2004年11月29日

私的な語らいとアドヴォカシー(HIVについて)

 あおいさんのご意見から再トラックバックです。

「HIVに感染したらそのときだしぃ〜♪」っていう宣言をして生でやりまくっているような明らかに脳みそが不足している行動は、HIVを安易に伝えるアクティビズムのせいではなく、「恐ろしい」というイメージを植えつけたためにそこに目をやることを拒んで判断停止になった状態に、主たる原因がある。

とのことです。




 


確かに、そういう面はあるし、そのあとの部分

>無力感を感じた危機意識の人は、「こういうやつらが感染を広げるんだ!」
>と怒りの感情に支配されてしまい、彼らに届く言葉を見つけられなくなって
>しまいます。自分が怖くて仕方が無いことに反応しないことが、許せなくな
>ったりする。なんだかホモフォビアととても似ています。

は、なるほどそうだと思います。いずれにしろ感情に支配されるのはよくないです。こういう人は某サイトの「兄貴と弟の掲示板」なんかにはたくさんいますよね。理性が働いていないという点では同類ですね。

 さて、問題なのは、さきほどのような言説が最近までぼくの耳には入ってこなかったという点です。ぼくもちょっと前までは、ほぼあおいさんと同じ考えでした。それはたまたまそういう考えの人と出会わなかったというだけかもしれませんが、ただ、以前はそういう風に言ってなかった人がそういうようになったという例にぶちあたり、前回の問を発してみたくなったわけです。
 そういう人は嫌なことから目を背けたいがゆえに思考停止にしているとは思えない。知識が中途半端であるがゆえに、安易なHIV感染の像を形成しているために、そうなっているという印象を受けました。それで、やはり現実を曲げたり引き伸ばしたりする必要もないが、だからといって現実の苦しさを伝えないでいることがよいことなのかどうかというので、迷いが私の中に生じています。そういう傾向が一般的かどうかは分かりませんが。

さて、それはともかく、

>正確な知識、現実の状況を伝えた上で、現実的にどう行動するかを、
>断罪されない安全な場所で安心して自由に考えること。

は大切ですね。

 ただ、これはそういう場にまで足を運ぶ程度には意識を植え付けないといけません。そのために効率的なアドヴォカシーでなければならないわけですね。

 まず恐怖を煽るような言説でも、個人の間で確信犯的に行われるなら、そのあとのフォローもできますから、大きな問題になりません。むしろうまく使うと、こういう場に一緒に足を運ばせるための意識付けにつながる場合もあります。しかし、公共の場におけるアドヴォカシーにおいては、恐怖を煽る言説のあとに正確な知識を書いても、「恐怖」の部分だけを読んでネガティブな感情を内在させる人も多分に出てくる。マスに向けてのアドヴォカシーと、個々人の間で行われるコミュニケーションは必ずしも平行には行われえない。

 その点、先日大阪で行われたPlus+にしろ、名古屋のNLGRにしろ、お祭り的な楽しさを打ち出したうえで、きちんとメッセージも伝えているイベントはよいですね。とにかくまずは人を呼んでおいて、そこでさりげなく、抹香臭くないメッセージが発信される。

 あとはそういう場所で情報を得た人が、きちんと身の回りの人と対話をして感染防御、セーファーセックスについての情報ネットワークを形成していってくれるといいんですけどね。
Posted by tamano_syndicate at 22:12│Comments(0)TrackBack(0)

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