インド

コーヒーと苦瓜

SDC10590南インド、チェンナイのビーチ

チェンナイへは仕事がらみで行った。
チェンナイからバスで8時間ぐらいのコインバトールで、立ち上げたばかりの日本語学校で1週間モデル授業やインド人の教師志望者の養成のようなものをやった。コインバトールでは、学校を立ち上げた30代半ばのインド人女性の実家でホームスティをさせて頂いた。お父様は南インドの歴史研究者で、日本の大学とも関係が深い。ご夫妻は60代後半だったが、70年代から80年代にかけて何度かの滞日経験があり、日本語もそこそこ話せた。日本の大学で教鞭をとった筈のご主人より、家庭の主婦の奥様の方が日本語をよく覚えていた。19で結婚してすぐ日本へ連れて行かれ、お世話をしていただいた日本人のインド研究者の奥様にインド料理の作り方を教えて貰ったのだと笑っていた。私が滞在中もご主人は書斎に籠もりっきりで、食事の時間以外はほとんど会話らしいものをしなかったが、結婚してから50年ずっとそうなのだと、これも半分嘆きつつ、笑いながら話してくれた。年齢を感じさせない、無邪気で明るい人だった。好奇心は旺盛だが、押し付けがましくない。きっとそういう風に、異国の地でも仕事で忙しいご主人をよそに、独自ののネットワークを作って行ったのだろう。だからこそ、耳だけで覚えた日本語を30年経った今も、忘れずにいるのだろう。
 時々、お嬢さんの嫁ぎ先やレストランで食べることもあったが、ほとんど三食3人で食卓を囲んだ。初日の朝に、「コーヒーはどうしますか」と聞かれたので、「ブラックでお願いします」と答えたら、「ブラックコーヒーは作ったことがないので、作り方を教えてくれ」と言う。台所へ行ってみると、紙も布も使わずに、細かい網目の金属で落としたコーヒーが、円筒形の容器に7,8cm位入っていた。これが一日分なのだと言う。ブラックコーヒーの作りかたの伝授というほどのこともなく、鍋にお湯を沸かしてコーヒーを入れた。コーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れて、思いっきり攪拌して飲むのが南インド方式だ。翌日からは、南インド方式をお願いした。最初は甘さに戸惑ったが、慣れてくるとチャイと同じで病みつきになる。旅行中は、日に、4,5杯飲んだ。たまにコーヒーが薄い店があると、もう少し加えてくれとお願いすると快く足してくれた。
 奥さんと食べ物の話をしているときに、苦瓜の話題が出た。「一番好きな野菜だ」と言うと、びっくりされた。「主人の好物なので、毎日食卓に載せるが、日本人のお客様がいるから我慢して貰っていた」のだと言う。翌日から、毎日苦瓜が食べられた。

 コインバトールの後、Ootyで数日過ごし、チェンナイへ行った。デリーの関連校があり、2泊してクラスを見学させて貰った。ビーチへは、バスの行き方を聞いて一人で行った。南インド出身のインド人が盛んに薦めてくれた。広い砂浜だったが、芋の子を洗うようだった。波が高く、とても泳げる海ではないと思ったが強者が何人かいた。そのうち、警棒を持った警官の団体がやってきて、片っ端から追い出して行った。泳いでいる人だけでなく、波打ち際で寛いでいる人にも警棒の雨が降った。容赦のない叩き方だった。おそらく遊泳禁止なのだろう。

幸せなら手をつなごう

SDC10568それ程古い遺跡ではない。せいぜいが100年位のものだろう。ガイドブックにも載ってないし、名前もない(あるいはあるのかも知れない)。南インドのCunnorで、ホテルの裏道を散歩しているときに、木立の開いた隙間に見えた。車道から、数分。行ってみると、クルタを着たおじさんが若い子に指図をしながら、のんびり地均しをしていた。挨拶をすると、そこにホテルを作るのだと熱く語ってくれた。これはこのまま残し、一番見晴らしの良いポイントにはレストラン、斜面のあちこちにはバンガロー風の部屋を建てる。一遍には無理だが、とりあえず秋頃までには、レストランと小さなバンガローをオープンしたいと思っている。
 
