2018年09月17日
道の駅「かでな」からみた「嘉手納基地」はなんだったのか。
先月末に沖縄に行ってきた。
四泊五日で沖縄中部に滞在し、首里城、識名園、斎場御嶽(せーふぁうたき)、ひめゆりの塔、比謝川でのスタンダップパドルでマングローブ観察、美ら海水族館、今帰仁城址、佐喜眞美術館(丸木夫妻の沖縄の図、普天間基地)、嘉手納基地を回った。
非常に興味深く、ちょっとハイになるくらいだったし、夫婦して沖縄ブーム。
早速三月に再び行くことにした。
その中で、突出して印象が曖昧なのが「嘉手納基地」だった。
その時のツイート
道の駅かでなの屋上にしばらく立って手すりにもたれ、基地をじっと眺めてた。
でも、何を見ているかわからないのだ。
沖縄についてすぐからずっと基地があって、色々思ってきたのに
嘉手納基地については、何も言葉にならず。
思うことが多すぎて言葉にならないのではない。
全く「わからない」とあるが、本当にわからなかった。
一般的には、このリンク先に十分に書いてある。
しかし、竹薮としては今見ているものはこれと違うと感じられた。
猛烈な疑問。これはなんだ。
これが29日なので、10日間ほどもやっと頭の中においといて
ようやくわかった。
それが絵葉書だ。
沖縄には電車がないので、空港についたら即レンタカーで、空港にはレンタカー各社のスポットがあって自分の契約した会社の送迎バスに乗って事務所へ。車を借りて出発。そんな感じだ。
するとほどなく、
それ以来、ナビの画面の中にも視野の中にも基地基地基地。
どういうわけか、滞在中に一度も軍用機の飛ぶのに出くわさなかったけど、とにかく基地基地基地。
いちばんぞわっとしたのが普天間基地だ。
普天間基地は佐喜眞美術館の屋上から見た。
基地そのものはこんな感じ。
だが、この基地を望む屋上から下をみるとこうなる。
左側の黄土色は美術館、右側の灰色は基地だ。
もし竹薮がうっかりスマホを落としたら、基地内に落ちてしまう。
「すいませーん、屋上で写真撮ってたらスマホ落としちゃって〜」
「あらあら、ちょっと見てきましょうね」
とかいうわけにはいかないことになる。
そもそも佐喜眞美術館自体が普天間の基地返還の中で生まれたものなのだ。
その顛末はこちら
嘉手納はその後で見たもんだから、本当に混乱した。これはなんだ。
で十日余
ようやくわかった。
きっかけは、中国からの観光客が道の駅かでなにくるというものだった。
そうか、観光スポットなんだ。
観光目的がいけないというのではない。
みる視点の問題だ。
例えば、博物館にある屏風とかはかつて殿様たちの生活空間の中にあった。
器はそこに食べ物が盛られ、人が手にとっていた。唇を当てていたものだ。
本来はありがたく拝見するものではない。
佐喜眞美術館の屋上から見下ろした普天間のフェンスは竹薮が直に経験したものだ。車で走っていて突然視野に入ってくる基地も経験したものだ。でも、嘉手納は経験できてない。見ただけなんだ。望遠鏡があって、マスコミの取材陣が常駐していて、本当に御誂え向きのスポットで、ほらみろという具合に眼前に現れる嘉手納基地。その有様を単に情報として受け取ってしまう。絵葉書を見て、それが見たことになってしまう。この違和感がわからないだったのだ。
そうすると、恐ろしいことになる。
つまり、本土の人間が知る、沖縄は表層だということ。
情報に過ぎないということ。
あれもこれもきっと単に情報なんだ。
それは沖縄に限らず、いろいろなものがそうだ。
知ったつもり、経験したつもりになっていて、実はわかっていない大事なこと。
そういうものがあるということ。
春にまた沖縄に行く。
どうすれば嘉手納基地をちゃんと経験できるだろう。
課題である。
**************
<昨日の夕飯>
中華丼とモロヘイヤのスープ
昨日は大人の国語だった。
受講生の方から、空芯菜とモロヘイヤをいただいた。
朝採りならぬ「さっきどり」とのことで
モロヘイヤは買ったのより作ったのの方が本当に美味しいので作っているとのこと。
で、早速いただいた。
本当に美味しかったです。
大人の国語は本当に人数が固定されていて新規拡大ができていない。
主催者は頭を痛めてる。
固定メンバーは素晴らしい方々でこれはこれでずっと続けていけたらいいなあ、
とはいえ、新規拡大もしたいところ。
本を一冊読んできてというのがハードルが高いのだろうか。
今回は石井光太「世界で一番のクリスマス」だった
受講生の中には他の作品も読んであまりに素晴らしいので課題との落差に驚いたという声もあった。
また、考えていなかったことを指摘され、ああそういう視点もあるなとそれについて話したり、本当に豊かな時間なのだが、共有してくださる方はおられませんか?
