2018年11月19日

必然的な偶然を受け入れるために

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昨日、あきらめ症候群にかかっている子どもたちを知った。
これだ。
もし、戦うことも逃げることも選択肢にない場合は、動きを止める。「こういうことなのです。私にはどこにも行くところがない。走れない、戦って切り抜けることもできない。安全ではない。自分を守る唯一の方法は、完全にスイッチを切ることだ」
あらゆるトラウマを経験して、彼らは生きることをあきらめた いま昏睡状態に陥る難民の少年少女が続出している


調べると、回復しているケースもある。
何年ものケースもある。
そのまま亡くなってるケースもある。
生存放棄症候群とも言われている。

現在は、スウェーデンとオーストラリアで多発している。
今、この時、昏睡状態にいる子がいるのだ。

胸が詰まる。

この子たちは絶望したから、一説には家族の足手まといになりたくないから、こういう状態になるのだという。緩慢な死。最初はそう思った。飲まず食わずになり話さなくなりトイレに行かなくなり。それなら、植物状態ののち、死に至るだろう。でも、そうではなく長く昏睡状態でいる。それならば、死にたいのではないのではないか。生きるのをあきらめただけであって、死を望んだのではない。

余計に胸が詰まる。

こんな風に大状況は個人を襲う。
個人は大抵の場合、幾つものフィルターによってむき出しにならないように守られている。家族や地域や人間関係、そして国家とか。それぞれのフィルターは相互に干渉し合いながら、個人を侵害したり守ったりしてる。

だが極限の状況で、むき出しになる。
そして圧倒的な暴力にさらされる。
打ちのめされる。

わたしは、そういう瞬間に出会ったことが二度ある。
正確にはそれと意識したことが二度ある。

一度は祖父だ。
祖父は二百三高地の生き残りで横腹に穴が空いていた。
ロシア兵の銃剣が刺さった後だった。
一緒にお風呂に入ったら、そこにお湯が溜まるのが子どものわたしには猛烈に面白かった。
この祖父は高度経済成長の真っ只中に食を絶って徐々に去っていった。
小学生だった私は、祖父の変わりように驚いた。母にどうしたんだと聞いた。「生きていたくなかったんでしょ」なぜ生きていたくないの「昭和の御代が嫌だったんでしょ」
祖父のあの横腹の穴は日露戦争への窓口で、
あそこに大状況が口を開けて待っていた。

もう一つが第二次世界大戦だ。
http://blog.livedoor.jp/takeyabu31/archives/51369566.html

http://blog.livedoor.jp/takeyabu31/archives/51129146.html

私の母は大陸からの引揚者です。その道中でのエピソードです。ある町で、母はとある女の人に連れて行ってとすがりつかれたとそうです。その町から次の町へ避難民列車がでる。それにのるのに、連れて行ってと。。その人は臨月だったこともあり、母は列車にのるための切符を手に入れるのに奔走しました。しかし一枚しか手に入れられなかった。母はその人を置き去りにし列車にのったのです。

私が母から聞いた話はここまでです。その後、私が高校生の頃、ふと発見したふるいノートにこの話の後日談が書いてありました。古びた赤い布張りのノート。紙の色はやけて茶色くなっていました。そこに鉛筆で戦後の数年経った日々の買い物メモや仕事の予定など日常の記述の合間に書かれていたのです。

その人は、程なく身二つになった。厳寒の地の駅舎で。駅舎とはいえ、そこは寒さを防げるところではなく、いくら新聞紙をぼろとなった衣服の中にいれても寒さに耐えられるものではなかった。身二つになってまもなく、母と子は凍え死んだのです。そしてその当時その町ではそのような死体は山のようにあって、いちいち埋めているヒマも手間もなかった。どうしたかというと町を流れる凍った河に投げ込む。雪がつもり死体を凍らせ、河は天然の冷凍庫だった。そして春が来て河が緩むと共にその凍った死体はゆっくりと海へと流されていった。

この死体を飲み込んで凍った河のイメージは、私の精神に深く刻まれているものです。

おそらく戦争の記憶はこの凍った河のようになっていると思われます。体験者の奥底で凍らされ、高度成長の波の中で少々緩んだものがすべて押し流されてしまった。冷凍庫の中の冷凍品のようにひからびて、ある時ゴミとしてだされてしまう。

私はなぜ、その記憶を解凍で来たのでしょうか。それは共感があるからでしょう。上の子をうんだ時、その日の夜、私はなぜ今、生き続けているのだろうか。ウチの子はどうして死なないでいられるのかと思いました。

共感は、その人はわたしだと思うことです。
自分をここにおいといて、そのまま誰かのことを思って共感することはできません。
自分はここにいて誰かをかわいそうに思うことは同情です。共感とは違います。

共感は自分を一度否定することになるので、痛いです。
だからこそ、現実が変るのだと思います。同情ではかわりません。


この発想は私の根本にある。
私がここにあるのは偶然だ。私が誰か出ないのは本当に偶然だ。私が私であることに必然性はない。しかし同時にこの偶然には必然的なものがある。どう頑張っても私は他の誰かではないのだから。

私は彼らではない。
彼らも私ではない。
しかし、私が生存していることと彼らが生存放棄していることに合理的な説明はできず、偶然である。
よって、彼らが望まないのに生存を放棄しているのは救済されなければならない。

そこに「われわれがなる」

おそらくそこら中で昏睡状態の子どもがいるに違いない。
シリアでイラクでガザでアフガニスタンでコンゴで、他にも世界のあちこちできっと昏睡状態の子どもがいると思う。過去の歴史の中でもきっといただろう。できたばかりのアメリカで居留地に拘束されたインディアンたちや、チベットや、カタロニアや数限りないところで。家族は何が起こったのかわからず、為す術もないまま子どもたちを看取っただろう。だからそれは単なる死者、衰弱死した死者だったんだろうと思う。現在のオーストラリアとスウェーデンは難民を抑留とはいえ保護しているので、ケアされてこういう症状が報告されているのではないか。

世界中で歴史の過程でずっと、こうやって死にたくはないが生きることを諦めたものたちがいたんだ。

彼らは誰にも顧みられていないと思っている。
彼らは見捨てられていると思っている。
彼らは誰にも必要とされていないと思っている。

それならば、彼らに何とかして伝えたい。
あなたを知っている。
あなたを思っている。
あなたと話したい。
あなたと歌いたい。
あなたとハグしたい。
あなたと共に空気を吸いたい。

そのために、私はあなたを伝えなければならない。
そのために、あなたを思う私であり続けるわけで。
彼らを解凍するのだ。



讃えるのは「誰か」somebody ではない。「誰でもない誰か」nobodyだ。
誰かでは、私たちではない人になってしまう。
未だ誰でもない人だからこそ、「われわれ」になれるのだ。

今の私を否定し続けて、いつか「われわれ」になるために。
この歌はある。
言葉にならない叫びとともに。

**************

昨日、肉と玉ねぎだけのカレーを作った。
一昨日から何だかカツカレーが食べたかったのだ。
昨日は大人の国語でその素材は
「モンスターマザー 」だった。

この本の中の裕太くんは自死した。

後味の悪い本だった。
この本の中に出てくるのは社会資本(人間関係)を持たない人々ばかりだった。
無残な大状況の暴力は徐々に近づいている肌触りだ。

こういうのの後にはスパイシーなカレーみたいな刺激的なものがいい。
硬めのご飯を炊いて、タイミングよくデポーにパプリカや馬鹿でかいマッシュルーム「ポットベラ」、西洋ねぎポアロがあったので購入、ザクザク切ってソテー。他にカツも乗っけてオサレなカレーにした。

カレー20181118


食べたところまでは良かったのだが。
辛いペーストを足したので大汗かいて食べた。
美味しかったのだが。

今夜はカンパチの塩焼きにするつもり。
打ちのめされてぐったりするのはおしまいにするために
この記事を書いた。

人間は本当にバカなことをする。
しかもしょっちゅう。
本当に腹が立つ。




takeyabu31 at 17:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) 

2018年11月16日

過去も未来も今なんだよ。




すっかり秋も深くなりました。
皆さまお元気でお過ごしでしょうか。
竹薮は先月後半から右膝が痛くって呻吟しました。
今週ようやく復調し、久々にCURVESに行ったら
23日振りですとチェックマシーンに言われました(苦笑)

その間に誕生日があって色々思うことがありました。
それ以外にもいろいろ思うことはあるんですけど
これ思うだけで、ブログにしてくれるマシンってないもんかしら。
今時できそうじゃないですか。どうなのよとかブツブツ。

さて。

毎年10月31日(実際に生まれた日)と11月1日(戸籍上の誕生日)にそれぞれ1通ずつメールが来ます。
もう20年近くです。
必ずです。
31日のメールに返事に返事してももう一度メールは来ません。
一方通行です。
ひょっとしたら毎年設定で送信予約しているのかもと思うのですが
毎年微妙に違うような気もするのです。
竹薮の送る短い返事を彼はどう読むのでしょうか。

今年は1日のメールがなかなか来ませんでした。
心配になりました。
あちこち検索してみました。
フェイスブックで発見したけど何年も更新されてなくて。
どうしようかと思ってたら2日遅れで来ました。
よかった。心配したんだよと返信すると、猛烈に忙しくて忘れてたと返って来ました。

この2通のメールは竹薮の過去です。
過去のある関係からその時のままでメールが来るのです。
そして、その過去はなんと現在にあるのです。
不思議です。

ひょっとして31日の子から返事が来て、会うことができたら
時間が進み始めるかもしれません。
その時には未来に進むことになるでしょう。
それなら未来はすでに孕まれているということになります。
始まっているのかもしれない。
毎年来るメールは未来をノックしているのかもしれない。
そして竹薮もまたノックを返している。

そうなると現在はもちろんのこと、過去も未来も皆、イマココに在るということになります。
これは、よく言われることなんですが
だから、頭では理解していたのですが、
しみじみと今年実感しました。歳ですかね。