 みんなが薦めてくれたOotyの雑駁さに嫌気がさして、朝一のToy Trainに飛び乗った。Cunnorの駅で降りて、オートを捕まえ、ガイドブックに載っていたホテルに向かったが、0が一桁違っていた。名のあるホテルだったので、おかしいなぁとは思っていたのだ。とりあえず平静さを装って部屋に案内して貰った。やはり違うものだ。部屋の作りも調度も中庭も。ほんの少し思いを残しつつ、応対のマナーのすばらしく出来ているフロントに、正直に予算が合わないことを告げて辞した。その日は一日、オートの運ちゃんにCunnorの名所を案内して貰いつつ、色々なホテルに連れて行かれた。普段はそれ程ホテルに拘る方ではないのだが、その日はどのホテルにも頷けなかった。オートで名所を回っていることが楽しかったし、OotyからCunnorに来る途中に見えた駅が気になってもいたのだ。とても小さな駅で、そこなら静かにのんびり過ごせそうだった。オートの運ちゃんにその駅にも連れて行って貰った。駅の近くで地元の人にホテルの場所を聞くと、その先をずっと下った所にあるという。行ってみると、そこはホテルではなく、分譲マンションだった。結局、その駅にはホテルがないことが判明し、Cunnorに戻った。もう、夕暮れ近かった。運ちゃんは、疲れたような諦めたような顔で、最後に「YWCA」に連れて行った。とても素敵なロケーションだった。建物も小さくて古かったが、コロニアル風で素敵だった。おそらくYWCAでは、運ちゃんはマージンが貰えなかったのではないかと思う。
 部屋はシングルベッドで200ルピー、運ちゃんには言われるがままに800ルピー払った。そこに3泊ぐらいして、バスやToy train、オートを使って近くの名所を回った。Ootyの植物園、一番高いポイントにも行った。

 今日はクラスが2つ。「みんなの日本語Ⅱ」の48課と27課だ。「幸せなら手をたたこう」を8番まで打って、プリントして上げた。喜んでくれた。オリジナルの最後がどれかはわからないが、私の好みで、「手をつなごう」にした。
 
 幸せなら手をつなごう 幸せなら手をつなごう 幸せなら態度でしめそうよ そら みんなでてをつなごう

デリーからの便り

SDC12713昨日早朝、地獄のデリーに戻りました。40度超の熱風はしんどしんど。外に出たくない。Manaliを夕方の4時に出て、デリーに翌朝6時に到着。いやー、それにしてもバスの運ちゃんはすごいですね。よくもまあ、緊張感が持続するもんだ。あんな急峻な谷を飛ばすわ、飛ばすわ、見晴らしのきかない曲がりくねった山道を追い抜くわ、追い抜くわ、前のトラックを。しかも、15時間を一人で運転。途中夕飯休憩(30分)と、夜中にチャイ休憩(15分)を除いてはNon-stopですよ。人間業じゃないです。

それにしても、Manaliは良かったです。Manali自体(主にはBashisht村)も、Manaliの周辺の村々も。何回でも訪れたい感じ。Seasonの初めで、Touristがまだ少なかったのも幸いしたかも。やっぱ、自然が美しいってのは、心が洗われますね(とても、俗っぽい表現ですけれど)。温泉があるのもいいし。(いい、お湯でしたよ。パンツをはいたまま入るのはちとですけれど。おっぱいは見せても、パンツはどうしても譲れないらしいです。男風呂もそうらしく、日本人の男の子がパンツを脱ごうとしたら、怒られた、と言っていました。パンツはいたままだと、どうしてもお湯が汚れてしまう、と日本人は思ってしまうのですけれど)。Bashisht村だけでなく、周辺の村々にも結構温泉が沸いているらしいです。その温泉に、毎年一回、周辺の村々の人々がそれぞれの神様を担いで(当然楽隊付き)、温泉に入れにやってくるそうです。私も一つ出くわしました。(村々、一軒一軒の家、それぞれにそれぞれの神様がいる、と、Trekkingのガイドが言っていました)。

