「ブッダ伝」<お坊さんや仏教学者が教えてくれないお釈迦さまの一生> 

お坊さんや仏教学者が教えてくれない「お釈迦さまの一生」を書きます。(田口武男)

2012年06月

「ブッダ伝」第10章  出家を決意

出家修行によって人生の真理をつかもうと誓ったシッダッタ王子。逡巡の末、出家の決意を固め父王に許しを求めます。
  出家は両親や妻子から離れ、王位継承権も放棄することを意味します。
王は驚き、涙を流しながら出家をやめるように懇願します。王子は何度も許しを請い、決意が固いことを打ち明けた、と仏伝は記しています。

当時、インドの主な宗教はバラモン教でした。バラモン階級の人たちの間では「四住期」という習慣を理想としていました。それは次の四つの時期のことです。


  学生期
若いときに師のもとでバラモン教の聖典を学ぶ。
  家住期 師の許しが出たら家に戻り、結婚し後継者をもうける。
  林住期 世継ぎができたら全財産を子に与え、出家隠遁する。
  遊行期 最晩年、各地を遊行し旅の途中で死ぬことを目指す。

シッダッタは武士階級に属していたものの、バラモンの「林住期」にならった出家の決意です。しかし父王は認めず、さらにたくさんの美女たちを王子の周りに増やします。
   【出家】(しゅっけ)  家を出て仏門に入ること。俗世間をすて、仏道に入ること。また、その人。

   当時、仏教はまだありませんので、ここでの出家は、『広辞苑』の「仏門」「仏道」を「修行の道」に置き換えればいいと思います。

仏伝によれば、ある夜、享楽の夜が更けて、女性たちは皆眠ってしまいました。目を覚ましたシッダッタがあたりを見回すと、ある女はいびきをかき、ある女はよだれをたらし、ある女は着衣もはだけて体を露出し眠りこけているのです。

  悲痛な気持ちになった王子が宮殿を出る決心をした場面、と伝えられています。
結婚して十三年目の二十九歳。愛息ラーフラが十歳のときでした。

カピラワットゥの城門は厳重に守られていましたが、王子の出家を祝福する天人たちによって開かれた、と仏伝は記しています。「七歩歩いて、『最後の生となる』と宣した」と同様にこの記述も創作であることは明らかです。  

【天人】(てんにん) 天界に住む神々。人間より優っているが、なお輪廻の迷いの状態にある。多く瓔珞をつけ、空を飛ぶ姿にかたどる。   

宮殿を抜け出てから王子は従者のチャンダカに白馬カンダカ(『広辞苑』はケンダカ)を引いてくるように命じます。従者は王に知らせるかどうか迷いましたが、王には告げず、馬を引いてきました。

王子を乗せた白馬カンダカは西へ走り続け、チャンダカがあとを追います。夜明け頃、ある川のほとりにたどり着くと、王子はカンダカと服飾品をチャンダカに渡します。偶然通りかかった狩人から袈裟衣をもらい、代わりに着ていた白絹の衣と交換、剃髪してシュラマナ(沙門)になりました。 

【車匿】(しゃのく。梵語Chandakaチャンダカ) 釈尊が出家のため王城を逃れ出たとき、ケンダカという馬を牽き出して従った馭者。傲慢であったが、仏涅槃の後、阿難に学び、阿羅漢果を証したという(馭者の車匿と比丘の車匿とは別人であるという説も)。 

【沙門】(しゃもん。梵語sramanaシュラマナ) 出家して仏門に入り道を修める人。僧侶。桑門。出家。 

従者のチャンダカは城に戻りたくないと拒みます。帰れば責められることが分かっていたからです。そこで王子は次のように諭したというのです。

「世の中はすべて離別するようにできているのだ。いつまでも変わらずにいるということはないのだ。私は生まれて七日目に母に死なれた。母子といえども死別によって離ればなれになる。お前は私を慕ってはならない。私の愛馬カンダカとともに王宮へ帰りなさい」

