2012年01月02日
2012年 新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます!
昨年は、社会的には恐ろしい出来事があまりに多かった一年でした。
「現在が分からなければ、過去に対する視線もおかしなモノになる」
ということを自分に言い聞かせながら細々と研究を続けてきた私にとって、
到底負いきれないような、重すぎる「課題」を背負ってしまった感はあります。
震災なり原発なり復興なりについて、それを直接の研究対象とするのか、あるいは
それを強く意識しながら「間接的」に歴史的な素材に取り組んでいくのか。
今の自分の感覚としてはおそらく後者のスタンスになるような気がしますが、
いずれにせよ現在を見る目を今まで以上に研ぎ澄ましていかなくては
いけないことを痛感しています。
そんなこんなで社会的には気の重くなる一年でしたが、個人的には
とても充実した年でもありました。
何よりもまず、博士論文の出版にめどを付けるという、昨年最大の目標
が達成できたのが、何より大きな出来事でした
(この本の詳細については、おいおいお知らせしていきたいと思います)。
いろんな方々にいろいろな機会で声をかけていただくことも増え、
お仕事なり発表のチャンスなりをたくさんいただけるようになりました。
いくら願ってもそのような機会が得られなかった数年前と比べると隔世の感はあり、
本当にありがたいことです。ただ、いろいろな人びとに対して負わなくては
いけない責任が格段に増した一年でもありました。
そして、それに伴っていろいろ課題が露呈した一年でもあり、とくに今
思っているのは(1)時間の使い方と、(2)趣味へのエネルギーの減退、
の二点。
自分のこなすべき課題に対していくらでも時間があった今までとは違い、
与えられた時間の中で満足のいく結果を出さなくてはいけないという、
まあ社会人としては当たり前の状況にようやくなったわけですが、
そういう細かい時間の有効利用にいままで慣れていなかったために、
もう少しどうにかならんもんかなあ〜と、自分自身もどかしく思うことが
よくありました。
あとは、時間に追いまくられて、クラとか映画とかの趣味に割ける時間が
ほとんどなくなってしまったところも反省点。
結局は(1)時間の有効利用という問題に尽きるのですが、時間が限られた
なかでどうやって「余裕」を保てるのか、ということを、今年はもう少し
考えてみたいなあと思っています。
さきほど初詣に行っておみくじを引いたら、
「学問 怠心を直し目標を早めにさだめよ」
とあり、まさに問題点ズバリ指摘だったので、吹いてしまいました。
怠け心は慢性病なので、まあそれはとりあえず置いておくとして、問題は後半。
いままでは博士論文の「貯金」でやりくりしてきましたが、今年の前半くらいで
そろそろその貯金もゼロになりそうなので、次に何をやるのか、目標を
決めなくてはいけません。
いろいろやりたいことはちらちらと頭に浮かぶことは浮かぶんですが、
着実な実行可能性を伴うソリッドな計画となると、フラフラしてなかなか
決まりません・・・。
ときどきおかしくなる胃腸の調子も様子を見ながら、地に足付けた
2012年にしたいなあと考えております。
というわけで、皆様今年もどうぞよろしくお願いいたします!
(写真は、去年行ってきた鹿児島指宿市の山川砂むし温泉「砂湯里」近辺の海岸)
2011年10月15日
メッツマッハー/新日フィル ショスタコ5番ほか
2011年10月15日
指揮:インゴ・メッツマッハー
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
アイヴス ニュー・イングランドの3つの場所
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
サントリーホール
コンサートマスター:豊嶋泰嗣
以前も書いたように、メッツマッハーはあまり好きになれない指揮者である。
「硬派」なのは良いのだが、連綿としたロマン性が底流をなしているギーレンやブーレーズの硬派ぶりとは違って、その「硬派」の鎧の下にある「何か」があまり伝わってこないからである。
味気ないとは思わないが、どことなく無機的で、情緒に欠ける。
むしろそういう情緒を徹底して排除しようとしているようにも見えるのだが、響き自体はまろやかでぱさつく感じはなく、むしろ心地よい響きである。
かれこれ10年近く生で聞いているが、何が表現したい指揮者なのだか、いまだによくわからない。
わからないのだけれど、力量が抜群であることは認めざるを得ない。
それを嫌というほど思い知らされたのが今日の演奏会。
ドイツで活躍している一線級の指揮者はだいたいそうなのだが、オケのコントロールぶりがとにかく素晴らしい。
特に、弱音部での透徹した響きは、今自分がいるのは東京のサントリーホールではなくてベルリンのフィルハーモニーなのではと錯覚してしまうくらいの、完成度の高さ。
さらにアイヴスでは、オケの響きまで一変させてしまった。
この徹底的に統制された弱音を地層のように丁寧に積み重ねて、通俗的な旋律と不協和音とが絶妙に共存するアイヴスの世界を、何の苦もなく表現していた。
かとおもうと、これまた統制され響きがきれいに分離されたフォルテッシモを、絶妙にぶつけ合う。
特に金管が非常に安定していて、こんなマッシブな響きが日本のオケから引き出しうるのかと驚くことが、演奏会の間に幾度となくあった。
こうしたメカニックなスタイルはやはり、アイヴスのような音楽でもっとも相性が良く、ベートーヴェンでもわりかしうまくはまっているように見えたけれど、ショスタコでこのスタイルを貫かれると、個人的には違和感が大きい。
揺らぐ情緒のようなものが、このスタイルでは存在する余地がほとんどなく、「音響効果」のようなものにすべてが収斂してしまっている印象。
ただ逆に言えば、「音響効果」を追求するだけで、ここまで素晴らしい響きが引き出しうるという意味で、逆説的にショスタコーヴィチの天才ぶりが証明されているのだと言えなくもない。
それにしても、このオケのプルトに立つ指揮者は皆、一切手抜きをせずに全身全霊で向き合っている感じなのが、とてもよい。
ハーディングしかり、ブリュッヘンしかり、メッツマッハーしかり。
こういう公演を積み重ねていったら、数年後の新日フィルはどれくらい素晴らしいオケになっているのか、想像するだけワクワクしてくる。
指揮:インゴ・メッツマッハー
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン 序曲「レオノーレ」第3番
アイヴス ニュー・イングランドの3つの場所
ショスタコーヴィチ 交響曲第5番
サントリーホール
コンサートマスター:豊嶋泰嗣
以前も書いたように、メッツマッハーはあまり好きになれない指揮者である。
「硬派」なのは良いのだが、連綿としたロマン性が底流をなしているギーレンやブーレーズの硬派ぶりとは違って、その「硬派」の鎧の下にある「何か」があまり伝わってこないからである。
味気ないとは思わないが、どことなく無機的で、情緒に欠ける。
むしろそういう情緒を徹底して排除しようとしているようにも見えるのだが、響き自体はまろやかでぱさつく感じはなく、むしろ心地よい響きである。
かれこれ10年近く生で聞いているが、何が表現したい指揮者なのだか、いまだによくわからない。
わからないのだけれど、力量が抜群であることは認めざるを得ない。
それを嫌というほど思い知らされたのが今日の演奏会。
ドイツで活躍している一線級の指揮者はだいたいそうなのだが、オケのコントロールぶりがとにかく素晴らしい。