13日
片山弘明というサックス奏者がなくなりました。
10月1日に新宿のピットインで渋さ知らズの一員としての演奏を聴いたばかりでした。
たっぷりしてて楽しそうで大人で、いい演奏でした。
片山さんはジャズがベースですが、RCサクセションのホーンセクションとしても活躍していました。


ここに清志郎と一緒に楽しそうにプレイする片山さんがいます。

だから驚きました。
67歳、三つ上です。
なんだか、とても喪失感がありました。

そして昨日の昼間
遠藤ミチロウの闘病のニュースがありました。
悪名高きすい臓がんです。
もうほんとにガッカリしました。
すい臓がんはない。ほんとない。
この間なくなった角替和枝さんもすい臓がんだった。
角替さんは竹薮と同い年。

でも、ミチロウのことだすい臓がんもなんかの拍子に吐き出してペッペッとかかもしれない。
なんせ、こういう人だから↓

若い時のミチロウよりも震災後のミチロウの方がかっこいいと思ったです。

そんな時
一番上の曲を発見しました。
いい曲です。
これを作曲したピアニストも14日になくなったとのこと。
でもこの曲(hymn for nobody)は誰でもない人に捧げられた曲だ。
誰でもない人、未だ生きたことのない人に向けて歌われている。
それは誰でもいいのだ。誰でもなれる。
いつか。

下の動画も別アレンジの同じ曲。
曲の最後で清志郎は叫んでいます。
誰でもない人に向かって、誰でもない人になりたいと。
まるで生きた人の声を聞いた気がしました。
過去も未来も現在にあるんです。






takeyabu31 at 19:06|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 長電話(日記/告知) 

2018年10月02日

半分青い はなんだったのか。


昨日から「まんぷく」が始まった。
朝のNHKのドラマ。

「おはなはん」とか記憶があるなあ。
だいたいあれ見てたら学校遅刻だから、見てないはず。

見始めたのは大人になってからだろう。
検索してみると、毎日見るようになったのは2010年の「てっぱん」からだ。
その後、「カーネーション」「あまちゃん」「ひよっこ」あたりは超のつく名作だったが、
そのほかにも問題作はあって、例えば「純と愛」
これはボロクソに言われてた。

でも、竹薮は遊川和彦断固支持だし、あのドラマ自体「あり」だと思った
で、これ
その1http://blog.livedoor.jp/takeyabu31/archives/52103794.html
その2http://blog.livedoor.jp/takeyabu31/archives/52106351.html

この下の『と』の話は、猛烈なアクセス数でちょっとびびった。
というわけで、酷評されてるドラマってのはなんかあるんですよ。
なんか、この『と』の話はなかなかいいじゃんかといま読んで思う(恥)

で、半分青いです。
以下9/29のツイートです。

**************

酷評されてるけど、確かに酷いけど、多分エポックメイキングであるとおもう。
北川悦吏子は天才じゃなくて化け物なんだろな。
アソコに描かれたものは
名付けられない関係そのものだ。
つまり、スズメ個人で、それは結婚でも恋人でも友人でもないプレシャスなもの。

そういう関係の総体だ。

最終回の律とスズメ。
あのギコチナサ。

あの二人は一緒にくらさないのではないかに見える。
そばにいる。シアワセにする。
それはいまのままと言うことではないか。

新聞部の少年、まーくん、りょうちゃん、律。全部とってあるのだ。

その関係の全てが、スズメだ。
男だけでなく、親もそうだ。
実母、和子さん、きみか先生、三婆。皆、スズメの母だ。

父も複数いる。

ひとつひとつの関係に没頭して自分の中に取り込んで行く、スズメというエナジー場。

このようなあり方は、異常だ。
しかし理想だ。

旗振りとはこんなものかもしれないと思う。

めちゃくちゃに旗を振り回し前へいく。

名付けられない関係を描くこと。
その目論見も計画もなく、ただ結果としてそうなったんだろうと思う。

普通の恋愛ではなく、結婚ではなく、家族ではなく、自分の人間関係をつくっていくこと。
これは人間の人生の至上命題だ。
本当はそれは薄皮を剥ぐようになされる。

それを一気にやろうとした作品は大抵酷評される。

純と愛もしかり

それよりは、既存の関係をウチから深めて食い破る方が歓迎される。地続きだからね。

ひよっこ とか。
(ひよっこはめちゃくちゃ名作ですよ)

あるいはひとつだけの関係のオルタナティブをつくる。

奇跡の人 とか
(これもそれこそ奇跡みたいな作品)


それに比べると
半分青い は雑で落書き帳みたいで目も当てられない。
だから、褒めないけど
でも、今のような時代だからこそ生まれてきた作品だと思うよ。

スズメと律の関係は
友達でも恋愛でも夫婦でもなく
スズメと律という関係なんだ。
名付けるな。
それぞれであれ。

そういうことだとおもう。

ということです。

**************

なんで家族というのは夫婦という横の関係と親子という縦の関係しかないのか。
なんで男と女には恋愛/結婚か友達しかないのか。

恋愛ドラマに興味がないので、北川悦吏子という人にあまり注目してなくて、
作品リストを見ても三分の一も見てない。それに「半分青い」が良くできたのものとも思わない。例えば、スズメの娘のいじめの話は全くなくてもいいと思う。(いじめから逃げるのはアリだけど)律の前妻が結婚するのもなくてもいいと思う。(その前妻に祝いの花を贈るのはアリだと思う)大事なことを言葉で説明してしまうのはなし(「スズメは強い子」とかね)とにかくゴチャゴチャで詰め込みすぎてて、それゆえに記号や象徴の意味が曖昧になり機能不全となっている。

でもでも、スズメと率が結ばれてめでたしめでたしというのは「ない」
ラベリングせずに「あなた」と「わたし」の関係のままおいたことは、全くもって正しい。

わたしにとっての律は律一人や

これはいいセリフだと思うぞ。

というわけで、彼女の「新しい靴を買わなくちゃ」という映画を見てみた。
プロデューサーが岩井俊二で、彼のテイスト満載だった。

でも、これも主人公たちが結ばれない関係。
男は自分の仕事に納得できないでいる。
女は夫に裏切られ、さらに子供を失った過去を抱いて生きている。
その二人はパリで出会い、三日(?)を過ごし、結ばれてもいいのだが、そうはならず、別の明日に進む。対照的に男の妹とその恋人が同じパリで別離する。妹たちは別れるのだが、兄の方は二人の運命が交錯して離れて行く感じ。大人と子供の違いがある。妹たちは「恋愛」というラベルに拘束され、その関係が「恋愛」に収まらなくなったことで別れる。しかし、大人である兄(男)と女はそれぞれ自分の人生を生きていて、ある瞬間、交錯しであった関係を愛おしみ、大切にその関係を後にする。

人間関係のラベルに拘束されるのはナンセンスだ。

純粋に親子でしかない親子なんかない。
純粋に夫婦でしかないような夫婦なんかない。
純粋に師弟でしかないような師弟なんかない。

ある関係は親子みたいで夫婦みたいで友達みたいで兄弟みたいで
要するに「あなた」と「わたし」なんだよ。
だから、大事なんじゃないか。

ということを、ひっくり返したおもちゃ箱みたいな物語の中に見出したわけで、
それは大事なメッセージだと思う。

誤読だったらごめんね(北川さん)

**************

昨日、渋さ知らズに行ってきた。
もう最高!

しっかり汗かいて、大騒ぎして、
帰ったら、すっとお風呂に入れた。
(ダウナー傾向の人はお風呂に入るのが大変なんですよ。
 風呂場に行くのがめんどい、
 脱ぐのがめんどい、
 湯船に浸かったら出るのがめんどい、
 体を拭いて服を着るのがめんどい
 ほんとめんどい)
これはすごい。

それでよく眠れる。
最高だね。

暮らしに寄り添う音楽
高尚なお芸術様じゃなくて
安っぽい癒しじゃなくて
しょうもない承認欲求の道具じゃなくて

しっかりしたスキルとエネルギーに満ちた
アメノウズメの音楽

毎日、これをどっかで中継してくれたら
日本からうつ病は無くなるよ。

ここんとこ色々生活が散らかってて
かきかけの記事がたくさんあるのに
かき終わらないので連ツイを再録してみました。

**************

今日の夕飯

海鮮丼
お澄ましの豚汁
(味噌が切れていたので)







takeyabu31 at 22:53|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック ドラマかたり 

2018年09月17日

道の駅「かでな」からみた「嘉手納基地」はなんだったのか。

先月末に沖縄に行ってきた。
四泊五日で沖縄中部に滞在し、首里城、識名園、斎場御嶽(せーふぁうたき)、ひめゆりの塔、比謝川でのスタンダップパドルでマングローブ観察、美ら海水族館、今帰仁城址、佐喜眞美術館(丸木夫妻の沖縄の図、普天間基地)、嘉手納基地を回った。

非常に興味深く、ちょっとハイになるくらいだったし、夫婦して沖縄ブーム。
早速三月に再び行くことにした。

その中で、突出して印象が曖昧なのが「嘉手納基地」だった。
その時のツイート

道の駅かでなの屋上にしばらく立って手すりにもたれ、基地をじっと眺めてた。
でも、何を見ているかわからないのだ。
沖縄についてすぐからずっと基地があって、色々思ってきたのに
嘉手納基地については、何も言葉にならず。
思うことが多すぎて言葉にならないのではない。
全く「わからない」とあるが、本当にわからなかった。
一般的には、このリンク先に十分に書いてある。
しかし、竹薮としては今見ているものはこれと違うと感じられた。
猛烈な疑問。これはなんだ。
これが29日なので、10日間ほどもやっと頭の中においといて
ようやくわかった。

それが絵葉書だ。

沖縄には電車がないので、空港についたら即レンタカーで、空港にはレンタカー各社のスポットがあって自分の契約した会社の送迎バスに乗って事務所へ。車を借りて出発。そんな感じだ。
するとほどなく、