最後の日に、Manaliから25キロの距離にあるNagarという村に行ってきたのですが、その帰りに道端で、村の結婚式に出くわしました。花嫁花婿が結婚式を執り行っているその横で、伝統衣装に身をつつんだ男女がFolk Danceを踊ってました。なんだか、アイルランドのFolk Danceのような衣装と踊り。面白かったです。結婚式の儀式では、まだ生暖かい牛糞に若木を挿して、それに赤い紐を結んで、花嫁と花婿がその糸の端を手にもってぐるぐる回っていました。インド人にとっては、牛糞はとても大切な、効用のあるものらしいです。ヒンディー語の先生も盛んに話していました。牛糞で作った倉庫は虫がわかないし、涼しいし、、、。そのNagarは、この地方のCapitalだったそうで、伝統的な作りのお城が残っているし、ロシア人の画家で、哲学者で、文化人類学者で、、、の、Nicholas Roerichという人の美術館が有名です。主に、山の絵を描いています。ニューヨークにも美術館があるそうなので、ネットで調べたら必ずヒットするかも。ここもなかなかGoodでした。Nagarの近くの村々に、他ではほとんど見られない伝統家屋の家々がたっぷり残ってました。何よりも、景色です。山間部の村はいいですね。Tourist Seasonが一段落する7月ごろにもう一度、ぜひ来よう、と思ってしまいました。レー・ラダックまで、村々で途中下車しながら登って行く。いやー、想像するだけで、心が躍ります。
そうそう、Manaliはレー・ラッダクへの入り口です。空路で入ることもできるのですが、高度に徐々に順応したい人は、大体がこの経路で行くみたいです。山を一個越えるごとに、伝統文化が少しずつ変わるようです。(衣装やなんか)。ただ、この経路は、6月中旬にならないと、完全開通しないようです(雪に阻まれて)。高度5000M近くの道もバスが登るようです。(すごいですね)

Daramushalaで1日、Manaliでは2日トレッキングをしました。もう、ひざは完全回復。エベレストでも登れそうな勢いです。少しずつ慣らしていけば、高度も何とかなりそうですし。Manaliでの最初のTrekkingは、りんご畑を縫いながら、のんびり散歩。以前は米作が多かったそうですが、今ではすっかりどこもかしこも、換金作物のりんご畑に変わっていました。(花の頃はきれいだろーな)。とにかく、3時間も4時間も、ずっと延々、りんご畑が続きます。
2回目のTrekkingは、3300Mのポイントまで。Manaliで働いている人たちはよそ者(インドの他の地方から。ネパールから)がほとんどで、情報を収集するのに苦労しました。ネパールと違って、Trekkingはインドではあまり流行ってないようです、Touristの間でも。Agencyを何軒か当たって、やっとピンポン!これが大当たりでした。今までで、一番のガイドさんをヒットしました。イケ面で、ピュアで、逞しくて、親切で、頭が良くて、、、すっかり恋に落ちてしまいました。あと20年若返れたなーと、心の底から思ってしまいました。
ともあれ、Lomadughというポイントまで行ってきました。登りも下りも人っ子一人行き会わず、途中にチャイ屋もなく(Dharamshalaでは、2,3キロおきにチャイ屋がありました)、ひたすら杉と松と、ヒマラヤと高山植物と。ピンクと紫の桜草がとても綺麗でした。その3300Mのポイントではまだ雪が斜面を覆っていて、その下の湿地がピンク色で染まってました。花の形は良く似ているのですが、紫の桜草は斜面の水のないところに、ピンクの桜草は湿地帯に咲いてました。登りのときはそれほどでもなかったのですが、下りは一面の花畑。3300Mのポイントで、2,3時間昼寝をしている間に、一斉に開花したようでした。いやー、もう、筆舌に尽くせない、とはこういうことなんだなー、と思いました。しかも、その風景を独り占めなのですから、あんな贅沢なことは、たぶんもう2度とできないかも。

地獄のデリーに戻って、ヒンディー語の卒業式(無事にDiplomaをGet。成績は不本意でしたが)、日本語のクラスを一つ、そして、一夜明けても、まだナンだかふんわかした気分です。もう、南はどうでもいいな。もう一度、そこに戻って、インドの山を満喫したい。
デリーに戻ったら、メキシコの「豚インフルエンザ」の話で盛り上がっていました。何だい、そりゃ、って感じですが、人から人への感染は恐いですね。また。
2009年4月30日

ダラムシャラーからの便り

SDC12649
アムリトサル~ダラムシャラー~マナリーの旅は、5月ではなく4月だった。4月23日に、友人に一斉送信したメールが残っていたので、以下転載。写真は、7月のKazaからManaliへの道のり。雪解け水がザァザァ川のように流れている箇所がママあった。


