2023年09月18日

小説と映画(DVD)を行ったり来たり。
数十年ぶりに観た、深作欣二監督・つかこうへい原作の『蒲田行進曲』はやっぱり傑作中の傑作だった。80年代、つかこうへいの作品が連続して映画化された。おいらは夢中になって観賞した。劇場に出向いて。つかこうへいの本領である芝居は一度も観たことがない。62才没。肺がん。煙草の吸いすぎだ。
監督西谷弘・原作平野啓一郎の『マチネの終わりに』。最初に映画をDVDで観て、それから原作を読んだ。この順序はどうなんだろうかと思う。よいことなのか、よくないことなのか、どっちだって関係ないのか。
物語の舞台背景が大掛かりなのはこの作品の魅力の一つだ。世界をあっちに行ったりこっちに行ったりして動きがある。それはいいのだが、男(福山雅治)と女(石田ゆり子)のあいだに横たわる障害の複雑微妙な作り方には疑問を感じざるを得なかった。これはありえないという展開がいくつか目についたのだ。そうした疑問があると、観ている(読んでいる)鑑賞者は物語のなかにわが身を委ねられなくなってしまう。
映画では福山・石田ご両人別々の怖ろしいまでの嗚咽シーンがある。おいらは感応し過ぎて、おいおい声を上げて哭いたが、それは彼らの役者魂に感銘して哭けたのだと思う。二人ともプロ中のプロの役者である。
福山雅治の流れで、是枝裕和監督『そして父になる』を観る。是枝監督の映画といえば、昔昔『歩いても、歩いても』という題名からしてぼんやりした、やはり中身もぼんやりした作品を観たことがある。不思議な味わいの作品だった。
『そして父になる』は設定がわかりやすいので、その分、緊張感に欠けるが、安心して観ていられる面ももつ。途中ドキリとさせられたのは、事故あるいはミスだと思われていた新生児取り違えが、助産師による故意によるものだと、裁判所で当の助産師からの告白でわかるシーン。職場のパソコンの前で「ええええ!」と大声を発してしまった。
是枝裕和監督の流れで8年前に公開された映画『海街diary』を観る。つたやに行ってもなくて、結局ネットで購入してしまった。そこまでして観たかったのは、15才から16才の広瀬すずをじっくり観たかったからである。おいらにしては珍しい動機である。広瀬すずは現在25才だが、15才のときと比べて魅力が愕然と下落してしまった。少女から大人になりつつある過渡期の彼女は、よくよく見ると、アメリカのジャズシンガー、若き日のノラ・ジョーンズに似て怪しい魅惑を内包していたのに。
もしもおいらが監督で映画を撮るとしたら、迷うことなく高校生同士の恋愛映画を撮ろうとする。女子役は高校1年の広瀬すずを起用する。もう一人高校3年生の女子を設定して、高校2年生の神々しいまでの美青年の男子をめぐる三角関係のドラマを作りたい。高3の女子役は検討中だが、高2の男子役は若き日のおいらに決定している。

2023年09月09日

話の続きは二作の小説『恋愛中毒』『君の膵臓をたべたい』を読んでの感想から始めなければならなかった。読んでから数週間経っていることを前置きした上で、ずばり述べよう。
忘れた。以上。
『膵臓』のほうは我慢して8割読み続けたが、主人公の女子が退院して、突然路上で通り魔に刺されて殺される場面で、図書館から借りた単行本(文庫本ではない)を放り投げた。そこで一言。ざけんな。俺の貴重な時間を返してくれ。論外。
300万人の読者を相手にもう一度言おう。論外。
もう一言だけ言おう。登場人物の命を自分の勝手な都合で奪う権利、作者にその権利はない。どうしても登場人物を死なせたいなら、それなりの責任を作者は取らねばならない。以上。
