この補足考察記事では、考察記事本編では構成の都合上書けなかった考察、文章量制限にひっかかり追加できなかった考察、推論の度合いが強くて書くのに躊躇してた考察を書こうと思う。

 ・嘉音と朱志香の恋愛
嘉音と朱志香の恋愛については本編中の情報から明確に確定が不可能な部分なので、現実世界で嘉音がいたのか、そして朱志香と恋愛をしていたのか、という部分は考察不能だ。ただ考察不能とバッサリ切り捨てるのも良くないので、ここでは「推測」をしたい。嘉音と朱志香の恋愛で個人的に重要だと思うのは「86年のルーレットの目」だ。作中で86年にヤスが起こす事件のルーレットの目は、明確に説明されており、「碑文と碑文殺人」がヤスが設定してる奇跡のルーレットであり、これはEP5で明確に提示されている。そして事件中その奇跡が達成されなかった場合、爆弾による心中が発生し、この場合嘉音は黄金郷で朱志香と幸せになるとも言える。

しかし、「現実世界で嘉音が幸せになるルーレットの目」というのが作中で提示されていないのだ。碑文殺人は戦人に約束を思い出してもらうためのものであり、碑文の謎は、碑文殺人部分を中断するための設定なので、EP7お茶会のように事件前日に碑文が解かれ、事件そのものが中断されるようなケースでは、本来最初から恋が成立してる紗音が勝利をする。

事件構成を見ると、嘉音の恋愛が組み込まれる隙が全く存在しないのだ。つまり、最初から嘉音を除外した事件構成であり、嘉音と朱志香の恋愛は86年のルーレットには関係が無いように見える。では嘉音とは一体何なのか。

本編中いくつか嘉音に関する恋の説明がある。EP6のゲーム盤冒頭で紗音と嘉音が恋愛の話をしているが、嘉音は元々ベアトのゲーム盤では朱志香との恋について消極的だった。EP1のボイラー室で死亡する際にも嘉音は「僕は事件中紗音が死亡し、自分だけが生き残るような場合では、自分の身を投げ出し、ベアトのルーレットを台無しにしようと思ってた」と発言してる。つまり、嘉音はあのボイラー室の場面で肉体ごと自殺する事で、ベアトが現実で幸せになれる可能性を潰そうとしていたのだと分かる。EP6のゲーム盤冒頭で、嘉音はまだ恋愛に対して消極的だった。しかし、紗音に「嘉音君が恋愛をする資格を自分で与えられないのなら、私がその資格をあげる」と、言わば紗音に許可されると嘉音は急に恋愛をする事を決意する。

この嘉音の恋愛に対する消極性は、EP7で「紗音を支えるための人格として生み出された」という部分を考えると、嘉音というのは、人格的に「紗音を支えなければいけない」という制限がつけられた存在なのだと思われる。偽書世界の描写を見る限りでは、このように嘉音は恋愛に対して消極的であり、紗音を支える立場という部分から、86年の段階では恋がスタートすらしてなかったのだと思われる。だから嘉音は86年のルーレットには参加できなかったし、ルーレットの目も存在してないのだろう。

この偽書世界で描かれる嘉音の設定を現実世界にあてはめるとどうなるのか。

まずそもそもヤスは現実世界では複数人格者なのか?という問題がある。クレルのハラワタで挿入されるヤスという人物を見ると、明らかに紗音でも嘉音でもベアトでもない人物が描写されている。一つの考え方として、現実世界のヤスというのは普通の女の子であり、複数人格者ではなく、事故の後遺症によって恋愛に絶望してる女の子だという考え方もできる。つまり、現実世界のヤスの「戦人への気持ちがベアト人格」「譲治への気持ちが紗音人格」として、偽書世界ではこの「心の表現」が人格描写へ脚色されてると考えるのが自然なのではないかと思う。つまり、偽書のベアトVS紗音という構図は、現実世界のヤスの「戦人への恋心VS譲治への恋心」という構図になる訳だ。これはヤスの性別を普通に女の子と考える際に自然に成立する構図だと思う。嘉音とは子供を産めない体になってしまったヤスの「性に対する複雑な心理状態」が表現されている人格なのではないだろうか。現実世界でヤスが女なのか男なのかというのは非常に重要で、物語のテーマ性を考える際、ベアトと戦人の恋愛を男同士のホモカップルと考えるのはあまりにも突飛なので、普通に女の子と考えるのが自然だろう。

とするならば、やはり嘉音と朱志香は肉体的には女同士であるのだろう。そもそも朱志香は作中で女の子同士の恋愛を肯定してる場面なんかなく、あくまでも嘉音を男として見ている。こういった部分を考えると嘉音とは作品のテーマ性を伝えるために偽書に登場した存在であり、偽書世界では「現実世界のヤスの性に対する複雑な心理状態」を反映した「86年の恋のルーレットには関係がない存在」なのではないかと思われる。

・推理作家としての八城幾子の思想とEP7の公開の真意
幾子は十八の記憶を元にして六軒島の真相を知ってしまった訳だが、彼女は本来どういう思想の持ち主なのか。十八が戦人の記憶と葛藤してる時に、幾子は「戦人の記憶の整理としての偽書作成」という意味合いで十八を支えてはいたのだろうが、そういった部分とは別に、推理作家としての思想も、幾子は偽書の中に組み込んでるのではないかと思う。

幾子は偽書の中に「愛が無ければ真実は視えない」というキーワードを組み込んでいる。これは愛ある解釈をしなさいという意味ではなく、異なる違う視点から見る事によって、物事を多角的に見なさいという事で、愛ある解釈が既にあるのならば、逆に愛の無い解釈をする、逆に愛の無い解釈が既にあるのならば、愛のある解釈をする。そういう視点で物事を見る事よって、一方だけの見方では見えなかったものを見えるようにするという思想なのだ。

