June 2015

June 28, 2015

シンプルな発想とシンプルな表現

見ていて楽しい気持ちになること、
上手だと思われようとしないこと、
その二つだけを念頭において絵を描くようにしたら、とてもシンプルな表現ができるようになってきました。

シンプルな発想はシンプルな表現につながるのだなと思う。

そしてそのシンプルな発想が少しずつ絵を描く機会を呼び込んでくるようです。

http://tanakakanji.strikingly.com


tanakakanji77 at 14:44|Permalink

June 25, 2015

タダよりこわいものはない


ネット上で知った漫画、山本さほ「岡崎に捧ぐ」。

ザックリ言えば平成版のちびまる子ちゃんといったところで、とてもサラッとしていて、変な言い方だけど、おもしろすぎないところが好きだ。
泣かせようとすればいくらでも泣かせられるだろうに、それをしないのがいい。


その「岡崎に捧ぐ」がついに単行本になったというので、購入した。
ネット上で無料で楽しませてもらっていたものに「おもしろかったよ!」という意味を込めて、単行本を買うという行為はとても大切なことだと思う。

タダで読めるんならそれでいいや!とか、もっと安くなんないのー!?とか、いち消費者としたらそれは当たり前な感情ではある。
でもそれと同時に、良い表現を楽しんだのならばそれに対する対価を支払うのも当たり前なことであるべきだ。

漫画だけじゃなくて、音楽でも映画でもお笑いでも文章でも、今やほとんどのものがネットで無料で楽しむことができる。
もちろん僕もその恩恵を受けているけど、「無料」の部分ばかりにしか反応できないようになってしまうとヤバイなと最近よく思う。
金銭感覚だけじゃなく、倫理観やなんかまでも崩れていきそうな気がする。
タダよりこわいものはない、ってやつだ。

ご飯屋さんでおいしいご飯を食べたら「ごちそうさまでした」と言いつつお金を払う。
それと同じ感覚で、良い表現を楽しんだら「ごちそうさまでした」って感じでお金を払う。
それが漫画の単行本を買うとか、CDを買うとか、劇場で映画を観るとか、ライブを観るとか、そういうことなんではなかろうか。
image

tanakakanji77 at 15:00|Permalink

June 23, 2015

山と苔

天気の良い日に高速道路を走った。
静岡あたりのサービスエリアで小休止。
周りが山に囲まれていてとても眺めが良い。
コーヒーを飲みながらぼんやり山を眺めていると、山がだんだん苔に見えてきた。
苔がたくさん集まって山になっている状態に見えてきた。

ぐわんと脳みそがゆがむような感覚があって、とある記憶とつながった。
それは二年前の春、京都の銀閣寺へ行った時の記憶。

銀閣寺の庭には、丁寧に育てられた苔がたくさんある。
色んな種類の苔があって、それらがビッシリと生えているさまは壮観である。
色んな苔を見ているうちにだんだん山に見えてくる。それがなんだか脳みそがシビれるみたいな感覚でおもしろかった、そんな記憶。



サービスエリアで山を見て苔みたいだなと思う僕と、
二年前に銀閣寺で苔を見て山みたいだなと思った僕。
時空を越えて二人が出会った。

特に何も起こらなかったけど。(SF小説とかアニメだと、ここで過去と現在の自分がバチーンとドッキングするなり、歴史にヒズミができるとか、なんかありそう。)



細胞を顕微鏡でどんどん拡大していくとそれはまるで宇宙。みたいなのと似ている。
最小は最大。

キレイと汚いとか、強いと弱いとか、明るいと暗いとか、単純な二元論のみの発想では感じられないものがある。


tanakakanji77 at 14:26|Permalink

June 21, 2015

ラジオは裏切れない


思い返せば四年前、フジテレビ27時間テレビの生放送中にアナログ放送から地デジに切り替わった。
司会のナインティナインが「さあ!地デジ化カウントダウンですー!」みたいにやって、正午になった途端に地デジ化されていなかった僕のテレビは真っ青な画面に変わった。

