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これまで海外の新聞業界の動向などを紹介してきましたが、今後は海外のコンテンツ配信ビジネスや「ほぅ」と思わせる新規ビジネスについて紹介していきます。

訃報

ライアン・オニールさん死去

アメリカ NBC ニュースの続報です。 取り急ぎ。

豊田有恒さん死去 #お悔やみ申し上げます


お悔やみ申し上げます

脚本家の山田太一さん死去「岸辺のアルバム」「早春スケッチブック」(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) #Yahooニュース 

キッシンジャー元国務長官死去



 ワシントン・ポストの速報です。取り急ぎ。

ライブドアニュースより。お悔やみ申し上げます


yahoo!ニュースの速報です。 お悔やみ申し上げます


タケモトピアノのCMは、思えば デフレの象徴だったと思う


そのデフレが終わりかけている今、そしてインフレに突入しつつある今というタイミングで亡くなられたというのは 象徴的だなと。
謹んでご冥福をお祈りします。

デビッド・マッカラム氏死去 #訃報 #速報


デッドライン・ハリウッドの速報です。享年90。2週間前に誕生日を迎えたばかりだったそうで、ニューヨークのプレスバイテリアン病院で家族に看取られながらの最後だったそうです。お悔やみ申し上げます。

寺沢武一氏死去 #訃報


お悔やみ申し上げます。「コブラ」はリアルタイムで読んだだけにショックです。

ウィリアム・フリードキン氏死去。87歳 #訃報

英国のガーディアン紙の速報です。取り急ぎ。

トニー・ベネット氏死去 #訃報


英国のガーディアンが報じています
お悔やみ申し上げます

心よりお悔やみ申し上げます


自分よりもはるかに 若い方が亡くなられるというのは本当に辛い

平岩弓枝さん死去 #訃報

読売新聞の速報です
 取り急ぎ

ダニエル・エルズバーグ氏死去 #訃報 #速報

 

ペンタゴン・ペーパーズ事件でメディア報道の歴史を変えたダニエル・エルズバーグ氏が死去したとニューヨーク・タイムズが報じていますので拙訳します(2023年6月16日午後2時56分投稿)。

Daniel Ellsberg, Who Leaked the Pentagon Papers, Is Dead at 92(ペンタゴン・ペーパーズ漏洩のダニエル・エルズバーグ氏死去。92歳)

Deeply disturbed by the accounting of American deceit in Vietnam, he approached The New York Times. The disclosures that followed rocked the nation.(ベトナムに於けるアメリカの欺瞞に関する報道に深く動揺し、ニューヨーク・タイムズに接触した。その後の情報公開は全米を揺るがした)


軍事アナリストで、バスルームの床ですすり泣きながら反戦のひらめきを体験し、1971年にベトナムに於けるアメリカの嘘と欺瞞の秘密の歴史を暴露し、後にペンタゴン・ペーパーズ事件として知られるようになったダニエル・エルズバーグが、16日にカリフォルニア州ケンジントンの自宅で死去した。92歳だった。

妻子らは声明で、原因は膵臓癌だったと述べた。

3月、エルズバーグは 「親愛なる友人と支援者へ」 への電子メールで、手術不能の膵臓癌であると最近告げられた、医師から余命3ヶ月から6ヶ月との推定を受けたと発表した。

権限を超え、議会を無視し、アメリカ国民を惑わせた歴代大統領の欺瞞を告発した7000ページに及ぶ 「ペンタゴン・ペーパーズ」 の暴露は、既に傷を負い、戦争によって分断されていた国を怒りの論争に陥れた。

エルズバーグの信用を失墜させ、政府情報の漏洩を食い止め、政敵と思われる人物を攻撃するためのホワイトハウスによる違法な対抗措置に繋がり、ウォーターゲート事件として知られる一連の犯罪を形成する結果となり、リチャード・ニクソン大統領の不名誉と辞任に連なった。

そしてニクソン政権とニューヨーク・タイムズ紙との間で憲法修正第1条(訳注:言論の自由を保障)を巡る対立を引き起こし、同紙の発行は国家の安全を脅かすスパイ行為であると政府から非難された。連邦最高裁は報道の自由を支持した。

エルズバーグはスパイ、陰謀、その他の罪で起訴され、ロサンゼルスの連邦裁判所で裁かれた。だが、陪審団の審議の前夜、判事は違法な盗聴を含む政府の不正行為、エルズバーグの元精神科医のオフィスへの侵入、ニクソン大統領による判事自身の連邦捜査局長官への任命の申し出を理由に、この訴訟を却下した。

釈放されたエルズバーグは 「大統領の脱神秘化と脱神聖化が始まった」 と語った。「オズの魔法使いのフロッキングのようなものだ」 。

ダニエル・エルスバーグの物語は、多くの点でアメリカのベトナムでの経験を反映していた。アメリカは1950年にインドシナの共産主義を封じ込めるための闘争として始まり、1973年に5万8000人以上のアメリカ人と数百万人のベトナム人、カンボジア人、ラオス人が犠牲になった腐食戦争で屈辱的な敗北を喫した。

ミシガン州出身の優秀な青年で、15歳の時に父親が運転中に居眠りして母と妹が自動車事故で死亡するという悲劇があったものの、プレップスクール、ハーバード大学、そして英国のケンブリッジ大学を高い栄誉と高尚な規律ある野望をもって行進するために結集した人物だった。

1954年に海兵隊に入隊し、士官候補生学校を卒業し、1956年のスエズ危機の際には大隊とともに中東に派遣されるまで入隊期間を延長した。彼は何の行動も起こさなかったが、国際問題の軍事的解決について確固たる考えを持つ中尉として召集された。

ハーバード大学で博士号を取得後、ランド研究所に入り、危機的状況や核戦争に適用されるゲーム理論の研究を始めた。1960年には、キューバのミサイル危機と北ベトナムによるトンキン湾でのアメリカの船への攻撃への対応を協議した。

