2018年05月21日

福田和子「涙の谷」



これ、松山ホステス殺害事件の犯人本人の書いたもの。
松山拘置所内で綴った書き下ろし360枚。
扉裏はこんな感じ。
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どこまでもこだわって、本人がプロデュースしたものだとのこと。

新年度第一回の「大人の国語」のテキストです。
今年度の「大人の国語」は<女の事件簿>ということで、昭和平成のいろんなことをしでかした、いろんなことに出会った女の本を取り上げます。その第一回がこれでした。

いやあ、大変だった。
何がというに、読みづらい。
受講生の方からは、プロの小説家ってすごいんだと逆に思ったなどの声がありました。
全くもってその通り。
でも、本人が一気呵成に360枚書いちゃうってのがすごいエネルギーで、そこになんだか読ませるものがあるように思えて、これを選びました。以下、竹薮流解釈です。


福田和子はなぜこんなにかけるのか。
もともと読書が好きで、差し入れとして友人にブックリストを渡していたというほどなので、ある程度の言葉の量は入ってるんだろうけど、読むと書くは違う。だから何かあるんだろうと思うわけです。

で、思いついたのが次のような内容。

2ページ目は次のような文章だ。
何故神は私に乳房を与えたのか!

「鏡よ、鏡。私はきれい?」
この時期の乳房の色は、たっぷりと蜜を含んだ果実のように、艶やかに張り、乳首までもエナメルのように輝かせ、子供を産んだことなど忘れたかのようである。
 鏡の中の私は、たっぷりと赤いルージュを引き、微笑した。

最初の一行はファーストシーンのキャプションだ。
乳房をうっとりと眺めているのは誰だろう。
演出家福田和子が劇中の福田和子を眺めている。そんな文体じゃないか。「乳房の色は」が主語で「乳首まで」も「耀かせ」る。身体が生きて輝いている様をうっとりと眺めている本人を想定している者がいると読める文だ。演出家の福田は劇中の福田にルージュを引かせる、たっぷりと。演じる福田は鏡の中の自分を眺め、演出家福田はそんな女優を眺める。そんな構図が見える。

これは書くということの基本でもある。

書くということは書く私と書かれるものとがある。

私は「花は赤い」と書く
紙に書くのは「花は赤い」ということだけだ。
私は「私は生きる」と書く
この時、書く私と生きる私は違うのだ。
この分裂が考えるということなんだが、大抵意識されない。

何故か。
意識しなくても生きていけるからだ。
つまり、絶対解決しなくてはならない問題がない。
あるいは、あってもそこから後ずさりしているのだ。

まあ、それで困ってないならいいんだが。

竹薮は考えた。
理解できないのは不安なので、考えた。
納得するまで。
福田の描写はそのプロセスに似ている。

父との葛藤は凄まじかったので、時には殺意を抱いた。
実際に殺すのは大変なので頭の中で何度も殺した。

早い話が妄想なんだが、父についての抱かれる膨大な感情は、その作業に夢中になった。映画監督の気分だ。シナリオも書いたし、演出もするし、もう大変。その中で一番気に入ったのが、梶芽衣子みたいな竹薮が藤竜也がぐっと老けたような父を殺害するというものだ。和服で鉄瓶のかかった長火鉢を挟んで座っているのだ。

この妄想を精密に描いていくとき
殺意を抱いているのは、妄想の中の自分で、妄想を作り出す自分ではない。
よって、中の自分は冷たくなるほどの憎悪を抱えているのに、外の自分は創造の喜びにワクワクしているのだ。

これが生きていけるに繋がっている。
考えている自分は苦しんでいない。苦しみとは絶縁してる。
だから、生きていけるのだ。
たとえ、いっときでも苦しんでいる自分とは違う自分が存在する。
これは素晴らしいことじゃないか。

福田の人生は苦悩に満ちていた。
生育歴もあれもこれも苦悩に満ちていた。
そういう人間は、自分に起きたことを考えざるを得ない。
その中で「経験した自分」を「考える自分」が受け入れる。
そうやって生きてきたのではないか。
あまりにも苦しいのでずっと自分の体験を反芻していたに違いない。
そうな風に憶測している。

福田は自分が大好きだ。
だから自分を演出するのも好きなはずだ。
自分に起こったことを何度も反芻するうちに、それは物語となる。
福田に限らず、人間は想定された物語を生きるものだが、福田の場合、自分の物語を産んだのだ。それが「涙の谷」ではないか。

涙の谷に書いてあることを検証するとたくさんの食い違いがあるという。
それは「嘘」ということであると同時に、福田の考え抜いた「現実」なのではないか。

これが、今回の竹薮の解釈だ。
さらに裏返す。

本書には殺人の動機は驚くほど書いてない。
殺人の行為は書いてあるが、その書き方は他の部分に比べてエネルギー量が少ないように感じる。それは多分、反芻の度合いが低いのではないかと想像している。さすがの福田にも考え続けることはできなかったんだろう。松山刑務所事件や生育歴、逃亡プロセスが生き生きと描かれているのと対照的だ。
(これは少年Aの絶歌と比べると正反対で、絶歌は生育歴よりも犯罪そのものの方が熱を持って描かれている。だからこそ、彼は異常なのだが。)

さて、残念なのは
現実との食い違いがある以上、福田が生きていくための物語は福田の脳内にしかないということだ。
福田は人たらしで、出会った人々は皆、福田をいい人だという。
福田はきっとその場で一番適切は物語を想像しその通りに演じたのだろう。
それは多かれ少なかれ人間がやってることだ。「〇〇らしく」というのがそれだから。
だが、それが場当たり的で、芯になる人格が脳内で自分ひとりとしか共有できないのであれば、それは圧倒的に不幸ではないか。

書く自分、考える自分は言語によるが
その言語はやはり共有され翻訳可能、通訳可能であるべきだと思う。
他者に理解可能なものでないと意味がないのだ。

だからこそ、竹薮はこの本を受け止めようと思う。

本の最後は結審の場面だ。
その直前は紀伊のとある逃亡先のエピソード。
雇い主の息子は進行性の難病で寝たきりだ。若いのに命が細る運命だ。
福田は息子に踊ってみせる。
曲名は「うぬぼれワルツ」
  ♪あんた男前、わたしいい女
   ラッタッタ、ラッタッタ
   うぬぼれワルツ
両親はその情景に涙する
非常に美しい光景だ。
寝たきりの息子に逃亡犯が踊ってみせる
「あんた男前、わたしいい女」
それは叶わないことであるからこそ、涙する。
叶わない望みを仮の姿に託し踊る姿に涙する。

両親はそこに病気でない息子を見ているのだ。
それは福田が逃げてない自分を思うのと同じだ。
だが、我々は両親については切ないと思い、福田については嘘だと思うのだ。

そのことは福田もわかっている。
だからこそ、直後で結審して、福田は無期懲役を言い渡される。
つまり、福田の負けということは前提されているのだ。
八月の空は発狂していた。
胸が激しく膨らみ、縮む。
顎から喉へ、そして胸元へと伝い落ちていくのは汗?
それとも涙?

「この、お乳のあひだに涙の谷」
 涙の谷。
   ーーーーーー太宰治『桜桃』より


どこかで、なんとか殺さずに住む方向はなかったんだろうか。

**************

今週は休み週でゆっくりしてます。
せっせとグルーミングしてます。







takeyabu31 at 23:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえの本棚(書評) 

2018年05月15日

いい一日になった。

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朝起きたらいい天気。
タケヤマを送り出し、ピルケースに一週間分の薬を入れる。
パタパタ家事をして朝ドラみて、
読書会メンバーのグループLINEを見てたら、
一つ質問に答えてなかったのを発見。
スマホで書き始めるもLINEの入力画面て狭くて
思考がブツ切れになる!!とかでPC前に移動。
スマホでレポート書くとかいう大学生、すごいな。
竹薮は無理。
この辺りで2号が定期通院にでる。

質問に答えてたら、親しい人からの悲痛なLINEが。
一大事の様子なのでじっと傾聴する。
大事な時間だった。
彼女のタイミングに、ちょうどPC前に座っててよかった。

すごい着地になったんだが、きっと実現する。
そんな気がする。

2号がそろそろ帰るぞと連絡。
慌てて郵便局に行き、コンビニにより用足しをして
一回家に帰り、再度出動。
待ち合わせのワークマンに行く。
毎週見てるカンブリア宮殿で紹介されてて、興味津々、こないだ行って見たらこれは2号を連れてこなくちゃと確信したので、実行。折りたたみの椅子を持って店内へ。楽しく買い物。しかし暑い。
ワークマンで竹薮の羽織るものも買った。
これ
早朝と日が暮れてから帰るときの自転車通勤にぴったりでしょ。
軽いし、雨も平気だし、何しろ色が暗い中で目立つ。
つまり安全だし。

その後スーパーで買い物。
母の日にグリルパンもらったので、昨日ちくわの磯辺揚げを作ったら美味しくて。今日はフライをためす。

帰り道、野菜スタンドに寄ったら、包丁とぎのおじさんが店を出していて。
そうだった!!今日だった。
おじさんいつまで?
帰ってすぐ持ってくるから。

で、帰ったら、椅子に座ってしまった。
暑いんだもの。
洗濯物入れて水分補給。

ちょっと座ってたら、科捜研の女の再放送が好きな回だったので録画して
包丁と花鋏持って再出動。本日三度目。

おじさんに包丁預けてドラッグストアに買い物に行こうと思ったら、
おじさんの話と手元が面白くて、ずっと仕事を見てた。
おじさん曰く、前にこの包丁研いだの素人だろ。
え?荒物屋さんに持ってって研いでもらったのに?
うん、素人だ。

竹薮の包丁は18の時に買ったもの。
上京して一人暮らしを始めた時に
人形町の「うぶけや」さんで買ったのだ。
ドラマの新参者で出てきて懐かしかった。
それから四十五年だ。
昨年、柄を取り替えてもらったが
まだまだ使うつもり。

いいひとに巡り合ったかも。
こういう自分の仕事にプライドのある人大好き。
話してて面白いし、見てても楽しい。
刃物の話をたくさん聞いた。
月に一度、第二火曜日です。
住吉町の集会所の近所です。
みなさん、どうぞ。

帰って、気になってた南京事件のドキュメンタリを見る。
南京事件
すごくいい仕事。
いたずらに強弁せず、淡々と取材を積み重ねて行く。
蟻の兵隊の時に
南京入城を経験した方のお話を伺った。
その方のサイトはこちら
あれを虐殺というか、自衛というかはどうあれ(自衛じゃないけど)膨大な人が殺されたことは確かだ。日テレは辛抱強くいい仕事をしている。
このドキュメンタリ番組は、笑点、3分間クッキングに並ぶ日テレの長寿番組だとのこと。
どんな会社にも良心を持って仕事をしている人はいるんだ。

その後、科捜研の女を見ながら家事。

合間にツイッターをのぞくと安冨先生が東大でファッションショーだって。
面白そうだ。
なんとか体力を温存して言って見たい。

そうだ、今月のdoterraも届いた。新しいサプリメントを試して見る。体内の化学物質を捨ててくれるってやつ。たくさん薬飲んでるからねえ。どうでしょう。

というわけで
今日はいい一日だった。

竹薮的要素満載の1日だったと思う。

そしたら、新月だって。
そうか、そういうことか。
今日は新月か。

今日始めたことが、満ちて行くんだ。
うん。今日はいい日だった。

さて、お風呂はいって
シグナル、見ながら寝よう。

**************

今日の夕飯

グリルパンで油なしフライ
 かじきとたら これはちょっと油あったほうがいいかも
再度、ちくわの磯辺揚げ これはもう簡単で定番になりますね。

蕗の煮物(野菜スタンドで一把100円で出てたので)
蕗の葉の煮物

サラダ。キャベツ、ブロッコリー、トマト

**************

最近の問題は

声が潰れること
声帯が疲れて回復しない。
もう歌えなくなって久しいけども、
最近は12時間仕事してると最後の1時間が声が出なくなって
二日経っても戻らないなんてことがある。 
昨日は午前中3時間、裏声で授業した。
地声が潰れても裏声なら出るので

響声破笛丸を飲んで、濡れマスクをして、
アロママッサージをして
今日はなんとか出てる。

でも、今までみたいに
フルの声を使うことはできない。
もうそこそこの声でしか、やれない。
でも「しか」「やれない」じゃなくて
スタイルを変えるということなんだろうなと考えている。

