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アーティストがどれだけ展示作品選択の権限を持つ事がこの公立の美術館でできたかは皆さんが美術館に来て確認していただければと思う。(※1)平川典俊

先月群馬県立近代美術館ではニューヨーク在住のアーティスト平川典俊の国内初となる回顧展「木漏れ日の向うに」が開催された。1988年から平川氏は作家活動を開始しているが、正規の美術教育を受けたことは一度もない。90年代に活動の拠点をニューヨークに移してからは、世界各国と日本を行き来するなかで、彼は国家間における社会的文化的差異を前提として人と社会、私的と公的な中に存在する不可視の部分(※2)やタブーを様々なメディアに具現化し提案する(※3)という立場をとってきた。
これら平川典俊の作品(提案)には時にセクシャリティの問題が含まれていることもあり、鑑賞者に憤慨、拒絶、不快といった感情をしばしば与えてきたことは周知のことだろう。その見方によっては従来の芸術観では到底受け入れ難い、アート界の許容範囲をはるかに凌駕してしまうかのような作品をその都度発表してきている。そのため作品自体が十分な発表の場を与えられることなく今まで世界中を浮遊しているといった感が多少なりともあったのは事実だが、この度群馬県立近代美術館の尽力もあってようやく大規模な回顧展を開催することができたといえるだろう。

しかしこの冒頭に挙げた平川氏の言葉は悲痛な嘆きのような気がしてならない。というのは結果として今回の回顧展が美術館(国内だけではなくて世界も含め)という作品発表の場としての限界を美術館自らが提示してしまったような気がするからである。少々過激な言い方をするならば展示後の議論や批判を恐れるあまり、展示に関わる美術館側が作品選定の主眼を見誤り保守的になった。その結果、展覧会自体のメッセージ性が軟化し、物足りなさだけが残ったのではないか。今回の回顧展を通して感じたことは作品そのものの良否よりも、”作品と場の不穏な違和感”つまり”作品とそれを展示、発表する空間としての美術館のあり方とその制度”に私は非常に興味を惹かれることとなった。


こうした美術館に対する疑念がいっそう私の中で顕在化していくきっかけとして、5月19日に実施された平川典俊自身によるフロアレクチャーを拝聴したことがその一端にある。このとき私は、いかに世界中の美術館が彼の作品の扱いに苦慮し、嫌煙しているのか、という実状を直接聞くことができた。



いくつか例を挙げるならば、街頭で上半身裸の女性の写真と男性性器の写真を並列することで制度的な抑圧の解放、性というものの絆の重要性、また世代継続における伝統文化の継承を問題として提出した「生きていることの表徴 AN ATTRIBUTE OF LIVING」というシリーズでは残念ながら男性性器の写真を今回展示することができなかったという。

HAM_AnAttributeOfLiving_Mayuko
AN ATTRIBUTE OF LIVING生きていることの表徴
Mayuko / Sasazuka 3-Chome, Tokyo / 11.10 A.M., December 22th, 2007
2008, Ilford RC DIgital Courtesy Gallery HAM




またスイスの飛降り自殺の名所をその自殺者の視点から撮影した写真のシリーズ「S」も、世界有数の観光立国でありながら自殺者数が意外と多いという負の側面、さらに国民のほとんどがキリスト教(ほとんどがカトリックとプロテスタント)という意味で自殺が禁じられている。こうした理由により本国スイスでの展示(Centre d'Art Neuchatel/1997)は1度だけでそれ以後は断られている。

MOT_S_Rheinfall
S  Rheinfall Eisenbahnbrucke Laufen, SH 1997, gelatin silver print
Coutesy WAKO WORKS OF ART
Collection of Museum of Contemporary art Tokyo 東京都現代美術館所蔵作品




さらに19世紀のアメリカ大統領アンドリュー・ジャクソンがキリスト教の神意をうまく利用し、原住民であったアメリカインディアンを迫害、追放していき現在のアメリカ建国精神の土台となった史実をもとに、それとはまた別のパラレルな視点から新たなアメリカの神話的フィクションを提示した「青ざめた神意 PALE DESTINY」。
このシリーズのなかの「シッティング・ブル」は自由の女神であるコロンビア(ネーミングはあのコロンブスからきている)が売春婦としてインディアンで銀行家の男をウォール街で誘惑しているというシチュエーションを作品化した、いわゆるコンストラクティッド・フォトである。これも宗教上の問題を孕んでいるためニューヨークのMOMA、そしてロンドンのバーミンガム美術館では展示を断られているという。


MARS_PaleDestinty_SittingBull
PALE DESTINY : Sitting Bull 青ざめた神意 : シッティング・ブル
2006, Duraflex print Courtesy MARS GALLERY



さらにさらに下着を湿らせた女性が股を開いて視線をこちらに投げかける写真シリーズ「魂の本質」も全8点の内最終的には1点のみの展示となった。(※4)

平川氏のレクチャーは自身の作品とそれを展示する側の排他的な関係性を露見させた。彼は自身の職業を「アート界の奴隷」と言い周囲を笑いに包んだが、あながち間違いとは言えない。なぜならアーティストたちは美術館という公的な場所においては、その国の国益を守るために奉仕している、あるいは利用されているようなものだからだ。反する者には発表の場は与えられず、美術館はこうして作品の純度を消散させる障害物となり、我々鑑賞者と作品の間に立ってただ邪魔をするだけだ。


「美術館は『死』の場所だ。だからその街の『生』に関わる必要のない観光客しか訪れない」(※5)レス・レビーン


つづく




※1:平川典俊『木漏れ日の向うに展覧会図録』,美術出版社,2012,(BookA000-2ページ)
※2:展示作品を前にして平川氏は「実際写っているものではなくて、見えない部分を観る者は見ている。そうした見えない部分が実際のアートであって、頭の中で個々人の想像のなかにアートが存在している」2012年5月19日フロアレクチャーより。又「芸術の創造は、それを見る者によって完成させられなければならない、見る者は、想像力によってそのアートを完成させる」『木漏れ日の向うに展覧会図録』,美術出版社,2012,BookB(P35)
※3:「強要したり、お金でモデルになってもらっているわけではない。ある種の共犯関係というか共同作業ですよ。作品の意味を理解してもらう。基本的に僕は提案(プロポジション)しているわけですから。中略~僕の場合は、状況をこう設定すれば、あるいは組み換えれば、文化はこう変わっていくと提案しているんです。」
平川典俊『美術手帖1997年6月号』「アーティストであること、フェミニンであること」,美術出版社,1997,P64
※4:「魂の本質」は開催直後は全8点でスタートしたものの、日を追うごとに館長の指示によって撤去され最終的に1点だけが残ったという。
※5:Les Levine『木漏れ日の向うに展覧会図録』,美術出版社,2012,(BookA000-P2)

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