2002年12月07日

396b32f8.jpgこのコラムを読んでいる人の中に、文字を知らない人はいますか? いたらあとでメールください。

といってもメールが来るはずがないのは、僕らが「文字の文化」の中に生きているから。(いや本当は、文字を知らない人が上のメッセージを読めるはずがないからというだけです…。)

人間の歴史の中で、ことばといえば口で語るだけだった時代から、やがて文字が現れて普及しました。文字以前の「声の文化」に属する人間と、文字以降の「文字の文化」に属する人間とでは、その考え方、モノの見方が根本的に違うという。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』の主張だ。

考えてみれば、話すことばは誰しも物心つく前に習得する、半ば生得的な能力なのに対し、書くこと或いは文字は、学校で何年間も学習してようやく身につく「技術」であって、両者は全然違うものなのだ。

書き言葉を知らない、つまり、ことばが文字として空間にとどめられるものであるということを知らない文化では、ことばを具体的な対象として単語にわけたりして分析するようなことは行なわれないし、そもそもそうした「声の文化」においては、ものごとを客観的、抽象的、分析的、内省的に見るような科学的思考も生まれ得ない。声の文化における思考というのは全く別のやり方で行なわれるものなのだという。

また、文字に書かれたことばはその書き手と分離されて自立的に存在する(仮に書き手が死んでも、文字に書かれたことばは残る)ものであるため、現前する話し手と不可分に結びついた声としてのことばとは、言語芸術のあり方も違う。すなわち、声の芸術はホメロスの叙事詩に見られるような、冗長で、韻律に従っており、全体はいくつもの並列的な挿話の連続というかたちをとるのに対し、文字の芸術は、近代小説に典型的に見られるように、1個の完結した話であり、全体がクライマックスに向けて一貫したストーリーに基づく。

すでに僕らは否応なしに文字を知っているわけで、文字の文化からは決して逃れられないのであるが、文字の文化もその前身である声の文化に基盤を置いている以上、僕らの中にも「声の文化」的な側面が残っているはずだ。たとえ僕らの話すことばが文字の文化の影響下にあろうとも、人と会って話し、笑ったり怒ったり喧嘩したり、そんな声の経験は僕らを豊かにしてくれるんだろう。

「文字を捨て、街へ出よう」


ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』(桜井 直文・林 正寛・糟谷 啓介・訳、1991年、藤原書店)

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2002年10月26日

72375e25.gif「ハック」ことハックルベリー・フィンは、言わずと知れたトム・ソーヤーの友人だ。
マーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』は誰でも知っているだろうが、その友人であるハックの冒険譚は意外と知られていない。
下手すると、『トム・ソーヤーの冒険』のパロディ?とまで勘違いされそうだが、れっきとしたトウェインの作品である。
そしてこれが、実はめちゃくちゃ面白い。むしろ、『トム・ソーヤー』よりも格段に。なにより、活き活きとしたハックのしゃべり口調(原作では方言丸出し、文法的にも間違いだらけ、らしい)で語られ、躍動感に溢れている。西田氏の訳にも定評あり。

話自体は、『トム・ソーヤーの冒険』の後日譚のように始まる。
後家のミス・ワトソンの元で規則正しい生活を送らされるようになったハックは、帰郷した「父ちゃん」とのごたごたをきっかけに、町から失踪する。
そして、ミス・ワトソンのもとから逃げ出した黒人奴隷のジムとひょんなところで出会い、二人して筏でミシシッピー川を下りはじめる。
『ハック』の物語は、このミシシッピー川の流れとともに進んでいく。

訳者の西田氏が解説でも言っているように、トムの冒険が空想的で、よくも悪くも子供じみたものであるのに対し、ハックの冒険はあくまで現実に否応なしに迫りくる困難であり、ハックは常にぎりぎりのところで機転を利かせて乗り切るのだ。その機知にはほとほと感心させられてしまうし、新たな危険が来るたびに、ハックやジムがどうやって切り抜けるか、息を呑んでしまう。そこが『ハック』の最大に面白いところだと思う。
「ロミオとジュリエット」そのままの家同士の怨恨の現場に立ち合ってしまったり、「王様」と「公爵」と名乗るペテン師どもと同行するはめになったり、彼らの一大ペテンの邪魔立てをしようとして窮地に陥ったり、ついにジムがつかまってしまったり、偶然訪れたトムの親戚の家で、トム・ソーヤーと間違えられてしまったり、まぁ次から次へと問題が起こりまくり、そのたびに僕は手に汗握るのだ。
陳腐な言い方だが、一度読み始めたら止められない魅力があって、現に僕も上下巻を3日で読み干してしまった。

