2022年05月15日


 曲名からして、意外感があった。じつに11年ぶりに発表された山下達郎のオリジナルアルバムに収録された新曲「弾圧のブルース」を聴いたとき、(日本を含む)世界の危機はここまで来てしまったのかと、気持ちを落とした。山下達郎よ、よくぞ、歌ってくれた! と彼への称賛よりも先に、憂鬱な気分になった。あの山下達郎でさえ、こんな歌を発表しなくてはならないほど、現在、(日本を含む)世界ではごく普通の国民・市民に弾圧の危険が忍び寄っている。また、圧倒的多数のごく普通の国民・市民はそんなことを脳裏にかすめないでいる。ということは、日本もあっというまに、言論や政治行動を暴力的に抑圧されるロシアや中国や香港のような国になる。あっというまに、ロシアのような他国を武力で侵略する国になる。来年の憲法改悪がその始まりになるだろう。
 山下達郎は普通レベルの国民・市民ではなかった。そこは妙にうれしかった。一浪して入った明治大学法学部を3ヵ月で中退しただけのことはある!(凡人はこざかしく卒業証書を手に入れることを第一とするだろう)。
 
 忌野清志郎が生きていてくれたなら、この13年、彼はどんな歌をうたっただろうか。プーチン皇帝率いるロシア帝国のウクライナ侵攻という蛮行すぎる蛮行のニュースを目にするたびに、日本のポップス・シンガーのなかでもっとも周囲に忖度することなく、自分の信じたことを歌うシンガーソングライター・忌野清志郎の不在をかなしく思う。予想に反して、山下達郎がその代わりを務めるとは。たとえ一曲かぎりだとしても。
 ベテラン山下達郎は、おいらの知る限り、政治の言葉を歌うシンガーではないはずだ。量感豊かな美声で、哀愁や感傷を交えて、キホン的にはリゾート感覚の平和な生活の細部を英語の乗りを駆使して、聴く者の各種のホルモンを活気づける作風を得意とする。歌やアルバムの題名から歌詞にいたるまで、英語のカタカナやアルファベットが過剰に採用されている山下にしてみれば、「弾圧」といった日本語はおよそ似つかわしくない。古くからの達郎の支持者は意外な感を禁じ得ないであろう。意外どころか「裏切り」ですらあるといえるかもしれない。決して達郎の支持者ではないおいらには嬉しいばかりだ。支持者を裏切らないアーティストなんてのは、おいらにいわせればほんもののアーティストとはいえない。ピカソを見よ。ボブ・ディランを見よ。
 3年ぶりに全国ツアーが行われるという。大ホールで、ぜひとも「弾圧のブルース」を熱唱してもらって、11,000円の入場料を支払って観に来る観客の、頭のなかに忍ばせる山下達郎イメージを裏切ってほしい。


 ♪ 弾圧のブルース 詞・曲/山下達郎

   流れ出るその涙を
   受け止めてあげたいのに
   なぜ、出来ないの?
   優しい瞳の少女は
   どこへと連れて行かれたの?
   なぜ、そうなるの?

   こんな遠くじゃ
   叫び声さえ届きはしない
   銃声に掻き消されたまま
   本当の事を教えて
   こんな小さな真実が
   なぜ、叶わない?
   君が生まれた

   街の通りは
   見る影もない
   今日もまた
   銃声が聞こえる

   雨は降り続く
   許してはならないこと
   あったはすじゃなかったのか
   ねえ、違うの?
   なぜ、言えないの?
   何も、出来ないの?

   どうして?  どうして?
   何も、言えないの?
   どうして?
   どうして?
   何も、出来ないの?



