2016年08月

 リオ・オリンピックが終わって1週間。感動の余韻も薄まり、日常が戻ってきてしまったという感じです。
 
 今回のオリンピックは、そもそも無事に実施できるのかという危惧が先に立ち、特に関心も持っていませんでした。が、連日のメダルラッシュの勢いに私も飲まれ、午前中のライブ放送だけでなく、わざわざ夜中に起きてTVの前に座るという日もあり、自分でも驚きでした。
 史上最多の41個のメダル獲得、数々の逆転劇、本当にたくさんの感動をいただきました。メダル獲得の瞬間の選手たちの表情は、何度見ても飽きません。

 でも、TVを見ながらちょっとした違和感を感じてもいました。試合の最中から、しばしば応援する家族(特に母親)の姿が映ることです。メダル獲得を伝える報道でも、「家族の絆」が強調され、出身地域や母校の興奮ぶりも何度も流されます。私には選手や競技そのものの尊厳を損なうように感じられます。
 ある新聞のコラムでも、日本とアメリカのオリンピック報道の違いが書かれていました。アメリカの報道では、ただ選手たちに焦点が当てられ、家族はめったに出てこないそうです。ああ、やっぱりと思いました。「母性社会日本」がここにも現れています。

 「父性」は厳しく切り離す機能、「母性」は優しく包み込む機能です。欧米社会は「父性」が強く個人主義が発達し、日本では「母性」が強く集団主義が発達した、とはよく言われることです。
 オリンピックの報道にしても、家族や地域がいかに選手を包み育んできたかという人間模様が関心の的になります。母親と妻のいわゆる「嫁姑の確執」が週刊誌の記事になるということまで。
 それが、「グレートマザー」に飲み込まれる日本人の心性、河合隼雄さんの言った「母性社会日本の病理」を連想させます。
 
 けれども、今回の日本勢の躍進は、この「母性社会」の強みを最大限に生かした結果とも言えると思います。奇しくも、活躍が特に目立ったのは団体種目で、個人種目においても「チームジャパン」という言葉が飛び交いました。銀メダルに終わると「申し訳ない」と謝り、帰国したどの選手も「東京に向けて、また応援よろしくお願いします」と口を揃えます。
 そもそも、スポーツの世界は母性機能が強いものです。指導や規律が非常に厳しいので、一見父性機能優位ですが、コーチとの「絆」、組織の中での上下関係、集団への帰属意識の強さは、とても母性的と言えます。それに日本人元来の母性とが相まって、日本独特の「体育会系」の気質が出来上がり、実は日本社会全体を覆っています。だから、日本人の長時間労働や過剰な部活動の体質が変わらないのも無理はないのです。
 
 私は正直、この「体育会系」の雰囲気が息苦しくてあまり好きではありません。でも、今回のオリンピックは、「母性社会回帰」によって日本人ならではの輝き方を取り戻したと言わざるを得ないと思います。
 ならば、今後日本人はどこへ向かっていったらいいんだろう、ということを考えさせられます。
 明治以降目指した「個人主義」も「個性の尊重」も実現せず、かと言って、地域どころか家族の結びつきも希薄になっている今、日本人は何を拠り所にしたらいいのか。もう一度日本人としてのアイデンティティを見直しながら、地に足着いた在り方を探る必要があります。その際、やはり人との「絆」というのは決しておろそかにはできないのだということを、今さらながら再確認したように思います。

                           心理面接室TAO 藤坂圭子
                           HP:  http://tao-okayama.com

 毎朝、ラジオ体操とウオーキングをしています。

 近くに緑豊かな広場があります。ご近所のわりとご年配の方々が集まって、毎朝6時半に元気にラジオ体操!
 いつも40人くらいはいらっしゃるでしょうか。ホントにお元気なんです。腕の振りは目いっぱい。跳躍しながらポンと手を叩いたり、最後も腰から大きく反らして深呼吸。まるで女子高生のようにはしゃいでいる方々も。ああ、こんな風に年を取りたいと毎日思います。
 「ラジオ体操第2」までやるので、結構な運動量です。朝起きたばかりの固い体がほぐれて気持ちいいです。
 胸を反らして大樹を下から仰ぐとき、葉っぱの間から青空が見えます。その空の色が、立秋を過ぎたころから、少しずつさわやかな色合いに変わってきています。太陽の光もまだ肌を刺すように暑いですが、何となく透明感を増してきました。暦どおりなんだなあとつくづく思います。

 体操の後、30分くらいウオーキングして帰ります。知らない方々とも、「おはようございます」と声を交わします。
 ちょっと前までは、ミミズを踏んづけないように歩くのが大変でした。何を思ってか、朝になるとミミズが茂みから這い出してきて、強い日差しにやられてのた打ち回っているのです。やがて息絶え、路上に小枝を散らしたみたいになります。
 最近はミミズは見なくなりましたが、蝉が仰向けになって死んでいます。力を失くした秋蝉にぶつかられそうになることもあります。これもまた哀れです。
 でも、この前は生まれたてのカマキリを見ました。とても瑞々しい緑色でした。
 虫の音もだんだんクリアになってきています。もう少ししたら、コスモスが咲き始めるかなあ。
  