『恋愛中毒』は『膵臓』の作者と比べたら、文章に芯があり、修行を重ねた跡が見られる。小説は文章に始まり、文章に終わるのだ。何度も放り出す衝動に駆られたが、なんとか最後まで読み通せた。
おいらには時間がない。そろそろ終わりにさしかかっているのがわかる。一日一時間が貴重だ。(おいらにとって)読む価値がないと思ったら、すぐに投げる。投げずに最後まで読んだなら、それはそこそこおいらにとっては「作品」だった、ということになる。
それにしても両作品に触れて思うのは、命と性の軽さである。性に関しては百戦錬磨! のタナカであるが、それは日常というとるに足らない生活のなかの排泄に過ぎないものなのであって、非日常の「芸術作品」で描こうとする性と比べるべきものではない。不特定多数の読者の目にさらされ、読者になんらかの感動を与えるべき主題としての性が問題なのである。
45年ぶりに、中沢けい作『海を感じる時』を図書館で借りて読んだ。作品は45年前読んだときとはまるで違った姿を見せた。女子高生が同じ学校の二つ上の男子と汗くさい部室で、狭い下宿で性交する話である。その性交はたいてい女子のほうから誘ってなされる。男子は半ばめんどくさがるが、棚から牡丹餅の気分で性欲を排泄・処理する。その事実を女子の母親が知って狂乱する。
安易だなと少々うんざりしながら、それでも女子高生の感覚にいくらかの共感を以て寄り添えている、初読後45年経った初老のおいらを発見したのは嬉しかった。まだしも切実さが伝わってくるのである。ここが「作品」であるのかないのかの境目である。
……う〜ん、おいらはまだいけそうだ。やれる。
2023年08月25日

あるとき思いついて、高校生が読んでいて人気のある「恋愛小説」を読んでみたく思った。さっそくネットで探してみた。「高校生におすすめの恋愛小説30選」というページに出逢った。この際だからがんばって2冊読もうと決意し、2冊図書館で検索し、予約を入れた。
ページの一番最初に紹介されていた住野よる著『君の膵臓をたべたい』を入手した。実写・アニメで映画化し、大ヒットしたらしい。累計発行部数300万部越え。にもかかわらず、おいらは著者名も著書名も初めて目にした作品だ。
もう一冊は山本文緒著『恋愛中毒』。この著者とは薄らとした縁があって、この際読もうと思って入手した。著者の名を初めて目にしたのは1988年である。35年が年月が経っていた。35年1行も読んだことのない、名前だけ知る小説家だった。
おいらは遠い昔、大学在籍中から始めたミニコミ雑誌の主宰者を務めていた。年2回刊行で13年続け、計26冊を世に送り出している。もちろんそんなアマチュア雑誌は終刊とともに闇の彼方に消えた。主宰者のおいらでさえ何十年と手に取らない、ほとんど思いだせない代物である。今ではただのゴミ屑。参加メンバーの多くはおいらが在籍していた大学関連の者であった。そのなかに小説家山本文緒さんの実兄が混じっていたのである。やはり同じ大学の後輩だった。何才年下かは思い出せない。たぶん2才か3才年下?
あるとき雑誌発刊の祝いの席で彼から一冊の文庫本をもらった。
「いやぁ、ぼくの妹が今度本を出しましてね、タナカさん、ぜひ読んでくださいよ」
そのとき彼はすでに大学を卒業して、某私立高校の教諭を勤めていたと記憶する。社会科が専門だったような……。顔こそ思い出せないが、眼鏡をかけていた。もらった文庫本は集英社コバルト文庫、ジュニア小説と肩書が付いていた。表紙はいわゆる少女向けの、目のぱっちりした女の子をモデルにした漫画だった。題名は忘れもしない、『きらきら星をあげよう』!