それ以来、ナビの画面の中にも視野の中にも基地基地基地。
どういうわけか、滞在中に一度も軍用機の飛ぶのに出くわさなかったけど、とにかく基地基地基地。

いちばんぞわっとしたのが普天間基地だ。
普天間基地は佐喜眞美術館の屋上から見た。
基地そのものはこんな感じ。

だが、この基地を望む屋上から下をみるとこうなる。

左側の黄土色は美術館、右側の灰色は基地だ。
もし竹薮がうっかりスマホを落としたら、基地内に落ちてしまう。
「すいませーん、屋上で写真撮ってたらスマホ落としちゃって〜」
「あらあら、ちょっと見てきましょうね」
とかいうわけにはいかないことになる。
そもそも佐喜眞美術館自体が普天間の基地返還の中で生まれたものなのだ。
その顛末はこちら

嘉手納はその後で見たもんだから、本当に混乱した。これはなんだ。

で十日余

ようやくわかった。
きっかけは、中国からの観光客が道の駅かでなにくるというものだった。
そうか、観光スポットなんだ。

観光目的がいけないというのではない。
みる視点の問題だ。

例えば、博物館にある屏風とかはかつて殿様たちの生活空間の中にあった。
器はそこに食べ物が盛られ、人が手にとっていた。唇を当てていたものだ。
本来はありがたく拝見するものではない。

佐喜眞美術館の屋上から見下ろした普天間のフェンスは竹薮が直に経験したものだ。車で走っていて突然視野に入ってくる基地も経験したものだ。でも、嘉手納は経験できてない。見ただけなんだ。望遠鏡があって、マスコミの取材陣が常駐していて、本当に御誂え向きのスポットで、ほらみろという具合に眼前に現れる嘉手納基地。その有様を単に情報として受け取ってしまう。絵葉書を見て、それが見たことになってしまう。この違和感がわからないだったのだ。

そうすると、恐ろしいことになる。
つまり、本土の人間が知る、沖縄は表層だということ。
情報に過ぎないということ。
あれもこれもきっと単に情報なんだ。

それは沖縄に限らず、いろいろなものがそうだ。
知ったつもり、経験したつもりになっていて、実はわかっていない大事なこと。
そういうものがあるということ。

春にまた沖縄に行く。
どうすれば嘉手納基地をちゃんと経験できるだろう。
課題である。

**************
<昨日の夕飯>
中華丼とモロヘイヤのスープ

昨日は大人の国語だった。
受講生の方から、空芯菜とモロヘイヤをいただいた。
朝採りならぬ「さっきどり」とのことで
モロヘイヤは買ったのより作ったのの方が本当に美味しいので作っているとのこと。
で、早速いただいた。
本当に美味しかったです。

大人の国語は本当に人数が固定されていて新規拡大ができていない。
主催者は頭を痛めてる。
固定メンバーは素晴らしい方々でこれはこれでずっと続けていけたらいいなあ、
とはいえ、新規拡大もしたいところ。
本を一冊読んできてというのがハードルが高いのだろうか。

今回は石井光太「世界で一番のクリスマス」だった
受講生の中には他の作品も読んであまりに素晴らしいので課題との落差に驚いたという声もあった。
また、考えていなかったことを指摘され、ああそういう視点もあるなとそれについて話したり、本当に豊かな時間なのだが、共有してくださる方はおられませんか?







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2018年09月07日

一夜明けて、平成最後の夏に

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こんなツイートを見た。
爺「あれは平成最後の夏の事じゃった…」
家族「(また始まった)」

爺「40度を超える圧倒的猛暑、
  200人超の死者が出た未曾有の豪雨、
  大阪の大地震、
  主人公金足農業、
  台風21号による関空沈没、
  北海道大地震、」
家族「(いくらなんでも盛りすぎでしょ)」

本当に。
昨日、朝から仕事だったので映像を見たのは報道ステーションだった。
厚真の山崩れの画像は衝撃だった。
3.11の津波のの映像もすごかったけども、これもまた。
人間は大地と海の安定の上に生活を成り立たせている。
その海が荒れ狂い、空が裂け、大地が震え、山が動く。
このような例えは人間の感覚からは至極当たり前で、大自然が怒っていると感じる。
その結果、ただの自然現象とはおもえず、すぐに自分との意味関連を考えてしまう。
天罰だと。
人間の驕り高ぶりを戒めているのだと。

東日本の時は幸か不幸か石原がいち早く発言したので、みんなでそれを否定できた。
しかし、今回はこの夏の異常さの連続から、
日本中が厭世的な気分になるだろなと危惧する。

竹薮自身、一夜明けて参ったなあと思っているのだ。
北海道に何人か知人がいたのだが、その人たちのことを思い出しすらしなかった。
ごめんなさい。
それほど、情動にロックがかかっている。

だからこそ負けないとか復興とかに走るんだろうけど、
そういう量のエネルギー消費ではなく、
肝心なのは、もっと淡々と自分と自分の暮らしを大事にすることだろうと思う。

TwitterのTLを眺めていたら
NHKの高瀬アナが原稿にない発信をしているとあった。
彼は防災士の資格も持っており、有効な発信をしているそうだ。
北大の相撲部がチャンコしますと発信していた。力仕事も出来る限り対応しますと。
熊本の酪農家さんが乳牛の捨ててしまった牛乳の補償のシステムについて拡散してた。

各人か各人のできることを被災者に向かって呼びかけている。
いいことだ。

自分と自分の暮らし。自分の持っている能力を明確に使う。
これだと思う。
というわけで、問題主婦を更新しようと思った。
「復興だーーー」「絆ーーーー」「〇〇がーーーーーー」
という感情の量的消費ではなく
自分と自分の暮らしをしっかり立て直して
思い浮かんだ誰かに届く明確な行動をしよう。
と言葉にすること。

この世の終わりではないです。
この世は終わらないです。
でも、一人一人が自分の生活をごまかさないでちゃんとして
誰かのことを考えてその人のためにやるべきことをやる。
ほんの小さなこと。でも確かなことを。
それが肝心だと思います。

わたしはテレビやPCやスマホを見て
呆然と打ちひしがれている、わたしの大切な友人知人たちのことを思いました。
そして、この記事のようなことをサクッと書いてLINEに投げました。
共感するという反応が帰ってきました。

そうやって共有することが社会的資源になります。

皆さんはこの夏の経験を誰とどのように共有していますか。
マスコミや大文字の言葉ではなく
血の通った身にそう言葉で近しい人と共有していますか。

どうか日々お大事にお過ごしください。



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2018年08月24日

「君の膵臓をたべたい」の示すもうひとつの関係



「君の膵臓をたべたい」という映画を見た。
通常なら見ない部類の映画だが、この少し前に友人のまりさんが、原作者住野よるの「よるのばけもの」という小説に非常にインスパイアされていたので、どんなもんだろうと見た。

「君の膵臓をたべたい」と「よるのばけもの」は作者曰く次のような関係にある。
『今ちょうど執筆している小説が、双葉社さんから出る予定です。これはどんな作品かというと、100人の僕の作品が好きな人がいるとして、70人は『君の膵臓をたべたい』が好きといって、27人が『また、同じ夢を見ていた』が好きといって、3人がその3作目が一番好きといってくれるような感じです(笑)。』
出典はここ
なるほど。100分の70と100分の3ということだが、70の中にも3は十分感じられるわけで、そのことは十分に見て取れた。

ヒロインは膵臓の病によって余命いくばくもない。
そして、そのことを「ないもの」であるかのように生きている。
家族は当然知っているが、「彼女」と同じように病気になるまえと同じ日常を必死に取り繕っている。なかの良い友人もいるが打ち明けてはいない。なぜなら「泣いちゃう」から。この辺りの表現がヤングアダルトの表現になっているが、普通に行けば「受け止められない」からとなるだろう。家族は「受け止め」た上で以前と同じような生活を送る。これもひとつの方法ではある。しかし女子高校生である「彼女」は、別の生活を考えるのだ。もうすぐ死んでしまう自分の死までの充実した生活。その伴奏者となるのが「僕」。

「僕」はクラスの境界線のギリギリのところにいる。人間よりも本が好きで、いつも学校図書館にいる。「彼女」は「僕」を友達でも恋人でもなく<なかよしさん>と呼ぶ。学校では親友がボディーガードみたいに「僕」を睨むし、「僕」がスクールカースト上多分アウトカーストなんで、カースト上位の「彼女」と関わると学校生活に混乱が起こる。だから二人は親のいない「彼女」の家とか旅とか深夜の病室とかで関係を作って行く。カースト外の領域だ。

ここで見えてくることがある。
カミングアウトと日常の外部ということについて。
カミングアウトというのはその情報がその集団の秩序になじまないからこそ、「隠して」いたものを「表出」することだ。例えば、犯罪的な行為とか性的少数者だとか、浮気とか不倫とか。
自らの何かが、本質的に反社会的であると思わないならば、「表出」することは自己主張だ。だから、どんどんカミングアウトすればいいと思うが、問題はそれを受けた社会の方が、そのことを認めないことだ。本作の場合だと親は「日常を取り繕う」し、親友は「泣いちゃう」だろうから、カミングアウトされたことを認めて、自分の生活を再構成することができない。

だから「彼女」はカミングアウトしなかった。

しかし「僕」にはした。なぜか。
二人の日常がさほど交錯しておらず、「僕」は「彼女」の「死」を環境として/自らに関わりないものとして、受け入れたからだ。つまり大きく影響を受けなかった。
外部には言える。
「僕」は村の外れの巨木の空洞のようなもので、「彼女」は自分の生活に生じた新たな空間に夢中になる。携帯もその一つ。携帯は日常空間をワープして直接相手に届くからね。

ともかく、こういう存在が一つの集団の中にいることは非常に重要なこと。
巨木の空洞は集団の内圧を下げる。

「彼女」の周りには何人かの人物がいて、典型的な学校集団を形成しているようだ。
*親友の女子:
元々は孤立していたが、「彼女」によって集団の内部に入れた。かつて孤立していたけど、今は彼女に出会って人間関係の大切さを実感している親友のような存在だからこそ、「彼女」を「僕」に奪われるのではないかと、ストレートな不安や怒りを「僕」にぶつける。
*委員長:
カースト上位にいるがゆえに上から「僕」をフォローしようとするが実はカーストにこだわって、そこでプライドを満足させている人物。
*ガム君:
集団の内部に存在しながら、自由にカースト内を移動できるキャラ。ガムいる?が口癖で、絶妙に「僕」と関係を維持し、「僕」を支える。(ガムは板ガム。そうだろうなあ。板でないとな。一枚指で押し出して、いやいい、と言われたら戻す。ここが大事だと思う。粒ガムだと感じでない。)

