2004年08月23日

日本女装映画の嚆矢〜『雪之丞変化』の変化

田亀源五郎さんが、伏見憲明さんの「エロの考古学シリーズ」の「髷もの」を批評して次のように書いておられます。

 女形のようなトランスベスタイト、トランスジェンダー的なファンタジー。
 これは更に「女形=実際は男性」なので、「舞台の上の男女=実際は男同士」となり、「芝居の上では男女の性愛=現実に見ているのは男同士の性愛」という具合に、ちょっとメタフィクションめいた構造を経て、結果として、そこでは男同士の性愛が「正当化」されているような、そんなイメージを併せもっていた可能性もあります。


 そういえば、ぼくも昔同じようなことを考えたことがあるな…と思い出して、引っ張り出してきました。ぼせさんが運営している(た?)、「ただ広い空間」に載せていたものです。固有名詞多くて映画マニアにしか分からないかもですが、とりあえず……。


 はじまりから大衆芸能の一種である日本映画は、映画以前の大衆芸能、歌舞伎から多くを引き継いでいる。歌舞伎の狂言を映画化した作品もたくさんあるし、歌舞伎を題材にしたドキュメンタリーも撮られている。溝口健二や小津安二郎といった往年の名監督が歌舞伎の舞台を撮影したドキュメンタリー・フィルムが残っているほどだ。彼らも画面のなかでの立ち位置、役者のポーズなど多くを歌舞伎から取り入れている。

 そのなかでも歌舞伎からの直接の恩恵を受け、女形を主人公にした作品が、この『雪之丞変化』だ。原作は三上於菟吉。大衆小説を書き、初代直木賞選定委員も務めた大正から昭和初期の売れっ子作家であった。

 悪徳商人がお上と癒着して悪巧みをするという時代劇の定石が踏襲されているが、その悪を裁くのが、かつて両親がその悪巧みに巻き込まれ、そのせいで両親と死に別れた経験をもつ歌舞伎の女形だというところが映画的な興味を喚起し、何度もリメイクされている。映画では女形と男の盗賊を同じ役者が演じ分けることになっている。歌舞伎の花形女形・雪之丞と、盗賊・闇太郎を演じ分けるのが、この役を務める役者の腕の見せ所だ。


 雪之丞の親は、かつて商人だった商売敵・土部三斎の陰謀に巻き込まれ殺され、雪之丞は身寄りを失ってしまう。彼を引き取った中村菊之丞は、雪之丞に歌舞伎と剣術を教える。歌舞伎役者として身を立てながら、雪之丞は土部三斎へのあだ討ちを狙っている。土部は依然として悪徳振りを発揮し、ひいきの商人に米の買占めさせ、江戸中を米不足にした上で、米を高く売りつけようとたくらんでいる。親を殺された憎悪と、その悪徳ぶりに雪之丞の怒りは燃えたぎる。ここに三斎の娘が雪之丞に惚れるなど恋模様や、敵の商人たちを陥れるための雪之丞の権謀術数が描きこまれ、濃密なドラマが展開する。

 最初に松竹がこの映画を製作したのが1935年。戦前のことだ。監督が、まだ3本目の監督ながら独特の幽玄世界を自家薬籠中にしている衣笠貞之介。後にカンヌ映画祭でグランプリをとる『地獄門』や、『歌行灯』、『白鷺』など泉鏡花もので幽玄の形式美を完成していく。この『雪之丞変化』は、もともとは3本の映画として製作されたが後にまとめられ、現在みることができるのはその「総集編」である。主演は後に長谷川一夫になる林長二郎。ゲイだとの噂も常に飛び交う中、上方歌舞伎で活躍した経歴を持つので女形の<型>もきれいにこなす、美貌を売りにした大スター。雪之丞には、まさにはまり役だ。長谷川一夫はここで、雪之丞、闇太郎、雪之丞の母の三役をこなし、話題になる。公開当時も大当たりを取った。雪之丞が父母の霊を見るシーンや、小屋が火事になるシーンは、ややもすると安っぽい特殊効果に陥りがちな技術を使いながらスペクタクル的な興奮を禁じえない。

 次は東映で1959年。時代劇、ヤクザ映画など娯楽映画の巨匠マキノ雅弘監督で、主演が大川橋蔵。橋蔵も歌舞伎出身の役者で、東映時代劇の2枚目大スター。長谷川一夫にしろこうした大スターがいなければ映画にならないのが、この『雪之丞変化』なのである。マキノ版はさすが娯楽映画の専門家だけあって、筋もきれいに整理され分かりやすくなっている。長谷川一夫がややふくよかで女性的な妖艶さとすると、大川橋蔵はシャープな色気。最後の歌舞伎小屋でのちゃんばらシーンで<男>に戻り、東映マキノ組らしいシャープな殺陣を演じる。これがここで紹介する3本の『雪之丞変化』のなかで雪之丞が<男>の姿で現われる唯一のシーンである。