1964年までに、エルズバーグはロバート・S・マクナマラ国防長官の顧問を務めた。ベトナムへのアメリカの関与が深まると、1965年にサイゴンに行き、民間人の平和維持プログラムを評価した。反乱鎮圧の専門家であるエドワード・G・ランスデール少将と合流し、18ヶ月間、ジャングルや村への戦闘パトロールに同行した。

■陰惨たる現実

見聞が本人を変えてしまった。南ベトナム人の心を掴めなかった以上の体験だった。民間人の死者、拷問された囚人、焼き払われた村の犠牲者が増え続け、軍の現地報告書には 「明白かつ保持された作戦」 として何度も残虐行為が記録された。

シンジケートのコラムニスト、メアリー・マクグローリーに 「あの人たちが大変な思いをしているのを見た」 と語った。「しかし、共産主義の下では生きるのはより困難になり、我々が防いでいると思っていた第三次世界大戦はより悪化するだろうと自分に言い聞かせた」。

エルズバーグはマクナマラに対し、死と破壊が続き、恐らくアメリカの撤退と北ベトナムの勝利に終わるという暗い見通しを示した。彼の報告は行き詰った。しかし、マクナマラは1967年に他の35人と共に彼を召喚し、ベトナム紛争の歴史を編纂させた。

研究への貢献は比較的控えめだった。しかし、歴代の大統領が議会やアメリカ国民に事実を隠しながら戦争を拡大させてきたという包括的な結論に深く動揺した。1968年、エルズバーグはランド研究所に戻ったが、ロバート・F・ケネディ上院議員の大統領選に向けた戦争政策声明を作成したり、反戦会議に出席したりするなど、自身の見解の変化に静かに取り組み始めた。

1969年8月、彼はペンシルベニア州のハバフォード大学で開催された徴兵登録者連盟の集会に行き、講演者のランディ・ケーラーが、徴兵を拒否した罪で服役中の友人たちと近々合流する予定であると誇らしげに発表するのを聞いた。

感極まったエルズバーグは限界点に達していた事を、女優マーロ・トーマスの 「適切な時期での適切な言葉=The Right Words at the Right Time」 (2002年) で回想している。「私は講堂を出て、閑古鳥が鳴いている男性用の部屋を見つけた」 と言った。「床に座って1時間以上泣き続け、ただすすり泣いた。生まれてこのような反応をしたのは初めてだった」。

エルズバーグは公然と戦争に反対し始めた。新聞に手紙を書き、反戦デモに参加し、記事を書き、徴兵抵抗者の裁判で証言した。ランド研究所からも圧力を受けて辞任した。

ベトナムで知り合ったランド研究所の同僚、アンソニー・J・ルッソJrと、極秘の安全保障文書閲覧許可を得ていたエルズバーグは、47巻からなる国防総省の研究書をコピーした。それでもこの制度の範囲内で仕事が出来ると信じていたエルズバーグは、1970年に外交委員長のJ・ウィリアム・フルブライト上院議員をはじめとする議会関係者に一部のコピーを渡した。だが、いずれも慎重な姿勢で拒否された。

エルズバーグは、自分が犯罪を犯し、刑務所に送られるかもしれない事に失望し、幻滅し、気づいていたため、ベトナムで会ったベテランのニューヨーク・タイムズ特派員ニール・シーハンに文書を持って近づいた。その譲渡は微妙な問題だった。2021年のシーハンの死後まで本人の希望により伏せられていたこの記事で、シーハンはタイムズの同僚のジャニー・スコットに、いかにして生涯の7000ページのスクープを手に入れたかという劇的な話を語っている。

エルズバーグはまず、ニューヨーク・タイムズが記事を掲載し、情報源の身元を守るために最善を尽くすならば、記事を引き渡す事に同意したという。しかし、シーハンが書類が保管されているマサチューセッツ州ケンブリッジのアパートに到着すると、条件を変更し、シーハンは書類を研究してメモを取る事は出来るが、コピーはさせないと言った。シーハンにアパートの鍵を渡して町に出た。

シーハンは新聞が 「国民の財産」 であり、言われているように 「兵士達の血」 でお金を払っていると信じていたので、約束を破棄してコピーを取り、ニューヨークにセットとして持ちかえり、同僚記者と編集者のチームがホテルの一室で何週間もかけて国家機密の山を公開する準備をした。エルズバーグがシーハンの二枚舌を知ったのは、1971年6月13日にニューヨーク・タイムズがペンタゴン・ペーパーズに関する抜粋と分析記事を9回に分けて最初に掲載した時だった。反応は速かった。

ジョン・N・ミッチェル司法長官は、スパイ法や陰謀法を引き合いに出し、同紙が国家の安全を脅かしていると警告し、同紙は破滅的な法的措置に直面していると述べた。編集者、弁護士、発行人アーサー・O・サルツバーガーが協議し、掲載が再開された。しかし、第3回以降、司法省は出版差し止め命令を得た。

一方、エルズバーグは、ワシントン・ポストなど他社にリークした。政府は訴訟を起こした。ニューヨーク・タイムズとワシントン・ポストは最高裁に上告し、6月30日に差止命令が解除され、掲載が再開された。この裁判は、国家の緊急事態が発生しない限り、報道機関は掲載前に検閲を受けるべきではないという憲法の原則を強化した。

■損害の開示

ペンタゴン・ペーパーズは、歴代大統領が戦争を拡大させただけでなく、勝利の見込みが無いと認識していた事を明らかにした。また、政府高官の国民に対する冷笑や、膨大な戦死者を無視する姿勢も明らかになった。エルズバーグはこの紛争を 「ほぼ最初からアメリカの戦争」 と呼んだ。