カースト上位の彼女がカーストなんぞ無意味だという感性を持っており、カーストを換骨奪胎して高校生活を生き生きと暮らせる人物として描かれ、そうだからこそ、自らの「死」を前にしてカーストの外に出て「僕」と出会う。カーストの内外を移動可能な「彼女」はある意味無敵だ。しかし、無敵でも、大々的に「ちょっとみんな聞いて!私ね、やばい病気になっちゃって、もうすぐ死ぬの」とは発表できない。それは学校という秩序になじまないから。

カミングアウトは何のためになされるかというと、当事者の自己主張として、自己実現としてだ。
「彼女」は「僕」にカミングアウトしたことで、死病を持った女子高生としてのビジョンを実現できた。そして、二人の間には望ましい人間関係が形成された。

しかし、それが実現できないとわかっている時。当事者の表現が届かず、認められないと推定される時。これは、表現すべきとはなかなか言えない。学校の中に「僕」や「ガム君」がたくさんいればいいんだけど。なかなかなあ。

竹薮は、「僕」兼「ガム君」のキャラなのでカミングアウトされまくる。あれやこれやもう大変で色々言われまくる。カミングアウトされたことがないという人は、それはもう多数派、現状維持派と思われているということで、秩序のど真ん中の人に見えるということかもしれないね。

さて、物語は「僕」たちが高校生だった頃と、大人になった現在の両方が描かれていて、「僕」は母校の教員になっているのだが、相変わらずアウトカーストを生きている。そしてやはり図書館にいる。

アウトカーストの領域としての「本の世界」も重要だ。
高校生で死んだ「彼女」からの伝言は、現在の図書委員(僕と同じようなキャラとして設定されている)の手を通して「僕」に届く。本の世界が外部だからこそ、伝言はそのまま保存されていたわけだ。

領域に外部があること。
これは本当に大事だ。
そして、その外部への通路がしっかりと守られていること。
その通路は一方通行ではなく、行き来できるものであるということ。
その通路を通って外部に出るもの。
通路の入り口の鍵を持つもの。
帰ってきたものを迎えるもの。

通路のことなど知りもしない多くの人間の他に
通路をめぐる様々な人間がいることが望ましい。

また通路は一つではなく、たくさんある。
地面を掘るもの
空を飛ぶもの
壁を抜けるもの

そうやって秩序は維持されてきたはずだ。
閉ざされた世界では更新できないのだから。

住野よる氏は現状変革など考えていない。
現状の中で一家に生き延びるかを考えている。
なるほどと思う。

なにせ、現実は猛烈に強い。
だからこそ、彼女は抹殺される。
暴力的に。
死ぬとわかっているのに、病気で死なないで通り魔に刺されるってなに。
それほどに個人の生を全うさせないのが、現実だ。
死すら自分の死を死ねない。

なるほどなあと感心した。住野よる氏はかなり構造的に考える人物のようだ。
「りはめ」とか「はまち」より、ずっと骨組みがクリアだ)

だから下手に闘わないで、ただひたすら自分の命を生きる。
それでいいのだと言われたような気がした。

「生き延びること。それが私たちに残された唯一の抵抗の手段なのよ」
これはパレスチナのある人の言葉だが、
今、日本を生きる私たちだって、生命の危険こそあまりないが、魂は猛烈な危機に瀕している。
ゼロ年代はヒーロー、ヒロインは世界の終わりと闘ったが、そんな時代は去ったのだ。

そう思えば、生き延びる。
それが目標かもしれない。

もう一度ゼロ年代の想像力読み直そう。
3.11後に読むと違う読みができるかもしれない。



**************

先週は悲惨な体調で寝込んでいました。
大人の社会科も休講してしまいました。
暑さにやられて、電解質のバランスを崩し、丸三日の腹下し。いやあ、消耗しました。せっかくの夏休みなのにもう24日。あと一週間で終わりです。なんだか、損した気分。

でもまあ、ようやく昨日あたりから体が戻ってきて、ほとんど横にならずに過ごせました。
日曜から沖縄に旅行します。
ちょっとドキドキしています。

さあて、台風一過の大風の中でかけてきます。
超久しぶりのCURVESです。
買い物もしなくちゃ。

「君の膵臓をたべたい」「よるのばけもの」買っちゃうかも。

<昨日の夕飯>
なんとかいうサメ を煮ました。
甘辛く、生姜で。
一番コラーゲンプリプリのところを竹薮がいただきました。

キャベツと穂先メンマの和え物、
いんげんのゴマ和え

豚汁

今日はなんにするかなあ?
まだ不明。
麻婆ナスかな。




takeyabu31 at 15:03|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえの本棚(書評) | 婦人口論(批評)

2018年08月10日

道徳は一般的ではないということについて(本編)

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 近代思想において道徳性は、しばしば法と結び付けられてきた。しかし、道徳性が問われる個々の行為や出来事は、きわめて個別的な性格を有しており、それを単純な原則によって割り切ってしまうことはできないし、そうしたところで問題は解決しない。道徳性とは、単に法を当てはめ判決を示す裁判のような行為ではなく、個別的な人間関係の持続性のある発展と修復に関わっている。
河野哲也「道徳を問い直す」より

夏期講習のテキストに入ってて、読みながら深く感じ入るところがあった。

人間生きてれば、いろいろある。
悪事というほどのことではなくとも、でも悪事を働くことがある。
例えば、親の財布から小銭をくすねたことのある人は少なくないだろう。
竹薮は、しょっちゅう父のタバコ入れからタバコを二、三本抜いていた。

それは悪いことである。
そして、それが頻回になった。
それならと親がその悪事を止めようと子どもを糾弾した。

その上で、家に一切金銭を置かないという方針にした。
金銭がないのでは小銭をくすねることができない。

めでたしめでたし

で、いいのか?

親の財産権は守られた
しかし、子どもの手の問題はノータッチだ。

人の財布に手を出すという行為の背後には、手を出すマインドがある。
財布を守ろうとする親は金銭を家におかないことによって財産権を守ったが親子関係は失った。子どもは親の心に通じる道として財布を選んだのだろうが、その回路が断たれることによって子どものマインドが次になにを手段とするのか、想像するのが怖いが。

しかし、大抵、親は毅然とした態度をとったとか、断固として不正をただしたとかいうのだ。

親のすべきことは金銭の処理ではなく、子どもとの関係改善あるいは子どもの状況把握、改善だ。


竹薮の職場でも「あいつテストの点数ごまかしてる」とかの事件が起こる。
そこで、採点方法やなんやかんやを検討する。まあ、それは職場としては大事だ。
何故ならば、テストの有効性、正当性は重要だから。しかし、その問題の生徒についてはノータッチだ。不正を報告するものは自らの側に正義があると思っている。しかし「正義」しかない。そのものはなんの権利侵害も受けていない。だが、「正義の人」は不正を許さない。それならば、その不正に向かえばいい。お前さあ、なんでテストの点数ごまかしてるの?とか。これが一番いい解決策だ。何故なら当該テストはクラス内で行われており、その人間関係の中でどちらが上かという相対性を争っているのだから。しかしまあ、これは無理だろうなあ。結果、問題に蓋がされ、より厳しい小テストの実施に向かう。問題を認識しないからだ。
ズルをする奴が悪い。それは決定されており揺らがない。

これほど問題認識は困難である。

そもそも絶対的な悪はない。
悪があるということは善との相対関係においてある。
よって悪を生み出したのは善とも言える。
だから、問題は善と悪を巻き込んで解決されるはずだ。
しかし、大抵、解決=悪のカットオフと設定される。
よって問題は再発する。
善と悪の関係改善がなされないからだ。

認識の訓練、考える練習として絶好の課題なんだが、
そのような思考練習がされることは少ない。

善の自己反省がないところに悪の消滅はない。

先の引用の次の段落には以下のような記述がある
道徳性とは、相手のニーズに対して共感的にケアする態度をとり、必要であるならば、そのために社会制度の改革に着手する過程のなかに表現される
このような実践がなされるには早期の対応が肝心だ。善と悪の隔たりが少ない段階だ。大きく隔たってしまうと「共感的ケア」は難しい。善の側も傷ついてしまっているので、ケアの余裕がなくなってしまう。

もう一度書く。
善と悪は相対的関係にある。
切り離されてはいない。

何かを悪を見たとき、その問題行動を善と悪の間で共有することが望ましい
それが困難であっても、そこにつながるように認識を深めることが大事で、単純な正義感や善の正当性の主張では問題解決はない。

**************
上の写真は近所のイチジクの木
竹薮はイチジクが大好きだ。
夏休み、徹夜で本を読んで明け方朝露に冷えた実を頬張るのが、なんとも美味だった。

一昨日翁長知事がなくなった。
膵臓癌は難しい。
それにしても、この時期に翁長知事がなくなるとは。

そんなとき、沖縄出身の元生徒からLINEメッセージがきた。
人生の大きな一歩を踏み出したと。
葛藤だらけだけど、竹薮の言葉や姿勢が後ろを支えていると。
そんなことは絶対なくて、彼は自分の意志で生きている。
そのことを<共有させて>くれている。うれしいことです。






takeyabu31 at 22:59|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) | 竹薮組(若いもんのこと)

道徳は一般的ではないということについて(その前)

