2005年05月02日
納屋味先生の独白(16)
「先生、暫くでした。実は田舎に帰っていました。昨日の夜遅く、東京に着いて、朝になるのを待って、とにかく先生のところへと考えて来てしまいました。」と迷洋君が妙にまじめ顔だ。
先生は例のように茎ほうじ茶を入れながら不思議そうな顔をして迷洋君の顔を見る。迷洋君の横にはこれまた悩み深い犀角君がなにやら難しい顔でかしこまる。
「迷洋君の実家は確か九州の福岡でしたか。何かありましたか。」と先生は心配そうに尋ねる。
それを受けて迷洋君が語り始めた。
「はい。実は中学のときの同級生が自殺しました。あのころはよく将来のことなど語りあった奴なんです。勉強のできる奴でしたが、結局家の事情で高校にもいけず自衛隊に1年ほど行ったんですけどすぐ止めて郷里で職を転々としていました。家に行くと、いつもすごい量の古本が山積みになっていましたっけね。でもずっと貧乏だったみたいです。
僕は、高校、大学と順調に進み、そのことが何か奴との間を疎遠にしていったみたいで、長い間音信がなかったんです。このところ年々死んでいく人があり、どうもいろいろ考えさせられてしまいます。田舎の父と母も大病を重ね今はなんとか生きていますが、傍にいてやれないのが悲しいです。いつも家族の生活を支えてきた父、そして私のわがままにいつも苦しめられながらも限りない愛情を注いでくれた母、その年老いた父と母の傍で私の全身で恩返しをしたい、そういう気持ちでいっぱいです。」
迷洋君の目に涙が溢れる。その後の言葉が続かない。
先生は黙って聞いていた。そして静かに口を開いた。
「人間は相手を意識の中に住まわせる。相手が自分を相手の意識の中にいさせることで安心を覚える。さまよえる意識は常に自分という意識体をだれかに認めてもらうこと、そのことばかりを考える。家族とは、意識が休まるところですね。なにしろお互いに相手を認めて常に自分の意識の中に互いを住まわせているのだからね。意識こそが人間を人間たらしめている。あるとき、人は意識の存在の証を残そうとする。確かにそのとき意識があったのだという証し残そうとする。意識は悩ましい。意識に形はあるのだろうか。知能、善悪、生き方、行い、学問などなど、意識は様々にその兆表をみせる。意識は刹那的な断続である。死?
今まで、普通に生活してきた人が突然いなくなってしまう、この世界から全く「無」に帰してしまうことのほうが、私には不思議です。奇跡としか言いようがないのです。死んだら、家族の心の中の意識に残ることしかない。物質的には何も残らない。今まで普通に話していた人が突然いなくなる。これは奇異としかいいようがない。多くの人にはその死は無関係であり、意識に残ることもない。意識のもつ意味は大きく、植物人間状態の人は意識がないことが死に等しい。物体としての肉体が生き続けても、意識を共有しあえないことの虚しさ・悲しさは深い。いっそうに深い。いつか意識の戻ることを願って見守り続けるしかない。
歴史に名を残した人は語り継がれる。しかし、当の本人はそんなことは全く知らない。多くの人の意識に上るということである。当の本人がそれで幸せを感じるということもない。すべては生きている人の心の中の問題にすぎない。漱石だって、自分の作品が100年後の今も多くの人に読まれていることなど知っちゃいない。死は物質的な消滅にすぎないのか。しかし、生きている間の意識のやりとりが死を物質的なものの消滅と理解することに障害となる。いったいなんであったのか。死にゆくものは、意識のなくなるところで突如として無に帰する。残された者の意識はこれまでどおりにあつ続ける。死とは、この意識のあり方のみの問題なのかもしれない。」
先生は、一点見つめるように話されていました。そして時折苦悶に満ちた目を閉じて、ため息をつくのです。
横で黙って聞いていた犀角君が突然口を開きます。
「先生、私はどうも意志の弱い人間です。いつも司法試験の方法論ばかりに気をとられて、本論の勉強に身が入らないのです。今日は、迷洋先輩が先生のところに行くのを知って、是非とも先生に何かご教示をえたいと先輩についてまいりました。迷洋先輩は私と次元の違う悲しみで、申し訳ないのですが、私は早く自分のこの情けない状態から抜け出したいと思いつめています。」とがっしりした体格の犀角君には似合わない弱気だ。
「犀角さん。あなたはきっと完全なもの、絶対的なものの存在を信じて疑わない人なのではないでしょうか。司法試験を志す人に多い誤解なんです。病的な誤解といってもいい。世の中なんてたかがしれています。なにしろ不完全な人間がいろいろ考えて作ったのが世の中なんですから。完全主義やら絶対主義よらは実はありもしない幻想に自分を無理に押し込めようとする愚考です。結論からいえば、人はせいぜい「ましなほう」を選択しているにすぎない。不完全なものばかりの中から、まあ「まし」というほうをえらんでいればそれでいいんです。このことは、実は、古典の天才たちが言っていることだったんです。近頃は、諸子百家でもあるまいに、やたら吠える諸先生方の愚論が無節操なマスコミを通じて流される。いやいや古典の中を紐解くほうが実はよほど役に立つ。
