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訃報

NYTのデビッド・リンチ氏の訃報を拙訳してみました


ニューヨーク・タイムズの記事を拙訳してみました(2025年1月16日午後4時28分更新)。

David Lynch, Maker of Florid and Unnerving Films, Dies at 78(空想的かつ不気味な映画の製作者であるデビッド・リンチ氏が78歳で死去)

A visionary, his films included “Eraserhead,” “Blue Velvet” and “Mulholland Drive.” He also brought his skewed view to the small screen with “Twin Peaks.”(先見の明を持つリンチ氏の映画には、『イレイザー・ヘッド』、『ブルー・ヴェルベット』、そして『マルホランド・ドライブ』が含まれる。また、『ツイン・ピークス』を通じて自身の歪んだ視点を小さな画面にももたらした)

Jan. 16, 2025Updated 4:28 p.m. ET
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デビッド・リンチ氏は画家から前衛的な映画製作者に転身し、映画のスクリーンを超えてテレビ、レコード、本、ナイトクラブ、有機コーヒーのライン、さらには意識に基づく教育と世界平和のための慈善団体を設立していた。その名声や影響力、独自に歪んだ世界観を広げた。そして78歳で死去した。

彼の家族は16日にSNSで死去を発表したが、詳細は明らかにしなかった。2024年、リンチ氏は長年の喫煙により肺気腫を発症したと発表し、その結果、今後の映画はリモートで監督しなければならないと述べていた。

リンチ氏は先見の明を持つ人物であった。その華麗なスタイルと不気味な視点は、1977年の深夜に公開されたカルト映画『イレイザー・ヘッド』で本格的に現れた。そのアプローチは、失敗した大作『デューン/砂の惑星』(1984年)、小さな町を舞台にした官能スリラー『ブルー・ヴェルベット』(1986年)とその精神的スピンオフであるネットワークTVシリーズ『ツイン・ピークス』(1991年と1992年にABCで放送)、広く認められた傑作『マルホランド・ドライブ』(2001年、ハリウッドへの有毒なバレンタイン)、そして彼自身がビデオで撮影した謎めいた最後の長編映画『インランド・エンパイア』(2006年)において一貫していた。

フランク・キャプラやフランツ・カフカと同様に、リンチ氏が非常に賞賛し、合成されたと言える20世紀の二人の著名なアーティストのように、名前は形容詞となった。
デニス・リム氏は、彼のモノグラフ『デビッド・リンチ:別の場所の男』の中で、「リンチ的」は「一見認識しやすいが、定義するのは難しい」と述べている。『超越瞑想』という技法に長年献身してきたリンチ氏によって制作された彼の映画は、夢のようなイメージや緻密な音響デザイン、また誇張され、時には甘美な無邪気さと堕落した悪との対立を描くマニケア的な物語で特徴付けられている。

リンチ氏のスタイルはしばしばシュルレアリスムと称される。不安を感じさせる対比、突飛な非連続な発言、そして日常的なものの官能的な乱れは、明らかに古典的なシュルレアリスムに近い。一方、リンチ氏のシュルレアリズムは、プログラム的というよりも直感的であった。古典的シュルレアリストが非合理を称賛し、日常の中に素晴らしいものを解放しようとしたのに対し、リンチ氏は普通を盾として非合理から身を守る手段として活用していた。

リンチ氏の個人的なプレゼンテーションには、パフォーマティブ・ノーマリティが明らかであった。自身のトレードマークともいえる服装スタイルは、ネクタイなしで、上のボタンを締めたドレスシャツであった。長年、本人はロサンゼルスのファーストフードレストラン「ボブズ・ビッグボーイ」に定期的に食事に出かけ、熱心に賛辞を送っていた。言葉に対して不信感を抱き、言語を自らのアートに対する制限や妨げと見なしていたため、しばしば陳腐な言い回しで話していた。リンチ氏のインタビューは、アンディ・ウォーホルのインタビューのように、無口でありながらも驚きに満ちていて、あからさまなものを抑え込んでいた。

