私たちが住む田沢という集落は、東御市の中心部から烏帽子岳(浅間連峰の西端に位置する標高2066mの火山の麓まで上り詰めたところにある。さらに上にも人家はあるが、ほとんど行き止まりといっていい場所である。
集落の標高は800mから900m。コメもできない冷涼地だったから、近隣の地域から開拓者として移住してきた住民たちはおもに酪農で生計を立てていた。
いま集落の中を歩くと、立派な蔵をもつ大きな家が目立つが、これは明治時代から昭和の中頃に至るまで日本の経済を支えていた養蚕のおかげである。よく晴れて日が当たり風通しもよいこの地域は、桑の木を育ててカイコを飼うには最適の土地だった。
養蚕が盛んだった頃は、集落の中にも周辺の里山にも、あらゆるところに桑の木が植えられていた。それが養蚕製糸業の衰退とともに減り続け、日本が工業による高度成長へと舵を切った昭和40(1975)年を境にほとんど姿を消した。
現在はリンゴやクルミ、ブロッコリやアスパラなどの野菜を栽培する農家が多く、私たちが移住してからはワイン用ブドウの畑が増えている。
この集落……「部落」という語は非差別部落を想起させるからメディアでは使わないことになっているので文章では「集落」と書くが、私は会話では「集落」ではなく「村」と呼んでいる。人口530人。行政的には東御市田沢区という「区」に分類されるけれども、昔の言葉なら「村」、いま風に言えば「コミュニティー」ということになるだろうか。
能登半島の地震は、日が経つにつれ深刻な状況が露わになる。
人的な被害は言うまでもなく、道路や港湾や建物の損壊、水道などのインフラの崩壊は被害甚大だが、それだけでなく、復旧したとしてもその先に見える風景が描けないという、さらに大きな問題が待ち構えている。
壊れた「村」が元に戻る日を、老人たちは生きて迎えることができるのか。
壊れた屋根瓦の古い家の代わりに新しい耐震建築が並ぶ「町」に、移住してくる若者はいるだろうか。
日本の人口はどんどん減少している。建物を建てることはできても、「コミュニティー」をつくることは難しい。
それを言えば自分たちの「村」も同じことだ。
田沢でも住民は老人ばかりで、若い人は家を出たまま帰ってこようとしない。いまの老人たちが死ねば、村は空き家だらけになるだろう。
配偶者を失った老人たちは、古くて大きい家にひとりで住む不便に耐えかね、田舎の家ではなく市街地にある老人施設に「避難」することを選びはじめた。
住み慣れた家で最後まで過ごすという、昔なら当たり前だったことが、すでにできなくなっているのだ。
全国のどこにも、同じ問題がある。
広い地域に点在する古い町や村とそこに住む人たちをシャッフルして、新しく引いたコンパクトな地図の上に再配置する……50年後には8000万人台に人口が減少する日本では、いずれ必要になる作業である。
能登半島は、他の地域に先駆けて、その実験の舞台になるかもしれない。輪島の朝市。もう10年以上も前、テレビの取材で行ったときに描いた絵。