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【お坊さんより詳しくなる仏教の開祖「ゴータマ・ブッダの80年」】

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ブッダ像(インド・サールナート博物館) 


+【はじめに】
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第 1 章 ルンビニーで出生
http://blog.livedoor.jp/taktag55-56/archives/12146330.html

第 2 章 天上天下唯我独尊 
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第 3 章 盗用だった「天上天下唯我独尊」
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第 4 章 母は7日後に死去
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第 5 章 アシタ仙人の予言
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第 6 章 異名が80も
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第 7 章 諸説ある生没年
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第 8 章 誕生日は4月8日
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第9章 インド神話の阿修羅
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第10章 四門遊観
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第11章 出家を決意
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第12章 怒り狂う妻
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第13章 バラモンの世界
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第14章 帝釈天と阿修羅の戦い
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第15章 古代インドの宗教書
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第16章 ヴァルナで束縛
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第17章 アーラーラ仙人に会う
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第18章 ビンビサーラ王の眼力
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第19章 ウッダカ仙人にも学ぶ
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第20章 苦行をやめる
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第21章 悟りを開く
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第22章 仏陀になる
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第23章 十二因縁
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第24章 四諦と八正道
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第25章 5人に初説法
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第26章 コンダンニャの偈
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第27章 カーシャパ3兄弟が帰依
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第28章 ビンビサーラ王に再会
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第29章 サーリプッタが帰依
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第30章 森は楽しい 
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第31章 祇園精舎とサーリプッタ
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第32章 ラーフラの後見人
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第33章 デーヴァダッタの反旗
http://blog.livedoor.jp/taktag55-56/archives/13605749.html?ref=head_btn_prev&id=6106075

第34章 サーリプッタ死す
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第35章 モッガラーナ死す
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第36章 最後の旅㊤故郷へ向かう
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第37章 最後の旅㊦大いなる涅槃
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第38章 500人の仏典編纂会議
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検 索(あいうえお順) 

主な文献

あとがき(般若心経について)

筆者紹介


 紀元前五世紀のインド。
 ヒマラヤ南麓一帯にシャーキャ族という部族が住み、小さな王国をつくっていました。
 王国の名はカピラヴァットゥ、王の名はスッドーダナ
 遥か南にガンジス川が西北から東南へ向かってゆったりと流れています。スッドーダナは四人兄弟の末弟。長兄、次兄、三兄にもすべて「飯」が付きます。小国の一帯は米が収穫できる豊かな地だったのでしょう。
 愛妻はマーヤー。漢訳は摩耶。昔、東京の日比谷公園の近くに「摩耶」というレストランがありました。経営者はこの名に思い入れがあったのでしょう。仏伝によれば、マーヤー夫人はある夜、不思議な夢を見ます。朝、夫に語った夢の内容は――。
 「遥か遠い天から六本の金色の牙を持つ純白の象が降りてきて、私の右脇からお腹の中に入ったのです。本当に驚きました」
 
 不思議な夢から十カ月後、臨月を迎えたマーヤー夫人は実家へ向かう途中、ルンビニー(漢訳は藍毘尼)という園で体を休めていました。薄黄色の花を取ろうと右手を伸ばしたとたん、男の子が右脇から生まれ落ちます。
 「その時、マーヤー夫人は園に入り、無憂という大きな樹を見た。花の色も香も鮮やかで、枝葉は茂り広がっている。夫人は右手を挙げて、これを摘もうとしたところ、菩薩が右脇より出て蓮華の上に落ちた。七歩歩んで立った」(漢訳『過去現在因果経』)

 ここでの菩薩は男の子のことで、シッダッタ(成就したものの意。梵語はシッダールタ、漢訳は悉達多)と名づけられます。仏典中の「七歩歩んで立った」は明らかに史実ではないでしょう。しかし「ゴータマ・ブッダがルンビニーにおいて誕生したということは歴史的な事実に違いない」(中村元著『ゴータマ・ブッダ』)との見方はほぼ支持できるようです。
  