犀角さんには、デカルトの方法序説をお読みになることを薦めます。きっとなにやらの答えがみつかるでしょう。デカルトはこう言っています。
『どんなに疑わしい意見でも一度決めた以上はきわめて確実な意見であるときに劣らず一貫して従うことである』と。これは「ましの理論」とでもいっておきましょう。『たいした理由もないのにその方向を変えてはならない。実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さない』からだ。『もっとも真なる意見か見分ける能力がわれわれにないとき、もっとも蓋然性の高い意見に従うべきだ』ということである。『われわれがどの意見にいっそう高い蓋然性を認めるべきかわからないときも、どれかに決め、一度決めた後はその意見をもはや疑わしいものとしてではなく、きわめて真実性の高い確かなものとみなさなければならない』
そしてデカルトはいう。『あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち良いと思って無定見にやってしまったことを、後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安』が、この「ましの考え方」でなくなくということを。
犀角さん、私は人生の達人でもなんでもありません。いつも悩み苦しんでいる凡人です。だから、この私が何か教訓めいた人生の答えを提示できるということはありえません。ただ、わたしが苦しむ先輩として出会った経験、つまり古典との出会い、私なりの思考の過程をお話ししますので、その中から何かヒントになるものがあれば後は自分で考えてほしいのです。」
そう言うと先生は、疲れたといいそのまま書斎のほうへ消えてしまいました。
私達は、それぞれに何かを悟らされた気分になり、来たときとは逆になにやら高揚した気分で納屋味邸を後にしました。ようやく先生が待ち望まれていた春から初夏の季節がたけなわとなってきました。先生には気分のいい季節です。先生の機嫌がいいとき、私はほっとしてしまうのです。
2005年04月07日
納屋味先生の独白(15)
空は青く澄み渡りどこまでも青い。冷たい空気が大地に流れ込む。太陽は遠く降り注ぎ、陽は頼りない。しかし、植物たちはほんの一瞬の天の恵みも見逃さない。納屋味邸の植物たちも冷たい冬をじっと耐える。地球は秒速30kmの速さで公転軌道を進むという。春という駅に着くのはもう1月の辛抱であろうか。地球はただ公転しているだけなのに、確実に時間は経過している。考えてみれば、時間とは不思議なものだ。
我らが愛すべき納屋味先生は、相変わらずごろ寝が好きである。先生が居間でグーグーといびきをかいている間に、迷羊君は書斎に所狭しと散乱する本を片付ける。迷羊君は、先生の書斎を片付けるのが好きだ。先生はすごい量の本を読む。その本のひとつひとつを手にとりながら、書名を読んではふむふむと感心する。
ふと気がつくと先生の声がする。あわてて居間を覗くと、居間では、げんさんと先生がなにやら話しこむ。先生は熱いほうじ茶を美味そうにすすっている。
げんさんは難しい顔をして話しを続ける。
「それがですね、先生。知り合いの銀行員なんですが、突然、肺がんと言われちまいましてね、奥さんが可哀想に相当落ち込んでいましたんで。へい。」
「お歳は何歳なんですか。」と迷羊君が入り込む。
「五十五、六というところですかね。たばこは吸わねんで、原因ってのがわかりやせん。」とげんさん。
先生は気の毒そうな顔をされてポツリポツリと話し始めました。
「原因ですか。ふん、ストレスですかね。たばこを吸うと肺がんになるなんていいますけど、たばこはストレスを解消するために吸うということもある。いくら吸ったって病気にならないという人もいますしね。だから一概にだめだというのも勇気がいる。まあ、たばこの話しはそれくらいにして、最近は、ストレス性のガンというのが多いいらしいですね。こういうのには、クスリなんか使うよりも、ストレスをなくしてやればいいといいます。これですっかりガンがなくなったという報告もあるようです。
翻って考えてみれば、現代ほどいろいろなストレスが人間を苦しめる時代はないといえるかもしれません。というか現代だからこそストレスが身体に変調きたすともいえます。人口はもはや限界を超えて増え続けています。社会には人が蔓延し、好むと好まざると人との接触が様々な摩擦を生みます。人が生きていくということは、このような社会の中に身を置いて葛藤するということなのです。