タケヤマが怒るな怒るなという。
怒るとなんだか血液に変化が起きて、そのせいで血管が詰まったりするんだと。
だから、怒るなと。

こないだ生徒とのやりとりで
「私がそういう要領の悪い、もたもたしたの大嫌いなの、わかってるでしょ」
「わかってます。でも、できません」
そうなんだよ。
怒っても無駄。
怒ったり叱ったりしないでプレスかけるのはどうすればいいかしらね。

でも、裏声で授業したら
生徒は不気味に感じるらしくシーーーンとして聞いてるけども。

画像はmixi時代からずっと続けてるゲームの今日の画面。
かわいいでしょ。


takeyabu31 at 22:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 長電話(日記/告知) 

2018年05月05日

最強の「髪結い」母、最強最悪の「髪結いの亭主」だった父のこと

ほととぎす


父のことは何度も書いたような気がするが、とにかく最強最悪の人だった。
暴君も暴君。徹底的な暴君で
自分で靴下を履いたり脱いだりしたことがなかった。
朝は母が履かせ、帰って来て脱がせるのは竹薮。
そのくらい、暴君だった。

最後に殴られたのは沖縄返還の日。1972年5月15日
訳あってその日にちょっと事件があって、竹薮はとある喫茶店で
父に捕まり、拳で顔を殴られ、目の周りが青くなった。
事件の始末に高校の担任も来て、竹薮の顔を一瞥し
「まあ、明日、学校来いや」と言い置いて別れた。
行きましたよ。
漫画みたいな顔で。翌日。
次の日、父は頭丸めてたけど。
で、「あの喫茶店はなかなかセンスがいい」だって。
ああ、そうかい。

グーで殴るのと、喫茶店のセンスを認めるのと両方やる。
これが竹薮の父。

小学校に入った時
宿題をやってたら、父が帰って来た。
ノートを覗いて「それ、なんだ」「宿題」
「おまえはそんなんも読めんのか」「読めるけど」
「書けんのか」「書けるけど」
「それなら、なんでそんな宿題をする必要がある?!」
と怒り始め
「日本人たるもの、そんなものを読み書きするより、こっちだ!」
と天津祝詞と般若心経を取り出し、
全部暗唱するまで学校の勉強などまかりならん!!
と宣言した。

父が宣言したら、もう覆らないので、ひたすら暗唱する。
天津祝詞も般若心経も全部ふりがながふってあるので、ひたすら覚える。
次の日の夜
覚えたというと、唱えろという。
必死に唱えると、早口すぎて気持ちがこもってないという。
気持ちって。。。

ゆっくり気持ちを込めて唱えろと。
小学校一年生である。
いくらませてるとは言え意味不明である。
まあ、とにかく、ゆっくりいう練習をする。
ゆっくり言うのは難しい。
完全に覚えないとゆっくりは言えない。
その日は宿題せず、次の日かその次の日か、なんとか天津祝詞と般若心経から解放され、宿題ができるようになった。これが最強最悪の暴君。

ことほどさように、父は全く世の中に忖度しなかった。
自分ルールの人だった。
自分なりの美学、自分なりの倫理があって、それに従って生きていた。
竹薮には学校があったので、学校のあり方と家のあり方は当然矛盾して、その場合、家のあり方が優先される。

「家」というのは、暴君の父だけでなくワンダーウーマンの母がいたからだ。
例えば、竹薮の高校の制服は母の手によるものだった。母が自分で縫ったのだ。小学校中学校は学校で買ったと思う。でも、高校は買わなかった。なぜか。母の気に入らなかったから。母は要塞も和裁も刺繍もなんでもできて、しかも人並み以上にできたので、制服を買いにいって、見本を見た時、許せない水準だったのだと思う。「なんやこれ」と一言、そのまま生地を買いに行き、入学までに作った。仮縫付きで。夏のブラウスも冬のコートも同様。というわけで、見りゃわかるが一人だけ、全く「同じデザインの」「別物」を着て3年間通学した。

思えば、ずっとそうだった。
黄色い卵焼きが食べたかった。でも出汁巻き卵
真っ赤なウィンナが良かった。
でも無着色の(五十年前にもあったのだ。肉屋が自家製で作っていた)
キャラクターの靴屋肌着など一切無し。
小学校に入るまでは下着まで全て母の手縫だった。
それは、竹薮が大事にされていたということよりも、母のプライド問題。
あんなものは嫌だ。ほういうことなのだ。

だから、小学校に入るぐらいから
朝は母起きなかった。商売が夜遅いから。
一人で起きて、一人でトーストを焼き牛乳を温めて学校に行く。
思い起こせば、幼稚園だって園バスはなく、一人でバスに乗って通ったのだ。

なぜか。親はいつ死ぬかわからない。
その時のためにどこででも生きていけるようでないと困る、だと。

竹薮に子供時代はなかった。

よって、学校がどうかなんて関係なかった。
そんな二人に教育されたのだ。
実力行使で。

普通に育つわけがない。
というわけで、アウトカーストのいっちょあがり。
「カースト?なにそれ、美味しいの?」だ。

普通になりたいと思ったことはある。
それは肌がアフリカ系のように黒くなりたいというようなもんだ。

でも、今は感謝している。
自由だから。
少なくとも、社会を最初から相対化してるので。
物事を考える時、2段階ぐらい飛ばせる。
その代わり。普通の気持ちがよくわからないので、
ここが要注意。
平気で問題発言してしまう。

今日、ツイッターで若い人に出会った。このかた。

穏やかな自由人だったのだろう。
産婆さんは命の現場なので、社会的ルール云々言ってられない。
昔の高等遊民はちゃんと古典に当たって自由に考えていただろう。
(父もそれ。高等遊民。暴力的だけど)
そこから愛された育てられたお孫さん世代。

社会の規範を相対化すること。
それをごく初期で学ぶと楽なんだよ。

上昇なんかしなくていい。
地べたに降りろつの。
ね。

**************

今日は、「タクシー運転手」を見てきました。

いやあ、気に入りました。
なんてったって、こ難しくない。
うるさいメッセージがない。
そこら辺にいる人の話なの。
ドイツ人も韓国人も皆、理念なきただの人。
これは戦略だと思います。
国家が自国の民に銃を向けるんだって分かってるか?
大事なのはそこだけ。
そこだけ覚えておいてほしい。
そのためには、そこら辺の人だけで、構成する必要があった。

人情話にカーチェイス、銃撃戦。
徹底的にエンターテインメントテイストで楽しめて、
ある意味ハッピーエンド。
光州事件で市民側も発砲したことは描かれず、
情報の共有で物語を解決する当たり、技ありです。
おすすめです。

今は都内でも三館しか上映してないけど
きっと細く長く上映されるんじゃないか
そんな気がしますが、でもお早めに。

**************
今日は、端午の節句

我が家では大体、中華おこわです。
炊きおこわなんですが、
我が家の炊飯器、赤飯はたいてくれるのに、
中華おこわはちゃんとやってくれる確率が半々くらい。
今日も、炊飯器のできたよという音で蓋を開けたら
ありゃりゃりゃりゃ
慌てて圧力鍋に入れて加圧しました。

なぜだろう?

**************

画像はに一昨年まで我が家のベランダにあったホトトギス
去年、一昨年で我が家のベランダは随分寂しくなった。
この冬の何度もの雪で丈夫なカランコエも、
袋をかぶせたんだけど凍らせてしまった。
残ったのを少しずつ挿して
また増やそうと思う。

ホトトギスも、またどこかで出会いますように。
それからトキワツユクサも大好きな多年草なんだけどなあ。
なんか要注意生物らしい。







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2018年05月03日

肌色の指氏のこと。

旧館の再録です。2005/2/27

昨日ツイッターで「肌色の指」という言葉を使ったので
その絡みで再録。

ここから旧館
**************

《 とっても楽しかった肌色の指氏のウェディングパーティーレポ
 》

 竹薮が祈念しなくても末永くお幸せ間違いないお二人ですが、でも祈らずにはいられない。
 お幸せに!!
 
結婚披露のレポートではなく、ひとつの夫婦のかたちの竹薮流レポートです。
  結婚というのは「愛しあって」するもんだと思っている人は多いとおもうけど、実は違う。

 それはね。。

*肌色の指氏のこと
 緑の指という言葉がある。どんな植物も生き返らせる指のことだ。それを人間におきかえたのが肌色の指。鍼灸整体などの施術する彼は、そのような肌色の指の持ち主であった。彼が「元気堂」という自分の店(?)を開き、そのカルテナンバー1が竹薮なのだ。
 彼の指はアクティブセンサーだ。いくとまずベッドにすわる。肌色の指氏は竹薮の後ろに回り背骨の両脇をすっすっすっと撫でる。そして例えば次のようにいう「竹薮さん。先週はずいぶんごちそうたべましたね。そしてへんな姿勢でねむって、左手で長い間重いものをもってましたか」ピンポーン!!その週竹薮は車で田舎に帰省し(行帰りの各八時間竹薮はただただ惰眠。当然変な姿勢だし。)田舎で接待され、姪っ子のだっこだっこ攻撃を受けていた。(左手でだっこして右手で家事をしていたのだ)すごい。黙って撫でればぴたりと当たる、いや、当たるじゃない、分かるなのだ。肌色の指の命名は真実なのだ。
 余談だが、竹薮は小さい時からマッサージを受けてきた。いわゆるマッサージさん/あんまさんもいれば剣山の修験者さんとか、いろいろだ。ばあちゃんが、ずっと躰の手入れと称してうちへきてもらっていたので、竹薮も御相伴にあずかっていた。その感じのながれだが、鍼灸やマッサージというのはある意味、躰を預けることなので、信頼関係やコミュニケーションがないとなりたたない。早い話すきなひとにしか触られたくない。だもんで、10分1000円とかいうゆきずりのマッサージはどうもいやだ。足なら足だけ切り取られてそこだけぎゅーぎゅーやられてもきっと気持ちよくないだろうと勝手に思い込んでいるのだ。
 その点で肌色の指氏は最高のひとだった。身も心もというが、ほんとに気持ちいいのだ。躯も気持ちもはては悪い因縁までほぐれて流れていきそうな気がする。そんな感じだ。いっぺんにファンになって、せっせと通った。最初はベッドに横たわったら眠ってしまっていたが、いつ頃からか、1時間ずっとおしゃべりするようになった。四方山話ではあるが、お互いの興味のすすむままに、呼吸、食べ物、セラピー、カウンセリング、その他もろもろ現代人がもっと元気に楽しく生きていくためのトータルなコーディネイトのようなものを模索する彼の話は話していて非常に楽しかった。
 そのような流れの中で残念ながら、かれは店(?)を閉じることになった。

 琉球の船、サバニに惚れ込んで、海と戯れることで、自分のなかのバランスをとり戻そうという、そんな企画を計画中なのだ。いいな。たのしいな。海で叫んで、船にのって、つかれたらぷかぷかうかんだり、砂にうめてもらったりして、夜になったら流木でたき火して、火の周りで歌ったりおどったりする。竹薮は勝手にそんなふうに想像している。素敵だ。
 
*妻になる人
 通いはじめてしばらくして、かわいらしい人を見かけるようになった。きけば妻君だという。いい意味でうまれたままのような人で、ほんとに裏も表もない。とてもかわいらしい人だった。「ひまわりのような」という形容がパーティーの中でなされていたが、それよりもきんぽうげとかマリーゴールドとかそんな感じだ。肌色の指氏からきいたエピソードで一番好きなのが、しょっちゅう「腹巻き」をさがしているってこと。でも、天然というのではなく、感情もたっぷりエネルギーもたっぷりで、喧嘩したら賑やかだろうなと思われたりもする。そんな感じの人だった。

 竹薮の思い込みだったのか、妻君はピアカウンセリングをする人とばかりおもっていたが、昨日のパーティーで彼女の肌色の指の持ち主だとわかった。そうなんだ。ほう。

 竹薮ばあちゃんもよく通っていたが、彼女に施術してもらったことがあるという。いいなあ、竹薮もやってもらいたかった。
 その他昨日披露されたエピソードでは、大学在学中に大学を休学して中南米をひとりで放浪したとか、先に告白したのは彼女のほうだったとか、パワフルなエネルギーがまんまん。それでいてかわいい。実にいいキャラだなあ。
 
