2008年02月08日

転職前の有休消化で、2週間ほどゆっくりしながら、次の会社から送られてきた「課題図書」を少しずつ読んでます。

経営書っぽい二冊を読了。


人を動かす 新装版


古典らしいですね。
人を動かす(人に動いてもらう)には、どのように振る舞えばよいのか?
今すぐ役立つハウツー本、というのではなく、人に対する接し方の哲学を説いた本という趣き。
印象的だったのが、「重要感を持たせる」という項。人にその能力を発揮してもらうためには、その人に「自分は重要人物である」「自分は重要な役割を担っている」という気持ちを持ってもらうことだ、と。
そのためには、お世辞を弄するのではなく、ただ単純に「率直で、誠実な評価を与える」ことが大事。
そこに出てくる事例(優れた経営者のモノが多い)は、経営者たちが小手先のお世辞ではなく、心から従業員の働きに率直な賛辞を送った、というような心暖まる事例である。

ところが、心からの賛辞を送るためには、本当にその相手なり仕事なりに対して心からの敬意や感謝の念を抱いている必要がある。心のこもっていない賛辞は、何もしないよりも悪い結果をもたらしうる。
で、この本では、そういう気持ちを抱けない場合の振る舞い方については、何も語ってくれない。
「重要感」以外の様々な「原則」についても同じ。
この本に出て来る振る舞いは、そこに心が伴って初めて、意味のあるものになる。

これが、この本がハウツー本でない所以である。
この本は、「人を動かすにはかくかくしかじかの方法論がある」ということではなく、「人を動かすには、かくかくしかじかな人間であらねばならない」ということを語っている本だ。

そしてこの本の端々から伝わってくるカーネギー先生(「先生」と呼びたくなってしまう…)の人柄は、そうした教えを説くにふさわしい、と感じざるを得ない。

短期的にいきなり役に立つ本ではない。
けれど、この本を通じてカーネギー先生に「よき人間たれ」と言われてしまうと、精進しなければいけない、と思わされる説得力をこの本は持っている。

繰り返しになるけれど、この本は、この本を通じてカーネギー先生の人柄を感じられる、という点で素晴らしい本なのだ。


ドラッカー名著集1 経営者の条件


ドラッカーの著作自体、初読だった。古典なんだよね。
「経営者の条件」というタイトルは誤解を招くもので、この本で言われる"Exective"は、いわゆる経営者だけを指すのではなく、
知識の時代において、あらゆる知識労働者はエグゼクティブである

という広い意味で使われているから。
(だから本文中では一貫して「エグゼクティブ」と訳されているのに、なんでタイトルだけ??)

皆が天才にはなれないけれど、成果を上げる能力は後天的に努力によって身につけることができる、というのが趣旨。

時間の使い方を見直すべし、というくだりは肝に銘じなければ、と感じた。

あとは優先順位をつけて「最重要のものに注力せよ」という警句。
ついつい同時並行でいろいろ進めようとしがち(そしてそれで失敗する)なので、このあたりはちょっと気をつけていこう。



これまでこの手のビジネス書というか自己啓発書というような本はほとんど読んでこなかったけど、読んだら読んだで面白いね。
どちらも「古典」と言われるだけあって、浅薄なノウハウではない哲学に裏打ちされているので、納得感を持って読めた。

まぁここで読んだことを、どうやって日常に活かしていくか、はまた別問題だけど…。

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2008年01月08日

fca65a94.jpg年が明けました。
新しい年を迎えて、いろいろと書くべきことは多いのだけど、それはmixi日記に書いてしまったので、ブログでは敢えて淡々として触れないでおこうと思う。

今年最初の生モノ鑑賞は、野田地図第13回公演『キル』@シアターコクーン。

新作戯曲ではないけど、妻夫木聡・広末涼子というコンビが主役を張るということで、あまり舞台演劇ではお目にかからない若い二人の実力の程やいかに? というのも楽しみだった。

内容は野田秀樹らしく、コトバ遊びを巧みに用いて(タイトルの「キル」にも、少なくとも3つの意味が掛けられている)、現実と空想、過去と現在が入り乱れた複雑な展開を堪能することができる。
そして、舞台全体を覆うような美しいうすぎぬをふんだんに用いた演出の美しさにも心を打たれるものがあった。
『贋作・罪と罰』でもそうだったけれど、ふわりふわりと漂うように舞台一面を覆ううすぎぬと、そこに立ちつくす、あるいは倒れ込む人物、という絵を目の当たりにすると、ある種の戦慄のようなものを覚えるのだ。

うーん、やっぱりこういう「きちんとお金をかけた」舞台美術を味わえるのは、商業演劇のよさだよなぁー。高い観劇料(2階席なのに9500円!)には理由がある。

そして気になる主演の二人については、妻夫木って格好いいなぁー、と思ったり、広末ってこんな高い声が出せるんだー、と驚いたり、演技もまぁ上手だし、なかなか悪くないという感じ。
でも二人がきちんとした芝居をする一方で、勝村政信と野田秀樹がのびのびと好き勝手やって(時折笑いを取ったりして)いるのを見ると、やっぱりベテラン舞台俳優の境地にはかなわないなぁ、とひとしきり思う次第。