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2022年05月07日


 教会に出向いた経験は、これまで数回に過ぎない。長崎にある世界的に著名な浦上天主堂の早朝ミサに二度参列した。ただの観光客――あてどなく一人旅する流浪の野良犬(この旅をおいらは歌にしている。例のユーチューヴ動画/タナカゼミ・セッションで世界に向けて配信中。曲名「地図のない旅をゆけ」。チャンネルを開設して1年経って、現在、チャンネル登録者数、なんと4名!)――に過ぎないおいらは、物怖じして室内の最後列に座って、静謐に、粛々と進められる儀式をぼんやりと見やっていた。3月の早朝はまだ暗い。ミサが終わるころに朝日が教会内に差し込んでくる。ステンドグラスを通して入りこんだ光に映し出された教会内は、それはそれは荘厳な美しさだった。
 静岡のとある小さな教会の小さな音楽会の場に身を置いたこともあった。とある友人に誘われてのことで、友人以外誰一人として知っている者はいない。クラッシックギターによる演奏会だった。そのときおいらが感じたのは、参加者から醸し出される「落ち着いた」心の寄せ合い。

 だいたいが、キリスト教についてまともに勉強したことのなかった人生だった。大学時代、交友のあった友人からお誘い方々、半ば強制的に(こちらとすれば、うんざりする気持ちで)「説法」を聞かされたことはあった。旧約も新約も書棚に並んでいたが、まともに読んだこともない。それらの聖句は埃にまみれた(小坂忠いうところの「電話帳と変わらない」無用の長物)まま、おいらの心の琴線に一向届かないまま、ぼちぼちその役割を終わろうとしている。
 映画の類はいくつか見ている。20年前に浜松の劇場で観た「パッション」という映画の記憶は鮮やかだ。ただし、おいらの琴線を揺り動かすほどのものではなかった。

 それでもキリスト教について考えるとき、錆びついたおいらの心を多少とも動かす御方がいた。マザーテレサである。彼女の活動を映し出した映像を見ると、黴の生えたおいらの心であっても、何かが蠢く。ただし、よく考えると、それはなにも修道女たちの慈善活動でなくてもよいわけで、困っている人たちを助けるボランティアの無償の活動でもよいわけなのだ。なのに、マザーテレサの団体に心が蠢いて、無名で無宗教のボランティアにそれがないのはどういうわけか。
 両者に違いがあるとすれば、マザーテレサの団体が質素な衣服を身にまとい、宗教者特有の安心立命した穏やかな顔つきで(この見方はおいらの下卑た偏見だろうか)粛々と活動し、合間を縫って祈ることを忘れない、ということだろう。なるほどボランティア活動家に制服はないし、祈りの時間もない。
 
 遠い昔、テレビの番組でマザーテレサの肉声を聞いたことがあった。聞き手がマザーテレサに質問した。目の前にある、どうにもしようがない困難や障害、理不尽や不条理、失望や絶望を前にしたとき、あなたはどうしますか? といった質問だった。
 彼女は答えた。「私なら、祈ります」と。

 ほの暗い部屋で、迷うことなく答えた彼女の顔や声音をおいらは忘れられない。この一言がおいらの胸に、正体不明な「?」を宿し続けてきた。
 わからない。さっぱりといっていいほど、わからない。だが、そのわからなさは、永年おいらの身と心を微妙に動かしつづけてきた。
 わからないのは、おいらが祈ったことのない人間だからかもしれない。それでも、気にしつつ何十年も「?」を抱いてきたということは、おいらが本来祈るべき人間であることの証明なのかもしれない。けれども、現在もおいらには祈るということがどういうことなのか、どうすることなのか、やっぱりまったくといっていいほどわからないのである。

 先日天に召された小坂忠は、病床でウクライナの絶望的状況について憂えていたという。無際限に暴挙を働いて恥じることもひるむこともないプーチン率いるロシア帝国とその軍隊に向けて、さらには爆撃や蹂躙に四六時中脅えているウクライナ国民や、隣国に避難して十分とはいえない衣食住に耐え、将来の生活に不安を抱く難民に向けて、牧師であり、ゴスペルシンガーであった小坂忠は、生涯の最後に何をどう祈ったのであろうか。
 
          

