October 13, 2006

インターネットって言うのは「表現の自由」のありかたを本当に大きく変容させたね。

人類の起源以来のスパンでみても、個人が直接に情報を提示できるという現在の状況は本当に特異なことだと思う。私人がアップロードした情報だとしても、何らかの事情(2ちゃんねるで紹介されるとか)によって万単位のアクセスを受ける事もあるわけで、例えば俺がここにこんなしょーもない文章を書いているけれども、もしかしたらこれが大きな注目を浴びる可能性もある。

こんなアホらしい文が注目されるのならば別に害はないけれど、自己または他人の個人情報や内輪向けの写真、機密事項などが意図せざる形(自己のミスや、何者かの手によって)でネット上に掲載された場合は、それこそ迫害とも言えるような事態になることが頻繁にある。対象物の問題性の高さに比例して注目は集まってしまうのが世の常であるから、まっとうな情報よりも、威勢だけ良いようないいかげんな情報や倫理上法律上問題があるような情報の方が、より多くのアクセスを受ける。(「思想の自由市場」とはもしや、「情報の受け手の下世話な覗き趣味に奉仕する情報の需要が高く、そのような情報が生きのこる」というイミだったのだろうか…。)

インターネット以前の世界では、一般人が直接に表現する方法というのは限られていたし(街角で演説するとか、知り合いに話すとか)、それに大きな注目が集まるというのはごく稀であった。影響力のある(注目される)意見というのは、一定の限られた者が発するものがほとんどで、かつその多くも各種媒体を通じてなされ、その段階で通常は一定の歯止めがかかっていた。それがインターネットでの表現においては、歯止めとしての機能は発信者の倫理性にのみ依存する。そしてその「倫理性」も、いわゆるネットの匿名性ゆえ、一種の麻痺状態に陥っている事が多い。

このような「場」をこのまま存置する事にどれだけの意味があるのだろうか、と疑問になってしまう。たしかにネットは便利で、既に社会的なシステムとして確固たる地位を築いてしまっているために、現実的に考えれば今更これを無くしてしまうことは不可能であるけれど。

なんでこんな事を書いたかというと、知ってる人は知ってるかもしれないけれど、数日前に、「ファイル共有ソフト経由で進入したウイルスによって、某男性のパソコンからその彼女の全裸写真等(もちろんプライベートなもの)がネット上に流出してしまい、かつ、その女性がmixiに登録していた関係で出身校が判明し、何者かによって高校の同窓コミュニティにその写真が貼り付けられた」という事件が起きたという報道があったんです。

この被害者の女性は実際にこの国のどこかで暮らしているわけで、それもつい数日前までは俺と同じようないわゆる「普通」な暮らしをしていたはず。それが今や、少し外を歩くだけでも恐ろしく、怯えたような気持ちになってしまっているのではないだろうか…。

こういう筆舌に尽くしがたい卑劣な暴力が大規模かつ容易にできてしまうような装置を残しておく意味はあるのだろうか、と本当に考えてしまう。

もちろん多くの人はネットをマトモに使っていて、それが表現の場を与えているという点でいわゆる表現の自由に資するといえるのかもしれないけれど、その便利さがこのような信じがたい犠牲を伴うならば、このようなモノをただ歓迎するわけにはいかない。

(22:56)