*二人がつくり出しているもの
 好きだから結婚する。それは結構、でも結婚が恋愛と結びついたのは人類の長い歴史のなかではせいぜいここ3、4百年のことだ。その中でも前半は恋愛というのは貴族という不労階級の娯楽だった。多くの人が恋愛によって結婚するようになったのは、日本では戦後のことだ。それまでは見合いだった。時期がくると見合いして、顔もみずに結婚して何人かのこどもをもうけ、育て上げ、老いたのだ。信じられないというのは結婚を「愛だけ」で考えるからだ。結婚とは別の世帯をつくることだから、一番大事なのどんな世帯をつくるかという「生活設計」なのだ。顔も見ないでした結婚がうまく行くのは、その二人が思い描いている結婚生活のイメージが一致しているからだろう(もちろん堪えて忍ぶものもあっただろうけどね)一致する(釣り合うというが)ように周りの大人が選んでくるだからうまくいくのだ。ところが、今はそういう生活の枠組みがくずれてきている。核家族、少子化のなかでの子育て、介護、遠距離通勤、単身赴任。地域の力や「イエ」の力がなくなってきたところで、新しく出てきた事態に対応するのは「愛」だけの夫婦二人。垂れ流されるのはテレビなどの現実感のないホームドラマ。それを理想と勘違いして、なおかつ自分達の生活のビジョンをつくりだせず、それを「愛がない」の一言で片付けてしまう考えなしでは、うまくいかないのは当たり前だ。
 結婚とは、だれとどういう生活を作っていくかという決断であり、好きな人と一緒にいたいというのはその一部の現象に過ぎないと思う。愛より信頼の方が結婚では役に立つ。ちがうかな。
 さて、今回のお二人は、<快医学>が出合いだ。快医学というのは鍼灸や整体にとどまらず、躯のあり方、呼吸、食べ物、運動など、さらにそれらを支える生活のすべてに関わる考え方とっていいと思う。だからこで出会ったふたりの生活のイメージが異なるはずがない。こんなふうにくらしたいということと、この人と暮らしたいというのはイコールなのだ。理想的な結婚であることは間違いない。生涯いいパートナーとしてくらしていかれることと確信している。
 手前味噌だが、竹薮のところの生活指針は男女共同参画だな。きちんと話し合うこと。だもんで我が家は喧嘩しません(だいたいってことね)。はなせばわかるもの。んでもってはなして納得したことはそのようにするんだけど、納得の行かない感情(わかるけどやだってやつ)上手にすねること(20年立つと呼吸がわかってきます)それと生活の重視。みんなでいっしょに御飯食べてること(だから夜働くのはなるべく止めよう、それにこどもも塾にいかない、お金がないせいもあるけど)そして夫婦して自分の子だけでなくよその子も一生懸命そだてること。だいたいこんな感じだと思います。

*パーティーの模様
 ようやく、パーティーです。青の好きな新郎と黄色の好きな新婦のために緑色のものを身につけてという指定。そうなるともう全身緑にしたいのは竹薮の性質。クロゼットを引っ掻き回しました。会費1万5千円のパーティーだからセーターというわけにも行かないだろう、スカートは笹色、スカーフは杉の葉色。靴もソックスの緑系統に、帽子とバッグとコートはくすんだウグイス色でばっちりだが、トップがきまらない。結局挫折妥協。。。でも、会場につくと、そんなに真緑ではなかったな。若竹色の色無地を着てる方がいらした。ああ、その手があったと後悔。ま、いっか。
 会場にこられたのは、親御さん親戚縁者の方々のほかは快医学関係の方が圧倒的多数。みなさん楽しい方だった。というのが快医学故だと思う。つまり仕事バカな方がおられない。モーレツサラリーマンなんていう貧しい生き方をすてている。脱サラしてしまったという方も何人もおられた。竹薮のお隣の方がいみじくもおっしゃった「一つしかできないってだめでしょ」大賛成!!
 もちろん一筋の道を貫くということはある。
 しかしね。生活のなかには様々な要素がつまっているものなのよ。
 問題主婦のコンセプトは「主婦/夫は全教科を網羅したジェネラリスト」ということ。すべての人が、育て、看取り、仕事し、生活し、社会的な活動もし、豊かな趣味を持ち、そのすべてを楽々とこなしたい。(今は青息吐息だけど)
 つまり「一つしかできないってだめでしょ」
 みなさん、そのような多才な方々でお話し上手、たのしく過ごさせていただいた。ひとつだけ例をあげるならば、坂本弘道氏だ。アバンギャルドなチェロ奏者。かれのサイトはこちら(現在の情報という意味でツイッターをリンクしました。2018年追記)竹薮としては維新派と渋さ知らズといわれればもう降参だもの、で、その生演奏を5メートルぐらいの距離で聞きかつ見られたことは大収穫だった。
 演奏はほんとうにすばらしかった。即興演奏だが、即興でフレーズを作っていく片端からサンプリングして、それにまた演奏をかさねていくのが瞠目ものだった。生なのに、一度もとぎれることなくどうしてあんなことができるのだろう。カウントするだけでなく呼吸が何層にもなってないとできないんじゃないかと、漠然とおもった。ベースのようにひいたり、ギターのようにひいたり、鍼灸師のあつまりだからとマッサージ機でひいたり、エンドピンで火花を散らしたりと多彩。チェロをいじめたり、愛撫したり、氏とチェロとの関係はただならぬものがあった。
 しかし、その演奏ぶりだけでなく、そんな演奏をする彼が酒とたばこにおぼれ、演奏前にはSを一発きめるとかではなくて「快医学」「鍼灸」というところが今回のパーティーの眼目なのだ。生活破壊からではなく自分流の生活のなかからうまれてくるもの。ほんとにいいものを聞かせていただいた。
 その他にも司会した方、全体のアレンジをした方、カメラマン(この方もカンヌで受賞した作品のカメラマンでした)琉球舞踊を踊っていただいた方など、多くの方が自分の気持ちと技をもちよってできあがったパーティーでした。参加者も全員スピーチ。このパーティーは皆の出合いの場でもあるからだ。そのような、つながりの中心の結び目に肌色の指夫妻がおられるのだ。
「幸せと愛と希望にみちあふれたパーティーでした」
二人は、列席者とこれから彼が作っていく「サバニ」という琉球船の模型の前で宣誓し、皆で踊りを踊って、パーティーは終わった。
引き出物は新郎の母上の彫った御盆。お菓子もどなたかが焼いて下さったフルーツケーキ。(全員分だものすごいよね!!)ひとつひとつにカードがついており、新郎新婦の印がおしてある。実は、この印は竹薮ばあちゃんが彫ったもの。ばあちゃんもかれらのファンなのだ。
 これだけのいい人があつまって、だれひとり儀礼でなく、こころから楽しんでいて、いい気持ちになって、お幸せにと祝福する結婚に実りがないはずはない。雨がふり、風も吹き、山も谷もあるだろうけれど、そのたびにお二人が力がまし、ますます弥栄であることを信じます。
  おっめでとう!!
**************
ここまで旧館


その後
なんと肌色の指氏とは一昨年再会します。
きっかけはこれです。
三宅洋平・選挙フェス安富歩スピーチ
肌色の指氏が三宅洋平氏の選挙で安富先生がスピーチしたと聞き、検索したら、動画と書き起こしがあって「それが竹薮さんだったから笑ったよ。やっぱなあ。」とのこと。肌色の指を堪能したければ、いつでも沖縄へどうぞとのこと。どこでもドア〜〜〜〜!

しかし、
昨日、全く別の肌色の指に出会った
なんと小二の女の子。

肩揉んであげるとふにゃふにゃと肩に触れる。
それがちゃんと焦点があってるのだ。
力は全く入ってない。
しかし、ちゃんとツボに当たっていて、なんとも言えない快感。
体が緩む。ふにゃーとなる。
これ布団の上でやられたら、一発で寝落ちする。
全くもって天才!!としか言いようがない。

この手の感性をなんとか守りたいものだ。
熱望する。
おばちゃんは、また触って欲しい。
今度は横になって。



takeyabu31 at 21:53|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧館 問題主婦の主婦論 

2018年04月27日

教育格差今昔、最近色々教育について思う。

こんな記事を読んだ



それに関してまとめがありまして。


今どき、大学ってどこにあるんですか?
とは驚いた。

それに対してこういう意見もある。





確かに、単純に田舎か都会かというだけではなくて、そういう人がどうして生じるかと考える時、なんともはやと思わざるを得ない。

竹薮が大学進学で上京する時、うちで働いていたおばちゃん達が何人か訪ねてきた。識字できない人たち、小学校卒業もおぼつかない人たちだ。おばちゃん達は一番安い図書券を一枚、ちり紙に包んで竹薮にくれた。

さて、おばちゃん達は言った「みさえちゃんは日本大学に行くんやろ」
え?「いや、日本大学とは違う」
おばちゃん達は一様に気の毒そうな、残念そうな顔をしてまた言う。
「いや。どこでもええ。頑張ったらえろうなる。」

母の説明によれば、「日本大学」と言うのは、リアルの日本大学を指すのではなく、「日本の大学」と言う程の意味で、おばちゃん達は竹薮の進む大学は日本で一番いい大学で、それは日本大学だろうと思っているのではないか。だから、進学先が日大でないと聞くと「日本大学」に落ちたのだと思い、気の毒で残念だと言う表情になったんだろうと言うことだった。

おばちゃん達の中には、非常に優秀な人もいた。目から鼻へ抜けるようなと言う表現そのままの人。母は「あの人に教育があったら」とよく言っていた。子どもの竹薮もそうだろうなあと感じていた。

明治生まれの父も大正生まれの母も旧制の中学校、女学校を卒業していた。家には本がたくさんあり、望む本は大抵買ってもらえた。小さいときは美術館、映画館、自然観察、父や母に伴われて通った。学校以外の世界、価値観があることが我が家の大前提だった。おばちゃん達はそのことをよく知っていた。
「みさえちゃんとこは大将も奥さんも学校行っとるから、みさえちゃんも学校行くんや。
 わたしらは学校行っとらんから。」
おばちゃん達は教育を受けたかったんだ。
だから、その代わりに竹薮を応援した。
小さい時から竹薮が本ばかり読むのをえらいえらいとほめて、
学校帰りに会えば、ランドセルを持ってくれた。

おばちゃん達の子供達は大抵は中卒か高卒だったが、中に一人、早稲田を出た息子を持つ人がいた。何人かの息子の中で一人優秀が子がいたのだ。就職試験で新聞社を受けた。面接用にくたびれたシャツではなく、まだ白いシャツをとってあった。でもその面接の日に弟がデートでそのシャツを着て出かけてしまった。兄は仕方なくくたびれて黄ばんだシャツを着て出かけ、服ではなく中身を見てくれと訴えた。その甲斐あって見事合格したと言うのが、そのおばちゃんの繰り返す自慢話だった。何度聞いたろうか。でも聞く甲斐があった。おばちゃんが幸せそうだったから。

おばちゃんが息子さんを大学に入れて出すのにはどれほどの苦労があっただろう。
でも、その苦労は報われる苦労だったのだ。

さて、冒頭の記事の話だ。
あの記事を読んで、なんと言うか時代が逆行しているかのように思えた。

おばちゃん達は皆大学に行くことが良いことだと思っていた。
なんであれ、子どもに力があれば大学に行かせようとしたのだ。
半世紀も前に。

それがなんでこうなってしまったのか。

それは、大学行くことが意味を失ったからではないか。
誰もかれもが同じ方向を見て、その見通す距離が遠いか近いかではなく
大学という方向を見なくなったということは考えられないだろうか。

世の中が拡大再生産なら上昇志向を展望できるだろう。
だが、そうでないなら。
上昇志向ではなく内向きにならないだろうか。
狭い世界の中で、世界を狭いまま維持することに注力するのではないか。
そしてジリジリと後退戦を戦っている。そんな気がする。

竹薮が子どもの頃、カノンがあった。
カノンというのは正典、標準、物事の基準になるものという意味だ。
例えば、百科事典、文学全集、大河ドラマ、新聞
これらは子どももアクセスするもので、当然のように吸収した。
そこで知識や感性の土台を築いた。
そのことで社会が多かれ少なかれ同じ価値観を持つ。

だが今は、我が家にもそれらはない。
竹山と竹薮は百科事典や文学全集を卒業しているし、それらの知識に基づいてインターネットを使う。大河ドラマと新聞は今もデフォルトとして続いているが、タケノコ達には継承されていない。タケノコたちの子供の頃読んでいた児童書は、竹薮の読んだものとは比べ物にならないくらい素晴らしいものだったが、その後はそれぞれの趣味の世界に細分化して行くばかりでカノンとはならなかった。