 『広辞苑』で関連用語を引きます。梵語(サンスクリット)を学びます。原語のローマ字には適宜片仮名あるいは(注)を入れます。以下同じ。ただし、広辞苑にあるピンイン(発音記号)は本書にない場合が多いです。確認してください。
 【釈迦】(しゃか。梵語sakya シャーキャ) ①古代インドの一種族。釈尊はこの釈迦族に属していた②釈迦牟尼の略称。
 【伽毘羅衛】(かびらえ。梵語Kapilavastu カピラヴァスツ) 北インドのヒマラヤ山麓、今のネパールのタライ地方で、かつて釈迦族の住んでいた国・その都の名。釈尊はこの国の浄飯王の子として生まれた。釈尊の生存中、コーサラ国に攻められて滅ぶ。(注)パーリ語はカピラヴァットゥ。
 【浄飯王】(じょうぼんのう。梵語Suddhodana シュッドーダナ) 釈尊の父。中インドの伽毘羅衛の王。妃は摩耶。(注)パーリ語はスッドーダナ。
 【摩耶】(まや。梵語Maya マーヤー) 釈迦牟尼の母。中インド拘利(こうり)城主の善覚の妹(一説に娘)。伽毘羅衛の浄飯王の妃となり、悉達多太子(後の釈迦牟尼)を生み、七日目に死去した。摩耶夫人(まやぶにん)。
 【摩耶夫人】(まやぶにん)➡摩耶
 【ルンビニー】(梵語Lumbini。漢訳は藍毘尼(らんびに)) 中インド伽毘羅衛国にあった園林。釈尊はその生母摩耶夫人の産期が近づいて生家に帰る途中、この園の無憂樹の下に休息した時に降誕したという。今のネパール南部のルンミディ村。
 【過去現在因果経】(かこげんざいいんがきょう)  釈尊の前世の善慧仙人の出家から、この世に誕生して迦葉(かしょう)の教化に至るまでの仏伝。劉宋の求那跋陀羅(ぐなばだら)の訳。四巻。因果経。

 地図はネパール
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 梵語、サンスクリット、パーリ語について『広辞苑』を引きます。
  【梵語】(ぼんご) 古代インドの文語であるサンスクリットの称。梵天が造ったという伝承から、中国・日本で言う。【梵天】(ぼんてん)⇒13章
 【サンスクリット】(Sanskritは完成された言語すなわち雅語の意) インド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語派に属する語。複雑な語尾変化・活用を有する。梵語。
 【パーリ語】(Pali。線・規範の義から法典の意) スリランカ・ミャンマー・タイなどで仏典に用いた言語。プラークリットの一つ。インドヨーロッパ語族のインドアーリア語派に属する。巴利語。

 『広辞苑』によれば、釈迦の意味は「古代インドの一種族」と「釈迦牟尼の略称」「釈迦」「釈迦牟尼」および「悉達多(シッダッタ)」については第6章「異名が80も」で再び取り上げます。
 ところで、釈迦の原音は「シャーキャ」、日本語読みは「しゃか」、これに対して漢音は「シージャア」。つまり、インドに近い中国よりも遥かに遠い日本の方が原音に近い発音なのです。有名な般若波羅蜜多。原音はパンニャーパーラーミーター。日本語読みはもちろん「はんにゃはらみた」。漢音は「ポールオポールオミードゥオ」。これも日本語読みが原音により近い発音です。梵語の仏教用語はこのような例がたくさんあります。