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2022年05月05日

 
 シンガーソングライターの小坂忠が亡くなった。享年72才。
 小坂についておいらは、これまでほとんどなにも知らずにきた。知っていたたったひとつの事実(それが強烈な一事実なのだが)は、(佐野史郎ほどではないにしろ、わが高校時代、マニアに近い傾倒ぶりを寄せていた)ロックバンド・はっぴいえんどの前身バンド、エイプリルフールの一員だったということだ。ともかく、小坂の楽曲もほとんど耳にしたことがなかった。

 逝去の報を耳にして、この機会にユーチューヴで小坂の歌を聴いてみようと思った。最初は小室等の「小室等の新音楽夜話」という番組によってである。小坂はこの番組で2曲歌っている。一曲は半世紀以上前に作られた、小坂の代表曲の一つである。驚いたのは、もう一曲が、なぜかボブ・ディランの「フォーエバーヤング(いつまでも若く)」だったことだ。普通ならせっかくの機会に自作を披露するところだろう。
 60年に及ぶ音楽活動、厖大なオリジナル曲のなかで、おいらが一曲だけ好きなディランの作品を選べといわれれば、迷いながらも「フォーエバーヤング」を挙げることにしている。その点でも初対面に近かった小坂忠との意外な共通点に意外な印象を受けた。

 小室等との談話のなかで、小坂が「フォーエバーヤング」を選曲した理由がわかった。鍵語・鍵概念は「神」「祈り」であった。この曲は「♪ 神の恵みとご加護があなたにいつもありますように/あなたの願いがすべて叶えられますように/いつも誰かのために力を尽くし/誰かがあなたの力になりますように/星まで続く梯子を築き/一段一段昇っていけますように/いつまでも若くありますように」と歌いだされる。
 
 1976年に小坂はキリスト者となり、その後、牧師にもなって、福音の布教活動を始めた。従来の音楽活動と並行して、ゴスペルに特化したレーベルを作り、既存の讃美歌をロックっぽく編曲して歌うという刷新も試みる。「小室等の新音楽夜話」を視聴するまで、そんなことのかけらもおいらは知らずにいた。
 きっかけは一人娘が2才のとき、全身大やけどを負ったところから始まる。むろん父親小坂は病院の治療にすべてを委ねただろうが、それでやけどがどこまで治るかはわからない。娘が思春期を経て、大人の女性になったとき、やけどの跡がどこまで残っているか。小坂は娘のためにどんなことでもしようと決意した。
 小坂の妻の祖母が敬虔なクリスチャンだった。小坂は祖母から、教会で祈ってもらったらよろしいと勧められる。それが小坂が初めて教会に身を運んだ最初だった。そのあたりの小坂の心理を紐解くことは難しい。俗には「溺れる者は藁をもつかむ」という心理であろうが、たとえば実際に一人娘をもつ父親のおいらが小坂の境遇に立ったとしたら、はたして教会に出向き、一心に祈りを捧げたであろうか。

 神の奇蹟なのか、医療の勝利なのか、2才児の生命力なのか、それは判別できない。結果、幸いに一人娘のやけどはほぼ完全に治癒した。このことが小坂の魂に転機をもたらす。教会に行ったこともなく、ただ娘の大やけどの治癒のために親族に勧められて教会にからだを運んだことが、後に小坂を牧師にまでならせてしまう。
 奇蹟というなら、そちらの方が奇蹟というべきではないだろうか。
                               〔つづく〕

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2022年04月17日

 
 祭りが苦手だ。25年近く、つまり四半世紀近く、祭りめいたものに接触してこなかった。接触していなかったから祭りめいたものが苦手になったのか、祭りめいたものが苦手だから、接触がなくなった、あるいは避けてきたのか。両論成り立つ。が、どちらかといえば、おいらにとっては、後者の因果関係のほうが説得力がある。
 祭りとは、ひととひとが群れを組めば生じる集団の動的な輪である。わかりやすいのは、宴会だ。宴会の規模が大きくなればなるほど、「会」の力学を維持し拡大するために「式」の構造が持ちこまれる。おいらにとってこの25年は「会」や「式」と名付けられる時間空間に身を委ねなかった四半世紀であった。葬式と法事以外の場で、おいらは自分で自分の首を絞めるネクタイをしなかった。歩きにくい革靴を履かなかった。肩こりに悩む両肩に上着を羽織らなかった。

