January 23, 2007
好き嫌いの表明は表明した瞬間に好き嫌いではなく「べき」論に変わる。
多少話題に乗り遅れたかな、松永さんの「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」について。
彼の意見には大筋で同意します。
どちらかというと、「2ちゃんねる」というより“集団”にすべきかなー、とも思いますがそこは些細なこと。
私が気になったのは松永さんの態度──口調とか文体とかそういうのではなくて物事に対する向き合い方ね。──です。
* この世の中に絶対的な正義、絶対的な善はありえない。個々個人の考える正しさのみが存在している。
これは同意。
もちろん、個々人の考える正しさ自身という言葉も曖昧な点は多いけれど、そこを指摘するなら正義や善の定義から始めないといけないので割愛。
というか、今の私の文章力では無理。
* 事実と合致しているか否かという意味で、真と偽は存在する。
ここね。
2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識で ish さんが言及してくれているからこれ以上のことは書きません。一応絵を好んで描く人間としては、真偽は存在しない、という立場を私は取ります。
* 個々個人の判断として、好き嫌いは存在する。
OK。
しかし、好き嫌いは表明した瞬間にただの好き嫌いではなくなります。
具体例としては。
例えば、私の母が「今日の夕食に何を食べたい?」と私に聞いたとします。
わたしは、「脂っこいものは嫌いだ。」と答えました。
これは、「好き嫌い」を表明しただけです。
しかし、そこに「揚げ物を食べたくない」という意志が生じます。
と同時に「揚げ物を作らないで。」という願望が存在します。
あるいは「カレーライスが食べたい。」と答えたとします。
そこにも「カレーライスを夕食に作ってくれ。」という命令が生まれます。
日本語以外の言語でも同じです。
"Would you mind opening the window?"
"Not at all."
という会話があったとします。
これも直接の命令文ではなく、「あなたは○○を気にしますか?」と婉曲的に願望を伝えています。
また、願望と命令は、発言者の立場が違うだけで同じ事です。
たとえば、隣の人に「窓を閉めて貰えますか?」とお願いされた場合、それは隣の人の願望であり希望でしょう。
しかし、上司なり社長なり目上の人からの発言だった場合、それは「命令」と同様の意味を持ちます。
つまり、松永さんの「2ちゃんねらー」のあり方に嫌悪を示すという行為もまた、「2ちゃんねらー」に対し“○○するなかれ”と発していると同義です。
なあに、松永さんが2ちゃんねらーに対し婉曲的に命令を伝えるのはいいでしょう。
彼らが松永さんに従う義理はないし、多分従わないし、松永さんも従わすために発言したのではないでしょうから。
しかし私が気持ち悪く感じるのは、松永さんが“好き嫌い”という蓑をかぶり「命令をしているのではない」といういかようにもとれる立場を取っていることです。
“社会”“世間”“みんな”という言葉を隠れ蓑に自分の意見を間接的にすることは嫌うのに、“好き嫌い”という言葉で自分の意見を曖昧にする態度が私は“嫌い”です。
Mr_Rancelot さんのgreen - 相対と社会正義とにおける松永さんのコメント、
彼の意見には大筋で同意します。
どちらかというと、「2ちゃんねる」というより“集団”にすべきかなー、とも思いますがそこは些細なこと。
私が気になったのは松永さんの態度──口調とか文体とかそういうのではなくて物事に対する向き合い方ね。──です。
* この世の中に絶対的な正義、絶対的な善はありえない。個々個人の考える正しさのみが存在している。
これは同意。
もちろん、個々人の考える正しさ自身という言葉も曖昧な点は多いけれど、そこを指摘するなら正義や善の定義から始めないといけないので割愛。
というか、今の私の文章力では無理。
* 事実と合致しているか否かという意味で、真と偽は存在する。
ここね。
2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識で ish さんが言及してくれているからこれ以上のことは書きません。一応絵を好んで描く人間としては、真偽は存在しない、という立場を私は取ります。
* 個々個人の判断として、好き嫌いは存在する。
OK。
しかし、好き嫌いは表明した瞬間にただの好き嫌いではなくなります。
具体例としては。
例えば、私の母が「今日の夕食に何を食べたい?」と私に聞いたとします。
わたしは、「脂っこいものは嫌いだ。」と答えました。
これは、「好き嫌い」を表明しただけです。
しかし、そこに「揚げ物を食べたくない」という意志が生じます。
と同時に「揚げ物を作らないで。」という願望が存在します。
あるいは「カレーライスが食べたい。」と答えたとします。
そこにも「カレーライスを夕食に作ってくれ。」という命令が生まれます。
日本語以外の言語でも同じです。
"Would you mind opening the window?"
"Not at all."
という会話があったとします。
これも直接の命令文ではなく、「あなたは○○を気にしますか?」と婉曲的に願望を伝えています。
また、願望と命令は、発言者の立場が違うだけで同じ事です。
たとえば、隣の人に「窓を閉めて貰えますか?」とお願いされた場合、それは隣の人の願望であり希望でしょう。
しかし、上司なり社長なり目上の人からの発言だった場合、それは「命令」と同様の意味を持ちます。
つまり、松永さんの「2ちゃんねらー」のあり方に嫌悪を示すという行為もまた、「2ちゃんねらー」に対し“○○するなかれ”と発していると同義です。
なあに、松永さんが2ちゃんねらーに対し婉曲的に命令を伝えるのはいいでしょう。
彼らが松永さんに従う義理はないし、多分従わないし、松永さんも従わすために発言したのではないでしょうから。
しかし私が気持ち悪く感じるのは、松永さんが“好き嫌い”という蓑をかぶり「命令をしているのではない」といういかようにもとれる立場を取っていることです。
“社会”“世間”“みんな”という言葉を隠れ蓑に自分の意見を間接的にすることは嫌うのに、“好き嫌い”という言葉で自分の意見を曖昧にする態度が私は“嫌い”です。
Mr_Rancelot さんのgreen - 相対と社会正義とにおける松永さんのコメント、
もう一ついやなのは、いつでも逃げられる外野のふりをしながら、一生懸命悪意のプロパガンダを繰り返すこと。そして、自分の主張が伝わるけれども明確な書き方をしないことによって「自分はそんなことを言っていない」とあとで言い逃れできる状況を作ること。このあたりについては、「自分で自分に責任を取ろうとするか否か」ということですべて筋が通ってると思います。における意見との乖離が気になります。