 さて、カピラヴァットゥがあった地は『広辞苑』記載のように現在はネパール領です。だから当時は「中インド」となる訳です。ネパール人に聞いてみました。カトマンズ出身のヒンドゥー教徒で、大阪でインド料理店を営む四十代の男性です。
 「ルンビニー園のブッダ生誕話は知っているが、カピラヴァットゥとかカピラヴァスツという地名は知らない。スッドーダナやシュッドーダナという名はネパールで聞いたことがない」
 ある仏教解説書にも「シュッドーダナという名は現在のインドにはない」とあります。シッダッタ(のちのブッダ)が八十歳で亡くなる数年前、カピラヴァットゥは西の大国コーサラに殲滅されます(理由は連載の最終回ころに述べます)。
 ブッダに帰依し、出家していたシャーキャ族の人たちは皆殺しから免れたものの、戒律によって結婚していなかったので子供ができませんでした。それで子孫が絶え、スッドーダナあるいはシュッドーダナを名乗る人が現れなかったと考えられます。

 【参考】現在のルンビニー園(Wikipedia)
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8B

              
 次回は「天上天下唯我独尊」です。










 

 「天上天下唯我独尊」。ブッダ生誕にまつわる有名な句です。生まれたばかりの男の子が北へ向かって七歩進んで立ち、右手を天に、左手を地に指して宣言した、というのです。まあ、物語ですね。しゃべったとされるのは前章で触れた古代インドのパーリ語です。天上天下…は中国で翻訳されたのです。東京・上野の東京国立博物館に「釈迦誕生仏」なるものが陳列されています。「はじめに」の写真(大阪のハルカス美術館のポスター)です。
 『広辞苑』を引きます。
 【天上天下唯我独尊】(てんじょうてんげゆいがどくそん。釈尊が生まれた時、一手は天を指し、一手は地を指し、七歩進んで、四方を顧みて言ったという語) 宇宙間に自分より尊い者はないという意。
 【誕生仏】(たんじょうぶつ) 誕生時の釈尊をかたどった像。右手は天を指し、左手は地を指し、「天上天下唯我独尊」と唱えた相を表す。誕生会・花祭にまつり、甘茶をそそぐ。

 [ 参考 ] 東京国立博物館の誕生釈迦仏(模造=原品は奈良・東大寺)C0045842-1-1


     
 ところがこの「天上天下…」の句、第一章のルンビニー園を描写した『過去現在因果経』にはなかったですね。インドで二世紀に著されたアシュヴァゴーシャ(漢訳は馬鳴)の仏伝『ブッダチャリタ』(漢訳は「仏所行讃」)にも相当する記述がありません。

 「北斗七星のように明るい輝きに似た男の子は、しっかりと大地を踏んで七歩歩いた。そして獅子のごとく、四方を見わたしつつ宣言した。『悟りのため、世の幸福のために私は生まれた。輪廻にとどめを刺す私の最後の誕生となった』」(意訳)となっています。インドの古い仏伝には「天上天下唯我独尊」に相当する句がないのです。「輪廻にとどめを刺す」が最も言いたい句のようなのです。
 【馬鳴】(めみょう。梵語Asvaghosa アシュヴァゴーシャ) 二世紀頃のインドの仏教詩人。バラモン教から仏教に帰し、カニシカ王の保護を受けて仏教の興隆に努力。仏教文学「仏所行讃」などを著す。
 【仏伝】(ぶつでん) 仏陀(釈尊)の伝記。「マハーヴァストゥ(大事)」が最古とされる。ほかに馬鳴著「ブッダチャリタ(仏所行讃)」「ラリタヴィスタラ(方広大荘厳経)」など。釈迦の超人化に伴い、さまざまな物語要素を加え、文学として発展した。

 「ブッダチャリタ」よりも三世紀後の法顕(三三九?―四二〇?)のインド旅行記は次のようになっています。
 「園の名はルンビニーという。マーヤー夫人は池に入って洗浴し、池を出て北岸を歩むこと二十歩、手を上げて樹枝をつかみ、東向して太子を生んだ。太子は地に落ちると七歩歩んだ。二竜王が太子に水をかけて水浴させた所がある」(『高僧法顕伝』)