このように言われてもチャンダカはなかなか立ち去ろうとしなかった、と仏伝は記しています。


   [
参考]「ボロブドゥール遺跡のレリーフ」<白馬カンタカに乗って王宮を去るシッダッタ>                              
 http://homepage2.nifty.com/barabudur/1,a,65c707k399mojiiri.jpg

そのころのシュラマナ(沙門)は『広辞苑』の意味とは違います。沙門は梵語sramanaの俗語形samanaサマナの音写で、もともとは「勤め励む者。求道者。真理を求める者」の意味。「仏門に入って道を修める人」を意味するようになったのは仏教用語に取り入れられてからです。

当時はバラモンたちの祭祀主義に反発して新たな宗教活動を行う人たちのこともシュラマナまたはサマナと呼んでいました。バラモン教の枠外で苦行と瞑想によって、差別や輪廻の苦から脱け出そうという人たちを指します。

 「少青年時代には師の家でヴェーダの祭式を学び、成長し、帰宅し、結婚して家を守り、子孫をもうけて祖先の祭祀を絶やさぬようにしてから、はじめて出家して隠者の生活に入るべし、という規定を無視して青年が家を捨ててシュラマナの生活に入ることも多くなってきた。こういう風潮の中から非バラモン的な教団が生まれてきた」(渡辺照宏著『佛教』岩波新書)――という時代背景。
  その世界に飛び込んだシッダッタは途中から南を目指します。当時のインドの大国マガダ国の首都ラージャガハです。


    次回は「怒り狂う妻」です。「ヴェーダ」についてはいずれで取り上げます。
                                     
  





リンク 「冬尋坊日記」 ↓

 http://blog.livedoor.jp/taktag555/


 

「ブッダ伝」第9章  四門遊観


    結婚は十六歳のときで、相手はいとこのヤソーダラー(梵語はヤショーダラー)。三歳年下だったそうです。妻が三人いて、ヤソーダラーは二番目の妻との説もあります。父のスッドーダナも妻が何人かいたようで、当時の王族の風習だったのでしょう。 

三年後に男の赤ちゃんが生まれます。名はラーフラ(漢訳は羅侯羅らごら)。梵語のラーフラは障害を意味します。「出家に差し障りがある」という意味で父親のシッダッタが名づけたというのです。

成長してからのラーフラは父に従って出家し、やがて「ブッダ十大弟子」の一人に数えられるようになります。

【耶輸陀羅】(やしゅだら。梵語Yasodharaヤショーダラー) 釈尊出家前の妃。羅睺羅(らごら)の母。拘利城主善覚王の娘で、釈尊の従妹。のち釈尊の養母とともに出家。 

【羅睺羅】(らごら。梵語 Rahula ラーフラ。障碍の意)  釈尊の嫡子。母は耶輸陀羅。父について出家し、戒律を細かく守り、密行第一と称せられた。釈尊十大弟子の一人。

子供が生まれてからもシッダッタの周りには常に侍女や踊り子たちの若い女性がいました。父王の至れり尽せりの歓楽攻勢があったのです。結婚生活を送っているとはいえ、沈みがちな息子を一人にしておけば憂鬱になり、暗いタイプの男では王位に就く人間としてはふさわしくない、と考えたのでしょう。

しかしこういう歓楽漬けはかえってシッダッタを悲痛な思いにさせ、やがて出家を真剣に考えるきっかけとなる「四門遊観」(四門出遊)という出来事を体験します。

【四門遊観】(しもんゆうかん) 釈尊が太子であった時、四方の城門から外出して、老人・病人・死者・出家者に出会い、世を厭って出家したという伝説。四門出遊。


[参考] 四門出遊(四門遊観)レリーフ(制作者のイングループと当ブログは関係ありません)