ホワイトハウスは即座に潜伏していたエルズバーグを追及し始めた。ニクソン大統領の内政顧問であったジョン・D・アーリックマンの下で 「配管工」 と呼ばれる部隊が結成され、エルズバーグの精神科医のオフィスへの侵入 (被害を与えるファイルは見つからなかった) 、1972年にはワシントンのウォーターゲート事件に関わる民主党本部への侵入など、機密情報の漏洩を防ぎ秘密工作を行った。そこでの強盗犯の逮捕は解明が始まり、1974年のニクソンの辞任につながった。

投降したエルスバーグと同僚のルッソはスパイや陰謀などの罪で起訴され、合計115年の懲役を受けた。1972年の審理無効を経て、1973年にロサンゼルスの連邦裁判所でウィリアム・M・バーン・ジュニア判事のもとで二人の裁判が行われた。だが、事件が陪審に持ち込まれる前に、裁判官は政府の不正行為を理由に全ての起訴を棄却した。

バーン判事は、ウォーターゲート事件を仕組んだG・ゴードン・リディとE・ハワード・ハントが、エルズバーグかかりつけの元精神科医ルイス・J・フィールディングのオフィスに侵入し、彼に不利な証拠を見つけようとしたが失敗したと述べた。FBIがエルズバーグの会話を違法に盗聴し、公判中にアーリックマンが判事にF.B.I.長官職就任はどうかと申し出た事も明らかにした。

ニクソンが辞任し、ミッチェルやアーリックマンらウォーターゲート事件の関係者が投獄される中、エルズバーグは反戦運動に積極的で、全米各地の集会やキャンパスで講演を続けた。また、軍縮を提唱して核兵器に反対する発言を行い、1976年に国防総省の外で行われたデモで他のメンバーと共に逮捕された。

2001年9月11日の同時多発テロの後、エルズバーグは、ジョージ・W・ブッシュ大統領が、テロの元凶であるウサマ・ビンラディンを追ってアフガニスタンに侵攻し、テロリストを庇護する狂信的なタリバン政権を鎮圧しようとした事を非難した。また、ほぼ9年間の紛争で数千人のアメリカ人の命を奪い、一説によると2兆ドルの損害を出したアメリカ主導のイラク戦争を痛烈に批判している。

新聞や雑誌に多くの記事を書き、「戦争に関する論文=Papers on the War」(1972年)、「秘密=Secrets」(2002年)などの著書がある。後者は、幾つかの賞を受賞し、ザ・クリスチャン・センチュリーのトラン・ヴァン・ディン等の批評家から賞賛され、 「権力に対して真実を語ろうとし、権利章典によって与えられた保護を信頼していた開明的な市民の感動的な物語」 と呼ばれた。

2021年、台湾をめぐる米中の緊張が再燃していた時期に、エルズバーグは密かに書き写していた長年の政府機密研究を取り上げて話題となった。この報告書は、1958年に毛沢東率いる共産軍が台湾海峡に浮かぶ台北領の島々を砲撃し始めた時に、国防総省が中国への核攻撃計画を作成したと指摘した。中国が攻撃を打ち切った事で危機は小康状態となり、島は蒋介石率いる国民党による中華民国の支配下となった。

■「道徳的勇気」 が称賛

1950年から60年にかけてランド研究所と国防総省に勤務していた時代を題材にしたエルズバーグの回顧録「終末の機械:核計画立案者の告白=The Doomsday Machine: Confessions of a Nuclear Planner」 (2017年) は、恐るべき核拡散と一触即発状態の時代を描写し、核によるホロコーストの危険性は依然として存在するという強烈な警告となった。グレアム・アリソンはタイムズ紙のレビューで「「終末の機械」 の真の狂気を鮮明にしようとするエルズバーグの努力と、相互確証破壊に我々の生存を賭ける愚かさ」を称賛した。

エルズバーグは 「深遠なヒューマニズムと並外れた道徳的勇気」 を称えられ、スウェーデンの2018年オロフ・パルメ賞を受賞している。

ダニエル・エルスバーグは1931年4月7日、シカゴでハリーとアデル (シャルスキー) ・エルスバーグの間に生まれた。父親は建築エンジニアで、1937年に一家をデトロイトに引っ越し、そこで少年時代を過ごした。母親は彼がコンサートピアニストになって欲しいと、本人の明らかな熱意の欠如にもかかわらず、1日に何時間もの練習を要求した。彼の母親と妹は1946年の7月4日の外出中に自動車事故で亡くなった。

奨学金を得てデトロイト郊外のプレップスクール「クランブック」に通い、主席で卒業した。ハーバード大学では再び奨学金を得て文芸誌を編集し、学内新聞「ザ・クリムゾン」の編集委員となり、1952年に経済学の学士号を優秀な成績で取得した。その後、ケンブリッジ大学キングス・カレッジで先進経済学を学ぶためのフェローシップを取得し、1953年に経済学の修士号を取得するべくハーバードに戻った。

1951年、元海兵隊准将の娘、キャロル・カミングスと結婚。夫妻はロバートとメアリー・キャロル・エルズバーグの2人の子供をもうけたが、1960年代半ばに離婚した。1970年、玩具会社の相続人で長年の反戦活動家だったパトリシア・マルクスと結婚。マイケルという息子を授かった。

妻と子供たち、5人の孫と1人のひ孫が残された。

海兵隊での勤務後、1958年にランド研究所に入って戦争ゲームを研究し、1962年にハーバード大学から経済学の博士号を取得した。1969年までに、エルズバーグはベトナム戦争の道徳問題に向き合い始めた。その8月にハバフォードで彼は徴兵抵抗者のケーラーの声を聞いた。

「彼が刑務所に入るのは非常に意図的な選択だった。彼はそれが正しいと考えていたからだ」 とエルズバーグは回想した。「この時、私の政府がこれからも続いて大きくなるであろう不当な戦争に巻き込まれている事に疑問の余地はなかった。毎年何千人もの若者が死んでいた」。