そこから僕のテレビレス生活が始まった。


そんな僕に、兄が「テレビ新しくしたから、古いやつ欲しい?」ときいてきた。
元来テレビっ子の僕は「欲しい!」と即答。
で、早速宅急便で送られてきた。

目の前にでかめのテレビ。
四年前にグッバイしたブラウン管テレビなんかじゃない、薄型のやつ。
嬉しい反面、心境はとても複雑なのであった。
というのも、この四年でテレビのかわりにラジオの素晴らしさに気づいてしまったのだ。
テレビ、なければないでイケるな。っていうか、いらないな。
そしてラジオってすごくおもしろいな。ラジオ最高ー!

それなのにここでテレビを取り付けてしまうのは、四年間つれそったラジオに対する裏切りのような気がしてしまうのだ。

昼夜を問わずにそばにいてくれたラジオ。
早朝、生島ヒロシから始まって大沢悠里、たまむすび、荒川強啓、夜は荻上チキからライムスター歌丸、本谷有紀子、菊地成孔、深夜のゴールデンタイムは伊集院、爆笑問題、おぎやはぎ、バナナマン、東京ポッド許可局。
完全にTBSラジオステイチューン。
もちろんずーっとぶっ続けで聴いてたわけではないが、スイッチをONすれば誰かの話し声がきこえた。

そんなラジオを裏切れるのか!?
と自問自答しつつもテレビっ子の血が騒いでそそくさとテレビをつなぐ。

そしてテレビのスイッチオン!
しかし、映らない。

どうやら、放送局の設定をやり直さないといけないようだ。
メンドクサイ。
なんか器具的なものも必要かも知れない。
メンドクサイ。

意気消沈。
しかし、それと同時に安心してもいた。
テレビ生活は手に入らなかったが、ラジオを裏切らずにすんだ。


そんなわけで、兄から譲り受けたテレビはDVDで映画を観るためだけのモニターと化したのであった。
でも、ずっとノートPCで映画観てたから、それだけでも充分すぎるほどに充分なのだ。


tanakakanji77 at 14:35|Permalink

June 18, 2015

BBQとDQN

バーベキューのことをBBQと略すのがいつまでたっても釈然としない。
ふたつめのBが「べ」のだなんて、略してるというか音数増えてんじゃん。

あと、音節としては「バーベ」と「キュー」で途切れるのが自然なのだから、バーベキューをどうしても略したいと言うのであればBQが妥当であろう。
すごく中途半端な部分を抽出しちゃってんじゃないかという気持ちがあって、BBQという言葉を見るたびにザワザワする。

もちろん、子音の部分を抜き出してそれを略称にしてるんだよってことはわかっている。
わかっているけど、ザワザワしちゃうんだから、これはもうしょうがない。


あと、DQN系って言葉。
これはドキュン系って読むそうで、元ヤンとかそういうくくりの人達のことらしい。

このDQNって字ズラ、どうしても脳内で「ドン小西」って読んでしまう。
ドキュンって読むってわかっていても、一旦、ドン小西って読んでからあわてて「あぁ、ドキュンか」って直すのを毎回やっている。

まあでもドン小西って奇抜な格好をしているからドキュン系と遠からずって感じでもあるけど。


tanakakanji77 at 16:02|Permalink

June 16, 2015

去年とは違うパターン

きのう僕は夏のおとずれを感じた。

アイスコーヒーを飲んで夏のおとずれを感じるのは割と定番だと思う。
確か去年は僕もそのパターンで夏を感じた。

しかし今年のは少し違った。

きのう僕が飲んだのはアイスカフェラテだった。
「アイスコーヒーがアイスカフェラテになっただけかよ!?」なんてツッコムのは気が早い。
アイスカフェラテを飲んだ時点では僕はまだ夏のおとずれを感じてはいないのだ。
ただ「アイスカフェラテおいしいなー」としか思っていない。
夏のおとずれを感じるその瞬間はもう少し後だ。