田舎か都会かということも、同じ町でも見ているものが違うということも、このカノンの不在が共通しているように思う。カノンが複数あるとか、小さなカノンがたくさんあるとかならまだいい。しかしカノンの不在だ。そして現状維持。

さっき伊勢崎賢治さんのツイートで次のような発言があった。


これだ。主権なき無思考。
一人一人だって同じだ。
主権なき無思考。

この言葉を読む前に、「理想は両親だというのが模範」という言葉を読んでひっくり返りそうになった。竹薮たちの若い頃は「あの人」とか「下宿のおばさん」とかいうのが普通だった。家庭以外に準拠するものがあった。理想は両親!なんと世界が狭いのか。

大学なんて見えないはずだ。

さあ大変だ。
今更、昔みたいに、百科事典、文学全集、大河ドラマってわけにも行かない。
おそらく一種類のカノンではなく何層にもなったカノンの作成が大事で
層というよりパズルみたいなものかもしれない。

各人が自分のカノンを自分の人間関係の中で築く。
それを他のカノンとすり合わせ調整して行く。
そんなことだ。

大変なことだ。

考えてみれば竹薮のやってることはそれかもしれない。
これをみんなでなんて気が遠くなるような。。。

そのための憲法かもしれない。
なんたって憲法は Constitution だ。
要素とその構成というのは考えることの基本だし、
自分が住み生きる社会について考えるというのは
いいカノンになるじゃないか。

基本的人権、大事なの当たり前じゃない。
じゃなくて、なんで大事だか、わかってますか?みたいな。
国民主権、大事なのに、なんでみんな今国民主権を虚仮(コケ)にされてて、なんとも思わないの?みたいな。平和主義だっておんなじだよね。愛も平和もぜ〜〜〜〜んぶ、主権なき無思考。

卓袱台はすでにひっくり返ってるんだよ。

**************

今日は歴史的な日でした。
朝から、そわそわ
9時半にはテレビの前でスタンバイ。
でも10時過ぎには外出の予定があって、仕方ないのでabemaで不安定な中継を見ながら出かける。

お二人が手を繋いで境界線を行ったり来たりするのを感動と感慨を持って眺めた。
よかったよかった。
金正恩という人があんな声であんな口調であんな風に話すのだと知った。
話ができそうな人だと思った。

お二人は、新たなカノンを作ろうとしておられる。
拍手で迎えたい。



takeyabu31 at 22:49|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) 

2018年04月24日

芸のない奴は本当に困る。

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アホな次官のせいで、「あ」の人はドキドキしてるというが、それはいいことだ。でも、アホな次官をアホだというだけでは何も考えてない。今日は雨だ、鬱陶しいというのと同じだ。さらに、アホな時間は雨ではない。よって考えるべきことを考えねばならない。

竹薮は男子校に進学したので/男ばっかの大学に行ったので、周りには脳内に性的妄想を飼っている男子ばっかだったが、あんな表現をする人はいなかった。そして、彼の言葉遣いには一切熱がないので、あれは一種のコプロラリアみたいなものか、性依存があるのかと思ったりもする。それにしても、あれほどの地位にある人が自分自身の病的な傾向を自覚していなかったとしたら、これまた問題だろう。

で。その男子校で
卓越したお座敷芸を持った男子がいた。
合宿に行くと酒宴で彼の芸が見られるので竹薮は非常に楽しみにしていた。
検索してみるとこれだと思われる。
なんともありきたりのものだが、彼の踊りは非常にうまかった。リンク先の記事内にも青年団で継承されているという記述があるが、彼の場合もそれだった。ねじり鉢巻を巻いて大柄の彼が楽しそうに踊る様はなんとも穏やかで豊かな農村の風景を彷彿とさせる。労働の終わりの祝祭できっと代わる代わる唄われ踊られていたに違いない。そんな風に思わせる芸であった。

ある時、大抵は一人の竹薮の他にも女子がいて、その芸に遭遇したのだが、前もって予告しておいたにもかかわらず、終わって振り返ったら女子たちはいなくなっていた。なぜか恥ずかしいから。

こんないいものを眼前にして恥ずかしいとは何事か。
まあ、しかしそんなものかもしれないが。

この踊りは個人の性欲の表現では全くない。

性は、生物としての人間になくてはならないものだが、それはあくまで人間としての性であるから、文化の色彩を帯びる。動物と違って発情期がなく365日、性が可能な人間としては、そこに文化装置を持ち込まざるを得ない。文化は共通の前提となり、それに従って性は分配される。その1プロセスとして、この踊りはある。

もちろん、AVやアダルト小説やビニ本の類も文化だろう。
だが、あれらはあくまで個人的な欲望処理の手段であって、表現を目的としていない。
その違いは大きい。

地域でビニ本の自動販売機を撤去させようという運動があった時、竹薮はもちろん存続派で、そのまんまおいとく方がいいという論を述べた。母親たちが撤去せよというのは、自分たちが対応不能だからで、対応不能と言っても見て見ぬ振りをすることのストレスさえ許容せず、汚いものを排除しようというセコさを自覚すべきだと説得した。

というような状況だから、表現としての踊り自体、恥ずかしいもので受け入れられるはずはなく、何でもかんでも排除、撤去だ。貧しい限りである。

ご清潔、ご健全で、ご立派な市民社会様には困ったものだ。

その結果、他者に対して性を表現するのに、あのような稚拙なスキルしかない男が出来上がる。
そんなんでいいのか。

歌麿の描いた春画とかどうなるの。ダメなの?

リビドーとエロスの関係をいうまでもなく、性は生である。
その性を否定するから生が貧しくなるということをもっと理解しようよ。

院で、英米法の教授がお前らの助詞はなってない、文章読まずに写真ばっか見て(政敵)妄想するからそういうことになる!今の日本のエロ小説で女子の使い方が優れているのは誰だ!と聞かれて、答えたのは竹薮で、おかげで教授に大層褒められ学期中のレポーターを免除された。男子院性は当然画像派なので、宇能鴻一郎を知らなかったのだ。

今の若い人たちはネットでプロではない人の書いた文章を読んでいるのではないか。
それはなんというか気持ちのいい排泄行為であって、性表現の洗練には繋がらない。

me tooの運動が盛り上がった時、フランスでカトリーヌ・ドヌーブが性の自己決定のために「いいよる権利を擁護する」という声明を出した。よく理解できる。巧みにいいよるスキルがないからセクハラになるのだ。若いものがスキルがないゆえにストレートになるというのとは違う。スキルがないくせに居直って不躾、無遠慮、無神経に性欲発露するのがセクハラだ。

東大出の事務次官と違って、世襲の大臣はちょっとは色事の心得があるかと思ったら、とんでもないし、若い女性を就職商会と騙してデートレイプする権力筋とか、女性専用車両にわざわざ乗り込むとか、もう本当に情けない。

それほど世の中、ご清潔、ご健全〜〜以下略

先の踊りが継承されるような場を追放してしまったのは、大間違いだった。
そういう場では性的偏見も継承されるので困ったものだが、それはそれ、科学的知見も入れて(これは学校とか表社会の役割)文化は文化でとっとくべきだった。

だが、すでに遅し。

なくなったここから、どのような性的文化を育成して行くのか。
誰かがきっと、これぞ我が使命と秘められた情熱を燃やしていることを望む。

あ、叶恭子様がおられますね。

**************

新年度二週目
わりと元気にしています。
体が動くのです。
ありがたや。

写真はある日ある時の竹薮のキーボード近辺
リバーズエッジ、ペンタゴンペーパーズ、富士スピードウエイのチケットと
水族館劇場で宇内さんが撒いたお札。

<今日の夕飯>
鯵とカジキのフライ
キャベツ、人参、ピーマンのコールスロー
大根葉の炒り煮
白菜、大根、油揚の味噌汁

アジフライよりはイワシのフライが好きだなあ。
今日は鯵も鰯くらい安かったので鰺にしてみたけど、次は鰯だな。



takeyabu31 at 22:14|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) | 長電話(日記/告知)

2018年04月14日

2018水族館劇場公演「望郷オルフェ」ー来たるべき追憶の後にー



今年も水族館に行くことができた。
年に一回、あのテントの中に入ること。
その時、誰か始めて見るという人を伴うこと。

これが竹薮の水族館ルールだ。
これまで何度も何度も通ってきたが、だいたいそうしてきたと思う。

昨日、前芝居の始まる前の動画を古い友人に送った。
古い友人とはこの人
彼女はネット世界からいなくなってたので、ちょっとご無沙汰だった。
で、どこに動画を送っていいたわからず、ウロウロ。
誰かと電話で話すなんて最近滅多にないんだけど、駅から家まで自転車を押しながらおしゃべりした。元気そうだったよ。

朝起きたらツイッターにメンションがきてた。
いっぱい入ってました?娘が水族館デビューできるまであと10年くらいかな?水族館劇場が続いていれば是非みさえさんに連れて行ってほしいものだ、それまで元気でよろしくブルドック。
娘の母と水族館に行ったのは何年前か。それこそ10年以上前で駒込大観音だった。二人で幕間の玉ちゃんに熱を上げキャーキャー言ったのが懐かしい。なんか、元気が出る。それまで元気でいないと。水族館も頑張ってもらわないと。

つまりさ。水族館劇場はなんというか、実家に帰って行くお祭りのようなもんなんだ。
それは、文化とか芸術とかそういう論ずるもんじゃなくて
実家のお祭りなんだ。竹薮にとっては。

水族館劇場ではなく、前身の前身、曲馬舘として法政で公演を打った時、水族館の「水」はバスタブ一杯だった。二階建てになってる舞台の二階下手にステンレスの風呂桶が置いてあって、それをひっくり返すのだ。それだけでも十分驚いた。

その時はせっせと法政に通って、客入れもしたなあ。
「さあて皆さん、もうちょっとコブシ一つ詰めてみましょうか
 左右から真ん中の方へ
 せぇ〜のぉっ、よいしょぉ!」

あちこちから河原者が手伝いにきていて、
打ち上げの時、大阪からきたやつが白黒ショーでストリップに出ないか?誘ってきた。
あの時うんと言ってたら竹薮の人生はどうなってたんだろう。

というわけで付き合いは長い。

まず。このブログで書いてきた記事で検索で引っかかるのは以下の三つ
もっとあると思うんだけどなあ。発見できず。書かなかったのかもしれん。
昨年も書いてないし。

2007年花綵の島嶼(はなづなのしまじま)へ

2008年Noir 「永遠の夜の彼方に」

2009年メランコリア:死の舞踏
 この記事には亡くなった入方さんのコメントがあります。

この後、しばらく竹薮は欠席。
鬱と震災でいけなかった。
一度は福岡まで行こうと思ったのだが、色々あって無理だった。
水族館も都内での公演場所を失ったりしたこともある。

そして3年ぶりに昨年花園神社で興行と相成った。
それが、昨年。「「この世のような夢」
もうひっくり返りそうになった。
それは千代次さんと風兄宇内さんが物語の外に出ていたからだ。
お二人は水族館の看板女優でかけがえのない存在だ。

その二人が物語の外にいる。
イマココを生きてない。
ショックだった。

この世は終わりだってことの宣言。
陰に陽に表と裏にウロボロスを転生してきた二人。
その二人が世界の外にいるってことは世界はもう生きてない。
そう思えた。

しかし、物語終盤の水のところで息を飲んだ。

セットが左右と後ろにはけて滝の様な水が降る
その中に舞台の下、奈落の池から竜が躍り出るのだ
その龍を操るのは舞台製作の男たち
大量の水と、水を含んで重たくなった龍を動かすために気合いのこもった掛け声を出す
やあっ!とぉっ!だぁっ!
バックライトを浴びて水のスクリーンに男たちのシルエットが映る。
その力と美たるや、屋台崩しを上回る迫力で本当に素晴らしかった。

