2013年01月01日

第2回古墳ツアー“菟原処女”

   毎年年末年始は実家に帰省して、年越しは平安神宮に出かけて行ってカウントダウン、という流れになっていたのですが、些か飽きて来たのも事実。まぁ、代わり映えしませんからね、たまには違う事してみたいとも思う訳です。とは言え、特段何かしたい事がある訳でなし、さりとて年始らしい気分は味わいたいという事で、そうした事を続けて来た訳です。
   ところが今年はまったく違う状況となりました。というのも、夏の第1回古墳ツアーに続いて、第2回を挙行する事となったからです。そのキッカケとなったのが、古墳横穴及同時代遺跡探訪記録帳のToyofusaさんとのネタ話しで出て来た「菟原処女伝説」。聞けば「絶世の美少女を二人の男が取り合って、その争う様を見るに耐えなくて美少女が死んでしまって、その二人の男も後追って死んだ」という、悲話とネタがごちゃ混ぜになった話しです。しかも、その美少女の墓(古墳)の前で、万葉の歌人が泣いたとあって、一体どんなイマジネーション能力持った奴なんだー、という風に盛り上がったのです。で、実家が京都のから近い事もあって、帰省を利用してこの菟原処女伝説の舞台である、西求塚古墳、処女塚古墳、東求女塚古墳を見てくる事になったのでした。

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2012年12月上旬、Toyofusaさんから話しを聞いただけの時に
キャラメイクファクトリーで作成した菟原処女の現代風想像図
引きこもりで自殺しちゃうイタイ子って感じで作成


■まずは勉強
   今回のミッションの特殊性は、単に古墳を探し出して見てくるだけではなく、その古墳(特に処女塚古墳)を見て、涙する事が出来るか(Toyofusaさんからは、菟原処女を想像して萌えて来い、と言われたw)、という点です。となれば、一応は調べれるだけの事は調べて、ある程度感情移入できる様にしておかねばなりません。便利な世の中になったもので、「菟原処女」で検索すれば、かなりの量の情報を得る事が出来ました。
   恐らく、菟原処女伝説は、今の神戸市灘区〜西灘区に点在する西求塚、処女塚、東求女塚の3つの古墳に大昔からの言い伝えを重ね合わせたもので、万葉の時代にはすでに成立年代もハッキリしてなかったんじゃないかと思います。その様な訳で、一次史料としては、ネットで検索すれば必ず出てくる高橋虫麻呂の「菟原処女が墓を見る歌一首〈幷せて短歌〉」を採用しました。詳しくは他の専門的な方々が書かれているので、ここでは自分なりの解釈でザックリ菟原処女伝説を読んでみると、
   「葦の屋の菟原処女は8歳頃から家にこもって育てられたもんだから、美人の噂がたってアチコチから男が見に来た。その中でも、余所から来た茅渟壮士と地元の菟原壮士という二人のイケメンが、猛烈に菟原処女にアタックしまくり、かつお互い激烈に争った。そんな二人を見て「これじゃホントに好きな人と付き合えない。あの世で待ってます」と死んでしまった。その日の晩、夢枕に菟原処女が立ったのを見て、菟原処女が死んだのを知った茅渟壮士が後追い自殺。さらにその事を知った菟原壮士が、茅渟壮士に負けてなるものかと自殺。この後、3人の遺族が集まって、菟原処女を中心に、二人の壮士の墓を作った」
   という内容です。現代的視点で言わせて貰えば、別に死ぬ事なかろうにー、と思う訳ですが、大昔の人はそれだけ熱かったんでしょうかね。さらに熱いと思うのが、先に出て来た高橋虫麻呂という歌人で、「葦屋のうなひ処女の奥槨を往き来と見れば哭のみし泣かゆ」つまり処女塚古墳の前を行き来する度に、この話しを思い出して泣いてしまう、と言っているのです。まぁ、悲話には違いないのですが、他人も他人、しかもいつの話しかもよう分からん話しで泣けるとは、さすがに万葉人の感性というべきでしょうか。
   今回のミッションは、その万葉人の感受性が、自分の中にどんなけあるのか試すのが主任務なのでした。