以前観たことのある『贋作・罪と罰』や『ロープ』と比べると、メッセージ性があまりよくわからなかったなぁ、というのはあるけれど、やはり心に響く力強い戯曲ではある。

1月31日まで。当日券とか立ち見とかもある様子。



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2007年12月12日

いったいどれだけの人が、同じタイトルでレビューを書いたんだろう、ということにおそれをなしつつ…。

(ここでグーグル先生にお伺い)

…と思ったけど、意外と少ないのね。

走ることについて語るときに僕の語ること


村上春樹の近作エッセイ『走ることについて語るときに僕の語ること』。

いかにもハルキらしい、勿体ぶったような書名の本は、そのタイトルが示すとおり、ものすごく慎重でもってまわったような文体でつづられた随筆だった。

この本は、まぁamazonとか覗いてもらえばわかるように、かなり年季の入った(アマチュア)ランナーであるところの村上春樹が、自身の「走ること」について、そして何よりもそれを通じて「書くこと」について、自省的に書いたものである。

村上春樹のエッセイについて、僕が共感を覚えるところは、この人が、単純には善悪とか白黒とか右左とかを割り切れない現実の割り切れなさとか歯切れの悪さを、きちんと逃げずに描いている点にある。
「いろいろ考えて僕はこういうことだと思ってるんだけど、まぁそれが正しいかどうかはよくわかんないんだよね」というような一種の諦観、というか。

それはともかく、このエッセイは一種の創作秘話というか、作家=ランナー・村上春樹の内面に迫る一冊なので、村上春樹が好きだったりまぁまぁ興味があったり大嫌いだったりする人にとっては、わりと読む価値があるんじゃないかな、と思います。
まぁそれが正しいかはよくわかんないけどね。


東京奇譚集 (新潮文庫 む 5-26)


確か数年前の新潮社の『新潮』誌に連載していた連作短編集。
連載分は、大学の図書館で借りてコピーして軽く冊子状にまとめたりしていたが、このたびめでたく文庫化されたのを機に購入。書き下ろしも一編入ってるしね。

「奇譚集」の名の通り、少し不思議な雰囲気の物語が集められているのだけれど、どれもなかなか味わい深く、読み返しにも耐えうる良品揃い。

印象的なのは、「偶然の旅人」という短編の中での「偶然」という事象の扱い方。偶然はありふれているもので、僕らがそれにたまたま気づかないだけ、というような。

書き下ろしの「品川猿」も別の意味で気になる。
『神の子どもたちはみな踊る』の「かえるくん」とか、もっと昔で言えば『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の「やみくろ」などもそうだが、東京の地下に何か僕らが日常的には考えていないような生き物が住んでいる、というあり方は、村上春樹の作品に通底する想像力なのかもしれない。


2007/12/12修正 「東京奇譚集」の連載は『文藝』誌ではなく『新潮』誌でした。


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2007年12月07日

小説だって読むんだい。
ここ数ヶ月の間に読んでたものを、まとめてレビュー!

カラマーゾフの兄弟1 (光文社古典新訳文庫)


人生において知るべきことはドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にすべて書いてある。
でも、もうそれじゃ足りないんだ
(カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』)


わりと一大ブームになった感のある、光文社古典新訳文庫の『カラマーゾフの兄弟』。
その昔、自宅にあった古い文庫の『カラマアゾフの兄弟』(新潮だったのか岩波だったのか)を手に取ってみたものの、ものの30ページほどで挫折して以来、何度か読みたいとは思っていたんだけどね。
読みやすい現代語訳、とは言っても、別に「頭の悪い読者のためにレベルを下げてやったよ」というものではなく、あくまで翻訳の質はよいらしい、ということで、まずは一巻を手に取ってみた。

結果。あっという間に全巻読了。とにかく流れるようなリズムのよい翻訳で、登場人物が活き活きしていて、息をつかずに読んでしまう。これ、名訳です。

ありきたりの感想だけど、「ドストエフスキーってこんなに面白かったんだ!」というのを痛感した次第。『罪と罰』も再読したい。

それにしても、出てくる人たちの気性の激しいこと。すぐ激昂したり興奮したり泣き崩れたり。ロシア人に比べると、日本人ってなんて感情の起伏が乏しいんだろう…なんて思っちゃう。

もう一度、確実に読み返したい一冊。


その名にちなんで (新潮文庫 ラ 16-2)


『停電の夜に』でアメリカの文学賞を総ナメしたジュンパ・ラヒリの長編。
クレストブックスで出ていたときから早く読みたかったんだけど、ようやく文庫になったのを見つけて即購入。そして、即読了。

この人の文章は、不思議な力を持っている。
淡泊な描写なのに、しっかりと心に響いてくるものを持っている。
この人はインド系なので英語が母語ではない。そのためにある種の「不自由さ」があるために、逆に研ぎ澄まされた表現が産まれている、というようなことも言われている。
その意味では、カズオ・イシグロのような作家とも通じるところがあるのかもしれない。カズオ・イシグロの『私を離さないで』も、淡々とした描写が心に迫る作品だった。

まぁ何しろ、ラヒリは巧い。
インドにもアメリカにもアイデンティティの根拠を置くことができないインド系移民二世の「宙ぶらりん」という極めて現代的な状況を、とても具体的でリアルに描いていて、いろいろと考えさせられるものなのだ。