屋台崩しと水そのものではなく、それを操る舞台製作が主役になった瞬間だった。

そうか。まだ世界は終わってない。
こうやって何度も何度も生み直し生き直してきたんだよ、人類は。

その製作の一員が盟友植木屋さんで、最後の挨拶の時にセットの一番上にすっくと立っていたのが頼もしかった。

そして今年、
千代次さんと風兄宇内さんが帰ってきた。
見るなの禁止とともに。

記憶の中に別の「見るな」というメッセージがある。
それはこれ
見るなといって演じる人と
見るなといわれて見るわたし

見るなよといわざるをえない構造の裏側に気付く

どこまでも「わたしはここよ」といいつづけなければならない千代次さんも、世の汚濁のなかで石を積みつづける宇内さんも、それでいて「見るなよ」という芝居をやることは辛かろうと思う。でも、きっとそれは彼女たちの中にある「パンドラの箱」の最後の一言なんだ。

その一言をいってしまった水族館劇場は次にどこへいくのだろう。
世界の底も抜けてるよと知ってると「口にして」しまったら。
芝居という生活そのものを「世界の底」とすること。
わたしが年に一度、水族館に通うことを「大晦日」とするように。
2009年のメランコリア「死の舞踏」のなかにあった。
その時感じた「見るな」は演じるものと観客の関係にあったようだ。
今年、前芝居で「見るなよ」を聞いた時、以前のそれとは違ったように感じた。
すると次に織戸がオルフェウスと言った。
そうか、オルフェウスの「見るなの禁止」か

これは。。。。

見るなの禁止とは多くの神話や民話の中にある決して見てはならないというタブーのことだ。
鶴の恩返しがわかりやすいか
見てしまったら、その世界は維持されないのだ。
イザナミを追って黄泉の国に入ったイザナギが、イザナミに見るなと言われたにも関わらず見てしまったために、二人してこの世に帰れず、別れてしまう。
オルフェウスも妻を助けに冥界へ行くが、その妻を助けるには決して振り向いてはいけなかった。だが、オルフェウスは振り向いてしまう。その結果一人でこの世をさまよい続け、非業の死をとげあの世でようやく妻に会う。

パンドラの箱もそうだ。決して開けてはならない箱。この箱は火を盗んだプロメテウスを懲らしめるために作られた「女」に持たされたものだ。(もちろん、プロメテウスの盗んだ火は「原子力」なんだけど)女パンドラは好奇心に勝てず、箱を開ける。いろんなものが箱から逃げ出し、慌てて蓋をしめ、希望だけが残ったという話だ。

つまり、今回の見るなの禁止で問われているのは、
世を世たらしめている国生みの秘密を見るか見ないかだ。

その秘密を知ろうとして行方不明になった恋人「織戸」
その織戸を探す女探偵りら(千代次さん)
秘密の只中にいる新興宗教「朱の会」親方(風兄宇内さん)

秘密を見た宇内さんは現実世界で鐡(クロガネ)組と繋がり原子力発電所を誘致させ、その結果苦しむ人々を宗教世界に吸収している。(朱の会神殿で一心不乱に祈る人々が皆タイベックを着ているのはゾッとした。)

世界の秘密を覗いてはいけない。
覗いたら世界は終わるよ。

このタブーは強かった。
だから、人間は覗かないで、これまできた。

しかし、3.11が来た。

覗こうが覗くまいが世界は終わってるじゃないか。

今年、屋台崩しはなかった。
セットはいくつものパーツに分かれ、押したり引いたり回したり。
そして水はふんだんの噴き上がり、滝のように降った。
クレーンで空中ブランコが舞い、秘密を孕んだまま焼け落ちた銭湯が吊り上げられ、
その中で千代次さんと宇内さんが声を限りに最後の歌を歌った。

もちろん、物理的な問題もあろう。
屋台崩しをやるためには、そのようにセットを設計せねばならず、崩して組み立てるには人手が必要だ。
しかし、物語に世界を崩す必然がなければ。。。
もう世界は終わってるのなら、崩す必要がない。

去年は龍が世界を再構成した。
今年は底の抜けてしまった世の中で人々は出会うべきひとに出会えないまま今日をひたすら生きている。りらと織戸もこの世では結ばれず、銭湯の父と娘も出会えず、双子の武と月子も生き別れ、クズ鉄屋のシノダとふうちゃんの夫婦もやはり添えない。

みんな一人、時間と空間の波間に引き波にさらわれ、寄せ波に打ち上げられたように。

冒頭千代次さんが唱える中也の詩
海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪(なみ)ばかり。

曇(くも)った北海の空の下、
浪はところどころ歯をむいて、
空を呪っているのです。
いつはてるとも知れない呪。

海にいるのは、
あれは人魚ではないのです。
海にいるのは、
あれは、浪ばかり。

私たちは実体のない波である。
寄せては返す波である。

「あはれ」というしかない。

しかし、
見るなと言われて見ないで生きたものたちと
見るなと言われても、
その見てはならないものがもう「スカ」としか言いようがないということを
知っている私たちとを

同じということはできない

再びパンドラの箱に戻る

パンドラの箱を開けたからこそ、希望を残すことができたのなら
絶望したものだけが希望の道に至るのだと言えないか。

物語は大きなカタルシスなく終わる。
それは
まだ私たちが希望に指をかけていないからだと言えないか。

来年、再来年まで
身体一つで一心に絶望し、希望を確信せよ。

そんな宿題をもらった気がする。

**************

いや、しかし
あの客の入りは何?
半分しか入ってないよね。
桃山が首くくらなきゃいかんかもしれないと行ってたけど、マジでやばいの心配してます。水族館に行けば、木戸や場内に「えっちゃん」がいて、芝居がはねたら、宇内さんと千代次さんにハグして、桃山が中に入らないの?と誘ってくてるのを断って帰るのが最近の習わし。これがなくなったら、実家がなくなる感じだよ。

だから、みんな見に行って、体感して。

色々めんどくさいことを上に書いたけど
そんなのどうでもいいから。
あの空間を体で浴びて感じてほしいの

だから是非、行ってください。

それともっと声出して手を打って楽しんでください。
お行儀よすぎ
月子の空中ブランコにやんやの喝采してちょうだい。

一番上の動画は今回の前芝居。

津波と千代次さん
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最初っから飛ばす宇内さん
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今回の目玉空中ブランコ
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昨日の整理券
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4の札の下が今回のチケット
水族館のチケットは味気ない機械の打ち出しではありません。
ちゃんとデザインされてます。
だからずっととってある。とっとける。



takeyabu31 at 15:53|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえ(遊び) | 長電話(日記/告知)

2018年04月12日

昨年度の受験事情まとめ

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どうもなんだか疲れているなあと自覚して
なぜだろうと考えて、細々いろいろな活動をしていることのほかに
昨年度の異常な受験事情があったと思い至った。
なかなか進学先が決まらず、三月受験をしている生徒も少なからずいた。
進学先が確定している子達もニコニコ顔というわけにはいかない状況だった。

本当に生徒たちは巻き添えを食った。
政府の方針を受けて初めての入試。
これほどのことなんだというのは、事実は小説よりも奇なりを地でいってる。
これからずっとこうなんだろうと思うと
竹薮尺度というのも大幅に変更しなければならず、
非常に厳しい。

ROMの皆さまはなんだそれとお思いだろう。
問題はこれだ。
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早稲田大学で2049人、法政大学で2011人、減っている。
国の方針で入学定員を超過した場合は補助金不交付となったからだ。
これは地方創生のために都市部の大規模大学への学生の集中を抑制することが目的だ。
この方針は2015年に決定され3年間をかけて徐々に不交付基準を厳しくし、2018年度(つまり今年の入試の合格者)には1.1倍を超えてはならないようにする。2019年度では1.0倍を超えてはならず、0.95〜1.0にした場合は助成を上乗せするという。

入試は私立大学にとって一大事業で、例えば早稲田大学の場合、生徒たちは複数学部を受験する。4学部も受ける子も珍しくない。そうすると受験料が14万(一回の受験が普通3.5万)となる。一月二月に行われる一般入試が行われる前に秋の段階から様々な推薦入試、AO入試が行われる。そして冬の一般入試においても何パターンもの入試が行われる。同一大学の同一学部の入試が何種類もあるのだ。大学は必死に受験させる。しかし合格者は絞る。そういうことになるのだ。

入試は一般に偏差値の低い大学から受験が始まる。
安全校というすべり止め大学だ。そこで合格を決め、徐々に偏差値の高い方に進んで行く。しかし、今年はそこで不合格がきてしまう。ある大学では「補欠」ということがあった。竹薮はいまの職場で30年を超えて毎年受験を見ているが、その大学で「補欠」などということは聞いたことがなかった。その知らせを受けて思わず「なにそれ」と言ってしまった。それぐらい前代未聞だ。

合格者の数をどう読むかというのは上位校ほど合格者と入学者の隔たりが少ないのが自然だ。一般に合格者を多く出してしまうと入学者が定員オーバーしてしまうかもしれず、しかし限りなく定員に近い人数を確保しないと経営は成り立たない。竹薮が入学した当時などクラス名簿に一回も見たことのない学生が多くいた。入学金を納め(ひょっとしたら授業料も)入学手続きをしたにもかかわらず、他の大学に進学した学生が少なからずいたということだ。

この入学辞退がどの程度でるかを読むのは非常に難しい問題だろう。

しかし、補助金カットはどうしようもない。そこで合格者を絞る。
それが早稲田大学の2049人減ということだ。
その2000人がMARCHにきて、MARCHで減らした分が日東駒専にきてとドミノ倒しが続いて、前代未聞の「補欠」になったのだと思う。今年の入試がこんなものだったんだということをROMのみなさまにはぜひ知っていただきたい。
大変な思いをしてその大学に入っているのに、世間にはあまりその厳しさを認知されている感がない。そもそも学校名だけで評価される社会自体うんざりだけど、みんなその評価を得るために頑張ってるんだから報われたい。報われてほしい。
これはある生徒の声だ。よく頑張った子なのでこの気持ちは痛いほどわかる。

竹薮は基本的には四年制大学に進学する子が学年の半分もいるのは異常だと考えている。もっと多様な選択肢があっていい。人生が単線すぎで息苦しい。もっと複線化、複々線化するのが筋のはずだ。だから、大学入学を抑えるのではなく、他の選択肢を増やして、その結果、大学への進学者が減るというのが本来の形だと考えている。

そんなことは国家百年の計なので、ここではおく。

重要なのは、当面、このような厳しい受験が続くということだ。
受験生はくれぐれも安全対策を十分して欲しい。
また受験関係者は生徒たちに十分に情報を流すべきだ。
そして自分の進路を慎重に確定してほしい。

それでも不本意な大学に入学をせざるを得ない場合。
一浪する、二浪する、仮面浪人する
そのように考えるものも多いと思う。

大事な4年間をここで送りたくない。そう考えるもの宜なるかな。

だが、と敢えて言いたい。
不本意なところで活路を開く努力をして見ないか。
竹薮の友人たちにも、その不本意なところで教えている人たちがいる。
彼らは待っている。学びたいと思う学生を。

出会いはすでにあるものに出会うというよりも
作られて行くものではないか。

竹薮に向かって、納得して入学して見たら「周りがチャラい。バカばっか」などという子は意欲と問題意識を持った若者だろう。でも、それはやはり他力本願だ。どんな大学でも、質問すれば答える教員と膨大な蔵書を備えた図書館がある。その二つがあれば自由に学べる。そうやって、そこにはなかったモデルを示せばいい仲間が増えるかもしれないよ。増えなくったって学ぶことには変わりない。

大学は、そういう学生をしっかり支援して欲しい。
これまでとは違う種類の学生がいることを意識して
見出して育てて欲しい。

世の大人の方々は現在では大学がそういう状況であること前提として
もういい加減、学校名で評価するなんていう判断停止はやめよう。

というわけで、今年度初めた竹薮の読書会では大学名を名乗ってはならないことになっている。
そんなものが機能しない人間関係=社会資本を得ることが、大学生活の目標だ。

がんばれ。

桜は春になれば日本中で咲いてるよ。

**************

明日は水族館劇場。
日曜は大人の社会科。
カーネーションの再々放送も始まっている。
月曜から浪人生の授業が始まる。
さて、今年度、どんな出会いがあるかな。



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2018年04月06日

村上春樹「騎士団長殺し」を読んだ。

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昨年、予約しておいた村上春樹の「騎士団長殺し」がようやく順番になった。
上下巻で1000ページ以上。昨日の夕方から一気に読んだ。それを読ませるところは流石なんだろうな。

で、驚いた。
主人公がなんと自分で闘っている。
どうしたんだ、春樹。

だいたい春樹の男はとんでもない。

「神の子どもたちはみな踊るという短編集の中の『かえるくん、東京を救う』というのなど、かえるくんに頼まれて一緒に戦う約束するのに、当のその日に入院してしまい、戦えない。ハッと気がついて、約束の日が過ぎてしまったことに愕然としてしまう。病室に現れたボロボロのかえるくんは、君は共に闘ってくれたという。