この思想が極めて大事なのはとりわけ現実の縁寿にとってだ。六軒島の真相を知ってる幾子や十八にとって、現実の縁寿が六軒島の真実を知る事は害悪でしかない。彼らは縁寿が真実を知らずに幸せに生きる方法を伝えたかった。そのために、彼らはあえてEP7のような物語を公開したのだ。ポイントなのは、表向き八城十八というのは幾子の事であり、六軒島の事件とは何の関係もない人物が好き勝手に偽書を書いているという事になっている。当然縁寿にとっても偽書の作者は幾子の事であり、偽書を信用する根拠にはならない。これはうみねこの現実世界の人々にとっても同様だ。

ただ、縁寿にとって信用に値しない幾子の偽書は、右代宮家内部に関する事が細かく描写されてるため、信用するに値しないとバッサリ切り捨てる事もできないのだ。縁寿は、信用できない気持ちと「何故こんなに右代宮家の内部に詳しいのか」という疑問の間で揺れている心理状態だろう。EP7の内容を公開する事によって幾子は「愛の無い真相の解釈」を現実の縁寿につきつけたのだ。そしてEP8においては、「愛のある真相の解釈」をつきつけた。この2つの解釈がそろう事で、初めて現実の縁寿に葛藤が生まれるのだと思われる。本当に六軒島の事件の真相を追う事が縁寿のためになるのか、という根本的な部分の疑問が縁寿には生じるはずだ。都合のいい真実ならば信じる、都合の悪い真実ならば信じない、この「自分の都合に合わせた真実」を縁寿は求めているのだと縁寿が気付いた時、縁寿は六軒島の真実は自分にとって何の価値もないのだと気付くはずだ。

推理作家としての幾子の思想は一般の人々にも向けられる。幾子と十八が紡ぐ物語は根本に「信用する」「信用しない」という大きなテーマがある。物語中あらゆる場面で登場人物が嘘をつくが、一方でこの物語をミステリーとして解ける問題だと信じて謎に挑む場合には、ある程度描かれる描写を信じるという行為が必須になってくる。とりわけ赤字を真実だと信じなければいけないという部分は重要だろう。EP6の恋の試練の決闘の物語なんかも、あれを意味の無い描写とバッサリ切り捨てた場合、真相に到達する事はできなくなるだろう。うみねこを解こうとするのならば、描写を信じるという行為が必要になってくる。

嘘と虚実に満ちたこの物語を、それでも愛ある解釈で読むことができますか?というのが、幾子が偽書に組み込んだ推理作家としての譲れない重要な思想なのだろう。EP7お茶会の物語を読んだ時、ほとんどの人が最初あの六軒島の猫箱の中身を嘘だと思ったはずだ。今まで敵として出てきたベルンが、悪意を持って語った物語を素直に真相だと信じるのは難しいだろう。表向きこの偽書の作者は六軒島の事件とは何の関係もない幾子だと思われている。その幾子が描く六軒島の猫箱の中身を、一般の人々は信じることができるだろうか?それは無理だと思う。あれを信じることができるのは、物語を細部まで読み込み、作者の意図をキッチリと把握し、散りばめられた伏線を回収した一部の愛ある読者だけだろう。

しかもその愛ある読者にとって、その真実は「作者への信頼によって成立してる真実」であり、絶対的な真実として成立してるものではない。読者が幾子の偽書を細部まで読み込み、作者と読者の間に信頼関係が成立して初めて成立してる真実なのだ。ニンゲンの世界に赤き真実など存在しないと作中で言われたように、現実世界で絶対的な真実なんか存在しない。

「それでも作者を信じて、愛ある解釈で物語を読むことができますか?」

それが幾子が偽書に仕掛けた推理作家としての思想だったのだろう。作者と読者の間に信頼関係は構築可能なのか。ファンタジーなのかミステリーなのか、それさえ保証されない物語において、それでもミステリーだと信じてくれる読者がいるのかどうか。物語を愛ある解釈で読んだ人達は、六軒島の真相に至った事になる。それは何の根拠もない真実かもしれないが、幾子は自分の偽書を真剣に読んでくれた人にだけ、真相に至れる物語を書いたのだ。

なお、プレイヤーは最後に十八の情報を明かされたため、偽書が戦人の記憶に基づいてるという「反則的な情報」を得た。そのため、プレイヤーにとって幾子が読者に仕掛けた挑戦の難易度は大幅に下がっている。

・【EP2】そなたは無能だ
ベアトによって語られたこの赤字は一見深い意味がないようで、実はかなり深い意味が込められているのではないかと思う。EP2が十八による偽書なのだとすると、十八は何を思いながら偽書を作ったのだろうか。真相に至る事があまりに遅かった後悔。それが原動力になってるのは間違いないだろう。このベアトのセリフには、現実世界で完全に手遅れになって真相に気付いてしまった自分への戒めの意味合いが込められているのではないだろうか。