 やはり、ここにも「天上天下…」がありません。
 中国人や日本人の多くが知っているこの有名な句をおひざ元のインド人やネパール人は知らないということでしょうか。大阪でインド料理店を営むネパール人も知らない、と言います。
 【法顕】(ほっけん) 東晋の僧。平陽の人。三九九年同学の僧四人と律の不完全を嘆いて長安を発し、苦難の旅を続けインドに入る。三年滞在して梵語・梵文を学び、前後十四年の旅をして一人無事に帰り、『大般涅槃経』などを漢訳。(三三九?~四二〇?)
 【仏国記】(ぶっこくき) 五世紀初め、東晋の僧法顕が著した西域・インドへの旅行見聞記。一巻。古代インドの地理・歴史の研究資料。法顕伝。

 法顕は六十歳で梵語仏典をもとめてインドへ向かいます。同行した四人の僧のうち三人は途中で崖から転落したり、病気になったりして死亡します。帰国の段階でインドに滞在していた一人が体調不良のために帰国を断念。一人で海路南回りで帰国したときは七十四歳になっていました。
 八十一歳で亡くなったとみられますが、七年の間に『大般涅槃経』など四十八巻の仏典を翻訳したといわれています。

 調べました。すると、法顕よりも一世紀以上前の漢訳仏典に次のような記載が見えました。
 「四月八日夜、明星の出ずる時に到り、化して右脇より生まれて地に落ち、行くこと七歩、右手を挙げて立ちて言う。『天上天下、唯我為尊。三界は皆苦にして、何の楽しむべきものぞ』と。この時、天地大いに動き、宮中ことごとく明らかなり」

 「唯我為尊」(ただ我を尊しと為す)とあるこの仏典は中国・呉時代の訳経僧、支謙(二世紀末―三世紀中頃)訳の『太子瑞応本起経』です。中村元氏は『ゴータマ・ブッダ』(春秋社)の「注」で「『七歩歩んだ』というこの伝説は古い仏典には出てこないで、遅い漢訳に出てくる」として、さきほどの支謙訳のくだりを紹介しています。
 もともとインドの古い仏典・仏伝に「天上天下…」の句はなかったのです。
 【支謙】(しけん)→『広辞苑』に見出しなし。⇒第3章仏教辞典に記載
 【太子瑞応本起経】(たいしずいおうほんぎきょう)→『広辞苑』に記載なし。

 Yahoo知恵袋にこれに関する記事が載っていました。
□【天上天下唯我独尊に関するYahoo!知恵袋Q&A】
□Q;天上天下唯我独尊という釈迦の言葉は、本当の意味なるものがあるそうで、それが「すべての自分という命はこの世に唯一独立したもので、富、名声など関係なく尊ばれるものである」という意味だと聞きました。ですが、これが本当のいう意味で、勘違いされがちという傍若無人な意味が誤解というのはどういう根拠の元の意見なのでしょうか。仏教徒が無理矢理変えたんですか?

□ベストアンサー
□A;釈迦のご誕生について
□この言葉は「唯一、我(自分)だけが独り尊いのだ」という意味で誤用されることが多いのですが、正しくは「人間には果たすべき大事な使命、生きる意義がある」という意味です。
□天上天下…この大宇宙広といえども、人間に生を受けたのは唯我独尊…私は唯一つの尊い使命を達成する為にこの世に生まれたのだ。三界皆苦…三界(欲界、色界、無色界)はみな苦しみなり。吾当安此…「吾(この釈迦)は、此(三界で苦しむ人々)を安んずる(欲を満たすこととは異なる、本当の幸福に導く)ために人間に生まれ、これから教えを説くのだ」というお釈迦さまの宣言なのです。
□では我々は「唯我独尊」をどのように味わうべきか。「我々一人一人がたった一つの尊い使命を持ってこの世に生を受けた」ということであります。人間に生まれねばできない大事業を成すために生を受けたのです。(以下難しい話が続くので略)

