました。

覚醒すると、そこはまだ手術室の中でした。カチャカチャと手術道具を片付けているような音が聞こえたので、「フィニッシュ?」と英語で聞くと、「イエス」と看護婦が答えました。しばらくして病室に運ばれましたが、麻酔のせいか、腰の辺りを触れても感覚がなく、なにか物に触れているようでした。ペニスは包帯で覆われ、カテーテルが差し込まれていました。痛みはありませんでした。

最初の食事の際、一人で起き上がろうとしたのですが、下半身に力が入らず上手くいきませんでした。すると「オーノー」と看護婦が心配そうに近づいてきて、私の体を支えてくれました。そして優しくスプーンで食事を食べさせてくれました。夜、横須賀さんがお見舞いに来てくれました。

翌日、目玉焼き二つだけの朝食を取りました。カテーテルも抜かれ一息ついたので、椅子に座ってバンコクの景色を眺めていたら、横須賀さんが迎えに来てくれました。私は預けてあった現金を受け取り、金額を確認してサインしました。

横須賀さんから「そこに摘出した睾丸がありますが、持って帰りますか?それとも捨ててもらいますか?」と聞かれたので、私は迷わず「捨ててください」と答えました。以前ニューハーフを扱ったテレビ番組で、“睾丸を大事に持っているニューハーフの子は幸せになれない”などといっているのを思い出したからです。

退院から帰国まで、私はタイ観光に明け暮れました。スカイトレインに乗ってルンピニーパークへ行き、さらに地下鉄に乗り換えてチャトチャックパークまで行きました。翌日にはクイーンシリキットナショナルユニバーサルセンターまで行ってみました。術後であることなど気にせず、ずい分な距離を歩いて回りました。

公園では、トイレに入るのにお金がかかるのに驚き、また、バザールに体の不自由な物乞いがいるのにも驚かされました。レストランでは水を頼むとお金を取られました。タイでの数日は、正に私にとって現実離れした不思議な時間でした。

帰国の前、私は抜糸のため病院で医師のチェックを受けました。しかし困ったことに傷口がまだ開いたままで、抜糸は出来ないという診断でした。私は焦りました。レジデンスでおとなしく養生していれば良かったと、改めて歩き回ったことを後悔しました。

横須賀さんが、「そのうち糸は抜けてきます。でもどうしても心配だったら自分の体のことですから、日本の病院へ行ってください」とアドバイスしてくれました。しかし私は「日本の病院など行けない」と、そのとき心の中で思いました。

帰国の日、横須賀さんの事務所に立ち寄りました。事務所は高層マンションの33階の一室でした。数時間の雑談の後、私は女性ドライバーから空港まで送ってもらいました。

飛行機が離陸し、窓からバンコクの夜景が見えました。夜景は少しずつ遠くなり、やがて見えなくなりました。飛行機の中で、それまでのタイでの出来事が、まるで夢のように回想されました。

日本に着いた私は、何事もなかったように仕事に戻りました。タイで横須賀さんがいった通り、手術で縫い合わせた糸も自然に抜けてきました。変わったことといえば、マスターベーションをしなくなったこと、すなわち性欲が完全に途絶えたことでした。

ホルモンを服用し始め、脱毛エステなどに通い始めたのもこの頃でした。何気に始めたその行為が、後戻りできない道への序曲であることを、まだそのときは知るよしもありませんでした。

ホルモンの効果が現れると嬉しくなりました。ひとたびこの連鎖が始まると、それはまるで原子炉がメルトダウンを起こしたように制御不能になります。行き着くところまで止められないのです。

結果、私はこの5年後、再びタイを訪れることになります。もちろんSRSをするために。ビデオカメラの前で証言した嘘が、現実になったのです。                 
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