つまり、人はこのような社会の中で、常に心的なバランスを維持しつつ自己を保持し続けなければなりません。心が平安でストレスのない状態こそが理想なのですが、現実は多かれ少なかれ日々ストレスが人間を襲います。しかし、よくしたもので人間は自らの心的バランスを保つために様々な心的特性を駆使します。ものごとを正確に記憶しないということ、言い換えればいつも「曖昧」にしておくということも、人間にとっては自己を保護するためといえます。さらには、「忘れる」という能力がすぐれてストレスから自分を護る有力な武器です。都合の悪い事は忘れてしまう。これで心は平和です。人は様々な方法で自己の心的バランスを保とうとします。「思考しない」というのもそのひとつの方法です。「見ざる、聞かざる、言わざる」といいますが、人間が自分を護る方法ではないでしょうか。人間の心的バランスを維持しようという本能は自己保存本能だと思うのですが、人により様々なバランスのとり方があると思うのです。何かを買うときに予備を買っておくという人がいますが、これなんかは、「まだ一つある」という心的余裕がバランスを保持している例だと思います。保身という言葉がありますが、医師、弁護士、役人、会社員といった人たちが保身を図るために筋を曲げるというのは世の常です。こういう場合、保身はその人たちの心的バランスを維持するはたらきをしているのです。欺瞞という言葉があります。他人を欺瞞するというのが普通なんですが、自己欺瞞という言葉は、やはり心的バランスを維持するための方法なんじゃないですかね。あるいは、宗教なんかも、心的な平安を求める人間の行動の一つのような気がします。
世の中には、権威主義がはびこっていますが、権威というものが人を動かすのに絶対だとわかれば、権威を利用する人が増えて蔓延していくわけです。権威主義というのは、権威もないのに権威をあたかもあるが如くに利用するやからのことです。この場合の権威とは、実体のない信仰みたいなものです。中身は何もないのに、とにかく人を黙らせてしまうのです。権威主義の跋扈はストレスの元凶かもしれません。権威主義に対して心的バランスを維持するのは至難です。
話しは少し変わりますが、完全主義というのも権威主義なんですよね。それに網羅主義もね。オタクと言われる人たちが陥る心的緊張状態というのも実は権威主義に根ざしていると思いますしね。昨今のブランド志向もやはり権威主義的な心的傾向が露わだと思います。
「自分さえよければいい」という本性も権威主義だと思います。弱肉強食、強者の論理、支配者の論理といったものが見え隠れしています。医師や弁護士、官僚といった人たちが自分を高みにおいて、ものを言うのはまさに権威主義の最たるものです。医は算術ですからね。医者も職人と同じで、技術の良し悪しで、「いったい、いくらで治してくれるんだい」といったほうが、わかりやすい。治せないなら、金なんかとるな、ということになる。力量もないのに手術やって、平気で人を殺す医者がごろごろいるからね。
人はそれぞれに自らの心的バランスを保持するために何かにすがろうとする。容赦なく襲いかかるストレスに耐えられなくなる人がでてもおかしくはない。精神の苦しみがやがて身体を蝕む。自分の心の持ち方の問題なんですけどね。会社なんかだと人間関係のしがらみがドロドロになってもう限界をはるかに超しているということもあると思います。難しい問題ですよね。」
そう言われると先生は、「ふぅー」とため息のような一息をされて、ほうじ茶を手に取りました。
黙って聞いていたげんさんが、「いや、先生の言われるとおりです。」とぽつり。
先生は、庭に出て植物のひとつひとつをいとおしむように眺めていました。
納屋味先生の独白(14)
ゴホン、ゴホンとげんさんの咳がひどい。
「先生、今度のかぜは長いですね。いやなにね、どうも咳だけが止まらねんで」とげんさんがぼやく。
横で聞いていた迷羊君が心配そうに、「げんさん、無理をなさらないでください。」と気を遣う。
先生は、困った顔をしながら、「屋根の修理はいつでもいいんですよ。げんさんの元気なときでいいんですから。」とめずらしく優しいことばをかける。
「いいんですよ。今日は久しぶりのお天道様で、なにやらむずむずしましてね。それに先生の家にお邪魔して皆さんのお話しを聞くのが楽しみでね。」とげんさん、先生の優しいことばになにやら感動した面持ちだ。
久しぶりに青空が広がる。待ち望んだお天道様が地上の生きとし生けるすべての生物にこよなく慈愛の光を差し注ぐ。納屋味邸の木々も万遍に差し注ぐ陽光に一斉に葉という葉を向けるのだ。葉は揺らぎその喜びを一心に表現する。
ぼんやり庭を見ていた迷羊君が所在なげに口を開く。
「先生、植物の葉というのは不思議ですよね。自分の今いる位置は絶対に自らは変えられない。そんな運命的な場所にいて、一心に葉という葉を太陽の光に向けようとする。太陽の光を直角に受けようとしている。そのために枝を伸ばす方向を変え、長さも変える。みんな生き延びたいというDNAのなす業なのでしょうか。」
先生は、おもむろにほうじ茶を飲み干すと、話し始めた。
「げんさんは知っていられるかもしれませんが、かつて宮大工として薬師寺の再建にあたられた西岡棟梁という方がいましてね。この方の口述筆記の本は感動的でした。」
横からげんさんが眼を輝かせて「西岡棟梁なら、あっしの師匠がよく口に出していやしたから、知っています。最後の名人だったかもしれやせん人です。伝説の人ですよ。」と興奮気味だ。