 次回は「盗用だった天上天下唯我独尊」です。

  法顕が「旅行記」に引用しなかった支謙の句「天上天下唯我為尊」。しかし法顕より二世紀後の玄奘は『大唐西域記』の中で次のように引用したのです。
 「…東隣の塔はアショーカ王が建てたものである。二匹の竜が太子に水浴させた所である。菩薩(のちのブッダのこと)は生まれるや手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら『天上天下唯我独尊。今より以後、私の持ち前の生はもはや尽くした』と宣した」
 
 「為尊」を「独尊」と一字直しただけです。インドに十五年間(類書は十七年間)も留学した玄奘の旅行記の出典が梵文原典からのものではなく、粉飾された漢訳からの引用だったことがこれで分かりました。
 玄奘は「般若心経」の重訳でもこの手を使って盗作(こちらは全文の九〇%以上なので引用ではなく盗作!)し、一部の語句だけを改めて「新訳」としています。
 【玄奘】(げんじょう) 唐代の僧。法相宗・倶舎宗の開祖。河南の人。六二九年長安を出発し、天山南路からインドに入り、ナーランダー寺の戒賢らに学び、六四五年帰国後、「大般若経」「倶舎論」「成唯識論」など多数の仏典を翻訳。玄奘以前の訳を旧訳(くやく)とし、玄奘以後の新訳と区別する。玄奘三蔵。三蔵法師。(六〇二~六六四)
 【大唐西域記】(だいとうさいいきき) 唐僧玄奘のインド・中央アジア旅行見聞録。十二巻。六四六年成る。各地の仏教の状況のほか、地勢・制度・風俗・産業を記し、仏教史の根本史料。
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 玄奘は皇帝から翻訳場と多数の訳経僧を提供され、国家的プロジェクトとして多くの仏典を漢訳します。中でも六〇〇巻の『大般若経』が有名です。興味深い旅行記によって「天上天下唯我独尊」も流布しました。しかし、梵文原典からの引用ではなく、古い漢訳からのパクリだったということを知ったら「インド人もびっくり」です。いえ、天国にいるブッダも苦笑いでしょう。「漢訳の書き飛ばしはずいぶん弾んでいるなあ」

 付け加えます。インドで最古の仏伝といわれる『マハーヴァストゥ』(漢訳は「大事」。成立時期不明)に次のような一節があります。
 「釈迦族に生まれし賢者は、直ちにこの世にて七歩歩み、周りをぐるりと見渡すや、『今、この存在こそ唯一にして最後たらん』と笑い声を挙ぐ」(平岡聡訳)

 『マハーヴァストゥ』の漢訳、チベット訳はなく、『ブッダの大いなる物語』(平岡聡訳、春秋社)の題で二○一○年に初めて邦訳が出ました。ここにも「天上天下唯我独尊」に相当する句がありません。「この存在こそ唯一にして」がヒントになったと言えなくもないのですが。
 【マハーヴァストゥ】→『広辞苑』に記載なし。
 
 出生譚は次のような一文もあります。
 「幼児は誰の助けも借りず、東西南北それぞれの方向に七歩ずつ歩んだ。(略)幼児はこう宣言した。『もはや耐え忍ばねばならない生を再び享けることはない。これが私の最後の身体だからである。今私は、生と死とによって惹き起こされる悲しみを滅ぼし、根こそぎにしてしまうだろう』。この不思議な誕生の七日後に王妃マーヤーは亡くなった」((M・B・ワング著、宮島磨訳『仏教』、青土社)

 著者のワング氏は米ピッツバーグ大の教授(宗教学)。ヒンディー語の教師でもあるという。伝説の出典は記されていません。『マハーヴァストゥ』よりも時代が経っている伝説を引用したと思われるので「宣言」も少し長くなっています。仏典・仏伝は時代を経るとともに増幅されていく傾向にあります。ワング氏は書きやすい後代の仏伝を採用したのでしょう。
 