■実家から目的地まで
   私の実家は、京都府長岡京市で、その昔、長岡京の市街があったトコなのですが、目的地である処女塚古墳の在る辺りまでは、阪急電車で梅田まで出て、そこから阪神電車に乗り換えて行けば1時間弱で着けます。取り敢えず、御影駅まで直通特急で行き、そこから茅渟壮士が眠るとされる東求女塚古墳がある住吉駅、菟原壮士眠るとされる西求女塚古墳がある西灘駅、菟原処女が眠るとされる処女塚古墳がある石屋川駅に移動する、という作戦を立てました。
   移動中、さらに勉強を深めるべく、廣川晃輝氏の『死してなお求める恋心—「菟原娘子伝説」をめぐって—』(新典社新書、2008)を読みました。どんなお堅い本なのかと思ってたのですが、意外にも優しい内容で、専門的な知識がなくても読んで楽しい本でした。
   特に自分が知りたかったのは、菟原処女がどんな姿でどんな美人だったのか、という事でした。高橋虫麻呂は、男共に好かれすぎて死んじゃう女性が好きだったのか、千葉県市川市の「真間の手児奈」についても詠んでますが、こちらはかなりしっかりしたディテールを描いています。ところが、菟原処女については何も書いてない。菟原処女については、万葉集では他に田辺福麻呂、大伴家持(海ゆかばの原詩の人)の二人がいますが、福麻呂も書いてません。家持だけが「春の美しい花の様に血色の良い美しい肌をして、赤く色付く秋の葉の様に美しく照り輝くばかり」と見てきた様な事を書いてますが、これは自分みたいな素人目でも眉唾っぽいです。つまり、菟原処女は誰も見た事がない、ガチの伝説の美少女だったようです。
   そんな事をうつらうつらと空想しているうちに、ウトウト寝てしまい、何と明石で目が覚めました。このまま明石焼き食って帰ろうか、とも思わなくもなかったのですが、それじゃ無責任かなと思い直し、直通特急をとって返して、1時間遅れで最初の目的地である住吉駅に着きました。

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御影駅で乗り換えのはずが、明石まで寝過ごすの図
特急といえど、どんなけ寝過ごしたんだf^_^;)


■東求女塚古墳
   菟原処女伝説の舞台である3つの古墳は、万葉の時代には海岸線に近いとこにあったそうです。今は埋め立てが進んでしまい、住宅地の真ん中に取り残されてしまいました。茅渟壮士が眠るとされる東求女塚古墳は、住吉駅から徒歩3分くらいのところ、やはり住宅地の真ん中なのですが、古墳の大半は削られてしまい、なんとその上に公園と幼稚園が出来ていました。
   これが普通の古墳だったら、もれなく跡形もなく消えてたんだろうな、と思えるくらい、古墳の面積としては申し訳程度しか残っていないのですが、そこは上代からの伝説の古墳。それっぽく石碑などを乗せて古墳が残されていました。しかし、何となく寒々しい印象を受けました。箱庭みたいにキチッと整備されているのに、誰も人が寄ってこない様な印象。まぁ、元旦ですから、皆さん初詣行ったり家でテレビ見てたりしてると思うのですが、なんと言いますか、暖かみを感じられない史跡でした。
   その様な訳で、一通り写真を撮ったら、あとは見るものがない、という感じで、次の西灘駅を目指しました。

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東求女塚古墳
菟原処女のハートをゲットした他所の街から来たイケメンの墓
公園のど真ん中にあります
その先に見えるのは幼稚園で、前方部の大半がその下です

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しかし、壁土の採取の時に埋葬物が見つかるとは

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あらかた墳墓は削られて、申し訳程度に残った部分が
箱庭みたいに整えられて残ってる