先生は頷きながら話しを続ける。
「西岡棟梁はこのようなことを言っています。
『木だって考えている。自然の中で動けないのですから、生き延びていくためにはそれなりに土地や風向き、日当たり、まわりの状況に合わせていかなければなりません。いつもこっちから風が吹いている所でしたら、枝が曲がります。そうすると木もひねられます。木はそれに対してねじられないようにしようという気になります。これが木のくせです。自然の木と人間に植えられてだいじに育てられた木では当然ですが違う。自然に育った木は強い。なぜ。木から実が落ちてもすぐに芽を出さない。いや、出せない。ヒノキ林には地面までほとんど日が届かん。種は何百年もがまんする。すき間ができるといっせいに芽を出す。何百もの種が競争する。それを勝ち抜く。だから、生き残った奴は強い木です。それから大きくなると、となりの木、そして風、雪、雨などなど。木はじっとがまんして、我慢強い奴が勝ち残る。千年経った木は千年以上を勝ち抜いた木です。』
私はこの西岡棟梁のことばをそれは何度も反芻しています。
『生きる』という営みに、植物たちはなんの迷いもなく全力を傾ける。生存する、種を残すということに、何の疑問も投げかけることなく一日一日にもてるすべての知恵を捧げていく。
人間はどうか。人間には『心』がある。意志がある。意識がある。何の迷いもなくというわけにはいかなかった。散々悩んで考えた結果が何も考えない植物たちのする結論と変わらないということであってもだ。
強い木が勝ち残るという。自然は冷酷、残酷に強いものだけを生きながらえさせる。これが自然の結論だ。人間はそのことを認めたくない。人間には知恵がある。だから、全体が生きながらえることができるという理想を思い描いた。人はいずれ死ぬ。人間はそのことを知っている。人間は死を意識界で認識することができる。意識のない動物が生存に向けて必死に行動するのは本能的に無意識的に死を意識しているのではないか。人の世の中は、人間の描いた理想のようにはいかない。それには食料が無限にあること、そして富が万人にいきわたる必要がある。しかし、未開発国の餓死は今では常態化しつつあるし、文明人が作った社会のしくみは様々な富の偏在、差別、優劣を生んでいる。
人は『心』があるから悩む。植物と違って、自らの境遇を受け入れてなんとか生き抜こうということにはならない。『心』は境遇をうらみ、容貌に悩む。確率的に見ても、様々な人がこの世に生を受ける。恵まれた人もいれば、様々な運命を背負って生まれる人もいる。神の目からすればみんな当たり前のことであり、神は、強いものが生き残るという種の原理を冷酷に適用するだけだ。それが自然の摂理だとも言わんばかりに。人には『心』がある。この心はそうした原理をにわかには受け入れない。だから、『心』は苦しみ、悩み続ける。『勝ち残る』ということ、そうこの一点で人は様々に苦しむ。生まれたばかりの赤ちゃんの心、まわるい、まわるいふくよかな心。その心に母親のいっぱいの愛情が注がれ、心は愛情という必須栄養をたっぷりと吸収して育つ。これが理想です。子は成長する。しかし、それに見合って、『心』が成長していくとは限らない。大人になって、心はゆがみ、形がくずれ、アメーバのようにずたずたの姿の心だってある。心は顔に表われる。悪い顔というのがある。悪い心がそのまま顔に出てしまって表情を固定してしまっているんです。悩み苦しんだ人の顔には年輪を刻んだ皺がある。世の中の厳しさを生き抜いた年輪は厳しい表情ではあるが決して悪い顔ではない。植物と違って、人は共存するという宿命がある。勝ち残るのは、人類でなければならないという暗黙の命題がある。ある民族だけが、ある宗教民族だけが、勝ち残るということは、少なくとも、キリスト教世界では表面的には認めない。
結局、勝ち残る、という宿命を暗黙のうちに認めた社会が人間の社会なのかもしれません。弱者を切り捨てる社会、見捨てる社会、それが人間の社会なのかもしれません。政治が強いものにいいように操られるというのも当然のながれかもしれません。」
そこまで一気呵成にお話しされると、先生は急に寡黙になりました。
黙って、熱く注がれたほうじ茶をすすり始めました。
迷羊君がふと先生の顔をのぞきました。先生の表情は意外とさっぱりとしたものでした。しかし、悲しげな目はいつものようでした。
先生の言われるように、強いものが勝ち残るということが、自然の法則なのかもしれない。しかし、その現実に先生は長く苦しみ悩んでこられたんだ。恵まれた境遇にある人が自分には関係ないこととして自分のことばかりを考えているのが今の社会なんだということを、先生は言われてるのだと思う。他人のことなど一切考えない、自分さえよければそれでいいという人間が世の中に蔓延している。そういう社会なら弱者に限らず世の中は秩序のない犯罪の氾濫した社会となるのであろうか。
先生の悩みは尽きない。私は最近になってようやく先生の悲しそうな目の意味するものがわかりかけてきたような気がします。