皆様、お元気ですか?
17日にヒンディー語の最後の試験が終わりました(結果は30日)
19日にデリーを出発して、Amritsuarに2泊(黄金寺院はなかなか良かったです。)、それからDharmshalaにやって来ました。今回は全部バスでの移動です。(電車の切符が取れなかったので)。
でも、バスはいいですね。行き当たりばったりで、気持ちの赴くままに移動ができます。
いつもは移動の時間が惜しくて、だいたい深夜バスや寝台電車を使っていたのですが、今回はあえて、昼間のバスです。風景そのものが見所なので。特に、Himanchar Pradeshに入ってからがすごいです。インドはなんて綺麗なところなんだろう、と改めて再発見しています。もっと早く、インドの山地に来れば良かった。(山ならネパール、遺跡ならインドと無意識に振り分けてしまってた)
 今日は、Daramshalaから、更にバスで降りて、それから登って、近くの町のKangraという所へ行って来ました。Tourist Informationで貰ってきたパンフレットに「Astounding Beauty」と書いてあったので。町自体は何の変哲もない、普通の町ですが、町をちょっと外れたところの景観たらっ!!深い谷と針葉樹の新緑。町からちょっと離れた所に、古いFortがあります。「地球の歩き方」には乗っていない町だし、貰ってきたパンフレットも詳しいことは書いてないのでどの位古いのかわかりません。ま、外壁しか残っていないFortですが、山の天辺にあります。そこからの眺めったら!!
今まで見たFortからの眺めで最高の、思わず一人で「すごいなあー」と何度も声を上げてしまった位の美しさ。(幸い、その時にFortにいたTouristは私一人でしたので、誰にもきかれませんでした)。
デリーから、Amrisuarまでは、同居人さんとずっと一緒に行動していたのですが、Dharamshalaに入ってから、二人の興味がまるきっり違う方向に行ってしまって、 彼女は避暑地をのんびり楽しみたい人(レストランでのんびりしたり、お店を冷やかしたり、私は山道へ山道へと誘われてしまうタイプ)Dharamshalaでは夜一緒にご飯を食べる以外は一緒に行動できなくなってしまって、今晩彼女は、一足先にマナリーに旅立って行きました。(私も2,3日後に合流する予定)。
私がDharamshalaに残っている理由は、Trekkingをしたいからです。氷河ギリギリのところまでなら日帰り(10時間位)で可能らしいので、昨日はさっそく靴やら何やらを買い揃えました。ただし、初日に滝を見に行ったり、何やらで、ちょっと膝を痛めてしまった、今は様子を見ています。明日一日様子を見て大丈夫そうなら、行きます。ダメなら、諦めてマナリーへ。

そうそう、昨日の晩、去年のオリンピックのボイコット運動で逮捕され、10年から死刑までの判決を受けた三人の若いチベット人女性の釈放運動で、「Candle March」と言うのを、Dharamshalaの町から、ダライ・ラマの公邸まで歩く、というのに参加しました。「湖」を見に行った帰りに会ったチベット人(インドで生まれ育った)の学生から話を聞いて、成り行きで参加することになってしまったのですが、 世界のどこかで、ああいう若い女の子たちが、牢獄に繋がれてしまっているのだということを考えるのは辛いですね。

とりとめもない、話になってしまいました。
Dharmshalaの夜は早いです。土産物屋は8時前に、レストランは9時ごろに閉まります。Barは遅くまでやってるみたいですが。 このネットカフェも、私一人です。21:50。 なので、帰って寝ます。今日から、二人分の布団を占有して暖かくして眠れるぞー(Dharmshalaの標高は1900M、夜は寒いです)。