 毎年5月の連休に行われていた浜松祭りが、コロナ禍の延長で中止が続いている。何年になるのか。本番の2ヵ月も前から鳴り出すラッパや太鼓の音が、おいらの耳目を刺激しなくなって久しい。おいらの精神衛生にとっては、たいへん喜ばしいことである。
 では、おいらは物心ついたときから祭りが苦手だったのかと問われれば、回答はノーである。10代は祭り好きだった。祭り男だった。20代も変わらなかった。あえていえば、ひととひとの群れを「質」で選択するようになっていった。にぎやかならなんでもいいという訳にはいかなくなった。
 変わり始めたのは30代に入ってから。祭り嫌いの傾向が強くなっていった。ちょうど結婚と子供の誕生がその時期と重なっているが、それらはそんなにおいらの趣向や生き方に大きく影響したとは思えない。肉体年齢の影響のほうが大きいと自分としては思う。肉体の青年から中年の移行によって、おいらの精神も青春を失い始めたのである。
 
 さて、岡本おさみ作詞、吉田拓郎作曲の名曲「祭りのあと」の「祭り」とは何か。さまざまな意味に解釈されるだろう。この比喩の語を一般的な「青春」という語に置き換えるのには無理がある。が、長い一生を祭りにたとえるならば、10代後半から、20代前半は祭りのときであり、それを青春と呼んでもおかしいはない。
 30代の後半から40代にかけて、おいらにも「祭りのあと」はあったはずである。しかし、それだと「祭りのあとの淋しさ」が思いつかない。おいらはそのころ特別な淋しさを抱いていなかったように振り返る。
 おいらが淋しさを感じ始めたのは、もっと後になってからだ。「祭りのあとのあと」あたりからだ。いま現在もその渦中にある。「祭りのあと」はまだしも歌になるが、「祭りのあとのあと」はもう決して歌にもならないほどの淋しさである。いや、淋しさですらないものだ。
 
 では、おいらも昔から好きである有名な和歌「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」(藤原定家)は、「祭りのあとのあと」に類する境地であろうか。いや、歌になっているのだから、それは違う。それは歌にもならない虚無にかぎりなく近い境地に違いない。中世的なわびさびでは美化できない真っ暗な、なにもない世界である。この歌には花や紅葉の残影がある。ラッパや太鼓の残響がある。それらさえなくした世界によろよろと立ち、とぼとぼと歩くときに、自分という存在の終わりが見えてくるのだろう。
 そんな情景のなかで迷い子になどなりたくない。それを避けて他界に旅立てればいいよなぁ……と今のおいらは不安いっぱいに考えている。


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2022年04月06日


 どういった偶然か、暇でユーチューヴを漁っていたとき、美空ひばりが吉田拓郎の名曲「祭りのあと」(作詞・岡本おさみ 作曲・吉田拓郎)を熱唱するビデオに遭遇した。後日ゆっくり視聴しようと思い、中途半端に観て他のビデオに切り返してしまった。ところが、後日、捜しても捜してもその映像が出てこない。
 「祭りのあと」は1972年に発表された「元気です」と題されたLPアルバムのなかに収められた一曲である。この「元気です」が売れに売れた。おいらもそれを買った一員で、レコード盤が擦り切れるほどに聴いたものだ。当時、高校を卒業して一浪中の山下達郎は都内のレコード店でアルバイトをしていたが、彼に言わせると「文字通り羽が生えているかの如く売れていった」「10枚仕入れようとしても、一枚しか入ってこなかった」らしい。
 「元気です」は前年に「結婚しようよ」がシングルヒットし、吉田拓郎なるフォークシンガーが若者の間で話題に急上昇していたとき、かなりの無理をして仕上げたアルバムであるだけに、作詞を岡本おさみを中心に、加川良や及川浩平に依頼して曲数を埋めている。それにしては、詞と曲がみごとに一体化していて、この詞にこの曲在りといった感の秀作に仕上げてしまうあたりは、乗りに乗っていた絶頂期の吉田拓郎の天与の才能によるものだろう。なかでも「祭りのあと」は詞の奥の深さを曲で表している点で、不朽の名作だといっていい。