・【EP3】碑文が解かれる事と紗音が生き返る幻想描写の関係性
碑文が解かれると事件が終わるという作中の説明は確かに正しいと言えば正しいのだが、意図的に「中間プロセス」を排除した説明がされているため、色々と誤解が生まれてしまっている。碑文が解かれると、本来はヤスのルールの中では紗音の勝利条件が達成され、「紗音は譲治と幸せになる権利を勝ち取った」という意味合いになる。その後、人格統一がなされ、紗音以外の人格は全部抹消される。ベアトがこうして殺されるため、結果として事件が終わるのだ。EP3ではこの中間プロセスにおける、「紗音と譲治の恋の成立」が達成されていない。第一の晩で紗音が殺されてしまっているためだ。元々ゲーム盤の世界は、ベアトが戦人に向けて約束を思い出してもらうために開催しているものであり、ゲーム盤上で紗音の勝利条件を達成する事の意味は無い。このためEP3では碑文が解かれても紗音が死んでるという状況によって、ヤスの本来の目的が達成されてない状況に陥っている。碑文を解いた絵羽が殺人を続行するため、結果として第九の晩に到達してしまい、最終的に皆殺しの段階に突入して行く訳だが、ヤスのルールとして本来碑文が解かれたのならば、紗音は幸せになるべきなのだ。そういったヤス本来の目的を少しでも叶えるため、EP3本編でベアトは紗音を生き返らせ、譲治と一時的とはいえ再会をさせてあげたのだ。幻想描写の中ではあるけども、紗音は自分の恋を成立させたのだ。

・ベアトリーチェと戦人の勝利条件
ベアトリーチェが主催のゲーム盤で、ベアトは戦人に魔女を認めさせるために戦いを挑んでいる。一方、戦人は事件を人間犯人説で説明するために戦いを挑んでいる。この2人の勝利条件は本来対立関係にあるのだが、事件中に奇跡的に2人が同時に勝者になるケースが存在する。それは、戦人が事件の真相に至り、黄金の真実を理解し、魔法が過程を修飾する事で成り立っている事を理解し、ベアトの事を最終的に黄金の真実で「ベアトを魔女と認める」と認めてあげるケースだ。この場合、戦人が人間犯人説で説明を付けた上に、なおかつベアトも魔女として認められるという結果になり、2人の勝利条件が同時に達成されるのだ。本編中でベアトが心から願っていた結末というのは、これだったのかもしれない。

・ゲーム本編とメッセージボトルや偽書の同一性
うみねこで世界構造を考える際に議論になりやすい部分で、私達が読んでいるゲーム本編は偽書やメッセージボトルと若干違うのではないか?という論争がある。偽書には魔法描写なんか無い、メタ世界なんか無いといった議論はよく見る。この問題を考える際に重要なのは、そもそも、うみねこは何故嘘の描写がされるのかという部分だ。出題編では死んだ金蔵がまるで生きてるかのようなアンフェアな描写が堂々とされ、魔法描写も頻繁に描写される。ミステリーとして極めてアンフェアなこの描写は、別に「うみねこだから許されてる独自ルール」ではない。これが許されるロジックがキッチリあり、それはEP5で明確に説明されている。

「第1のゲームのラストで、この物語が、メッセージボトルによって後世に語り継がれていることが明記されている。……誰かが事件を、物語に記した。つまりこの物語は全て、……メッセージボトルを執筆した人物という観測者によって、私見が含まれた世界という事になる。つまり、観測者は神ではない。ニンゲンなのだ。よって、その記述の真の意味での公正は保証されていない。ミステリーでお約束とされている、本文は神の目線でなければならないとする前提が破られていることが、第1のゲームの時点で、……もうはっきりと明記されている。だからこそ、目撃者と同時に、観測者(執筆者)もまた、疑う事が可能なのだ」

つまり金蔵が生きてるかのように描写されたり、魔法が描写されたりする部分自体が「ヤスや十八による私見」なのだ。私達が読んでいるゲーム本編自体が彼らの執筆した原文であり、彼らの私見を読まされてるからこそ、本来非常にアンフェアな嘘描写、魔法描写が許されているのだ。これはEP6でも朗読者の階層を描写する事でキッチリ提示されている。要するにメッセージボトルや偽書に嘘描写や魔法描写は存在するという事で、ならば魔法描写自体「ベアトが戦人に魔女を認めさせるために語っている」という物語的意味合いを考慮すれば、メタ世界も当然原文にあると考えるのが自然だろう。幻想描写や嘘描写が描かれる部分は少なくとも原文に無いとおかしい。

・赤字に対する勘違い 
EP2から登場した赤字だが、本編中何度も赤字は真実を保証すると言われている。「赤き真実は、ただ真実であり、証拠も証明も、議論の余地も必要ない」といった言い回しがされるため、「赤字=唯一絶対の真実」だという錯覚が起こってしまうのだ。赤字が保証するのは真実だけであって、「唯一性」までは保証していない。これはどういう事なのかというと、一つの謎に対して真実が複数ある場合に、片方だけ赤字で提示されると、もう片方の事を考えなくなってしまったり、矛盾してると感じたりする錯覚が発生する。例えば、在島人数に関する赤字がそうだ。EP6で異なる2種類の赤字が本編で提示されたのは、正に「赤字は真実しか保証しない」からであり、唯一性までは保証していないのだ。

連鎖密室で出た 「6人は即死であった」のような場合、金蔵の死因が病死であるため、金蔵が死んだ原因を即死と言えるのか?というような問題が発生する。こういう場合は本編でベアトが即死の定義を説明してくれたりするわけだが、ベアトが全ての赤字に対してこのような補足説明をしてくれる訳ではない。在島人数の赤字の「人間」の定義が人格を指してるなんて説明はしてくれないのだ。赤字が提示された時点で、その赤字がどういう定義で成立してるのかをまず疑わないといけない。赤字が保証するのは真実だけであり、それ以外の何も保証しないのだ。

 ・ヤス=幾子説について
これはよく考察で見かける主流考察であり、本編考察記事では特に触れてなかったため、ヤス=幾子説についての反証要素をいくつか列挙したい。私は幾子とヤスは全くの無関係の他人同士という考え方をしてるが、正直この辺は推測を交えて個人で見解が分かれる考察不能領域に入るのではないかと思う。