けれど、一方で単なる少年の冒険物語でないところが、『ハック』にはある。

生粋の南部人であるハックは、ジムという奴隷の逃亡を手助けすることに、非常な良心の呵責を覚えながらも、一方でジムの人間的な魅力に触れれば触れるほど、ジムを告発するようなことはできない、というジレンマに苦しむ。
そして、「よし、こうなったら地獄へ落ちてやれ」という覚悟を決める。

「おらは悪者に育てられたので、悪者のほうが性に合っていて、その反対の方はだめなんだから、また悪者に戻ろう、とおらは思った。そしてまず手はじめに、ジムを奴隷の身分からまた救い出す仕事にとりかかろうと思った。」

それは、今の僕らの感覚から言えばまことにおかしな考えだが、当時、南北戦争(1861〜65)の余韻いまだ冷め遣らぬ時代としてはあまりに現実的な問題であり、ハックはこう考えることによってしか、ジムを助けることができなかったのだ。このハックの決心は、心に迫ってくる重さを持っている。

実は最終的にトウェインは、このハックの苦悩をうやむやにしたままに「安易な」解決策をもって物語を終わらせるであるが、それはやはり、この時代に生きるハックの限界であり、作者の限界でもあったのだろう。

また、「川くだり」の意味についても考えると面白い。

「ほかのところは窮屈で息がつまりそうだけど、筏ではそんなことはねえ。筏の上にいると、すごく自由で気楽でのんびりするんだ」とハックは言う。
町での規律に縛られた生活に耐えられないハックと、逃亡が見つかれば「どこか遠くに売り飛ばされてしまう」ジムとが、唯一安息できる場所が、筏の上なのだ。
はみ出し者の二人にとって、すこぶる生きにくい「世間」から逃亡するには、筏で川をくだるしかなかったといえるかもしれない。
川はどこかで海に出る。そこでこの非日常の冒険は終わらなければならない(実際には、海に出る前に終わってしまったのだが)。にもかかわらず、ハックは筏に乗らざるをえなかったのだ。

誰でも子供の頃、このハックルベリー・フィンのように、なんとなく世の中に生きにくさを感じ、逃亡、あるいは冒険したくなる時期がある、と僕は思う。
もちろん、多くの人は逃亡なんかしないで、踏みとどまって生きていく。
一方で、一度は日常から逃れて冒険の世界に飛び込む人もいるだろう。その人たちも、やがて日常の世界に戻され、生きにくいかもしれない世の中で、大人になっていくだろう。
でも僕は、それを敗北とは思いたくない。誰にでも眠るハックルベリー的な衝動も大事にしつつ、現実の世界を生きていくことが、僕らにとって大事なことなのだから。


マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』(西田実・訳、1977年、岩波文庫) 上巻 下巻


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2002年09月20日

a964b78d.jpgということで、最近のマイ・ブームは安部公房なわけで。『壁』、『他人の顔』を続けざまに読破し、今は『第四間氷期』に取り掛かっている。とにかく面白いんですよ。

安部公房は、一般に純文学ってことになるんだと思うが、「純文学」という堅苦しいラベルに押し込めておくにはとても勿体無い。
もちろん、軽薄短小(あるいは、最近は軽薄長大?)の小説には到底かなわない奥の深さを持っている。
しかし、そのストーリーや舞台設定の卓越した独創性は、並みのエンタテインメントを超えたエンタテインメントなわけで。

『壁』では「S.カルマ氏」なる主人公が、ある朝突然名前を失くし、彼の名刺がまるで彼自身であるかのように会社の彼のデスクに居座っている。
あるいは、「とらぬ狸」が出てきて、主人公の影を加えて立ち去ってしまったりする。まるでふざけているようだ。

『他人の顔』は、化学薬品の事故で顔が「蛭の巣」になってしまった男が、ホンモノの顔(もちろん誰の顔でもない匿名の顔)そっくりの仮面を作り上げる。
「蛭の巣」を隠すべく包帯ぐるぐる巻きで歩くと、街中から拒絶され、居場所をなくしてしまうように感じるのだ。
そこで、「たかが顔」の重要性を否定するためか、あるいはその重要性に屈服してしまったためか、仮面作りに必死になるのだ。

と、書くと共通するテーマが見えてくる。
現代における「アイデンティティ」(っていう言葉を使うとたちまち陳腐っぽくなるのは困り者だが)の問題を痛切に、しかもかなりアイロニカルなやり方でえぐっているのだ。
名前を失くした人、影を失くした人、顔を失くした人、それぞれがそれぞれのかたちで、世の中での自分の位置が揺らぎ、ひいては自分自身が揺らいでくる。
タイヘンなわけです。

自分が突然名前をなくしたら、、、顔をなくしたら、、、そんな状況を垣間見てみたくありませんか?