先生が愛する庭の木々をじっと眺めているだけで、何か自然の啓示を受けているような気さえしてくるのです。先生がいつも植物をそれも一心に陽光を浴びている植物の姿をじっと見入っているのには深い理由があるのだとということがわかってきました。
納屋味先生の独白(13)
げんさんが熱いほうじ茶をズズーとすする。外は寒気がひどく熱いほうじ茶が妙にうまい。冷たくなった体に心地よくしみわたる。先生は天気の悪い日は無口だ。その分、迷羊君が饒舌になる。
げんさんが眉間に皺をよせて口を開く。「先生、実はあっしの仕事仲間の野郎なんですけどね、そいつには25、6になるせがれがいやしてね、そのせがれってぇーのが悩みの種なんでさぁ。高校は途中で止めちまったんですが、それは板前になりてぇーということだったんですよ。それで親が出入りの料亭の女将さんに頼み込んで板場に入れてもらったのはいいんですが、3ヶ月もしねぇーうちにプイといなくなった。それで今度は背広を着たサラリーマンになりてぇーといって、自分でどこやらの不動産会社を見つけてきて働き始めた。が、ここも長くは続かねぇーで、すぐ止めてしまい、それからは運送屋の助手やらパチンコ屋の店員やら仕事を替えては止めるということを繰り返して、なかなかな自分にあった仕事がねえーといって家にぶらぶらしている始末なんでさぁー。井上の野郎、あっ、そいつは井上って野郎なんですが、困り果てて最近はその息子のことばかり愚痴るんで、周りの者もまいってるんでさぁ」とここまで話すと、げんさんすっきりした顔になって卓台の大福を一つとりうまそうに頬張る。
隅でいつものようにかしこまっていた犀角君が口を挿む。「その方は、ひきこもりじゃーないんですよね。全然仕事をしないで部屋から出てこないというのが最近は多いらしいですよ。たしかニートとか呼ぶんですよね。その方は長続きしないということですよね。こういう人も昔からいますよね。自分に合った仕事がないのは困りましたね。話しは少し違うかもしれませんが、司法試験の受験勉強にも似たようなところがあるんですよ。なにしろ難しい試験ですから、と勝手に思い込んでいるだけかもしれませんけどね、とにかく合格するためには何をどのように勉強すればいいのかということがいつも問題になる。刑法ではだれそれの本がいいとか、いや学者の本より予備校ものがいいとか、問題集中心でやったほうがいいとか、ノートは作らないほうがいいとか、いや作って受かった奴も多いとか、とにかくこれほど方法論の喧しい世界はないと思うんですけど。1年に1回の試験ですから、方法論で迷っているとあっという間に本番がきてしまう。いったん方法を決めてやり始めても、その後いろいろなるほどと思わせる情報が入ってきて自分の方法に自信がなくなり、別のに飛びつく、次から次に出てくる新しい情報に振り回されて気がついたら本番1ヶ月前なんてことになるんですよね。いや司法試験に限らず、どんな試験でも事情は同じで、次から次に出てくるもっといい方法に振り回され続けることになる。これって結局失敗なんですよね。」
黙って聞いていた先生が静かに口を開く。
「司法試験の受験生の心理的重圧は相当に強い。自由な意識を放逐し何かにとりつかれた状態にある。犀角君のいうように方法論で自分を見失う人も多いでしょう。しかし、それにもましてその重圧に耐えられず現実逃避をする受験生が多い。当面の勉強を回避する、気をそらすという人が実は圧倒的に多いと思います。集中力をひとつのことに持続することは大変なエネルギーを要します。これに耐えられる者のみが勝ち残るということなのでしょうか。
先ほどげんさんが言われてました息子さんについては、また別の問題もありそうですが、
人間のとる行動は司法試験の受験生も先ほどの息子さんのような方も共通したものがあるようにも思われます。本人たちはきっとその時は『よかれ』と思って行動したと思うんですよ。その時はそれが一番いい方法だと判断したはずです。しかし、実際やってみて『やはりこれはだめだ』という判断をするというのもわかる気がします。やってみなければわからないということもある。ただ、司法試験だとやり直しは致命的なことになる。期限が1年しかないからね。仕事だってやり直しはそう何回もできるわけではない。人生は短いからね。それにどんな仕事でも中途半端にやってものになるものはない。
はっきりとした記憶ではないけれど、かつてヘレン・ケラーは『もっとも安全だと思われる危険回避の方法がもっとも危険である』というような趣旨のことを言ったと思う。人間の判断なんてその程度のものなんですよね。私の経験でも、最もよかれと思った危険回避の方法が危険回避をとらなかった場合よりずっと危険であったということは多々ありました。
実は『なにがよかった』なんていえない。『金やダイヤモンドだと思っているものもただの銅やガラスにすぎないかもしれない』と言ったのは17世紀のフランスの思想家デカルトですが、デカルトの言うように、自分に関することでは確かにどれほど考え違いをしやすいか、自分に好意的な判断のみを喜んで受け入れることのどれほどに危険なことか。得てして友人の好意的判断が実はもっとも疑わしいものだということをデカルトは指摘する。