ありがたくいただいたけれど、正直に告白すると、おいらはその本の1行も目を通していない。そのころのおいらときたら、三島由紀夫と高橋和巳にのぼせていた(現在と変わらない!)。そこにきて、あのイラストの表紙ときらきら星とコバルトとジュニアなのである。まったく受け入れる余地はなかった。せめてぱらぱらとページくらいめくればよかったのに、それさえしなかった。以来、35年の歳月が流れた。
著者はジュニア小説を卒業して1992年一般文芸にくくられる大衆小説を書き出すに至る。おいらがこのたび読了した1998年発表の『恋愛中毒』は吉川英治文学新人賞を受け、2000年、現日大理事長林真理子に絶賛されて『プラナリア』で直木賞を受賞した。世俗的な成功を収めて、作家としての地位を獲得した。……残念ながら、今から約2年前、2021年10月、すい臓がんで死去。享年58才だった。
おいらは昔から自分で自分に肩書を付けている。そんな肩書の出る幕もないほど、友人関係に乏しい孤絶した日々を何十年と続けてきたけれど……。その肩書とは「虚無主義者」、それともう一つ「神秘主義者」。この2つの主義はそのまま三島由紀夫と通底する。
神秘主義者の発想からすると、35年前、偶然目にした小説とその著者がなにかをおいらに発信している直感を否定できない。そして今回ネットで偶然目にしたその著者の恋愛小説。おいらは『君の膵臓をたべたい』を後回しにして、山本文緒著『恋愛中毒』を読み始めた。名前を知ってから、35年目の小説との出逢いであった。
2023年08月14日

大学時代、吉祥寺が馴染みの街だった。ここで2年アルバイトをやっていた。週に一度は出かけた街である。井之頭公園に近い。東京女子大があり、法政大の付属高校があった。古い映画を上映している映画館もあったし、古本屋も何軒かあった。
繁華街の中心にジャズ喫茶があって、数回出かけた。生演奏が売り物で、ピアノにウッドベース、ときにドラムスやボーカルが加わった。
一回は女性といっしょだった。飲み物を注文するのだが、彼女の注文したものを今も覚えている。ハイボールである。ではおいらは何を注文したか、はて、思い出せない。若いころからアルコールは苦手だった。飲めるのはアルコール度の低いビールかワインか焼酎を割ったものだ。ちなみにおいらはこの20数年もアルコールは口にしていない。完全に飲めなくなってしまったのだ。
ハイボールとは名前が洒落ているな、どんなお酒なのか、アルコール度はどれくらいなのか、と考えて、気づいたらとんでもない時間が過ぎていた。結局、おいらはこのお酒と縁がなく、味を知らないままここまで来てしまった。
ネットのCМでノンアルコールのハイボールが発売されたと聞いた。ううん、飲んでみようかなという気分になった。ノンアルコールビールはこの酷暑の夏、毎日のように飲んでいる。ドン・キホーテで箱で買っている。銘柄はサントリーのオールフリー。
ハイボールというと女優の吉高由里子を連想する。相当のハイボール好きらしい。お酒が好きなんだろう。そういえばいつも酔っぱらっているイメージがある。といっても、おいらは彼女の映画やドラマはまったく観たことがない。正統派の美人女優だなとは思う。身長161センチ。35才。独身。頭脳のなかのネジが一本抜けている支離滅裂さはおいら好みだ。気になる(心配になる)のは男性関係で支離滅裂かどうか。広末涼子みたい……。
吉祥寺のジャズ喫茶に一度ごいっしょした女性とは、幸か不幸か(ギリ)ただのお友達だった。そのときの記憶は薄れてしまったが、ハイボールともうひとつ、彼女が愛煙していた煙草の銘柄を覚えている。セブンスター。これがまたうまそうに吸っていた。セブンスターにハイボール、吉祥寺のジャズ喫茶――なんだか格好いい。
それにしてもあのとき、おいらが飲んだお酒は?……やっぱりビールだったかな。
2023年08月02日