『第四間氷期』は、自分の未来を予言された人間はどうなるか、という話みたいです。ほら。


安部公房『壁』(1969年、新潮文庫)

安部公房『他人の顔』(1968年、新潮文庫)

安部公房『第四間氷期』(1970年、新潮文庫)


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2002年09月08日

e14a8c99.jpg初めて宮部みゆきを読んだ。

大学院入試の二次、口述試験を終えて鬱屈した気分を紛らわすために、深く考えずに読める本が読みたくなって、生協書籍部で『理由』を購入。
文庫で今月の新刊だったから。どうせ新刊本で買うなら、できるだけ新しくて「ブックオフ」に置いてなさそうなものの方がいい。

面白い。面白すぎて、その日の夜中じゅう寝床で読みつづけ、翌朝6時に読み終わるという始末。
それ以来僕の生活リズムが狂っているのだが、まぁそれはよいとして。

この作品の特徴は、ルポルタージュ・タッチで書かれていて(だから、架空のノン・フィクション作家が、かつておこった事件の関係者を取材しているようなかたちになっているわけだ)、その必然的な効果として、事件とその謎解きというよりも、事件をひとつの題材にして、その事件に関わりのある人々を克明に描写しながら、現代社会の姿を浮き彫りにする、というようなかたちになっているところだ。
だから、登場してくる人物のそれぞれの背景描写が、ほとんど不必要なまでに微に入り細に穿っている。
だから、読んでいて疲れる。でも、不思議とページを繰る手が止まらない。
やはり巧いのだ。

都心の高層マンションの一室で行われた殺人と、その事件に多かれ少なかれ関わってしまった人々。
彼らの人生は、どのような「偶然のいたずら」によって互いに交わることになってしまったのか。

ちょっと前に読んだ、佐野眞一の『東電OL殺人事件』(こっちは正真正銘のノン・フィクションだ)がフラッシュ・バックする。
昼間は東京電力のエリート社員である女性が、夜な夜な円山町に立つ。
一方で、日本に出稼ぎに来たネパール人が、夜の円山町でお金と引き換えに欲求を処理する。
その両者の人生がある瞬間に、「偶然のいたずら」としか言えないようなやり方で交差したところに、女性が殺害されたという事件が存在する。(そのネパール人が殺した、ということを言っているのではない。)
『理由』は、こうした正統派ノン・フィクションの技法を見事に虚構の物語に応用している。

もうひとつ、『理由』の解説で、安部公房の『燃えつきた地図』との比較がなされているのがなかなか面白い。
『燃えつきた地図』では、まったく同じ形、同じ色の建物が延々と並ぶ団地(高島平団地とかを想像すればよい?)の中で、自分の「居場所」に帰るための「地図」(地図がなければ、どの部屋が自分の家なのかすらわからないのだ)が燃えつき、帰り道をなくしてしまう。
匿名の他者に囲まれて住む現代の都市では、「自分が何者かであること」(いわゆるアイデンティティ)はいとも簡単に焼失してしまうのか。
東京という大都市に住むことの病理、とでも言うか。

同じような病理を、ニューヨークを舞台に描き出したのが、『幽霊たち』以下のポール・オースターのいわゆる「ニューヨーク三部作」だろう。
探偵が失踪した人物を追っていく。ところが、追っているはずの探偵が、やがて帰り道を失い、失踪者となってしまう。


僕らは案外、ぎりぎりのところでようやく生き延びているのかもしれない。


宮部みゆき『理由』(2002年、朝日文庫)

佐野眞一『東電OL殺人事件』(2000年、新潮社)

安部公房『燃えつきた地図』(1980年、新潮文庫)

ポール・オースター「ニューヨーク三部作」
 『幽霊たち』(柴田元幸 訳、新潮文庫)
 『シティ・オヴ・グラス』(山本楡美子・郷原宏 訳、1993年、角川文庫)
 『鍵のかかった部屋』 (柴田元幸 訳、1993年、白水Uブックス)


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2002年09月01日

f7c3ea96.jpg最近どうやら「東京散歩」モノがひそかに話題らしい。
東大生協書籍部でも特集コーナーがあった。そこにはなんと江戸時代の切絵図の復刻とかもある。地図1枚で1000円とかするのだが。