 梵文原典になかった「天上天下唯我為尊」は支謙の造句である、と筆者は推理します。支謙はいくつかの梵文仏伝を読んでいて、それらのイメージを膨らませ「天上天下唯我為尊」の句をつくって誕生譚に挿入したのではないでしょうか。
 その造句を玄奘は引用したのです。梵文原典にない句なので、「支謙訳からの引用」あるいは「古訳にあり」と断る必要がありました。インドに長期留学した玄奘の記述ゆえに読者はインドの古い伝説と誤解したでしょう。

 西域・インド旅行では果敢に行動した玄奘が意外や、翻訳や著述に関しては姑息なことをする僧だったとは。玄奘は皇帝に対して古訳(支謙訳もその一つ)や旧訳(鳩摩羅什訳が代表)とは違う仏典の新訳献上を約束していただけに、原典になかった先人の造句を盗用したのはアンフェアだったと思います。
 
 仏典関係の著述が多い中村元氏は『ゴータマ・ブッダ』の中で「天上天下、ただ我ひとり尊し。今より以後、私の持ち前の生はもはや尽くした」との玄奘訳の後にマル括弧で、(これが最後の身であり、今後は輪廻転生することはない)を挿入しています。この挿入文はワング氏の訳のニュアンスとだいたい同じです。

 玄奘訳はこの挿入文がなければ意味がよく分かりませんね。玄奘の漢訳は仏伝の意図をうまく伝えていないのではないか、という疑問が出てきました。
 漢人の訳経僧玄奘よりもアメリカ人の宗教学教授の訳の方が梵文原典の意をうまく伝えた、ということでしょうか。中村氏の挿入文や、ワング氏の「生と死とによって惹き起こされる悲しみを滅ぼし、根こそぎにしてしまうだろう」の意味は何でしょうか? 仏伝作者の意図は何だったのでしょうか? またゴータマ・シッダールタが求めた真理とは何だったのでしょうか?

 [追加] ~支謙のこと~

 『広辞苑』に見出しがなかった支謙。『仏教辞典』(岩波書店)は次のように記しています。
 【支謙】(しけん) 二世紀末から三世紀中葉の人。三国・呉時代に活躍した在俗の訳経家。祖父が大月氏から帰化。十三歳で胡書を学び、六カ国語に通じた。三十六部四十八巻の仏典を漢訳。『法句経』の訳文は文雅であり、聖典の意味をよく捉えていたとされている…」

 支謙の名は唐代の仏典目録『開元録』に「摩訶般若波羅蜜神呪」の訳者としても見えます。いわゆる「般若心経」の漢訳は九つあったと記録され、八つは現存しています。残念なことに支謙訳は経題だけ残り、本文は残っていません。
 『広辞苑』を引きます。
 【法句経】(ほっくきょう。パーリ語Dhammapadaダンマパダ 真理の言葉の意) 原始仏典の一つ。パーリ語で書かれた四二三の詩。仏教の要義を約説したものとして、広く読まれる。中国では、呉の支謙ら訳二巻があり、また初唐の偽経『仏説法句経』がある。
 【ダンマパダ】(パーリ語Dhammapada)→ 法句経に同じ。
 【般若心経】(はんにゃしんぎょう) 仏典の一つ。漢訳に諸訳あるが、最も流布しているのは唐の玄奘訳に二文字を付加した二百六十二字から成るもの。般若経の心髄を簡潔に説く。心経。般若波羅蜜多心経。摩訶般若波羅蜜多心経。