特に、弱音部での透徹した響きは、今自分がいるのは東京のサントリーホールではなくてベルリンのフィルハーモニーなのではと錯覚してしまうくらいの、完成度の高さ。
さらにアイヴスでは、オケの響きまで一変させてしまった。
この徹底的に統制された弱音を地層のように丁寧に積み重ねて、通俗的な旋律と不協和音とが絶妙に共存するアイヴスの世界を、何の苦もなく表現していた。
かとおもうと、これまた統制され響きがきれいに分離されたフォルテッシモを、絶妙にぶつけ合う。
特に金管が非常に安定していて、こんなマッシブな響きが日本のオケから引き出しうるのかと驚くことが、演奏会の間に幾度となくあった。
こうしたメカニックなスタイルはやはり、アイヴスのような音楽でもっとも相性が良く、ベートーヴェンでもわりかしうまくはまっているように見えたけれど、ショスタコでこのスタイルを貫かれると、個人的には違和感が大きい。
揺らぐ情緒のようなものが、このスタイルでは存在する余地がほとんどなく、「音響効果」のようなものにすべてが収斂してしまっている印象。
ただ逆に言えば、「音響効果」を追求するだけで、ここまで素晴らしい響きが引き出しうるという意味で、逆説的にショスタコーヴィチの天才ぶりが証明されているのだと言えなくもない。
それにしても、このオケのプルトに立つ指揮者は皆、一切手抜きをせずに全身全霊で向き合っている感じなのが、とてもよい。
ハーディングしかり、ブリュッヘンしかり、メッツマッハーしかり。
こういう公演を積み重ねていったら、数年後の新日フィルはどれくらい素晴らしいオケになっているのか、想像するだけワクワクしてくる。
2011年06月21日
ハーディング/新日フィル マラ5他
指揮:ダニエル・ハーディング
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
エルガー 「エニグマ」変奏曲より第9変奏「ニムロッド」
マーラー 交響曲第5番
コンサートマスター:崔文洙
サントリーホール
マーラーの5番という曲は、メジャーな割には私にとってはいまいちなじめない曲だった。
彼の他の交響曲と比べても、偏執狂的な執着ぶりが特に際立っているような気がして、特に6番なんかとは比べものにならないくらい魑魅魍魎なところに、正直ついていけないと感じることが多かった。
今日のハーディング&新日フィルの演奏を聴いてはじめて私は、「かけがえのないものを決定的に失ってしまった人間」の喪失感をめぐる曲なのだということが、実感として理解できたと思う。
演奏にほとんど「弛み」らしい弛みがなく、あらゆる旋律や副旋律が意味あるものとして丁寧に提示される。
行きつ戻りつ、思い出しては苦しみ、不安の後に躁的な感情があふれ出し・・・といった心理状況を、ここまで真っ正面から描いた演奏に、今まで出会ったことはなかった。
いや、もしかしたら出会ったていたのかもしれないけれど、震災という状況が演奏の文脈としてあったからこそ、私ははじめて理解出来たのかもしれない。ただそれは、ここまで、曲の細部を徹底的に描き出しながら、スケール感においても比類ないこの演奏があったからこそ、初めて理解することが可能になったのだけれども、
第4楽章を聴いているときには、震災で亡くなった人にどうか安らかに眠って欲しいと心から願わずにはいられなかったし、第5楽章もなかなか前向きになれるような演奏ではなかったけれど、しかし生きている我々が前進していくしかないじゃないかという意志の強さを十二分に感じさせる演奏だった。
「エニグマ」の「ニムロッド」も、ここまで感動的な演奏がこの曲に可能だったのか、というような素晴らしい演奏だった。
そして、ハーディングからはすさまじいまでの情熱とエネルギーが放射されていたし、何より指揮者としてのオーラのようなものが指揮台から溢れていた。
自分と同い年だけれども、気取りも衒いもなにもなく、一つ一つの音に全力投球しながらスケールの巨大な音楽を紡ぎ出していくその姿に、本当に圧倒された。
自分もこういう、細部の緻密さとスケールの大きさの両立した、生き生きとした「何か」をいずれ表現してみたいという願望を、無謀なのは百も承知ではあるけれど、演奏中抑えることができなかった。
若さは言い訳にはならない。目の前の彼がそれを今体現しているのだから。
ハーディングにも、そしてその意志に必死に応えた新日フィルにも、心から感謝している。
管弦楽:新日本フィルハーモニー交響楽団
エルガー 「エニグマ」変奏曲より第9変奏「ニムロッド」
マーラー 交響曲第5番
コンサートマスター:崔文洙
サントリーホール
マーラーの5番という曲は、メジャーな割には私にとってはいまいちなじめない曲だった。
彼の他の交響曲と比べても、偏執狂的な執着ぶりが特に際立っているような気がして、特に6番なんかとは比べものにならないくらい魑魅魍魎なところに、正直ついていけないと感じることが多かった。
今日のハーディング&新日フィルの演奏を聴いてはじめて私は、「かけがえのないものを決定的に失ってしまった人間」の喪失感をめぐる曲なのだということが、実感として理解できたと思う。
演奏にほとんど「弛み」らしい弛みがなく、あらゆる旋律や副旋律が意味あるものとして丁寧に提示される。
行きつ戻りつ、思い出しては苦しみ、不安の後に躁的な感情があふれ出し・・・といった心理状況を、ここまで真っ正面から描いた演奏に、今まで出会ったことはなかった。
いや、もしかしたら出会ったていたのかもしれないけれど、震災という状況が演奏の文脈としてあったからこそ、私ははじめて理解出来たのかもしれない。ただそれは、ここまで、曲の細部を徹底的に描き出しながら、スケール感においても比類ないこの演奏があったからこそ、初めて理解することが可能になったのだけれども、
第4楽章を聴いているときには、震災で亡くなった人にどうか安らかに眠って欲しいと心から願わずにはいられなかったし、第5楽章もなかなか前向きになれるような演奏ではなかったけれど、しかし生きている我々が前進していくしかないじゃないかという意志の強さを十二分に感じさせる演奏だった。
「エニグマ」の「ニムロッド」も、ここまで感動的な演奏がこの曲に可能だったのか、というような素晴らしい演奏だった。
そして、ハーディングからはすさまじいまでの情熱とエネルギーが放射されていたし、何より指揮者としてのオーラのようなものが指揮台から溢れていた。
自分と同い年だけれども、気取りも衒いもなにもなく、一つ一つの音に全力投球しながらスケールの巨大な音楽を紡ぎ出していくその姿に、本当に圧倒された。
自分もこういう、細部の緻密さとスケールの大きさの両立した、生き生きとした「何か」をいずれ表現してみたいという願望を、無謀なのは百も承知ではあるけれど、演奏中抑えることができなかった。
若さは言い訳にはならない。目の前の彼がそれを今体現しているのだから。
ハーディングにも、そしてその意志に必死に応えた新日フィルにも、心から感謝している。
2011年03月05日
ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル
2011年3月5日
ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲
シューベルト ピアノ・ソナタ第19番
スクリャービン 前奏曲 ロ長調 op.11-11
前奏曲 ロ短調 op.13-6
前奏曲 嬰ト短調 op.11-12
練習曲 嬰ト短調 op.8-9
詩曲第1番 嬰ヘ長調 op.32-1
メンデルスゾーン(ラフマノニフ編)「真夏の夜の夢」からスケルツォ
サン=サーンス(ホロヴィッツ編)「死の舞踏」