Robert D. McFaddenは、訃報デスクのシニアライターであり、スポットニュース報道で1996年のピューリッツァー賞を受賞した。1961年5月にニューヨーク・タイムズに入社し、二冊の本の共著者でもある。

(文中敬称略)
拙訳終わり。心よりお悔やみ申し上げます。

杉下茂さん死去 #訃報

中日スポーツを運用させていただきました
お悔やみ申し上げます
 今日は球界関係者の訃報が相次いで辛いものがありました

北別府学氏が死去 #訃報


お悔やみ申し上げます #訃報

 

NHK報道を見落としていました。

イタリアのベルルスコーニ元首相が死去と朝日新聞が報道  #訃報


青木幹雄氏死去 #訃報

yahoo!ニュースの速報です
取り急ぎ

「ユナボマー」獄死 #速報 #訃報


ニューヨーク・タイムズの速報です。取り急ぎ。

上岡龍太郎さん死去


同じ 阪神ファンとして お悔やみ申し上げます
岡田さん もう優勝するしかないよ

ティナ・ターナーさん死去 #訃報



ウォールストリート・ジャーナルの速報です。取り急ぎ。

ヘルムート・バーガー氏死去 #訃報



「地獄に堕ちた勇者ども」は大好きでした。お悔やみ申し上げます。

中西太氏死去 #速報 #訃報


今の岡田監督が新人時代に指導なさって下さった事を、阪神ファンとして忘れません。心からお悔やみ申し上げます。

ボスニア出身のAFP通信のフランス人ビデオリポーター、アルマン・ソルディン氏がウクライナ取材中に殉職。国境なき記者団が追悼 #ウクライナ戦争

追悼


親愛なる皆様

AFP通信のフランス人ビデオリポーター、アルマン・ソルディンは、5月9日、ウクライナ東部のバクムート近郊で取材中、ロシア・グラッド・ロケットの雨の中で亡くなった。国境なき記者団 (RSF) は、ウクライナにおけるクレムリンの戦争を取材する中で見せた勇気に敬意を表し、ウクライナとフランスの当局に対し、その死について徹底的な調査を行うよう求めている。

32歳のソルディンは取材に非常に熱心だった。開戦直後にウクライナに到着して以来、前線での戦闘や生活を取材していた。ボスニア出身であるため、インタビューしたウクライナ人の運命は、自身の経歴と共鳴した。

この戦争が始まって以来、フランス人記者三人を含む少なくとも10人のジャーナリストが殺害され、彼らの愛する人たち、そして広くは報道の自由にとって恐ろしい犠牲となった。RSFが事実を立証出来た全ての事案に於いて、命を落とす元となったのはロシア側による砲火である。

報道の自由のために毎日命をかけている男女に正義を与え続けるためには、皆様の助けが不可欠です。

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サポートありがとうございます。
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国境なき記者団 (RSF)
東欧・中央アジアデスクトップ責任者ジャンヌ・カベリエ

高見のっぽさん死去 #訃報


謹んでお悔やみ申し上げます。

ベン・フェレンツ氏死去。ニュールンベルグ裁判最後の検事 #訃報


ロイター通信の速報です
取り急ぎ

畑正憲さん死去 #訃報


ライブドアニュースの速報です。お悔やみ申し上げます。

ニューヨーク・タイムズも 坂本龍一さん死去を報道


改めて お悔やみ申し上げます

坂本龍一氏死去 #訃報

 

謹んでお悔やみ申し上げます。

「帰ってきたウルトラマン」団時朗さん死去 #訃報


ライブドアニュースより。心よりお悔やみ申し上げます。

チコ・バルボン氏死去 #訃報


少年時代、関西テレビでの阪急戦で良く解説なさっていたのを覚えております。心よりお悔やみ申し上げます。

扇千景さん死去 #訃報


スポーツニッポンの速報です
取り急ぎ

大江健三郎さん死去 #速報


yahoo!ニュースの速報です。
取り急ぎ。

大阪毎日さん、西山太吉さん死去が1面で無いのって編集判断として妥当なんでしょうか #西山事件 #訃報


昨日は往復14時間かけて伊豆にて日帰りの仕事をし、スマートフォンの残り充電量がヤバかったので、西山太吉氏の訃報をブログで紹介出来ず終いでした。すんません(ま、こんなブログ誰も読んで無いだろうけどね)。

で、改めてというか、今更ながらではあるのですが触れようと思い、毎日新聞のTwitterアカウントにアクセスしてみました。すると驚愕。え、あれへん?


https://twitter.com/mainichi

フィードを24日までスクロールし、一旦すべてを選択した上でコピーしてグーグルドキュメントにペーストし、出来上がった文書に「西山」で検索したんですけど、やっぱり無い。

しょうがないので、毎日新聞のサイトにアクセスし、「西山太吉」で検索しました。検索結果は2023年2月26日午後5時46分時点のものですので、今後変わってくる可能性がありますが、現状3本です。



で、全文が読めるのは、元毎日新聞記者の西山太吉さん死去 91歳 沖縄返還密約追及という記事だけ。後は途中までしか読めない有料記事でした。

この記事では、いわゆる「西山事件」として有名となる一連の経緯について簡潔に記されていますが、一方で当時のスキャンダラスな展開と、それでも西山氏を庇おうとした、「知る権利」キャンペーンについて触れられていません。記事を部分引用させて頂きます。
 山口県下関市出身。慶応大大学院修了後の1956年、毎日新聞社に入社。外務省を担当していた71年、沖縄返還に伴い米国が支払うべき軍用地原状回復補償費400万ドルを、日本が肩代わりする密約を記した電信文を同省の女性事務官から入手、報道した。更に横路孝弘・社会党衆院議員(故人)に懇願され、電信文を提供。横路氏が衆院予算委員会で電信文を暴露したことから72年4月、事務官と共に国家公務員法違反で逮捕、起訴された。
引用終わり。

