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きょうび、映画館は、全席指定のシステムになっているところが多い。


どの席を選ぶか決めるときには、
見やすい後方の席とか、通路側の席から勧められたりと、いろいろと劇場の人が便宜を図ってくれるので
だから、たいてい、さして混んでいない回なら
一人で観に行って、両サイドに他の人が座ることもない。
ちょっとしたホームシアター感覚で、ゆったり鑑賞するのが常だ。

でもどういうわけか昨日は、
「まん中の列のまん中の席」というリクエストを頑迷に通した男が二人いて
それはつまり、手ぶらで職場を抜け出してきたぼくと、
会社帰りのちょっと赤ら顔のおじさんで
まわりがガラガラに空いているのに
見知らぬ二人が「まん中の列のまん中の席」に並んで座ることになった。
一個くらい席をずれればいいものを、ふたりとも動じず、
ぼくは文庫をひらいて漫然とながめ、
となりのおじさんは夕刊をうんうんと頷きつつ読んで、
映画が始まるのを待った。

やがて、暗闇がおとずれ、
ふたりで肩を寄せ合って、『ミリオンダラー・ベイビー』を観た。

ぼくとおじさんは、ショッキングなシーンで同時に息を飲む。
おじさんの呼吸音が大きいので、おなじシーンだとわかるのだ。
そして、おなじ場面でわらう。
漏れ出たふたりの笑いが、下品なハーモニーをつくるのを聞いた。
そして、おなじ場面で泣く。
べつに、となりのおじさんがハンカチで目元をぬぐうのを見たわけではないし、
それをいうなら、ぼくの眼からも何もこぼれてこなかった。
でも、われわれの魂は、涙を流し続けていた。
となりに座っていれば、それくらいのことはわかる。


『ミリオンダラー・ベイビー』での「死」の取り扱いに関して
異論のある人はいるだろうとおもう。

反論は、しない。
「たかが映画じゃないか」とも、言わない。
それをいうなら、むしろ、
「たかが神話じゃないか」と言うべきだとおもう。

この映画は、現代に、またひとつ産み落とされた新しい神話で
イーストウッドはこの新作でも、自ら神を見放し、そのことで永遠に神に見放された宿命を、背負う。
黒沢清がいっていたけれど、いつものパターンなんだけど、毎回新しい。


雑誌で読んだ映画評のなかでは、
『invitation』の北小路隆志さんのものが出色だった。

劇中での、教会前の会話に出てきた三位一体を、
神=フランキー イエス=マギー 精霊=スクラップ
と見立て、精霊の働きかけによって物事が生成することを
3人の行動原理にピタリと当てはめてみせて、小気味いい解釈。
父は子を殺し、どこかへと去る。
精霊の声だけがわれわれのもとに残る。