この不可解な印象は、リンチ氏の最初のハリウッド映画『エレファントマン』(1981年)を手助けしたメル・ブルックスやそのアソシエイトであるスチュアート・コーンフェルドに「火星から来たジミー・スチュワート」と呼ばれるようになった。おそらくその反応として、リンチ氏は自分を「イーグルスカウト、ミズーラ、モンタナ」と名乗るのを選んだ。

■そのスタイルの定義

ドナルド・リンチ氏(アメリカ合衆国農務省の森林服務における研究科学者)とエドウィナ(サンドホルム)・リンチ氏の第一子として、デビッド・キース・リンチ氏は1946年1月20日にミズーラで生まれたが、そこに住んでいたのは短い間だけであった。家族はすぐにアイダホ州ボイシに移り、その後ワシントン州スポケーンに引っ越した。

ノースウエストの深い森林はリンチ氏に深い印象を与え、『ブルー・ヴェルベット』や『ツイン・ピークス』、そして1992年の映画の前日譚『ツイン・ピークス: ファイア・ウォーク・ウィズ・ミー』の舞台となった。

ドナルド・リンチ氏が東部に転勤したため、家族はまずノースカロライナ州ダラムに引っ越し、次にバージニア州アレクサンドリアに移った。そこでデビッド氏は高校に通い、絵画に興味を持つようになった。卒業後、彼はワシントンD.C.のコーカラン美術学校とボストンの美術館学校に通い、1966年にペンシルベニア美術アカデミーに入学した。

都市の衰退状態にあったフィラデルフィアは、本人にとって啓示的な存在であった。この都市には「素晴らしい雰囲気 — 工場、煙、鉄道、ダイナー、最も奇妙なキャラクター、そして最も暗い夜」があったと、リンチ氏は1997年のインタビューで述べた。「私は鮮やかなイメージを見た 。 バンドエイドで留められたプラスチックカーテン、壊れた窓に詰め込まれた布切れなどがそれだ」

リンチ氏は、フランシス・ベーコンの影響を受けた病的で偽子供っぽいキャンバスを作成する中で、映画のループを絵画に取り入れ始めた。1967年に美術学校を中退したが、その後フィラデルフィアに更に3年間留まり、絵を描き、短編映画を制作していた。

1970年、リンチ氏はアメリカ映画協会のフェローシップを受け、最終的に『イレイザー・ヘッド』となるフィーチャープロジェクトに取り組むために移住した。この映画は分類しがたい作品ではあるが、リンチ氏は常にフィラデルフィアと結びつけている。『イレイザー・ヘッド』は、鬱病に悩む若い女性と、不可解な髪型をした困惑した若者が、地獄のような工業都市のどこでもない場所で共同生活を送り、その結婚生活が醜悪な変異体の子どもの鳴き声によって耐えがたいものとなる物語である(その子供はアニメーションされた皮を剥がれたウサギに似ているが、決して特定されなかった)。

驚くべき出来栄えである『イレイザー・ヘッド』は製作に4年を要し、さらに3年をかけて観客を固める必要があった。映画の出品者および配給業者であるベン・バレンホルツ氏は、アレハンドロ・ホドロウスキーの『エル・トポ』で6年前にミッドナイト映画を先駆けて開いた後、1977年の晩秋にニューヨークのシネマ・ビレッジで『イレイザー・ヘッド』をゼロ時に上映した。

官能的に地味で、幻覚的でありながら実体的なこの映画は、混乱を招くものであった。吐き気を催す特殊効果にもかかわらず、『イレイザー・ヘッド』は42丁目のグラインドハウスにはアートすぎるように思えた。

口コミによる支持を受けながら、『イレイザー・ヘッド』は1978年夏までシネマ・ビレッジで上映され、その後数ブロック離れた場所でミッドナイトに再上映され、さらに1年後には、ダウンタウンの観客に受け入れられ、2年間にわたって「ロッキー・ホラー・ショー」カルトを育ませたウェイヴリーで上映された。

