2007年01月19日

けものみち 松本清張 新潮文庫

昼間のテレビで毎日ドラマの再放送をやっていて、つい見てしまうのだ。
なかなか骨太で見ちゃうのだ。

ドラマはこちら
設定は現代に置き換えられている。しかし、歴然とした昭和のドラマだ。
原作では戦後17年の昭和37年に60歳の闇の王、鬼頭。
主人公成沢民子は31歳だ。
暖房は火鉢か練炭で、女が当然のように自分で着物が着られた頃の話。

そこでは全てが手触りがあり具体的だ。
因果関係は明瞭な事柄で構成されている。
肉体の欲望、物への欲望、お金への欲望、人間の上下関係。憎しみ。
そのすべてが3Bの鉛筆でくっきりなぞったように明瞭な輪郭をもつ。

そんなことがあるだろうか。
どうでもいいとか、だるいとか、めんどくさいとか、死にたいとかそういうことは一切ない。
貪欲に生きている。そういうもんだろうか。
人をばらばらに切ったり、ボーリングの球でなぐったり、そんなこんなはものすごく薄い。
今はこんなに濃い輪郭はない。

輪郭は輪郭を産み、仕掛け仕掛けられ、最後には一人の男を残して皆死ぬ。
「小滝」という男だ。
この男の背後関係は何もない。これが不思議だ。
最初は、この男が闇の王であるところの「鬼頭」になんらかの遺恨のある人物かと考えていたが、最後までそれはでてこなかった。つまり、この男は話の人物関係に絡まれていると見えて、宙にういているのだ。当事者でありながら第三者の視点をもつといえようか。

そう思うと、この「小滝」の位置は松本清張自身の位置だろうかともおもえる。
清張が現実に対して保った位置が「小滝」のような位置なのではないだろうか。底辺を生きてきて、書くことに自己実現を見いだしたとすれば、全てを相対化して生きていく、そういう位置に積極的に禁欲したと考えてもおかしくない。あの独特の風貌ににつかわしい位置だとも思える。

だが、それは孤高の位置だ。カメラの視点、それ自体は現実を変えることはない。
変革は人と人が何かを共有することでうまれるのだと思うのだが。

さて、ドラマと原作の大きな違いは、民子の位置だ。
脚本は良く出来ている。民子は男にすがって生きる女ではないし、企業家でもある。男と男の間でバランスを取って綱渡りしていく。自立しているのだ。そこが現代だ。脚本は良く出来ている。いろいろなタイプの女が書き込まれているのだ。

どのタイプの女も竹薮にはNGだが、ドラマには人間関係の原点のようなものが描かれている。「ふるさと」やつつましく生きる人間家族のようなものが、民子や小滝に対立する形で描かれる。平幹二郎の鬼頭と原作にはない、ふるさとの医者、田村隆廣の好対照だ。

どちらがいいか、これは究極の選択だ。
善を相対化しつつ、善を信じて生きる。それが一番人間的だと思う。
それが今の竹薮の位置だ。

おまけ。
2号が大嫌いなコマーシャル、米倉涼子の「計画的」云々の。
その相手役のさえない男性、この組み合わせが不思議だったが、このドラマで民子の相手役の三世議員をやっている。やたら民子に「結婚しようよ」と騒ぐ軽い切れる男を演じていた。そういう文脈だったんだ。
へぇ〜。

takeyabu31 at 15:23│Comments(1)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック みさえの本棚(書評) 

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この記事へのコメント

1. Posted by キャロ   2007年01月22日 03:55
けものみち 好きでした。
黒革の手帳もよかったし。
米倉はあれで ブレイク。
悪女役なら 米倉!って 風潮ですね

やっぱ小滝 木になりましたかー
最後までわからんちんだったもんね

それが 想像力を掻き立てるわー

あ それが 狙い?

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