2016年07月

 中国の昔話に、次のようなお話があります。

 昔々、ひどい干ばつで困っていた村がありました。
 そこで、村人は相談して評判の「雨降らし男」を招くことにしました。
 「雨降らし男」はやってきて、小屋を作ってそこに3日間籠りました。
 3日目に村人の願い通り、雨が降ってきました。
 村人は喜んで、「一体何をして雨を降らせたんだ?」と聞きました。「雨降らし男」は「私は何もしていない。自分を調えて、タオ(道・天の秩序)に従っていただけだ」と答えました。

 まさに、老子の説いた「無為自然」ー「タオ」に従う生き方こそが真の調和を生む、ということを教えられます。内面が調うと、外面も調うのです。
 また、これはユングが、「共時性(シンクロニシティ)」を説明するのに、好んで引用した逸話だそうです。「共時性」は「意味のある偶然の一致」と言われますが、実はまんざら「偶然」でもないのかもしれません。

 私が勉強している「プロセスワーク」の創始者のアーノルド・ミンデルは元量子物理学者でした。最新の量子物理学では、意志も一種の波動だととらえるのだそうです。だから、私たちの「思い」は、心の中だけにとどめて表明しなくても、外界に影響を与えることが可能だと言うのです。
 そうすると、例えば「祈る」という精神活動も、決して単なる気休めなどではなく、大いなる実践活動だと言えます。

 クライエントさんの中には、カウンセリングを始めて間もなく、大きく変化する方がいらっしゃいます。カウンセリング自体の効果だけではなく、日常の中で何かしら意味のある出来事がクライエントさんにもたらされるのです。きっと、「カウンセリングを受けたい。自分を変えたい」と思う、その心の動きそのものが、外界をも動かしているのだと思います。
 もちろん、もっと時間を要する方もいらっしゃいますが、その時その時を「タオ」に従って誠実に歩んでいくと、いずれ変化の時が訪れるものです。
 無駄な動きを止め、力を抜いて自分自身をよく見つめ、ありのままの自分を受け容れて、流れに任せることです。 
        
                        心理面接室TAO 藤坂圭子
                               HP:http://tao-okayama.com
   

 先日7/17(日)、第3回「TAOエンカウンター」を終えました。
 昨年秋の「TAO」開室以来、飛び飛びの2日を1セット(1回)としていましたので、今回で計6日実施したことになります。
 
 エンカウンターは、カウンセリングの創始者のカール・ロジャーズが生み出したグループワークで、自由な語り合いの中で自分や人に深く出会い、心理的な成長を促すことを目的としたものです。通常は2泊3日~4泊5日くらいの合宿形式で行います。泊を伴う方がお互いに親密にはなりやすいですが、「TAO」ではあえて泊なしで、10時から17時までの1日で行っています。
 
 この形式は初めての試みでしたが、1日で一区切りつけるのもいいものだなあと発見しました。あっさり集まり、深くかかわり合い、あっさり別れる。これの繰り返し。「君子の交わりは水の如し」と言ったら大げさかもしれませんが、そんな感じです。
 だいたい、私自身がベターッとした人間関係はあんまり好きではありません。単なる馴れ合いや居場所の確保としてではなく、お互いがお互いの存在を尊重しながら、自分への理解や人への思いやりを深めたり、人間観や世界観を広げていく場を作りたかったのです。その時々にご参加の方の誠実なお取り組みによって、まさにそんな場に成長していっています。本当に感謝です!

 かと言って、それぞれが悟ったような方かというと、私も含め、決してそうでもありません。人間ですから。普通に社会生活を送っていても、誰でもいつも何かしらの引っ掛かりはあります。今回特に話題になったのは、やはり親のことでした。いくつになっても親との関係は、永遠の課題です。ドロドロした思いがいっぱい出てきます。でもそんな思いに正直に向き合いながらそのまま受け止め、自分がどう変化していくかを流れに任せて楽しみに見守る。それもまた、人に見守られているからできるのだと思います。

 ロジャーズは、「人は人によりてのみ」と言いましたが、本当に人間の変化は人間関係の中でこそ起こるのだということを実感させられます。 

 今回ご参加のお一人から、次のようなご感想をいただきました。
 「いろんな方の話から自分の感情が動く、そして、自分の話にまた誰かの感情が動く…。いい空気の中で、『気』が動く?交差する?とでも言いましょうか…。エンカウンターっておもしろいなーと思いました」

 次回からは1日単位で行います。第4回は9/19(月・祝日)、第5回は11/3(木・祝日)の予定です。近日中に、HPのセミナー案内の欄で正式にお知らせします。
 豊かな生き方、豊かな人間関係をお求めの方、どうぞお気軽にお越しください。

                             心理面接室TAO 藤坂圭子
                             HP:http://tao-okayama.com

 カウンセラーとしてクライエントさんが変わっていく姿を目の当たりにするとき、大きな感動を覚えます。人間って本当にすごいなあ、と思います。ただ、それまでの過程は辛いもので、激動の時期を越えてやっと安寧が訪れるということもあります。そこを、辛抱強く一緒に付き合うのがカウンセリングです。
 
