冬尋坊日記――副題「66歳からの日本画修業」 

66歳で日本画を習い始めた男の折節の記。「冬尋坊日記」としたのは、雅号を冬尋坊としたから。

「無罪を確信しながら死刑判決を言い渡した」 熊本典道という元裁判官

 以下は袴田事件の静岡地裁1審判決で袴田被告に死刑を言い渡した裁判官・熊本典道さんに関するウィキペディアの情報。親戚に共産党を支持する判事がいたので、生活保護を受けるこの人権派・元判事の心痛を察する。アーメン! この裁判は3人の合議審で進められ、1審で死刑判決を言い渡した際、一番若い熊本氏が主任裁判官だった。無罪を確信したが、先輩2人に押し切らきられて死刑判決を下したという。
 冤罪濃厚な狭山事件はどうなのだろう? 最高裁は一刻も早く狭山事件の再審を決定しなければならない。

 熊本典道(くまもと のりみち)
 1938年10月30日生まれ。佐賀県東松浦郡打上村(現・唐津市)出身。九州大学法学部卒。職業 無職(元裁判官、元弁護士)。

 2007年に突如袴田事件の支援者に合議の秘密を破り「事件は無罪であるとの確証を得ていたが裁判長の反対で死刑判決を書かざるを得なかった」という手紙を書き、その後改めて記者会見を開き同様の趣旨の発言をした。

 もともと逮捕状や勾留請求の却下が多い人権派の裁判官として知られ、1968年の袴田事件1審でも1人だけ無罪を主張したが裁判官3人の多数決で覆され、袴田巌被告は死刑判決を受ける。
 この判決を悔やんで半年後に弁護士へ転身し、東京の法律事務所のパートナーとなったが、酒の上でのトラブルが絶えず、「俺は無実の人を殺した。逮捕しろ」と夜中に警察署で暴れたこともあった。

 大酒が原因で体を壊して離婚し、1991年に九州へ移住。肝硬変で入院したが、病室でも酒を飲んでいる有様だった。1996年に弁護士登録を抹消。このころの生活については、自ら「弁護士らの知人から借金して食いつないでいた。ホームレスのようなもの」と語っている。

 2008年には前立腺癌と診断され、2010年には福岡市で生活保護を受けながら細々と暮らしていることが報じられた。(以下略)
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【袴田事件】カトリック信徒になっていた                 1審死刑判決の裁判官

 カトリック信徒の私としては、毎日新聞よりもこちらの共同通信の記事に軍配を上げる。

 静岡地裁の元裁判官、熊本典道さん(76)は、袴田巌死刑囚(78)を死刑とする判決文を書いたことを今も悔やんでいる。「こんな証拠で死刑にするのはむちゃ」と訴えたが、先輩の裁判官2人を説得できなかった。「袴田君に謝りたい。申し訳なかった」。その目は止めどない涙であふれる。判決から46年、この思いが晴れたことはない。
 ▽多数決
 一審を担当した3人の裁判官で最も若かった熊本さんは公判の途中から裁判に加わった。審理が進めば進むほど、自白や証拠への疑問が湧き上がった。しかし、有罪の心証を持っていた先輩裁判官2人と多数決になり、死刑判決を書くことを命じられた。書きかけていた無罪の判決文を破り捨てたという。
 死刑判決の付言で「長時間にわたり被告人を取り調べ、自白の獲得にきゅうきゅうとし、物的証拠の捜査を怠った」と捜査批判を繰り広げたのは、控訴審で捜査のおかしさに気付いてもらい、判決を破棄してほしかったから。だが、控訴審や上告審、第1次請求審で、死刑判決が覆ることはなかった。
 ▽告白
 「心にもない判決を書いた」と良心の呵責に耐えきれず、判決の翌年に裁判官を辞めた。弁護士になったものの、法廷で「私はやっていません」と訴えた袴田死刑囚のまなざしが忘れられない。酒浸りの生活を送り、一時期は自殺を考えたこともあった。弁護士も辞めてしまった。
 第1次再審請求の特別抗告審が大詰めを迎えた2007年に、無罪の心証を持っていたことを初めて明らかにした。「勇気ある告白」と称賛する声も多く寄せられたが、自分の中では「もっと早く言わないといけなかった」との思いの方が強かった。最高裁は特別抗告を棄却し、告白は実を結ばなかった。
 ▽洗礼
 「袴田君の気持ちを少しでも理解したい」。東京拘置所で84年にキリスト教の洗礼を受けた袴田死刑囚の心に近づこうと、自身も今年2月22日、カトリックの洗礼を受けた。
 脳梗塞で足や言葉が不自由となっているため、神父に福岡市の自宅に来てもらった。聖水を頭にかけられると、感激のあまり、おえつが漏れた。「袴田さんの心に近づけましたか」と問われると、すっきりした表情で深くうなずいた。(以下略=共同通信)
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洗礼の準備のため訪れたカトリック教会で、神父の説明を聞く元裁判官の熊本典道さん=1月、福岡県古賀市(共同通信)

