ブッダは三十五歳から八十歳で亡くなるまで、マガダ国やコーサラ国などで説法を続けます。この四十五年間の布教活動で最大の事件が七十三歳の時に起きます。デーヴァダッタ(提婆達多)の反旗です。


  玄奘(六〇〇六六四)の『大唐西域記』に次のような記載があります。

  「伽藍から東へ百余歩の所に大きな深い穴がある。提婆達多が毒薬で仏陀を殺そうと企て、生身で地獄に落ち込んだ所である。提婆達多は悪心去りやらず、猛毒の薬を指の中に入れ、まさにこの計画を実行しようとして遠くからやって来て、ここまで来るや、地は裂けてしまった。生きながら地獄に堕ちたのである」

  デーヴァダッタが本当に地獄に落ちたかどうかはともかく、そういう伝承が七世紀のインドに残っていたというのは事実です。事件はブッダ七十三歳の誕生日に起きました。竹林精舎でブッダがビンビサーラ王らの人々に説法を終えくつろいでいた時、デーヴァダッタが立ち上がって言いました。

「世尊は七十歳を過ぎたのでお体が心配です。この辺で隠居したらいかがでしょうか。今後の教団は私に任せてください」


  この提案をブッダはすぐさま拒否し、「自分はサーリプッタやモッガラーナのように優れた弟子にも教団を委ねていない。どうしてお前のような者に譲れるか」と叱ります。多くの人の前で恥をかかされたデーヴァダッタは、その後、五カ条の要求をブッダに突き付けます。その五項目とは――

 出家者は人里離れた場所でのみ生活・修行する。

 乞食(こつじき)で食べ物を得て、食事の接待を受けない。

 ぼろの衣を着て、信者から衣服をもらってはいけない。

 樹下に坐り、屋内で修行してはいけない。

 肉や魚、牛乳やバターを摂ってはいけない。



  仏教教団が発足して三十八年、祇園精舎などの精舎が大きくなり、国王や大商人からの支援もあって、無理して乞食(托鉢)をしなくても食べていけるようになり、食事の接待も多くなって、衣服ももらい、修行も森から精舎内に移ったなどによって創立当初と違ってしまった――ことをデーヴァダッタは言いたかったようです。



 この要求にもブッダは拒否します。二回の要求を蹴られる前、デーヴァダッタはある工作をしていました。彼はマガダ国のアジャータシャトル(阿闍世)太子に近づいて、ささやいたのです。

  「国王に就けばこの世のあらゆる幸福を得られる。しかし、あなたの父王ビンビサーラは長寿の相なので、あなたが王位に就く望みはかなわない。父王はブッダに帰依しているので、私がブッダを殺して教団を率いる。あなたも王を殺して、二人でこの世の極上の幸福を得ようではないか」

  このようにそそのかされた太子は同意し、実行に移します。父王が併合した小国の運営を任された太子は重税を課した。これを責めた父王を太子は恨んでいるという事情をデーヴァダッタが知っていて煽ったようです。



  ある日、剣を手にして太子は王の室内に入ります。驚いた護衛や群臣が王をかばうと「王位を譲ってください。もし拒否すれば父王を殺そうと思う」と太子は迫ります。心優しい父王は息子を殺す命令を出すのがしのびないと、要求を飲み王位を譲ります。王位を奪取した太子は父王を宮殿の一室に閉じ込め、食を与えず、餓死させようとします。ところが、ヴァイデーヒー夫人は沐浴して身を清め、蜂蜜をまぜた麦粉を体に塗って王に会い、王はこれを食して命をつなぎます。



  さて禅譲と五項目の要求をブッダに突きつけ、いずれも拒絶されたデーヴァダッタはどうなったでしょうか。次の作戦を考えていた彼は実行に移します。ブッダ不在中に出家修行者を集め、五項目の実行を投票に掛けます。その結果、デーヴァダッタの圧勝となりました。

デーヴァダッタは、五百人の同調者を引き連れ、象頭山に籠もります。ブッダ教団にとって最大の危機を迎えます。それを知ったサーリプッタとモッガラーナは早速五百人のいる山へ向かいます。すると、デーヴァダッタは二人も仲間に加わったと勘違いします。

  「よく来てくれた。若い彼らを説教してほしい。私は疲れたので寝る」と言って横になると、熟睡してしまいます。そこで二人は難なく五百人を説得し、五、六人を除いたほとんどがブッダの元へ戻ることになりました。