 次は『法句経』から――。
 「人の生を享くるは難く、やがて死すべきものの、今いのちあるは有り難し」

 次回は「母は7日後に死去」です。

 『大唐西域記』は玄奘訳、弁機撰となっています。
 玄奘がインドから帰国後、長安には唐朝廷直属の翻訳場がもうけられ、たくさんの僧が集められました。玄奘が梵語を漢語に訳して読み上げ、それを筆受する僧たちが必要だったのです。漢字が間違っていないか、文章の流れはどうかなどをチェックする僧たちもいました。
 弁機はそのうちの一人で大捴持寺から派遣された僧。当時二十六、七歳だったとみられます(中野美代子説)。筆受役の傍ら、西域やインド旅行の話を玄奘から聞き、編集してまとめたのです。

 それで旅行記編集者の弁機がつい「天上天下唯我為尊」という支謙の造句をパクって「為尊」を「独尊」と書き換えて入れた、ということも考えられます。もちろん玄奘が話した可能性が大ですが。
 どっちにしても、玄奘は校閲の段階で「インドに関する記述の出典は梵語原典だけにしてほしい。粉飾された漢訳からの引用はよくない」と弁機に訂正を申し入れるべきだったのです。

 そもそも玄奘は原典忠実翻訳主義者でだらだらした訳しかできなかったのです。それでも新訳を心掛けました。しかし、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)訳の『金剛般若経』を重訳したとき、歯切れの悪い訳になってしまい、皇帝が期待した「新訳」の流布は実現しなかった、ということがありました。
 日本の禅宗は玄奘訳ではなく、鳩摩羅什訳の『金剛般若経』を所依の仏典としています。
 お経というものはリズムが悪いと「受けない」みたいです。原典を忠実に訳すことを第一とした玄奘にはそれがうまくできなかったのでしょう。ただし『般若心経』だけは違います。鳩摩羅什訳を盗作したのでリズム感ある訳に仕上がったのだと思います。
 盗作の根拠を一つ挙げます。『般若心経』には梵語原典にない「度一切苦厄」という句があります。これは鳩摩羅什の造語です。玄奘はそれも引用して
います。何よりの証拠です。「天上天下…」と同じ手法。まさに同様手口です。玄奘は多くの日本人が思っているほど立派な訳経僧ではないのです。情けない僧です。『西遊記』は歴史的事実が一%もありませんが、「情けない僧」という点ではうまく表現しているように思います。

 『大唐西域記』は弁機「撰」となっていますが、誰しも玄奘が著者であると思っているでしょう。弁機は後に腰斬の刑に処せられます。その顛末については中野美代子著『三蔵法師』(集英社)をお読みください。中公文庫からも出ています。今、『玄奘年譜』という北京で購入した薄い本を見ながら書いています。『大唐西域記』の完成は弁機の処刑後ですから、盗用の責任が玄奘にあるのは当然です。
 『広辞苑』を引きます。
 【弁機】(べんき)→『広辞苑』に記載なし。
    【鳩摩羅什】(くまらじゅう。梵語Kumarajiva) 中国南北朝時代の訳経僧。インド人を父とし、亀茲(きじ)国王の妹を母として亀茲に生まれる。401年長安に到り、「法華経」「阿弥陀経」「中論」「大智度経」など35部を漢訳。ほかに維摩経注釈。羅什。クマーラジーヴァ。(344~413)
         
 詩人のアシュヴァゴーシャはかなりの空想家だったのでしょう。想像たくましく仏伝を書いたようですが、それでも漢訳の粉飾には負けました。

 生まれたばかりの子が七歩歩んで宣言したというのは明らかに作り話です。しかしマーヤー夫人が出産のために実家に帰る途中だったとの話は事実だと思います。ルンビニー園で出産があったというのも本当の出来事だったのでしょう。
 スッドーダナは愛妻家だったのでマーヤー夫人を臨月まで実家に帰ることを許さなかった。それで出産ぎりぎりになって遠出しなければならなくなり、マーヤー夫人の母体に異変が生じたのでしょう。