森村誠一という小説家の作品は読んだことがない。遠い昔に「悪魔の飽食」というノンフィクションを読んだ記憶はある。おいらにはどうにも動かしがたい偏見があって、推理・ミステリー・エンタメという宣伝文句が附くと、読もうという意欲が失せるのだ。松本清張でさえろくろく読んでいないのであるから。接することがあるとすれば、映画である。「人間の証明」は観たことがあった。その観賞後に原作に手が伸びないのである。
森村誠一の想い出というと、2015年に国会議事堂前で政府への抗議集会が毎日毎晩のように起こっていたとき、森村の姿を見たことだ。森村は演壇に立ち、マイクを握って演説した。安倍政権への痛烈な批判である。戦争の恐ろしさについての啓発である。享年90才だから、敗戦の年、森村は12才、今でいえば小学校6年生だった。
おいらが印象深かったのが、森村の演説の中身・構成や演説の発声・抑揚ではなく、演説の順番を待って、演壇の近くに立っているときの森村の硬い表情であったことは、説明しがたい印象と言わざるをえない。おいらのパソコンのスピーカーから聴こえてくるあの場の騒々しさのなかにあって、森村の沈思黙考は森閑としたものがあった。一点をじっと見つめている重たさと激しさがあった。これこそが多作な小説家の集中力のようにも思えた。
こうした言語化できない直感から、おいらは何人もの未知の作家の世界に入ってきた。今のところ森村の著作に手を伸ばす気配はない。週に数回は訪れる浜松市立中央図書館のカウンター前に特別企画として置かれた森村の作品群を見かけて、いつの日かの出逢いを刹那に夢想してみた。
2023年07月16日

5月20日に行われ、テレビで生放送されたザ・セカンドと名付けられた新しい漫才賞レースを、ユーチューヴ動画で全編観賞した。書こう書こうと思っているうちに、2ヵ月の時間が過ぎてしまった。弊社タナカゼミの指導者紹介のページでは、指導者は自分をお笑い批評家と自己紹介している。その軌跡・証明をときどきでもいいから、書きこまないことには収まりがつかないと自分一人で気にかけてきた。弊社の指導者、弊ブログの筆者に関心のある者など、全世界見渡して皆無であるのに、律儀に責任を感じてしまうおいら。簡単に説明すれば、生きるとは自分との闘いだという、あまりに手垢のついたタナカの生存原理を示せばよい。
結成16年以上の漫才コンビで、M1やザ・マンザイなどの賞レースで今一つぱっとしなかったコンビが出場した。あれ、スピードワゴンはM1で優勝していなかったけ? 決勝戦まで残ったマシンガンズなんてのは、ほんと、昔から名前だけは耳に入っていたが、お笑い批評家のおいらからは一度として注目を向けられることがなかった。囲碁将棋然り。
結局、トレンディエンジェルと似た、禿げネタ専門のギャロップが禿げネタ以外のネタで優勝したが、このコンビの決勝戦のネタには思い切った選択をしたものだと感心した。6分間の結末に観客を一気に爆笑させる――それまではほとんど笑いを取らず、笑いのパワーを蓄積させる技法――ネタで勝負に出たあたりは、永いあいだに培った勝負師の直感と肝っ玉によるものだ。凡庸なコンビなら、最初から細々と小さい点数を稼ぎにいくところである。
これはひとの生き方にも応用の効く、少々危険な処世術である。会社組織内において、事なかれ主義で上役に低身阿諛追従迎合して、点数稼ぎを重ねる日本人の平均的な生き方ではなく、低空飛行を永く装って、アイデアを撓めて、あるとき一気に会社組織内外を驚嘆させるような一撃をぶちかます……これである。まんまと成功したときのカタルシスといったら……
ところで、弊社タナカゼミはその目論見で始めたが、25年経って、はたして爆発的な注目を得たことがあったか。はて?……
2023年07月01日
平野啓一郎の大著『三島由紀夫論』で、意表を突かれた箇所があった。「あとがき」のなかにそのくだりがある。