その頃、リンチ氏はハリウッドに注目されていた。メル・ブルックス氏は、地震の会社ブルックスフィルムズのために、ジョセフ・メリックの生涯に基づいた映画『エレファントマン』の監督をリンチ氏に依頼した。ジョセフ・メリックは、19世紀末のロンドンでセレブリティとなった、重度の変形を持つ男性である。『イレイザー・ヘッド』と比較すると地味ではあるが、この映画にはリンチ氏がその才能を自由に発揮できるいくつかの場面が含まれていた。特に印象的なのは、メリックが鉄道駅の小便器で閉じ込められ、マスクを剥がされる場面での恐怖のワルツである。

商業的にも批評的にも成功を収め、8つのオスカー賞候補になった『エレファントマン』は、より複雑な依頼につながった。プロデューサーのディノ・デ・ラウレンティス氏は、以前の数回の試みが失敗した後、リンチ氏にフランク・ハーバートのカルト的なサイエンスフィクション小説『デューン』の脚色を依頼した。

『デューン』はジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に影響を与えたが、デ・ラウレンティス氏が別の『スター・ウォーズ』を期待していたとしたなら、結果に失望しただろう。『デューン』(1984年)は、原始的で印象的に悪質な特殊効果を持ち、土曜の午後の子ども向けショーではなかった。また、アートフィルムでもなかった。

「リンチ氏の『エレファントマン』の跡は見受けられない」と、ジャネット・マズリン氏は彼女の『ニューヨーク・タイムズ』のレビューで書いている。「だが、『イレイザー・ヘッド』の不気味さが、物語の重いキャラクターを際立たせるぬめりや血なまぐさい描写に見られる」

『デューン』は興行的には失敗に終わったが、デ・ラウレンティス氏はリンチ氏の次の映画『ブルー・ヴェルベット』の資金を提供した。ロナルド・レーガン大統領の任期の中盤に登場した『ブルー・ヴェルベット』は、レーガンの「アメリカの朝」キャンペーンを逆転させた。この映画は、生々しい病理と歌舞伎的な甘さが魅惑的に融合した作品であり、リンチ氏にとって『イレイザー・ヘッド』以来の最初の個人的なプロジェクトであった。『ブルー・ヴェルベット』は、マルトショップ、フットボールフィールド、レクリエーションルームの地下室という絵葉書のような外観の裏に潜む堕落を無情に暴露した。

映画の中心には、イザベラ・ロッセリーニ、デニス・ホッパー、ローラ・ダーン、そしてリンチ氏の時折の別人格であるカイル・マクラクランが出演する20分間のセックスシーンがあり、覗き見、レイプ、サディズム・マゾヒズム、暗示された去勢、様々な言葉によるおよび身体的な虐待、複雑なフェティシズム、そして名前のない儀式的な変態性が満載であった。

賛否両論があった『ブルー・ヴェルベット』は、ヴェネツィア映画祭で却下された。リンチ氏のほぼ同様に物議を醸した次作『ワイルド・アット・ハート』は、ローラ・ダーン氏とニコラス・ケイジ氏がアメリカ南西部で逃亡する若いカップルを演じ、その1990年のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した。

同じ年に、リンチ氏は『ツイン・ピークス』でネットワークテレビを制覇し、更に大きな成功を収めた。『ツイン・ピークス』は、高校のホームカミングクイーンの死に関する神秘的で、しばしば混乱を招く調査であった。『ブルー・ヴェルベット』以上に、『ツイン・ピークス』(マーク・フロストとの共同制作)は、リンチ映画特有の奇妙で、奇妙に普通のキャラクターたちのうねりを抱えており、真面目なFBI捜査官(マクラクラン氏)が含まれていた。

すぐに話題となった『ツイン・ピークス』は、初シーズンで5つのエミー賞にノミネートされた。その神秘は、殺人者の正体が第2シーズンの3分の1のところで明らかになり、解消された。番組は続行いたものの、その後の13エピソードの視聴率は下がってしまった。

リンチ氏は『ツイン・ピークス』の前日譚として『ファイア・ウォーク・ウィズ・ミー』(1992)を提供した。この映画はシリーズの前提を覆し、殺された少女を中心に据えた自己参照的なドラマで、少女の放蕩、レイプ、近親相姦、そしてブードゥーが満載であった。「これは史上最悪の映画ではない。ただそう見えるだけだ」と、ヴィンセント・キャンビー氏は『ニューヨーク・タイムズ』で書いている。(リンチ氏は、2017年に自身とフロスト氏が『ツイン・ピークス』を復活させ、元のシリーズの25年前のクリフハンガーを引き継いだ際には、マクラクランの素晴らしいFBI捜査官を最終エピソードまで秘匿する事となった)。