 わが子を出産して七日後、マーヤー夫人は亡くなります。夫人がルンビニー園で手に取った薄黄色の花は梵語でアショーカ、漢訳は無憂華(木は無憂樹)。
 憂いのない花という意味ですが、現実は母親の死という悲劇が起きたのです。これがシッダッタをして「人生は苦である」と自覚させるもとになるのです。
 【無憂樹】(むうじゅ。梵語asoka) 釈尊の生母摩耶夫人が出産のため生家に帰る途中、藍毘尼園の下で釈尊を生んだ。安産であったため、この樹を無憂樹といい、その花を無憂華(むうげ。むゆうげ)という。アショーカ。

 マーヤーのもともとの意は神秘的な力、霊力。のちには幻とか幻影を意味するようになったそうです。(のちに仏陀となる偉大な)わが子を産んで七日後に亡くなった母の儚い命をしのんで「幻影」の意が加わったのでしょうか。

 アショーカ(無憂華)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%A6%E3%82%A6%E3%82%B8%E3%83%A5

 切手になったマヤ夫人
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 [追加]――西遊記について――

 中国の四大奇書の一つ『西遊記』は玄奘の西域・インド旅行をヒントにした呉承恩の長編小説です。孫悟空の八面六臂の活躍によって化け物の妨害をはねのけてインドにたどりつき、仏典を持ち帰るという筋ですが、物語そのものは全くの創作で史実は〇・〇一%もありません。
 インドに向かう途中、烏巣という禅僧に「般若心経」を授けられたというのも作り話です。誤解なきように。
 合っているのは主人公の三蔵という優柔不断のお坊さんが仏典をもとめてインドへ行って、多数の仏典を持ち帰ったという骨、いえ髄だけです。ただし持ち帰った仏典数も違います。
 【西遊記】(さいゆうき) 明代の長編小説。四大奇書の一つ。呉承恩の作とされていたが、現在では疑問視されている。百回。唐僧玄奘三蔵が孫悟空・猪八戒・沙悟浄とともに、さまざまな妖魔の障碍を排して天竺に至り、大乗経典を得て帰るという筋。
 【呉承恩】(ごしょうおん) 明代の文学者。号は射陽山人。江蘇省の人。官途に恵まれず、晩年は著述に専念。『西遊記』の作者とされるが疑問がある。(1500頃―1582頃)

 『西遊記』のことで思い出すことがあります。2005年頃、中国のテレビ局が放映した「百家講壇」という人気番組がありました。『論語』や『紅楼夢』などを大学教授がおもしろおかしく解説するもので、生徒はいないものの中国版「白熱教室」(米国ハーバード大サンデル教授の授業)といったおもむきでした。講義内容の本もベストセラーになって話題になりました。

 ある日、テレビを見ていたら、玄奘の「大唐西域記」がテーマで、画面の背景に使われているのは「西遊記」でした。事実と創作の合体です。惹きつけますね。
 そこで、教授が言ったことが微妙でした。玄奘が西(シルクロード)へ向かう話で、話題が音楽になって言いました。「中国の民歌のいい曲はだいたい少数民族で生まれたものだ。漢民族からはいい曲が出ていない」。
 えっ、そんなこと言ってもいいんですか、と正直思いました。漢民族が多数を占める中国人のプライドはものすごいですからね。心配していたら、翌週この番組は消えました。

 「草原情歌」に代表されるように、中国の有名な民歌のほとんどは少数民族のメロディーです。少数民族の曲をアレンジし、中央の作詞家が歌詞を書きなおしたものが多く、教授の指摘は正しかったのです。しかし一回出演しただけで番組を降ろされました。いえ、番組は何回か続くはずでした(教授の話は一回目でまだインドに至っていなかった)が、この玄奘をテーマにした番組そのものがなくなってしまったのです(突然別のテーマに代わってしまった)。
 漢民族の心をいたく刺激し、テレビ局に抗議が殺到したのではないでしょうか。最後まで見たかったなあ、あの番組。残念でした。

 次回は「アシタ仙人の予言」です。







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