入手の経緯が、当時も今も問題視されるような手口だった事について触れられていませんし、まして入手した文書を紙面にした訳でも無い。してたら大変な反響を呼んだ事でしょうに。

何故そうしなかったのかという点と、そうしなかった事について、毎日新聞が今どう位置付けて報じているのかが知りたかった。

え、そんなもん有料会員になったら読めるがなって? そりゃそうなんですが、まずはこの点だけを知りたかったので、寒空の中を近所のコンビニに行き、新聞を買い求めました。すると、驚愕の展開が。

西山太吉死去
こればっかりは見落とす筈も無し。で、中を読み進めると、業界用語で言う2社面の掲載で、1段あたりの天地が20倍での3段2行見出し。昔なら3段半扱いです。2番手記事でも無く、3番手記事。関連記事も無ければ、上記のような疑問に答える毎日新聞のコメントも無し。

いや、これ、新聞としてどうなのよと思ってしまいました。

「西山事件」が原因で部数が激減し、俵を割ったんですよね。そして今に至るなんですよね。社内で、「こういう扱いで良いのですか」と、誰も言わなかったんだろうか。

四半世紀近く、出来の悪いレイアウト屋として過ごした身として、指摘したい事があります。上記の記事の配信時間はこうなっています。
これは、遠隔地に配達する統合版の締め切り時間より前です。神戸などは、その1つ後の大阪府の周辺自治体に配達する版になります。当然、締め切り時間や印刷時間も遅いはず。

つまり、神戸に入れる版ぐらいレイアウトしなおせって話ですわ。いや、統合版だってそう。

「西山事件」は、新聞業界史に必ず触れられる話ではありませんか。だったら入れろよって話です。ちなみに、1面トップは「迫る」というカット付きの、シリーズ連載ものっぽい話でネッシーについてのストーリー。2番手記事が「G7対露支援停止要求」という記事。これ自体はウクライナ戦争の現状を考えれば掲載は妥当でしょう。そう考えるなら、以下のような編集判断にならざるを得ない。

G7を、声明の様子を収めた写真付きで1面とし、2番手に西山氏の訃報とすべきでは無かったのか。無論、関連記事付きで。ネッシーなんて、中の方に押し込んでしまったらエエがな。ところが中を読み進めると、社説ですら触れていない。

レイアウトし直せる人材も、もはやいなくなっているとは思いたくない。東京本社や、恐らくは西山氏の出身地である山口県にほど近い西部本社での扱いが気になってなりません。

キツイ言い方になりますけど、社を問わずに大阪管内の新聞関係者での定番の言い回しをさせて下さい。

こんなん、新聞ちゃうで。

笑福亭笑瓶さん死去 #速報 #訃報



デイリー・スポーツの速報です。取り急ぎ。

松本零士さん死去 #速報



yahoo!ニュースの速報です。謹んでお悔やみ申し上げます。以上取り急ぎ。

ラクエル・ウェルチ氏死去 #訃報



アメリカABCニュースの速報です。取り急ぎ。

謹んでお悔やみ申し上げます



後任どうなるんでしょうね。

色んな意味で残念だった入来智氏の事故死報道 #訃報

 

まだお若いし、残された御家族の事を思うと言葉が無い。ただ、それとは別に言いたい事があります。

 

地元のテレビ局の一報がこれ。現場の写真がある所を見ると、警電取材だけで済まさなかったのでしょう。取材に当たったのもお若い方だったかも。だけど、それならそれで、上司が「え、ひょっとしたらあの入来さんか?」と気づくべきだったのでは。年齢も、出身地も一致するわけですしね。

ワタクシメ自身も、Twitterで騒ぎになっていたのを知り「あ、確かに出身が都城だったよな」と思い出してしまいました。まして、地元局の誰1人気づかなかったのか。毎年、巨人がキャンプやってるだろうに。入来さんがヤクルトで現役の頃は西都でキャンプだったでしょうし、その頃に取材していた人が今は幹部職になっている筈。なのに、疑問も差し挟まず、確認の指示も出さずだったのでしょうか。

 

同じ局が後でこんな配信していますけど、正直これって非常に恥ずかしい事ですし、残念でなりませんわ。今後こういう事の無いようにして欲しいなと願う次第です。

末筆ながら、心からお悔やみ申し上げます。

バート・バカラック氏死去 #訃報



BBC の速報です。取り急ぎ。

ジーナ・ロロブリジータさん死去


ロイター通信の速報です

取り急ぎ

リサ・マリア・プレスリー氏死去詳報 #訃報


リサ・マリア・プレスリー氏の速報の詳報です。ピープル誌の記事を紹介させて頂きます(2023年1月12日午後8時40分投稿)。

エルヴィスとプリシラ・プレスリー氏の娘で、シンガーソングライターのリサ・マリア・プレスリー氏が亡くなった。54歳だった。

「私の美しい娘、リサ・マリアが私たちのもとを去ったという衝撃的なニュースを共有しなければならないことを、心を痛めている」 と、プリシラ氏は12日の夕方にピープル誌の取材に答えた。

「彼女は私が知る中で最も情熱的で強く、愛情深い女性だった。我々は、この深刻な喪失に対処するに当たり、プライバシーを求めたい。愛と祈りをありがとう。現時点ではこれ以上のコメントは無い」としている。

12日の朝、心停止の可能性があるとして病院に運ばれた。ロサンゼルス郡保安官事務所の広報担当者はピープルの取材に、救急隊員がカラバサスのノルマンディー・ドライブ5900ブロックに駆けつけ、呼吸をしていない50代の女性を治療した事を認めた。到着した救急隊員はCPRを開始し、患者に 「生命の兆候」 があることに気付いた女性を地元の病院に移送し、 「即時治療」 を受けさせた。