 最後は大映で1965年。監督は市川崑で、主演は再び長谷川一夫。長谷川一夫の映画出演300本記念のオールスター映画で、山本富士子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎、船越英二、中村雁治郎といった錚々たるキャストでのリメイクである。脚本は衣笠版と同じ、衣笠貞之介と伊藤大輔のものをもとに、和田十夏がシナリオ化。市川監督らしいスピーディーなカット割りとジャズ音楽を使用して、現代風な味付けになっている。また衣笠版の当時としては進歩的な映画技術に敬意を表し、照明や光の使い方、長谷川一夫の二役(雪之丞と闇太郎)の係わり合いなど、映画的な技術を駆使してのリメイクとなっていて、それを見ているのも楽しい。長谷川一夫はやや年を取っているものの、有名な「流し目」は健在で、依然として見るものをひきつける魅力があるし、山本富士子、若尾文子の美貌、クールな二枚目でならした市川雷蔵にしては珍しいコメディ・リリーフなど、配役も粋である。


女装した男性が恋愛をするとき、女性と恋愛をすれば、見た目からレズビアンの疑惑が生まれ、男性と恋愛をすれば本来の性別からゲイの疑惑が生まれる。いずれにしろ、同性愛的な表象となることが運命付けられている。女装映画を見るときに、恋愛がどのように描かれているかを分析することで、同性愛の社会的受容との関係を垣間見ることができる。

 この『雪之丞変化』では、雪之丞に惚れるのは女なのだが、そこに生じるレズビアン疑惑をどう回避するかが問題になる。映画では小説より直接的に映像として二人の関係が描かれるので、同性愛の印象が強く残りやすい。そこで、同性愛の社会的受容が低い社会においては、人の目にそれが異性愛であることを印象付ける必要がでてくる。それを『雪之丞変化』ではっきりと打ち出したのは、娯楽映画として「売れる」ことを運命付けられ、社会的な総意をさかなですることができなかったマキノ版である。衣笠版、市川版では監督は「芸術」という隠れ蓑を着ることができるためか、原作通り雪之丞と女性の恋愛が描かれないわけではないが、マキノ版ほど執拗にそれが男女の仲であることを主張するわけではない。まして<男>としての姿を見せることなどないのである。

 マキノ版では、衣笠版で密かな恋心として描かれていた三斎の娘・浪路や、女盗人が、執拗に恋を口にする。また、マキノ版の男たちは「おれも女だったら惚れるのになあ」と感情を口にして、雪之丞が恋愛対象ではないことを宣言する。50年代の終盤はゲイの社会的受容が最も低かった時代である。石原郁子によると木下恵介監督がゲイを日本メジャー映画において初めて造形した『惜春鳥』を撮ったのと同年である(『異才の人 木下恵介』参照)。日本映画史において一九六九年の『薔薇の葬列』(松本俊夫監督)まで、まだ10年間はゲイは声高に主張されることなく、そこはかとない目配せによってしか表現しえなかった。そういう風潮のなかで、東映時代劇という最も娯楽性の高い分野での映画作りである。女形と女性の恋愛を同性愛から切り離す操作が必要だった。そのため前述のとおり、最後には雪之丞は女形の衣装と化粧を落として、男の姿を映画の観客にさらす必要があったのだ。

 市川版でも、当然のことながら、浪路(若尾文子)や女盗人(山本富士子)が雪之丞に惚れる。女盗人は盗み聞きがばれて雪之丞との軽い乱闘をするが、そのときの雪之丞の「腕力」や「男らしい身のこなし」に惹かれる。<男>ジェンダーに期待されるものをなぞった異性愛の主張である。ところがこの映画には、浪路が雪之丞の「美しさ」に惹かれ、そのことを雪之丞に指摘されたじろぐショットが紛れ込んでいる。「美しさ」とはいえ、雪之丞をみてのことだ。たとえば若者のしなやかな肉体美などではないことは明らかである。そのあと浪路は雪之丞に「美しさに惹かれる女将も多くござろう」となぐさめられるが、浪路のレズビアン疑惑が取りざたされてもおかしくない展開をとる。少なくとも、通常の<男>のジェンダーロールを逸脱した価値観のもとに恋愛が語られているのである。マキノ版から6年後で、前年に増村保造監督が『卍』を撮りあげたあとのこと。市川監督は『穴』、『黒い十人の女』、『私は2歳』といった意欲作を次々に生み出していた頃である。オールスター映画にありがちな無難な映画作りに安住していない市川監督の、微妙な魂胆と挑戦がうかがえる。

 時代と監督によって、変化する『雪之丞変化』。娯楽映画の大ヒット作だが、そこに語られる愛と恋は、娯楽であるがゆえに大衆をさかなでしない範囲に収められる。そのギリギリのラインで表現された表象を読み解くことで、当時のジェンダーロールや同性愛の規範がみえてくる。

Posted by tamano_syndicate at 02:37│Comments(0)TrackBack(1)

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