29日にデリーに戻ります。

ダラムシャラー、トリウンドのトレッキング

SDC11475アムリトサルで2泊した後、ダラムシャラーへ。ダライ・ラマのお膝元であるマクロガンジで宿をとったが、そこで私と同居人さんとは趣味が分かれた。同居人さんはリゾートでは、のんびりした時間をレストランで過ごし、ゆっくりお店を冷やかして回るタイプ。私はダラムシャラーの背後に聳える山を見たとたんに足が疼いてしまった。トリウンド(2840M)という絶好のトレッキングポイントがあることを知り、その旅では想定してなかったトレッキングの為に、早速靴と帽子を購入。翌朝、早起きして足慣らしの為に、Bhagsu村の先の滝まで一人で出かけた。滝の往復だけにしておけば問題はなかったのだろうが、その先を登る人がいるのを見て、ついつい後をついて行った。滝の上を回り込んで更に登った所に、一軒の茶屋。沢山の石ころに子どもっぽい絵が描かれていた。その茶屋の主の趣味なんだろう。
 デリーでダラダラ4年も過ごしたつけが来て、久しぶりの岩歩きで足を痛めてしまった。仕方がないので、のんびり足を休めようと思ったが、ダラムシャラーはつまらない町だ。近隣の情報を仕入れに観光案内所へ行った。そこで某ガイドブックのライターさんに出会う。お昼を一緒にする約束をして宿に戻る。同居人さんと三人で昼食を済ませた後、アスファルトの道をひたすら登って、ヒンズーの聖なる池、ダル湖まで散歩。ダル湖は、犬が干上がりかけた水に飛び込んで、バシャバシャしている魚を銜えるパフォーマンスを見せてくれる以外は、何の変哲もない湖だった。帰りは山道を通って行くことになったが、チベット人の子どもたちの宿泊所付きの学校を過ぎると、道がよくわからなくなった。その学校に友人を訪ねて来たという二人の少年が、水のパイプを辿って行けば自然に村まで着くからと教えてくれた。結局、少年たちは村まで道連れになった。一人はこれから軍に入隊し、一人は坊さんの修行をするのだと言った。まだ10代の半ばぐらいだった。
 翌日とその次の日は、観光案内所で貰ったパンフレットを頼りに、カーングラと絶えることのない火が燃えているというヒンズーの聖地をバスで回った。Kangra Vallyは北インドの最も美しい谷の一つだと書いてあった。確かに、Kangra Fortから眺める谷は胸がいっぱいになるような、美しさだった。そして、訪れる人の少ないFortもまた、美しい緑の谷を眼下に見下ろすという相乗効果と相まって、やはり気持ちがいっぱいになった。名前は忘れたが、絶えることのない火が燃えているお寺は、ヒンズーの聖地がどこでもそうである様にザワザワしていたが、そこに至るまでの高原には途切れ途切れに村々が静かな佇まいを見せてくれた。
 マクロガンジに戻って、ツーリストで翌日のトレッキングのガイドの手配をした。ダラムシャラーを満喫した同居人さんは、その夜一足先に、マナリー行きのバスに乗った。
 翌日、ガイドを伴ってトリウンドへ。Bhagsu村と、地元の人がイスラエル村と呼んでいる、イスラエルの旅行者が何ヶ月も泊まって毎夜パーティーをするという村を抜けると、後は単調な登りがずっと続く。1キロおきに茶屋があり、迷いようのない道だと思ったが、山の天気の急変で亡くなったヨーロッパ人がいたという。4時間位の登りだったと思う。トリウンドは広々した草の原で、目の前にヒマラヤの眺望が広がっている。ダールの昼食を済ませた後、草っ原で2時間ばかり昼寝をして帰途に着いた。
 翌日マナリーに向けて出発し、それからデリーに戻った。デリーでは某ガイドブックのライターさんに頼まれて、インドを二つに分けた北の方の電話取材をした。ガイドブックの改定版のための既出のホテル、ツーリスト、観光案内所、博物館などの情報の確認作業だ。バイト代は安かったが、そのガイドブックの2010年版の綴じ込みに、取材協力という形で名前を載せて貰った。ついでに、トリウンド・トレッキングの感想をメールで送ったら、投稿という形でガイドブックに載せましたという連絡が来た。そのつもりはなかったのだが、投稿が採用された場合は無料で新装版を送るのが、その会社の方針だそうで、デリーまで送ってくれたので、良しとしよう。

 その旅の時点では、まだカメラがなかったので、写真はトリウンドからの風景ではなく、7月のHimachal~Kinnor~Ladakhの旅の、Kalpaからの一枚。

Alchiの殿~サボテンカレー

SDC13388ホテルでBoysがオーナーを紹介した後で言った。「Alchiのスルターンだよ。ま、冗談だけど」。殿、と言われても納得がいけるほど、上品な年配のご夫妻だった。二人のBoysがホテルを切り盛りしている。Boysは、カシミールの出身でLadakh語がわからないので、スルターンとはほとんど意思疎通が出来ない。
 Alchiに着いたのは夕方遅くだった。シャワーを浴びて、近くのレストランを探したが、どこも閉店。仕方がないので、ホテルの中庭の横のキッチンで料理をしているBoysの所へ行った。材料を買ってないので、その日は夕食はできないと言われていた。Boysが作っていたのは彼ら自身の分。それでいいから食べさせてくれ。
 オクラのカレーだった。チャパティーではなく、ご飯。素朴な味で、私好みの美味。シンプルな味付けが一番美味しい。Boysは、旅人に夕食を奪われてしまったので、もう一度作り直さなければならなかったろう。