1.日記披露パーティーの一件
まず、作家縁寿がこの一件を回想しているので、現実で幾子はマスコミの前に出てきて「私が伊藤幾九郎です」と発表して、日記披露パーティーをやり、中断するというのをやったのだろう。これはヤス=幾子だと仮定した場合、マスコミの情報収集能力、元使用人や、たまたま10/4、5のシフトに入ってなかった使用人達から、幾子=ヤスなのが判明してしまい、伊藤幾九郎の偽書に信憑性が出てしまうため、猫箱に真相を閉じ込めるどころか、猫箱の中身を暴露する方向に繋がりかねない。このためヤス=幾子だと考えると縁寿を自殺させる方向に進む危険性すらあり、わざわざマスコミの前にヤスが姿を現す必然性が説明不能になる。

2.動機から判断する入水シーンの解釈
ヤスは元々、誰とも結ばれない結果が出た場合、爆殺による心中を想定していた。その可能性がかなり高いことから遺族にキャッシュカードを送付したりしている。クレルも「私は運命に抗わない」と言っており、あの場面で幾子という人格を作り生き延びるというのは、ヤスの動機と整合性が取れない。そもそも生き残るのなら幾子なんて人格を作らず、ベアトのまま生き残ればいいのだし、そもそも86年の事件が失敗した場合死のうと思っていたヤスが、生き残るという選択を行うという考え方は、彼女が86年に起こした事件そのものを否定するに等しく、本編情報と整合性が全く取れない。

3.記憶喪失というのは偶然の産物
EP8の入水シーンは十八の偽書の締めくくりとして美しい終わり方をしているが、現実世界の事をシビアに見た場合、あの場面戦人はヤスのゲーム盤の真相に至っていないので、人命救助あるいは緊急避難的な意味でヤスを助けようとはしてたのだろうが、ヤスと結婚しようと思ってボートで逃げてた訳ではないだろう。だから、仮に幾子という人格で生き延びた場合、そもそも何を目的にして生き延びようとしているのか、ヤスの心理面に説明が付かなくなる。結果として一緒に暮らしているのは、あくまでも戦人が記憶を失うという偶然の産物の上に成り立っているのであって、戦人が記憶を失って一緒に暮らしてくれるというのを前提にして、幾子人格を作るという考え方が既におかしい。

4.人格という考え方の適用範囲
うみねこをミステリーなのだと考える場合、作中の人格表現のような特殊な考え方をどこまで適用するべきなのかという問題がある。現実に作中の紗音嘉音のような表現は適用不能であり、紗音嘉音の人格表現は創作世界にのみ通用する同一人物トリックだ。嘉音と朱志香の恋愛の項目でも述べたように、現実では複数人格者ですらない、普通の女の子だという考え方もできる。幾子=ヤスという考え方をすると、一種のファンタジー的な要素そのものである人格表現というのを現実世界に適用しなくてはならなくなり、それが本当にまともなミステリーと言えるのか?という観点から見ると、まずあり得ない。入水シーンで都合よく違う人格を作るだとか消すだとか、そういう考え方は既にファンタジーであり、ミステリーではない。

5.インタビュー関連
当初幾子と十八は結婚してるという設定にしてたようで、そのプロットを見た女性スタッフから猛反発を受けたというエピソードがインタビューで出ている。「戦人は清いままでないと駄目だ!戦人を守らないと駄目だ!」のような事を言われたらしいが、これは要はヤス本人は入水シーンで肉体ごと死んでるため、十八が幾子と結婚してるという設定は、女性スタッフにすれば、戦人が結果的にヤス以外の人物と結ばれた事になってしまい、物語の悲劇性が台無しになるという女性視点からの感覚が働いたのだと推測できる。

6.作家縁寿の主観描写
「八城十八という、右代宮家と何の縁もない人間が、どうしてその内情をあれだけ詳細に書けたのか」

以上の6つの項目はもちろん確定的な根拠ではないものの、反証要素がかなり多く、個人的にはヤス=幾子説は成立してないのではないかと思う。 

 ・作中の紗音嘉音ベアトとヤスという人物とは一体どのような存在なのか
ヤスが現実世界ではどのような存在なのかというのは、もちろん明確に確定不能ではあるのだが、うみねこをミステリーなのだと考えた場合に自然に成立すると思われる個人的な見解を書きたい。

まず世界設定。うみねこの世界は現実世界と偽書世界という2つの世界で構成されているという前提で考える。現実世界のヤスは事故の後遺症で子供を産めなくなったものの、多重人格者とかではなく、ごく普通の女の子。体に傷跡などは残っているだろう。現実世界のヤスの「戦人への気持ち」「譲治への気持ち」「子供を産めなくなってしまった自分の性に対する複雑な気持ち」こういう心の表現が、偽書世界では人格表現で脚色されて描かれている。偽書世界上では紗音嘉音ベアトは一つの肉体を共有している人格同士として描かれ、彼らは個別に自意識のような物があり、彼ら人格同士にとってはお互い他人。あくまでも同じ肉体を共有している関係性だ。彼らは肉体的には1人であるため、探偵の前に同時に現れる事はできない。紗音の時は女の服装、嘉音の時は男の服装をするけども、彼らの人格は偽書世界では1人の人間として個別認識される。それは偽書世界を執筆してる十八がそのように創作して書いてるから。なぜそんな設定にしたのかは、執筆者である十八自身が自分の中にいる戦人を別人として認識してるため、例え同じ肉体を共有していても、他の人格は別人なのだという主張が十八にあり、それを偽書世界では動機の部分と絡めて完全に別人として創作執筆している。