『ファイア・ウォーク・ウィズ・ミー』の後、リンチ氏は『ロスト・ハイウェイ』(1997)で自己パロディに危うく陥りそうになった。この作品は、バリー・ギフォードと共に書かれた真剣にトリippy(トリッピー)で、優しく思春期的、そしていやらしく不気味なロカビリーの悪を呼び起こす作品であった。ギフォードはフィルムノワールの愛好者であり、彼の小説が『ワイルド・アット・ハート』の基礎となった。リンチ氏はその後、スティーブン・スピルバーグをも恥ずかしく思わせるかのような、あまりにも無恥に感動的な前提で進む方向に転換した。『ストレート・ストーリー』(1999)は、アルビン・ストレート(リチャード・ファーンズワースが演じる)という73歳のウィスコンシン州の男性が、疎遠になった兄を訪れるために240マイル(時速5マイル)をジョン・ディアの芝刈り機で運転した実際の物語をドラマ化したものである。

■傑作の創造

2年後、リンチ氏は官能スリラー『マルホランド・ドライブ』で再び才能を発揮した。この映画は2001年にニューヨーク映画批評家協会によって最優秀映画に選ばれ、リンチ氏の長年の批評家であるロジャー・イーバート氏からも賞賛された。リンチ氏の傑作と広く見なされているこの作品は、2022年の『サウンド・アンド・サイティ』の歴代最高映画ランキングで8位にランクインした。

『マルホランド・ドライブ』は、一見魅惑的でありながら悪意を持つロサンゼルスで展開される。拒絶されたテレビパイロットの廃材から作られたこの映画は、2人の映画スターを目指す女性のドタバタ劇を描いている。1人は暗く神秘的なローラ・エレナ・ハーリング、もう1人は金髪で元気なナオミ・ワッツである。ムードは非常にリンチ的である。不気味な唸る音が、映画が暴力的な非連続性の間を走り回る中で厄介な幻覚を伴っており、ハリウッドを夢の工場としての概念に対して文字通りに捉えている。

映画産業が神秘的な陰謀であるというアイデアは、『インランド・エンパイア』(2006年)ではさらに明確に表れ、この映画を『ニューヨーク・タイムズ』でレビューしたマノーラ・ダルギス氏は、以前の作品の「邪悪な双子」と表現した。

確かに、意図的に難解な『インランド・エンパイア』は、映画としての体を殆ど成していない。リンチ氏は、この映画メディアを「タールピットにいる恐竜」に例え、『インランド・エンパイア』をアマチュアグレードのDVカムコーダーで少しずつ撮影し、ウサギの人形をフィーチャーしたウェブシチコムの素材や、彼の主演であるローラ・ダーン氏との70分間のインタビューを組み込んだ。『イレイザー・ヘッド』以来最も実験的な作品である『インランド・エンパイア』は、記録の力について考察している。無味乾燥で解読が難しいこの映画は、ローラ・ダーン氏へのオマージュでもあり、彼女が登場する間中となっているが、その論理は映画としての性質以外には存在しない。

この映画はリンチ氏自身がリリースしたもので、彼の最後の長編映画となる。2011年、彼はパリに「シランシオ」と名付けたプライベートメンバーズクラブを創設した。この名前は、『マルホランド・ドライブ』に登場する不気味に空っぽな映画館に由来し、そこでレベッカ・デル・リオがアカペラでロイ・オービソンの曲「クライング」のスペイン語版を歌うシーンがある。このクラブは、エミール・ゾラが『私は告発する』を書いたとされる地下階にあるモンマルトル通りに位置している。追加の支店がスペインのイビザ、マイアミのアート・バーゼル、そして2024年にニューヨーク市にオープンした。