■西求女塚古墳

   元旦は休日ダイヤという事で、電車の本数も少ないと思うのですが、普通電車は結構数があったみたいで、それほど待たされる事なく西灘駅に着きました。古墳も駅の直ぐ側だったのですが、問題はiPhoneのバッテリーが上がりかけで、充電池を求めてコンビニを探す始末。知らない街の事とて、古墳よりコンビニ探す方が難儀しました。
   やっとこ充電池を買い、菟原壮士眠るとされる西求女塚古墳に着いた訳ですが、こちらは東求女塚古墳とは打って変わり、かなり古墳らしさが残っていました。古墳全体が公園化してて、遊具なども備えられていて、しかも結構人が出入りしたり、遊んでる子もいる。つまり、何となく和やかなイメージなのです。
   勝手な印象を述べさせて貰えば、東求女塚古墳は、一応残して置いた的な雰囲気。それに対して西求女塚古墳は、代々土地の人から大事にされてきた感じです。扱いが決定的に違う様に感じるのです。その違いは、和泉国つまり余所から来た茅渟壮士よりも、地元の菟原壮士の方が地元の人にとっては愛着がある、といったところでしょうか。ついでに言うなら、菟原処女は秘かに茅渟壮士に想いを寄せていた(と高橋虫麻呂は解釈してる)らしいので、茅渟壮士に対するやっかみもあるのかもしれません。
   まぁ、自分が勝手にそう感じただけなのですが、古墳の有り様をみるにつれ、その想いが強くなりました。

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西求女塚古墳
菟原処女にフラれた地元のイケメンの墓
確かに一般の公園の姿になっているけど、古墳全体が公園になった感じ
前方か後方かどちらか分からないけど、墳墓の上から古墳全体が見渡せる感じ

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何やら結構価値のある銅鏡とか出てきたらしい

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墳丘の上から全体を見渡した図
東求女塚古墳より、古墳らしい風体を感じさせる
見た目、前円後円墳みたいになってるけど、実は前方後方墳とか

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昭和30年1月に建てられた石碑
この頃はまだ前方後円墳と思われてたらしい
平成8年11月の案内板には
「前方後方墳とよばれる珍しい形の古墳」と書かれている


■処女塚古墳
   さて、メインイベントの菟原処女が眠るとされる処女塚古墳です。こちらは石屋川駅から徒歩8分くらいのところにあります。この古墳は大正12年には国の史跡指定を受けていますので、相当前から大事にされていた事が伺えます。何と言っても、伝説のヒロインの墓ですから、他の二人とは別格というべきなのでしょう。
   この古墳も他の古墳同様、中に入る事が出来ます。その為に階段も整備され、木々もキレイに植えられています。一目で感じる印象は、キレイの一言です。しかし、どうキレイなのかというと、これがパッとしません。まず、人が居ません。居ないというか、長居する雰囲気がありません。公園ではないので、ベンチもありませんし、見る物見たら帰る、という感じです。そこで、ははぁんと思い当たる事がありました。菟原処女は美少女だったかもしれないけど、どんな美少女だったかは、誰も伝えられなかった。それは誰も見た事がないから。ぼんやりとキレイと感じる程度の印象しか感じられなかった、というのが、処女塚古墳を見た自分の率直な感想でした。
   高橋虫麻呂が、実は菟原処女は茅渟壮士の方が好きだったとする根拠に、「墓の上の木の枝靡けり聞きし如血沼壮士にし依りにけらしも」と詠んでいるのですが、茅渟壮士が眠るとされている東求女塚古墳の方向に靡いている木は、枝や葉が生い茂り過ぎたのか、物の見事に剪定されて短くなっていました。何となく、茅渟壮士に対するやっかみを感じたのは、考え過ぎだったでしょうか。

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処女塚古墳
虫麻呂や福麻呂は言うに及ばず
当時の人も二人の男を除いては見た事がない美少女の墓

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古墳としてはかなり整備されてる方
大正11年に国の史跡指定を受けてるから、大事にされたんでしょう

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階段左に写ってる木が
「墓の上の 木の枝靡けり 聞きしごと 茅渟壮士にし 寄らしにけらも」
と詠われる木。ところが生え過ぎたのか、バッサリ剪定

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後方部から前方部を見たとこ
前の二つの古墳は人が憩う様に出来てたけど
ここは要が済んだらカエレ、みたいな空気がある
近寄り難い美人のイメージ