 朝は特によく季節を感じられます。だから、ラジオ体操とウオーキングは楽しみで、忙しい時期や、深夜にむくっと起きてオリンピックに興奮した次の日も、毎朝頑張って起きています。
 でも、実は毎年、秋が深まってくると挫けるのです…。でも、皆さんは真冬でもやっぱり6時半に集まっておられるそう。私も今年こそは!と思っています。さて、どうなることやら…

                           心理面接室TAO 藤坂圭子
                           HP:http://tao-okayama.com 

 再びアウシュビッツの話に戻ります。戦後、ポーランドはこのアウシュビッツを完全に撤廃してしまうか、負の遺産として残すかを議論しました。そして、ホロコーストの惨劇を全世界に伝えるため博物館として残すことになり、現在に至っています。 
 2010年にこのアウシュビッツ博物館を見学した際、偶然にも、初代館長スモレンさんにお会いすることができました。政治犯として4年間収容されながら生き延びたポーランド人です。もうずいぶん高齢になっておられました。
 夏の真っ盛りでしたが、丘陵地にあるアウシュビッツは寒いくらいで、足元にはタンポポが咲いていました。スモレンさんは、歩きながらふとそのタンポポを指さして、「こういう花を美しいと思えなくなったら、おしまいなんだ」とおっしゃいました。とても心に残る言葉でした。

 ホロコーストを生き延びたと言えば、ユダヤ人の精神科医フランクルがいます。フランクルは、収容前から「人生において起こる全てのことには意味がある」と説き、その主張どおりに、誇り高くアウシュビッツを初めとするいくつかの収容所を生き抜いたのでした。
 その体験記「夜と霧」は、今でも全世界のベストセラーです。その中で、私が一番好きな一節をご紹介します(新版p.116)。

 これは、わたし自身が経験した物語だ。単純でごく短いのに、完成した詩のような趣きがあり、わたしは心をゆさぶられずにはいられない、
 この若い女性は、自分が数日のうちに死ぬことを悟っていた。なのに、じつに晴れやかだった。
 「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなひどい目にあわせてくれたんですもの」
 彼女はこのとおりにわたしに言った。
 「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」
 その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。 
 「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」
 彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。
  (中略)
 「木はこういうんです。わたしはここにいるよ。わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の命だって……」

 強制収容所の極限状態においては、大半の人は人間性を失い、ただボロボロになって死んでいきました。でも、この若い女性のように精神性を深め、安らぎの中で死を迎えた人もいたようです。
 
 フランクルは、どんな状況に置かれても、どんな「態度」で生きるかは自ら選ぶことができ、人間としての尊厳は決して奪われることがないのだ、と言います。
 実際、全く死を恐れることなく、自らの命を差し出したコルベ神父のように、最期まで毅然とした態度を保った人も少なからずいました。また、そのような人には、奇跡的な偶然が重なって死を免れることができた、というエピソードもたくさん伝えられています。フランクルもその一人でした。
 幸も不幸も、結局は自分自身の心持ち次第。

 現代でも、思い通りにならなくて苦しんだり、理不尽な目に遭わされて憤慨したりはしょっちゅうです。その渦中にあるとき、自分を保つことは非常に難しいです。でも、アウシュビッツのことを思うとき、それらも成長や幸せのためには「意味」があるのだと教えられます。
 その「意味」を、一緒に探っていけるのがカウンセリングです。少しでもクライエントさんにお役に立てるように、私も心持ちを正しくしていなければと、身を引き締めている夏です。 

                          心理面接室TAO 藤坂圭子
                          HP:http://tao-okayama.com




 イスラエルの方々の憤りをずっしり背負いながら、一方では、うずたかく積まれた収容者たちの遺品、髪の毛、毒ガス(農薬)「チクロンB」の空き缶の山、不衛生極まりないトイレ、公開処刑の現場などなど、ホロコーストの数々の遺産を目の当たりにしました。収容者たちがどのような生活を送り、どのように亡くなったかについても、つぶさにお聞きしました。
 これらについては、書物やTV番組などでもしばしば紹介されているので、詳しい話は割愛します。