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ようやく夏期講習が終わった。
いや今回は辛かった。
竹薮は働いている校舎が少ないので講習はゆるゆるしてるのだが、
今回はなんだかコマが集中してしまい、午後1時から9時まで80分5コマのノンストップ五日間。この期はクラスの人数が多いクラスがあって、本当に疲れる。10人以下のクラスと20人以上のクラスではエネルギーの使い方が全然違うのだ。トップギアで回し続ける消耗感。その上、1日目が台風で休講になったので、その補講も必要で、後ろ半分の三日間は5コマの前後に40分ずつ足して1コマ分の補講なんかしたもんだから、12時から10時までノンストップになった。もう息ができない状態。

その後、間1日を挟んで、次の五日間は朝の9時から午後2時20分まで3コマ、その後5時間あいて7時40分から9時まで。という残酷な時間割。最後の1コマはなかったのだが、他の講師の都合で回り回って竹薮のところに来た。この5時間は大変。一度家に帰るのもこの天気だし。というわけで、人に近所まできてもらってお茶したり、iPad映画をダウンロードしてみたり、頑張って新宿に行って映画を見たりした。この五日間の出来事はあとで思い起こすときっとすごく意味のあることと思われるはずだ。

新宿まで見に行った映画は「カメラを止めるな」
この映画は「多層的な自己言及性」でできている。
ということは、この五日間にあった3人の友人は竹薮の中の多層性を形成し、その人たちと何時間も喋るというのは自己言及しているのだ。竹薮の第一テーゼは「様々なものが複雑に絡み合って生きている」というものだが、これって自己言及の一面も持ってるなと。

いや、まあ。なんかね。
うん。

で、そんなこんなで講習が終わり、翌日
職場の集まりがあった。
どうやら竹薮はすべての講師の中で一番の古株なんだそうだ。
で、腕時計をいただいた。(竹薮以外にも20年、10年勤務している人たち全員だ)
それがこれ
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なんとかいうブランドなんだそうだ。
全然よくわからん。単なる外見の印象で選んだ。

実は、竹薮は腕時計をほとんどしない。
結婚する時、アクセサリーに興味がないので、タケヤマが時計を買ってくれた。
それも早々になくしてしまった。あちこちで外してしまうのだ。

でもなんか、この時計。ちょっとなんか鎧っぽい。
というわけで身につけてみようかなと思ってる。

自分の時間というイメージだ。
自分の時間を自分にまとうって大事だろうな。
そのことに腕時計は必要ないけども象徴的に存在してる感じ。

職場は、
歳を取っても
頭がはっきりしてて
健康で
気力があるなら
続けて欲しいという方針だそうだ。

そうですか。
気力だけなら
そこらへんの若いもんには負けないぞ、なんちゃって。

というわけで、まだまだ仕事しろということらしい。
逆に見えなくなった人もいて。
う〜〜む。

**************
<今日の夕飯>
ずっと外食だとなんとも変な気分。
昨日はタケヤマのリクエストでピザを焼いた。
うまかった。

本当に竹薮は
自分で作って自分で食べて、
「なにこれ美味しいじゃん。わたし天才?」
という流れが本当に幸せ。

今日は
鮭のムニエル
鶏の生姜和え
豆腐とレタスの卵のスープ

で、お盆でもある。
お供えの果物と和菓子を買って供えた。
それからお花も。
明日からは高くなるからね、今日のうちに。
今日は三日分のメニュ一をつくろっと。

写真は講習中に咲いて開いたところを見られなかった花。
久々にCURVES行ったら右肩が固いのがわかった。
CURVESにもいけないくらいのタイトな時間割になりませんように。

さて、全然表題に入らなかった。
あはは。
一回ここでアップ。
以下は、その前提になる文章
 近代思想において道徳性は、しばしば法と結び付けられてきた。しかし、道徳性が問われる個々の行為や出来事は、きわめて個別的な性格を有しており、それを単純な原則によって割り切ってしまうことはできないし、そうしたところで問題は解決しない。道徳性とは、単に法を当てはめ判決を示す裁判のような行為ではなく、個別的な人間関係の持続性のある発展と修復に関わっている。
河野哲也「道徳を問い直す」より


takeyabu31 at 17:52|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) | 長電話(日記/告知)

2018年07月26日

私は違うという表現

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夏期講習中である。
明後日から超ハードな五日間があって
さらに五日間踏ん張って過ごしたら、夏休みだ。
で、そのおまけの五日間に
人に会う約束が二回入ってる。

みんな鼻が効く。
今週もひとつあった。
あ、学期末にもひとつあった。

若いみなさん、なんというか分別にくるのだと私は思っている。
私は容赦なくダバダバ断捨離するので。

その中で今回気になったのが「相対主義の絶対性」という問題。

相対主義というのは「みんな違ってみんないい」というやつだ。
で、それを突き詰めると、隣で何をしていようが「人それぞれ」だからいいという立場で、隣で危険さサリンを作ってようが、それは人それぞれといってしまう。それを相対主義の絶対性という。問題にコミットしないのだ。

そういうことになるでしょといったら、そうですね、と答えた。
それでいいの?
「そこを話し合い続けたら平行線で疲れます。」
「余計にストレス溜まります。」
で、どうするの?
「距離をとって離れます。」
問題は解決してないよね。

そこへ、うってつけの例題が降って湧いた。
電車で幅とって座ってる人がいて、自分との間に妙な隙間が空いている
もっと詰めればもう一人座れるのにな。

竹薮的解決法。
自分がもっとその幅とってる人の方に詰めれば良い。ぎゅっと。
そして、もう一人座らせれば良い。
でも大抵の場合は、
自分は動かないで、その幅とってる人が意識を変えればいいと思ってる。
それってちっとも問題解決しない「意識高い系」だよね。

外に出すんだ。表現を。
詰めろと。
それが言えないんなら、ぎゅっと詰めてだれかを座らせてしまえば、その問題には三人が関わったことになる。見てる人も含めたら、もっとだ。自分が心の中でもっと詰めればいいのになと思ってるだけでは、問題の共有はできないし自分の気持ちも誰にも見えない。
つまり何もなかったことになる。

どうして自分の意思を表現しないのか。
そこが竹薮はわからない。
どうして問題解決しないのか。

例えば、そこに足の悪い老人が来たとしよう。
「自分」はどうするのか、おそらく立って席を譲るのだ。
しかし、ぎゅっと詰めて隙間を広げ、そこに老人を座らせればどうなるのか。
「自分」はその幅とって座ってた人に「ありがとう」と言えるのだが。

どっちが展望が開けるか。
後者だと思う。

トラブルそれ自体が悪いのではない。
起こったトラブルに対処できないことが悪いのだ。
さらに、対処とはまず、「誰と何を共有するか」ということなのだ。

この場合、共有する相手は
幅とって座っている人なので、その人に
にっこり笑って、ごめんなさいといってぎゅっと詰めるのだ。

大阪のおばちゃんの得意な手法だな。

共有するためには「それは違う」とか「私はそう思わない」と言わねばならない。
何も言わないでは問題共有はできないのだから。

さあ、言ってみよう。
でなければぎゅっと詰め寄ってみよう。

もちろん、表現には様々なバリエーションがある。
やさしく穏やかに
「あのー、すいませんねえ。もうちょっと詰めてもらえるとね、ほらもう一人座れるんだけどぉ、どうでしょうかぁ」とか
電車の中じゃなくて毎日会う相手とかなら、おはよう、暑いねから始めて人間関係を作るとかゆっくりゆっくりやるのもアリだと思う。

だいたい、みんなが竹薮に連絡してくるのだって、竹薮がうるさいくらいにワーワー言ってるからでしょうが。竹薮は早晩死にます。みんなよりずっと早く。だったら、みんなが竹薮にならないと連絡する先がなくなるんだよ。

というわけで
表現しましょう。倦まず弛まず
今から。

**************

昨日から夕がた洗濯している。
洗濯物をベランダに干すと気化熱でちょっと涼しくなるような気がして。
朝、日が昇ってしばらくしてから入れるといい塩梅のような気がして。
夜干しは良くないというが、背に腹は変えられない。
昨今の暑さのゆえに。

で、空をながめたら、あら?満月?
と暦を見たら土曜日だった。そうか。

いや昨日から涼しくなって嬉しい限り。
エアコンを切って窓を開けていられるのは本当に気持ちいい。

昨日は午後いっぱいリビングの床に寝っ転がって

↑ これを読んだ。
生徒に熱心に勧められたから。
昨年読んだ「りはめ」ほどの衝撃はなかった。
うーーん。なんなんだろう。
なぜなら、この本に書いてあることは起こらないからだ。
現実には起こらないことだ。
なぜなら、ぎゅっと詰めないから。
問題共有しようとしないから。

写真はぷっちょの新製品。
割と当たり
新製品を見たらとりあえず買ってみる派です。

<今日の夕飯>
讃岐うどん
かき揚げ、豚肉紅生姜天
トマト、きゅうり

今日ぐらいの暑さなら天ぷら揚げようかという気になります。

ここんとこ、
TVerにコードブルーが全部上がってるので見てますが
なかなかいい脚本ですよねえ。
林宏司脚本です。NHK版ハゲタカの脚本家。

さあて、ハゲタカ見ながら寝ましょうか。








takeyabu31 at 23:02|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) | 竹薮組(若いもんのこと)

2018年07月23日

酷暑です。

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いやあ、暑いですね。
今日が一番暑いような予報です。
地元の予想最高気温は38度です。
もともと暑いの嫌いなので本当に困ります。

昔はこんなに厚くなかったですね。
新しもん好きの我が家でもエアコンはなかったです。

夏は、我が家の真ん中にあった鉄平石の広い廊下にゴザを敷いてごろごろ
蚊取り線香、スイカ、ひまわり、セミ、
夏の気配が濃厚で、そんな中でゴロゴロ
文学全集や、長編小説は大抵夏休みに読み進みました。
吉川英治は夏のイメージです。