映画化もされるらしいので、とりあえず期待。


…まとめてレビュー、と言ってみたけど、疲れたのでこの辺で。



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2007年11月28日

よくわからないねじ (新潮文庫)

宮沢章夫のエッセイ集『よくわからないねじ』(新潮文庫)を読んだ。
頭を使わない軽い読書(「軽読」とでもいうか)として、この人の本はとても素晴らしい。


ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)

それはともかく、巷で話題の梅田望夫の新刊を、僕もご多分に漏れず読んだという話。発売日を狙って本を買うなんて経験、久しぶり。

いろいろ賛否両論あるみたいだけれど、著者のスタンスとしては、丸善での講演で話しているように

「ウェブ時代をゆく」は頭で読む人にとってはダメですね。(…)
 でも僕を含めた市井の人、もがきながら生きている人は、生きていくエネルギーや答えを得るために、心で本を読む。
 「ウェブ進化論」は頭で読む人にもOKなんだけど、「ウェブ時代をゆく」は物足りないと思う。ただ、心で読む人には届くものがあるんじゃないかと思っています。


ということなわけだ。

そして僕は、確かに何かしらのメッセージを受け取った気はする。
オプティミズムが過ぎるとか、著者の私的な遍歴には別に興味がないとか、もっとウェブ時代に関する客観的な分析が欲しいとか、それはいろいろ思うけど、そういうことは関係なく、まさに今この瞬間の僕の状況においては、この本の存在自体が心に響くメッセージだったのだ。

僕はウェブ時代をゆくよ、この同時代を。


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2007年11月27日

3d4b32b0.jpg金沢21世紀美術館の初代キュレーターだった長谷川祐子さんが、いつのまにか東京都現代美術館(MOT)に移ってたらしい。
その長谷川氏が手がけた企画展が、現在開催中の「Space for your future - アートとデザインの遺伝子を組み換える」。

http://www.sfyf.jp/

ということで、見てきました。

特に明確なコンセプトを掲げているわけではなく、現代アートの「現在」をいろいろ揃えて並べた、という感じ。
金沢でもそうだったけど、そういうやり方の中に長谷川さんのコネとセンスが生きてくるわけで、感想としては「いろいろ面白い」というのが一番当たっている感じかな。

話題の沢尻エリカ百変化も見応え十分。

面白かったのは、足立喜一郎の「e. e. no.24」という電話ボックスみたいな作品。
見た目は電話ボックス。その中に入ってヘッドフォンをつけると、ノリノリのダンスミュージックが流れている。そして、実はガラスがマジックミラーになっていて、中からは外が見えない。ついつい音楽に合わせて踊り出してしまって…。
実際に路上にこのボックスを置いたパフォーマンスのビデオも流れていて、面白かった。突然電話したくなったら電話ボックスに入ればいい。じゃあ突然踊りたくなった人のために、ダンスボックスがあってもいいじゃないか、ということか?


MOTは常設展もいつもなかなか面白くて、今回は「ポップ」をテーマにしていたんだけど、それとは別にちょうど今、岡本太郎の「明日の神話」の特別展示をやっていて、これも一度は必見。
岡本太郎版「ゲルニカ」とも言うべき巨大な壁画の迫力の前には、しばし言葉を失うしかない。

久しぶりの美術館訪問。堪能しました。

夜は木場の美味しいイタリアン「イ・ビスケロ」へ。
http://www.ensuisha.co.jp/ibischero/
牡蠣のリゾットやらフレッシュトマトとバジルのパスタやら子羊のローストやらをまるっとほおばってきました。
身悶えするほどの絶品料理に3人でワインを1本空けて一人6000円。これはお値打ちだ〜。

MOT→ビスケロ。この流れにはハマってしまいそう…。


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2007年11月26日

ネット未来地図 ポスト・グーグル時代 20の論点 (文春新書 595)


超多産なウェブ論者、佐々木俊尚の新著。
「2007年8月時点」の視点から、ウェブを取り巻く状況を20の論点にまとめたもの。
ウェブに関する「共時的」な分析としては見通しよくまとまっていて、いろいろと考えるきっかけになる。

いくつか、個人的に気になった部分について備忘的に。

<論点2>お勧め(レコメンデーション)とソーシャル(人間関係)が融合していく
→リアルコムの新しいRSSリーダー「ソーシャルフィード」が紹介されている。以前バイトしていたので、リアルコムの動向には興味がある。

<論点7>日本のネットベンチャーの世代交代が加速する
「そもそもグーグルやアマゾンのような同時期に設立されたアメリカのベンチャー群に比べれば、多くの日本のネットベンチャーには技術力の裏付けがほとんどなかった」(p79)
→90年代後半のネットベンチャー(楽天、オン・ザ・エッヂ、GMOなどの同時代)に関する記述。僕が日本のネット業界に感じていた違和感は、多分ここにある。
これに対し、はてな、ミクシィ、チームラボなどの技術ドリブン(というと語弊があるか?)なベンチャーが出てきたのが2004年以降の新しい流れ、だと。
決して技術者でない文系人間の入る余地としては、これらの新しい潮流の企業群の戦略面を考えていくことではないかな。