 人は内面の根本的なところから変容するとき、「死と再生」の過程を経ます。
 もっと自分らしく生きたい、楽になりたいと思ったとき、それを妨げているネガティブな自分に出会います。淋しい自分、甘ったれの自分、卑怯な自分、攻撃的な自分、憎しみを抱いた自分、人を振り回す自分、お金や名誉に執着する自分、完璧癖の自分…etc。そんな風に生きてこざるを得なかった自分をいったん受け容れ、十分にねぎらい、そして手放していかなければなりません。古い「自我」を殺し、新しい「自我」の誕生を果たすのです。
 けれど、どんなに嫌な自分でも、馴染んだ自分を壊し、亡きものとすることは本当に切なく、また恐ろしいことです。
 
 その葛藤は相当なものなので、時には日常生活がままならなくなったり、精神病的な状態に陥ることさえあります。エレンベルガ―は「創造の病」と言いました。
 無意識的に病気や事故を引き起こし、乗り越えることで、人生の大きな転換を成し遂げることもあります。
 または、芸術作品に昇華したり、夢の中で象徴的に「変容の儀式」を行うこともあります。だから、人や自分が死ぬ夢は、実は縁起のいい夢だとも言われます。

 私は去年、この「TAO」開室の準備中、こんな夢を見ました。
 私はどこかの古代都市にいたようですが、「これから洪水が襲ってきて私は死ぬんだ」と分かっていました。これが夢であるということも夢の中で分かっていて、「今、目を開けさえすれば私は死なずにすむ」と思いました。でも、殊勝にも、「ここで逃げてはいけない。私は死ななければならない」と夢の中で思い、目を閉じたまま水が来るの待ちました。すると、一瞬何かに襲われたと思ったら、頭の中を幾筋もの電流がビビビッと走り、(夢の中で)目が覚めました。目の前には現代の、穏やかな田園風景が広がっていました。「ああ、今度はここでいきるのか」と思いました。
 それから、「死ぬってこういうことなんだ」と何となく思い、ちょっと死ぬのが怖くなくなったような気がします。
 でも、私の「死と再生」はまだまだ続いています。

 人はそう簡単に変われるものではありません。でも、意識的にしろ無意識的にしろ、「変わりたい」と思ったら、必ず変われると私は思っています。その過程は長くて険しいかもしれないけど、地道に取り組んでいると、思わぬところから変化のきっかけがもたらされることもあります。「求めよ、さらば得られん」です。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao-okayama.com
 
 

 実は私、フルートが一番の趣味です。思い掛けないご縁があって、30歳を過ぎてから始めました。体は固くなっているし、音感もリズム感もないので、なかなか上手くはなりませんが、できるだけ時間を見つけては吹いています。
 今練習しているのは、フルートアンサンブル用に編曲された、ビゼーのオペラ「カルメン」です。11月の「岡山フルートの会」のチャレンジコンサートに向けてです。

 「カルメン」は私が大好きなオペラの一つです。ドラマティックで、本当に美しい!
 しかし、よく考えるとこんな不道徳なお話はありません。
 カルメンという悪女(?)がいて、ホセという気の優しい兵隊を誘惑します。そこに闘牛士のエスカミーリョが現れて、三角関係に。そして、振られたホセは愛するカルメンを刺殺してしまうのです。騙しや親不孝や悪徳商売だって出てきます。
 でも、「こんなのとんでもない!」と腹を立てて観るのを止める人はほとんどいないでしょう。それどころか、そういう不道徳な場面、最後の悲劇的な場面こそ、最高に感動的なのです。
 それは、ただ音楽が美しいから?
 
 「カルメン」に限らず、古今東西、人間の弱さや醜さや恐ろしさを浮き彫りにした小説や映画は山ほどあります。私たちはその人間臭さに感動し、心が洗われるような気さえします。
 きっと、普段は意識しない、または認めたくない自分の暗い部分が癒されているのだと思います。人はどんな感情でも持ち得るものです。卑怯な手で男を誘惑したい、嫉妬のあまり殺してしまいたいなどと仮に思っても、普通の理性的な人はそんなことできません。
 でも、そんな人間のネガティブな面を美しく(美しくなくても)描いた偉大な芸術作品に触れると、私たちは何だかホッとして、許されたような気がするのかもしれません。

 なのに、多くの人は現実生活に戻るとその感動を忘れ、また道徳や常識を振りかざして、杓子定規な物の見方をしたり、批判的になったりします。それはもったいないと思います。
 もちろん理性を失ってはいけないけれど、自分の中にあるそんな暗い部分もしっかり自覚し、可愛がり、ねぎらいながらいる方が、生きるのが楽になります。そして、人にも寛容になれるのではと思います。オペラや小説や映画の中の人物を愛せるように。

                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao-okayama.com

    

                                   

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