《本書は、三島が最後の行動に至る軌跡を、その作品に表現された思想に忠実に辿るものだが、では、その死が必然的なものであり、不可避であったかと言えば、必ずしもそうとは思わない。
三島が死に強く惹かれていたことは事実であり、死なねばならないと思いつめていたことも確かだが、最後まで生への執着も見せており、現代ならば、その希死念慮に対して、心療内科や精神科によるサポートも可能だったであろうという見方は、否定すべきではない。これはまったく、<文学的>ではない、人によっては冒瀆的とさえ思われるであろう指摘だが、長年、自殺の問題を当事者との関わりから考えてきた私には、そうした視点を一切排除し、ひたすら思想の問題に自閉することは、不真面目と感じられる。三島が、最晩年の「音楽」で、敢えて、精神分析学による救済の可能性を主題とした事実には――そして、その描き方はパロディであったが――、改めて注目すべきであろう》
まず言っておきたい。平野が「長年、自殺の問題を当事者との関わりから考えてきた」とはまったく知らなかった。考える途上で、考えた結果として、考えたことを公開したもの――対談やシンポジウムなどの動画、小説などの著書があるのかどうか、おいらは情報をつかんでいない。
意表を突かれた(叶わぬ)提案というのは、希死念慮に囚われて歯止めの効かなかった三島由紀夫に対して「心療内科や精神科によるサポート」を試みるという一案だ。晩年の大江健三郎が精神科医院に通っていたという報道に触れたことがある。真偽のほどには一定の疑問が残る。おいらは大江健三郎に敬意を抱き、人柄にも信頼を置くものであるが、たしかに彼はかなり程度の進んだ偏執狂を心に抱えこんでいたとは推測できる。偏執狂といった場合、これに小説家という肩書をくっつけるとその語は賛辞になる。偏執なところがあってこそ、その者は余人が書けない人間世界を着想でき、作品として成立させることができるのだ。
《私は日本の戦後の偽善にあきあきしてゐた。(中略)この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであった。それ自体としては、別に非難すべきことではない。しかし、かうして知識人のconformity(従順/画一化/類似)が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるconformityに疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた》。(三島由紀夫『楯の会のこと』より)
以上のように考えた危険な〈狂人〉は、極端に右翼で、戦争必然論者で、暴力テロル是認論者になった。昭和四十年前後、四十才前後の年齢から、三島は意識的に、故意に、意地になって、やけのやんぱち、危険な急斜面を日に日に暴走し、五年ののちに人騒がせな自決を果たして天に昇っていったのだ。
以上のような自覚の上に築かれた人格は、生前果たして治療の対象となりえたのであろうか。
この数ヵ月、三島の昭和四十年代の五年間について、おいらは読みながら考えて書き、考えて書きながら読むという毎日を送ってきた。華々しい自決に走る三島に、困った困った、どうしようどうしよう、俺、俺はどうなっちまうんだ? といった脅えた弱弱しい自省はほとんど見当たらない。堂々と狂いつつあった。ファナティックに、もっとファナティックに! アクセルは踏むばかりで、ブレーキに右足をかけた痕跡は皆無といってもおかしくない。
おいらの視点は、だが、一定程度の、それと認められる逡巡があったのではないかという疑いである。逡巡のあったことをつかんで、それがなんだ、どうかしたかと思われるかもしれない。人間に迷いはあって当然だ。三島にもあっただろう。なのに鬼の首をとったかのように、その証拠を取り上げて公表する――それはいかにもさもしい根性である。
