2005年09月
2005年09月29日
国際結婚
高熱にうなされていた先日、高校時代の友達から一年ぶりの電話が来た。その娘(便宜上O女史とする)とは、一緒にニュージーランドを旅したことがあり、以来私たちは距離を遠く保ちながらの関係を続けている。
年単位で連絡が途絶えるが、ある日突然思い出したように連絡が来る。でもわれわれが直接会うことは今のところない。何年時間が経過しても、昨日あっていたように話ができるあたりが本当に不思議な気持ちだ。
昔話をしているうちに、高校の先輩の話になった。T先輩もやはりわれわれと一緒にニュージーランドに行った一人で、とてもやさしい人だった。彼女は今国際結婚をしてカナダにいるらしい。
なんとなく昔から雰囲気のある人だった。若いながらに人格者の気配があり、分け隔てなく人に接し、とても優しい反面どこかに孤独を抱えていた。
国際結婚といっても私には正直ピンとくるものはない。そういうものにたいしての憧れは特にないし、差し迫る現実があるわけでもない。
カナダで暮らす先輩が久しぶりの里帰りをし、O女史の勤めるデパートへ買い物に行き、久しぶりの再開を果たした。不思議な縁があるのだろうか。
2005年09月25日
危険な傾向を看過するな
今外資系の会社がやたらと増えている。たいていのところは社員に英語力を求めている。仕事の都合でたまたま外資系の会社を間近に観察する機会を得た。 この外資系の連中も英語が堪能なようで、みんなペラペラと淀むことなく英語を話す。じつに見事なもの。しかし、ついに私は自分の気持ちに気がついてしまった。「コイツら好かん」と。
なにか人と話をするときに、やたら挑発的というか、人を見下したような物言いをする連中がとても多い。
この源泉はなにかということについて、私にはひとつ思い当たることがある。それは岩波新書で読んだ一冊の本にあった記述である。この本は鈴木孝夫先生(杏林大學外國語學部教授。慶應義塾大學名譽教授。國立國語研究所評議員)の 『日本人はなぜ英語ができないか』という著書である。そのなかに、著名な英文学者・中野好夫教授のエッセイからこのような記述を引用している。
「語学が少しできると、なにかそれだけ他人よりえらいと思うような錯覚がある。くだらない知的虚栄心である。実際は語学ができるほどだんだん馬鹿になる人間のほうがむしろ多いくらいである。」「英語を話すのに上手なほどよい。書くのも上手なら上手なほどよい。だが忘れてはならないのは、それらのもうひとつの背後にあって、そうして才能を生かす一つの精神だ。」「語学の勉強というものは、どうしたものかよくよく人間の胆を抜いてしまうようにできている妙な魔力があるらしい。よくよく警戒してもらいたい。」
外国語学習の必要性や利点はうさんくさくなるほど叫ばれているのですが、そこに潜む落とし穴や恐ろしさをこれほどはっきり指摘しているのはさすがです。
Linguistic Imperialismという言葉があります。これは日本語にすると言語帝国主義というそうです。つまり、言語によって世界を統一の支配下に収めようとする考え方ですが、今の日本人はまったくその考えに疑問を抱いていません。
たとえばアメリカ人の先生の所にいって英語を学ぶとしましょう。しかしその前にいったい自分は何のために英語を学ぶのかをよくよく考えることをしなければならないと思います。
英語を学ぶことで自分をアメリカ人(地球上で唯一の超大国としてのアメリカに生きるアメリカ人)にしようとしているバカがあふれていて、アメリカ的な思考や行動様式を好ましいものとしてせっせと励む連中が居ます。姿かたちは日本人なのに、日本人としての核が溶けてしまっていて、私はそういう連中を見るのがとてもいやなのです。
猫も杓子も英語英語。なんでそんなに英語がいいのか? 国際語と言われている英語が広く普及していることは私も認めます。でもそれはあくまで補助言語であって、われわれにとってはどこまでいっても外国語なのです。
私は自分が片言の英語しかできず、なんとか意思の疎通を可能にする程度の英語力しかないのを自分でよく理解している。3単現のsをわすれたりhaveと hasを間違えたり、difficultとdifferentを間違えたりなんてことはしょっちゅある。
そういう自分を棚に上げて言うつもりではないのだが、今の社会は英語に英語以上のものを求めすぎているという私の指摘は、決して的外れではないと思う。英語ができるというだけで、その人優秀な人だと思い込む人がいる。英語ができると国際人になってしまう。そんなばかな話があるか。英語ができるようになったからといって、その人の頭脳がとたんに明晰になるわけがない。外国語を用いて語る「何か」を持った人間こそ、好まれて欲しい。