リンク ↓

http://www.buddha-story.com/contents/story05.php


  ある日、王子シッダッタは遊園に行くために馬車に乗って東の城門を出ると、歯が抜け落ち、腰の曲がった白髪の老人を見ます。御者に聞くと「あれは老人です。人として生を享けた者はいずれ必ずあのような姿になるのです」との答えが返ってきたので、御者に命じて宮殿に引き返します。

別の日、南の城門から外に出ると、やせ衰えてうずくまる病人を見ます。御者に聞くと「あれは病人です。人として生を享けた者は、いつかはあのような姿になるのです」との答え。また宮殿に引き返します。

次は、西の城門から馬車で外出すると、横たわる死人を見ます。「あれは死人です。人として生を享けた者は、誰でもいつかは必ずあのような姿になるのです」と説明する御者の言葉にシッダッタはまたも引き返します。

王子は病・老・死を知らなかったので、いずれの場面でも衝撃を受けたのです。「生まれた者は必ず老い、病み、死ぬ。人生ははかないものだ」と一層深く思い悩むようになります。


  ところが、ある日、遊園に出かけるため北の城門から出ると、すがすがしい姿の出家修行者を見ます。シッダッタは馬車を近づけて、何をする人なのかと聞いたところ「私は出家者です。正しい修行生活を行い、人々に慈悲をもたらします」という答えでした。

【生老病死】(しょうろうびょうし) 人間がこの世で避けられない四つの苦しみ。生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと。四苦。

四門遊観(四門出遊)は次のような見方が妥当でしょう。

「この物語はおそらく比喩的な創作であって、必ずしも事実とみなす必要はないであろう。むしろボサツ自身が内面的反省において人間の苦悩の問題を思索し、ついその解決のために出家を決意したと考えるべきであろう」(渡辺照宏著『仏教』)

ボサツ(菩薩)は悟りを開く前のシッダッタのことです。

シッダッタ王子は≪生老病死の苦悩は出家修行によって克服できる。出家の生活こそ自分が求めている理想の姿だ≫との思いを強めます。


次回は「出家を決意」です。



[追加]――四苦について――


  【生老病死】の項にあった四苦あるいは四苦八苦という言葉は二千五百年前にインドで使われた仏教用語の漢訳です。

仏教思想はシャーカ族の王子が苦を認識したことから出発したのです。仏教用語の「苦」関連を挙げましょう。

【苦】(く。梵語dubkhaドゥブカ) 煩悩や前世の悪業のために受ける苦悩や不幸。主要な苦として四苦・八苦など。 

【四苦】(しく) 人生の四種の苦痛。生・老・病・死の総称。

【八苦】(はっく) 人生上の八種の苦難。生老病死の四苦に愛別離・怨憎会・求不得・五陰盛を加えたもの。→ 四苦八苦

【四苦八苦】(しくはっく) 生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦。求不得苦・五陰盛苦を合わせたもの。人生の苦の総称②転じて、非常な苦しみ。さんざん苦労すること。

【生老病死】(しょうろうびょうし) → 既出  

【愛別離苦】(あいべつりく) 親・兄弟・妻子など愛する者と生別・死別する苦しみ。 

【怨憎会苦】(おんぞうえく) 怨み憎む者に会う苦しみ。 

【求不得苦】(ぐふとくく) 求め欲するものを得られない苦しみ。 

【五陰盛苦】(ごおんじょうく) 五陰から生ずる心身の苦しみ。五盛陰苦。 

(注)五陰は旧訳。新訳は五蘊ですが、四字成語では鳩摩羅什の旧訳が使われます)

                                                                      

これらは原始仏教の経典にも記されています。

「生老病死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂え、悩みは苦である。怨憎する者に会うのは苦である。愛する者と別れるのは苦である。求めて得られないのは苦である。人間の存在を構成するものはすべて苦である」(『雑阿含経』)

【阿含経】(あごんぎょう。「阿含」は梵語・パーリ語agamaアーガマの音写) 原始仏教の経典。ふつう漢訳のものを指し、長(じょう)・中・雑(ぞう)・増一の四部から成る。対応するパーリ語の経典(ニカーヤ)は長・中・相応・増支・小の五部から成る。