ロサンゼルス郡消防局の広報担当者は、救急隊が心停止の通報で当該の住所に出動したと認めた。

リサ・マリア氏は1968年2月1日、エルビスとプリシラの結婚式からちょうど9ヶ月後にテネシー州メンフィスで生まれた。短期間育てられた後、1973年の両親の離婚に伴い、4歳の時に母親と共にロサンゼルスに引っ越した。

エルヴィスは1977年8月に死去し、9歳のリサ・マリア氏が祖父のバーノン・プレスリー氏、曾祖母のミニー・メイ・フッド・プレスリー氏と共に遺産の共同相続人となった。2人が1979年と1980年にそれぞれ死去すると、彼女が唯一の相続人となり、父のグレイスランド邸も相続した。

 2009年の『グッド・モーニング・アメリカ』でエルビスと共演した時の事を、 「彼はいつも夜中に私を起こして歌っていた。テーブルについて歌っていた」 「私の父として覚えているけど、とてもエキサイティングな父親だった」 などと振り返っている。

1988年10月、リサ・マリア氏はシカゴを拠点とするミュージシャンのダニー・キーウ氏と結婚し、1989年に娘のライリー、1992年に息子のベンジャミンという二人の子供をもうけた。5年半の結婚生活の後、1994年5月に離婚した。

それから1ヶ月も経たないうちに、マイケル・ジャクソンと結婚した。初めて出会ったのは、7歳の時に亡くなった父親のラスベガスでのコンサートで、まだジャクソン・ファイブのメンバーだった。「私はマイケルをとても愛していて、彼の妻になることに人生を捧げています。私は彼を理解し、支持する。 」と当時の声明には書かれている。「二人とも家族を育むのを楽しみにしている」 。

 2年後、リサ・マリアとジャクソンは関係を絶った。

ハフポストによると、リサ・マリア氏は2016年のオプラ・ウィンフリー氏とのインタビューで、 「マイケルと私の父には相関がある。2人とも、自分たちの周りにどんな現実でも作り上げる贅沢さを持っていたというのがそれだ」 と語っていた。「自分達に従うか、そうでないかだ。後者なら、縁を切られた」 。

2000年、ハワイ生まれのミュージシャン、ジョン・オザイカ氏と婚約したが、その関係も終わる。パトリシア・アークエットと疎遠だった2000年にジョニー・ラモーンの誕生日パーティーで俳優ニコラス・ケイジ氏に出会ったからだ。

2年後、エルヴィスの25回忌にハワイで秘密裏に挙式した。だが、4ヶ月も経たない内に別れを告げた。

広報担当者が発表した声明の中で、は 「悲しい事だが、そもそも結婚するべきではなかった」 と述べた。

4度目の結婚相手はマイケル・ロックウッド氏だった。2006年に式を挙げ、2年後に双子の娘、ハーパーちゃんとフィンリーちゃんをもうけた。その後、リサ・マリア氏の方から2016年6月に離婚を申請し、2021年に成立した。別居以来、2人は子供達を巡る親権争いに巻き込まれ続けている。

2014年にヘルシー・リビングの取材に応じた際、自分の子供たちを 「猛烈に守っている」 「私はただ愛で窒息させているだけ」などと語った。「子供たちは私の優先事項だ。それが私の仕事だ。一番気になっている。私は近くに置いて、幸せで健康であると確かめている」 。

2020年、息子のベンジャミン氏が、28回目の誕生日となる7月12日に自殺した。「私の美しい天使よ、あなたが歩いた地を、この地で、そして今、天で、拝んだ 」と死の直後にインスタグラムに投稿した。「私の心も魂もあなたと一緒に行った。痛みの深さは、毎日の一瞬一瞬もあなたがいないと息苦しく、底無しだ」 。

ベンジャミン氏の誕生日には賛辞を送り、2022年にはこの喪失について人々に心溢れるようなエッセイを書いた。

レコーディング・アーティストとして、三枚のアルバムをリリースした。2003年の『To Whom It May Concern』はアメリカで50万枚以上売れゴールド認定を受けた。2005年の『So What』と2012年の『Storm&Grace』も同様である。

献身的な慈善家でもあり、ホームレスの家族に施し、家賃無料の住居、子供のためのデイケア、その他のサービスを必要としている家族に提供するエルビス・プレスリー慈善財団を長い間監督していた。また、オプラ・ウィンフリー氏のエンジェル・ネットワークと協力して、ハリケーン・カトリーナの被害者を救済したり、命に関わる病気や障害を持つ子どもたちのためにドリーム・ファクトリーを設立したりしていた。


拙訳終わり。愛を求め続けた人生だったのですね。心からお悔やみ申し上げます。

リサ・マリア・プレスリー氏死去。エルヴィス・プレスリーの娘 #訃報 #速報



フォックス・ニュースの速報です。取り急ぎ。

ベネディクト前ローマ法王が死去 #訃報



BBC の速報です。お悔やみ申し上げます。取り急ぎ。

バーバラ・ウォルターズ氏死去 #訃報


エミー賞受賞歴があり、セレブへのインタビューで知られたアメリカのバーバラ・ウォルターズ氏が死去しました。享年97。バラエティの速報です。お悔やみ申し上げます。以上、取り急ぎ。

ペレ氏死去の詳報 #サッカー #ペレ #訃報

 

ペレ氏の死去の詳報です。英国のスカイニュースから紹介します(2022年12月29日午後7時29分投稿)。

Brazilian football icon Pele has died at the age of 82(ブラジルの伝説のサッカー選手ペレ氏、82歳で死去)

His daughter Kely Nascimento paid tribute to her father: "We are thanks to you. We love you infinitely. Rest in peace."(娘のケリー・ナシメントさん、謝辞。『私達は感謝している。無限の愛を。どうか安らかに』)