 アンネたち収容者はどんな目に遭い、どんなふうに死んでいったのかというような、漠然とした関心からアウシュビッツを訪問したのですが、私の関心は、「なぜあんなことが人間にできたのか!?」という加害者側の心理に移っていきました。
 帰国してから、アウシュビッツの所長で、戦後そのアウシュビッツで絞首刑となったルドルフ・ヘスの手記を初め、他の絶滅収容所の所長や関係者の心情に触れた本などを、むさぼるように読みました。
 読めば読むほど分かったのは、彼らは家族を愛するごく普通の人間の一人だったということでした。「上からの命令に従っただけ。生き残るため、家族を守るためにはこれしかなかった」。
 被害者同様、加害者も極限状態に置かれると、人間として当たり前の感覚や良心が麻痺するようです。要するに、誰もが持っているちょっとした弱さの連鎖が、600万人のユダヤ人が虐殺されるという大惨事を引き起こした、というふうに私には思えたのです。

 それでも、何かが腑に落ちないまま、数か月を過ごしました。ずっとイスラエルの国旗と鋭い眼が、心に焼き付いたまま離れませんでした。
 そんな時、ある少人数のカウンセリング研修で私が講師を務める機会があり、時間が余ったので、私がクライエントになってご参加のみなさんにカウンセリングをしてもらうことにしました。
 ー監視塔で、青い星を見た瞬間に襲われた、あのショックは何だったんだろう?ー

 聴いてもらえるということは、本当にありがたいことです。参加者の方々の問い掛けを味わい、自分の中で検討していると、ふと、電撃のようにある言葉が浮かんだのです。ー「私がやった」。
 私がやった。私が殺した。
  あの時のショックは、殺害された方々への申し訳なさでした。 
 ストーンと腹落ちした貴重な体験でした。

 この感じは、もちろん客観的現実とは異なるし、時系列から言っても何だかつじつまが合わなく、他の方からは変に思われると思います。多分これは、ユングの言う「集合的無意識」の部分での気づきなのです。私という「個」も「時空」も超えた「集合的無意識」の次元で、私にだって潜在的に極悪人になる可能性は十分にある、そんな罪深さを突き付けられたのだと思います。
 (「集合的無意識」については、HPの「心理面接室TAOではこんなことをしています」→「プロセスワーク」の中でちょっと説明しているので、よかったら参考にしてください)
 
 人間である以上、弱さや汚さはなかなか払拭できるものではありませんが、それ以来、少なくともそこから目をそらすことなく、自分自身のことも人間のことも、ありのままを見ていかねば、と肝に銘じました。

 
                            心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao-okayama.com 
 

 8月になると思い出します。2010年の8月、お盆休暇を利用してポーランドのアウシュビッツ(もとのポーランド名「オシフィエンチム」)を訪れました。
 「アンネの日記」は、私の中学時代の愛読書でした。以来、漠然と、アンネが収容されたアウシュビッツ、そしてホロコーストに関心を抱いていて、いつか行かねばと思っていたのでした。

 普通の見学ルートは、まず第1収容所(有名な「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の門をくぐって入る、目くらましのために一見立派に建てられた、レンガ造りのあの施設。今は様々な展示会場になっています)からだそうです。が、非常な混雑で、私たちのグループは予定外に、まずアウシュビッツの第2収容所「ビルケナウ」に案内されました。

 「ビルケナウ」は非常に広大な敷地の中に、馬小屋よりもひどいバラックが立ち並んでいたところです(今は一部しか残っていませんが)。アンネが収容されたところでもあります。
 アウシュビッツがどんなところか、その全体像も分からないまま、そのビルケナウの入口の監視塔の上階に案内されました。

 そこから見下ろした瞬間、背中が凍り付きました。
 あちこちに青色の星ーイスラエルの国旗!です。旗のように掲げている人、マントのようにかぶっている人…。とにかくすごい数です。何とも言えない思いに襲われました。
 その時に知ったのですが、イスラエルでは若い人たちへの研修として、グループでのアウシュビッツ見学が頻繁に実施されているのだそうです。

 第1収容所のあちこちでも、たくさんのグループが年配のリーダーの方から説明を受けていました。皆、ものすごく鋭い眼をしていました。言葉は分かりませんが、「ここで、私たちのじいさん、ばあさんは殺されたんだ!」という憤りがひしひしと伝わってきました。私はもう、表情さえなくしていたように思います。
 それから、現在唯一残っている「ガス室」(ビルケナウのガス室は証拠隠滅のため、終戦前にナチスによって爆破されたましたが、ここは当時防空壕として使われていたため残っているということ)に入ったとき、更なる衝撃が待っていました。
 イスラエルの方々の、ユダヤ教の鎮魂の歌です。その荘厳な低い声が、かつて何万人もの方々が殺された、閉ざされた暗い空間に物々しく響いていました。

 「憎しみは連鎖する」。でも、それだけではない何とも重い感じが、私のお腹にずっしりと残りました。その後、何か月も引きずることになりました。

 長くなったので、続きはまた改めて書きます。

                             心理面接室TAO 藤坂圭子
                            HP:http://tao-okayama.com
 

 

↑このページのトップヘ