 どういったいきさつで、あの歌謡曲・演歌の帝王・美空ひばりが「祭りのあと」をステージで熱唱することになったのだろうか。それだけ吉田拓郎の存在が無視できなくなっていたのか(当時、森進一の「襟裳岬」、由紀さおりの「ルームライト」ほか、他の歌手のために拓郎が作曲した歌を提供した例は少なくない)、フォークの高揚に乗っかろうとしたのか(その当時、美空ひばりは岡林信康とも交友を深めている)、歌そのものの魅力を把握したのか……
 もう一度じっくり聴いてみたいと思いながら、今のところおいらのパソコンにそのビデオは上がってこない。そんじょそこらの素人がカバーしているビデオばかりが夥しく羅列されて、おいらに「ぜひ聴いてくれ」とせがんでいる。おいらはそこまで暇ではない。

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2022年03月28日

 
 桜が美しい。ぽかぽか陽気のなか、暖かな日差しを頬で感じて、呑気に花見を愉しむ日本人も多いだろう。第二次世界大戦後、最大の危機にあるこの「地上」で、何の迷いも葛藤も恐れも義憤もなく、桜の花という日本の伝統美に酔いしれる。
 
 いまウクライナで起こっていることは、おいらたち日本人にとって他人事でも対岸の大火事でもない。中国や北朝鮮を後方にちらつかせながら、プーチンという狂人が牛耳る侵略国家ロシアと、不完全とはいえまだしも民主的な社会秩序を維持する国家である国々(日本もそのうちの一つに入る)の一大戦争である。この闘いでウクライナを負けさせるわけには断じていかない。
 最悪、ウクライナがロシアの傀儡政権のもとに統制されれば、プーチン・ロシアは次にヨーロッパの西側を侵略するだろう。アメリカや日本は地理的に離れているからといって、安全とはいえない。ロシアが中国や北朝鮮と手を結び、同盟関係になることも大いに考えられよう。
 ウクライナが戦争を長期戦に持ち越し、ロシアを撤退させるまでに攻め込めば、プーチンは失脚を拒むために、ありとあらゆる戦法に出る危険性も小さくない。すなわっち、核兵器使用、生物化学兵器使用、原子力発電所破壊だ。となれば、もしかすると地球は人類の住めない星になってしまう――と考えるのは、今となってはあながち悪夢のファンタジーで一笑するわけにはいかない。
 
 最も望むべきは、ロシア内部で反乱やクーデターが起こり、プーチンを政権の座から引きずりおろすシナリオだ。国からの一方的な情報統制とプロバガンダで洗脳されているロシア国民であっても、経済制裁による生活のひっ迫には耐えられないであろうし、政権への不満を拡大させるだろう。もともと反戦勢力も潜在しているだろうし、なにかのタイミングで事態が一変することも考えられる。次々と本国に送還される棺に納まれた同胞の無残な姿を次から次へと目にすれば、国家のやらかした侵略戦争に対して疑問を抱くはずである。
 といいつつ、事はそう簡単にはいかない。中国や北朝鮮はもちろんのこと、ミャンマーや香港でも政権に批判的な国民や党派は軍事力の蛮行によって弾圧され、完膚なきまでに解体されている。圧倒的な軍事力をもつ国家に、素手に近い国民が抗うのは焼け石に水だというべきだ。スーチン氏の解放はいつの日か?