 再審開始が認められ、48年ぶりに釈放された袴田巌さん(78)は27日午後5時20分ごろ、東京拘置所の玄関から姉秀子さん(81)と共に姿を現した。待ち構えていた報道陣に対しては一言も発することなく、弁護団が用意した車に秀子さんと一緒に乗り込み、拘置所を後にした。
 袴田さんは黄色い半袖シャツにベージュのズボン。かつての面影はあるものの、髪は白髪交じりで、約半世紀の年月を感じさせた。(以下略=時事)

 追加しました!

 『狭山事件の真実』を読んで……
   一刻も早い再審決定を

 鎌田慧の「狭山事件の真実」(岩波現代文庫)を読んだ。帯に「再審開始は実現するか 事件の謎を解く労作」「典型的な冤罪はいかにしてつくられたか」「石川さんはなぜ偽りの自白をしたのか」とある。
 冤罪の真相は、石川一雄さんの講演を聴き、映画『SAYAMA 見えない手錠をはずすまで』を見てある程度知っていたので、この本によって一層よく分かった。

 事件が起きたのは1963年(昭和38)5月1日。埼玉県狭山市で帰宅途中の埼玉県立川越高校入間川分校1年の中田善枝さんが行方不明となり,4日に遺体で発見された。
 2日後の夜,脅迫状を送って身代金を受け取りに来た犯人を,張り込み中の警官隊が取り逃がす大失態。焦っていた警察は23日、被差別部落出身の石川一雄さん(24)を別件の窃盗容疑で逮捕。浦和地検は別件で起訴した。 
 その後。いったん釈放されそうになるが、警察は再逮捕。自供したとして石川さんを強盗強姦・強盗殺人・死体遺棄・恐喝未遂・窃盗などの容疑で送検。浦和地検は確実な証拠がないまま起訴し、64年3月11日、浦和地方裁判所は石川さんに死刑判決。74年10月21日、東京高裁寺尾正二裁判長は無期懲役の判決を下した。

 本書は485頁。予断に基づいた見込み捜査や、自白偏重の判決を疑って事件の真相を明らかにし、直前に起きた吉展ちゃん事件、当時の時代背景、よく起きていた他の冤罪事件などにも触れている。
 当ブログで以前書いたように、石川さんは死刑囚の身で東京拘置所にいたときに、刑務官から文字を教わった。1975年(昭和51)10月に書いた上告趣意書はB4判で118枚。今は親戚付き合いをしているという慶應大学卒の刑務官がいなければ、このように長い文章は書けなかった。(刑務官から文字を習ったことや、刑務官夫人からの文具差し入れの話をもっと書き込んでもよかったのではないか、と思った。刑務官は「石川さん、このままだったら本当に死刑にされちゃうよ」と言って独房に入って文字を教えてくれた。夫人は変装までして拘置所に通ってきてくれたからである=石川さんの話に基づく)
 「上告趣意書は自供や証言の矛盾を衝いて、無実をあきらかにするのが狙いである。とすると、かつての自分の自供を根底から批判する、という構成をとることになる。そこには、第三者としての弁護士には到底感じ取れない、些末な事柄についてのリアリティが見てとれる。たとえば……」
 として、<自供に追い込んだ取調官によるトリックや嘘><偽りの自白をした事情・取調官への迎合><本人の無知><証拠のいんちき(捏造)>などを具体的に挙げ、これらを見抜けず、無期懲役の判決をした東京高裁の寺尾正二裁判長を批判している。