2014年、リンチ氏の母校であるペンシルベニア美術アカデミーは、彼の絵画、ドローイング、版画、アセンブラージュのフルレトロスペクティブ「統一場」を開催した。リンチ氏の映画が彼のグラフィックアートよりも実現度が高いと認めながら、批評家のケン・ジョセフソン氏は『タイムズ』で、「リンチ主義者」たちはこの展示が「非常に興味深い、必見の展示」であり、フランシス・ベーコンの影響を明らかにしている点が注目に値すると述べた。

リンチ氏は4回結婚し、ペギー(レンツ)・リーヴィ、メアリー・フィスク、メアリー・スウィーニー、エミリー・ストフルにそれぞれ子供を授かっている。フィスク氏とスウィーニー氏との結婚の間に、ロッセリーニ氏との長い関係を持っていた。娘であるジェニファー・リンチも映画製作者である。

子孫に関する完全な情報はすぐには入手できなかった。いわゆる「ムービーブラッツ」(映画製作者世代)の仲間であるジョージ・ルーカス、マーティン・スコセッシ、スティーブン・スピルバーグとは異なり、リンチ氏は自らのカウンター・カルチャーしか受け入れなかった。彼は決して元ヒッピーというわけではなく、レーガン政権のホワイトハウスに2度ゲストとして招かれたが、著名な映画を追っていた大統領が『ブルー・ヴェルベット』をキャンプ・デイビッドで上映した証拠はない。

ルーカス氏が最初のヒット作『アメリカン・グラフィティ』に関心を持っていたのに対し、リンチ氏は青春時代の若者文化に根深い関心を持ち、性別のステレオタイプを繰り返し描写し、1960年代初頭の流行音楽を使用していた。アプローチは懐古的というよりも、根本的に異化するものであった。

リンチ氏には自身のハリウッド観があった。ルーカス氏が最初の映画をアニメーションディズニー作品『シンデレラ』と記憶し、スピルバーグ氏がそれをセシル・B・デミルのサーカスの大作『地球最大のショウ』だと宣言したのに対し、リンチ氏の初期の作品は『What ’Til the Sun Shines, Nellie』という1952年の血みどろのメロドラマであった。この映画は『ニューヨーク・タイムズ』で「古き良き理髪店への感傷的な賛辞であり、アメリカの小さな町に住む事の疑わしい幸福を称えるもの」と表現されている。大都市は罪の源泉として描かれた。

リンチ氏がハリウッドを真に受け入れなかったように、ハリウッドも彼を真に受け入れなかった。彼の映画は定期的に批評家グループによって称賛され、フランスでは極めて高く評価された。『ワイルド・アット・ハート』でパルム・ドールを受賞した11年後には、『マルホランド・ドライブ』で最優秀監督に選ばれた。一方、オスカーには何度もノミネートされたものの、受賞することはなかった。

『エレファントマン』の後、リンチ氏はルーカス氏から『ジェダイの帰還』の監督を依頼された。仮に彼がその招待を受け入れていたら、『スター・ウォーズ』サーガはそこで奇妙さの泥沼に沈む形で終了していたかもしれない。

リンチ氏は、一般受けする従来のハリウッド映画を作ることはなかった。しかし、2022年には、スティーブン・スピルバーグ氏の自伝的フィーチャー『ザ・ファーベルマンズ』でカメオ出演に同意し、神秘的でありながらも異様なリンチ氏は、アメリカ映画の西部劇製作者であり、大御所のジョン・フォードとしてキャスティングされた。このことは、リンチ的と呼ぶしかない感傷的なジェスチャーであった。

※アッシュ・ウーが報道に寄与した。




デビッド・リンチ氏死去

 

NHKより。お悔やみ申し上げます。

ジミー・カーター元アメリカ大統領死去 #速報 #訃報

 

アメリカCBSニュースより。お悔やみ申し上げます。以下、拙訳。

ジミー・カーター・アメリカ第39代大統領が、29日に100歳で亡くなったとカーターセンターが確認した。1期のみ大統領を務め、その後は人道的活動において優れた第二の人生を歩み、アメリカの歴史において最も高齢の元大統領となった。

