オーディエンス化する社会「投資の科学」

September 25, 2007

オーディエンス化する社会 その2

 このまえのつづきです。

 オーディエンス化というのは、いわゆる「総観客化」という意味で使っているのですが、一般的にはそうは捉えられてないと思います。というわけでまずは「前提」の話。

 一般的には、というのも今はまず「総表現化社会」といってもいいような風潮にあると思います。なので、誰彼かまわず自らというものを確立し表現するということがトレンド(こんなん言うたら反感買うかな?)になっているのも事実。
 そして、その表現行為を通じて人は自らを「プレイヤー」と位置づけやすい環境が整ってきました。ブログしかりSNSしかりインターネットラジオしかり・・・。

 ただ、こういう表現というのは、メタ的な切り返しをしていくと「表現する観客」と呼ぶのに相応しいのではないか? という思いが僕にはあるのです。もちろんこのブログを書いている「僕」をも含めての話ですんで。


 その典型例でまずパッと思いついたのが柏レイソルのサポーターについてのこの記事
 観客がプレイだけでなく自らの活動でも楽しもう! という、イマふうのノリですね。なんか楽しそう。
 ただ、これはあくまで「サポーターによる観客席でのパフォーマンス」であり、そしてその発露にあるのは「サポーター(つまりオーディエンス)自らの手で楽しもう!」という、自分たち向けの活動なわけです。

 一方、プレイヤーというのは基本的に「オーディエンスに満足を提供する」ことで対価を得る立場の人たちであり、そこに自己満足というものを介入させることは基本的にご法度です。※基本的に、というのは「プレイヤーの自己の満足感がオーディエンスの満足」という場合は例外だという意。
 この意識の違いは大きい。この違いに直面し、なおかつ他の観客がそのテンションについていけないときにいわゆる「内輪ノリ」と呼ばれる現象が起こっているのではないでしょうか。ちなみに僕はこのさぶい空気が苦手ですが、最近ではそれを「見なかったことにする」スキルが高まっているようなので、あまり感じてないかもしれませんね。



 ではなぜ、この社会が「オーディエンス化」しているのかについても書いてみます。もちろんあくまでも「僕がこう思った」の話ですけど。

 まず第一にプレイヤーのレベルアップのすばらしさ、にあると考えられます。プレイヤーが提供するレベルが高まったがために、オーディエンスの満足が高まり、それがオーディエンスの数を増やすとともに、オーディエンスとしての立場での安住が促進されたのではないかと。Jリーグのここ十年なんかを見るとそれは一目瞭然でしょ?
 第二に、ディレクターのレベルアップ。プレイ(ヤー)の魅力、深み、そういったものをわかりやすく翻訳する立場の人たちの競争が、結果的に満足を高めていったといってイイでしょう。
 第三に、お金で買えるモノ・コトがふえたこと。オーディエンスというのはまず「何かを買う」ことでその輪の中に入ることを許されますが、その輪がたくさんできたことにより(つまり消費傾向が細分化され市場が適応してきたことに)、オーディエンスであることの楽しみが拡がったのでは? というわけ。



 んでもって、最後に僕が「オーディエンス化する社会」において怖いなぁって思うことを。

 それは一言で言うと「理解しないでもその場は済んじゃう」ということ。
 例えば今はやりのワーキングプアの問題。もちろん大前提に「労働分配率の低下」や「雇用流動性の向上」、「仕事のマニュアル化」といった社会経済的要因があるのだけれど、それでも根本的に「理解」のあるなしが両者(プアかプアでないか)を分けているように思えてならないのです。

 観客というのは、これから演じられる演目についてその演者やストーリー、時代背景についての知識がある程度必要なもの。そして、観客として必要なその知識は(ディレクターの手によって)パンフレットや案内等で用意されているものでもあります。知識というものは本来、そのような用意されたものではなく、自らの興味と好奇心と探究心で満たしていくものだったりするが、観客でばかりいるとそのことに気づかなくなってしまうのでないか? という恐れ、・・・・・・ってこんな文章で伝わるかなぁ。とにかく僕はそういうのが怖いのですよ。

 

 お金をもらって満足を用意する人と、お金を払って満足を用意してもらう人がいる。そして多くの人が様々な場面で後者であることに喜びを感じ、自尊心を満たし、満足を得ようとしている。そうやって人がどんどん「オーディエンス化」していくように見えて仕方がないのですよ。





 追記

 ・・・・・・なんだか書けば書くほどうまくまとまらないから、思ってることを箇条書きにしてみた。

○お金を払って満足を得ようとする場面(シチュエーション)が増えれば増えるほど、人はお金に執着し、そこに価値基準をおいてしまうこと。

○自分の人生においてもオーディエンスであることが、リスク回避に繋がっているような錯覚が蔓延してる気がする。時間は戻せないし、人はいつ死ぬかわかんないし、人生にリハーサルはないのに。

○一見、自己実現に見える「場の提供」を商売する人が増えてきた。※自費出版とかCGMとか。
 そしてその自己表現は「プレイヤー」になったつもりにさせるけど、実は結構「熱狂的なオーディエンス」だったりする場合が多い。その違いは意識が誰に向いてるか。

○知識は自らの手で構築していくものであって、構築されたものを鵜呑みにすることではない。

○思っているよりもずっとずっとプレイヤーの数は少なく、オーディエンスの数が多いこと。

○こんな事書いている僕自身、プレイヤー気取りのオーディエンスに過ぎないということ。

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この記事へのコメント

1. Posted by TAKEKO   September 25, 2007 10:12
わかりますね〜 あのサブさ・・・
19の時、北九州のライブハウスみたいなとこのオーディションのとき
ダイレクトに痛感したんですよね{笑}
そのとき、正直 いろんな視点が現れた気がしますね。
その辺から自分が何なのかばっかり探ってる気がします{笑}

2. Posted by 店主   September 25, 2007 23:51
>TAKEKOさん どもども。まだまだ暑いですわ、全くもう。
ライブで感じるあのサブさって、結局オーディエンスを引っ張るだけのパフォーマンスができているのか、それともオーディエンスをさぐってばかりいるのか、による違いが表れている気がします。

まぁ、このエントリーは支離滅裂になっちゃいましたが、オーディエンスという立場に慣れきっちゃヤバいんじゃね? ってことが言いたかったワケですねん。・・・しかし言葉にするのは難しいなぁ〜。

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