 かく憤激して誰も読んでいないに等しいブログに今の想いを刻みつければ、そう、それでおしまいである。おいらといえば、桜の花やチューリップをはじめとする西洋の花を観賞しながら、川沿いを散策するくらいだろう。いまは受験のすべてが終わって、新年度が始まる一年で一番暇なときだ。まっさか義勇兵に志願してウクライナに飛ぶなんてことはありえない。



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2022年03月06日

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 2000年に解散した三人組ロックバンドに、ブランキージェットシティというバンドがあった。彼らの楽曲のなかに「小さな恋のメロディ」という歌があったのを思い出した。

 ♪ 小さな恋のメロディ
   という映画を
   観たことがないなら
   早く観たほうがいいぜ
   俺の血はそいつでできてる
   12才の細胞に流れこんだまま まだ抜け切れちゃいない

 以上の歌詞が曲の冒頭で歌われる。あとに続く歌詞は映画とは関係があるとはいいがたいもので、演奏も含めて、楽曲全体を評価すれば、このバンドにしては成功している作品とは思えない一曲だ。はっきりいえば、よくわからない歌である。詩人・浅井健一の失敗作の一つかもしれない。

 このバンドにのぼせていた一時期があった。ライブにも二回身体を運んだ。一つはNHKホール、一つは浜松のフォルテ(とっくの昔に消えてなくなった地下にあった小ホール)。入れ込み方が普通レベルを越えていたことは、ファンクラブにまで登録していたことで証明される。
 おいらが、おいらより年下で、それなりに影響され、高い評価を抱いていたシンガーソングライターは二人だけ。一人はブランキージェットシティの浅井健一、もう一人は尾崎豊。尾崎については遠い昔、感想をあちこちに書き散らした記憶があり、ここでまた何かを述べようという衝動も意欲もない。浅井にしても、25年以上まったくといっていいほど聴いていないし、聴こうとも思わなく、まして感想を言葉にする意欲もない。ただし、この二人がただ者ではないアーティストであるという考えは、今も依然として抱いている評価である。
 ようするに、問題はおいら個人の問題で、この四半世紀、おいらの音楽的感性は完全に閉じてしまっていて、たとえ聴くに値する楽曲がおいらの両耳をかすめても、馬の耳に念仏に等しくなってしまっただけのことだ。

 そんなおいらが、今般どういうわけか半世紀も前に観た映画について、突然記憶を蘇らせた流れで、浅井健一についても、そういえば……と思いだし、ユーチューヴを使って彼(ら)の歌と演奏をしばらくぶりに視聴するに至った。
 そうかぁ、あの浅井もまたあの映画に何か重大なものを感じていたのか。かつておいらが、星の数ほどあるロックバンドの中で、浅井が作って(グレッチ製のエレキギターを弾きながら)歌う言葉に(のみ)共振したことも、この映画への共振となにか関連がある。
 
 おいらに言わせれば、尾崎も浅井も、凡百のシンガーソングライターとは紛うはずもない詩人的才能である。全国を回って、歌い演奏する吟遊詩人である。現在浅井がどんな歌を作って歌っているかは知らないが、20世紀の終わりにおいらたちの前で歌い放った言葉は、詩のことばであった。それらの言葉は他の追随を許さない、唯一無二の異彩と存在感を放っていた。
 奴の言葉の深淵に、あの思春期の少年少女が繰り広げる映画があったとは!
 浅井の一般的印象といえば、20世紀末、テレビに出て、司会者から質問されれば、ですます調の会話もできない(名古屋弁も隠さず)、いかにも県立高校を中退した不良少年そのものであった。そういえば、尾崎豊も高校中退だった。卒業間際の中退だったはずだ。しかも尾崎が中退したのは、お坊ちゃま学校、青山学院高等部であった。

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2022年02月19日


 座席ではなく、通路に座って(しゃがんで)、一本の映画を最初から最後まで観た……なんて体験は、あとにも先にもこの「小さな恋のメロディ」の一件しかない。しかも、浜松市より(人口数からいって)桁違いに田舎である島田市の映画館で、である。
 半世紀前、今と明らかに違うのは子供・青年の数が多かった。メディアの数が今と比べれば、とんでもなく少なかった。映画を映画館に出かけて観ることが年中行事、日常的慣習の一つとなっていた。今の島田市に映画館は一軒もないけれど、半世紀前はピンク映画館を含めて(当時はどこの町にもこの種の映画館があった。今では激減したが、な、な、なんと、浜松には一軒営業中の映画館がある。出かけたことはないけれど。しかし、一人の男としてしみじみ思うが、いったいどこの男がその種の映画をこの種の劇場に足を運んで観ようと思うのか。……ううん、わからない)、5軒ほどあった。