死因に関する詳細は明らかにされていない。

妻で77年連れ添ったロザリン・カーターは、2023年11月19日に96歳で亡くなった。

カーター元大統領は、1年以上にわたり在宅でホスピスケアを受けており、一連の短期間の入院を経ていた。2023年2月にカーターセンターの声明で、元大統領は「残された時間を家族と共に過ごし、追加の医療介入ではなくホスピスケアを受けると決めた」と述べた。

カーターは90代に入っても活躍を続け、ハビタット・フォー・ヒューマニティやカーターセンターとの活動を続け、ジョージア州プレインズの教会で日曜日の学校を教えていたが、健康状態が悪化していた。

在任中も退任後も、カーターは平和と人道的な事業のために絶え間ない擁護者としての遺産を築いた。1978年にはキャンプ・デイビッド合意を仲介し、中東の平和の枠組みを確立し、国際的な平和、民主主義、人権の推進に数十年にわたって尽力した功績により、2002年にノーベル平和賞を受賞した。

カーターは、大統領としての任期中に多くの業績を挙げたが、1977年から1981年のホワイトハウスでの任期は混乱状態であった。任期にはアメリカのエネルギー不足やイラン人質危機が含まれていた。

ウォーターゲート事件の後、全国的な舞台に登場したカーターは、有権者が政治の変化を求めていた時期であった。

「彼らはエド・マスキーやヒューバート・ハンフリー、スコープ・ジャクソン、ジョージ・ウォレスを望んでいなかった」と大統領歴史家のダグラス・ブリンクリーは述べた。「長く国家の注目を浴びていた人々に疲れていた。このため、カーターはアメリカに新しく新鮮な顔で登場した」

ジェームズ・アール・カーター・ジュニアは、1924年10月1日にプレインズで生まれた。ピーナッツ農家の息子として、本とバプテスト信仰を愛していた。

アメリカ海軍兵学校では核科学を学び、1946年に優等で卒業した。同年、ロザリン・スミスという若い女性と結婚した。結婚生活は70年以上続く。2023年7月7日に77回目の結婚記念日を祝ったが、アメリカ史上最も長い結婚生活を送った大統領夫妻となった。

カーターは潜水艦訓練を完了し、7年間海軍に服務した後、家族のピーナッツ農場を経営するべくジョージアに戻った。ロザリンは4人の子供を育てながら、キャリアの焦点を農業から政治にシフトさせていった。

州の公職に8年を費やした後、カーターは1970年にジョージア州知事に選出された。人種平等と伝統的な価値を強調する新しいタイプの南部のリーダーである事が明らかであり、国家が安定を求めていた時期であった。

1976年、アメリカ独立200周年の年には、ジェラルド・フォード大統領を破ってアメリカ合衆国の39代大統領に就任した。カーター夫妻は、就任式のパレードコースでオープンエアで行進する事で、「我々は国民の一部である」事を示した。

「彼の最大の資産は、候補者としてのアウトサイダーの地位だった」とブリンクリーは述べた。「そして、大統領としての彼の最大の欠点は、効果的な大統領になるためにはワシントンのインサイダーでなければならないのに、依然としてアウトサイダーのままであったという点だ」

カーターはワシントンでの人間関係を築くのに苦労し、議会の民主党指導者たちと公然と対立した。石油価格とインフレが急騰する中、人気は低下していった。

だが、任期中には幾つかの成果もあった。カーターはエネルギー省と教育省を設立し、中国との正式な外交関係を確立し、パナマ運河の管理をパナマに返還した。

恐らく最大の業績は、イスラエルとエジプトの間の歴史的な平和条約であるキャンプ・デービッド合意であろう。

「歴史は、深く古くからの敵意が流血なしに、貴重な命の驚くべき無駄遣い無しに解決出来たと記録するだろう」とカーターは1979年3月26日の平和条約署名の際に述べた。

1979年11月4日、イランの過激派がテヘランのアメリカ大使館を襲撃し、52人のアメリカ人を人質に取った。アメリカの軍事介入による救出作戦は失敗に終わり、8人のアメリカ軍兵士が事故で命を落とした。この危機はカーターの再選キャンペーンに影響し、経済の低迷とインフレーションが18%を超える中で人気は更に低下した。