五木寛之氏は次のように述べています。

「ブッダの教えの第一歩は、『人生は苦である』というところから出発している。いわば、徹底したネガティブ・シンキングからはじまっているといってもいい。この世は苦しいものであり、生老病死などのさまざまな苦に満ちている。その苦しみのなかで、人間はどのように生きていくのか。ブッダは、そのことを終生説き続けた人だった」(『仏教への旅・インド編<下>』、講談社)



この苦を含めた人生に関する四つの真理を四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)といい、仏教の根本教説とされます。シッダッタが悟りを開いた後に取り上げます。


リンク 「冬尋坊日記」 ↓

 http://blog.livedoor.jp/taktag555/



続きを読む

「ブッダ伝」第8章 誕生日は4月8日


  二カ月前の四月八日。NHKは午後七時のニュースで東大寺の仏生会の模様を伝えていた。仏生会はお釈迦さまの誕生を祝う集いです。『広辞苑』を引きます。

【仏生会】(ぶっしょうえ) → 灌仏会に同じ。

【潅仏会】(かんぶつえ) 四月八日に釈尊の降誕を祝して行う法会。花で飾った小堂を作り、水盤に釈尊の像(誕生仏)を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶(正しくは五種の香水)を釈尊像の頭上にそそぎ、また持ち帰って飲む。日本には中国から伝わり六〇六年元興寺で行われたのを最初とし寺院・宮廷・民間の行事として広まる。花祭。

【灌仏】(かんぶつ) ①仏像に香水をそそぎかけること②灌仏会の略。

【誕生会】(たんじょうえ) 釈尊または各宗の祖師の誕生の日に催す法会。→ 潅仏会

【花祭】(はなまつり) 四月八日の灌仏会の俗称。


[参考]――東大寺の仏生会――

リンク ↓
http://www.todaiji.or.jp/contents/function/04busyoue.html


仏教行事は基本的に旧暦なので【灌仏会】の記事は「四月八日(旧暦)」と書くべきだと思いますが…。何か理由があるのでしょうか。日本では新暦の四月八日に仏生会を開いています。そのころは桜の花が咲く季節なのでお釈迦さまの誕生日にふさわしいと考えたのでしょうか?

  ブッダ生誕日について中村元氏は「漢訳の『太子瑞応本起経』『仏所行讃』などで誕生日を「四月八日」と記しているので、日本ではこれに従っているのである。おそらくヴァイシャーカ月を漢訳者が「四月」と訳したのであろう」(『原始仏教』、NHKブックス)と述べています。


ブッダ生誕はインド暦第二の月となるヴァイシャーカ月らしい。インド暦は三月が年初なのでヴァイシャーカ月は四月ということになり、漢訳者はブッダの誕生を四月(注:旧暦)と訳したようです。『太子瑞応本起経』にも「四月八日夜」とありましたね。ただしタイやスリランカなどの南伝仏教国は「五月の満月の日」を釈迦誕生日と定めています。


 変ですね。中村氏が記した四月八日は中国暦(陰暦)ですから、今の太陽暦なら五月初旬か中旬のはず。なぜ日本は新暦の四月八日になったのか。調べたら謎が解けました。

明治政府は明治五年(1872年)にグレゴリオ暦(グレゴリウス暦)の採用を決め、その年の十一月九日に公布します。「十二月三日を1873年一月一日とする」とのお触れです。準備期間が一ヵ月もないのですから各界・各地はてんやわんやになったでしょう。


仏教関係者もあわてたようです。旧暦四月八日を新暦(グレゴリオ暦)に換えるならば、新暦四月八日の二十九日後(毎年異なる)にしなければならなかったはず。…ですが、改暦まで短期間だったので、あまり考えずに「えいやっ!」と新暦四月八日に置き換えてしまったのではないでしょうか。西欧に追いつけのムードが暦にも反映したのでしょうか。