【メリット】
この考え方には一つメリットが存在する。現実世界でヤスが86年に事件を起こそうとする場合、作中のEP1~4のような人格トリックを想定した事件を想像してしまうと思うのだが、現実的に考えて女を演じたり男を演じたりして、完全に別人になりすますなんて事は現実世界では不可能だろう。EP4でも説明したように、紗音とベアトというのは作中で別人として認識されるため、EP3の連鎖密室や南條殺しを解く事によって同一人物なのだと気付く必要があった。作中ではそのために人格トリックが必須になっていた。しかし、上記のようにヤスの設定を考えた場合、戦人にとって約束をした人物はヤスそのものであり、紗音でもベアトでもない。つまり、現実世界の事件では単純に「犯人の正体」と「嘘」に気付くだけで約束を思い出す事が可能になるのだ。要するにEP1~4のような現実世界では再現不能と思われる人格トリックの必然性が消え、極めて現実的な事件構成で事件を実行可能になる。

・ベルンカステルやラムダデルタは現実世界にはいるのか
うみねこをミステリーと解釈する場合、ファンタジーに関係する要素はバッサリと切り落とさなければいけない。しかし、ミステリーで解釈しながらも、そこにファンタジーを融合させる解釈が実は可能だ。EP8の考察の最後に書いているように現実世界で起きた奇跡を魔法解釈で考える方法で、これは分かりやすく言えば神社の神様に対する考え方に近い。例えば受験合格を祈って学業の神様にお参りに行ったりするが、仮にその願いが叶った場合、私達は「神様が願いを叶えてくれた」と解釈する。これはもちろん自分の努力によって叶えた事実に「神様が叶えてくれた」という解釈を重ねているという事であり、これはうみねこにおける魔法解釈にも通じる。現実世界でメッセージボトルが十八まで届いた奇跡は、現実目線で見ればただの偶然ではあるだろう。しかしこれは同時に「ベルンカステルが叶えてくれた奇跡」という解釈を重ねる事も可能だ。そういう意味では現実世界にベルンカステルがいるのかどうかという問題は、私達にとって神様が本当にいるのかどうかという問題に対する答えと同じだ。いるとも言えるし、いないとも言える。しかし、いると考えた方が愛のある解釈なのだと思う。

・偽書説を採用する場合の情報ソース問題
この問題は、実は突き詰めると「可能性がさらに広がってしまう」という類の考察であるため、考察を突き詰める事に意味があるのかどうか懐疑的な部類のものなのだが、一部考察を続けている考察者の中では半ば前提にしている側面もあるので書いておきたい。偽書説を取る場合最初誰もが「作者である十八はどうやって情報を仕入れたのか?」という問題を考えるはずだ。本人しか知らないような回想だとか事実などを十八はどうやって知ったのかというような問題だ。この部分はクレルのハラワタの項目で述べたように「そもそも創作や拡大解釈で書いている可能性」というものを考慮しなくてはならなくなった。つまり情報ソースに基づいているものと、ソースに基づかないものが混在しているという考え方だ。

しかし、一つ問題なのはクレルのハラワタの描写が真実だった場合の情報ソース問題だ。ヤスが自分の事を「恋の出来ない体」と言っている部分は特にインタビューでも「妊娠できない体だったのだ」というような発言が作者によりされているため、真実なのだと思われる。クレルのハラワタは画面を真っ赤にするという手法で真実が伝えられている。これは「文字を赤くする」という作中人物でも可能な手法ではなく、ゲーム製作者である竜騎士07先生にしか出来ない手法だ。つまり、情報ソース問題として最初に提示した「情報ソースがある」「創作である」の2つの可能性の他に「作者自らが原文にはない真実を挿入している」という3つ目の可能性が出てくるのだ。つまり、私達の見ているゲーム本編は基本的にはメッセージボトルや偽書ではあるが、ゲーム的な都合で作者自らが書いている部分が追加されているという可能性がある。

これは結局「本編に作中人物が書いてはいけない文章が存在するのかどうか」で立証できる。本編中に明らかに私達プレイヤーの階層から挿入されている文章が存在するのならば、私達がプレイしているゲームは純粋な意味でのメッセージボトル、偽書ではない事になる。EP5で出てきたこの文章を見て欲しい。

「第1のゲームのラストで、この物語が、メッセージボトルによって後世に語り継がれていることが明記されている。……誰かが事件を、物語に記した。つまりこの物語は全て、……メッセージボトルを執筆した人物という観測者によって、私見が含まれた世界という事になる。つまり、観測者は神ではない。ニンゲンなのだ。よって、その記述の真の意味での公正は保証されていない。ミステリーでお約束とされている、本文は神の目線でなければならないとする前提が破られていることが、第1のゲームの時点で、……もうはっきりと明記されている。だからこそ、目撃者と同時に、観測者(執筆者)もまた、疑う事が可能なのだ」

上の方でも一度抜粋したものだ。これがどの階層から書かれたものなのかを考えて欲しい。この文章は幻想描写のトリックの説明をしているものであり、「地の文が神の視点であるという本来のミステリーでのお約束が守られておらず、作中人物の私見が混じった世界を読んでいるため、そのためミステリーではありえない魔法が描写される」という説明だ。この文章は読んでいる読者にとってその物語が「作中人物が書いたもの」でないと成立しない。私達プレイヤーにとって竜騎士07先生は同階層の人物であり、先生が私見を入れて書いてるのか、神の視点で公平に書いてるのか判別が付かないため、当初EP2を読んだプレイヤーが魔法描写を読んで、素直に魔法だと思ったのだ。これを打ち破るためのヒントがEP1のラストで明かされたメッセージボトルに関する描写であり、私達プレイヤーにとってはこの「メッセージボトルを執筆した人物の主観」を考慮にいれなければならなかった。

