2002年09月

2002年09月20日

a964b78d.jpgということで、最近のマイ・ブームは安部公房なわけで。『壁』、『他人の顔』を続けざまに読破し、今は『第四間氷期』に取り掛かっている。とにかく面白いんですよ。

安部公房は、一般に純文学ってことになるんだと思うが、「純文学」という堅苦しいラベルに押し込めておくにはとても勿体無い。
もちろん、軽薄短小(あるいは、最近は軽薄長大?)の小説には到底かなわない奥の深さを持っている。
しかし、そのストーリーや舞台設定の卓越した独創性は、並みのエンタテインメントを超えたエンタテインメントなわけで。

『壁』では「S.カルマ氏」なる主人公が、ある朝突然名前を失くし、彼の名刺がまるで彼自身であるかのように会社の彼のデスクに居座っている。
あるいは、「とらぬ狸」が出てきて、主人公の影を加えて立ち去ってしまったりする。まるでふざけているようだ。

『他人の顔』は、化学薬品の事故で顔が「蛭の巣」になってしまった男が、ホンモノの顔(もちろん誰の顔でもない匿名の顔)そっくりの仮面を作り上げる。
「蛭の巣」を隠すべく包帯ぐるぐる巻きで歩くと、街中から拒絶され、居場所をなくしてしまうように感じるのだ。
そこで、「たかが顔」の重要性を否定するためか、あるいはその重要性に屈服してしまったためか、仮面作りに必死になるのだ。

と、書くと共通するテーマが見えてくる。
現代における「アイデンティティ」(っていう言葉を使うとたちまち陳腐っぽくなるのは困り者だが)の問題を痛切に、しかもかなりアイロニカルなやり方でえぐっているのだ。
名前を失くした人、影を失くした人、顔を失くした人、それぞれがそれぞれのかたちで、世の中での自分の位置が揺らぎ、ひいては自分自身が揺らいでくる。
タイヘンなわけです。

自分が突然名前をなくしたら、、、顔をなくしたら、、、そんな状況を垣間見てみたくありませんか?

『第四間氷期』は、自分の未来を予言された人間はどうなるか、という話みたいです。ほら。


安部公房『壁』(1969年、新潮文庫)

安部公房『他人の顔』(1968年、新潮文庫)

安部公房『第四間氷期』(1970年、新潮文庫)


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2002年09月08日

e14a8c99.jpg初めて宮部みゆきを読んだ。

大学院入試の二次、口述試験を終えて鬱屈した気分を紛らわすために、深く考えずに読める本が読みたくなって、生協書籍部で『理由』を購入。
文庫で今月の新刊だったから。どうせ新刊本で買うなら、できるだけ新しくて「ブックオフ」に置いてなさそうなものの方がいい。

面白い。面白すぎて、その日の夜中じゅう寝床で読みつづけ、翌朝6時に読み終わるという始末。
それ以来僕の生活リズムが狂っているのだが、まぁそれはよいとして。

この作品の特徴は、ルポルタージュ・タッチで書かれていて(だから、架空のノン・フィクション作家が、かつておこった事件の関係者を取材しているようなかたちになっているわけだ)、その必然的な効果として、事件とその謎解きというよりも、事件をひとつの題材にして、その事件に関わりのある人々を克明に描写しながら、現代社会の姿を浮き彫りにする、というようなかたちになっているところだ。
だから、登場してくる人物のそれぞれの背景描写が、ほとんど不必要なまでに微に入り細に穿っている。
だから、読んでいて疲れる。でも、不思議とページを繰る手が止まらない。
やはり巧いのだ。

都心の高層マンションの一室で行われた殺人と、その事件に多かれ少なかれ関わってしまった人々。
彼らの人生は、どのような「偶然のいたずら」によって互いに交わることになってしまったのか。

ちょっと前に読んだ、佐野眞一の『東電OL殺人事件』(こっちは正真正銘のノン・フィクションだ)がフラッシュ・バックする。
昼間は東京電力のエリート社員である女性が、夜な夜な円山町に立つ。
一方で、日本に出稼ぎに来たネパール人が、夜の円山町でお金と引き換えに欲求を処理する。
その両者の人生がある瞬間に、「偶然のいたずら」としか言えないようなやり方で交差したところに、女性が殺害されたという事件が存在する。(そのネパール人が殺した、ということを言っているのではない。)
『理由』は、こうした正統派ノン・フィクションの技法を見事に虚構の物語に応用している。