ビゼー(ホロヴィッツ編) カルメン変奏曲
(アンコール)
ラフマニノフ ヴォカリーズ
モシュコフスキー 火花
グルック 精霊の踊り
モーツァルト(ヴォロドス編) トルコ行進曲
紀尾井ホール
ヴェルビエ音楽祭の映像で仰天してから三年以上、今か今かと待ちに待っていたユジャ・ワンのリサイタルでしたが、その期待をさらに上回るいい演奏会でした。
「熊ん蜂の飛行」に代表されるように、彼女がとにかくすさまじいまでに指が回る、ヴィルトゥオーゾ的な演奏家であることはよく知られていることですし、実際演奏会の終わり三分の一、メンデルスゾーンのスケルツォ以降はそういう彼女のすさまじい技巧の独壇場だったわけですが、実際ライヴで聴いてみると、確かにすごいとは思うけれど、基本的に予想の範囲内ではあって、それほど大きな驚きはありませんでした。今回目立ったのはむしろ、それ以外の側面。
一つは、ヴィルトゥオーゾ的であるにもかかわらず、表現に誇張や背伸びしすぎたところがほとんどないところ。
とくにシューベルトは本当に感心しました。
演奏する側に力みや衒いがあるとすぐにそれがばれてしまうのがシューベルトですが、若さ溢れる瑞々しい感性で、素朴かつ丁寧に歌い込んでいき、妙な「枯淡の境地」のような芝居がかった老成ぶりはいっさい見せない。
曲の表情が大きくなったり劇的になるところでも、必要以上に叩くことはせず、演奏内容が演奏者の小宇宙の中にきちんとおさまっている。
諦念や、抑制を超えてほとばしる激情など、そういう小宇宙を飛び出てしまうような要素は確かにこの演奏から聞くことはできないし、そういう意味では若さや「未成熟」を見せてしまっていると言えるのかも知れない。でも、そもそもまだ23歳なのだし、その経験の地平線の中で言えることをキチンと言うというこの姿勢こそが、まさにシューベルトと向かい合うときのあるべき態度なのだと私は思います。
そして何より、今後も順調に伸びていくだろうなという、伸びしろの大きさを感じさせる。
シューベルトがきちんと弾けるピアニストは個人的に大好きなので、この一曲だけで彼女に対する評価がぐんとアップしたところがあります。
二つ目の魅力は、時折見せるデモーニッシュな表情。
一時期のヒラリー・ハーンもそうでしたが、曲に潜んでいるブラックホールのような暗黒の情念に、ぐわーっと引き込まれていくような、あのぞくぞくする感覚。あれが、彼女の演奏には時々感じることができるのですね。一曲目のラフマニノフ然り、三曲目のスクリャービン然り。
ハーンの場合は年を重ねるごとに徐々に「自然体」へと移行していって、こういう側面は影をひそめてしまいましたが、ユジャ・ワンの場合にはどうなるのか、これからも注目していきたいと思います。
そしてそのスクリャービンも素晴らしかった。
ロマンチックで「ベタ」な旋律から、神秘的でわけがわからないような和音を経て、すさまじエネルギーを発する情念の固まりまで。スクリャービンには実に多面的な表情があるわけですが、その表情の間を実に自由に行き来しているのですね。何か仮面を使い分けているというような不自然なところが全くない。ここにも、彼女の実力を感じました。
ハーンもそうでしたが、ヴィルトゥオーゾ的な演奏家は年齢を重ねていくうちに、それだけでは飽き足らずに自分の方向性を模索するようになる時期が遠からず来るのかもしれません。
ただ今日の演奏会を聞いて、たとえヴィルトゥオーゾ的な「売り」がなくとも、彼女にはいくつもの可能性が開かれているだろうな、ということはよくわかったので、彼女の将来が非常に楽しみです。
ちなみに後半の曲目は、演奏会の休憩時間中に変更が決まったようで、休憩時間終了後にそれがアナウンスされるという異例の事態。そういうところにも、「大物感」をぷんぷん感じます。
ラフマニノフ コレルリの主題による変奏曲
シューベルト ピアノ・ソナタ第19番
スクリャービン 前奏曲 ロ長調 op.11-11
前奏曲 ロ短調 op.13-6
前奏曲 嬰ト短調 op.11-12
練習曲 嬰ト短調 op.8-9
詩曲第1番 嬰ヘ長調 op.32-1
メンデルスゾーン(ラフマノニフ編)「真夏の夜の夢」からスケルツォ
サン=サーンス(ホロヴィッツ編)「死の舞踏」
ビゼー(ホロヴィッツ編) カルメン変奏曲
(アンコール)
ラフマニノフ ヴォカリーズ
モシュコフスキー 火花
グルック 精霊の踊り
モーツァルト(ヴォロドス編) トルコ行進曲
紀尾井ホール
ヴェルビエ音楽祭の映像で仰天してから三年以上、今か今かと待ちに待っていたユジャ・ワンのリサイタルでしたが、その期待をさらに上回るいい演奏会でした。
「熊ん蜂の飛行」に代表されるように、彼女がとにかくすさまじいまでに指が回る、ヴィルトゥオーゾ的な演奏家であることはよく知られていることですし、実際演奏会の終わり三分の一、メンデルスゾーンのスケルツォ以降はそういう彼女のすさまじい技巧の独壇場だったわけですが、実際ライヴで聴いてみると、確かにすごいとは思うけれど、基本的に予想の範囲内ではあって、それほど大きな驚きはありませんでした。今回目立ったのはむしろ、それ以外の側面。
一つは、ヴィルトゥオーゾ的であるにもかかわらず、表現に誇張や背伸びしすぎたところがほとんどないところ。
とくにシューベルトは本当に感心しました。
演奏する側に力みや衒いがあるとすぐにそれがばれてしまうのがシューベルトですが、若さ溢れる瑞々しい感性で、素朴かつ丁寧に歌い込んでいき、妙な「枯淡の境地」のような芝居がかった老成ぶりはいっさい見せない。
曲の表情が大きくなったり劇的になるところでも、必要以上に叩くことはせず、演奏内容が演奏者の小宇宙の中にきちんとおさまっている。
諦念や、抑制を超えてほとばしる激情など、そういう小宇宙を飛び出てしまうような要素は確かにこの演奏から聞くことはできないし、そういう意味では若さや「未成熟」を見せてしまっていると言えるのかも知れない。でも、そもそもまだ23歳なのだし、その経験の地平線の中で言えることをキチンと言うというこの姿勢こそが、まさにシューベルトと向かい合うときのあるべき態度なのだと私は思います。
そして何より、今後も順調に伸びていくだろうなという、伸びしろの大きさを感じさせる。
シューベルトがきちんと弾けるピアニストは個人的に大好きなので、この一曲だけで彼女に対する評価がぐんとアップしたところがあります。
二つ目の魅力は、時折見せるデモーニッシュな表情。
一時期のヒラリー・ハーンもそうでしたが、曲に潜んでいるブラックホールのような暗黒の情念に、ぐわーっと引き込まれていくような、あのぞくぞくする感覚。あれが、彼女の演奏には時々感じることができるのですね。一曲目のラフマニノフ然り、三曲目のスクリャービン然り。
ハーンの場合は年を重ねるごとに徐々に「自然体」へと移行していって、こういう側面は影をひそめてしまいましたが、ユジャ・ワンの場合にはどうなるのか、これからも注目していきたいと思います。
そしてそのスクリャービンも素晴らしかった。
ロマンチックで「ベタ」な旋律から、神秘的でわけがわからないような和音を経て、すさまじエネルギーを発する情念の固まりまで。スクリャービンには実に多面的な表情があるわけですが、その表情の間を実に自由に行き来しているのですね。何か仮面を使い分けているというような不自然なところが全くない。ここにも、彼女の実力を感じました。
ハーンもそうでしたが、ヴィルトゥオーゾ的な演奏家は年齢を重ねていくうちに、それだけでは飽き足らずに自分の方向性を模索するようになる時期が遠からず来るのかもしれません。
ただ今日の演奏会を聞いて、たとえヴィルトゥオーゾ的な「売り」がなくとも、彼女にはいくつもの可能性が開かれているだろうな、ということはよくわかったので、彼女の将来が非常に楽しみです。