これってありですか?
怪我して寝てたんですよ。

想像力の闘いとか言われてるんですけど、そんなん、そうですか!で終わりだ。

1Q84だって主人公の男は何もしないです。予備校で教えて、自炊して洗濯物にアイロンかけたりしてビールとかウィスキー飲んでるわけで。高速道路から裸足で降りてくるのは女です。教祖様に至っては未成年とセックスするわけで、その未成年の少女たちは必死に闘っているわけです。

闘う女とセックスだけする男、それが村上春樹の男でしょ。
この手の男は日本の文学の伝統で、そもそも夏目漱石の男がそう。だいたいが部屋にこもってため息ついて、胃痛を抱えて何もしない。村上春樹の男の祖先なんだろと思います。

ところが、今回はちょっと様子が違ってる。
騎士団長を殺すのは主人公です。
で、出てくる男同士が友達になったりします。友達の老いた父親に会いに行ったり。
主人公は相変わらず手がはやくて、せっせとセックスしてるけど、少なくとも行動します。
ちゃんと頑張って殺すし、地下に潜るし、怖くても狭い通路をくぐり抜けるし、会うべき人に会うし、もうエライ様変わり、なんなのよ。

あるいは、友達が生き別れた娘に会うのためらっていたら、背中を押したりします。

最後には別れたはずの元妻とヨリを戻して、生まれた子どもを保育園に迎えに行ったりしてます。
すっかり堅気。いやあ、びっくり。こんなことこれまで絶対なかったでしょ。状況を見てるだけで、コミットメントなんか絶対しなかった。村上春樹もやればできるじゃんって。

この驚きは、死霊の首猛夫がこもりきりだった屋根裏から出てボートに乗った時みたいです。

騎士団長はイデアを名乗ってるんで、主人公はイデアを排した格好です。
さらに二重メタファーに取り込まれないように、必死に手触りのある生活感を思い起こします。
二重メタファーというのは二重思考のことで、平和のための戦争とかの矛盾思考のこと。それに取り込まれないようにごく当たり前の生活の記憶を支えにするわけです。

最後には東日本大震災が起こります。
そこの部分は本当にしめやかです。
タイトルは「恩寵のひとつのかたちとして」
被災地は物語の中で主人公が旅した地域でその記憶や手がかりがなくなったことを惜しみます。自分の中の否定すべき部分を象徴する「白いスバル・フォレスターの男」の命運も考えます。保育園の娘はニュース画面をみようとしますが「ほんとうに起こっていることをみんな、君が見なくてはならないというわけじゃないんだ」と言って娘の目をふさぎます。「何かを理解することと、何かを見ることとは、またべつのことなのだ」ということです。家族とともに暮らし、家族を養う肖像画を書きながら、自分をより大柄の画家になろうとしています。イデアや事実はどうでもいい。確かな生活の手触りを積み重ねていこうとします。そしてその原点は「騎士団長はいたんだよ」と眠る娘に語りかける闘いの記憶です。

これ、本当に村上春樹?

東日本大震災後、2013年「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」では、まだまだ主人公の実存が問題になっていました。そこから4年。騎士団超殺しの主人公には名前がありません。つまり誰でもない、誰でもありうるのだろうと思います。震災後の私たちの物語ということかな。

それはちょっと褒め過ぎかな。

今まで、村上春樹のベストワンは「午後の芝生」という短編でした。
長編では「海辺のカフカ」でした。
それは今も変わりません。
でもまあ、今回のはちょっと、うふふかな。

**************

高畑勲監督がなくなりました。
なんとアニメ「じゃりン子チエ」が高畑監督作品と知って見てます。
じゃりン子チエ、大好きだから。
花井先生はドーラの親父版。
チエちゃんに向かって「よう、不幸な子」
おじいおばあに向かって「おお、失敗作の製造者」
「テツ、葱食え、かしこなる。」
このおおらかなドタバタが実に楽しい。
しかし、テツの自己肯定感の高さは一体どこからくるんだ。
言語の意味が全く無意味でひたすら強度がある。
カッコいい。

<今日の夕飯>
タケヤマがいないので冷蔵庫始末ご飯
豚キムチ(もやしと豆苗入り)
ベーコン、チーズ入りのオムレツ
大根と人参の味噌汁

写真は今年のアマリリス
寒暖差が激しいので外に出すタイミングを失い、部屋の中で咲きました。



takeyabu31 at 22:02|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえの本棚(書評) 

2018年03月20日

恋愛と結婚(旧館 婦人口論3)

旧館からの再録。

 恋愛結婚というぐらいですから、恋愛と結婚は一続きのものなかな。でもお見合い結婚もあるということは、逆に恋愛と結婚がつながっていないということを示しているともいえる。もうひとつ同棲や事実婚というのもある。このへんのもろもろをちょっと考えてみましょう。
 恋愛は二人でするものです。同棲もそうですね。特に同棲は基本的に親に内緒というのがポイントです。事実婚はちがうな。式もしたりする。籍をいれないだけです。この点がカギです。結婚とは違う。事実婚は結婚であり、同棲は恋愛です。事実婚と同棲は生活を共にしている点で同じですが、社会的に認められているかどうかで異なる。事実婚は式もあげ親も認め、結婚と同じですが、法的にはいわゆる他人目をはばかる内縁関係とおなじ。親しい人間関係はみとめても社会が認めない関係です。事実婚は、たとえば生命保険の受取人になるのは簡単ではありません。法律婚ならなんの手続きも不要です。こういう社会的な様々な側面をすっとばして、恋愛のゴールが結婚だと考えると、結婚するだけで疲れ果ててしまったり、成田離婚になってしまうのかもしれません。順番に考えてみましょう。
 まず恋愛について。恋愛が短期の遊びではなくて、人生のなかで重要な意味があるとされるようになったのは、そう昔ではありません。一生恋愛しないで、せいぜい片思いで過ぎてしまうという人はいっぱいいたんだろうな。ロマンティックな恋愛は近代のもので、日本で恋愛が広く行われるようになったのは戦後のことでしょう。それまでは妻問婚や若衆宿の風俗などの延長で恋愛がなされていたので、もっとおおらかでした。

 一番の違いは「永遠の愛」なんて幻想はなかったことです。運命の人と一生愛しあうという理想。だから、恋愛の次に結婚が続くことになる。でもそれは、人間にあたりまえのことではなくて、最近の流行なのだということを押さえておきましょう。だいたい頭に血が昇った、我を忘れた状態が、延々続いたら世の中の生産性はガタ落ちでしょう。だから、恋愛はあくまで人生の彩り、思い出作り。昔の若衆宿なんかは社会的に設定されたエアポケットのようなもので、そこで男女の人間関係の訓練を積んだともいえる。で、適当なところでお見合いして結婚へと至るわけです。
 さて、結婚は生活の場であり、子どもを育てる場ですから、二人だけのものではありません。生活となると、財の生産消費、人的資源の再生産(明日も元気で暮らせるようにとか、次世代の労働力である子どもを育てるとか)ですから、社会がどうしても関わってきます。結婚というのは、これまで二人の間に閉ざされていた関係が、これから家庭という社会の構成単位として機能するというお披露目であり承認でしょう。だから、二人のものではありません。身を固めるとか年貢の納め時というニュアンスがこれですね。

 ということは彼と結婚するということは、彼の家族親類、彼の会社、彼の友人達と結婚するということと殆ど等しい。もし彼とは結婚するが彼の家族親類とは結婚しないという時は、彼と彼女でどのような社会にデビューするかということを熟考しなければなりません。それが駆け落ちというものでしょうが、それでも結婚すれば、生活していくに従ってなんらかの社会関係が周りにできてくるでしょう。その結果、それなりに社会人として立派に暮しているのだからということで、故郷の親と和解するという筋書きになるわけです。

 これが内縁関係であれば、結婚とは違うわけで、許され和解するということはないのです。

 ですから、永遠の愛を求めたければ、けっして社会的に許されることのない関係がいいかも。そのような関係は二人の間に純化せざるをえず、不幸かもしれませんが永遠に恋愛状態が続く可能性があります。
 事実婚は属している共同体的にはお披露目するが、社会の認める法律婚はしないということです。理由は、現在の結婚制度が完全に男女平等ではないということでしょう。姓の問題だけでなく、世帯主の問題や戸主の問題もあります。
 さて、仕事してればともかく、仕事をもたず、事実婚をしている場合。これはもう、扶養家族のメリットもなく、その結果健康保険、地方税、年金すべて優遇を受けられません。それでもポリシーを貫くのはスゴイの一言です。逆にいえば、社会はそれほど結婚制度を重要視しているということです。つまり、結婚なくして社会なしなのです。 
 恋愛の果てに幸せな結婚生活を夢見ている方には辛口だったでしょうか。でもだいじょうぶ。恋愛は自然に終わり、生活がスタートし、気付いたら普通の家族になってます。ただその過程で「こんなはずじゃなかった」と思う時、それが普通なんだとこのコラムを思い出してください。
 さて、男と女は恋愛だけするものではないです。恋愛は1割であとの9割は日常なんです。一緒に仕事したり、生活したりするんです。この人いい人だと思えば、恋愛するよりも他のことした方が長続きしますから、おとくです。そのひとつが結婚です。仕事仲間もそうでしょ。恋人じゃないのにファーストネームで呼ぶ男友達いますか。それこそが女の勲章です。むふ。
(02/01/13)


takeyabu31 at 02:31|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 旧館 婦人口論 

坂口安吾「夜長姫と耳男」は恋愛小説である。

昨年から今年にかけて、大人の国語は「恋愛小説を読む」だった。
竹薮の大好きな恋愛小説というと松浦理英子の「セバスチャン」、ジャネット・ウィンターソン「恋をする躰」だ。これらを抜きには絶対できない。でも「大人の国語」では、とんがりすぎだよね。

そこで何を読んで来たかというと
以下のようなもの。

太宰治「斜陽」不倫、未婚の母
川上弘美「センセイの鞄」年の差恋愛
田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」障害者と健常者
瀬戸内晴美「花芯」愛のない性
山田詠美「ベッドタイムアイズ」黒人兵との恋愛
と読んで来て、最後に
坂口安吾「夜長姫と耳男」

去年の今頃ラインアップを考えた時には、こんな風に逸脱した恋愛ケースばかり選ぶ意図はなかった。単に、竹薮が読んで好きなものを選んだだけだったんだけども、期せずしてそうだってことは、恋愛の本質ってこういうもんじゃないかと思う。「世界の中心で愛を叫ぶ」だって、余命宣告がなかったら、あの二人はああいう「駆け落ち」的な振る舞いにはいたらない。みんなに祝福される恋愛なんて、つまらない。そもそも不可能性を孕むというのが、恋愛のキモだろうよ、などと竹薮は思う。

だから、この6冊は全て成就しない。破綻する。
それは恋愛である以上必然だ。

恋愛のイメージはバラ色でハッピーでというものが多いかと思うが、現実にはそうではない。初めてのデートで、スパゲティは食べないらしい。なぜならば口の周りがコテコテになっちゃうし、すすった時にあちこち汁が飛んだりするのは、かっこ悪いからだ。でも、いつまでも食べないわけではない。いずれ食べるようになる。つまり、赤の他人が一線を超えてお互いを晒しあるのが恋愛だと言える。でなければ、あんな変な格好のセックスなどできないだろうよ。そのあと、口開けて寝ちゃうとかできないでしょうよ。他の相手には見せないものを見せて共有しているからこそ、隠微で猥雑で生なましい関係が成立するわけだ。

とするならば、その一線を越える距離は遠いほどいい。
遠いほど、越えられないものを越えるからこそ、快感なのだ。
だとすれば、誰もがいいと思うような相手ではなくて、何それ!と後ろ指刺されるようま相手の方がいい。それこそ恋愛の醍醐味なのだと竹薮は思う。

よくあるパターンだが、友達の恋人を横取りするなんてのは、その一例じゃないか。

というわけで、上記のラインアップが感動的な恋愛小説であるというのは当然だということになる。

さて、「夜長姫と耳男」である。
大人の国語は受講生の皆さんに読んで来ていただいて、感想を聞くことが半分、その感想を受けて竹薮がちょっと話をするというものなんだけども、感想を聞き始めたら、開口一番「これって恋愛小説なんでしょうか」と。え?恋愛小説って感じませんでした?はい。おやおや。他の皆さんはどうでした?ほとんどの方が恋愛小説と思っていないということが判明。

