2013年01月

2013年01月25日

大物の限界と罪、勘違いすんなよの巻。

土20131020

年末からずっと気になっていたことをようやく書く。
最近、なんというか書くことの優先順位がさがっていて、
それより身近にいる人にはなしちゃっておしまい、みたいな。
でも、これは書いとくべきだと思うのでかいちゃう。

年末の紅白で大注目は美輪さまの『ヨイトマケの唄』だったらしい。
美輪さまのヨイトマケはあたしゃリアルで見てるから。
木島則夫ショーのライブ見たから。
実際のコンサートでもなんども見てる。いいのはわかってる。
でも猛烈な違和感だった。

それは、部活の暴力的指導で自殺した子どもがいたせいかもしれない。
困難な子どもが多くいるのを知っているせいかもしれない。
生きることから「牧歌性」のようなものが徹底的になくなって、
滑稽なくらいだからかもしれない。

たとえばわたしはいま、さんさんと陽のあたるリビングで床にあるものを全部ソファや椅子の上にあげてお掃除ロボットを走らせながら、園子温の「恋の罪」のDVDを流し、音声はながーいコードのヘッドフォンで聞いている。そうだ、同時にまたCDのダビングもしている。上原ひろみ、渋さ知らず、秦基博。滑稽だろう?

そんな滑稽が日常化している日本だからこそ「ヨイトマケ」と美輪さまもNHKも思うのかもしれないが、そんな日本で「ヨイトマケ」に感動してるのは誰だ。

今、死のうとしている若者。今いじめられている子ども。今貧困に喘ぐ母が
あの歌で救われるか。
そうではないとわたしは思う。

だが、TLは美輪さま絶賛だった。素晴らしい、素晴らしい、日本の原点だ。
そうかな。
つまり、ヨイトマケに感動してるのは誰だとおもってしまう。

美輪さまは抜群に歌がうまい。
その昔毎週、渋谷ジャンジャンに通っていた頃、コンチクショーと思いながら泣かされたのだ。こんな歌に感動してたまるかと思うような問題の多い情緒的な曲が泣けて泣けてしかたなかったのだ。それは美輪さまの力技だろう。そのくらい美輪さまは上手い。

そのせいで、美輪さまは神格化された。
しかし、神ならぬ身が神格化されてろくなことはない。
それが今の状況だ。
そのことは前にも書いた。
「毛皮のマリー」を見に行った
↑でこう書いた。
美輪さまもおりてらっしゃいよ。
『下々はバカだよ。美どころか趣味もないよ。
 でも和光同塵っていうでしょ。
 上から下まで変幻自在に上昇下降できるのが美輪さまじゃないの。』

美輪さまはファンを裏切るべきである。
美は過激なものだ。諧調にもあるが乱調にもある。
紅白で、もっときたない、おいさらばえた場末の娼婦を泣きの涙でやって顰蹙を買うべきだった。あんなできあがったものをやっちゃいけない。そんなの美輪さまじゃない。美輪さまは、どこまでいっても「化けもの」じゃないの?ほんとに「化けもの」でないとダメなのに。今は「なんちゃって化けもの」だよ。

年があけて、堂本兄弟に大竹しのぶがでていて、
これまた「ヨイトマケの唄」をやった。
これは、よかった。素直に聞けた。
なぜか一生懸命だったからだ。
等身大で、親への思いや子どもへの思い。
自分をただ自分の気持ちだけを歌っていた。
だから「そうか、あんたも大変だったんだね」と思える。

でも、美輪さまは違う。
「わたしは正しい」と歌う。
それを多くの人があがめる。
あがめたところで正しくなるわけではないのに。

よくある言い方で、
「愛する人を守るために強くなりたい」というのがあるが、
アホか?!である。
誰が誰を守るって?思い上がるもいい加減にしろ。
げんに美輪さまは強く大きくなったけど、勘違い野郎をたくさん生み出した。

誰も誰かを守れたりしないのだ。
だから生きるのだし、努力するのではないか。
その一生懸命が大竹にはあった。
このましかった。

強さが、傲慢な強さがなにを産んだか明らかになった311後の世界で
強さをめざすなど、なんと愚かなことだろう。
弱く、愚かなものの懸命な試行錯誤にしか展望はないのに。

サンカーラ: この世の断片をたぐり寄せて

いい本でした。

****************
<今日したこと>
「恋の罪」園子温を見る。
う〜〜〜ん、イマイチだったなあ。
うそっぽい。いやその作品は皆ウソなんだけど、落ちていくのに、そんなに作為的にいかなきゃなんないですか?なんかもう、時代がかってて。ちょっとなあ。


いろいろCDを読み込む
手紙一通。
ソイナッツバー、ソイベーコンバーを焼く。

<今日の夕飯>
鮭の塩焼き
牛蒡、人参、里芋のカレー揚げ
白菜と小松菜のおひたし
葱と油揚のみそ汁

<明日すること>
確定申告だよ。

************

土はもふもふだと思う。

ころげまろぐ 人の在処を うけてある やわらかき土 雪を積む

カワク・ワ ロロマニ
(ありがとう。未来に良きことが起こりますように)
我らと衆生とみなともに安らかな暮らしを成ぜんことを。



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takeyabu31 at 13:29|PermalinkComments(0)TrackBack(0)ポスト3.11 