 石川さんは94年12月21日に千葉刑務所を仮出獄。徳島の被差別部落出身の早智子さんと結婚し、再審開始を訴えて全国行脚をしている。(刑務官長男の結婚式に招かれたこともあった。刑務官は「この方が死刑囚の石川一雄さんです」と出席者に紹介したという=石川さんの話)
 私が昨年秋にカトリック玉造教会の講演会で聴いた際は「再審があるまでは死ねない。肉を食べず、ジョギングをして体を鍛えている」と述べていた。痩せた容貌は禅僧のよう。<120歳まで生きたい>と気迫があった。とはいえ75歳になった夫を気遣う妻。一刻も早い再審開始を願わずにいられなくなる本である。(『冬尋坊日記』2014年1月27日)
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【袴田事件】えっー?! 「無罪の心証があった」って?!!!            

 この『毎日新聞』の記事を読んで驚いた。袴田事件の1審・静岡地裁で死刑判決を下した裁判官が「無罪の心証があった」「有罪認定は難しいと思っていた」と言うのだから。冤罪濃厚な狭山事件も一刻も早く再審をしてもらいたい。

 静岡市(旧静岡県清水市)で1966年、みそ製造会社の専務一家4人を殺害したとして強盗殺人罪などで死刑が確定した元プロボクサー、袴田巌死刑囚(78)側の第2次再審請求。静岡地裁(村山浩昭裁判長)は27日、再審を開始し、死刑執行を停止する決定を出した。

 1審・静岡地裁で死刑の判決文を書いた元裁判官、熊本典道さん(76)は「公判で袴田さんが『やっていません』と言った姿が忘れられない。思い出すと涙が出る」と、今でも悔やみ続けている。
 真っすぐに裁判長を見据えて受け答えする袴田死刑囚の様子や、任意性に乏しい供述調書などを通じ、「有罪認定は難しい」と思っていた。だが、結審後に判決文を検討する中で、結果的に先輩判事に押し切られた、と振り返る。

 半年後、耐えられず退官し、弁護士に転じた。合議の秘密を破り、第1次再審請求中の2007年、「無罪の心証があった」と告白したが、請求棄却が確定した。先月末には古巣の静岡地裁を訪ね、再審開始を求める上申書を提出。「自分は他の裁判官を説得できなかった。償いをしたい」と訴えた。【荒木涼子】
  この人が罪深い裁判官
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<袴田事件>「やっていません」に涙出る…1審死刑の裁判官・熊本典道さん=2013年11月、荒木涼子撮影 (毎日新聞、3月27日)


昨年11月に書いたこの記事をもう一度読んでほしい。

狭山事件の石川一雄さんが大阪の教会で講演
2013/11/30 18:15
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(挨拶する妻の早智子さん。左が石川さん) 
 
 50年前、狭山事件で逮捕された石川一雄さん(75)=1994年に仮出獄=の講演会が3日前(27日)、大阪の玉造教会であり、カトリック大阪大司教区の神父やシスターなど250人が参加した。

 老信徒に誘われ、私も朝9時半に到着、狭山事件に関するパンフレットを読みながら10時の開演を待った。11時前、石川さんと妻の早智子さんが東京から駆け付けた。45分間の講演のうち、特に印象に残った看守との交流に絞って書くことにしたい。その前にまず「狭山事件とは」 