これには、本当に驚いた。
そうなんだ。そう思うんだ。そうか。大人の国語の受講生の方々は、なかなかの手練れで、独自の感性を持っている。その人たちがそう思うのか、これは大変。ちょっとビビりつつも、でも竹薮は究極の恋愛小説だと思っているので、思うところを述べるのみ。

未読の方はこちらから
青空文庫 夜長姫と耳男

確かに、二人のやりとりはない。
しかし、怒涛の終末に向けて、二人の関係は一気に進んでいると読める。

まず出会いのシーンである。耳男はヒメを一心不乱に見つめる。
それは師匠の言いつけに従ったもの。つまり芸術家の視点だ。「のしかかるように見つめ伏せてはダメだ。その人やその物とともに、ひと色の水のようにすきとおらなければならないのだ。」この透き通った視線がそれだ。だから耳男は乗鞍岳まで見てしまう。見たい人だけ見る目ではなく、全てを見る目だ。耳男はヒメと芸術家として出会うのだ。

しかし、その直後
長者(ヒメの父親)が耳男の耳に言及する。そしてウサギのような耳だが顔は馬だと言い放つ。さらにヒメもそれに同調し、そのことで耳男は逆上する。逆上しつつも「けれどもオレはヒメの顔だけは見つめなければいけないし、目を放してはいけないと思った。一心不乱にそう思い、それを行うために力をつくした。しかし、その努力と、湧き立ち溢れる混乱とは分離して並行し、オレは処置に窮して立ちすくんだ。」この平行線が恋への糸口だ。芸術家の立場とともに人間耳男の立場が生じるのだ。

ヒメの存在の本質をしる芸術家であるがゆえに、人間耳男はヒメに焦がれるのだ。

その後耳男はヒメに耳を削がれる。
「オレの耳がそがれたとき、オレはヒメのツブラな目が生き生きとまるく大きく冴えるのを見た。ヒメの頬にやや赤みがさした。軽い満足があらわれて、すぐさま消えた。すると笑いも消えていた。ひどく真剣な顔だった。考え深そうな顔でもあった。なんだ、これで全部か、とヒメは怒っているように見えた。すると、ふりむいて、ヒメは物も云わず立ち去ってしまった。
 ヒメが立ち去ろうとするとき、オレの目に一粒ずつの大粒の涙がたまっているのに気がついた。」

ここでヒメが初めて自分以外の人間に注目する。

その後三年、二人は会わない。

その間耳男は彫刻に没頭するが、それはヒメとの関係の構築でもあった。
「オレがノミをふるう力は、オレの目に残るヒメの笑顔に押されつづけていた。オレはそれを押し返すために必死に戦わなければならなかった。」
そのために耳男は、水を浴び、護摩を炊き、埋め火をふみ、挙句に蛇の生き血をすすり、像にふりかける。自分を精一杯増幅し、自分以外のものにまでなってヒメと対峙する。

そしてヒメが十六の正月の朝、
三年ぶりに再会する。
そして耳男の作った像を褒め「珍しいミロクの像をありがとう。他のものの百層倍、千層倍も、気に入りました」、耳男に自分の像を作ることを依頼する。
それは耳男も望んだことであった。

これが普通に言えば、告白と承諾、交際の始まりだ。

その後、最初の三年間と違って、ヒメは頻繁に耳男の仕事場を訪ねてくる。

耳男はヒメをミロクとして刻んでいるのだ。ヒメが耳男に伝えるのは死者のことばかり。その耳男はかつてのようにヒメと対峙していない。
「このあどけない笑顔がいつオレを殺すかも知れない顔だと考えると、その怖れがオレの仕事の心棒になった。ふと手を休めて気がつくと、その怖れが、だきしめても足りないほどなつかしく心にしみる時があった。」
怖れと闘わず、抱きしめているのだ。

そんな耳男にヒメはいう。
「耳男よ。お前が楼にあがって私と同じ物を見ていても、お前のバケモノがホーソー神を睨み返してくれるのを見ることができなかったでしょうよ。お前の小屋が燃えたときから、お前の目は見えなくなってしまったから。そして、お前がいまお造りのミロクには、お爺さんやお婆さんの頭痛をやわらげる力もないわ」

自分と闘っていた時の耳男にはあったものが、なくなってしまった。バケモノという一つの達成によって、耳男とヒメの関係は変わってしまった。ヒメの虜になってしまった耳男には年寄りの頭痛を和らげる力すらないのだ。「オレという人間のタマシイ」などなんの意味もない。ヒメの笑顔が全て揺り動かしてくずしてしまう。ヒメは「みんな死んで欲しい」といい、そのヒメを耳男は怖ろしいと考える。

ヒメは死の神なのだ。そのヒメの本質を耳男は理解し、全力で押し返していた。そこで生まれたのがバケモノで、ヒメと対等の関係を作れたただ一人の人間それが耳男だ。その原動力は美を求める耳男と理解されることを知ったヒメの情念だと思う。

これは恋愛ではないのか。
恋愛だと竹薮は思う。
越える距離は遠いほどいい。

「この邸内で人間らしくうごいているのは、ヒメとオレの二人だけであった」

関係を切り結んでいるのは、ヒメと耳男だけだということだ。
他の人間は社会的役割を演じているにすぎない。
そしてきりきり舞いして死んでいく。


ここからは最後まで怒涛の進行だ。
村に違った疫病がやって来て、ヒメが耳男同様に蛇の生き血をすすり始めるのだ。
ヒメは耳男に蛇をとってこいと命じ続け、その生き血をすすり、そこら中にまきちらす。耳男は蛇を取り続け、ヒメはその血を浴び続ける。そして死に続ける人間を楽しげに眺め続ける。完全に無垢な笑顔で。

最後の時がくる。
ヒメに誘われて、耳男は高楼の上からヒメと並んで死に行くものどもをみる。
だが人間である耳男に、そのヒメの見るものは受け止め切れるものではなかった。

「このヒメを殺さなければ、チャチな人間世界はもたないのだ」

この発見と自覚が耳男を強くする。

後ろから左手でヒメを抱きすくめる。
そして、右手でヒメの胸にキリを打ち込む。
そのキリはヒメの心臓を確実に突く。

「サヨナラの挨拶をして、それから殺して下さるものよ。
 私もサヨナラの挨拶をして、胸を突き刺していただいたのに」

「好きなものは咒うか殺すか争うかしなければならないのよ。
 お前のミロクがダメなのもそのせいだし、
 お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。
 いつも天井に蛇を吊して、
 いま私を殺したように立派な仕事をして……」

人間はチャチな世界に生きている。
そこで生きていくしかない。
そのことを、これほどギリギリのところで認識したものがいるか。

人間世界とその向こうの境界線のところで
ヒメと耳男は出会う。
決して理解されることのない人ならぬものとして生まれたヒメの孤独と美を
芸術家である耳男の目は捉えた。
惹かれぬはずのない二人。
人間世界でただ一組の出会い。

だが、それは不可能な出会いだ。
ヒメが生きている限りチャチな人間どもは死に続けるしかない。

みんなから祝福される恋など、つまらない。
しかし、そのみんなが全区存在しなくなることを選べるほどの恋もまたない。

人間である耳男はギリギリのところでヒメよりも人間世界を救うことを選ぶ。

そしてヒメをミロクとする行為/ヒメを殺すことを実行する。

この行為によって、ヒメは人間世界を守るものとなるのかどうか
それはわからない。
しかし、耳男がヒメにキリを打ち込んだ一瞬。
この一瞬は人間存在にとって最高のエクスタシーであったに違いない。
また、ヒメにとっても耳男を受け入れたエクスタシーの瞬間だったろう。

どこをどう読んでも恋としか思えないのだけども
どうかな。





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2018年03月14日

三月という季節。

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なんというか、この季節苦手。
今年の天候の酷さも相まって、このところ、ほんとなにこれな状態。
ほんと、この季節嫌い。
こないだ、2011年のあの日に大揺れしたあと、バスに乗って家に帰ってきたんだけど、まざまざとこの家のとこで、しばらく停車したなあと思い出した。駐車場はコンクリートを打ち直し物置が違う形になっていた。ここだとわかる感じが、脳にきざまれてるんだなと思われた。

三月は他にも地下鉄サリン事件があった。
それから東京大空襲のもある。
桜の咲くのを待たれる季節だが、なんとも重苦しい。

ましてや竹薮にとっては別れの季節でもあるので、
だいたいが
グダグダグダグダグダグダぐだぐだぐだぐだぐだしている。

こないだ、こういうやりとりがあった。





日本の判断停止で、全体主義的で、さらに加えて善意の大衆ってのはほんとに大変なことだ。
でもやっぱり、空気を読むのとお天道様ってのは違うんじゃないかと思う。

私は十分日本人だと思ってるけども、でも、その他大勢の中にはいない。もちろん、1%の権力者でもないけど。それは父と母に叩き込まれたものだ。父も母も戦争経験者で政府を信頼していなかった。だから制度というものも幻想にすぎないと考えていた。だから大事なのは、さまざまな局面で判断可能な主体性だと徹底的に教育された。自分の感覚を鍛えること、自分の意見をちゃんと持つこと、それを表現すること。それは内発的なものではないかと思う。

そのような父や母のメンタリティーは職人気質からきているのではないかと思っている。

ガメさんは、integrityなしで近代化、西欧化したことが右も左も全体主義国家になったという。そのことに、異存はない。でも、変革主体の可能性を展望しないことにはどうしようもない。その可能性はどこか。

それが職人気質のような気がする。
ほら、陶工が釜から出したものをひと目見るや叩き割る、あの気難しさ。
あれは、自分に恥じないものをということだけど、その自分を審級するものとしての「お天道様」ってやつがあるように思うんだ。

母は手で作るものならなんでも作れる人だった。和裁洋裁、編み物、刺繍、彫刻、絵画、その他なんでも。父は芸術が好きで、映画、舞台、美術、写真その他、なんでも好んだ。着るものも持つものも全て自分の好みのもので、ビジネススーツなど全く持っていなかった。その趣味のままに暮らしていたのだ。そして商売。それらは全部スキルだ。

彼らのポリシーは、財産は盗まれるが、身についた教養と美意識、技術は盗めないというものだった。

今、生まれている新人類。
その多くがスポーツ界で、しかも個人競技で生まれているのはなぜか。
石川遼、錦織圭、羽生結弦
個人を職人的に徹底的に鍛錬するからではないか。
野球で大成するのがイチローという空気をよまない人物であることは興味深い。
野球は、日本では集団主義的な文化を持っているからだ。

そして将棋の藤井聡太君
他にも、あれこれ思い浮かぶがおく。
望まれているものは、多分「職人」だ。
非常に身体性の高い職人

腐ったもののなかから、
なんらかのスキルを持ったものが立ち上がっていく。
そのスキルを徹底的に鍛えて、そのスキルによって自己を表現するものだ。

なんら根拠はないけども
ここは研究者ではなく、主婦の戯言を書くところだからさ。

あ、杉下右京も榊マリコもそうだね。

**************
本日一番のショック。
季節労働者で貧しいこの季節に大事な所得税の還付金。
今年はなんと3.8に振込みって書いてあるのに待てど暮らせどこない。
おかしいと思って書類を眺めたら、発見!!
口座番号が違う。前に、支店名を間違えたことがあったので気をつけてたつもりなのに。
ああもぉ。
というわけで、ニンジンが遠ざかった。
ぶー。
自分が悪いのでなんとも言いようがない。

<今日の夕飯>
キムチとインゲンの肉巻き
肉じゃが
小松菜のおひたし
大根の味噌汁

今日、ホーキング博士がなくなった。


今日から新学期開始、また一年始まる。
写真は我が家のアマリリス。
来週は咲くかな。


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2018年03月06日

セクシュアリティというもの。

ここのところセクシャルマイノリティづいている。

まずこれBPM


これは今月末封切りの映画。
HIVにまつわる人々の活動について、まるでドキュメンタリみたいな劇映画。

その前に これを見た。ジェンダーマリアージュ


こっちはドキュメンタリ。これも目から鱗だった。

さらに、タケヤマの道徳研究授業を参観した。
それがこれ セクシャルマイノリティについて学び、自分の性自認、性指向を考えるというもの。

もうどっぷり。
テレビドラマでも性的少数者の登場するものが多い。
今期では「明日の君がもっと好き」「弟の夫」この前の期でも「女子的生活」後者二つは周りの人たちにカミングアウトしている。「明日の君」については当事者の側の問題が解決されていないので、前世紀的といっていい。その意味で事態は進んでいるなと思える。