カーターの政権の最終日には、自身とそのチームが人質の解放交渉を行い、ロナルド・レーガンの就任日には無事釈放された。

ホワイトハウスを退任した後、カーター夫妻はアトランタにカーターセンターを設立し、平和と世界的健康の推進に取り組む事を使命とした。

「私たちは苦しみを和らげる選択が出来る。平和のために共に働く事を選べる。我々はこれらの変化を実現できる—そして実現しなければならない」と2002年、数十年の人道活動に対してノーベル平和賞を正式に受賞する際に述べた。

カーターとロザリンは、ハビタット・フォー・ヒューマニティと共に家を築き、この団体への貢献を30年以上続け、20冊以上の本を執筆した。

彼は2006年の著書「パレスチナ:平和ではなくアパルトヘイト」で、イスラエルのパレスチナ人に対する扱いを抑圧として描写し、論争を巻き起こした。後に、ユダヤ人コミュニティに対して公開謝罪を行い、改善の提案がイスラエルを汚名を着せるべきではないと述べた。

2007年、カーターはかつての政治的ライバルで親友となったジェラルド・フォード元大統領の葬儀でスピーチを行った。「私が最も誇りに思う瞬間の1つは、ホワイトハウスの200周年記念の際に、2人の著名な歴史家がフォード・カーターの友情が歴史上のどの大統領間でも最も個人的なものであると宣言したときだった」とカーターは話した。

カーターは2015年8月に癌に罹ったと診断され、メラノーマ(悪性黒色腫)が肝臓や脳に転移していた。カーターはカーターセンターでの活動を制限したが、組織のための資金調達を続け、プレインズでの日曜日の学校の授業を教え続けた。この伝統は本人が十代の頃から続いている。

カーターは新しい免疫療法薬で治療を受け、驚異的な回復を遂げ、6か月後にはMRIで癌の兆候が見られないと報告した。2019年5月には再び健康の問題が起こり、転倒して股関節を骨折した。退院後回復し、すぐに日曜日の学校の授業を再開した。その後、2019年10月にも再び転倒し、骨盤骨折のために入院した。1か月後、脳の圧力を緩和するための外科的手術を受けるためにアトランタの病院に入院した。

カーターセンターは2023年5月にロザリンが認知症と診断されたと発表し2023年11月の死去まで夫と共に自宅で生活を続けた。

4人の子供と多くの孫、曾孫に囲まれて残された。

ホワイトハウスを退任してからの長い年月の中で、カーターは平和の種をまき、時には論争の種をまく事もあった。しかし、歴史上最も活動的な元大統領の一人として、その後の大統領たちにとっての役割を定義したと多くの人々が信じている。

(文中敬称略)

拙訳終わり。お悔やみ申し上げます。

オリビア・ハッセ―さん死去



米デッドラインより。お悔やみ申し上げます。ご本人のインスタグラムにご家族が「愛する人に見守られながら安らかな最期を自宅で遂げました」との事でした。

お悔やみ申し上げます


お悔やみ申し上げます。


お悔やみ申し上げます



ニュース パスより
取り急ぎ

お悔やみ申し上げます。


お悔やみ申し上げます。



ヤフーニュースより。今年は文化人の訃報が多い気がする。

お悔やみ申し上げます


お悔やみ申し上げます


谷川俊太郎さん死去

NHKラジオより。お悔やみ申し上げます。

心よりお悔やみ申し上げます。

西田敏行さん死去。お悔やみ申し上げます。



ナイトスクープ関係者が二人も。辛い。

大山のぶ代さん死去



心よりお悔やみ申し上げます

ピート・ローズ氏死去



米バラエティより。お悔やみ申し上げます。

熱烈な阪神ファンとして知られていた方でしたが…今年のV2逸を病床でどう見られていたのでしょう




ともあれ、心よりお悔やみ申し上げます。

ペルーのフジモリ元大統領が死去



日経の速報です。取り急ぎ。

高石ともやさん死去



心よりお悔やみ申し上げます。

アラン・ドロンさん 死去。心よりお悔やみ申し上げます



今頃天国でジャン・ギャバンさんやジャンポール・ベルモンドさん、リノ・バンチュラさん、チャールズ・ブロンソンさん、三船敏郎さんらと再会なさっていると信じたい。
「太陽がいっぱい」は大好きな映画の一つでした 。
心よりお悔やみ申し上げます。
 安らかにお眠りください。