<論点13>雑誌とインターネットはマジックミドルで戦う。
→電通などによる「マガホン」という雑誌の立ち読みサイトの本質的欠陥は、「マイクロコンテンツ化されていない」、つまりXMLなどのようなかたちで「再利用可能な状態でインターネット上に置かれるようになってい」ないことである、と。(p141-142)
「ワンソース・マルチユース」という言葉が流行ったのはだいぶ昔な気がするけど、そのエッセンスはWEB世界において圧倒的に重要である。

<論点16>携帯電話インターネット層は新たな「下流」の出現
「パソコンインターネットでは、「ゆるやかに」かつ「多数の候補」が表示されることが期待される。…しかし携帯電話の世界では、これはまったく逆になる。「がつん」かつ「決定的な少数お勧め」が好まれるのだ」(p175)
→以前、AERAでも特集していた、ネット下流社会に関する考察。携帯のみからネットにアクセスする若者たちを、一概に「ネット下流」と位置づけることはできないが、パソコン・ネットと携帯・ネットがそれぞれどのようになっていくのかについては、今後とも定点観測を続けないとね。

<論点18>「リスペクト」が無料経済を収益化する
→現在のネットの主流となっている「無料経済モデル」の限界とその先にありうる新しい経済モデルの萌芽について。
ネットというメディアが広告モデルを超えることができるのか、というのは、長期的に考えていきたい関心事。(リアルコムの失敗した「Kスクエア」は先駆的過ぎた、ともいえる?)
考えてみれば、近代メディアで広告に依存しない経済モデルを構築できたのは映画と書籍だけじゃなかろうか。メディアは広告を超えられないのか??



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2007年11月25日

mixi日記も停滞すること数ヶ月。

年末から年初にかけて、いろいろと人生が動きそうです。
詳しくはもう少し経ってからでないと公にできないけれど、このタイミングで、もう一度ブログを始めてみようと思う。

やはり、何かしらのアウトプットをしていかないと、少しずつ何かが心の中に積もってくる。

まずは私的な日記や書評や映画評などから少しずつ。


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2006年07月17日

あまりに更新が滞るので、日々の日記をmixiに移行することにしました。
ブログは、ときどき気が向いたらレビューとかそういうのをモノする場にしたいと思います。

もうmixiやってるよーって人は、僕を探してください。(ニックネームは、すぐ推測がつくはず)
mixiやってないよーって人は、メールなりコメントなりくれれば招待します。
mixiってなにー? って人は、こちらをごらんください。

ほいじゃまた。

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2006年06月28日

0922b42f.jpgキャラメルボックスの舞台「俺たちは志士じゃない」を観た。
今回は、脚本はいつもの成井豊ながら、演出にマキノノゾミを据えた、キャラメルとしては珍しいパターンなり。
かつてキャラメルで上演した同名の舞台のリメイクだそうだが、まぁ元は観ていないのでそのあたりはよくわからない。

幕末の京都。長州藩に隣接する小藩・岩国藩の在京屋敷が舞台。
尊皇倒幕に燃える岩国藩士が、新撰組を脱退して逃げてきたへなちょこ浪人2人組を、なぜか坂本龍馬と中岡慎太郎と取り違えて藩邸へ連れてきたところから話が始まる。
「ニセ者」とばれたら新撰組に突き出される、ということで、何とか坂本・中岡の振りをしはじめる二人と、二人を「ホンモノ」と勘違いする藩士たち。ところがそこに、坂本・中岡とは顔見知りの桂小五郎が現れることになり…。

まぁよくあるシットコム的な状況で、それぞれの人の勘違いが入り乱れるさまに、ケラケラ笑いながら楽しめる。
それでいて、最後はきちんとキャラメル的なポジティブな終わり方で、これもまた観ていて気持ちよい。

演劇の敷居を下げ、顧客満足度を追求しようという姿勢には、いつもながら感服。


そういえば、入口付近でスタッフとして働いている知り合いを見つけました。
おつかれさま、なむさん。


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2006年06月19日

ドローですか。まぁブラジル戦も楽しみましょう。

素人的に、いくつか思ったこと。

・オーストラリア戦の負けは加地の不在が大きかったのではないかと思っていたが、今日の加地の活躍を見る限り、やっぱりそう思う。ピンチヒッターの駒野とは強さが違った。

・というわけで、どこまでも地味な感じもまた好きなので、僕は加地を応援することにしました。加地って、どこのチーム?

・大黒って、もう少し早く出させてもらえないの? 毎試合5分で何をしろと。

・柳沢はもう使わなくて大丈夫だと思う。

・でも代わりもいない。

・だから加地がんばれ。

・クロアチアの2番のスルナは、オリジナル・ラヴの田島貴男番長に似ていたと思う。

・「強力!いなもと」っていう応援の垂れ幕が面白かった。前からあるのかな?