この文章を仮に十八が書いたのだと考えると、メッセージボトルの物語は、十八にとって同階層のヤスが執筆したものであり、これは神の視点で書かれたものなのか、私見が入ったものなのかの判別が付かない。私達プレイヤーと竜騎士07先生の関係性と同じだ。十八にとっては、メッセージボトルを指して「物語が神の視点ではなく、メッセージボトルを執筆した人物の私見が混じっている世界である」とは断言できない。これを断言できるケースというのはメッセージボトルの物語の中に、さらに作中執筆者が登場するようなケースだけだ。言わばフェザリーヌのような人物である。実際このメッセージボトルは「六軒島の真相」だと思われていた。しかし警察の押収した2本目のメッセージボトルが出てきた事によって、そのお互いの異なる内容から、このメッセージボトルは創作なのではないかという可能性が出てきたのだ。フェザリーヌが仮に魔法世界の人物だと想定した場合でも、フェザリーヌにとってメッセージボトルは人間世界の人物が書いたものであり、「私見の入っている世界」という断定は不可能だ。ヤスが神の視点で物語を書いているのかどうかが判別不能なためだ。

つまり作中にプレイヤーと同じ階層の視点から書かれている文章が存在する。おそらくそれはTIPS、タイトル画面に書かれているエピソード説明、EP1エンドロールの文章、この辺りが該当するのだろう。私達が読んでいる物語は「ソースに基づいているもの」「創作で書かれているもの」「竜騎士07先生自らが真実を挿入しているもの」の3種類が存在する。

なぜ私がこの考察を書いたのかというと、EP6で出てきた19に関する説明「それは、この物語を生み出すのにかかった月日の数」「それは、避けえぬ今日という日に至るまでの月日の数」この表記の解釈のためだ。物語上極めて重要だと思われるこの表記を創作とは思えなかったのだ。しかしこれはヤス本人にしか知り得ない情報でもあり、情報ソースがあるとも思えない。これを解釈するために考えたのが、この3番目の解釈の方法なのだ。結果として本編の記述にソースがあるのかないのか、それともゲーム的都合で挿入されているものなのか、その解釈が広がってしまう結果になるのだが、そこはもう個人で想像して楽しむところだろう。 

・執筆者と朗読者
うみねこの物語はヤスと十八、幾子が執筆をしている。物語に彼らの主観が入っているのは間違いない。情報ソース問題でも述べたように、「情報ソースがある」あるいは「創作」という考え方が基本だ。しかし、前の項目でも述べたように作中にはプレイヤーの視点から書かれている文章が存在する。EP1のエンドロールの文章もヤスが書いた部分は「これをあなたが読んだなら、その時私は死んでいるでしょう。」から始まる部分であり、18人全員の存命は絶望的と言っている部分から、十八や幾子が書いているものでもない。これもプレイヤーの視点からEP1までの情報に基づいて出されているゲーム的都合による文章だろう。EP1のお茶会でも戦人が冒頭で「おー、みんな『うみねこのなく頃に』お疲れさん!」とゲームタイトル名を言ってしまっており、これもプレイヤーの階層からの文章だ。

うみねこには「朗読者」という概念が存在する。例えば一つの考察として、ヤスや十八が書いたメッセージボトルや偽書を現実世界の縁寿が朗読をしていて、それが私達が読んでいるゲームであるという説があったりする。これもやはり、プレイヤーの視点から出されている文章の存在を説明できない。一番問題なのは、作中で作品的に非常に重要だと思われる伏線でありながら、ヤス本人しか知らないような記述が出てきた場合、それを「創作」と考えなければならない点で、前述した「それは、この物語を生み出すのにかかった月日の数」「それは、避けえぬ今日という日に至るまでの月日の数」というEP6で出てきた19という因縁の数字に関する記述が典型例だろう。

十八やヤスは確かに作中でメッセージボトルや偽書を書いただろう。しかし私達がプレイしているのはゲームなのだ。媒体が変わっている以上、そこに新たな主観が加わってもおかしくない。私達がプレイしているゲームの朗読者とは竜騎士07氏本人なのではないだろうか。ヤスや十八が執筆したものを竜騎士07氏が朗読をしている。つまりヤスや十八の主観と竜騎士07氏の主観が入っている。こう考えないと、プレイヤーの階層に関する説明が不可能になる。本人しか知り得ない記述をどう判断するのかという部分に関する説明も同じだ。タイトル画面のエピソード紹介文やTIPSの情報が偽書やメッセージボトルにも入ってるとは思えない。あれもゲーム的な部分そのものだろう。

正直作品外の作者の存在を考察に組み込むのが正しいのかどうか私には分からない。この考察は言い換えればゲーム的都合で原文にはない文章も入ってるという一言で終わりだ。クレルのハラワタが「画面が赤い」という部分を考慮すると「ゲーム画面の色味を赤に調整する」という手段はやはり竜騎士07氏にしかできない。作中人物には不可能な手法だ。朗読者は竜騎士07氏であるという考察は正しいのかどうか自分でも判断がつかないのだが、考える価値はあるのではないだろうか。

・幻想描写の根本的なトリック
幻想描写は「うみねこ独自ルール」ではない。一般的ミステリーで通用する普通の叙述トリックだ。

金蔵が生きてるように描かれる。事件の殺人の部分で魔法、魔女、家具が描写される。しかも3人称の客観的視点で。普通小説の世界でこれをやると小説のルールとしてこれは真実なのが確定する。実は嘘でしたなんて論理は通用しない。しかし、うみねこは「ミステリーでも解釈可能」と説明される。普通は不可能だ。魔法が描写されたら魔法があるのだ。ワルギリアがEP3で「この世界は魔法とミステリーの主張が同時に存在できるあやふやな世界」と世界観を説明するが、疑問に思わないといけないのは「何でそんな事が可能なのか」だ。あの説明はむしろ問いであって答えではない。