おいらは何に焦点を当てたいのか。おいらが目指そうとしている点は、漠然としか言えないが、三島由紀夫の孤独を視たいということである。読んで考えて、また読んで考える――この繰り返しを数十年続けてきて、ふと立ち止まりしみじみ思うことは、三島さん、あんたはほんとうに孤独な方だったんだ……という感慨である。
平野啓一郎が提案した心療内科・精神科での治療では孤独は癒せない。月面の豊饒の海にあたる孤独を癒す効果を期待できる投薬は、ありえないとおいらは信じる。

2023年06月19日

2006年の4月からライヴドアのブログサービスを借りて、当ブログを書き続けてきた。17年を越して継続中ということになる。で以て、読者はほとんどいないというのが結果と言えば結果で、以上について筆者は何を思うべきか、である。
三島由紀夫をこのところ集中的に読んでいて、特に自決の5年前、昭和40年頃からの作品や批評を斜め読みの得意なおいらにしては、熟読に近い熱度で読破している。全集の年譜まで丁寧に目を通している。とりあえずの目的は三島論を書くことで、仮称「三島由紀夫の最後の5年」にしようかと思っている。その本題に「への一視角」とかなんとか付けることも考えていて、ようするにあんまり自信がないことを顕してもいいかなと、態度は控えめだ。といって、これといった読者ははっきりと特定されていない。
三島は行動の無効性、反社会性ということを繰り返し強調していて、それは17年続けているおいらのブログにも相当すると思ったりする。三島が敬意を抱く森鷗外が書いた大塩平八郎が、まさに無効性の歴史的人物だそうだ。その無効性の歴史的人物に三島由紀夫も当然名を連ねているのは言うまでもないことで、二人とも自ら命を絶っている。たぶんであるが、無効性の極致をめざして奮闘中のおいらは自決するプランは今のところなく、それもこれもそんなことをしても、大塩平八郎や三島由紀夫のように歴史に名が残ることなどありえないからであろう。
三島は馴染みの哲学者ニーチェを援用して、アポロン的な鷗外は大塩平八郎のディオニュソス的な行動に対して十分な感情移入をなしえなかったと指摘する。そこが三島の鷗外への不満である。1970年11月の「三島由紀夫の乱」はその意味では、まさにディオニュソス全開の決起に他ならず、ラディカルにしてデーモニッシュであったことはまちがいない。誰しもそう認めざるをえないだろう。ただし、無効であり、反社会的であり、ゆえに半世紀以上経ってもその乱にこだわり続けて、筆を振るうおいらや平野啓一郎君がいる。
文武両道を地味に生きているタナカはどうなのであろうか。おいらも大塩平八郎が感じたと鷗外が書いた、無効性の極致「枯寂の空」を感じているといっていいのだろうか。否、あんまり感じていない。17年をさらに遡ること24年前、おいらはその地点から十分に「枯寂の空」のなかに立ち尽くしていたのだから。
2023年06月04日

三島由紀夫ばかり読んでいる。この40年ばかり、多少の変動はあっても、ほぼ三島病を病んできた。ここへきて、三島論を綴りたいなどという意欲まで湧いてきたから、さぁたいへんだ。
三島論は星の数ほど書かれ発表されていて、今さらおいらが述べる隙間はないと思う。直近では、おいらよりずいぶん年下で、おいらなりに尊敬の念も抱いている小説家の平野啓一郎の新著「三島由紀夫論」が出版されたばかりで、一気に全編通読した。4,000円近くした大著で、量もすごいが、これを小説の新作を発表しながら、自分独りで調べて書いたとはとても思えない、執念漲る三島論である。三島の研究者、三島をめぐるネタを得意とする物書きは多いが、彼らをおおかた凌駕する研究書だ。自分独りで……? と疑ったのは、注も豊富だし、他の論文や批評など、あっちからもこっちからも論拠を集めていて、これは助手なしではとてもできあがらないと推量したのである。