少しずつ飲んでいたので、時間の経過とともに氷がとける。八割くらい飲んだ時には氷がとけて、アイスカフェラテの表面を水が3ミリほど覆っている状態。

ストローでそれを吸った瞬間、僕は夏のおとずれを感じたのだった。

そう、とけた氷で薄まったアイスカフェラテを飲んだ瞬間が、今年の夏のおとずれを感じた瞬間だった。

アイスカフェラテを飲んだだけでは夏を感じなかったのに、とけた氷で薄まったアイスカフェラテを飲んで初めて夏を感じたというのがとてもドラマチックに思える。



「夏のおとずれを感じること」の定義は難しい。
いわゆる夏の風物詩を実行するだけでは、心の底から夏を実感することはできない。
シーズン初スイカとか、花火とか、蚊取り線香とか、それこそアイスコーヒーとかを飲んだりすると形式的に「夏だなー」なんて口走ることはあるが、心の底から夏を実感しているのとはまた違うのだ。

僕にとっての定義はこうだ。

記憶の中に「夏」というラベルが貼られたアルバムがあって、そのアルバムの中には過去の夏の思い出や夏っぽいエピソード、夏の食べ物の味、夏が似合う音楽などのページがある。
普段、夏を思う時には自分でそのアルバムを取り出してページをめくるわけだが、夏のおとずれを感じる瞬間は、自分の意識とは別に自分のとった行動によってアルバムがバサっと目の前に落ちてくる感じ。
で、「あぁ!夏だ!」となる。

この瞬間がとても好きだ。(もちろんこれは夏だけではなくて秋も冬も春もあり、つまり一年で四回もこんな楽しい体験ができるのだ。)

夏のおとずれを感じたからなんなのだ?って言われたら何も言えないが、とりあえず、短パン解禁です。



tanakakanji77 at 13:29|Permalink

June 11, 2015

自分の気持ちの整理のため



夢に友達がでてきて、目が覚めてからも妙に気になっちゃうことはたまにあることだと思う。
そのことをわざわざメールまですることはなかなかないが、なんか気にかかり続けることがある。


友達のS君から突然メールがきた。
そのメールはとても嬉しいものだった。

メールの内容は、S君の夢に僕がでてきたとのこと。
夢の中の僕の具合が相当悪そうで、起きてからしばらくたっても気になり続けて、どうにもこうにも心配だから自分の気持ちの整理のためにメールしてみました、こんなメールもらっても困っちゃうだろうけど、お元気ですか?とのこと。


心配してくれるのが嬉しいし、何よりとてもいいなと思ったのは、「自分の気持ちの整理のために」ってところ。
とても正直だし、その気持ちよくわかる。


S君とは違うパターンもあるのだ。
スピリチュアルとまでは言わないまでも、多少そっちに寄ってる人で、「君が夢にでてきたんだけど、大丈夫!?何か悪いことがあるかも知れないから気をつけてね!君のことが心配だよ!」
みたいな感じで言ってくる人。

これはとても腹がたつ。
別段こっちは変わったことはないし、気をつけようがないし、でもそんなこと言われたら気になっちゃうし、無駄に不安ばかりを煽るようなことをわざわざ言ってくれるなよと思ってしまう。
本当のところは結局「自分の安心のため」なのに、あたかも僕のことを全面的に心配しまくっているみたいな感じもヘドがでる。


そこのところをぶっちゃけてくれたS君はとても偉い。
「自分の気持ちの整理のため」の行動は清々しい。
「君のため」にすり替えている行動はイビツで押し付けがましくて醜い。


S君みたいな友達がいることが嬉しい。




tanakakanji77 at 11:49|Permalink

June 09, 2015

孤独な戦い

高速道路のサービスエリアにて。
トイレを済ませてバスに戻る前にベンチに座ってのびをする。
三人がけのベンチ、僕の逆サイドには50代くらいのオバちゃんが座っている。

オバちゃんの連れと思われるオッさんが現れて、オバちゃんに向けてカメラを向ける。
オバちゃんはすました感じのポーズをとる。オッさんはパシャリパシャリと写真を撮る。


ふたつの意味で僕は驚く。

ひとつめ。
このタイミングで撮る?何もないよ、ここ!サービスエリアの単なるベンチ!背景はトイレ!