ただここでデカルトが「方法序説」で述べていることは真理だと思いますので、この際、お話しておきたいと思います。
彼は、『どんなに疑わしい意見でも一度それに決めた以上は、きわめて確実な意見であるときに劣らず、一貫して従うこと』である、と言っています。たいした理由もないのにその方向を変えてはならないというわけです。『実生活の行動はしばしば一刻の猶予も許さない』ほどに日々判断を迫ってきます。デカルトの主張の根底にあるのは、『もっとも真なる意見かを見分ける能力がわれわれにはない』という前提であり、それならば、『どれかに決め一度決めたらあとはその意見を疑わしいものとしてでなく、きわめて真実度の高い確かなものとみなさなければならない』という決意である。それは、『〜よりはまし』ということか。人間の判断なんて、結局は「それよりはましだから」程度のものでしかない。巷の本屋を賑わす諸子評論家のセンセー方の著書も内容はその程度でしかないのです。
デカルトに学ぶべきは、『一端決めたなら、たいした理由もなくその方向を変えてはならない』ということです。
こうして、『あの弱く動かされやすい精神の持ち主、すなわち良いと思って無定見にやってしまったことを後になって悪かったとする人たちの、良心をいつもかき乱す後悔と良心の不安』から解放されることができるのです。」
そこまで話されると先生はいつものように熱いほうじ茶をいつものように旨そうに飲み干されました。
そういえば最近先生はよく「現代の本に学ぶことがあるのだろうか。確かにいい本はある。しかし、結局古典の名著の焼き直し、模倣に過ぎないことのほうが多い。だれもかれも結局は古典に学んでいるだけで、古典の範囲内をウロウロしているだけではないか。」と言っていました。
先生は学生の頃、岩波文庫が好きでそれは何冊も読んでは書架に並べて、それが喜びだったと言っておられました。その先生が最近またあの愛すべき「岩波文庫」を集め始めたと聞きました。次から次へと出版される本、ゴミのような本にもう飽き飽きしたのでしょう。岩波文庫を、古典をうれしそうに読まれている先生は傍から見ていてかわいらしい少年のようでした。
先生のお話はいつも私たちに何かヒントを投げかけているようでした。あのげんさんが、「先生のお話はいつもためになりやす。」と言っていたのはただのお世辞にはとれませんでした。
お天道様が納屋味邸に再び顔を出すことを願って、私は寒風に身を任せ、家路を急ぎました。
納屋味先生の独白(12)
「わっ」と笑い声が響く。空気は澄み渡り、青天は無限のかなたに広がる。降り注ぐ陽光はこぼれるばかりに地上を照らす。生きとし生けるものへの天の恵みを納屋味邸の住人も嬉々として享受する。
納屋味邸の縁側ではげんさんが機嫌よさそうに日差しを浴びている。縁側に続く座敷では、床の間を背に納屋味先生が珍しく正座している。今日は才媛森田女史が来訪、それを知ってかどうかは知らないが、やってきた角野君、座敷の隅に陣取り、例によって大声で下手な冗談をいっている。私は朝早くから犀角君と納屋味邸の庭の草むしりに精を出す。途中からげんさんが加わりどうやら一段落ついたのが昼前。おにぎりと沢あんが並べられた縁側で話が弾む。
縁側に腰かけたげんさんがいう。
「先生、おかげさんで例の一件はとんとん拍子に片付きまして、ありがとうごぜえーやした。いやなにね、先生の言われた少額訴訟てえのをやろうと裁判所に行きやしてね、書記官さんてぇのに手取り足取りで書類を書きやしてとにかく手続きをやりやした。そしたら裁判所から呼び出しがいったらしく、先方の社長が顔色変えて、金と菓子箱もって飛んできたんでさぁー」
げんさんは深々と頭を下げて礼いう。
黙ってうなずく先生、にこにこと微笑む森田女史。
突然、角野君、「先生、下世話なお話で申し訳ないんですが、サスケという番組を知っていますか。ありゃー、なかなか面白いですよ。いやなに体力に相当自信のある奴らが挑むんですが、ことごとく粉砕されてしまうのが痛快なんですよ。常連の出場者はもはや有名アスリート扱いですから。それぞれに職業はもっているんですけどね。なかにはサスケのためにアルバイトをしながら体力訓練をやっているなんてのもいる。サスケで使われる難関施設の擬似バージョンなんかを自宅の庭に作って練習している奴もいる。とにかくサスケの施設を想定して練習する。本番のサスケは一発勝負ですから、何が起こるかわからない。何度も出場した体力自慢がどんどんと消えていく。なにやら人生の縮図の一端を見ているようで、終わった後も複雑な気持ちにさせられるんですよ。」と珍しくしんみりと語る。
「先生、あの中に出てくる山田とかいうのが、悲惨なんですよ。実力はあると自他ともに認めている。そんな存在なんですがね。しかも、サスケのために定職にも就かず、奥さんの実家の鉄工所でアルバイトをしながら、訓練を続けているという紹介なんですよ。この山田というのが見るからに真面目そうな人で本当にサスケ一筋という感じなんですよね。それがいちおうベテランなら簡単にクリアするところを「えっ」という感じで失敗してしまう。最近はもう出る前から失敗しそうな表情なんですよね。」と犀角君が話しを拾う。