 狭山事件(さやまじけん)とは 1963(昭和38)年5月1日、埼玉県狭山市で高校1年生の少女が誘拐され、殺害された。埼玉県警は同月23日、被差別部落出身の石川一雄さん(当時24歳)を殺人罪などで逮捕。一審の死刑判決後に石川被告は冤罪を主張。その後、無期懲役刑が確定したが、捜査上の問題点が次々に浮上。1994年に仮出獄。石川さんと弁護団・支援団体が冤罪を主張して再審請求をしている。裁判所側は「証拠品を全部出しなさい」と勧告しているが検察側は応じていない。 

 石川一雄さんは45分間講演したが、ここでは看守との交流を中心に書く。感動して、メモしながら涙が出た。石川さんは1964年に浦和拘置所から東京拘置所に移される。ここで運命的な出会いがあった。親切な看守とその奥さんである。以下が石川さんの大まかな話。
 
 「看守さんが文字を教えてくれた」 
 …幸いなことに私の無実を知ってくださった刑務官(看守のこと)が私を応援してくれた。慶応大学を卒業した看守さんが私の担当になった。親切な看守さんだった。「石川さん、このままじゃ、本当に死刑執行になっちゃうよ。助かる道は一つしかない。勉強して文字を取り戻し、真実を訴えることだ」と。
 死刑囚だったことが幸いしたんです。刑務官が毎日マンツーマンで字を教えてくれた。死刑囚は午前中に突然連れて行かれるから、午前中は静か。70人、80人の死刑囚がいたが、土日以外いつ執行されるか分からないので静かなんです。(石川さんはそういう環境の中で文字を教わった)

 文字を書くのに不自由しないようにちり紙を規定よりも多く差し入れしてくれました。拘置所内のちり紙は(今のように薄くなくて)硬かったので文字が書けたんです。ボールペンや便せんも差し入れしてくれました。連休の時は千枚くらいくださった。
 (その看守が転勤した後は、看守の夫人が差し入れしてくれたという)奥さんも親切な方でボールペンや便せんを差し入れてくれました。(看守の夫人はばれるといけないので)夏でもマスクし、髪の毛を変装して来てくれました。この差し入れは12年間で終わりました。なぜなら日本共産党に続いて(部落)解放同盟が支援してくれるようになったからです。12年間でおそらく十数万円の差し入れをしてくれました。

 文字を習うには相当に時間が必要でした。私はなまける。すると看守さんが段ボールにマス目をつくってくれて、そこに書けと。マス目に埋めないとなまけたのがすぐ分かってまう。「死刑執行されていいのか!」と殴ってまで教えてくれました。「勉強することによって無実になる。きちっとやってもらいたい」と。 

 奥さんには感謝しきれない。(仮出獄になって)看守さんの家に行ったとき、看守さんが言いました。「むしろ妻にお礼を言ってほしい。感謝の意を表してほしい」と。今でも看守さんとおつきあいさせていただいています。親戚同士のおつきあいをさせていただいています。結婚式の招待状が届いたことがあります(看守さんの長男の結婚式?)。50人、60人いる前で「隣にいる方は女子高生殺人事件で犯人にされた人です。何とか助ける道はないものか。この人に読み書きを教えた。きょうは無実の晴れ舞台なので、石川さんにスピーチさせてください」と。

 一家をあげて私を応援してくれている。うれしいことです。もしこの看守さんに会えなかったら何もしない75歳になっていたでしょう。(本当は来年早々が誕生日。現在は74歳) 

 追加:

(事件当時)兄が犯人だと思っていました。(警察の取調官が証拠品の一つである地下足袋を手にして)「お兄ちゃんの地下足袋だ」と。(私は<じゃあ、兄が犯人だ>と思いました。それで「じゃあ、私を犯人にしてください」と。
 取調官が「あとはまかせろ」と言う。「(犯行現場を)この通り図面を描け。この通り描け」と。しかし、(石膏で取った犯人の足跡と同じ)地下足袋は小さいので私が履くとかかとが出てしまう。当時54㌔。(今は長生きするためダイエットしているので)11㌔やせた。それでも履けない。…ですから再審開始決定が必要不可欠。ぜひとも石川一雄が無罪を獲得出来るようご支援をお願いします。(注)石川さんの兄も事件に無関係。

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