もうひとつ、『理由』の解説で、安部公房の『燃えつきた地図』との比較がなされているのがなかなか面白い。
『燃えつきた地図』では、まったく同じ形、同じ色の建物が延々と並ぶ団地(高島平団地とかを想像すればよい?)の中で、自分の「居場所」に帰るための「地図」(地図がなければ、どの部屋が自分の家なのかすらわからないのだ)が燃えつき、帰り道をなくしてしまう。
匿名の他者に囲まれて住む現代の都市では、「自分が何者かであること」(いわゆるアイデンティティ)はいとも簡単に焼失してしまうのか。
東京という大都市に住むことの病理、とでも言うか。

同じような病理を、ニューヨークを舞台に描き出したのが、『幽霊たち』以下のポール・オースターのいわゆる「ニューヨーク三部作」だろう。
探偵が失踪した人物を追っていく。ところが、追っているはずの探偵が、やがて帰り道を失い、失踪者となってしまう。


僕らは案外、ぎりぎりのところでようやく生き延びているのかもしれない。


宮部みゆき『理由』(2002年、朝日文庫)

佐野眞一『東電OL殺人事件』(2000年、新潮社)

安部公房『燃えつきた地図』(1980年、新潮文庫)

ポール・オースター「ニューヨーク三部作」
 『幽霊たち』(柴田元幸 訳、新潮文庫)
 『シティ・オヴ・グラス』(山本楡美子・郷原宏 訳、1993年、角川文庫)
 『鍵のかかった部屋』 (柴田元幸 訳、1993年、白水Uブックス)


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2002年09月01日

f7c3ea96.jpg最近どうやら「東京散歩」モノがひそかに話題らしい。
東大生協書籍部でも特集コーナーがあった。そこにはなんと江戸時代の切絵図の復刻とかもある。地図1枚で1000円とかするのだが。

僕は福岡で生まれ、生後10ヶ月で横浜の戸塚区(〜5歳)→広島(〜10歳)→所沢(〜11歳)→小平(現在に至る)と引越しを重ねて来たのだが、ここ10年以上は一応東京(西のはずれだけど)に住み、東京の学校に通ってきている。すでに人生の半分以上を東京で過ごしているわけだ。
だからまぁ東京というところに愛着は感じている。

特に最近、本郷に通うようになってから、本郷がとても好きだ。
東大のいいところ、悪いところはいろいろあるが、本郷という東京のど真ん中、歴史の趣も深いところに、あれだけ広くて重厚感のあるキャンパスを持っているという一点は、かなり恵まれている環境だと思う。

本郷は、キャンパスの中も周りも、つつけばすぐに歴史が顔を出す。
もとここに屋敷を構えていた加賀藩主前田家が将軍の娘を嫁に迎えるにあたって建造されたという赤門。赤門は一度壊れたりすると二度と再建は認められないため、建造にあたって周囲の家を取り壊して更地にしたとか。

このところ、本郷を中心に江戸・東京という都市の持つ歴史を知りたくて、いろいろ本を手にとっている。
まるで今まで東京という街をぜんぜん知らなかったことに対する反動のように。

東京に越して、東京に住みついて、陳腐な言い方だがいわゆる「多感な頃」を東京で過ごして、やがて僕には懐かしい故郷がなくなってしまったのかもしれない。
広島も懐かしいしまた訪れたいが、帰るべき「故郷」ではない。
普通に「田舎」というところの祖父母の住居も今は両方とも東京だ。

だから僕には、東京しか帰る街がないのかもしれない。
そう感じたとき、東京をもっと知りたくなったのかもしれない。
そして、囲炉裏や縁側で故郷の町の言い伝えを教えてくれる語り部的役割を、本というメディアに頼らなければならなくなったのが、今の東京なのかもしれない。
(ずっと東京に住んでいる「江戸っ子」などは別だ。しかし東京は移民の町だ。こういう事情はよっぽど多いに違いない。)

僕はちょっとした違和感を感じながら、それでも「東京本」を読みつづける。
そして、東京にいつか親しさを感じ始める。


司馬遼太郎 『本郷界隈―街道をゆく〈37〉』(1996年、朝日文芸文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 都心編』(2001年、新潮文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 下町編』(2001年、新潮文庫)

新潮社・編 『江戸東京物語 山の手編』(2002年、新潮文庫)


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