私は、あきれた顔で、犀角君を見る。お構いなしに犀角君が続ける。「いやなに、私はあの番組を見ていると、何回も落ち続けている司法試験受験生の姿に重なるんですよ。そりゃーもう、受かるためにいろいろと対策をとるんですよ。択一試験が苦手なときは、択一問題集を何冊も買い込んできて解いていく。カードをつくる。それから模擬試験やら答案練習会で練習する。論文試験のために予備校の様々講座を受ける。いいといわれる本はすべて買い集める。そんなこんなで1年が経つと試験本番の日がやってくる。1年に1度の試験ですから。確かサスケと同じでだと思うんですけど。本番の試験では択一で何回も失敗する者、うまく択一はクリアしたのに論文が思うように書けなくて失敗する者とさながらサスケ状態ですよ。」
先生が口を開く。
「確か山田さんとかいいましたね。あの方は。おそらく家での練習では何度も成功しているのでしょう。しかし、本番の1回が彼にとってはなかなかうまくいかないということですよね。これは普通の人間にはまたごく普通の現象ですね。なんどやってもいいというのであれば、簡単に成功する。つまり練習ならいくらでもうまくいく。しかし、いざ本番となると、これまた必ず失敗する。ゴルフのトーナメントなんか見ているとプロでもやはり変わらない。最後の1打で優勝が決まるとか、優勝のかかったラウンドとかなると、練習のときのように気楽に打てない。気楽に打てないから失敗する。犀角君がいう司法試験の受験の例はややおおざっぱだ。一応受験レベルが合格レベルにあるという人が心理的なプレッシャーで失敗するというのは似たパターンかな。発展途上の受験生は問題外かな。」
「先生、イチローはすごかったですよね。あの場面でヒットが打てる、しかも立て続けに。」と角野君。
先生は、ほうじ茶をすする手を置くと、また話し出す。
「気楽にうてるからうまくいく。本番は1回だけ。気楽にうてるわけがない。失敗すればゼロ、このしがらみが人間の行動をガチガチに縛りつける。実はこれこそが凡人もプロも変わらない人間一般の心のありようというものではないでしょうか。超一流のプロといわれる人たちがこの心のありようとどのように対してきたのか、いつもいつも成功していたわけではない。あるときある一瞬にこの心が自由になった、そのときにうまくいったということなのではないか。本番1回だけというとき、心は様々な思いにロックされる。問題はこのロックされた自由に動けない心をいかに解放するのか、ロックをはずすことができるのかにある。私の拙い経験がひとつある。実は私も若いころにに司法試験を受けたことがある。択一試験の2月前に風邪をひき、それをこじらせて肺炎で高熱が続いた。そのために1ヶ月以上も寝たきりで、奇跡的に熱がひいたのが試験本番当日だった。それでも咳がとまらず苦しかったが、とにかく試験会場にいった。食べ物は喉を通らず胃はむかむかしているという最悪のコンデションだった。このとき私は思った。自分は2ヶ月以上も本を読んでいない。寝たきりだった。これじゃー試験にはならない。だったら自分にやれることだけをしてこよう。ゆっくりと考えゆっくりと解き進めるしかない。わからないものはその場の判断で冷静に考えて判断するしかない。なにしろ自分には今、頼るべき記憶はほとんどない。そういう気持ちでした。本番ではあせることもなく普段のままに問題を解き進めることができました。しかし、ゆっくりしすぎて何題かは解かないままに時間がきてしまいました。私は不合格を確信しました。それから1月後、思いもかけぬことが起きたのです。階下で母の声がしました。法務省からの合格通知でした。このときの私の経験が教えてくれました。しがらみのない状態で本番に臨むとき人間は真価発揮するのだということを。
あのときの私の心は、『できるはずがない。それなら自分にできることを1つ1つ確実にやろう』でした。これで心が支配から解放されたのです。人間の心にかけられたロックをいかにして外すかなんです。しがらみを「忘れる」、「捨てる」ことが至難なんです。いたるところでいたるときに意識をジャックするしがらみに人の心は支配されてしまうのです。イチローがただ打つことに集中して、心の中はもはや球を打とうとする自分しかいない、打ったときの栄光、拍手喝采、マスコミ、テレビに映る自分、様々な雑念がいつしか消え去り、静寂の中に1つのことしか考えていない自分しかいない、そういう状態を集中というんでしょうね。そういうときに心は放たれ、自由にかけめぐるのだということですね。この場合の心のロックを解き放つのは「ただひたすらに1つのことを思うこと」ですかね。集中力といいますが、これは心の中に湧き起こる雑念を払拭することだということです。ガリレオが教会の時計の振り子を見て、その周期が一定であることに感動し、思考に没頭したとき、もはや両親の強い願いである医者になることや教会のゴシック建築のすばらしさということなどもろもろの思いがすっかり頭の中から消え去り、物理現象の妙味に心を奪われたとき、心は解放されたのです。人はこれを集中といいますね。違うのは、ガリレオの場合は、自ら意志することなく心を1つのことに奪われた結果、解放されたのですが、イチローの場合は、打つということに全精神を意図的に集中させた結果、1つのことを思うことに成功したということですね。好きこそもののじょうずなれ、といいますが、好きなことには苦労しなくても集中できるということですね。