ちなみに後半の曲目は、演奏会の休憩時間中に変更が決まったようで、休憩時間終了後にそれがアナウンスされるという異例の事態。そういうところにも、「大物感」をぷんぷん感じます。
2011年02月22日
ブリュッヘン/新日フィル 「第九」ほか
2011年2月21日
指揮:フランス・ブリュッヘン
ベートーヴェン 交響曲第8番
ベートーヴェン 交響曲第9番
ソプラノ:リーサ・ラーション
アルト:ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ
テノール:ベンジャミン・ヒュレット
バリトン:デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン
コンサートマスター:崔文洙
サントリーホール
今日はとにかく、非常に多くのことを感じたり考えたりした演奏会でしたが、思うままに列挙してみると、
(1)「第九」という曲に対する考え方、とらえ方を根本から覆された。これが一番の衝撃であり、今日最大の「成果」。
(2)第九の第四楽章、シラーの歌詞なんて今までまともに読んだことはなかったけれど、今日のブリュッヘンの演奏を聴いて、初めてじっくり熟読してみる気になった。
(3)同じく第四楽章、交響曲としてではなく、オラトリオ、あるいはある種のミニ・オペラとして捉えてみることで、別の世界が見えてくるのではなかろうか。
(4)第三楽章の天国的な美しさの背後にある、地獄の縁を覗くような絶望や孤独感を、今日の演奏で初めて感じることが出来た。
(5)「主体」の一体性、過度の論理的な一貫性という「近代の桎梏」とは別の世界が、バロック音楽にはあるということ。そして過渡期にあるベートーヴェンの音楽には、そうしたバロック音楽の「寛容さ」が実に数多く残存しているということ。そのことを、ブリュッヘンの演奏は余すところなく教えてくれた。
といったあたりになります。
だいたい第九の第四楽章というと、
「おお友よ! O Freunde」
「よろこび、それは神から発する美しい火花、楽園の使わす美しい娘 Freude, schoener Goetterfunken, Tochter aus Elyslum」
「すべての者は同胞となる Alle Menschen werden Brueder」
などなど、歓喜や人類愛に満ちあふれた超絶楽天的なフレーズばかりが印象に残りますが、実はよくよく歌詞を読んでみると、非常に冷静な、かなり突き放したようなものが紛れ込んでいるのですね。
「心の通じ合える真の友を得るという難しい望み」
「そうだ、この広い世の中でたったひとりでも心をわかちあえる相手がいると言えるものも和すのだ!
だがそれさえできぬものは、よろこびの仲間から人知れずみじめに去っていくがよい!」
友情だ平和だ人類愛だ・・・などという壮大な「きれい事」を人が口にせざるを得ないのは、実は友達をつくるということは非常に難しく、そして一人一人の人間が途方もなく孤独で絶望的なまでに寂しいことを自覚しているから。
第九という曲はただ単に脳天気に友情や人類愛を称揚する曲なのではなく、そうした人間心理や現実をきちんと見据えた上で、だからこそ人間はそうした結びつきを求めざるをえないのだという、そういう恐ろしいまでに地に足付いた曲なのではないか。それが今日のブリュッヘンの演奏からは至る所で伝わってきました。
たとえば第三楽章。天国的に美しい曲ですが、今日の演奏は背筋が凍るような美しさでした。
孤独に苦しむひとりぼっちの人間が、絶望の淵を崖から見下ろしているような。暖かさで人間をふわりと包み込むような、ロマンチックな演奏とは全然違う。
第四楽章でも、歓喜の旋律の中に時折ふとそうした孤独感・絶望感が顔をのぞかせ、歓喜に徹しきれない人間の有り様をグロテスクなまでに表現していたと思います。
孤独に苦しむベートーヴェンと、そうした苦悩を抑え込むような歓喜、躁的とも言えるようなベートーヴェン。その両者がくんずほぐれつ出たり入ったり。一人の人間の中の葛藤する要素が過度に整理されることなく交互に表出する様には、ロマン一色に染まった近代的なベートーヴェンとはまったく違うベートーヴェン像を見ることができました。
まるでオラトリオのように、ソリストが表情をたっぷりつけて歌い上げる独唱、あるいは一つ一つの単語を明瞭に発音し、もわっとした雰囲気の中へと解消してしまわない合唱団、いずれもそうした個別の要素をくっきりと浮かび上がらせ、曲の複雑な表情をありのままに提示することに成功していました。
ベートーヴェンをバラバラにするという意味では「ポストモダン」「脱構築」的な演奏と言えなくもないけれど、しかしラトルのように「バラバラにすること」自体に目的があるというよりは、曲がそもそももっていた多面的な表情をありのままに提示し、その多面性の中からベートーヴェンという人物像を間接的にふわりと浮き上がらせるような演奏であって、その意味で極めて自然で、また理にかなった演奏であったと思います。
こんな革命的で、かつ曲本来の表情に迫るような演奏に実演で接することが出来て私はとにかく興奮しているのですが、それを新日フィルという身近なオーケストラが実現してくれたというのも実に嬉しいことです。
いや〜、素晴らしかった。
指揮:フランス・ブリュッヘン
ベートーヴェン 交響曲第8番
ベートーヴェン 交響曲第9番
ソプラノ:リーサ・ラーション
アルト:ウィルケ・テ・ブルメルストゥルーテ
テノール:ベンジャミン・ヒュレット
バリトン:デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン
コンサートマスター:崔文洙
サントリーホール
今日はとにかく、非常に多くのことを感じたり考えたりした演奏会でしたが、思うままに列挙してみると、
(1)「第九」という曲に対する考え方、とらえ方を根本から覆された。これが一番の衝撃であり、今日最大の「成果」。
(2)第九の第四楽章、シラーの歌詞なんて今までまともに読んだことはなかったけれど、今日のブリュッヘンの演奏を聴いて、初めてじっくり熟読してみる気になった。
(3)同じく第四楽章、交響曲としてではなく、オラトリオ、あるいはある種のミニ・オペラとして捉えてみることで、別の世界が見えてくるのではなかろうか。
(4)第三楽章の天国的な美しさの背後にある、地獄の縁を覗くような絶望や孤独感を、今日の演奏で初めて感じることが出来た。
(5)「主体」の一体性、過度の論理的な一貫性という「近代の桎梏」とは別の世界が、バロック音楽にはあるということ。そして過渡期にあるベートーヴェンの音楽には、そうしたバロック音楽の「寛容さ」が実に数多く残存しているということ。そのことを、ブリュッヘンの演奏は余すところなく教えてくれた。
といったあたりになります。
だいたい第九の第四楽章というと、
「おお友よ! O Freunde」
「よろこび、それは神から発する美しい火花、楽園の使わす美しい娘 Freude, schoener Goetterfunken, Tochter aus Elyslum」
「すべての者は同胞となる Alle Menschen werden Brueder」
などなど、歓喜や人類愛に満ちあふれた超絶楽天的なフレーズばかりが印象に残りますが、実はよくよく歌詞を読んでみると、非常に冷静な、かなり突き放したようなものが紛れ込んでいるのですね。
「心の通じ合える真の友を得るという難しい望み」
「そうだ、この広い世の中でたったひとりでも心をわかちあえる相手がいると言えるものも和すのだ!