 「小さな恋のメロディ」という映画に映し出させた、今と昔の風俗の違いを一つ見つけた。主人公たちが野外で赤い林檎を丸かじりすること。しかも、回し飲みならぬ、回し齧り。今では日本中、どの町であってもそんな粋な、洒落た、野卑な青少年の姿と出会うことは不可能だ。けれど、おいらの記憶では半世紀前、林檎の丸かじり(回し齧り合い)は珍しくなかったし、映画やドラマのなかでもよく出てきた。行為者はたいてい若者である。それは青春のシンボルでさえあった。
 当時、中学に上がるか上がらないか、つまり思春期のとば口あたりにいる少年少女がそれを断行するには、大人ぶろうとする気負いを無理に奮い立たせる必要があっただろう。そうして、彼らは大人への扉を開けようとした。世界中、そんな風俗があった。
 では、おいらはそれをしたことがあったかどうか。はて……正直、思いだせない。

 当時の若者はジーパンの太ももの横辺りで、これから噛みつこうとする林檎の一部分を「キュ、キュッ」と音を立てて磨くのであった。磨くというのはおかしい。埃や汚れをとるのが本来の目的だろう。ただ、あの音の立て方はどう考えても、磨く行為にしか思えなかった。この短い儀式は必須で、それなしの丸かじりはシンボル化が半減してしまう。考えてみれば、馬鹿な話だ。しかし、ファッションとはそもそもそんなものだろう。実用性ではない。象徴なのである。

 ところで、ふと思うのは、林檎の身の部分を食べきって、残された芯の部分はその後どう処理されたのか。周囲に田んぼや林や河川があれば、そこに放り投げればよかった。その行為自体が青春のシンボルの一面にさえなっていたであろう。がしかし、今の都市環境でそうした場所はなかなか見当たらない。生ゴミに分類される林檎の芯を捨てるに適切などこかの場(できれば燃えるゴミを捨てるゴミ箱)に持って行く行為は、どうみても粋にも洒落にも青春のシンボル化にもなりそうにない。


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2022年02月05日


 ブログ更新の頻度が落ちてきた。今さら述べるまでもないことだ。読者数のあいかわらずの少なさが理由ではない。むろん一因にはなっていよう。15年も前から綴ってきたおいらの文の集積は所詮ただのごみクズなのは、当初からわかっていて――というより、おいらという一個の存在がただのごみクズであって、ホメラレモセズ、せいぜいクニモサレない程度の存在――評価されようがされまいが、執筆動機には直接影響していない。書きたいと衝動が湧きおこれば書くし、そうでなければ無理に書いて発信したりはしない。このブログがなくなったからといって、当ゼミの集客に影響が及ぶことも考えられないし。
 あえて述べれば、現実味を帯びてきた認知症予防のためにキーボードに向かっている、そう述べた方が的確だろう。一向に上達しないギターを飽きずに爪弾く目的も、それが主目的だ。
 
 なにかを書こうとすれば、ネタを考案しなくてはならない。15年も続けていると、それはいつしか習慣になっている。それこそが認知症予防になる。一般に中高年以降、ヒトに内在するあらゆる機能は使わなければ衰える一方らしい。だから、おいらの眼中には、読者の期待や要望はほとんど入っていないということだ。いやはや、ご無礼申しあげる。