Foreign news reporter @MikeRDrummond
Thursday 29 December 2022 19:29, UK

ブラジルのサッカースター、ペレ氏が82歳で死去した。代理人が認めた。

史上最高のサッカー選手の一人として広く認められていた元サントスFCのスター選手・ペレ氏は、11月29日からサンパウロのアルバート・アインシュタイン・イスラエル人病院に入院していた。

クリスマス直前の医療報告では、2021年9月から結腸癌と闘病しており、心機能障害と腎機能障害の治療が必要であることが示された。

娘のケリー・ナシメントさんはインスタグラムで父親を追悼し、 「私達は感謝している。無限の愛を。どうか安らかに」 と記した。

ペレ (元の名前はエドソン・アランテス・ド・ナシメント) 氏は15歳でサントスでプレーを始め、翌年にはブラジル代表でプレーを始め、17歳の時に1958年のワールドカップで世界のサッカーシーンに突然現れた。

国際大会では1958年、1962年、1970年とワールドカップで3度優勝している。

イスラエルのアルベルト・アインシュタイン病院は、大腸癌による多臓器不全が原因で、ブラジル時間午後3時27分に死去したと発表した。

ゲーリー・リネカー氏は、ペレの訃報を受け、その遺産を賞賛する人々の1人だった。

Twitterで 「サッカー選手の中で最も神聖で、男性の喜びであった」("The most divine of footballers and joyous of men.)

「彼のゲームでプレイしたのは、選ばれた数人だけだった」("He played a game only a few chosen ones have come close to.") 。

イングランドW杯優勝者のジェフ・ハースト卿は、ペレが 「史上最高の選手であり続ける」 と語った。

「 (ボビー・ムーアが一緒にプレーした最高のサッカー選手であることを含め) 間違いなく、私にはペレ氏の非常に多くの思い出がある」("I have so many memories of Pele, without doubt the best footballer I ever played against (with Bobby Moore being the best footballer I ever played alongside).)。

「私にとってペレは史上最高の選手であり続け、一緒にピッチに立つことを誇りに思っていた。ペレ氏に心からお悔やみ申し上げる」 ("For me Pele remains the greatest of all time and I was proud to be on the the pitch with him. RIP Pele and thank you.")です。

1970年にメキシコで行われたブラジルの3度目の優勝で果たしたペレ氏は、サッカー史上最高とも言えるこのスポーツの国際チームで重要な役割を果たした事から、サッカー界の伝説として語り継がれている。

1957年から1977年までの20年間の輝かしいキャリアを持ち、831試合に出場。757ゴールを挙げた。ただし、サントスは1000ゴールに近かったと主張している。

死後、公式インスタグラムにはペレ氏が 「世界を魅了した」 と投稿した。

「インスピレーションと愛が、平和的に今日亡くなったサッカー王ペレの旅路に刻まれた」("Inspiration and love marked the journey of King Pelé, who peacefully passed away today.)

「その旅路に於いて、エドソンは天才的なスポーツで世界を魅了し、戦争を止め、世界中で社会的な活動を行い、彼が最も信じていた、全ての問題の解決策である愛というものを広めた」("On his journey, Edson enchanted the world with his genius in sport, stopped a war, carried out social works all over the world and spread what he most believed to be the cure for all our problems: love.)

「彼の今日のメッセージは、未来の世代への遺産となる」("His message today becomes a legacy for future generations.)

「愛、愛、そして愛。永遠に」("Love, love and love, forever.")。

拙訳終わり。謹んでお悔やみ申し上げます。

ペレ死去 #訃報



アメリカの FOX ニュースの速報です
取り急ぎ

米サッカースポーツライターのグラント・ウォール氏、ワールドカップ取材中の9日、カタールで亡くなる #W杯 #訃報


カナダCBCの報道によりますと、サッカーのカタールワールドカップを取材中のアメリカのスポーツライターであるグラント・ウォール氏が、9日、現地で亡くなられました(2022年12月10日午後0時02分投稿。午後4時27分更新)。

アメリカ公共ラジオ(NPR)のナショナル・スーパーバイザーを務めるラッセル・ルイス氏は、ワール氏が亡くなったのは準々決勝のアルゼンチン対オランダ戦を取材している最中だったとTweetしています。享年48。

カタールの伝送・遺産の最高委員会 (Supreme Committee for Delivery and Legacy) の広報担当者によりますと、ウォール氏はルサイル・スタジアムのメディア向けエリアにいた時に 「体調を崩し」 、救急隊員によって現場で手当を受け、病院に搬送されたそうです。

なお、死因は明らかになっていません。

U.S.サッカーは、チームは 「悲嘆に暮れている」 としています。

「最高品質のサッカーとジャーナリズムのファンは、我々の試合について洞察に満ちた楽しい記事を配信するグラント氏を何時でも頼りにできると知っていた」("Fans of soccer and journalism of the highest quality knew we could always count on Grant to deliver insightful and entertaining stories about our game,")と続けています。

12月5日の自身のウェブサイトへの投稿で、ウォール氏は気分が悪く、ワールドカップの現場の医療関係者から気管支炎ではないかと言われ、抗生物質を投与されたと記しています。

「ついに身体が壊れた」 ("My body finally broke down on me,")「3週間の短い睡眠、高いストレス、沢山の仕事となれば、そうもなる。この10日間ずっと風邪だったものが、アメリカ対オランダ戦の夜にはもっとひどいものに変わり、胸の上部に新しいレベルの圧迫感と不快感を覚えてしまった」 ("Three weeks of little sleep, high stress and lots of work can do that to you. What had been a cold over the last 10 days turned into something more severe on the night of the USA-Netherlands game, and I could feel my upper chest take on a new level of pressure and discomfort.")とお書きでした。

奥様のセリーヌ・ガウンダー氏(お医者さんだそうです)は8日遅く、このニュースは 「ショック以外の何物でも無い」 とTweetした上で「夫@GrantWahlのサッカーファミリーと今夜手を差し伸べてくれた多くの友人のサポートにとても感謝している」 ("I am so thankful for the support of my husband @GrantWahl‘s soccer family & of so many friends who’ve reached out tonight,")と続けておられました。