1学期末から夏期講習の間に大人の国語が挟まったせいで
休みがなかったのが先週の金曜でようやく一段落。
土日は徹底的にゴロゴロしました。

今日から始動しようと昨日計画を立てて
今週の土曜日からの死にそうな時間割の準備をするはずが
早起きできず。結局7時。いかんですなあ。

酷暑の中CURVESに行って買い物しようと思ったら、財布が入ってなかった。
おい>自分
家に帰って再出動。

外で空気を吸うと暑い。

さて、今日から1号がグループホーム入居に向けて「お試し」が始まる。
精神障害者のグループホームというのは普通のアパートのようなもので
管理人さんが服薬管理をするというようなシステムだ。
近くにいつも管理人さんが入れくれるのは安心だ。
今日は一泊、来週は二泊。
その上で審査があって、入居が決まる。
入居できれば自立になる。
障害者年金も降りた。
年金とあわせて就労して生活費を稼ぐ。
前職の時ほどいい稼ぎではない。
でも、年金があればかなりいけるはずだ。
ともかく、自分で暮らして行く。
まずは三年間。
そのあとはホームを出て民間に移動だ。

できるのかなあ。
親の目の見えないところへ行くのは成長だ。
何も知らせがないのなら、良いということだ。
見えないものを信じられるか。

親って難儀だな。
いつまでも試される。

**************

今年はハイビスカスの花が結構咲く。
やはり冬の非難が早かったのがよかったのかも。
一つの枝で花芽が三つついたりしてる。
うれしや。

<今日の夕飯>
銀ダラの大根の煮物
小松菜とエリンギのおひたし
人参とピーマンのきんぴら

味噌汁はなんにしましょうね

7月期のドラマなんとか見てます
これまで見た範囲では以下かな。

この世界の片隅に(日曜日9時)
青天目ちゃん(松本穂香)がすずちゃんなんだけど、すごくいい。
もうめちゃくちゃいい。
岡田惠和脚本

健康で文化的な最低限度の生活(火曜9時)
最近、素晴らしいカンテレ。
生活保護に挑む。
生活保護制度の本当の意味を広報するだけでも有意義。

義母と娘のブルース(火曜日10時)
これは森下佳子脚本 逃げ恥同様、母親を契約でというコンセプト。
なかなかの内容です。

高嶺の花(水曜10時)
なんと野島伸司脚本
で、峯田和伸なんでこれまた楽しみ。
峯田はもちろんだけど、石原さとみ嬢のバカ笑いと啖呵がなかなかいい。

ハゲタカ(木曜10時)
これはなあ。一回見たけども、こうちょっと。
反動でNHK版を一気見してしまったほど。
が、オリジナルストリーの現在があるというのでみるかな。

透明なゆりかご(金曜10時)
沖田×華の漫画原作のドラマ化。
原作があまりに素晴らしかったので危惧されたが、
全く別物として視聴するつもり。

dele(金曜11:15)
まだ始まってないんだけど、みる予定。
この枠は画期的な名作が生まれている枠だし。

今年の夏は画期的な夏。
色々な物事が動く。
そんな感じです。



takeyabu31 at 15:38|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック とんまの親子(子育て介護) | 長電話(日記/告知)

2018年06月29日

国を愛する表現をもってますか(2)


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今朝、「ぐんくつのあしおと」という表現をみた。
そこ以外のところは適切に漢字表記になっており、けプロフィールを見ると、小説家、研究者などとあるので、このひとはあえて、このような表記にしているのだと思われた。ということは、「ぐんくつのあしおと」という表現が他で散見され、そのような表現をとる考え方の象徴として
「ぐんくつのあしおと」という言葉を使ったのだろう。



「ぐんくつ」とは正しくは「ぐんか/軍靴」だ。そして、靴音(くつおと)とはいうが、靴の足音とは言わない。普通は軍靴の音(ぐんかのおと)、あるいは軍歌の響き(ぐんかのひびき)だろう。それを「ぐんくつのあしおと」と言ってるわけだ。

この言葉をつかえるのは、「ぐんか」という音を耳で聞いたことがなく、目で見ただけで「ぐんくつ」と表記しているのだと思う。さらに、もし声に出していたら「ぐん『ぐつ』」になるはずだ。つまり声で誰かと共有されたことのない言葉なのだ「ぐんくつ」は。

こんな記事を見かけた。
軍靴の足音(ぐんくつのあしおと)とは、国家が大きな戦争に巻き込まれてゆく過程で聞こえてくる足音である。軍靴を「ぐんか」と読む間違いが多いが、「ぐんくつ」が正しい読み方。2chでは正しく読める人が多い。先の大戦の悲惨な記憶が薄れつつある現代日本は、すでに軍靴の足音だらけだ!


驚くなあ。本当に驚く。

しかし言葉とはそういうもんだろう。その言葉を使う人の使い方で通じていれば、その通じる量が拡大すれば、それが今の生きた言葉なのだ。

例えば、Google検索で
ぐんくつのおと 約 754,000 件 (0.54 秒)
軍靴の響 約 66,800 件 (0.70 秒)

ネット上では勝負はついている。2chでの消費量の性であるにしても桁が違う。1割以下なのだ。もう数年したら、軍歌(ぐんか)という音はどっと減って「ぐんくつ」あるいは発音しやすい「ぐんぐつ」になるのではないか。その時にこの言葉はどんな文脈を持つのか。そこが問題なのだ。発音ではなく。

平和をかたる言葉は絵葉書であってはならない。
それは生きた人間の中から発せられたものでなくてはならない。

「マントルの熱を伝える大地」「心地よい湿気を孕(はら)んだ風」「草の匂いを鼻孔に感じ」「遠くから聞こえてくる潮騒」「岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波」「山羊の嘶(いなな)き」「畑に続く小道」これらの最近聞いた言葉は、私には絵葉書に思える。作者が感じた草の匂いが沖縄の草であるかどうか。もっと抽象的な想像上のイメージの草のように思える。岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波は世界中どこにでもある。この風景は記号だと、竹薮は感じる。ネット上では圧倒的に好評価で絶賛されているが。

たいして
1995年10月21日の米兵による少女強姦事件への抗議集会での高校三年生のスピーチ
「ヘリコプターはもう、うんざりです」
 
 私はごく普通の高校3年生です。 
 たいした言(こと)は言えないと思いますが、ただ思ったことを話します。 
 この事件を初めて知った時、これはどういうこと、理解できない。こんなことが起こっていいものかと、やりきれない思いで胸がいっぱいになりました。 
 この事件がこのように大きく取り上げられ、9月26日、普天間小学校で、10月5日には普天間高校で抗議集会が開かれました。
 
 高校生の関心も高く、大会に参加したり、様子を見守っていた生徒も少なくありません。そんな中、私はこの事件について友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか。彼女のプライバシーは、どうなるのか。

 その気持ちは、今でも変わりません。 
 
 しかし今、少女とその家族の勇気ある決心によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。 彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言うことによって少しでも何かが変われば、彼女の心がかるくなるかもしれない。そう思いここに立って います。

 沖縄で米兵による犯罪を過去までさかのぼると、凶悪犯罪の多さに驚きます。
 
 戦後50年、いまだに米兵により犯罪は起こっているのです。このままの状態でいいのでしょうか。どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが、私には分かりません。まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには、本当に腹が立ちます。米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうこともありました。

 そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。
 それにこの事件の容疑者のような動物にも劣る行為をする人間をつくりだしてしまったのは、沖縄に存在する「フェンスの中の人々」、軍事基地内の人々 すべての責任だと思います。基地が沖縄に来てから、ずっと加害はくり変えされてきました。基地がある故の苦悩から、私たちを解放してほしい。
 
 今の沖縄はだれのものでもなく、沖縄の人々のものだから。  

 私が通った普天間中学校は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間小学校は、フェンス越しに米軍基地があります。
 基地の周りには7つの小学校と、4つの中学校、3つの高校、1つの養護学校、2つの大学があります。ニュースで爆撃機 やヘリコプターなどの墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に降りていくのが見えます。
 
 それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。
 
 機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音、私たちはいつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんな所で学んでいるのです。 
 私は今まで、基地があることはしょうがないことだと、受け止めてきました 。 
 しかし今、私たち若い世代も、あらためて基地の存在の位置を見返してます。学校でも意外な人が、この事件について思いを語り、皆をびっくりさせたりもしました。それぞれ口にはしなかったけれど、基地への不満が胸の奥にあったことの表れだと思 います。 

 きょう、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全生徒に配り、「みんなで行こう。考えよう」と、大会への参加を呼び掛けました。浦添高校の生徒会でも同じことが行われたそうです。
 そして、今ここにたくさんの高校生や大学生の人が集まっています。若い世代もこの問題について真剣に考えはじめているのです 。
 今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国にこの問題を訴えかけています。私は今、決してあきらめてはいけないと思います。私たちがここであきらめてしまうことは、次の悲しい出来事を生みだすことになるのですから。   
 
 いつまでも米兵に脅え、事故に脅え、危険にさらされながら生活を続けていくことは、私は嫌です。未来の自分の子供たちにも、そんな生活はさせたくありません。私たち生徒、子供、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。 

 私は戦争が嫌いです。
 
 だから、人を殺すための道具が自分の周りにあるのも嫌です。
 
 次の世代を担う、私たち高校生や大学生、若者の一人ひとりが本当に嫌だと思うことを口に出して、行動していくことが大事だと思います。 
 私たち若い世代に新しい沖縄のスタートをさせてほしい。 
 沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。 
 そのために私も、一歩一歩行動していきたい。

 私たちに静かな沖縄を返してください。

 軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください 。

 https://blogs.yahoo.co.jp/akaruria/34279036.html
かたや詩、かたや散文という違いを踏まえても、竹薮は後者の方に胸を打たれる。美しい自然描写よりも「それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。」という一行に胸を疲れる。

 RADのHINOMARUに対してリベラルの言語の貧しさを嘆いた。しかし、政治的イデオロギーを帯びたものではダメなのではないかとも思うに至った。文学だろう。あるいは戦後広く行われた綴り方教室のようなもの。サークル村のようなもの。個々人がペンを持って書いてみることではないか。ああ、でもそれはあまりに遠大だ。やはり文学は何をしていると言わねばならない。

 私ではなく、私たちの物語。
 沖縄の高校生がみんなで話し合った。そんなところから立ち上がる物語。それが善意の14歳の少女の感情が一気に絵葉書になるのを堰き止めるのだと思う。