だがそれさえできぬものは、よろこびの仲間から人知れずみじめに去っていくがよい!」
友情だ平和だ人類愛だ・・・などという壮大な「きれい事」を人が口にせざるを得ないのは、実は友達をつくるということは非常に難しく、そして一人一人の人間が途方もなく孤独で絶望的なまでに寂しいことを自覚しているから。
第九という曲はただ単に脳天気に友情や人類愛を称揚する曲なのではなく、そうした人間心理や現実をきちんと見据えた上で、だからこそ人間はそうした結びつきを求めざるをえないのだという、そういう恐ろしいまでに地に足付いた曲なのではないか。それが今日のブリュッヘンの演奏からは至る所で伝わってきました。
たとえば第三楽章。天国的に美しい曲ですが、今日の演奏は背筋が凍るような美しさでした。
孤独に苦しむひとりぼっちの人間が、絶望の淵を崖から見下ろしているような。暖かさで人間をふわりと包み込むような、ロマンチックな演奏とは全然違う。
第四楽章でも、歓喜の旋律の中に時折ふとそうした孤独感・絶望感が顔をのぞかせ、歓喜に徹しきれない人間の有り様をグロテスクなまでに表現していたと思います。
孤独に苦しむベートーヴェンと、そうした苦悩を抑え込むような歓喜、躁的とも言えるようなベートーヴェン。その両者がくんずほぐれつ出たり入ったり。一人の人間の中の葛藤する要素が過度に整理されることなく交互に表出する様には、ロマン一色に染まった近代的なベートーヴェンとはまったく違うベートーヴェン像を見ることができました。
まるでオラトリオのように、ソリストが表情をたっぷりつけて歌い上げる独唱、あるいは一つ一つの単語を明瞭に発音し、もわっとした雰囲気の中へと解消してしまわない合唱団、いずれもそうした個別の要素をくっきりと浮かび上がらせ、曲の複雑な表情をありのままに提示することに成功していました。
ベートーヴェンをバラバラにするという意味では「ポストモダン」「脱構築」的な演奏と言えなくもないけれど、しかしラトルのように「バラバラにすること」自体に目的があるというよりは、曲がそもそももっていた多面的な表情をありのままに提示し、その多面性の中からベートーヴェンという人物像を間接的にふわりと浮き上がらせるような演奏であって、その意味で極めて自然で、また理にかなった演奏であったと思います。
こんな革命的で、かつ曲本来の表情に迫るような演奏に実演で接することが出来て私はとにかく興奮しているのですが、それを新日フィルという身近なオーケストラが実現してくれたというのも実に嬉しいことです。
いや〜、素晴らしかった。
2011年01月07日
謹賀新年
大変遅くなってしまいましたが、あけましておめでとうございます。
新年初っぱなから景気の悪い話で恐縮ですが、年末から新年にかけてなんとな〜く体の調子が上がらず、いまいちぴりっとしない日々が続いております。
ちょっと風邪をひいているのもあるんですが、昨年はいろいろと精神的に張り詰める時期が長かったので、疲れがどっと一気に出てきているのかしらん、とも思います。
昨年は、私にとっては非常に重要な一年でした。
十年来の最大目標であるところの博士号取得に、おかげさまでようやくこぎ着けることができました。
「やれば出来る子」を「座右の銘」としている私も、実際はほとんど「やらない子」であることが多く、いい加減な日々を送ることもままあったのですが、さすがにこの年くらいはやらなきゃしょうがないだろう、ということで、自分としては最大限に近いエネルギーを投入して、なんとか目標達成にこぎ着けた感じです。
年の頭から終わりまで、ほとんどフルパワーで目の前の課題をこなしてきました。珍しく。
ただあれですね。頑張ってみてわかったのですが、やっぱり「いざとならないとやらない」というのは、それなりの合理的根拠があるというか、自分を身を守るうえで結構大事なことなのかな、という気がしてきました。
こんなことを公言するのも何ですが、自分にプレッシャーをかけるという方法が、まったくもって向いてない。
短期的には最大限のポテンシャルを発揮できるかもしれないけれど、こんなの続けてたら心身ともに持たないわ、という。
フルパワーでブルドーザーのように成果を量産している人を見ると、この人達とは人間の出来方からして全く違うのでは、と思わざるを得ないわけですが。。。などと甘いことを言っていては、本当はいけないのかもしれませんが。
思えば、このブログを始めた頃は、毎日のように映画を見たり、新譜のCDの感想を書いたり、本の書評を書き散らかしたり、コンサート通いが頻繁だったりと、まあエネルギッシュな毎日でした。
まったくもって、生産的ではなかったかもしれませんが、今思えばとても楽しい日々であったような。
ああいう日々に戻ることはないでしょうが、このまま余裕がどんどんなくなっていくのは大変よろしくないなあ・・・とも反省しております。
もうちょっと、「生産性」とは違う次元の生活を大切にしなくては!
・・・ということで、新年早々ぐだぐだと書き連ねてしまいましたが、今年は、流行りの言葉で言うところの「ワーク・ライフ・バランス」というか、もうちょっと心の余裕を大切にする生活ができればよいなあと考えてます。
もちろん、個人的な一大目標もありますが、それはもし達成できたらお知らせするということで・・・。
今年もどうぞよろしくお願いいたします!
新年初っぱなから景気の悪い話で恐縮ですが、年末から新年にかけてなんとな〜く体の調子が上がらず、いまいちぴりっとしない日々が続いております。
ちょっと風邪をひいているのもあるんですが、昨年はいろいろと精神的に張り詰める時期が長かったので、疲れがどっと一気に出てきているのかしらん、とも思います。
昨年は、私にとっては非常に重要な一年でした。
十年来の最大目標であるところの博士号取得に、おかげさまでようやくこぎ着けることができました。
「やれば出来る子」を「座右の銘」としている私も、実際はほとんど「やらない子」であることが多く、いい加減な日々を送ることもままあったのですが、さすがにこの年くらいはやらなきゃしょうがないだろう、ということで、自分としては最大限に近いエネルギーを投入して、なんとか目標達成にこぎ着けた感じです。
年の頭から終わりまで、ほとんどフルパワーで目の前の課題をこなしてきました。珍しく。
ただあれですね。頑張ってみてわかったのですが、やっぱり「いざとならないとやらない」というのは、それなりの合理的根拠があるというか、自分を身を守るうえで結構大事なことなのかな、という気がしてきました。
こんなことを公言するのも何ですが、自分にプレッシャーをかけるという方法が、まったくもって向いてない。
短期的には最大限のポテンシャルを発揮できるかもしれないけれど、こんなの続けてたら心身ともに持たないわ、という。
フルパワーでブルドーザーのように成果を量産している人を見ると、この人達とは人間の出来方からして全く違うのでは、と思わざるを得ないわけですが。。。などと甘いことを言っていては、本当はいけないのかもしれませんが。
思えば、このブログを始めた頃は、毎日のように映画を見たり、新譜のCDの感想を書いたり、本の書評を書き散らかしたり、コンサート通いが頻繁だったりと、まあエネルギッシュな毎日でした。
まったくもって、生産的ではなかったかもしれませんが、今思えばとても楽しい日々であったような。
ああいう日々に戻ることはないでしょうが、このまま余裕がどんどんなくなっていくのは大変よろしくないなあ・・・とも反省しております。
もうちょっと、「生産性」とは違う次元の生活を大切にしなくては!