以上。
では、来週のブラジル戦にて。

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2006年06月08日

最近読んだ本より。

ハワード・ラインゴールド『新・思考のための道具』。
1985年(日本語版は1987年)に出版された『思考のための道具』。コンピュータの歴史を語る際には基本文献のひとつといえるわけですが、改訂新版が出ていたので、これを機会に買って読んでみた。
コンピュータの前史としてのバベッジの「解析機関」、チューリングの「チューリング・マシン」、ノイマンの「ノイマン型コンピュータ」から始まり、リックライダー、デイヴィッド・ロッドマン、ダグ・エンゲルバート、あるいはロバート・テイラーが中心的な役割を果たしたARPAネットやPARC(ゼロックス社・パロアルト研究所)における革新的研究開発、アラン・ケイのDynaBook構想、テッド・ネルソンの「ハイパーテクスト」による「ザナドゥー」の夢想など、コンピュータが今ある形に至るまでの様々な思索や実践の歴史をたどっている。

この本が20年前に出版された際に革新的だったのは、コンピュータ史を単に電子計算機の技術発展の歴史としてとらえるのではなく、「思考のための道具」、すなわち人間の思考能力やコミュニケーションの可能性を最大限に拡張するためのツールとして夢想され、構想されてきた歴史を描こうとしている点だったと。
今となってしまえば当たり前に感じるものではあるけど、そういう現在の「常識」を作る上でかなりの影響力を持った著作だったことは確かで、読んでおくに値するものだといえる。

著者による「新版あとがき」でも指摘するように、エンゲルバートやアラン・ケイ、ロバート・テイラーといった夢見がちな先駆者たちが考えていた理想のコンピュータ像を再検討することは、現在あるパソコンやインターネットの姿を相対化して考えるためにとても有益なことだ。
僕らはつい、今のWWWの世界を自明のものとして考えてしまうけど、テイラーに言わせれば、WWWなんていうのは、インターネットが実現しうる可能的世界の中でも、とてつもなく不器用でつまらない実現形態にすぎないのだ(まぁ物事がうまくいくことの方が少ない現実社会において、曲がりなりにもWWW的なものが実現している、というのすら奇跡的な成果だという見方もできるわけだけど)。

「人々の持つ潜在力を最大限に引き出して、より充実した生を実現するための道具」として数多くの先人たちの夢から生まれてきたパソコンやインターネットを、僕自身はどれだけ活用して、人生の豊かさにつなげられているだろう。
そんなことを反省してみるきっかけにもなりました。


新 思考のための道具 知性を拡張するためのテクノロジー ― その歴史と未来
ハワード ラインゴールド 日暮 雅通
パーソナルメディア (2006/05/25)



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2006年06月05日

8d68b95e.jpgここしばらくで観た映画。

《歓びを歌にのせて》(2004年、スウェーデン)
ギンレイホールにて。

人気絶頂にあった指揮者ダニエル・グレウスは、過労のため倒れ、一線を退き、スウェーデンの寒村に引っ込んだが、村の聖歌隊の指導を頼まれて…。人間が生きるということと音楽との密なる絆をうたいあげた稀有な感動作!

だそうです(ギンレイの上演作品紹介より)。
予告編で「スウェーデン国民の5人に1人が泣いた!」というまことに中途半端な売り文句もあり、あまり期待せずに観たんだけど、これがなかなかいい映画だった。
閉鎖的な村で、つまらないことですぐ口論になる大人たちや、ダニエルが人々から慕われることに嫉妬するどうしようもない牧師とか、それでも皆で歌うことが大好きになってくる様子だとか、そういった諸々の描かれ方が心地よい。結末が見えるようなささやかな話ではあるけど、しみじみ楽しめる映画でした。


《グッドナイト&グッドラック》(2005年、アメリカ)
ジョージ・クルーニー監督の、静かな話題作。
友人が絶賛していたので、終わり間近に駆け込んだ。
1950年代、「赤狩り」を進めるマッカーシー旋風が吹き荒れるアメリカで、マッカーシーを果敢に批判したCBSのジャーナリスト、エド・マローとその周りを描いた映画。

かっこいい。

静かに、けれど信念に基づいた堂々たる態度で、明晰にマッカーシー批判を行うエド・マローとその仲間たちは、文句なしにかっこいい。
白黒の映像と、要所で流れるジャジーなBGMが、当時の雰囲気をよく表現していると思う。テレビ局で働く男たちは、例外なくタバコを片手にし、シャツの第一ボタンを外し、緩くネクタイを締めている。お世辞にも洗練されたとは言えなくとも、真剣勝負で働く男、って感じでいいのよ。
実際、草創期のテレビ・ジャーナリズムの最前線で働くことは、毎日が切った張ったの勝負の連続だったに違いない。そんな勝負師たちの物語。
マッカーシーとの対決の中で、左翼シンパの疑いをかけられた同僚の自殺もあり、「本当に自分たちのやっていることは正しいのか」という疑念にかられたり、そうした細部がリアリティを持って迫ってくる。
そして、エド・マローの受賞か何かを祝う会(1958年)におけるスピーチで、彼が「耳の痛い話をしましょう」と言って始めたテレビの現状批判、それは現在のテレビに全くそのまま当てはまるわけで。
すばらしい映画です。


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2006年05月14日

528b1f65.jpg土曜の夜、紀伊国屋サザンシアターで青年団の舞台《上野動物園再々々襲撃》(原作/金杉忠夫、脚本・構成・演出/平田オリザ)を見てきました。
前に紀伊国屋に行ったときにポスターを目にして、すぐさまチケットを買ったもの。
平田オリザの仕事や演劇論についてはいくつか本などで見聞きしていたのだけど、青年団の舞台そのものを見に行ったことがなかったので、いい機会だというわけで。