『広辞苑』が【灌仏会】の記事で「四月八日(旧暦)」としない理由が分かりました。仏教解説書には旧暦・新暦のずれを記したものがほとんどないので、不思議に思っていました。これで氷解しました。


中国、韓国などを含めたアジアの仏教国でブッダ生誕祭を新暦の四月八日としているのは日本だけなので、見出しは「日本のブッダ誕生日は新暦48日」とすべきだったでしょうか。ただしブッダ生誕祭を旧暦四月に行う日本の寺院もあります。政府や仏教会中央の指示に反発したのでしょうか。


インド料理店を営むネパール人に聞いたところ、北伝国ネパールのブッダ誕生日は五月の満月日。北伝国なのに南伝国と同じなので変だな、と思っていましたが、変ではなかっのです。なおネパール暦の年初は四月とのことです。

【新暦】(しんれき。明治維新後、新たに採用したからいう) 太陽暦の通称。旧暦の明治5年(1872123日を、新暦の明治6年11日とした。

【太陽暦】(たいようれき) 地球が太陽の周囲を1公転する時間を1年とする暦。すなわち1回帰年を時の単位とする暦。代表的なものはグレゴリウス暦で、365日を1年と定め、4年ごとに閏日を置き、100年ごとに閏日を省き、また400年ごとに閏日を省くことをやめる。日本では明治5年12月から採用。


明治五年十一月、日本の仏教界はアジアの仏教諸国とは一線を画し、ブッダの生誕を新暦に書き換えました。それで――

ゴータマ・ブッダ インド北部(現ネパール領)で生まれた仏教の開祖。前463383。誕生日は48日。ただし日本は新暦、中国・韓国などは旧暦(5月頃)。タイ・スリランカなどの南伝仏教国は5月の満月日。諸法無我・諸行無常を説く。仏陀。釈迦牟尼。釈迦如来」でどうでしょう。


諸法無我・諸行無常についてはいずれ取り上げます。南伝仏教国・北伝仏教国の違いなどいろいろ書きたいことがありましたが、行数がオーバーしそうです。花祭りに欠かせないという甘茶を引きます。

【甘茶】(あまちゃ) アマチャまたはアマチャヅルの葉を蒸してもみ、青汁を除き、乾かしたもの。煎じて飲料とする。甘味を有するので、四月八日の潅仏会に甘露になぞらえて釈尊像にかける。また硯に入れてすれば書が上達するという。

【甘露】(かんろ。梵語amrtaアムリタ) ヴェーダでは、ソーマ汁を指す。神々の飲料で、不死の霊薬とされる。仏の教法をたとえる。

【ソーマ】(梵語soma) インドの植物。その液汁は神々の飲料とされる。


甘茶はアムリタ(甘露)の代用品です。アムリタをめぐる仏教前史のインド神話――太陽神・月光神に対する阿修羅の復讐劇――は「ブッダ伝」番外編 http://blog.livedoor.jp/taktag555-0216/archives/8345109.html で書きました。



次回は「インド神話の阿修羅」です。





リンク 『冬尋坊日記』 ↓

  http://blog.livedoor.jp/taktag555/



続きを読む

「ブッダ伝」番外編①  インド神話の阿修羅


金環日食に続く月食、金星の太陽面通過は無事終わりました。金星が太陽面を通過した昼すぎは太陽が驚くほど光り輝き、地球開闢の日か、地球最後の日か、と思わせるほど眩しい太陽でした。

8月には金星食があるそうでことしは天体ショーの当たり年。インドのバラモン教や仏教を調べていて、日食・月食にまつわるインド神話を知りました。


阿修羅が絡む壮大な物語です。奈良・興福寺の阿修羅像は紅顔の美青年で、アシュラーという言葉が生まれたほど女性に人気の像ですが、インド神話には美青年とはまったく異なる鬼竜などさまざまなアスラが登場しています。その一つが復讐から太陽や月を食べるアスラ。名をラーフ(羅睺)と言います。
  「ブッダ伝」のように『広辞苑』を引きましょう。