四泊五日で沖縄中部に滞在し、首里城、識名園、斎場御嶽(せーふぁうたき)、ひめゆりの塔、比謝川でのスタンダップパドルでマングローブ観察、美ら海水族館、今帰仁城址、佐喜眞美術館(丸木夫妻の沖縄の図、普天間基地)、嘉手納基地を回った。
非常に興味深く、ちょっとハイになるくらいだったし、夫婦して沖縄ブーム。
早速三月に再び行くことにした。
その中で、突出して印象が曖昧なのが「嘉手納基地」だった。
その時のツイート
「道の駅かでな」で見たものは、リンクの通りだが、羽田空港の倍あるという嘉手納基地の整然とした様子を伝えるべき言葉が浮かばない。何を受け取ってどう表現すればいいのか、全くわからない。何かが理解できないというのは、久しぶりだ。この感覚を持ち続けられるか。 https://t.co/1Vn0fnMcDi
— 竹薮みさえ (@misaeyabu) 2018年8月29日
道の駅かでなの屋上にしばらく立って手すりにもたれ、基地をじっと眺めてた。
でも、何を見ているかわからないのだ。
沖縄についてすぐからずっと基地があって、色々思ってきたのに
嘉手納基地については、何も言葉にならず。
思うことが多すぎて言葉にならないのではない。
全く「わからない」とあるが、本当にわからなかった。
一般的には、このリンク先に十分に書いてある。
しかし、竹薮としては今見ているものはこれと違うと感じられた。
猛烈な疑問。これはなんだ。
これが29日なので、10日間ほどもやっと頭の中においといて
ようやくわかった。
それが絵葉書だ。
沖縄には電車がないので、空港についたら即レンタカーで、空港にはレンタカー各社のスポットがあって自分の契約した会社の送迎バスに乗って事務所へ。車を借りて出発。そんな感じだ。
するとほどなく、
早速キャンプ
— 竹薮みさえ (@misaeyabu) 2018年8月26日
キャンプキンザーですと。 pic.twitter.com/Dpu8NJud0a
それ以来、ナビの画面の中にも視野の中にも基地基地基地。
どういうわけか、滞在中に一度も軍用機の飛ぶのに出くわさなかったけど、とにかく基地基地基地。
いちばんぞわっとしたのが普天間基地だ。
普天間基地は佐喜眞美術館の屋上から見た。
基地そのものはこんな感じ。
佐喜真美術館の屋上から、普天間基地をみる。この緑全部が基地。左手にはヘリコプターが落ちた沖縄国際大学、右手には保育園、小、中学校が隣接している。ほんとに市街地に隣接している。異常を肌で感じる。 pic.twitter.com/9ZldNQJBjQ
— 竹薮みさえ (@misaeyabu) 2018年8月29日
だが、この基地を望む屋上から下をみるとこうなる。
佐喜真美術館の屋上から、真下を見る。すぐフェンス。その向こうは普天間基地。 pic.twitter.com/DuYLfiDEJZ
— 竹薮みさえ (@misaeyabu) 2018年8月29日
左側の黄土色は美術館、右側の灰色は基地だ。
もし竹薮がうっかりスマホを落としたら、基地内に落ちてしまう。
「すいませーん、屋上で写真撮ってたらスマホ落としちゃって〜」
「あらあら、ちょっと見てきましょうね」
とかいうわけにはいかないことになる。
そもそも佐喜眞美術館自体が普天間の基地返還の中で生まれたものなのだ。
その顛末はこちら
嘉手納はその後で見たもんだから、本当に混乱した。これはなんだ。
で十日余
ようやくわかった。
きっかけは、中国からの観光客が道の駅かでなにくるというものだった。
そうか、観光スポットなんだ。
観光目的がいけないというのではない。
みる視点の問題だ。
例えば、博物館にある屏風とかはかつて殿様たちの生活空間の中にあった。
器はそこに食べ物が盛られ、人が手にとっていた。唇を当てていたものだ。
本来はありがたく拝見するものではない。
佐喜眞美術館の屋上から見下ろした普天間のフェンスは竹薮が直に経験したものだ。車で走っていて突然視野に入ってくる基地も経験したものだ。でも、嘉手納は経験できてない。見ただけなんだ。望遠鏡があって、マスコミの取材陣が常駐していて、本当に御誂え向きのスポットで、ほらみろという具合に眼前に現れる嘉手納基地。その有様を単に情報として受け取ってしまう。絵葉書を見て、それが見たことになってしまう。この違和感がわからないだったのだ。
そうすると、恐ろしいことになる。
つまり、本土の人間が知る、沖縄は表層だということ。
情報に過ぎないということ。
あれもこれもきっと単に情報なんだ。
それは沖縄に限らず、いろいろなものがそうだ。
知ったつもり、経験したつもりになっていて、実はわかっていない大事なこと。
そういうものがあるということ。
春にまた沖縄に行く。
どうすれば嘉手納基地をちゃんと経験できるだろう。
課題である。
**************
<昨日の夕飯>
中華丼とモロヘイヤのスープ
昨日は大人の国語だった。
受講生の方から、空芯菜とモロヘイヤをいただいた。
朝採りならぬ「さっきどり」とのことで
モロヘイヤは買ったのより作ったのの方が本当に美味しいので作っているとのこと。
で、早速いただいた。
本当に美味しかったです。
大人の国語は本当に人数が固定されていて新規拡大ができていない。
主催者は頭を痛めてる。
固定メンバーは素晴らしい方々でこれはこれでずっと続けていけたらいいなあ、
とはいえ、新規拡大もしたいところ。
本を一冊読んできてというのがハードルが高いのだろうか。
今回は石井光太「世界で一番のクリスマス」だった
受講生の中には他の作品も読んであまりに素晴らしいので課題との落差に驚いたという声もあった。
また、考えていなかったことを指摘され、ああそういう視点もあるなとそれについて話したり、本当に豊かな時間なのだが、共有してくださる方はおられませんか?
takeyabu31 at 10:33│Comments(0)│婦人口論(批評)