「諦める」の語源は、「明らむ(明らかにする)」です。つまり、物事がよく見え、道理が十分に分かったというのが「諦める」なのです。「諦念」とか「諦観」といった悟りの境地とも通じるようです。
 (ちなみに「分かる」も、「分ける」と同源で、他から区別して分ける、他と違ってこれはこういうものなんだ、とはっきり理解して受け入れるということです)

 ある不登校の子どもの母親は、いくら焦らなくていいと言われても不安を拭えず、苦闘の日々を送っていました。ある朝も、子どもは行きたくないと泣きじゃくり、暴れんばかりの勢いでした。ふと母親は、「ああ、この子は私とおんなじだ」と気づきます。苦しいんだ、どうにもならないんだ、と心底分かった瞬間、「諦め」がついて、二人でお出掛けをしました。その日を境に子どもはウソのように元気になり、登校できるようになりました。

 ある大学生は、いろんなことが重なってストレスを溜め、学業も身の回りのことも何もこなせなくなっていました。生活は不規則、部屋は散らかし放題、そんな自分を責めてますます動けないという悪循環に陥り、将来を悲観し、体調まで崩してきたある日、「もう無理!」。そして、「何もしない」と「諦め」て過ごした数日後から、だんだん生活が整ってきました。

 事例なのでぼやかしてご紹介していますが、他にもこんな話はたくさんあります。
 今起こっていること、今の自分にできること(できないこと)が分かり、現実を見定めて受け入れ、等身大の自分で生きようとしたとき、力が抜け、硬直していた事態が展開し始めます。 
 でも、人間ですから、「諦めよう」と頑張って「諦め」がつくわけではありません。その前にいやになるほど「心で悩む」(7/6のブログ見てください)時期を経てのことです。
 「陰極まれば陽に転ず」です。「死と再生」のプロセスと言ってもいいかもしれません。

 とことん理想を追っかける思春期の頃、その理想に押しつぶされそうになって、疾風怒濤の混乱を味わうものです。私もそうでした。苦しかったけれど、その「純粋さ」こそが思春期の特権。振り返れば宝のような日々です。
 そのうち、人生はそう理想通りには進まないということが分かってきます。欲しくても手に入らないものもある。人間や社会には汚い面もある。自分自身だってどうにもならない凡夫で、限界があって、まあこんなもんかと「諦め」ざるを得ない時期が来ます。それが大人になるということなのでしょう。
 でも、こだわりやプライドを捨ててちゃんと大人になれたら、それはそれで身軽で楽で、やれることが増えます。

 人生を諦めてはいけない。でも、「人生諦めが肝心」。
 は~、生きるって苦しいですね…。


                        心理面接室TAO 藤坂圭子
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