 「苦海浄土」のような戦後の日本の本が、あるいは3.11後の本が、あるいは子殺し親殺し無差別殺人が起こる日本の本が必要なのだ。それを書くのは誰だろう。田口ランディ、赤坂真理、それとも。

 世界中のブログの中で使用言語は日本語が一番多いと聞いたことがある。日本人がみんな私語りをしているのだ。その中から物語は立ち上がっていかないものだろうか。かつての「電車男」のように。

 昨日だったか伊藤詩織さんのことがBBCのドキュメンタリに取り上げられた。早速大きな反響を読んでいる。彼女の経験は多くの女たちの経験でもあるからだ。彼女は絵葉書のような表現をしない。そこに可能性がある。そのように多くの表現がなされることを願ってやまない。

**************

東京は梅雨明けしたそうだ。
6月中の梅雨明けはとても早いとか。
西野ジャパンが決勝トーナメントに進出した。
ああいう勝ち方もありだろうと思うが、次がベルギーというのが。。

なんというか、今年は色々ある。
本当に色々ある。
でもまあ、頑張ってるな>自分ということです。

<今日の夕飯>
鮭、ささみのフライ、ちくわの磯辺揚げ
キャベツと人参とピーマンのコールスロー(ケンタ風に刻んだやつ)
トマト
味噌汁(エノキ、ネギ、あぶらげ、わかめ)

明日用に
中華サラダ(クラゲ、きゅうり、鶏肉、もやし)
蕪とキュウリと茗荷の浅漬け
蕪の葉とあぶらげの煮浸し
煮卵、豚肉と大根の重ね煮

写真は27日の朝の空。
何やら起こりそうな空でした。



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2018年06月18日

国を愛するという表現を持ってますか。

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RADWIMPSのHINOMARUが話題だ。
おなじみの炎上を起こしている。

やれやれだ。
まあ炎上は当然だろう。歴史的にやばい方向の言葉に彩られているので誤解を呼ぶ表現だとしか言いようがない。天皇も出てこないし、ヘイト表現でもないのでそこはいいのだが、なんというか時代がかっていて、なんともはやである。
だが、竹薮は困ったなあと思っているが、
さほど怒っていない。
それは、竹薮の教えてきた生徒たちの中でRADが好きだという子達がものを考えない子ではなかったからだ。正直に言って、「君の名は」という映画はさほど評価に値するとは思っていないし、そのテーマ曲だった「前前前世」というのも、ただのラブソングだった。でも、ちゃんと感性が育っている子たちが複数口にしたので、検索した。

楽曲の方はなんというかなラノベだと思った。でも音楽そのものはいい仕事してると思った。音楽が好きなんだな、いっぱい聞いてるなと理解できるサウンドだった。あのサウンドがなければファンはつかないだろう。いろんな音楽ジャンルがあのサウンドに含まれていて、楽曲そのものは担がれたお神輿のようなものだなと感じた。さらに、ちょうど「百万円の女たち」という深夜ドラマに野田という人が出ていて、なるほど独特の存在感のある人だな納得し、その後「トイレのピエタ」も見た。どちらの作品も半分死んだ感じというか、平均台に片足で立って揺れてるような、もっというと名付けようのない空っぽな感じなのだ。そのことは悪くない。良いと感じた。その空っぽの中に何かが入る時があって、その時のごく小さな表情の変化がよかった。

だから、HINOMARUという曲はなんか微妙な違和感がある。なんというか出来合いの感じ、雑だと思った。曲調はあくまで抑えめで全員で声高に斉唱する感じではない。どちらかというと一人で小さく口ずさむ感じなのだ。歌詞とは明らかに違う。僕らの御霊は挫けなどしないと言いながら、挫けそうじゃないか。「遥か高き波がくれど」というところも明らかに震災を意識してるんだろうなと思わせる。そうだ、トイレのピエタの中で威風堂々をハミングするところがある。全然、威風堂々じゃなく。それに近いかもしれない。非常に弱い、小さな、でも確かな存在の不器用なハミングなんだよ。

というわけで、竹薮としては、野田という人を一気にウヨクだと切り捨てる気にはならなかった。

その後、炎上はさらに続いてめんどくさいことになっている。
しかし十分な議論がされているとは言えないと思う。

その歌詞や曲そのものや、野田という人のツイはみなさんご存知だろうから、引用しない。もしまだだという方がおられたら、一度検索してみることをお勧めする。32歳という若者(今時の32歳は幼いよ、本当に)の言いたいことは、全く単純なことだったんだろうと思われることと思う。

それは悪く言えば無内容ということだ。
で、その無内容は野田という人だけが引き受けることなのか?

そうではなかろう。

最近、こういうツイを見た。

これと同じだ。
野田という人を批判する多くの人、擁護する多くの人は野田という人を心の中に飼っているのではないかと思う。そのことをちょっと考えて見たい。

この件で思い出したのが、世界女性会議に参加した日本の女性たちが困った話だ。
それは、夜の懇親会で、各国の女性たちがそれぞれの国の運動歌を歌うのに、日本は何を歌えばいいかわからなかったと言う話。結局何を歌ったんだったか記憶にないが、その歌がないと言うのはまさに現在のこの事件だ。

戦争中のナショナリズムでもなく国を思う歌というとこれぐらいしか思いつかない。
それは「遠い世界に」

二番の歌詞に
 雲に隠れた小さな星は
 これが日本だ私の国だ
とある。

当時、この言葉でさえ唐突な感じだった。
あの当時ではなんか民青っぽいとか思ってたような記憶がある。
でも五つの赤い風船の独特の美学がなんとかそう言う感じをクリアして歌われていたように思う。でも、それ以外思い浮かばない。つまり「ない」のだ。

これが日本の戦後を示している。
私たちは考えてこなかった。
表現してこなかった。
歌というのは唱和という形で多くの人が身体さえあれば表現できるメディアなんだけど、それがないということの意味だと思う。

多くの人がHINOMARUを批判した。
それは日本という国を愛する気持ちを否定するわけではあるまい。
では、批判者はどんな歌を持っているのか。
何を歌うのか。
ないはずだ。
ないのだ。


68、69の時、インターナショナルやワルシャワ労働歌とともに
歌われた「嗚呼玉杯に花受けて」の革命歌も「ああ弾圧に苦しめる〜決然立って武装せよ」いま検索しても出てこない。1908年のヴァージョンが出るばかりだ。

それくらい、表現されてない。
だから野田という若い人はウヨクまがいの表現しか浮かばなかった。
彼が真に考えたならばもっと他の表現になっただろう。
新しい選択肢を作り出せたかもしれない。
でも、彼が選ぶヴァリエーションはあまりに少なかった。

御霊というのは霊に尊敬の接頭辞がついて御霊だから
「あなたの御霊」とは言っても「僕らの御霊」とは言いづらいと思う
その程度の日本語なのだ。
当然、「僕らの燃ゆる魂」はとなるべきなのだ。

あんなに音楽のことは知っているのに、
戦争、戦後は知らなかった。

それは野田という人のせいか。
違うだろう。
日本人全体のせいだ。
そこで野田をワーワー言って批判してる人たちとその人につながる人たちと
野田を礼賛して歓迎してる人とその人につながる人たちのせいなんだ。
そのどちら側の人たちも、野田に届くように国を愛する言葉を紡いでこなかったということだ。

どちらも誰かを指弾し自分を擁護する言葉、分断する言葉のみだった。
ナイヨウガナイヨ

さらに、ここ何年もの運動も
かっこいいけど、全部アルファベットの運動だった。
アルファベットだ。

それでいいのか。

かつての「ええじゃないか」とか「オッペケペ」のような新たな表現は育っていない。
日本語そのものの衰退だ。

ものを考えることのできる子が次のように言った。


というわけで、今日、2011年以後の3.11がらみの曲を聞いて見た。
毎年、3.11の頃にyoutubeに発表されている。
前前前世とかとは全く違った内容のある曲。
radwimpsstaffとクレジットされた一連の曲はラノベだねとは言い切れないものがあった。
野田という人は震災によって成長したようだ。
一方でラブソングや商業的な音楽を作りながら、musicianとして3.11にかかわってきたのだ。炊き出しや寄付じゃなくて、本来の仕事で。それは全くもって正しい。

それは、斉藤和義の「ずっと嘘だったんだぜ」や猪苗代湖ズよりもずっと正統な仕事の仕方ではないか。

例えばこれはどうだ。

ソロヴォーカルとシンプルなピアノで始まる。
2コーラス目の後半くらいから弦が少しずつかぶさっていき
分厚くなって、そしてまたすっと引く。
映像は狭い室内から置かれた花に導かれて屋外へと出ていき
陸前高田の被災後の海岸のモノクロ映像
海に献花する

あまりにベタなんだが、詩は非常にシニカルで
野田本人と聴くものを背後から告発する。
聞きやすい構成なのにちゃんと毒が盛ってある。いい作品だ。

そろそろ終わり。
そう、間違いは間違いだ
しかし、たった一度の間違いを指弾され
げっそりしているであろう人は
こういう風に歩んできた人なんだとわかって指弾しているのか。

失敗を許さないのはどれだけご立派な社会なんだろうかと覗き込んでみれば、
空虚もいいとこ、「あ」の人の脳内と同じくらいスカスカなんだよ。

その「スカスカ」さ加減に野田はイライラしたのかもしれない。
そして短慮にぶち上げた。

それなら、そのイライラに気づき
本当に国を愛するとはどういうことかを
イメージする方向で彼と話し合い
彼と共に新しい歌を作るというのが筋ではないか。

野田の人となりは5、6時間もあれば把握できる。
それをせずにHINOMARUという言葉に脊髄反射してヒステリーを起こす愚は
その人たちの大嫌いなネ◯◯ヨの方々と同じふるまいである。

**************

寒い。
そして大阪で地震があった。
もうほんとにワヤやワヤ。

午前中仕事して、カミュを読みながら帰途につく。
CURVESによって買い物して帰って
それからRAD三昧。楽曲を聴いて、ピエタと百万円をみて
くたびれる。
そこで夕飯は本当に冷蔵庫の中のものを盛り付けて終了
ご飯を炊いて三つ葉の味噌汁だけ作った。

明日からは大人の社会科、憲法の準備。
今年はほんと頑張ってます、竹薮。
えらい!