■後記
   当初、処女塚古墳を見て、万葉人の様に菟原処女を想像して萌える、と言ういい加減な主旨で始まった今回の古墳ツアー。しかし、実際に3つの古墳を前にして、なかなか考えさせられるものがありました。現在の古墳の状態などは、ネットで調べればある程度分かりますし、今回取り寄せた本の中にも書かれています。それを読めば、大体も状況を知る事が出来ます。しかし、実際に古墳を見て回って初めて、万葉人たちが古墳から菟原処女伝説を感じ取った様に、自分も自分なりの視点で、その伝説を感じ取る事が出来ました。これが現地調査をしない事には、決して感じる事が出来なかったはずです。
   結論としては、先に述べた様に処女塚古墳を見ても、菟原処女を想像して萌えるという事は出来ませんでした。というか、どんな美少女かも想像できませんでした。その意味で、自分も「見てしかと 悒憤む時の 垣廬なす 人の誂ふ時」と詠われる人垣の一員だったと思います。しかし、そこでふと思ったのは、菟原処女の姿形を想像出来なかった意味においては、高橋虫麻呂も田辺福麻呂も同じだったのではないか(大伴家持は勝手に想像してるw)。想像も出来ん人の事を哀れに想って泣けるもんであろうか、という事でした。
   そこで考えたのは、この菟原処女伝説において、一番可哀想な奴は誰だったのか、という事です。二人のイケメンに迫られて、本当は好きだった茅渟壮士とくっつく訳に行かず(当時は土地の者と結婚するのが当たり前で、余所者とくっつくのは憚りあったらしい)、死んでしまった菟原処女は確かに可哀想である。その死んだ菟原処女が枕元に立って、その後を追った茅渟壮士も悲愴である。しかし、ともかくこの二人はあの世では一緒になれる。ところが、菟原壮士は決定的に振られたにも関わらず、なお諦めきれずにあの世まで追いかけていった。これこそ可哀想ではなかろうか。処女塚古墳を前にして、もし泣けるとしたら、菟原壮士の立場、視線であってではないか。自分はそう感じました。同性として、菟原壮士への同情に禁じ得ません。その事が、東求女塚古墳(茅渟壮士の墓)と西求女塚古墳(菟原壮士の墓)の扱いに、決定的に現れている様にも感じました。
   さて、処女塚古墳、東求女塚古墳、西求女塚古墳は、菟原処女伝説の舞台装置としての面がやたら強調される訳ですが、実際には全然関係ない土地の豪族の墓だった訳です。どうにも伝説の光彩に幻惑されて、考古学的な史跡としても面があまり見えてきません。辛うじてわかるのは、東求女塚古墳は前方後円墳で、処女塚古墳と西求女塚古墳は珍しい前方後方墳だという事です。つまり、一番東に位置する東求女塚古墳だけが前方後円墳。東の方とは畿内に近い方です。Toyofusaさん曰く、「考古学的には前方後方墳をレガリアとする首長が前方後円墳をレガリアとする首長(大和朝廷系)にとって変わられたという見方もできるかもしれんですね」という事でした。菟原処女が茅渟壮士に惹かれたとする伝説は、案外、そうした考古学的な史実が伝説化したものかもしれません。

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処女塚古墳の脇にあった案内板
菟原処女伝説以外にも
小山田高家討死の地としても有名らしいです

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処女塚道標
江戸時代には、「兔原遠とめ塚」と書いたんですね



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tanisi_corp at 00:00コメント(2)旅行系 

コメント一覧

1. Posted by Toyofusa   2013年01月08日 19:56
5 菟原処女伝説の3古墳探訪記は数あれど、

「どんな美少女だったのか?」
「誰が一番可愛そうな奴だったのか?」

という視点で書かれたものを他所で見たことがありません。
確かに菟原壮士が優勝っすよね、可哀想さではw

タニー隊長の思考の過程を追体験できるようで、楽しく拝読させて頂きました。色々な意味で唯一無二な古墳探訪記だろうとw

そして何よりも私自身、益々現地に行って見学してきたくなりましたよ。
2. Posted by たにし   2013年01月08日 20:40
>連隊長殿

この企画、当初はたしか、「高橋虫麻呂は万葉時代の乙女ゲーム作家じゃね?」みたいなノリでしたねww
でもって、高橋虫麻呂の史料をメインに思考したわけですが、
菟原処女に萌えた、という意味では、「勝手に」菟原処女のディテールを書いた、
大伴家持の妄想力の方にこそ注目すべきでしたww
しかし、図らずもフラれ男の視点に立てた、というのは、
やっぱり現地調査をしたお陰だと思います。

関西の方には、いろいろ「含み」のある古墳も多いと思うので、
是非シリーズ化していきたいですw

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