この『上野動物園再々々襲撃』という舞台の背景は、なかなか入り組んでいて、1997年に急逝した金杉忠夫という演出家が87年に上演した『上野動物園再襲撃』という舞台があり、その金杉に傾倒していた平田オリザが、彼へのオマージュを捧げて2001年に『上野動物園再々々襲撃』という戯曲を書いて上演。今回はその再演、ということ、らしい。
まぁそんな背景はほとんど知らず、そもそも金杉忠夫という人物すら知らずに見に行った、わけですが。

舞台は下町(設定では葛飾区四つ木付近)の小さな喫茶店。小学校時代の同級生の葬式の帰りに喫茶店に集まったオジサンたちの交わす昔話が、物語の中心である。
亡くなった増本を回想しながら、小学校時代に上野動物園に忍び込んでラクダを盗み出そうとしたという、いわゆるよくある「悪ガキだった思い出」を語り合い、あるいは歌を歌い出すオジサンたちは、ちょっと鬱陶しくていかにもオジサンらしいんだけど、とても楽しそうで、「年を取るのも、案外悪くないんじゃないかな」と思わせるような人間味に満ちている。
そして最後には、40年ほどの歳月を経て再び、上野動物園へ忍び込もう、そしてクラスのマドンナであった北本菊子をラクダに乗せよう、という計画が盛り上がり、クライマックスを迎える。

どこにでもいるオジサンたちの、どこにでもありそうな与太話、と言ってしまえばそれだけの話ではある。でも、人生の黄昏を迎えつつあるオジサンたちが心の底に抱える哀しみのようなもの、それを経た上でのバカ騒ぎ、みたいなものがリアリティをもって伝わってきて、うっかり泣きそうになってしまった。

そう、リアリティなのである。
平田オリザの提唱する「現代口語演劇」の特徴は、いわゆる「舞台臭さ」を徹底的に排して日常をそのまま舞台上に再現しようとする点にある、というわけだが、それが本当にうまく機能している。そのまま喫茶店が開業できそうな舞台セットの上で、本当の喫茶店のように、いろんなところでいろんな人がいろんな動きをしている。だんだんと、本当に喫茶店を外から眺めているような、不思議な気分になってくる。
一つ一つの小さなリアリティが、この話全体の絶妙なリアリティに結びつき、この作品を印象深いものにしていたのだと思う。

平田オリザの舞台がどんなものか、というのがよくわかったのも、ひとつの収穫である。またいろいろ観たくなったな。

そして舞台の上のオジサンたちは、皆、いい声をしていた。やっぱり役者は声だよなぁ。

残念ながら東京公演は日曜まで。
その後は、全国各地を転々とするみたいです。

青年団HP


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2006年05月06日

ばっちりカレンダーどおりに休んだゴールデンウィーク。だいたい東京付近で過ごしていましたが。

4月29日
映画《僕のニューヨークライフ》(ウディ・アレン監督・主演)を見る@ギンレイ。
この人は本当に多作だねぇ。
若い喜劇作家の青年があまりにヒドイ隣人に囲まれていて、本当に早いこと出奔した方がいいよ、と思っていたら、最後は本当に出奔したのでよかったと思う。
ウディ・アレン本人は例によって、冴えなくてでも格好いいという、美味しい役。

4月30日
3月に僕も結婚式二次会の運営に携わった夫妻のお宅(綱島)で遅ればせながら二次会の打ち上げ。
楽しかったが、飲み過ぎ。
なぜか、リラクゼーショングッズをやたらといただく。はい、活用します。

5月3日
去年に引き続き国際フォーラムで開催したラフォルジュルネ(La fol journee au Japon)を聴きに行く。今年はモーツァルト特集。
気づいたのが遅かったので、大ホールでのコンサートしか取れなかったのだけど、たまにはクラシックもよいものです。1時間弱のコンサートを2つ聴いて3500円はやっぱり破格。
ふたつめに聴いたクラリネット協奏曲が、メロディがきれいでよかった。モーツァルトは旋律が楽しくてよいね。
指揮者(沼尻竜典)もクラリネット奏者(ロマン・グイヨ)も、かなりいい動きをしていて、それもまた注目。
会場では、10枚組2500円のモーツァルトCDも売っていた。多分買っても全部聴ききれないだろ。。。

夜は大学院時代のお友達と「銀座favori」というベルギービールの店でビールを浴びる。どれもこれも美味しくて。

5月4日
ロスコ・ルームを目当てに、ふと川村記念美術館へ。
うーん、やっぱりよい。
開催中の企画展は、マルク・シャガールがラ・フォンテーヌ『寓話』のために描いた挿絵の銅版画を集めて展示したもの。
挿絵なので小品ばかりだが、重力とかいろんなものから自由なシャガールの世界が広がっていて意外に面白かった。
むちゃくちゃ混んでいたせいもあるけど、併設のレストラン「ヴェルヴェデーレ」は、イマイチだね。