平野は新潮社の後押しで文壇に、それこそ一気に、またたくまに登場して地位を占めた人物だ。そのときの新潮社の宣伝コピーは「三島由紀夫の再来!」である。「再来」だったか、「生まれ変わり」だったか、忘れたけれど。大袈裟だなと思ったには思ったが、今回の分厚い新著「三島由紀夫論」を読んでみて、その広告文を裏切らないだけの才能と根性はもっていると感じられた。
現在図書館から借りて斜め読みしているのは、磯田光一という評論家の三島論である。この評論家の、まだ三島が生きて活動中だったとき書かれた三島論を読むと、おいらの出る幕は一切ないという気がしてしまう。また書いて発表した論文の数も多いのだ。
磯田は1987年に56才で病没している。おいらは亡くなる数年前に講演会で磯田の声を聴き、姿を見ている。あのとき50才を4つか5つ過ぎた年齢だったのだが、あのときも、そしていま思い出してみても、普通の聴衆がほとんど聴きとれない早口で熱弁を振るった弁士は、65才をとっくに過ぎたお年寄りにしか見えなかった。
何か綴らないとならない。平野や磯田が耕していないところで、主題を着想して、方法をひねって、三島由紀夫の新しい一面に光をあてなければならない。

2023年05月19日
芸術は長く、人生は短し。同感だ。
おいらが自分は芸術家(タイプ)だと自覚したのは、中学2年のとき。シンガーソングライターの流行に満身乗って、ギターを買ってもらって習い、歌を作り出してからだ。それからとんでもない年月が過ぎた。いま思うことは、芸術家(タイプ)なのに、自分は何一つ芸術作品を創っていないということだ。創ったと思いこんでいたモノたちは、ただのガラクタだった。
おいらは坂本龍一という芸術家の良き理解者ではなかった。ただし、坂本という芸術家の政治・社会への態度について敬意を抱いていた。大江健三郎についても同様だ。芸術に携わる者が政治から距離をとる、政治を忌避する、政治と関わらないとしたら、それはおいらの考える芸術(家)像と相いれない。
気持ちはわかる。もしおいらが名の知れた芸術家で、それで生活を維持し、家庭を守り、所属する事務所の経営に参与していたら、狭い視野で見たら直接には一文の足しにもならず、ネットやらなんやらから叩かれ、敵対する勢力から陰に陽に脅されることから逃げたく思うだろう。実際、この十数年、多方面で発言を重ねてきた坂本には、おいらたちには把握できない心理的抑圧があったはずだ。言いたくも思いたくもないが、それによって彼のからだの癌細胞と闘う免疫力が減じていたとも考えられる。だとしたら、あまりに悲しい。
芸術家は一般に精神が繊細にできている。でなければ、作品など創れるわけがない。殊に作曲家はそうだろう。詩人だって、小説家だって、言葉への感受性は一般人よりはるかに繊細で鋭い。とるに足らない中傷でも暴言でも、感受性は損傷を甚だしく受ける。芸術家はそんな理不尽な被害によって、仕事ができなくなってしまう。それを怖れる。
ユーチューヴを介して視聴できる過去の坂本の集会でのスピーチは、あまりに非政治的な声の響きである。それだからこそ芸術家の強い信条が伝わる。吉永小百合という反戦詩人の朗読に後ろからピアノを添えた録画を見ても、弾きすぎない「間」に反戦の心をこめていることが伝わってくる。
坂本の声がもしも再び聞けるなら、おれは共闘する支持者たちの共感と大声援に包まれて、マイクを持ってもう一度演説をしたかった、とは言わないだろう。彼がもう一度したかったこと、それは独り静かにピアノを弾きたかった、その願いだけだ。坂本はどこまでいっても、音楽家であり、詩人であった。ゆえに自然を愛し、平和を、人間を愛したのである。自然や平和や人間を壊す者に、ピアノの前を離れても抗議の声を上げずにはいられなかったのだ。
芸術家の端くれの端くれのおいらには「ピアノをもう一度弾きたかった」という坂本の声が聞こえる気がする。その声に、おいらは慟哭せずにはいられない。