これは作中で明確にトリック明かされたが、うみねこで幻想描写が許されるのは「その3人称の客観的視点だと思われてた部分すら私見だった」というトリックなのだ。論点となるのは嘘が描写されてる部分が「神の視点」なのか「人間の私見」なのかの違いである。神というのは言うまでもなく竜騎士先生という最上位執筆者だ。竜騎士先生が書いている文章は先生の私見を含めて「神の視点」と位置付けるために、ここに嘘を書く事は許されない。しかしヤスや十八といった作中執筆者が金蔵を生きてるように描いたり、魔法を描く場合は「その執筆者が嘘を書いているかもしれない」を考慮に入れないといけないため、ワルギリアが言うようなファンタジーとミステリーの可能性が両立する。

つまり、作中の幻想描写が成立する状況というのは「ヤスや十八がメッセージボトルや偽書に幻想描写を書いている場合のみ」なのだ。この場合に限って「執筆者の私見を疑わないといけない」という状況が発生する。この論理から作中幻想描写で出てきた魔女や家具が原文に書かれていることが確定する。EP2のドレスのベアトリーチェ、7姉妹、山羊、嘉音ブレード、全部原文に書かれているわけだ。書かれていないと考える場合には、この幻想描写に誰の私見も入っていないという事になり、ファンタジーが確定、ミステリーで思考不能になるというロジックエラーが発生するため、これはもう議論の余地がない。

EP3のエヴァ・ベアトリーチェは幻想描写部分に出て来るため、当然原文に書かれていることになる。彼女は中盤に幻想描写の部分からメタ世界に移動する。十八の原文に書かれているキャラがメタ世界にもいる。ここを考えると物語的繋がりや、十八が何故エヴァを原文に描けるのか、なぜその存在を知っているのか、という問題が発生するため、メタ世界も原文に書かれているという可能性が出てくる。幻想描写部分は原文に書かれている事が確定、メタ世界も書かれている可能性が極めて高い。

・メッセージボトルに記された真里亞の署名
メッセージボトルの最後には執筆者として真里亞の署名がされている。しかし、実際に執筆したのはヤスだと作中で明かされている。なぜヤスはメッセージボトルの最後に真里亞という署名を入れているのか。これは一種の暗号トリックになっているのではないだろうか。

暗号トリック。ベアトリーチェのゲーム盤ではトリックの嘘と、犯人の正体から戦人の罪が連想されるという、戦人にしか分からない暗号が組み込まれている。こういった「特定の人物にしか分からない情報が組み込まれる」という意味で、真里亞の署名というのは、もしかすると「真里亞をよく知ってる人間に向けて書かれている暗号トリック」なのではないだろうか。つまり、十八がメッセージボトルを読むと、戦人の記憶と照らし合わせ「いや、真里亞はこんなものを書くような子じゃない」ともしかすると判別できるのかもしれない。戦人にとってミステリーと言えばヤスの印象が強いはずだ。

つまり十八は真里亞の署名を偽物だと判別可能である可能性がある。ここからが重要なのだが、この真里亞の署名というのは実は上記で述べた幻想描写のトリックと密接に関連しているのではないだろうか。幻想描写のトリックは論理的に原文に書かれている事が確定する。EP1で言えば、金蔵が出てくるシーンだ。実際金蔵は死んでいるが、幻想として生きてるように描かれる。当然十八もこれを読んでる訳で、ここの部分をトリック的に「いや、死んでる可能性もある」と推理できなくてはならない。事件の殺人部分で描かれる嘘の描写もそうだ。十八にとっては原文に書かれている「嘘の記述」を判別する必要が出てくる。

私達プレイヤーはヤスという作中執筆者の主観を疑う事で推理するが、十八にとってはこの「設定上の執筆者である真里亞の主観」を疑う事で、推理可能になっているのではないだろうか。真里亞の署名は幻想描写を嘘だと見抜くためのトリック的な意味で署名されているのだろう。

・嘉音は暗号キー
うみねこの物語で一つ不思議に思うのは、十八はそもそもメッセージボトルを読んで「犯人はベアトリーチェ」という真相に到達可能なのだろうかという部分だ。EP1では一番最後に肖像画の前に出てくるだけで、トリック的に犯人ベアトリーチェ説にまで到達できるようになっていない。存在の示唆がされるだけだ。プレイヤーはEP3まで読んでやっと南條殺しによって特定できるわけで、EP1の時点では不可能だろう。しかし、十八にだけはそれが可能である可能性がある。

嘉音を「実際の六軒島にはいない人物」と考える。つまり十八がメッセージボトルを読むと、嘉音というメッセージボトル上にしかいない人物が紛れ込んでいるという「暗号キー」が伝わる。嘉音の存在というのは十八に向けた「この物語には架空の人物が紛れ込んでいる」という前提で推理するためのトリック的なパーツなのかもしれない。EP1のボイラー室で嘉音が殺されるが、この時、嘉音は「紗音が先に死に、僕が生き残るような場合には、僕はベアトのルーレットを台無しにしようと思っていた」と主張し、肉体ごとベアトリーチェを道連れに自殺しようとしていた。ここのシーンは同一人物説を示唆している部分である。

つまりメッセージボトルの物語には「同一人物説」の情報提示と「架空の人物がいる」という情報提示の2つがされているのだ。この2つの前提に基づいて十八が物語を推理した時、最後に出てくるベアトリーチェが「人間としての犯人」として推理可能、なのかもしれない。