山田さんの場合、彼の心の中は、『できるはず』という錯覚が支配してるのではないか。一度ならず二度も三度もできたという思いと、いつか失敗するのではないかというもはや常駐する不安、この不安が無意識裡に増幅し思いもかけない失敗へと結びつく。絶対成功しなければならないというカルマ、自分は最高の実力者なんだという思い、様々な想いが雑念となり心を支配する。心は雑念に占拠される。心と体がちぐはぐになる。彼の場合はもはや絶対に断ち切れないほどにロックされてしまっている。実はこれこそが彼がごく平凡な愛すべき人間であることの証明でもあるのだが。ここまでロックが硬いと遺伝子に組み込まれたDNA的プログラムではないのかと疑いたくもなる。人間の心は、意識は、様々な雑念にいとも簡単にジャックされてしまうようにプログラムされているのではないか。本番1回だけという段になると雑念が意識界に流される。それはその人間の行動を結局は邪魔する形で終了する。これはDNA的にみて何か意味のあることなのか。以前、私はDNAの確率仮説につい話したことがありました。つまりDNAは生存率の高い方=確率の高い方、と考えるのではないか、そして成功するのと失敗するのとでは、成功率が絶対低い状況下では失敗する方が選ばれるのではないか、DNAレベルでは成功すれば優勝という意識は関係ない、もっと低い、何の価値とも結び付けられていない原始的なレベルでの確率で動いているのではないか、そんな気がするというような趣旨のことを述べたことがあると思います。人の心が原始的な生存確率で自然に流動しているのだとしたら、雑念という後から人間が勝手に作り上げた文明的価値はDNAの関知しないものであるはずです。そこで私たちは、そういう意識の世界で様々な文明的な欲望という雑念を払拭しなければならないことになる。科学者が思索に没頭するというのとは違う局面での支配された意識からの解放が課題になる。次から次へと意識界に送り込まれる刺客、中には、恐怖というDNA的なものも入り乱れる。恐怖という感情は人間が最初に獲得した感情といわれている。これは生存という宿命から説明できる。様々な雑念は感情という彩りを纏い、さらに強力となる。
地震、津波などの災害のときに経験する恐怖は人間の生存に対する黄色信号だ。人間は恐怖により無意識に動き回る。もはや冷静な意識は存在しない。子ども助ける、愛する人を助けるという意識は、自己を客観視させる。その意味で支配から脱する契機となる。他者的な意識が自己を冷静に抑制することができるということだ。
囚われた心、支配された心、私は何かに囚われた、支配された心に、冷静に他者的目で見据えていきたいと思っています。ひとりでじっと考えるひと時を大切にしたいと思っています。自分を支配する心の支配の根拠をひとつひとつ確かめていきたいと思ってます。
テレビに出てくる評論家のように簡単にああだからこうだなどと結論を出して終わりというバカにはなりたくない。人間には完結する遺伝子というのがあるとききましたが、とにかく完結させて、無責任に言いたいことを言って終わりということだけはしたくありません。結論がでないことのほうがずっと多いと思うのです。評論家の意見などは既に大衆にとっては消費の対象でしかないないのです。ミーハーを含めた大衆は使い捨てという現代を蝕む意識に完全支配され、刹那的な時の流れに身を任せるのです。なにやらわけのわからないものに支配された自分にいつ気がつくのか、気がつかないままに一生を終えるのか、むしろそれが普通なのかも。」
そこまで話されると先生は、冷めたほうじ茶に手を伸ばした。森田女史がすばやく熱いほうじ茶に差し替えると、先生はうれしそうに森田女史の白いを手を眺めていました。
今日は、先生は機嫌がいいようだ。これは森田女史のせいかなと私は私なりに安堵しました。先生は落ち着いた表情で、げんさんにねぎらいの言葉をいうと、書斎に入られました。
先生の家を出た私たちは駅までいっしょでした。困ったのは方向違いの角野君が森田女史についてきたことくらいです。結局、男たちみんなで森田女史を駅まで送り、そこで男たちはそれぞれにばらばらになりました。
帰り道、ひとり歩きながら、私は、先生のことを考えていました。先生は毎日読書は欠かしません。それからひとりぽつんと思索にふけるのも日課です。私たちが先生に引かれるのは先生のそんな姿に何か共感するものがあるからに違いありません。
帰り道、太陽がまだ輝きを見せていました。きっと先生は、今頃、お天道様に感謝の気持ちを捧げていることでしょう。