ふたつめ。
カメラとオバちゃんの距離と角度からして、これ絶対僕も写ってるよね!?
どーなの?それ?
別にプライバシーがどうのこうのじゃないんだが、僕が写りこまないようにすることだってできるじゃん!
てか、それ以前に何故にここで撮る!?(ひとつめの驚きに戻る。そして無限ループ)


しかし僕はその場を離れることはなかった。
その場を離れたら負けだと思い、最大限の不機嫌な顔を作って見事に写りこんでやったのだ。

この孤独な戦い。
僕の中では勝利だが、そもそも彼らにはこの戦いの存在すら伝わっていない。

何をやってんだか。俺。



tanakakanji77 at 13:48|Permalink

June 07, 2015

絵本が教えてくれたこと

ぼんやりテレビをみている僕の隣に座っていた小1の甥が絵本を声に出して読み始めたので、テレビを眺めつつも甥が読むのを聞く。
甥はとても正確に読んでいると思われるのだが、僕はまったくもって内容が理解できない。一体これはどういう話なんだ?ぜんぜんわかんねーなーと思っていたら話は突然終わってしまった。

「え!?終わり!?」ビックリして甥が読んでいた絵本を貸してもらって改めて読んでみた。

なるほど、絵を見ながらならばよくわかる。
絵と必要最小限の文章で成り立っている絵本なんだな。
絵本にも色々あるとは思うけど、文章の説明に頼らない表現はとても素晴らしい。



最終的に言葉で説明してしまうことの残念さというのは、絵本に限ったことではない。
小説でも詩でも音楽でも映画でも、言葉で説明してようやく体裁を整えている表現は残念だ。
もっと言えば、品がない。
もしかしたら日常会話においても言えることなのかも知れない。相手に想像の余地を与えない会話というのは色気がないし、どこか空々しい。

自分の表現に自信がないから全部言っちゃうのかな。
受け手のことをナメてるから全部言っちゃうのかな。
どちらにしても品がない。
品のある表現ができるようにしたい。

絵本が教えてくれたこと。



tanakakanji77 at 13:36|Permalink

June 05, 2015

ありがとうとさよなら

祖母のお葬式だった。
99歳。

人は死ぬんだなーという当たり前のことを思いつつ、祖母が横たわる棺を見ていた。
ガンコで見栄っ張りで自己中心的だった祖母だが、僕にとっては「優しいおばあちゃん」だった。
おばあちゃんとの思い出を反すうする。

最後に交わした会話を思い出そうとしたが、思い出せない。
最後の会話が思い出せないことを悲しいと思うかなと思ったが、別にそんなことはなかった。
たくさんの思い出があることが悲しかった。
人が死ぬと悲しいのはその人との思い出があるからだ。
客観性なんてまるで必要ない。
ただただ主観的におばあちゃんが死んだことを悲しむ。

おばあちゃんの死を悲しみつつ、同時に、こんなにたくさんの思い出があるのだなと温かい気持ちにもなった。

棺の中にお花を入れる。
悲しいのと温かいのが入り混じった気持ちの中、今ここで最後におばあちゃんにかけるべき言葉は何だろうと考える。
「ありがとう」と「さよなら」以外はなかった。

そんな気持ちでおばあちゃんとお別れした。


tanakakanji77 at 08:09|Permalink

Twitter


line-stamp hspace=

dobrok-facebook

新譜情報

Do the EMO!!!!

ドブクルーズ
Archives