・・・ということで、新年早々ぐだぐだと書き連ねてしまいましたが、今年は、流行りの言葉で言うところの「ワーク・ライフ・バランス」というか、もうちょっと心の余裕を大切にする生活ができればよいなあと考えてます。
もちろん、個人的な一大目標もありますが、それはもし達成できたらお知らせするということで・・・。
今年もどうぞよろしくお願いいたします!
2010年12月02日
ブログ方向性迷い中
2005年の帰国時から、時間だけは長いこと続けてきたこのブログ。
最近は開店休業状態になっており、まとまったエントリーを書く時間も気力もなかなか確保できないことから、このブログを将来的にどうするべきか、いろいろ悩んでおります。
とりあえず思うところあって、ツイッターを実名化することにしました。その関係で、今までとは違う文脈の方々がいらっしゃることも考え合わせ、2007年7月以前、つまりベルリン再訪時よりも前の記事については、自分だけが閲覧できる状態へと変更させていただきました。まあ、とにかく恥ずかしい記事の数々なので。。。
ツイッターを1年くらいやってみると、改めてブログの良さ、いろいろ推敲しながら、好きなことを好きな分だけ思う存分書けるという長所に改めて気づかされます。まあ肝心な時間があまり取れないのですけれど・・・。
今後のブログの方向性については、リニューアルするかどうかも含めて、おいおい答えを出していきたいと思います。
最近は開店休業状態になっており、まとまったエントリーを書く時間も気力もなかなか確保できないことから、このブログを将来的にどうするべきか、いろいろ悩んでおります。
とりあえず思うところあって、ツイッターを実名化することにしました。その関係で、今までとは違う文脈の方々がいらっしゃることも考え合わせ、2007年7月以前、つまりベルリン再訪時よりも前の記事については、自分だけが閲覧できる状態へと変更させていただきました。まあ、とにかく恥ずかしい記事の数々なので。。。
ツイッターを1年くらいやってみると、改めてブログの良さ、いろいろ推敲しながら、好きなことを好きな分だけ思う存分書けるという長所に改めて気づかされます。まあ肝心な時間があまり取れないのですけれど・・・。
今後のブログの方向性については、リニューアルするかどうかも含めて、おいおい答えを出していきたいと思います。
2010年11月20日
インバル/都響 ブラ1ほか
指揮:エリアフ・インバル
一柳慧 インタースペース―弦楽オーケストラのための(1986)
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番
ピアノ:デヴィッド・グレイルザンマー
ブラームス 交響曲第1番
サントリーホール
コンサートマスター:四方恭子
本当に久しぶりに、「これぞドイツ音楽」というブラームスを聴いた気がする。
バッハ、ベートーヴェン、ブラームスという、「保守本流」の流れの中に確固としてあるものとしてのブラームス。
「精神的なるもの」への深い憧憬や、信仰と言っても差し支えないような崇拝ぶり、そして熱狂。その奥底にほのかに見える、禍々しくて危険な何かを含めて、「これこそがドイツ精神・文化なんだ!」と言わんばかりの、音楽に身を委ねているだけで何かドイツ・ナショナリストになってしまうかのような、そんな演奏だったと個人的には思います。
音楽を構造からがっしりと鷲づかみにするインバル・スタイルは、結局は「ドイツ的なるもの」そのものであるのかもしれず、21世紀を感じさせるラトルのブラームスとは極めて対照的。
だけれども、いくら時代が移り変わってもこうした音楽には不変(普遍)の偉大さがあるのだ、ということをどかんと、インバルから改めて叩きつけられたようで、感動とショックとを両方味わえた演奏会でありました。
個人的には、目の前に座っていた中国人の観客二人が終演後に熱狂していたのが、嬉しかったなあ。音楽には「普遍的」な力があるということを再確認させられる光景だったので。もちろん、お客さん全体も滅多にないような熱狂ぶりでした。
前プロの一柳作品も素晴らしい演奏。
もともとこの曲がどういう性格の曲なのかはまったく知らないけれど、インバルの知的で構造的な把握にかかると、ベルクを思わせるような、叙情性と構造性をどちらもきちんと兼ね備えた、「オーソドックス」な曲に聞こえるのです。
それにしても、都響の弦楽器セクションもうまいなあ。「くすんだ透明感」をあれほどクリアに提示できるとは。
一柳慧 インタースペース―弦楽オーケストラのための(1986)
モーツァルト ピアノ協奏曲第27番
ピアノ:デヴィッド・グレイルザンマー
ブラームス 交響曲第1番
サントリーホール
コンサートマスター:四方恭子
本当に久しぶりに、「これぞドイツ音楽」というブラームスを聴いた気がする。
バッハ、ベートーヴェン、ブラームスという、「保守本流」の流れの中に確固としてあるものとしてのブラームス。
「精神的なるもの」への深い憧憬や、信仰と言っても差し支えないような崇拝ぶり、そして熱狂。その奥底にほのかに見える、禍々しくて危険な何かを含めて、「これこそがドイツ精神・文化なんだ!」と言わんばかりの、音楽に身を委ねているだけで何かドイツ・ナショナリストになってしまうかのような、そんな演奏だったと個人的には思います。
音楽を構造からがっしりと鷲づかみにするインバル・スタイルは、結局は「ドイツ的なるもの」そのものであるのかもしれず、21世紀を感じさせるラトルのブラームスとは極めて対照的。
だけれども、いくら時代が移り変わってもこうした音楽には不変(普遍)の偉大さがあるのだ、ということをどかんと、インバルから改めて叩きつけられたようで、感動とショックとを両方味わえた演奏会でありました。
個人的には、目の前に座っていた中国人の観客二人が終演後に熱狂していたのが、嬉しかったなあ。音楽には「普遍的」な力があるということを再確認させられる光景だったので。もちろん、お客さん全体も滅多にないような熱狂ぶりでした。
前プロの一柳作品も素晴らしい演奏。
もともとこの曲がどういう性格の曲なのかはまったく知らないけれど、インバルの知的で構造的な把握にかかると、ベルクを思わせるような、叙情性と構造性をどちらもきちんと兼ね備えた、「オーソドックス」な曲に聞こえるのです。
それにしても、都響の弦楽器セクションもうまいなあ。「くすんだ透明感」をあれほどクリアに提示できるとは。
2010年11月02日
メッツマッハー/新日フィル 「悲愴」、ハルトマン6番ほか
指揮:インゴ・メッツマッハー
ブラームス 悲劇的序曲
ハルトマン 交響曲第6番
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
サントリーホール
コンサートマスター:崔文洙
あくまで個人的な憶測に過ぎませんが、今回のパンフレットに挟まれていた「2011/12シーズン速報」を見る限りでは、新日フィルの次期音楽監督にどうやらこのメッツマッハーが内定しているのではないかという気が、なんとなくします。間違っているかもしれませんが。