2013年01月14日

言葉で伝えるということ。


ふと気になっていたコミュニケーション不全について。

いくつかの現象が一遍に起きた。

A:この一年、一番コンタクトをしている人物とコミュニケーション不全であること。
これは、わたしとしては非常に不本意な事態である。
相手の人間像が深まっていかないのだ。親しくもならない。
あくまでも役割演技の域を出ない。この息苦しさったらない。
ただの役割演技なのに、なぜにコンタクトをとってくるのか。
それは利益のためだろうけども。。。
たとえ、それが動機だとしても、もう少し人間関係ができないものか。

B:その一方でついこの間、はじめて話しかけた人とすっきりとコミュニケーションが成立した。
その人はほんの子ども。しかし非常に不思議な存在で秋あたりから、ずっと注目していた。ただ見ていただけなのだが、思わず反応してしまったコメントに反応があった。その質問に応えたことに、また疑問の提起があり、もう一度応えた。事情を知る人たちには奇跡のような出来事だとわかってもらえると思う。

C:また、1号とハードなやりとりがあった。
カウンセリングにいった1号、開けた蓋を閉じずに帰ってきた。そこで吐き出すものを全部吐き出すまで収まらないことになってしまった。それを全部わたしが聞くことになった。参った。1号の話は無限ループだからだ。絶対に出られない。

そういう時は、ただ忍耐することなのだが、一つ目の不全感があったので辛抱ができなかった。だから言い返してしまった。ところが1号は爆発しなかった。そしてあるやり方で無限ループから出た。残念ながら、わたしはくたびれていて、抜け出たことを伝えるエネルギーがなかった。痛恨のミスだけど、いつか伝えたいし、1号はあの感覚を覚えていると思う。

この三つのことはすべて人と関わることを表しているのだけど、
どういうつながりかを整理したい。

まず、AとBの違いについて。この二つはともに言語のみによるコミュニケーションである。わたしの身体は問題にならない。だが、Aで求められているのは、わたしの言語機能であり、Bでは言語内容が求められている点がことなる。Aにあるのは役割演技的関係であり、コミュニケーション当事者の人格は問題にならない。それぞれが生きている人間として関わらないのだ。それをコミュニケーション不全とわたしは感じる。つまり同じ能力があれば誰でもいいわけで、わたしである必然性がない。交換可能というわけだ。

それに対しBの場合は、わたしは選択されている。そして、そのやりとりは本当に真剣で、真に一期一会だった。その子どもはぎりぎりのところで、今を生きるためにわたしに問いかける。ごまかしや言い逃れや単なる知識の伝達ではないのだ。交換不可能な一度かぎりの出会いだ。Aによる不全感をおぎなってあまりあるものだった。その子どもの求めているものは、自己そのものという本当に根源的なものだ。その身一つで、自分の祖母よりも年上のわたしに言葉を投げかける。そしてわからないことを重ねて聞く。気負いもなくごく自然に。生きた言葉の力を実感した。まさに賦活であった。

これら言葉のやり取りに対して
Cは場を共有した身体をともなうものである。
1号の言葉の表すものは言葉の意味とは乖離している。言葉を額面通りに受け取るのではなく、伝わってくるものを解読するのだ。いや解読以前かもしれない。1号の求めているものは、理解ではなく丸ごと受け止めることであるからだ。
私のからだを見て下さい。 でもこれが私じゃありません。 私の心を探して下さい。 でもそれが私じゃありません。 苦しみだけが私です、 苦しみだけがほんとです。ALSの患者さんの言葉
1号の言葉はまさにこれなのだ。
解釈を許さない。反応や答を許さない。
1号はもちろん問題の対策や解決を求めている。でも、それが「ない」ということも知っているのだ。だから余計に苦しい。その苦しい自分をさらけ出してそこにおく。

これは暴力すれすれの行為だ。
ほとんど暴力だ。
真実だからといって、それを相手にぶつけていいというものではない。
わたしの暴力の定義は「やり返せない相手にぶつける力」というものだ。
母子関係で母は子どもを否定するわけにはいかないので、それを前提として傍若無人に行われる子どもの行為は母に対する暴力となる。1号がわたしに延々ぶつける苦しみは、それが根源である以上、わたしは受け入れねばならず、それは暴力的である。その暴力に反発して拒否したり反撃すると、それももちろん暴力になる。どちらに転んでも暴力になる。

ほんとうは、その苦しみを感じなおし考えて相手に伝えるべきなのだろう。
Bの場合はそれができている。
苦しんでいる自分と話者の自分の分離である。対象化とか客観化というほど冷たくなく、二つのSが確かにありながら、自然に重なっている。