【羅睺】(らご。梵語Rahuラーフ) インドの天文学で、白道と黄道の降交点に当たる架空の星の称。日・月に出会って食を起こすという。

【羅睺阿修羅王】(らごあしゅらおう) 四阿修羅王の一。天と戦うとき、日・月を呑み込んで光をさえぎり、日食・月食を起こすという。 (注)ラーフアスラ王。

【阿修羅】(あしゅら。梵語asuraアスラ) 古代インドの神の一族。後にはインドラ神(帝釈天)など天上の神々に戦いを挑む悪神とされる。仏教では天竜八部衆の一として仏法の守護神とされる一方、六道の一として人間以下の存在とされる。絶えず闘争を好み、地下や海底にすむという。アスラ。修羅。非天。無酒神。


以上を読んだだけでは日食・月食との関係がさっぱり分かりません。しかしインド神話をいろいろ読むと分かってきます。なお羅睺阿修羅王は四人いるとされるアスラ王の一人です。アスラはもともとは善神だったのですが、バラモン教の世界では悪神あるいは鬼竜とされてしまったのです。仏教界ではブッダの説法を聴き、仏法の守護神と扱われるようになります。それで興福寺にはブッダの十大弟子とともに阿修羅がいるのです。



昔むかし、インドの神々たちが集まって相談しました。永遠に死なない霊水アムリタ(甘露)を得たい、と。神々たちの寿命は何千年とか何万年だったのですが、それでは満足せず、永遠の生を望んだのです。

ヴィシュヌという神が考えたのは敵であるアスラの魔力を利用してアムリタを作り出す方法。アスラ(阿修羅)もアムリタを得たいと考えていたので渡りに船だったのでしょう。

薬効のすぐれた植物と種を大海に投入し、大地から引き抜いた巨大なマンダラ山を撹拌棒にして大海を撹拌するという考えです。撹拌棒には龍を巻き付けて、龍の頭と尾を神々とアスラが持って交互に引き合って海を撹拌しようというのです。


海中の多くの生物が死に、溶け合ってやがて乳色に変わります。いろいろな女神、霊験あらたかな樹木などが出現し、最後にアムリタの入った壺が現れます。

神々は歓び、そのアムリタを飲みます。ところ神々の中に紛れ込んでいたラーフという名のアスラもアムリタをこっそり飲みます。それを太陽の神と月の神が見つけ、ヴィシュヌに告げ口します。怒ったヴィシュヌは円盤のような武器をアスラめがけて投げつけると、円盤はラーフの首を刎ね飛ばします。

そのときアムリタを少し飲んでいたラーフの頭だけは死なず、宙をさまよいます。それで太陽と月を時々襲って食べ復讐するという話です。日食・月食の原因はラーフアスラの仕業というインド神話でした。

【甘露】(かんろ。梵語amrtaアムリタ) 『ヴェーダ』ではソーマの汁を指す。神々の飲料で、不死の霊薬とされる。

【乳海撹拌】(にゅうかいかくはん) → 『広辞苑』に記載なし。


金環日食や月食の際、私はラーフアスラ(羅睺阿修羅)の故事を思い出しながら天を仰いでいました。それにしても太陽や月を食べるインド神話のラーフアスラと興福寺の阿修羅が同族というのはびっくりですね。




  阿修羅が登場する仏典をご紹介します。鳩摩羅什の漢訳『金剛般若経』からの最後部分の邦訳(中村元訳)で、お釈迦さまの教えに修行者や天の神・地の人間たちとともに阿修羅も歓喜したとの大団円です。「ブッダ伝」(30回の予定)を通読して頂ければ阿修羅の気持ちを理解してもらえるはずです。なお中村氏の梵語からの直訳では阿修羅を「アスラ」としています。