 おいらの脳裏に今ある、次に書こうとするネタは、半世紀以上前に世界的大ヒットした映画「小さな恋のメロディ」(原題は「メロディ」)についてのあれこれの想いだ。この映画については、5年前か10年前かに当ブログで書いたことがあった(気がする)。調べれば簡単にわかることだが、おいらはあえてそれをしない。なぜかしたくないのだ。いったいなぜ?
 昔撮られた自分の写真を見たくない心境に似ている。存在の影だろうが、存在の言葉のつぶやきだろうが、それらは時がくれば一括処理され消え去っていく、所詮ただのごみクズだから。ごみクズ程度の醜さでも、それがいまのおいらをちょっとでも不快にさせるならば、一切かかわりたくない、そんな心境を加速させている。これはおいらの現況が、晩年から最晩年に移行していることの示唆なのかもしれない。

 ときが経てば経つほど、老いれば老いるほど、半世紀前、島田市の映画館の通路にしゃがんで観た(館内は満席で、運よく座席に座れた客数と同じくらいの客数が通路に座って観賞した)一本の映画が、とんでもない傑作に思えてくる。作品中に新たな発見さえ見出る。この作品がビージーズというバンドの歌が最初にあって、それを基にして映画が作られたという経緯を伝え聞いてからはなおのこと、作品を逆の面から考え直し始めたり。
 
 おいらが自分の小遣いで初めて買ったEPシングルレコードが、映画のサントラ盤――A面「メロディ・フェア」B面「若葉のころ」だった(ちなみに初めて買ったLPアルバムレコードは、吉田拓郎の「元気です」)。半世紀、この2曲を自らのギターでかき鳴らすことを怠ってきたが、ふと思いついて、ネットでコード進行を調べてかき鳴らしてみた。思っていたより、単純なコード進行で驚いた。おいらには手に負えない転調や異色なコードが使われていると思いこんでいたのだ。
 そうなのだ。傑作といわれる作品ほど、簡素で基本的な方法がとられる、それはよくあることである。


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2022年01月20日


 その昔、マーティンD35を所有していた。期間は10数年。23年前に有楽街にあったアコギ専門店で売ってもらった。19万プラス消費税。そのころの消費税は5%だったから、税込199,000円で売り出された。わりと簡単に売れてしまった。傷もなかったし、状態は悪くなかった。おいらがもらった分は、15万と16万のあいだだったか。
 初めてもらった賞与を紙封筒そのままズボンの後ろのポケットに突っこんで、新幹線に飛び乗った。お茶の水と、そのころ住んでいた実家のある島田市をとんぼ返りした。現金で月給や賞与が事務室で渡されていた時代である。隔世の感を禁じ得ない。
 黒澤楽器というギター専門店に着くと、前から決めていたマーティンD35(昔昔、吉田拓郎が弾いていた)を捜した。何本か選択肢があったかと記憶がある。多少の値引き交渉の末に、そのうちの一本をハードケースに入れて新幹線で実家まで持って帰ったのである。現金払いで30万、プラス新幹線代。となると、10数年間、15万円くらい払って新品のD35を使わせてもらったということになる。ステージらしいステージのあるライヴで、そのD35を弾いたのは3回。
 実際はあまり馴染みを持てなかった一本であった。ギターそのものよりも、おいらの音楽への関心や熱情が下がり切っていたころだった。一人娘の育児がわりとたいへんで、狭苦しい賃貸マンションで、でかでかとしたハードケースを開いてギターを取り出し、ポロンと弾く環境がそもそもなかった。ぶっちゃければ、無用の長物、場所ばかりとる邪魔モノ扱い状態だった。
 売ってもらう楽器店に持って行く前に、タナカゼミの第1号生の小山龍くん(浜松北高・軽音楽部元部長)に弾いてもらった。タナカゼミの指導室でである。驚いたのは、弾く前に彼が「ちょっと手を洗わせてもらえませんか」といって、実際丁寧この上なく手を洗ったことだった。
 いま思えば、なんでまた売ってしまったのか……と、多少ではあるが、後悔の念が残っている。先日はクエストミュージックでマーティン000−28買い損ねた。山本店長に訊いたら、あっというまに売れたらしい。ギターとの出会いと別れ、そしてすれ違い、案外これが感傷的である。


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