知名度的にも、「格」としても、新日フィルからすれば願ったりかなったりのレベルの指揮者でしょうし、現代音楽が得意で、指揮者に対する姿勢が柔軟という新日フィルの個性も、メッツマッハーと相性が良さそうではあります。
で、実際今日の演奏も非常にレベルの高いものであっただけに、このコンビならなかなかの成果が期待できるのではとも思うのですが、ただ正直なところ、今日以上のレベルの演奏は今後難しいのではという気もしています。
というのもこの指揮者、基本的に「バランス・タイプ」なんですよね。
パートの間の響きの分離、音量の出し引き、絶妙なテンポ設定、深めのパウゼなどなど、さまざまなテクニックを駆使して、丁寧に音を組み立てていく。
こういう理知的な指揮者に現代音楽を振らせたら、確かにそれはもう素晴らしいですし、今日のハルトマンには私も興奮させられました。
切れまくりのテンポ感、透徹した構築感、どんなに音楽がぐちゃぐちゃになっても決して失われることがない横の線。
このレベルの現代音楽演奏が日本のオケで聴けるということ自体驚異的ですし、D・ロバートソン、J・ノットなどと並んで、メッツマッハーもまた傑出した現代音楽指揮者なのだなということを、とことん思い知らされました。
で、悲愴は悲愴でまたこの「バランス・タイプ」をとことん推し進めた演奏で、いわば「シンフォニックな悲愴」といっても良いようなもの。
響きの表面をきれいに磨き上げ、パート・セクション間の響きをクリアに分離し、多くの声部を多層的に響かせる。
その結果出てくる音楽は、どことなく組曲風。
「悲愴」という一つのドラマを堪能するというよりは、バレエ音楽のように、次から次へと多様な情景が入れ替わり立ち替わりという感じで、もちろんだから悪いというわけではないし、音楽的な完成度は非常に高いのだけれども、しかし何かが決定的に欠けているという印象をどうしても拭えない。
もっと言えば、音や響きそれ自体に対する感覚はすごく優れているかもしれないけれど、音楽それ自体に内在する人間性とか、「超越的」な何かとか、そういう「音楽の奥底にあるもの」が、彼の演奏からはほとんど感じられない。
ハンブルクに彼がいたときから、私はずっとそう思ってましたが、今日もその印象を新たにしました。
確かに彼の振る現代音楽は素晴らしいし、プログラミングの面でも社会の注目を集めるようなことをよくやるけれど、ただ常任とか音楽監督になるとどうなのかな、というところが、どうしてもひっかかるのです。
ハンブルクにいたときも、目立っていたのは彼の音楽ではなくてコンヴィチュニーの演出だったし、ベルリン・ドイツ響の在任中に何か大きな足跡を残したかというと、そこは疑問が残るし。
そろそろアルミンクの後任を探す時期なのでしょうが、知名度や格などといった表面的なことに振り回されず、「伝えたい何か」をきちんともった情熱的な指揮者を選ぶよう、新日フィル好きの私としては切に願っております。
ブラームス 悲劇的序曲
ハルトマン 交響曲第6番
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」
サントリーホール
コンサートマスター:崔文洙
あくまで個人的な憶測に過ぎませんが、今回のパンフレットに挟まれていた「2011/12シーズン速報」を見る限りでは、新日フィルの次期音楽監督にどうやらこのメッツマッハーが内定しているのではないかという気が、なんとなくします。間違っているかもしれませんが。
知名度的にも、「格」としても、新日フィルからすれば願ったりかなったりのレベルの指揮者でしょうし、現代音楽が得意で、指揮者に対する姿勢が柔軟という新日フィルの個性も、メッツマッハーと相性が良さそうではあります。
で、実際今日の演奏も非常にレベルの高いものであっただけに、このコンビならなかなかの成果が期待できるのではとも思うのですが、ただ正直なところ、今日以上のレベルの演奏は今後難しいのではという気もしています。
というのもこの指揮者、基本的に「バランス・タイプ」なんですよね。
パートの間の響きの分離、音量の出し引き、絶妙なテンポ設定、深めのパウゼなどなど、さまざまなテクニックを駆使して、丁寧に音を組み立てていく。
こういう理知的な指揮者に現代音楽を振らせたら、確かにそれはもう素晴らしいですし、今日のハルトマンには私も興奮させられました。
切れまくりのテンポ感、透徹した構築感、どんなに音楽がぐちゃぐちゃになっても決して失われることがない横の線。
このレベルの現代音楽演奏が日本のオケで聴けるということ自体驚異的ですし、D・ロバートソン、J・ノットなどと並んで、メッツマッハーもまた傑出した現代音楽指揮者なのだなということを、とことん思い知らされました。
で、悲愴は悲愴でまたこの「バランス・タイプ」をとことん推し進めた演奏で、いわば「シンフォニックな悲愴」といっても良いようなもの。
響きの表面をきれいに磨き上げ、パート・セクション間の響きをクリアに分離し、多くの声部を多層的に響かせる。
その結果出てくる音楽は、どことなく組曲風。
「悲愴」という一つのドラマを堪能するというよりは、バレエ音楽のように、次から次へと多様な情景が入れ替わり立ち替わりという感じで、もちろんだから悪いというわけではないし、音楽的な完成度は非常に高いのだけれども、しかし何かが決定的に欠けているという印象をどうしても拭えない。
もっと言えば、音や響きそれ自体に対する感覚はすごく優れているかもしれないけれど、音楽それ自体に内在する人間性とか、「超越的」な何かとか、そういう「音楽の奥底にあるもの」が、彼の演奏からはほとんど感じられない。
ハンブルクに彼がいたときから、私はずっとそう思ってましたが、今日もその印象を新たにしました。
確かに彼の振る現代音楽は素晴らしいし、プログラミングの面でも社会の注目を集めるようなことをよくやるけれど、ただ常任とか音楽監督になるとどうなのかな、というところが、どうしてもひっかかるのです。
ハンブルクにいたときも、目立っていたのは彼の音楽ではなくてコンヴィチュニーの演出だったし、ベルリン・ドイツ響の在任中に何か大きな足跡を残したかというと、そこは疑問が残るし。
そろそろアルミンクの後任を探す時期なのでしょうが、知名度や格などといった表面的なことに振り回されず、「伝えたい何か」をきちんともった情熱的な指揮者を選ぶよう、新日フィル好きの私としては切に願っております。
2010年09月25日
ドミトリエフ/都響/S・ハチャトゥリアン ショスタコーヴィチ1番ほか
指揮:アレクサンドル・ドミトリエフ
シチェドリン 管弦楽のための協奏曲 第1番「お茶目なチャストゥーシュカ」
ハチャトゥリャン ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン:セルゲイ・ハチャトゥリアン
(アンコール)コミタス アプリコット・ツリー
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番
サントリーホール
今まで何回か聴いたドミトリエフの実演の中で、一番満足した演奏会かも。
のっけのシチェドリンが、びっくりするような名演。