写真は日曜に咲いたハイビスカス
この寒いのによくもまあ。
花は咲きたかったんだね。

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2018年06月12日

「強い」感受性なんか。



是枝裕和の「万引き家族」をみてきた。
あのラストに竹薮は賛成だ。
そうだ。ああしかならない。
夢など見るな。

常々言っている。
生きているということは、99%めんどくさいことばかりだ。
そして残りの1%はもう終わっている。
生まれて小さい間に。

だから記憶にある間、これからだって
めんどくさいことばかりだ。

大事なのはたまさか訪れる楽しいことを
いかに味わい尽くすか。と
そして大抵の場合はぞっとするほどめんどくさいことに
いかにひきずり込まれないか。だ

是枝監督の作品を探していて
Coccoのドキュメンタリを撮っているのを知った。
Netflixで見た。
その中で「お菓子と娘」が歌われていた。

お菓子の好きなパリ娘
二人揃えばいそいそと
角の菓子屋へボンジュール

子供の頃よく歌った、西条八十の詞だ。
映画の中で、ひめゆりの学徒たちを励まそうと若い女教師がこの歌を歌い、少女たちはやんやの喝采。笑い転げたのだそうだ。竹薮がこの歌を歌ったのは小学校の頃だ。ひめゆりの姉さんたちはハイティーンだった。みんなで箸が転げても可笑しい年頃で死の近くの一瞬をこの歌が彩ったのだ。

昭和四年からこの歌が歌われてきて、何人の人たちが涙をこらえて、涙を忘れて、あるいは涙にくれて歌っただろうか。ラジオに耳をすませて、学校の帰り道で、二階の窓に腰掛けて、友達と声を合わせて、一人で小さな声で、ひめゆりの壕の中で、無数の「わたし」が歌ったのだ。

この夏、沖縄にゆく。

**************

竹薮は「わたし感受性が強いから、残酷なもの苦手なの」とか
シャーシャーというやつが大嫌いだ。
何もかも全部受け止めて、ズタボロに傷つけ、ばか。

そう思うから、
そう思っている。
そして、そんな竹薮は昨日、カーネーションで
「今の勘助にあんたの図太さは毒や」と宣言された。
でもやっぱり、そう思っている。



**************

28年前の今日2号を生んだ。
1号を生んで、子育てに猛烈苦しんだから
もう一人ほしいと言ったらタケヤマは驚いた。
でも、女は欲しいとなったら欲しいし、生むのだ。


<今日の夕飯>
赤飯
コールスロー
ジャーマンポテト
で、2号の希望によりケンタッキー

ケーキは
バナナケーキ、黒砂糖で
美味い。

2号が何やら竹薮の気配を察して
「ドデカミン」を差し入れてくれた。

朝から米朝会談がずっと流れていた日。



takeyabu31 at 22:04|PermalinkComments(3) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 長電話(日記/告知) 

2018年06月09日

感情、承認、理解 そんなことの近辺。その3

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そんなこんなをやってたら、我と我が身にとんでもない感情の嵐が降ってきた。

人間は諸関係の結節点であるというのは、これは竹薮の出発点。
「私」とは私構成する人間関係の総体である。

だから関係竹薮の中にはいろんな人がいる。

理論上は2で述べた様々な段階方位のすべての人がいることになる。
その中の誰かと誰かが対立的な関係になることもありうる。

今回それが決定的になった。
簡単なこじれはよくある。兄弟喧嘩のような。
しかし、今回は違った。
各人の実存に関わる重要な問題だった。
この二人は竹薮にとってそれぞれ今非常に大事な人物で
その二人が相入れないとわかること
これは竹薮の分裂を意味する。

どっちの方が圧倒的に重要とか、
とっちかをかばわなけれなならないとか
誤解によるものとかならいいのだが、そうではない。

最初は困ったなあとかめんどくさいなあだったが
あっという間に大きなしこりとなって胸を占領した。
こういう時の感情の処理として短歌が一番
大事に出来て片付きもするから。
やけ酒ややけ食いや簡単にストレス解消などはしない。
経験済みのことはやけ酒でいいけども。
重要な問題であるほど感情を感情のまま捉えるには短歌は非常に良い方法。

ちょっと恥ずかしいが、そのプロセスを。

*まず情動段階。

何もかも放擲したし 両の手を
拳に握り 胸叩く午後

風吹かれ揺れる軀をそのままに
倒れたいのかそうでないのか

*ちょっと落ち着こうとする。

息をする そのためにはまず吐くことと
知っていたので その通り吐く

人間はまず動物と思いなして
地面に立って歩をすすめゆく

引力に逆らって立つ胴体を
最後に受ける足裏の熱
 
*安定をはかる

震災のあの日のように今日とても
夕餉の支度くりかえすこと

でも感情は続く

ものならぬ有情の層にまなざして
雲のはたてに砕けてしまえ
 
でもここで視線は上を向いている。

そして、

名付けるな
胸にくぐもるこの石は
リビドーという生情である

感情の根源そのものを見つめると認識に至る。

引き裂かれる関係のどちらも欠かせない。
その関係を継続する意思はリビドーそのものだ。
そのリビドーに怒りとか嘆きとか幸福とか名付けてはならない。
名付けるとどちらかを肯定し反対を否定する、あるいは順位をつけることになる。

ただ現場に踏みとどまること。
その現場に当事者自身が色をつけない。

今、私が色をつけないリビドーを思い、その端っこをつかんでいるのは
全く異質の二人との関係による。
出会いに感謝だ。

**************

<今日の夕飯>

キャベツとひき肉の重ね煮
アスパラとエリンギの炒め物
律くんのスープ
 朝ドラの半分青いに出てきた料理。

今日は金曜なんで、
明日は一日中、夜までいないので料理

カツオの大和煮
竹輪とインゲンの煮物
大根ときゅうりを岩下の新生姜で揉んだもの
鶏肉のマーマレード煮
小松菜ともやしのゴマ和え

さあ、寝ます。

あ、くるみゆべしも作りました。
それが上の写真です。




 

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2018年06月08日

感情、承認、理解 そんなことの近辺。その2


昔、1号がASDの診断を受けた時、
友達が竹薮に猛烈に怒った。
なんで、そんな診断を受けるんだ。1号は1号じゃないか。
俺はサッカークラブでそういう子どもに出会うけど、じっと見てれば何が起こってるかわかる。そしたら俺がどんな風にアプローチすればいいかわかる。それはそいつだけの問題じゃない。多かれ少なかれ子ども全部がそうなんだよ。

素晴らしいの一言だ。
1号を取り囲む全ての人間が、その友達のような感受性とコミュニケーション能力を持っていれば、診断なんかいらない。でも、世の中はそうではない。

ここには二つの論点がある。
個々別々の具体的な場面と一般的な制度という側面
もう一つはなんとなくわかる感覚の世界と言語による概念という問題だ。

友達は具体的な場面で感覚で理解している
そういう人は異能の人なので、他者がそうではないということがわからなかったりする。
見りゃわかるだろう。そこにあるじゃないか。
いやいや、凡人はそうはいかないのですよ、本当。

だから、制度が必要でその制度のために言語化されなければならなくなる。

ASDが問題にされるのは最近になってからだ。1940年代。それまでは具体的な局面で個々別々に対処されていたのではないか。各集団に私の友人のような人物がいれば、各集団にいなくともその上位集団にいれば、少数者は包摂されていくのだ。だが、学校や会社はそうはいかない。個々別々の人よりもルールが優先されて行く。

そこで、例えば診断の局面で診断基準のどの項目に該当しないから、診断できないということになる。かつてはASとADDは同時に診断できなかったけれど、今は両方一人の人に診断されるように変わった。そんなもんだ。でも、現場ではASだけどADD傾向もあるよねとその判断のもとに対応していた。「診断」と「現場判断」は違う。それでいいのだ。

どっちが正しくてどっちが間違いというものではないと思う。

どっちもアリなんだ。

もう一つ例を挙げるならば、フランス人権宣言だ。
人は、自由、かつ、権利において平等なものとして生まれ、生存する。
これが事実だと思うひとはいるだろうか。
そんな人はおめでたすぎる。
人は自由で権利において平等?はあ?だ。

しかし、この概念規定はなくてはならないものだ。
この概念規定があったからこそ、人権は拡大してされてきた。
だから、この概念規定をウソだというのは損だ。

そう考えると
「障害はない。障害は個性だ。」というのも聞きようによっちゃアリと言える局面もあったりするかもと思う。(障害クラスタの皆さん怒らないでね)

究極の目標に<障害は個性だ>っていうのは掲げていいと竹薮は思う。
その上で、現状との距離をちゃんと測ってその隔たりを埋める努力をするんだよ。
で、今の状態をほっといて、障害は個性だとかいうなら、怒るよってことだ。

概念規定で大事なのは、概念規定して安心しないことだ。
概念規定に立てこもってはならない。そこ。

個々別々に人々は現場で苦しんでいる。
そこに概念規定を振りかざして、ここまで来いってのは話にならない。

で、でよ。
現場も、遠く遠くはるか彼方に見える概念規定を否定しないで欲しい。
そのはるか彼方がないと現状は変わっていかないんだから。

その長い道のりの各段階にいろんな人がいるんだ。
段階だけでなく方位もいろいろだし。
そのそれぞれの位置から周りを見渡してお互いを視野に入れて欲しいなと思う。

お互いにわかってないと言い合って噛み合う。
この闘争は不毛だ。
その闘争を眺めるのも不毛だ。
今回のファッションポジウム後のやりとりもこの様々な局面のぶつかり合いのようなに見えている。

だが、そのただ中にいる当事者にとっては「そんな悠長なこと」は言っていられないのだ。
でも、悠長なことじゃないんだけどね。
さらに続きます。





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