ドナルド・サザーランド氏死去 #訃報




 

ウィリー・メイズ氏死去



ウォールストリート・ジャーナルの速報です。お悔やみ申し上げます。

槇文彦さん死去

NHKラジオより。お悔やみ申し上げます。

国境なき記者団国際事務局長のクリストフ・ドロワール氏が死去


記者団1



親愛なる皆様

国境なき記者団国際事務局、各事務局・部会、各理事会のチームを代表し、国境なき記者団国際事務局長のクリストフ・ドロワール氏が、がんとの闘病の末、53歳で亡くなられた事をお知らせいたします。

2012年の就任以来、クリストフ・ドロワール氏は、新たな成長と影響力を特徴とするこの協会を、ジャーナリズム擁護のための世界的な擁護者へと変貌させました。

クリストフ氏は、情報が錯綜する中、あらゆる大陸でジャーナリズムの自由、独立、多元性を擁護する巨大なエネルギーを発揮した。現地での活動やジャーナリストの釈放のための交渉など、あらゆる局面に立ち会った彼は、ジャーナリズムと情報への権利という彼の人生の大義のために、揺るぎない信念をもって執拗に戦ってきました。

彼の死が発表されて以来、以前に拘束されたり、人質となったりしたジャーナリストたちから、敬意を表するメッセージが数多く寄せられており、国境なき記者団の活動が効率的であったことを証明している。

奥様のペリーヌさん、ご子息のネイサンさん、ご両親、そして彼に近しいすべての方々に深い哀悼の意を表します。

クリストフ氏が望んだように、これまで以上に重要なこの闘いを続けるために、私たちの側にいてくれてありがとう。


国境なき記者団(RSF)
ピエール・ハスキ 国境なき記者団代表


若生智男さん死去



今日は辛い話が続く。心よりお悔やみ申し上げます。

増山江威子さん死去



yahoo!ニュースより  心よりお悔やみ申し上げます

今くるよさん死去


ヤフーニュースより。心よりお祈り申し上げます。

香港社によりますとイラン当局がライシ大統領の死亡を正式発表したそうです




心よりお悔やみ申し上げます

AP「イラン大統領ヘリ、生存者の兆候無し」と配信


ロイター通信「イラン大統領死亡の恐れ」と報道



涙、涙


キダ・タローさん死去


AP 通信電によると著名な映画プロデューサー、 ロジャー・コーマン氏が亡くなられたそうです


お悔やみ申し上げます


唐十郎さん死去



ヤフーニュースより。
お悔やみ申し上げます。

フジコヘミングさん死去

NHKラジオより。お悔やみ申し上げます。

桂由美さん死去



ヤフーニュースの速報です。取り急ぎ。

笠谷幸雄氏死去

NHKラジオより。お悔やみ申し上げます。

O.J. シンプソン氏死去


ニューヨーク・タイムズの速報です。取り急ぎ。

ロイター通信も「アメリカ生まれの元横綱曙氏が54歳で死去」と配信


曙氏死去


ピーター・ヒッグス氏死去

NHKラジオより。お悔やみ申し上げます。

鈴木健二さん死去 #訃報



ヤフーニュースより。お悔やみ申し上げます。

国民栄誉賞授与を求めます


PC黎明期に他言語に取って代わるプログラミング言語を開発したニクラウス・ウィルス氏が死去。89歳。

ニューヨーク・タイムズが報じています。お悔やみ申し上げます。

山本陽子さん死去。サンスポより。お悔やみ申し上げます。

英国のガーディアンによると プーチン大統領に批判的で 獄中につながれていたナワリヌイ氏がなくなられたそうです


あのニューヨークタイムズも小澤征爾さん死去報道


指揮者の小澤征爾さん死去。NHKニュースより。お悔やみ申し上げます。


チリの元大統領、ヘリ事故で死去

ロイター通信の速報です。お悔やみ申し上げます。


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