アメリカ国務省は、ウォール氏の家族と緊密に連絡を取っているとし、哀悼の意を示しました。国務省のネッド・プライス報道官は 「カタール政府高官と連携し、家族の願いが可能な限り迅速に叶うよう努力している」 と("We are engaged with senior Qatari officials to see to it that his family’s wishes are fulfilled as expeditiously as possible,")Tweetしています。

一方、カタール最高委員会の報道官は、 「遺体の送還プロセスが遺族の希望に沿ったものとなるよう」(“to ensure the process of repatriating the body is in accordance with the family’s wishes.”) アメリカ大使館と連絡を取っているとの声明を発表しました。

ところでこの方、生前にトラブルを起こしていました。去る11月21日に、LGBTQ+の権利への連帯を示す虹のロゴが入ったTシャツを脱ぐのを拒否したために警備員に止められ拘束されていたのです。ご本人も事件に言及し、カタールでの開催には異様なものを感じると回想なさっていました。カタールでは同性間の関係は違法です。

拘束は、アメリカ対ウェールズの試合を取材するためにアル・ライヤンのアフマド・ビン・アリ・スタジアムに到着した時だったそうで、シャツを脱ぐのを拒んで30分以上拘束されたとの事です。結局、警備司令官がご本人を解放し握手をしに来るという展開になりました。

後にMSNBCのアンドレア・ミッチェル・リポートのインタビューで、「ワールドカップ以外でここにいる同性愛者のカタール人がどうなのか気になり、世界中が注目しているイベントで対処しなければと思った」("It left me wondering about what it's like for Qataris who are here outside of the World Cups who are gay because this was something that I had to deal with at an event that was being covered globally,")と振り返っています。

また、ワールドカップ開催までの数年間に数百人が死亡したと伝えられるカタールでの移民労働者の扱いについても記事になさっていました。

ウォール氏はカンザス州ミッション出身で、プリンストン大学を卒業なさっています。MITスローン・スポーツ・アナリティクス・カンファレンスの略歴によると、少なくとも10回のワールドカップと5回のオリンピックを取材した経歴をお持ちです。

スポーツ・イラストレイテッドやNPRのコメンテーターとしても知られている他、デビッド・ベッカムのアメリカ・サッカーへの進出について 「ベッカムの実験」 という著書を出版し、好評を博しました。なお、この本はサッカーを題材にした初のニューヨーク・タイムズベストセラーとなったそうです。

元々はスポーツ・イラストレイテッドで1996年に働き始め、2020年に独立したプロジェクトを追及したいと退職なさいました。同誌の共同編集長であるライアン・ハント氏とスティーブン・カネラ氏は、 「グラント君が亡くなったというニュースにショックを受け、打ちのめされている」 ("We’re shocked and devastated at the news of Grant’s passing,")と語っています。「20年間の同僚であり友人と呼ぶ事を誇りに思っていた。SIの歴史の中で、愛するスポーツと伝えたかったストーリーにこれほど情熱を注いだ書き手はいない」("We were proud to call him a colleague and friend for two decades. No writer in the history of SI has been more passionate about the sport he loved and the stories he wanted to tell.")と、哀悼の意を表しています。

FIFAのジャンニ・インファンティーノ会長は、 「サッカーへの愛情は計り知れないものがあり、訃報は世界の試合を追うすべての人々に惜しまれるだろう」 (“immense and his reporting will be missed by all who follow the global game.”)と声明を出した。

アメリカのサッカー殿堂は、ウォール氏のように偉大な選手を称えるという考えを支持する人は少ないと述べている他、メジャーリーグサッカーは、ウォールのサッカーに対する情熱は計り知れないと、その死を惜しんでいます。この他、ロサンゼルスのエンジェルシティフットボールクラブは、サッカーは「ウォール氏のおかげでより良くなった」("is better because of him.")と述べています。

全米女子サッカーリーグも「我々の美しい試合のストーリーを共有するという彼の献身は比類無きものだったが、更に重要なのは、その誠実さ、思慮深さ、優しさが生き方の中心だった事だ」("His commitment to sharing the stories of our beautiful game was unmatched, but more importantly, his integrity, thoughtfulness and kindness were central were central to the way he lived,") との声明を発表しています

読者の中には、アメリカでのサッカーのファン層の拡大に貢献したと評価する人もいます。

アメリカのサッカースター、ミーガン・ラピノー氏はこのニュースに 「打ちのめされた」 とTweetしていましたし、殿堂入りしたアビー・ワンバック氏はウォール氏とサッカーは 「表裏一体」 だとTweetしています。

「私は何十年もの間、グラントと彼の作品に注目してきました」(“I have looked to Grant and his work for decades,") とワンバック氏。「ここアメリカのサッカーの話には、ウォール氏の名前が全面に出ている」("The soccer story here in the US has Grant’s name all over it.”)。

映画とテレビのプロデューサーであるフランクリン・レナード氏は、アメリカ国内のゲームにおけるウォールの重要性を測るのは難しいと語っています。

「もしあなたがアメリカ人で無く、この美しいゲームのファンでもないなら、そうである人々のコミュニティにとって、グラント・ウォール氏の成し得た事を理解するのは非常に難しいかもしれない」 ("If you're not both an American AND a fan of the beautiful game, it might be extremely hard to understand Grant Wahl's meaning to the community of folks who are,")とし、「正直なところ、私はそれをどう言葉にして良いか、少し戸惑っている」("and honestly I'm sort of at a loss to articulate it." ) とTwitterに連投なさっています。

お悔やみ申し上げます。・・・事件性が無ければ良いのですが。

江沢民死去 #速報 #訃報

江沢民死去

ニューヨーク・タイムズの速報です。取り急ぎ。
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