・同一人物説における誤認という要素
うみねこのゲーム盤の世界では紗音や嘉音は明らかに別人として他の登場人物に認識されているように見える。彼らを同一人物と疑っているような描写が一切ない。ここの部分を「創作世界だから」という結論で説明していた訳だが、今回はここの間に入る部分のロジックを補強したい。まずはEP4で語られた次の赤字を見てほしい。

「全ての人物は右代宮金蔵を見間違わない。いかなる変装であったとしても、右代宮金蔵を見間違わない!」

実に不思議な赤字だ。金蔵はゲーム盤の世界で絶対に誤認されない事が赤字で保証された。例えば、金蔵の特徴を完全に衣服で包み込むような変装をした場合でも誤認されない事になる。つまり、金蔵に関するゲーム盤の「強制認識ルール」というものが存在する。金蔵は絶対に金蔵と認識され、誤認を排除する。そういうルールがあるのだろう。ではこのルールは金蔵にだけ適用されるのだろうか。次の赤字を見てほしい。

「彼らは異なる人物を嘉音と誤認することは絶対にない!」

この赤字で嘉音が誤認されない事が示唆されているが、重要なのはこの「異なる人物」という部分が、同じ肉体を共有している紗音にまで適用されている可能性がある事である。作中で人格に関する説明は明示されている。

「私たちにとって、人格が人そのものならば、例え同じ肉体を共有していても、異なる人格を指して別人であると言い切れるだろう」

EP6においてこのような説明がされている。人格は別人なのだ。という事は嘉音を紗音という別人に誤認する事が赤字上で禁止されている事になる。嘉音を紗音と誤認する、紗音を嘉音と誤認する、こういう誤認がゲーム盤上では禁止されているのだろう。だから、彼らは作中で別人と認識されているのだろう。

・ウィルの髪の毛
ウィルには一本だけ赤い髪の毛がある。うみねこのキャラクターはシナリオを書いている竜騎士先生が描いているため、あの髪の毛にもちゃんと理由があるのではないだろうか。結論から言うと、あの髪の毛は戦人の髪の毛の赤を示唆してるのではないだろうか。そもそもウィルとはどういう意味合いのキャラなのか。本編でクレルと対決する際にクレルはこう言っている。

「私にとって大事なのは、縁ある人ではなく理解してくれた人です。あなたは良き傍観者であり、私を理解してくださったたった一人の人」

ウィルは戦人ではなかったけども、クレルにとっては理解してくれたウィルの方が大事だと言うのだ。十八というのは厳密に言うと戦人ではなく、十八という別人だ。このため、十八がメッセージボトルを読んで真相を理解するというのは、正に「ウィルが真相を理解する」という事と意味合い的には同じなのだ。十八は戦人ではなく、ウィルも戦人ではない。しかし十八の中には戦人の記憶があるわけで、ウィルのあの赤い髪の毛はその戦人の記憶を持った十八という部分を示唆してるのではないだろうか。

・ベルンカステルの物語
ベルンカステルには本編で描かれなかった部分にストーリーが存在している可能性があるのではないだろうか。ベルンカステルは奇跡を司る魔女だが、本編で奇跡を見つけられなかったと自白している。

「257万8917分の257万8916の確率で。あなたはクレルとしての世界に生き、逃れ得ぬ運命に翻弄され、気の毒な最期を遂げる。そして、257万8917分の1の確率で右代宮理御として生き。今夜、霧江に殺されるの。…………つまりあなたの、いいえ、あなたたちの運命は、257万8917分の257万8917の確率で、…………つまり如何なる奇跡も許されない絶対の運命で、逃れ得ぬ袋小路に、運命の牢獄に囚われてるということなのよ!」

ヤスが事件を起こすと100%の確率で惨劇が発生する。回避不能だ。ベルンのキャラ説明を見るとこう書いてある。

「奇跡を司る魔女だが、奇跡が起こらぬことを知る魔女とも呼ばれる。」

作中でウィルがベルンに向かって「てめぇは神じゃねえ!てめぇにできるのは運命をあざ笑う事だけだ」というセリフを言っている場面がある。そう。ベルンはあくまでも「存在するカケラ」から奇跡を探すのであって、存在しない奇跡を生みだす能力はない。ベルンも作中で「奇跡なんて所詮はファンタジー!」と言っている。ベルンカステルはそもそも、なぜ257万個という膨大な量のカケラを探したのだろうか。ベアトをあざ笑うためだけにそういう事をやったと考えるのは、対価と労力のバランスが変だ。ベルンカステルはヤスを助けようと奇跡のカケラを探していたではないだろうか。

しかし、そんなカケラは存在しなかった。そこに至った時、ベルンカステルは何をしただろうか。現実世界で一つ奇跡が起こっている。メッセージボトルが2本拾われたのだ。この奇跡はベルンカステルが叶えてくれた奇跡なのではないだろうか。メッセージボトルはヤスが事件前日に「戦人への想い」を込めて流しているものだ。事件部分のトリックと犯人から連想される約束が戦人にしか分からない暗号になっているため、メッセージボトルの対象者は戦人に限定されているはずだ。

そもそも「ベルンカステル」というのはドイツのワインの名前が由来なのだ。ベルンカステルの寄り代というのは、メッセージボトルなのではないだろうか。メッセージボトルには「戦人に真相に至って欲しい」というヤスの想いがこもっている。これを寄り代にしたベルンカステルというキャラには「魔女幻想を否定し、真相に至らなければならない」という行動原理の核が存在する事になる。ベルンカステルがずっと魔女幻想を暴こうとしていたのは、寄り代であるメッセージボトルに理由があるのかもしれない。