だが、それは誰にでもできることではない。
ましてや1号に。

しかし、1号は別の方法でそこから抜け出た。
我慢できなかったわたしは1号に言った。
「聞いてると、まるで生きてたくないみたいだ。ごめんね。産んじゃって。」
1号はこたえた。
「俺こそ、ごめん。こんなにハチャメチャで。」

1号はやり返せない相手の位置から自ら降りた。
だからこそ、わたしはやり返す必要がなくなった。
「ハチャメチャ」は暴力ではなくなったのだ。

この言葉には本当におどろいた。
そのことが苦しみの本当を示しているとも思った。
そして、この会話をなすことができた幸福を感謝した。
ニューヨーク大学にあるリハビリステーション研究所の壁に
一人の患者さんが残された詩

大きなことを成し遂げるために、
力を与えてほしいと神に求めたのに
謙遜を学ぶようにと 弱さを授かった

偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことをするようにと 病気を賜った

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは すべて聞きとどけられた
神の意に添わぬ者であるにもかかわらず
心の中に言い表せない祈りはすべて
叶えられた
私は 最も豊かに祝福されたのだ
この詩が表している祝福の瞬間であったと思う。
今、わたしの書いているこの言葉は、その祝福を伝え得ているだろうか。

Bのような場合とCのような場合の中間に日常のコミュニケーションはある。
言葉は記号として安易に使われ、自分の思いを真剣に感じようともしていない。
しかし、10歳の子どもと言葉の能力の劣る発達障害者が、
その「低み」ゆえに鮮やかに、
そこから抜け出る。

下手に言語を弄してはならないな。
勝たないこと。
弱さに立てこもらないこと。
自由であること。

言葉において優位に立つことが多いわたしは、
この経験を、肚に据えつづけていかねばならない。


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2013年01月03日

明けました。

ほぼ日シール


年末に郵便で、写真の「ほぼ日シール」が届いた。
よく覚えてないのだがほぼ日手帳のアンケートに答えたらしい。
回答者のなかから抽選でこのシールがくるらしい。

ほぼ日は開設当初、せっせとROMしていたが、そのうち遠ざかった。
3.11後、ほぼ日の姿勢が好もしく、支えられてきた。
まず、前提として、
ぼくらは「たいしたことないもの」だということです。
じぶんたちの力を過信して、
あれもできるこれもしたいと言うことはしません。
「ほぼ日」ならやってくれそうだ、
と期待されていることは、ありがたいのですが、
ぼくらは「たいしたことないもの」です。
その「たいしたことないもの」でもできることを、
考えるべきだと思いました。
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大きな声をださない。
大きな声で叫ばない。
最前線に走らない。

肝に銘じようと思う。

なぜなら、そうしたくないから。

この間、教室で大きな声でわーわー言ってる自分に気付いて
とある女子にきいた
「ねえ、うるさくない?もっと静かに話した方がいいかな」
女子応えて曰く
「竹薮先生らしくて、いいんじゃないですか」
ほんとにそう思ってるかな。
そう思ってるかもしれないが、思ってないかもしれない。

伝えたいと思えば、どんどん押すことになる。
人間は弱いもの。
たとえば、生徒たちはただやれといってもやらない。
その現実を前に、ついつい尻をたたいてしまう。
叩く叩かないでは、勉強の量が明らかに違うからだ。
でも叩かないで、勉強の量をキープする。したい。

大きな声でなく、なにかを達成するとはどういうことか。
それはできないと見定めることだと思う。
選挙とか絶対無理。
大きなことを短期的に達成するのは無理。
「なんとかなる」ではできないわけで「なんとかする」という時に
やさしく丁寧になんてできないのだ。
なにかを短期的にやってしまうというのはブルドーザ的な力なんだな。

だから、
大きな声で叫ばないというのは未来における達成をめざさないということで、
つまり、現在のあり方を大事にするということかもしれない。
正しいことを正しいからと、そのまま言わないとか
相手を追及しないとか。

それでもヌルくならずテンションをさげないでいられれば
「なんとかする」ことはできないけど「いつか<なる>」ということはあるかもしれない。

そういう長期的姿勢が大事なんだろな。

それにしても、どうすれば大きな声を出さないでいられるか。
急がないということだと思うが、それは期待しないということではなく。
大きく望んでも、大きな声を出さない。

「たいしたことない」ことが大事だというのではなく、
ほんとに正味「たいしたことない」ということ
いわば身の程を知るということの意味はなんだろう。

なんてことを考え始めた昨年であり、
考え続ける今年なんだろう。

*************

毎年大晦日には必ず更新してきた(多分)
というのも、問題主婦を開設したのが、大晦日だったから。
それなのに、今年はやらず、新年も二日過ぎ、ようやくなんとか書いている。

それだけ「ねばならない」から開放されているのかもしれない。
というわけで
ことしもぼちぼちいきまする。
よろしくお願いします。


カワク・ワ ロロマニ
(ありがとう。未来に良きことが起こりますように)
我らと衆生とみなともに安らかな暮らしを成ぜんことを。

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