 写真はAlchiのバス停。早朝、Leyへの帰りのバスを待っているときに、Boysが大きな俵を3つ乗せた一輪車をよっこら、よっこら運んできた。砂地で坂なので、ハンドルを握るだけでは前に進まない。一人が前から車輪を引っ張っる。それは何だと聞くと、豆だという。そういえば、前日、ホテルの裏の畑を散策しているとき、チャイのポットを持ったBoysの一人に会った。どこへ行くのと聞くと、二つ三つ向こうの豆畑屈んでいるおばさんたちを指差した。Boysは俵をバス停に下ろし、ホテルへ帰っていったが、暫くするとまた、よっこらよっこらやって来た。「これ、どうするの」「スルターンが町へ売りに行くんだ」。
 再び一輪車を空にし、またホテルに戻って、今度はスルターンに伴ってやって来た。Alchiの殿に、写真を撮らせてくれないかと頼むと、ニコニコ顔で応じてくれた。

 サボテンのカレーを作った。今、食べながら書いている。ちょっと酸味があって、ぬるぬるしていて。
 純和風のカレー(玉ねぎ、人参、ジャガイモ、豚肉)を作ろうと思ってスーパーへ行ったのだが、既に下ごしらえして切られているサボテンの袋が目に入ってしまった。メキシコにいるのだから、一度ぐらいはサボテンで何か料理をせねばと、かねがね思っていたのだ。
 ついでに、豚肉ではなく、牛のミンチにした。サボテン・キーマカレー。

Hemisの少女

SDC13067へミス・ゴンバの村の散策途中で、小さな甥っ子二人と散歩をしていた尼に出会った。彼女自身がまだ幼さの残る年頃だ。普段はヘミスの近くの尼僧院で生活しているが、半年振りかで実家に遊びに帰ってきたのだと話した。尼になることが彼女自身の選択なのかどうか聞けなかったが、いずれにしても年齢の割にはシャイで奥床しくはあるけれど、物事をしっかりと見つめている印象を持った。話していると、こちらの気持ちまで洗われるような、純粋さという言葉でもまだ足りない、Pureなものが伝わってくる。
 招かれて彼女の家へ上がった。壁の二面には、鍋やポットや食器が並べてある。家族の人数にしては多すぎる量だ。聞いてみると、この地方の慣わしで、ステイタス・シンボルのようなものだという。バター茶をご馳走になった。飲み干すのに難渋するほどしょっぱかった。チベットでは空気が乾燥している為、不足がちになる脂肪分と塩分の補給にバター茶が飲まれるのだと読んだことがある。本来は力仕事になるほど、お茶、バター、岩塩をしつこく攪拌するらしいのだが、彼女の家では固形のままのバターがカップに浮かんでいた。一日に何杯も飲むのだと言う。攪拌器のような、ポットのような丈の高い、チベット風の装飾がされた、筒状の入れ物を見せてくれた。なるほど、あれだけのバターの量なら、体が温まるだろう。
 通り過ぎるだけの旅人は、お世話になるばかりである。

Mandu

SDC13361カジュラホ~Mandu~サーンチを旅したのは、2006年10月だ。その頃はカメラは無用とカッコをつけていた時期なので、写真は一枚もない。カジュラホでは纏わりついて来た子ども達と、一日自転車でピクニックに出かけたり、ディワリーの日にその一人の家に招かりたり、グルに出会ったりと忘れがたい印象を残してくれたが、Manduはその佇まいに魅了された。Bhopalからバスを2度、3度乗り換えて、辿り着いたそこはロスト・ワールドだった。下界から隔絶された、王たちの夢の跡がひっそりと、深い緑の中に埋もれている。いや、正確には、転がっている。夜は毎晩のように、酒飲みのホテルの主人に付き合わされ、昼はひたすら自転車を漕いだ。船の宮殿で、村の遺跡を説明した小冊子を手に入れ、わかりにくい地図を頼りにその一つ一つを塗り潰していく、そんな風にして自転車を走らせた。遺跡自体に特に思い入れがあったのではなく、それを探して歩き回る、その行程が楽しかった。メンテナンスがちゃんと為されているいる遺跡もあれば、それこそ本当にそこに転がしてある2000年前のヒンズーのお寺の柱もあった。
 サーンチで出会った日本人のツーリストも言っていた。「サーンチは一度見れば十分だけど、Manduは何回でも、機会があれば訪れたいと思う。」
 宿の主人は、昼も夜も中庭でウィスキーの瓶を手にしていた。村には花から作る強烈な、そしてむちゃくちゃ安い酒があるが、それに手を付けたら俺は終わってしまうから、その10倍はするウィスキーを飲んでいるのだと、半ば自嘲気味に言っていた。ガイドブックの出版にも携わり、現職の村長でもある村の名士のようだったが。確かに話が面白かった。そうでなければ、酒も飲めず、人も苦手な私が毎晩のようには付き合わなかっただろう。
 夜になると、中庭の壁を隔てた家からおばあさんの怒鳴り声がした。花の酒で頭がやられちまったのさ、と主人が言う。それは恐ろしくもあったが、物悲しい叫びだった。
 主人の甥っ子は、聾唖だった。王に仕える下僕のように、いつも主人の傍らにいて、デッキチェアーに伸ばした主人の肩や足を揉んでいた。「あの子にそんな事をさせるなよ、と友達に言われるけれど、こいつが俺に纏わり付いてくるんだ。」確かに、甥っ子は主人の世話をしているのが、とても楽しいようだった。そして、主人の甥っ子を見る目は優しかった。
 「村の村長は持ち回りなんだ。今回が俺たちのような、ま、外からやって来た者の子孫。次は、Tribeの中から。そんな風な取り決めが為されている。だから、俺も今年限りだ。」