僕は福岡で生まれ、生後10ヶ月で横浜の戸塚区(〜5歳)→広島(〜10歳)→所沢(〜11歳)→小平(現在に至る)と引越しを重ねて来たのだが、ここ10年以上は一応東京(西のはずれだけど)に住み、東京の学校に通ってきている。すでに人生の半分以上を東京で過ごしているわけだ。
だからまぁ東京というところに愛着は感じている。

特に最近、本郷に通うようになってから、本郷がとても好きだ。
東大のいいところ、悪いところはいろいろあるが、本郷という東京のど真ん中、歴史の趣も深いところに、あれだけ広くて重厚感のあるキャンパスを持っているという一点は、かなり恵まれている環境だと思う。

本郷は、キャンパスの中も周りも、つつけばすぐに歴史が顔を出す。
もとここに屋敷を構えていた加賀藩主前田家が将軍の娘を嫁に迎えるにあたって建造されたという赤門。赤門は一度壊れたりすると二度と再建は認められないため、建造にあたって周囲の家を取り壊して更地にしたとか。

このところ、本郷を中心に江戸・東京という都市の持つ歴史を知りたくて、いろいろ本を手にとっている。
まるで今まで東京という街をぜんぜん知らなかったことに対する反動のように。

東京に越して、東京に住みついて、陳腐な言い方だがいわゆる「多感な頃」を東京で過ごして、やがて僕には懐かしい故郷がなくなってしまったのかもしれない。
広島も懐かしいしまた訪れたいが、帰るべき「故郷」ではない。
普通に「田舎」というところの祖父母の住居も今は両方とも東京だ。

だから僕には、東京しか帰る街がないのかもしれない。
そう感じたとき、東京をもっと知りたくなったのかもしれない。
そして、囲炉裏や縁側で故郷の町の言い伝えを教えてくれる語り部的役割を、本というメディアに頼らなければならなくなったのが、今の東京なのかもしれない。
(ずっと東京に住んでいる「江戸っ子」などは別だ。しかし東京は移民の町だ。こういう事情はよっぽど多いに違いない。)

僕はちょっとした違和感を感じながら、それでも「東京本」を読みつづける。
そして、東京にいつか親しさを感じ始める。


司馬遼太郎 『本郷界隈―街道をゆく〈37〉』(1996年、朝日文芸文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 都心編』(2001年、新潮文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 下町編』(2001年、新潮文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 山の手編』(2002年、新潮文庫)


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2002年08月28日

a163414d.jpg江國香織の小説の中では、現実はとても単純だ。

男がいる。女がいる。(どちらも複数形だ。)
現実は、彼らの相互の関係の中にしかない。
彼らひとりひとりを取り出してみても仕方ない。彼らの関係だけが、江國の小説の世界を創り上げている。
もちろん、彼らはそれぞれ、悩み、苦しみ、楽しんでいる。
しかしそれらの悩み、苦しみ、楽しみはすべて、彼らの人間関係から生じるものだ。
決して、人間関係以外の現実的な諸問題で苦しんだりはしない。
そして人間関係というのはいつも、現在形でしか語れない。
だから、江國の登場人物は、今だけを生きているように見える。
過去も未来もそこには存在しない。少なくとも、現実的・具体的なものとしては存在しない。

だから江國の小説は、大きな皿にきれいに盛り付けられた前菜のように見える。

それにひきかえ現実の僕は、人間関係以外に神経と時間を使うことが多すぎる。
現実というのはそういうものだ。
人間関係、仕事、お金、物欲、将来への不安感、過去への後悔。
現実はこれらの要素がごったがえしている。

コンビニで売っている、ぐちゃぐちゃのポテトサラダのように。

江國を読んでいると、そうした現実のポテトサラダが僕の食卓から消えてしまい、大皿にこぢんまりと載ったオードブルが現れてくるような感覚を覚える。
そしてそのオードブルがまるで現実のように感じられてしまう。
一口大のレタス、一口大のスモークサーモン、一口大のミニトマト、それらを順番に口に入れ、消化していけば、現実の問題はすべて解決だ。
そんな錯覚に襲われる。

もちろんそれは錯覚だ。
読み終わり、あるいは読みさしで、ふと我に返る。明後日の合格発表を思い出す。
とたんに現実はポテトサラダに変わり、僕はにんじんの切れ端すらうまく箸でつまむことができない。
いつもどろどろのポテトがまとわりついてくる。

今日は、江國香織『東京タワー』を読んだ。

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