    
    一切の有為法は夢・幻・泡・影の如く
    露の如く、また、電の如し
    まさにかくの如き観をなすべし

    仏はこの経を説きおわりたまえり。長者須菩提(すぼだい)および諸々の比丘・比丘尼((略)、一切の世間の天・人・阿修羅は仏の説きたもう所を聴きて、皆、大いに歓喜し(略)

【有為法】(ういほう) 現象界の存在。→有為
   【有為】(うい) さまざまの因縁によって生じた現象。また、その存在。絶えず生滅して無常なことを特色とする。


  次回は「四門遊観


ほぼ同じ内容が「冬尋坊日記」に載っています(見出しが違います)。
→ http://blog.livedoor.jp/taktag555/


続きを読む

「ブッダ伝」第7章  諸説ある生没年


このブログは一回分が1500字以内です。前回はオーバーしてしまったので、残り分を続けます。


仏十号という言葉があります。

【仏十号】(ぶつじゅうごう) 仏に対する十種の称号。如来・応供・正遍知・明行足(みょうぎょうそく)・善逝・世間解・無上士・調御丈夫(ちょうごじょうぶ)・天人師・仏世尊。如来十号。


行数の関係もあるので善逝、応供の二つを引きます。善逝はブッダ最後の旅を記した『大パーリニッパーナ経』の漢訳『大般涅槃経』でよく使われています。

【善逝】(ぜんぜい。梵語sugataスガータ) 仏十号の一つ。悟りの彼岸に去って再び迷いの生死海に堕ちない者の意。

【応供】(おうぐ。梵語arhataアルハータ。阿羅漢の訳) 人天の供養を受けるに値する意。もともと仏の称号であったが、後に小乗の聖者を指すようになった。


   それでは、「ブッダ伝」(7)の「諸説ある生没年」に入ります。

前回の【釈迦牟尼】の項で「生没年代は前五六六―四八六年、前四六三―三八三年などの諸説」とありました。このほかに「前六二四~五四四年」説や、渡辺氏の「紀元前五六〇―四八〇年頃」説もあります。生没年は諸説ありますが共通しているのは八十歳で入滅という点です。

他の説もありますから四つに整理します。

(イ)前六二四~五四四年

(ロ)前五六六~四八六年

(ハ)前五六〇―四八〇年

(ニ)前四六三~三八三年


このうち【釈迦牟尼】に記載があったのは(ロ)と(ニ)でした。インドや南伝仏教諸国(スリランカ、ビルマ、タイ、ミャンマーなど)が採用している説は(イ)、中国、日本、西洋が採用している説は(ロ)で、(ハ)は渡辺説。(ニ)は日本の一部の学者が主張している説です。

(ロ)説を採用している日本の仏教界は一九三四(昭和九)年に釈迦生誕二五〇〇年の記念式典、(イ)説採用の南アジア諸国は一九五六から五七年にかけてブッダ入滅の二五〇〇年記念式典をそれぞれ行ないました。さぞかし盛大だったでしょう。(ニ)の説は、アショーカ王の年代を勘案し、宇井伯寿博士が前四六六~三八六年と唱えたのが始まりです。


この説を中村元博士が継承し、入没年をそれぞれ三年ずらし前四六三~三八三年との説にしたのです。玄奘(六〇〇~六六四)の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』にブッダの布教活動地パータリプトラに関して「釈尊の涅槃後百年でアショーカ王が現れた。王はビンビサーラの曾孫で、王舎城から遷都してここ(パータリプトラ)に来た」との記述があり、こうした根拠をもとにブッダの没年を前三八三年にしたとみられます。

王舎城はマガダ国最初の首都ラージャガハ(ラージャグリハ。現在はラージギル)です。この地名については「ブッダ伝」(16)「ビンビサーラ王の眼力」の中でご説明します。