 週に一度、Tribeの市があるから、それを見てから行けばいいと言われたが、残念なことに現金が底を着いていた。村にはATMがなく、町に下りるしかなかった。Manduは、必ずもう一度行ってみたいと思う。

下記は、かの「カーマ・スートラ」から。残念ながら、実を結ぶことはなかったが、Trialで訳したものである。ヒンディー語からではなく、英語から。

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『カーマ・スートラ』は、おそらく世界最古の、教養ある人々が実践している、性に関する専門書である。2000年前のインドの社会的、政治的主潮への洞察を与えてくれるすばらしい記録であり、文学的力作以上のものである。確かに、古代インドの記録文書の少なさが、『カーマ・スートラ』を現存する世界最古の文明を理解するための重要な情報資源にしている。2000年前に、性行為に関しての詳細な研究が為されたことは実に注目に値すべき事であるが、この本を更に独自のものにしているのは、著者、ヴァ―ツヤーヤナによって為された観察の多くが時の試練に耐えてきたという事実である。

『カーマ・スートラ』の名前はヒンドゥー教における愛の神、カーマデヴァタに由来している。その一部が西暦1世紀に遡る本文は、約1250のスローカ(韻文)から成り、7篇、36章で構成されている。

 カーマ(性愛)と宗教が同じコインの両面であることは、マハバーラタのような著名なインドの叙事詩に大いなる率直さで描かれている。人がもし、‘エロティク・アート’として誤ってラベル付けされた彫刻が施された偉大な寺院郡を見るならば、想像の余地は残されない。しかし、インドの主潮における性と宗教を隔てるものは、極めて細い線であるのだということは理解されなければならない。実際に、性的制約から解き放たれた神々がヒンドゥー教の儀式と慣習に織り込まれている。

露骨な性を描いた彫刻がインドの至る所のヒンドゥー教寺院に刻まれている。その最も有名なものが、10世紀創建の中央インドのカジュラホと13世紀創建の東海岸のコナーラクである。ヴェディックの時代に、人間の生の目的として、プルシャタが成文化された。それは3つ項目 --- ダルマ、アータ、カーマ --- に分類され、集合的にトリヴァルガとして知られている。ダルマ(正義)は自然の秩序に合致した現世での正しい行為として最も重要なものだとみなされている。アータは、世俗的な満足の収集という意味であり、グリハシュ・アシュラム(家庭を育む段階)を強調する。その時期に人は富と財産を蓄積する。

『カーマ・スートラ』は、3つ目のプルシャタ、換言すれば人類の進化の中核をなすところの性的な欲望、カーマに光を当てている。ここで神の法は、性交は単なる生殖行為以上のものであるべきである ---節度を保ちながらも、最大限の喜びがそれから得られなければならない--- と説いている。

 

おお、彼の元へ行きなさい

お前を求め                                                                         

柔らかな籐で横たわる

             お前の衣と

                   腰帯を分かたせ

                           その絢爛たる

  臀を捧げなさい

                        -- 「ギータ ゴヴィンダム」 ― ジャヤデヴァ 

 

 

サドゥーになれないGuru

SDC12233夕暮れにヨガをする人。この場所でのこの時刻でのヨガ、確かにPureな何かが体に入って来るんだろうな。SpitiのDhankar村(3770m)