順番に行く。
BPMは1990年代の話だ。
よって、まだ HIV陽性というのは寿命を限られるということになる。映画の中でも血友病の患者も出てくるが、性感染の患者の方が多い。つまりゲイの人たちだ。大事なのは、自分のセクシュアリティを引き受けて、その結果のHIV感染ということを恥じておらず、問題解決にストレートに向かうということだ。ゲイであることもHIVであることも全てオープン。だから血友病患者とも共闘する。非常にストレート。

しかし、社会はまだそれに対して否定的。ヘテロセクシャル(異性愛)がセクシャリティーの大前提なので、それは受け入れられない。だからセンセーショナルな方法もとる。当事者たちは、非常に自分の性を大事にしている。この点に鮮烈な印象を受けた。

これに対し、ジェンダーマリアージュ は憲法に訴える。徹底的に社会内的な運動形態だ。
同性婚を認めさせるために裁判で争う。そのためには訴えを起こす当事者をしたたかに選ぶ。身元調査をしっかりする。有名弁護士を選ぶ。(このときなんとブッシュ対ゴア事件の両方の弁護人が担当する)それは結婚の権利が当然憲法で認められるべきだと両方が考えるからだ。また、パートナーシップが認められているからいいではないか、という問いに対し、それは二級市民に成り下がるということだと当事者が答える。これには驚いた。全くその通りだ。日本では渋谷区や世田谷区がパートナーシップを認めていて、それはいいことだと竹薮は考えていたが、とんでもないことだった。

日本は、憲法で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」とあるので、今後改正の課題になるだろう。

率直な感想を言えば、同性婚を認めろではなく、結婚という制度そのものを否定すればいいんじゃんか、と思ったことは確かだ。だが遠い将来そうなるとしても、現在の状況下で性的少数者に社会的承認がないのは不当だ。異性婚もなくしちゃえなどというのは、現在合法的婚姻下で社会的に優遇されているから言えるのかもしれない。

さて、三番目だ。これは一橋大学のアウティング事件のようなことが怒らないようにするためには絶対に必要な教育だ。竹薮も自分の教室でそういうネタ的な話題が出たときは、ビシッと芽を摘む。説得もするし、そのような物言いは竹薮を否定するものであると伝える。

45分✖️2の授業を聞きながら、自分の性自認を思った。
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一番下の段階は紛れもなく女だ。
しかし、二番目、三番目になるとかなり怪しくなる。
この図では男か女かという二択になってるが、かなりのグラデーションがあるのではないか。
竹薮が自分を100%女だと思ってるかというと、微妙だ。
中性だというのが一番自然な気がする。一番上の社会の中でも然り。
今でも年に一度くらい、女子トイレに入ろうとすると、そっち女子ですよと注意されたりするし、妊婦でお腹が大きかったとき、キャバレーの呼び込みにあった。社会的にはいわゆる男並み学歴を売ってるわけだし、時々、「さあ今日は女装するぞ」などと思う。

院生の頃、合宿で、男子ばっかに竹薮一人の時が多かったが、その年は女子学部生が3人くらいいた。合宿恒例の夜の飲み会があって、これまた恒例の芸が始まった。ガタイのいい男子が腰を落とし、股間に一升瓶を構え、それを撫でさすりながら、おおらかな猥歌を歌い踊るのだ。それは本当に楽しくて、竹薮にとっては合宿の楽しみの一つだった。その夜も大笑いして拍手して、笑い涙を拭きながら振り返ったら、後輩女子たちはいなかった。

これは性自認の最たるものだろう。彼女らは性自認として女子だから、その場にいたたまれず去るという性表現をとったのだろう。だが、その性自認、性表現は個人的なものではなく、かなりの程度社会的なものではないかと思う。

このアイスクリームは次に誰に食べて欲しいかという投げかけになる。

実は、竹薮が一番最初に性的な経験をしたのは女子である。
しかし、その時わたし達はどうすればいいかわからなかったのでできなかったのだ。時代が今ならできる。情報は溢れているから。この時代に育ったら、ユニセックスのバイセクシャルになっているだろうと思う。現在はユニセックスのヘテロセクシャルだけど、レズビアンの友人にいざとなれば絶対に落とす自信があると言われたことがあって、多分そうなんだろうなと実感した。

どういう性自認、性指向を持つかというのは遺伝子で決定されているのではないので、そうなると脳のなせる技。つまり人の数だけ性があるということだ。

全くごく当たり前の結論じゃないか。

LGBTQの人は全人口の7.6%
これは左利きや AB型の割合と同じ。

今すぐに意識を変えてくださいませ。
性的少数者っていうけど、少数じゃないから。

**************

<今日の夕飯>
鳥叉焼
小松菜と人参のナムル
ひじきとあぶらげの煮物

今日は夕方からお茶に出かけます。
ゆるこちゃんとお茶。

おとといから早寝早起き二日目
なんとかいけてます。続けたい習慣。コンディションをキープするために。

日常の構造化をちゃんとやってパソコンの前に座る時間を作ろうと思って。
パソコンをぱちゃぱちゃやるのと、机で本を読むってのをやろうと。
人生初だよね、院生だったときしか机で勉強してないから。

宮崎哲也と南直哉の対談がyou tubeにいくつかあります。
今日の仕事のBGMでした。なかなかいいですよ。

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膝折れて 低く深く ただ呻く
ようやくスタートラインについたよ




takeyabu31 at 17:00|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 婦人口論(批評) 

2018年03月05日

春の嵐ですね。



朝からふとしたことでこの曲に出会った。
米津玄師という人の曲。
感情が全然乗ってないのが心地よく、かつ、悲しさが際立つ。
言葉にすると嘘くさくなって
形にするとあやふやになって
丁度のものはひとつもなくて
不甲斐ないや
これは言語の本質なんで、言語である以上、どんな天才であれ、「丁度のもの」なんで原理的にありえない。
真心を君になんていうウソを言わないだけ、ほんとうの響になる。

ちょうど昨日、中島みゆきリスペクトのコンサートが開かれたようで、ワイドショーで、高畑淳子が拳を握りしめてファイト! を歌っていた。数分前に「vivi」を聞いたばかりだったのでその差が際立った。

どちらが竹薮の胸に響いたかといえば、もちろんviviの方だ。
あまりに悲しくて二回続けて聞けなかった。
今朝聞いて、それっきりでまだ二度目を聞かないまま、この記事を書いている。
一箇所、メロディが破調になっているところがあって、
そこも息が詰まるようだった。

Sekaiは絶望に満ちていて、もうどうにもならないような気がする。

何年か前にエイリアンズという曲を聴いた。
これもびっくりした。


これは純文学だ。いろんな人がカバーしてる。田島貴男のと聴き比べて見て欲しい。全然別の曲だ。田島だと洒落たラブソングになっていて、エイリアンズではない。人間だ。

で、エイリアンズは愛し合っていて、この星の僻地で生きている。
viviは愛し合っても一瞬のことで、次の瞬間には死んでしまう。確かに。

世界が豊かだった頃、人間は希望を持って前進した。
愛も生も信じられた。努力は身を結び、未来があった。

でも。

3月になって、震災のことがまた蘇って意識にのぼってくる。
そんななかでふと気になった一行。
「地震は現在を奪い、津波は過去を奪い、原発事故は未来を奪う」
ふむ。
正確にいえば、原発事故が未来を奪ったのではなく、原発ができた時点で未来は閉ざされたのだと言っていいのだろうと思う。もちろん、原発だけでなく「原発に象徴されるものども」が未来を閉ざしたのだ。

地震も津波も原発もなくても生きていることは十分「焼け野が原」だったのに。


coccoの時点では「私の焼け野が原」だったのに
キリンジを経由して
米津では「Sekaiの不可能性」に至っている。

(そんな状況で思いを込めて歌うなんて誰ができるんだよ)

だが、幸か不幸か世界はまだあって、朝が来て夜が来る。
冬が過ぎて春がくる。
暖かいお茶は美味しいと思い、何かに笑ってもしまうのだ。

いいか、絶望せよ。
ちゃんと絶望せよ。

ただそれでも、絶望だけではない。
瓦礫の中に溜まった水にほんのわずかのキラメキがあるように
絶望だけではない。

現実は複雑なレイヤーで成り立っていて
どんなに破滅的な状況の中でも
脳は生きていけと命ずる。
その生物としての傾向に救われて、眠ってまた起きる。

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今日はすごい風、
でも、そして雨も降ったのに花粉が飛んでいるのか
くしゃみばかり。

CURVESに出かけて花屋によった。
お一日のお榊を忘れていたのだ。
花屋には先客がいて、
なんとスイトピーばかりの花束を注文していた。
様々な色のスイトピーだけの花束。

実は竹薮はマメ科の花が大好きで、
なかでもスイトピーが一番好き。

花束を作るのは時間がかかる。
店にはどういうわけかひとりしか店員さんがいなかった。
でも、花束が出来上がっていくのをゆっくり眺めて待った。

あの花束は誰にもらわれていくのかしら。
その人はどんな人かしら。
いい夜になりますように。

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<今日の夕飯>
ビントロとカツオの刺身
人参とメンマのきんぴら
切り昆布と大豆の煮物
ほうれん草の胡麻和え
 
映画見たり、ドラマ見たりしてるので書きたいことも結構あったりするので
さあ、時間割作って過ごしてみようと。
日常の構造化ってやつね。




takeyabu31 at 17:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえ(遊び) | 長電話(日記/告知)

2018年02月24日

捨てる/棄てる/すてる

ベビーサンローズ2015-06-01-10-44-24


自分のなかの感覚やアイディアを
そのまま相手に差し出すことは、最大限の誠意なのだが、
それが叶わない/相手に通じないとわかるとき、
自分の誠意が自分を縛ることになる。


共感のプールを思う。


大きなプールはクラッシュしたやわらかなゼリーに満ちている。
レモングラスの匂いがする。すこしミントも。
光が乱反射して、あらゆる色彩と陰が、そこにある。

躯をいれるとすこしひんやりする。躯じゅうの細胞がめざめて泡立つ。
顔をつけてみると世界が姿を変えて見える。
わからなかったことがわかる。みえなかったことがみえる。

ゼリーを胸一杯に呼吸する。
躯のなかにもさわやかなレモングラスの匂いが満ちていく。
それはわたしのなかにあなたがいるということだ


少しづつ少しづつ
わたしのなかのあなたは、冬の間に固い固い氷になってしまった。
陽の当たらない場所で
じっと身をすくめて
自分の体に爪をたてている。

どうしよう。
わたしはそこにいられない。
わたしは生きている。
氷が溶けてしまう方がいいのか溶けてはいけないのか。
もう、判断もつかない。

三月になったら
残雪を見に行こう。
そして
春を迎えよう。

ごきげんよう、あなた。

一年が過ぎたのよ。

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季節が変わるのはすごいなあと思う。
空気が違う。

昨日の記事の通りジェンダーマリアージュ を見て来た。
素晴らしい映画だった。
別記事を書こうと思う。
その後、大人の社会科と国語の打ち合わせをして、買い物。
家に帰って昼食。

その後、昨日の「捨てる」を考えてみる。
友達とのLINEトークで一つ理解が進んだ。
自分が何を躊躇しているのか、何を捨てるのか。
何がどうしようもないのか。わかった。

そこでひとつ覚悟が決まった

ぐったり疲れて突然の吐き気がきて、昼食を全部吐いた。
わかりやすい。自分でもおかしい。

文字通り、躊躇とセンチメンタリズムを吐いた。
さあ、春に進みましょう。

だが、この気分の幅、疲れないわけがない。
脳に良くない。
早く寝ましょう。

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〈今日の夕食〉
いわしの蒲焼き
ごぼうとインゲンとあぶらげの煮物
もやし、ほうれん草、鳥の胸肉の胡麻和え
大根、人参、あぶらげの味噌汁


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胃の腑から こみ上げてくる 記憶ども
螺旋に歪む 便器の楕円


写真は我が家のベビーサンローズ
今は冬で縮こまっているが夏には元気になる。



takeyabu31 at 22:14|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック 共感のプール