  幽閉された父王はどうなったのでしょうか。アジャータシャトルタは守衛に尋ねます。「父王はどうしている。まだ生きているか」

  守衛は夫人が面会に来て、蜂蜜入りの麦粉を食していることを話すと、アジャータシャトルは「国賊を助けるものは母といえども国賊である。よくも悪王を助けたな」と怒り、剣を抜いて母親を切り殺そうとします。ちょうどそこにいた医師のジーヴァカ(耆婆)と大臣の一人が諌めます。「絶対に母后を殺めてはなりませぬ」というジーヴァカ医師の強い助言を受け、太子は母親を後宮に幽閉することにとどめました。



  後日、ヴァイデーヒ夫人は息子の太子に「息子よ目覚めなさい! お前が幼い頃、指にけがをして膿がたまったので父王が口で吸い取って病気を治したのでよ」と言うと、はっと我にかえった太子は父王の獄舎に向かいます。だが、殺されると思った父王は窓から外へ身を乗り出して飛び降りて自殺します。太子は大いに悔やみ、ジーヴァカの勧めもあって仏教に帰依。以後はブッダの支援に力を尽くしたと伝えられています。

夫と息子の板挟みに苦しんだヴァイデーヒ夫人はブッダとモッガラーナに救いを求めます。これが大乗仏典『観無量寿経』(同名の本が岩波文庫から出版)の主要テーマになっています。ただし、中村元氏はこれを史実とは認めていないのか、この話をブッダに関する自著の中で紹介していません。「ブッダ伝」の読者は両方の話を知ることができた訳です。第七回の「怒り狂う妻」も中村氏の「ブッダ」関連の本には載っていません。

【堤婆達多】(だいばだった。梵語Devadattaデーヴァダッタ) 釈尊の 従弟で、斛飯(こくぼん)王の子。阿難の兄弟。出家して釈尊の弟子となり、後に背いて師に危害を加えようとしたが失敗し、死後無間地獄に堕ちたという。 (注)阿難の兄。

【阿闍世】(あじゃせ。梵語 Ajatasatruアジャータシャトル)  古代インド、マガダ国の王頻婆娑羅の子。提婆達多(だいばだった)にそそのかされ、父王を殺し母后韋提希(イダイク)を幽閉して即位したが、のち釈尊の教化によって懺悔し、仏教の保護者となった。
【韋提希】(いだいけ。梵語Vaidehiヴァイデーヒー) 古代インド、マガダ国王頻婆娑羅の后。子の阿闍世太子に幽閉され、釈尊に説法を請うた時、釈尊の説いたのが「観無量寿経」であると伝えられる。

  【耆婆】(ぎば。梵語Jivakaジーヴァカ) 釈尊時代、王舎城の名医。釈尊に帰依し、父を殺した阿闍世王に勧めて信者とさせた。

【観無量寿経】浄土三部経の一つ。西域の畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)の訳、一巻。釈尊が韋提希(いだいけ)夫人に阿弥陀仏とその浄土の荘厳を説いたもの。観無量寿仏経。



デーヴァダッタの浅知恵はことごとく失敗、最後の手段としてブッダ暗殺を計画し、実行に移します。刺客を何度か放ったり、山道を歩くブッダに向けて上から大石を転がしたり、托鉢中のブッダに対して酔象を放って襲わせたりしたこともあったというのです。大石や酔象の話は後世の仏伝作者による創作のような気がします。



  デーヴァダッタは最後に自らの爪の間に毒を塗り、ブッダを傷つけようとします。しかし、指先の傷から毒が自分の身に回り、苦しみの中で死に地獄に堕ちた、と伝えられています。玄奘はその伝説を採用したのでしょう。



  
[関連]――映画の一場面『釈迦vs提婆達多』――
  http://www.youtube.com/watch?v=3HOzixr6MKs

1961年の大映映画『釈迦』の一場面です。釈迦は本郷功次郎、提婆達多は勝新太郎が演じています。中勘助の小説『提婆達多』(岩波文庫)をベースに脚本を書いたとみられますが、提婆達多に強姦されたヤソーダラ妃が自殺したというのは事実と違います。古代インドを舞台にした映画なのに馬ばかりで象が一頭しか出ていないのも不自然です。南伝仏教国が「強姦」の場面に反発し、現地で撮影できなかったことが理由のようです)
  【中勘助】(なか・かんすけ) 小説家・東京生まれ。東大卒。夏目漱石に師事。「銀の匙」の清純な詩情で認められた。また、詩人・随筆家として知られ、常に時流を超越して独自の芸境をまもった。小説『提婆達多』。(1885~1965)


  次回は「サーリプッタ死す」です。




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