ヨガには多少の憧れはあったけれど、4年半のインド生活で、結局一度も足を踏み込まなかった。いや、一度だけ、ほんの数分ばかりだったが、呼吸法を教わった。カジュラホのグルから。
カジュラホを十分に堪能して、次の目的地Manduへの基点となるBhopalまでののバスの切符を買った後に、グルに出会ったものだから、出発が2日程遅れてしまった。ホテルの屋上に夕涼みに出て、何千羽かと思われるような鸚鵡の群れが、後から後から降って沸いてくるように、西郡の寺院の方へ飛んで行くのを驚嘆の思いで眺めていたときに、グルが階段を上がって来た。鸚鵡の飛行が終わるまで、じっと佇んで空を見上げた後、声をかけてきた。「凄いですね。僕もこんなのは初めて見ました。」
 とても綺麗な顔立ちをした、上品な物腰の白髪の男性だった。20年前までカジュラホに住んでいて、昨日7年ぶりに戻って来たのだと言った。相手の目をまっすぐに見つめて、ゆっくり噛み砕くようなに話した。
 どんな聖人であれ、生身の人間である限り霞を食って生きているわけではない。仏陀も仏陀になる以前は、本人の心持ちはどうであれ、托鉢に訪れた家から乞食僧として追っ払れたこともあっただろう。サイババもオショウも精神的にも物質的にもあの高みに至るまで、惑いの時期があっただろう。カジュラオのグルは、カジュラホに来る前に十数年ぶりで訪ねた南インドに住む妹に、懇々と諭されたのだと言う。「ずっと、そんな生活を続けていてどうするの。」 
 そして、考え込んでしまったと言う。ああ、この人は寅さんなんだ。人生のどこかで、普通の生活を捨てる覚悟はしたけれど、決して超越しているわけじゃないんだ。おそらくそういう生き方しか選べなかったんだろうけど、未練を全て断ち切れたわけでもないんだ。グルとは2回食事をした。一度目はグルをグルジーと呼ぶ、土産物屋のオーナーと一緒に。その時には、その人が全部払ってくれた。2度目の時は二人で、お互いに食べた分を払った。
 呼吸法を教えて貰ったのはグルの部屋を訪ねた時だった。ホテルの階下の部屋だった。大きなトランクが二つ、窓辺に鉢植えの小さな木が置いてあった。エネルギーを与えてくれる木なので、旅の間もずっと持って歩いている。トランクの中には、絹の古いサリーが入っていた。買ってくれる人がいたら、売りたいのだと言った。その後で呼吸法の実践に入った。片鼻を押さえてブーと空気を出して、数を数える。思いっきり空気を押し出すと、どうしてもブーという音が出る。ヨガも生身の人間がするものなんだ。
 グルには、使った感想を聞かせてくださいと、アユルベーダーの泥パックを貰った。とても安い物ですから、お金は気にしないで下さい。本当に気持ちの落ち着く、いい匂いのパックだった。あれから、何度か色んな種類の泥パックを買って試してみたけれど、あれ程の物には出会わない。それから、デリーに帰ったら灯してみて下さいと、ディワリーの蝋燭。
 私は、グルに貰うばかりだった。

 

 

 

野ばら

SDC11837去年の7月にインドのヒマラヤ地帯を旅していたとき、よくピンクの野ばらに出会った。山の中腹のゴンパへ行く途中、国道沿いの橋の下、畑のあぜ道。3000メートル近辺でよく咲いてたような気がする。
HimachalからSpiti、そしてLaddakhへと至る道はほとんどが、月の風景はかくばかりかと思わせられる景色が広がる。山にさえ緑のあるところは少なく、そうした場所に砂漠の中のオアシスのように小さな村々が点在する。冬には隣村へ行くのさえ困難になるだろう。実際、バスが通っているのは夏の数ヶ月だけだ。あと30センチでもずれたなら、1000メートル下の谷底へ真っ逆さまに滑り落ちて行くだろうような道をバスが通り抜けていく。岩を穿って、ぎりぎりオーバーハングにして、ようやく道の体をなしているような場所も数箇所どころじゃなくあった。こんな物凄い景色を見させて貰っているのだから、後は天命と覚悟を決めるしかないと、自分に言い聞かせてバスに揺られていた。

改めて思い出してみると、人間ってすごいな。4250メートルの高みに、世界で一番高い場所にあるというKebberという村があった。あんな所でも人は、年代を重ねながら生を営んで来たのだ。
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