5月5日
今回のGW最大の遠出は、千葉県は房総半島の先端に近い館山へ。
何でも美味しい鯖の寿司を食べさせる店があるんだとかいうことで、それだけを目当てに車を飛ばす(といっても、運転は私ではない、もちろん)。なんだか社会人っぽいねえ、こういうのは。大人買いならぬ大人食いとでもいうべきか。
9時に池袋を出て、川崎からアクアライン経由で房総に入り、13時前に目的地である「富鮨」というお寿司屋さんに到着。
ドキドキしながらカウンターに座り、「地物鮨」というセットを頼む。
カウンターの中は、駄洒落を飛ばしまくる陽気なじいちゃん(というと失礼かな、でもまぁ割と年配の職人さん)と、無口で無愛想な感じのおっちゃんという、なかなか絵に描いたようなコンビ。じいちゃんの言うことに、たまにおっちゃんがクスリとしたりするのが、ちょっと微笑ましいのである。ちょうどじいちゃんの方の立ち位置が僕らの前だったので、僕らに向かっても次々としょーもないコトを言って笑わせてくる。錦糸町で修行した江戸っ子らしく、威勢のいい語り口が気持ちいいね。
しかしそんなことよりも、寿司ですよ。鯖ですよ。
地物鮨は、とろけそうな金目鯛をはじめ、どれもおおぶりなネタに脂がたっぷりでとても美味。そして何より鯖。しめ鯖、炙り鯖、しめ鯖のヅケ、と三ついただいたのだが、どれもこれも、鯖が本当に口の中でとろけてとろけてさぁたいへん。
※よく知られているように、鯖は「生き腐れ」と言われるほど足が早いため、ほとんど生では食べられないんですね。だからしめ鯖にするわけだけど、この店のしめ鯖は、本当に軽く酢で締めただけ、ほとんど生に近いのよ。これが絶品。
炙り鯖は、炙られてパリッとした皮と柔らかくとろける身のハーモニーが絶妙だし、醤油ベースのタレにひたったしめ鯖ヅケは、もう筆舌に尽くしがたい。まじで。
もう何というか、お腹がいっぱいになってしまったのが本当にニクイ。
しかもこれだけ満足して一人4000円ちょっとというのも、またびっくり。
その後は、温泉に入って海岸で風に吹かれて帰ってきました。
また行くぞー。
でも、車じゃないとちょっと無理な感じの場所なので、ペーパードライバーには厳しいなぁ。ああ、車が運転したい!

5月6日
特に予定なし。近所の体育館のプールで泳いで、新宿まで出てふらふらと。
少しGW明けの研修課題に取り組んでいました。少しずつ、現実復帰ね。

5月7日
明日はいわゆる「初任給で親にご馳走」なんてことをしてみます。世間並みに。
新宿の老舗の天ぷら屋といえば、という店です。

月曜から再び現実世界へ。がんばるぞー。

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2006年04月23日

68150908.jpg誕生日だから…というわけではないのだけど、DS LiteとMOTHER3を手に入れてしまいました。
ビバ、ヨドバシカメラ。

MOTHER、今日始めたばかりだけどかなり面白感ですょ。

MOTHERができるだけでかなり大満足なんだけど、せっかくDSなので、タッチペン使うゲームもやりたいな。


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2006年04月21日

日付変わって、昨日が誕生日だったみたいですね。
夜中に生まれたらしいので、まぁ今からちょうど26年と1時間半くらい前の出来事でしょうか。

誕生日とは、生まれてきて、ここまで生きてきたことを感謝するための日、とかね。
そんなことも一応思ってみたりします。

まぁそんな前置きをしつつ、ちょうど先日、ジョン・アーヴィング『オウエンのために祈りを』を読み終えたのだけど、アーヴィングのこの物語(この物語に限らず彼の全作品に共通するテーマでもあるだろうが)には、訳者の中野圭二が語るところを借りれば、「人間は、ただこの世に生まれて、ただ死んでいくのではな」く、現にあるような姿かたちで生まれてきたのは「偶然ではなく、何か目的なり意味なりがあるのだ」という思想がこめられているという。

『オウエン』は、宗教色が濃いという点で、これまで読んだ彼の他の作品と比べてやや異色な印象を受ける。
主人公のオウエンは、自分が神様から何らかの役割を与えられ、神様の道具として生を受けた、ということを信じている。自分が死ぬ日時まで正確に予知し、運命を積極的に受け容れていく。
最後の場面(オウエンの死については各所でほのめかされつつも、その現場は結局最後にようやく語られることになる)は、それまでの物語の意味をまるっきり再編するような衝撃がある。これは間違いなく、奇蹟の物語である。思わず笑ってしまうくらい。

最後だけではなく、もちろん全編を通じてアーヴィング節は健在。
アルマジロの剥製や母の人台という小道具が象徴的な意味をもって何度も登場するところや、全てが終わった未来の時点から過去を小出しにほのめかしながら語る思わせぶりな描写(これがあるから飽きないのだ!)、アメリカや現代世界に対する真摯で痛切、ウィットに富んだ皮肉。
やっぱりかなり好きです、アーヴィング。


オウエンのために祈りを〈上〉
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4 信じる神を持つか持たないかというのはそれほど重要なこと?
5 意味ということの欺瞞
5 忘れられないヒーロー



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2006年04月18日

1518a176.gifもう、ものすごくON/OFFですよ。

日曜は、写美。
毎年恒例の「新進作家展」。今年のテーマは「私性(プライベイト)」だそうです。内外の若手写真家の名前に紛れて「みうらじゅん」などという名前を見つけてしまったのが、今回どうしても行きたかった動機だったけれど、行ってみるとそれ以外にも見所があって面白かった。