最近日本でもちょこちょこ演奏されるようになったシチェドリンですが、そのコミカルな要素を強調することが多く、現代音楽というよりは「通俗寄りの作曲家」という印象が正直拭えないところがありました。
しかし今日のドミトリエフの演奏を聴いて、そういうシチェドリン観はもしかしたら間違いだったのでは、と思い知らされたところです。
基本的にインテンポで、粛々と音楽を進めていくドミトリエフ。
コミカルな要素をことさら強調することなく淡々と進めていくので、ちょっと物足りないかなと最初は思うのですが、真顔で言うギャグが面白いのと同じで、むしろ淡々としているからこそ際立ってくるコミカルな要素というものがある。
さらに粛々と音楽を進めていくと、コミカルさだけではなく、スケール感や諧謔性、グロテスクさや叙情性など、実に多面的な表情が次々と現れてきます。
シチェドリンってこんなに重層的な構造になっていたのか、と驚きの連続。
いままで聴いてきたシチェドリンは非常に一面的な、コミカルな側面だけしか見ていない解釈だったのだな、と気づかされ、ドミトリエフの確かな手腕に感服しきり。
見通しを確保しながら淡々と音楽を進める中で、音楽の重層性を露わにするというのは、基本的にショスタコーヴィチでも同じだったのですが、ただショスタコーヴィチの方が複雑さが格段に上であるため、第3楽章までは正直物足りないな、と感じることも多々ありました。
この交響曲第1番、若きショスタコーヴィチの才能爆発、溢れんばかりのアイディアや感性が次から次へと出ては消えという曲なので、やはり淡々とやるよりは、そうした「切れ切れ」な側面を強調してくれる演奏の方が聴いていて面白いし、刺激的。
ただ、そうやって「いいとこ取り」の演奏を一切せず、愚直に正攻法で演奏していく分だけ、いろいろなものがきちんと「積み重なって」いくところはまさに職人ドミトリエフならではなのでもあって、第4楽章になるときちんと昇華していく。
「この曲は、ショスタコがどうとか、ソ連がどうとか関係なく、既に古典音楽として確固たるレパートリーの仲間入りを果たしているのだ」とでも言わんばかりの、堂々たる正攻法の演奏で、曲そのものの価値を絶対的に信じているようなドミトリエフの指揮ぶりには、かなりの感銘を受けました。
他方、非常に期待していたセルゲイ・ハチャトゥリアンは、期待値が大きすぎたか、がっかり感は否めず。
ことこの曲に関しては、自分の中でオイストラフの演奏が理想像として断然確立してしまっているせいもあるんですが、今日の演奏を含めて、何を聴いても「ひ弱」なソロに聞こえてしまう。
特にトゥッティ。ドミトリエフ&都響は奥行きのある深い音を出しているにもかかわらず、ハチャトゥリアンは妙にせかせか急いだ、「弾き飛ばし」にも聞こえるような安定感のなさで、オケとあんまりマッチしていない。
オケが薄いところやソロは、相変わらず天才的な柔らかさ、まろやかさなんですけれどね。。。
アンコールのコミタスは天国的に美しかったし、このヴァイオリニストがすさまじい才能の持ち主だということはよくよく理解しているつもりですが、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲が彼に合ったレパートリーなのか、という点では、個人的には疑問符がつく演奏会ではありました。
もっとも観客のみなさんの反応は、熱烈そのものでしたが。
シチェドリン 管弦楽のための協奏曲 第1番「お茶目なチャストゥーシュカ」
ハチャトゥリャン ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン:セルゲイ・ハチャトゥリアン
(アンコール)コミタス アプリコット・ツリー
ショスタコーヴィチ:交響曲第1番
サントリーホール
今まで何回か聴いたドミトリエフの実演の中で、一番満足した演奏会かも。
のっけのシチェドリンが、びっくりするような名演。
最近日本でもちょこちょこ演奏されるようになったシチェドリンですが、そのコミカルな要素を強調することが多く、現代音楽というよりは「通俗寄りの作曲家」という印象が正直拭えないところがありました。
しかし今日のドミトリエフの演奏を聴いて、そういうシチェドリン観はもしかしたら間違いだったのでは、と思い知らされたところです。
基本的にインテンポで、粛々と音楽を進めていくドミトリエフ。
コミカルな要素をことさら強調することなく淡々と進めていくので、ちょっと物足りないかなと最初は思うのですが、真顔で言うギャグが面白いのと同じで、むしろ淡々としているからこそ際立ってくるコミカルな要素というものがある。
さらに粛々と音楽を進めていくと、コミカルさだけではなく、スケール感や諧謔性、グロテスクさや叙情性など、実に多面的な表情が次々と現れてきます。
シチェドリンってこんなに重層的な構造になっていたのか、と驚きの連続。
いままで聴いてきたシチェドリンは非常に一面的な、コミカルな側面だけしか見ていない解釈だったのだな、と気づかされ、ドミトリエフの確かな手腕に感服しきり。
見通しを確保しながら淡々と音楽を進める中で、音楽の重層性を露わにするというのは、基本的にショスタコーヴィチでも同じだったのですが、ただショスタコーヴィチの方が複雑さが格段に上であるため、第3楽章までは正直物足りないな、と感じることも多々ありました。
この交響曲第1番、若きショスタコーヴィチの才能爆発、溢れんばかりのアイディアや感性が次から次へと出ては消えという曲なので、やはり淡々とやるよりは、そうした「切れ切れ」な側面を強調してくれる演奏の方が聴いていて面白いし、刺激的。
ただ、そうやって「いいとこ取り」の演奏を一切せず、愚直に正攻法で演奏していく分だけ、いろいろなものがきちんと「積み重なって」いくところはまさに職人ドミトリエフならではなのでもあって、第4楽章になるときちんと昇華していく。
「この曲は、ショスタコがどうとか、ソ連がどうとか関係なく、既に古典音楽として確固たるレパートリーの仲間入りを果たしているのだ」とでも言わんばかりの、堂々たる正攻法の演奏で、曲そのものの価値を絶対的に信じているようなドミトリエフの指揮ぶりには、かなりの感銘を受けました。
他方、非常に期待していたセルゲイ・ハチャトゥリアンは、期待値が大きすぎたか、がっかり感は否めず。
ことこの曲に関しては、自分の中でオイストラフの演奏が理想像として断然確立してしまっているせいもあるんですが、今日の演奏を含めて、何を聴いても「ひ弱」なソロに聞こえてしまう。
特にトゥッティ。ドミトリエフ&都響は奥行きのある深い音を出しているにもかかわらず、ハチャトゥリアンは妙にせかせか急いだ、「弾き飛ばし」にも聞こえるような安定感のなさで、オケとあんまりマッチしていない。
オケが薄いところやソロは、相変わらず天才的な柔らかさ、まろやかさなんですけれどね。。。
アンコールのコミタスは天国的に美しかったし、このヴァイオリニストがすさまじい才能の持ち主だということはよくよく理解しているつもりですが、ハチャトゥリアンのヴァイオリン協奏曲が彼に合ったレパートリーなのか、という点では、個人的には疑問符がつく演奏会ではありました。
もっとも観客のみなさんの反応は、熱烈そのものでしたが。