【パータリプトラ】Pataliputra) インド・ガンジス河岸の古代都市。前五世紀にマガダ国の都となり、のちマウリヤ朝・グプタ朝の首都。アショーカ王が第三回結集(けつじゅう)を行った地という。菓子城。

【華子城】(かしじょう) パータリプトラのこと。

【結集】(けつじゅう。けちじゅう) 仏滅後、異論を止め、教団を統一するため、代表者が集まって仏陀が遺した教えを集め、経典を編集したこと。

【宇井伯寿】(ういはくじゅ) 仏教学者。愛知県生まれ。東大卒。東北大・東大・駒沢大教授。実証的な文献研究を推し進めた。著「印度哲学研究」「仏教汎論」など。文化勲章。(一八八二~一九六三)


中村元氏はこう述べています。

「…南方の伝説には種々の難点が存するので、北方に伝わった諸伝説を比較検討して、釈尊の入滅を三八八年、三八〇年、三七〇年、三六八年(注:いずれも紀元前)などと算定する諸学者も現れた。宇井伯寿博士は、その後精密な検討によって、誕生を世紀前四六六年、入滅を同三八六年と算定された。その基準となったものはアショーカ王の年代であるが、その後の研究によって年代が少し動くことになったので、私は宇井博士の論拠を継承すると、誕生は世紀前四六三年、入滅は紀元前三八三年ということになると考える」(『原始仏教』、NHKブックス)


「ブッダ伝」に引用している『広辞苑』は電子辞書を主に使っていますが、【アショーカ王】の君臨時期は「前三世紀頃」となっています。しかしインターネットのウィキペディア(2012年)には「在位は紀元前二六八頃-紀元前二三二年頃」とかなり具体的に記されています。中村氏の言うように「アショーカ王の年代が少しずつ動いている」ことがブッダの生誕・入滅時期変更という英断につながったのでしょう。


奈良や京都の古刹住職に「ところでお釈迦さまの誕生日は紀元前なん年でしょうか?」と質問したら何と答えるのでしょう。

いじわるな質問はしないほうがいいですね。

本書はブッダの生没年について中村説の(ニ)を採用します。日本の仏教界が(ロ)説を採用しているのは、東京大学名誉教授だった高楠順次郎博士が中国の「衆聖点記」の説を根拠に定めたことに基づきます。

ブッダの死後、諸聖者が毎年梅雨の時期に点を打って記録したというのが「衆聖点記」。それによれば、仏滅年代を点数で逆算すると紀元前四八六年になり、(ロ)説に近い年代になる。「信憑性には問題があるが、仏滅年次を考えるときには、考慮に入れられるべきものである」(『仏教辞典』、岩波書店)という。


  宇井説に対する批判もご紹介しましょう。

  「宇井説の一番に問題になる点は、ジャイナ教の事実上の開祖と見られるニガンタ・ナータプッタがジャイナ教の伝承では世紀前六世紀に属することである。この人とマガダ国王アジャータ・シャゥトル、この王とブッダの関係を考えたとき、ブッダの活躍を世紀前五世紀の後半とする宇井説の根拠は薄弱といわねばならぬ(略)」(岩本裕著『佛教入門』中央公論社)


  日本のほとんどの僧侶は岩本氏に「乗る」でしょうね。ニガンタ・ナータプッタ(本名はマハーヴィーラ。ヴァルダマーナの別名も)はいわゆる六師外道の一人。「ブッダ伝」の(25)か(26)あたりで取り上げます。なお中村氏は『インド古代史』(春秋社)の中でナータプッタの生没年を紀元前四四四年―同三七二年としていることを付記しておきます。(「プッタ」で正しい)

  

[参考] ――アショーカ王――

NHK高校講座「古代インド・仏教とアショーカ王」(以前あった動画がなくなりました)
http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume004.html



次回は「インド神話の阿修羅」です。


 


 

リンク ↓ 冬尋坊日記


http://blog.livedoor.jp/taktag555/

 

続きを読む
livedoor プロフィール
カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