塩田千春。「このあたりみんな塩田ですよ」というような故郷の集落。そこに住む「親戚」たちの白黒写真が、四方の壁に隙間なく並べられている。
「ふ〜ん」と見ていたのだが、ある瞬間にハッと気づく。皆、同じ目の形をしているのだ。壁に並ぶ塩田一族の目の形は、数種類のバリエーションにたやすく収まってしまう。
親戚・血族・遺伝というものの、何となくの薄気味悪さというか、薄ら寒さというか、そんなものを垣間見ることができる。

エリナ・ブロテルスの「The New Painting」シリーズは、「写真というのは新しい絵画ね」という古くて新しいテーマに、ある意味ものすごくベタに取り組もうとしているようである。「イチジクを食べる女」「過ちを犯した女」などと題された写真を前にすると、近代絵画にはよくあるそうした即物的なタイトルが、写真にはほとんど掲げられてこなかったという事実に気づく。人物を描いた絵画と異なり、人物写真は、なぜだか被写体の内面的な心理を描写するものとして捉えられ、撮影されてきた。ブロテルスのこのシリーズが、そうした写真の歴史を問い直すものだとしたら、一見ベタに見えるこの挑戦は、それだけにとても面白い。

ベルギーの村を舞台にするジャン=ポール・ブロヘスの写真と、日本で何の変哲もないような風景を切り取った原美樹子の写真を見比べると、どちらも「どことなく色褪せた」と表現できそうなのだが、その色彩の違いが土地柄を表しているようで面白い。
ブロヘスの写真がやや赤みがかっているのに対し、原の写真は明らかに青みがまさっている。ヨーロッパと日本の風土が象徴されている、といっては短絡的すぎるだろうか。

その他、ジャクリーヌ・ハシンクの「職場」をテーマにした写真や、女性の「肌」を問い直すニコール・トラン・バ・ヴァンの写真なども興味深かった。

そして地下の展示室では、セカンドプラネット、LOMOとともにみうらじゅん。
『アイノカテゴリー』や「スライドショー」などといった、みうらじゅんワールドが見事に展開していた。皆クスクス、ワハワハ笑う美術展というのも珍しいものである。
やっぱりこのセンスは好きですね。
この展示室が(もちろんやや異質ながら)それほど浮くことなく構成されているあたり、今回の展示構成はうまいのではないかね。

あくまで新進作家展、という趣旨なのであまり大作的なものはないけど、けっこう期待してたよりも面白かったです。
23日までなので、興味あればぜひ。22日にはアーティストトークもあるらしい。



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2006年04月15日

「従順なバカ」にならないこと。

近視眼的でつまらない人間にならないこと。

コンビニで買うお茶の種類ばかり気にしないこと。

環境に過剰に順応しすぎないこと。(役割演技をしているという事実に意識的に!)

批判精神をなくさないこと。

原理主義的思考には与しない。

外部の刺激に触れつづけること。

アカデミックな思考へのアクセスを閉じないこと。

お金は浪費しないこと。

でも、本当に大事なことにはお金を惜しまないこと。

人当たりのよさ、礼儀正しさが全てではない。

自分を理解してくれる友人を大事に。

優先順位を間違えない。(成果が目に見えやすいこと、人に理解してもらえることが、必ずしも本当に自分にとって一番大事とは限らない)


以上、順不同かつレベル不同に。
なんとか、やっていきましょう。

tantot at 04:08コメント(5)トラックバック(0)diary 

2006年04月13日

ビジネスマナーの研修みたいなものも、一応あるわけだ。

今日は、ビジネス・コミュニケーションの重要性について。
話し方・聴き方において心掛けるべきことなどを学びつつ、隣の人と会話をする、というようなロールプレイ。

2分ほど話してみて、聞き手からフィードバックを受ける。
言われたのは、「センテンスが長い」ということ。

言われてみれば、たしかにその通りである。

研修キャンプの時にも、グループの人に言われたし、普段から僕と付き合ってる人はよくわかるだろうけど、僕は物事を単刀直入に簡潔に話すことが苦手なんですね。
大学に長く居た者の、ある意味「悪いクセ」として、ついつい様々な留保をつけながら話を進めてしまうところがある。
できる限り発言の「正確さ」を担保したいという考え方によるものだろう。

大学などで研究をする、ということは少なからず、世の中の「わかりやすい物語」に与しない姿勢を身につけることでもある。それは大学や研究機関の重要な役割でもあり、個人的にも重視したい態度ではある。

まぁしかしそれはそれとして、それとはまったく違う次元の話として、考えをできる限り簡潔明瞭に、あるいは相手が興味をもつような形で伝える能力を、「技術」として身につけておくことは、どう考えても重要である。

大学では(このように、大学と社会を二項対立的に捉えるのもあまり好きではないのだが、まぁ仕方ない)、ある程度お互いに話を「聴き合う」ことが前提として共有されていた面がある。
けれど、やはりこの世知辛い世の中では、いつもいつも腰を据えて話を聴いてもらえることが保証されているわけでは全くない。

正確さとわかりやすさ。両立させるのは難しい。
多分、これからどんどんとそういう面で悩む局面が増えていくような気がします。
まぁどうにかやっていくしかないね。

眠いので終わり。

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